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「まなぶ」を問う



現代では意味が違うことば同士が実はある頃に枝分かれした同じことばであることはよくある。とくに日本語の祖語やまとことばの成り立ちを見つめるとそれによく出会う。日本語はおもしろい。

最近日本人の学力が下がったとよく耳にする。教育の制度や政策が槍玉に挙げられるが本当のところは如何なるものか。
学力の学の字の訓読み「まなぶ」の一語を吟味したい。まず「まなぶ」とは何ぞ哉。

1.「学ぶ」の古くからの意味を下から選択せよ。

い)教育をうけること
ろ)思考すること
は)真似すること
に)記憶すること



「まなぶ」は古い日本語、大陸から漢語と漢字がやってくる前の日本で使われていたやまとことばである。名詞の「まな(合・真・正・似)」に助動詞「ふ」が膠着して(くっついて)まねをする、近づく、匹敵させる、などを意味する動詞となった。つまり「まなぶ」と「まねる」は今ではずいぶん意味が違ってしまったが元は同じ言葉であった。他動詞であるため目的語を取る。つまり何をまね、何に近づくかが問われる。そしてそれは「真-まこと-真事」を以って他にはない。「まなぶ」とは「まこと」に近づこうと尽すことである。時を経て平安時代ごろに「まねぶ」が「まなぶ」から分かれた。

記憶も思考も、学ぶという大きな目的を遂げるための行動の一つに過ぎない。たとえ教育を受けようが受けまいが「まなぶ」ことはでき、あるいはできない。ひとえに当人と「まこと」との間の問題である。「まね」が模倣や盗作という後ろめたい意味を持つようになったのはおそらく雅語として分かれた「まねぶ」のなかに「虚飾」らしき意味が芽生えたからであろう。    
正解  は)


2.「まこと」の説明として適当なものを下から選択せよ。

い)科学的に証明・立証が可能なもの
ろ)文献や資料に裏付けられた歴史的事実
は)教育者の一言一句
に)自然の摂理のなかにあるもの



まず根底にこの世をこの世たらしめる「摂理」、やまとことばで言うなれば「ことわり-理、事割り」が存在する。事を割る、筋道をたてる、混沌とした事象の中から核心を割り出す。潮の満ち引きと月の満ち欠けの間の「ことわり」、木から落ちた実とそこから芽生え育つ分身のあいだの「ことわり」、それらを謙虚に見つめて導き出せば、ことわりをつかさどる目に見ぬ力の存在に触れることができる。「ことわり」こそが「まこと」の在り処である。科学とはそれをを数式、あるいは図を以って体系付ける作業に過ぎない。が、どういうわけか世間ではこの科学ばかりに権威が集まった。すると人々は物事を科学の窓からしか見ぬようになり科学で証明できないことは議論から落ちこぼれる。そこであたかも科学こそが真理であるという考えが罷り通るようになった。
もちろん、「まこと」の在り処は物理・科学の庭だけではない。先人たちの歩んだ道や我々が日々使う言葉のなかにも「まこと」は必ずや在る。歴史・文学はその上に何とかと立っているだの分野、まして文献や資料はさらにその所産でしかない。教育とは図式化・言語化された端末情報を教えるただの手段・制度であることは言うまでもない。   

正解  に)


科学の権威を「安置」するため場所、それは学会や大学である。子供たちはただ大学というものに属するためだけの教育を十年以上も受け、競争をし、秤にかけられ
る。そして大学に受け入れられるとその後は出身校の名を肩書きに職業生活を送る。だから大学に権威があればそれだけ有難い。一般人だけでなく専門家にとってもそれは同様である。



3. 大学(university)を世界中に創設した機関を下から選択せよ。

い)創価学会
ろ)国連安保理事会
は)日本船舶振興会
に)イエズス会


古代のメソポタミアやギリシアにて展開された数学、天文学、医学、哲学などの学問はローマ帝国が東西に分裂した時点で東ローマにとどまり欧州の根源である西ローマには波及しなかった。理由はギリシア語で残された文献がラテン語を公用語とした西ローマでは価値が理解されなかったことにある。科学などは神の御業に干渉する呪わしき行為として糾弾され書物は炎にくべられた。そして何よりこの地の権力者たちは学問よりも腕力が好きだった。
そのまま中世を迎えた欧州だが、人々は神を讃える傍らでその心は悪魔や吸血鬼への恐怖に病んでいた。疫病、飢饉、天変地異、この世の全ての凶事は悪魔が目論み手先の魔女たちが引き起こすと説かれ、それを退治できるのは高潔な僧侶の祈り、あるいは銀の十字架などととされていた。しかしそれは教会が神の出先機関としてさらなる尊敬と信頼と寄付を集めるために作り上げたいわば虚構、人々の心を支配し教会に縛るものでしかなかった。
逆に東ローマでは学問が好まれ過去の文献も温存された。そしてイスラム教徒に圧される形で東ローマ帝国は領土を徐々に失いやがて消滅するが、この地に残った古代の学問はイスラム教徒たちによってペルシア語やアラビア語に訳され解釈が深められながら注釈がつけられた。さらにウマイヤ朝のあったイベリア半島ではそれらがラテン語に翻訳され徐々に西欧にもたらされる様になった。置き去りにしてきた古代の学問「科学」に欧州はそうして出会ってしまう。そして虚構が傾いた。

数学や天文学や医学という技術の土台となる分野だけをとっても「科学」の魅力を思い知り、そして錬金術に至ってはもう神への冒涜などとは言っていられなくなった。そこで教会は科学と信仰の融合を急いだ。「科学」とは「神の御業」つまり「自然」を神から与えられた理性で「理解」する行為だとする立場を築き、聖書の窓から科学を説くことを試みた。与えられた命題をとことん討論し、論理により真理を導き出すという、教会で培われたこの学問の形式を指してスコラ学という。

欧州各地に大学を開設したのも、スコラ学者を育てたのも修道会のイエズス会であった。神学とともに科学全般を教育した大学では同時に論理学教育にも重きを置き、論理により真理を導き出すという姿勢は教育の中に定着する。そしてそれは大航海時代、イエズス会がキリスト教の布教とともに世界中に大学を創ることで世界基準としてひろまる。    

正解  に)



やがて実験や観察による証拠を論理の根拠とする自然科学の台頭を受け、根拠を信仰にもとめたスコラ学は机上の空論として批判の対象となる。しかし役目を終えたあとで批判されようとそれは大きな問題ではない。重要なのは、信仰に支配されていた中世欧州において科学がスコラ学を通して見事に消化吸収されたという事実、その後の科学と信仰の別居、そして論理によって解き明かされないものは価値がないとする考えが教育を凌駕しその支配が今も続いているという惨劇である。



4. 日本と科学の出会いはいかなるものであったか。(複数回答可)

い)イザナギとイザナミの二神が諸物を生み出した。
ろ)大陸からの渡来人が、暦学、稲作、養蚕、機織、鋳金、薬学など多くの技術をもたらした。
は)戦国時代に望遠鏡、地球儀などがキリスト教と一緒にイエズス会の宣教師によって持ち込まれた。
に)開国後に近代の科学や思想が海外から流入し、福沢諭吉らがそれを啓蒙した。


キリスト教社会からの科学の流入は宣教師によるものである。聖書と鉄砲を餌に日本を西欧の軍事経済網に組み入れようとするイエズス会の魂胆を見通した豊臣秀吉は禁教令を出し伴天連どもを追放したが、ここで西洋の科学と縁が切れたわけではなかった。鎖国と言われるほどには閉鎖的ではなかった江戸時代、オランダとの貿易を介して西洋の知識は日本に届き「蘭学」と呼ばれ、軍事知識とキリスト教思想が侵入して日本の体制を揺るがさない限り幕府は蘭学を認めた。果たして日本でこの時代に浸透した「科学」は医学、暦学などであり、先祖から伝わる「暮らし」を毒することなく在来の知との摺り合わせを繰り返しながら学ばれた。おそらく西洋からすれば軍事知識を欠いた科学などは肉のない料理のように見えたであろう。
しかし黒船が日本の門戸を蹴破り近代の科学と思想が怒涛のごとく流れ込んだ。蘭学は洋学と名を変え、それまで欠けていた武器、軍制、法制の知識、資本主義、近代思想は肩で風を斬りながら「在来の知」の居場所を奪う。古きものを守ろうする者に対し福沢諭吉は「ばかもの」呼ばわりをした(「改暦弁」)。

太古、この世のすべてのものごとは互いに離れた陽と陰が「あふ(合ふ、逢ふ、和ふ、会ふ)」ことで生まれ起こると考えられていた。世界の古代文明を掘り下げればみなここに行き着く。陽陰とは「天と地」「日と月」「男と女」「魂と躯」…、原子も宇宙も引力も繁殖もこれに尽きる。そして「あふ」ことは別れることの始まりである。生と死は互いに呼び合い、永代に繰り返す。イザナギとイザナミの出会いと別れはそれを神話として饒舌に語るものである。   

日本人が遠いとおい先祖から受け継いだ知とは「生き方」である。それは「死に方」とも言い代えることが出来る。どのように生き、どのようにそれを終え、それをどのように子孫に伝えるかである。新しい何かを学ぶときも「ことわり」の中の「まこと」に真摯に問いかけその答えを待った。「ことわり」に叛けば子孫に害が及ぶことをよく知っていた。大陸から来た新しいものごとも時をかけて日本に馴染ませた。しかし宣教師や黒船が持ち込んだのは「殺し方」であった。    

正解 い)ろ)は)に)


5. 琉球大学遺伝子研究チームが福島で大量に見つかった蝶の奇形は放射性物質に遺伝子を破壊されたことが原因となったという発表を行ったが、根拠の一つとして突然変異促進剤を投与したときに起こる変異と同様の異常が見られることを挙げている。これの意味するものとして不適当なものを下から選択せよ。

い)福島の蝶に突然変異促進剤投与の事実がある
ろ)福島の蝶に放射性物質による汚染の疑いがある
は)突然変異促進剤とは放射性物質を指す場合がある
に)放射性物質を使って遺伝子を組み替えてまで生体に干渉することが当然になった


放射能が遺伝子を傷つけることはもう常識となっているが、「突然変異促進剤」というものは一般には聞き慣れない。これは抗生物質や農作物などの研究開発に利用されており、多くは放射性物質によって遺伝子に損傷を与えて突然変異を促して「強い」種を発見することが目的である。突然変異は人類が今日まで長い時のあいだに自然に体験してきたことではあるが、人の手によって、人の利益のために行われてきたわけではない。自然環境を構成する膨大な要素が同時に影響し合いその淘汰の中で生き残りをかけてごく微小な変異が生まれるのである。今しかし遺伝子研究の現場ではこのような実験が繰り返され社会にとって有益と判断された「異変」は時を移さず市場に放たれる。こうして開発された薬品や食品は日々我々の口に入る。その害の有無を判断するのもまた学者であって我々ではない。そして学者が無害を証明すれば誰も口を挟むことは出来なくなる。だが「ことわり」に手出しをすれば、その咎めがどのような道をたどりどのような形で与えられるかは学者には証明しきれまい。

正解 い)


6. 2011年から続くシリア内戦に対する世論が緩慢なものからに急激に厳しくなった理由として適当なものを下から選択せよ

い)反政府組織の中にアルカイダの活動が認められたため
ろ)サウジアラビアが子飼いのチェチェン人テロ集団をロシアにけしかけたため
は)シリア北部で国際法に違反する化学兵器が使用され多くの死者が出たため
に)トルコ軍がシリア国境にパトリオットミサイルを配備したため


二年以上続くこの内戦ではすでに何百万という死者、そして孤児、そして手足を失い、故郷を後にすることを余儀なくされた人々がいる。しかし世論はそれを直視せず中東は戦火があって当然という見方すらされていた。だがある日、化学兵器使用という一線を越えたそのとたん、世界は態度を変え一斉にシリアの子供たちのために泣き出した。   

正解 は)


化学兵器の使用を擁護するつもりはない。あってはならない事である。なら、ふつうの爆弾でなら市民の命を奪ってもよいというのだろうか。どちらも同じ殺人ではないか。国際法に触れさえしなければどのような非道も合法なのか。国際法とは誰が何を基準に作るのか。

人の子であれば、子の親であれば誰にでも浮かぶ疑念であろう、しかしそれが世論に声となって響くことはなかった。疑念よりも論理が先に立つからである。疑念が湧いて出る場所は「魂」である。逆に論理は「魂」を切り離し状況証拠あるいは経験からの共通項で組み立てるものである。我々が学校で学ばされてきたのは後者である。―化学兵器は残忍だ、残忍な化学兵器がシリアで使われた、だからシリアの内戦を終わらせて子供たちの人権を守らなければならない― あまりに、あまりに不毛なな思考。


学力が落ちた云々ではない。「学-まなぶ」対象のほうにに問題がある。学校という所で教えられていることは「まこと」を根とする枝葉のようなものである。世のことわりを体系付けた学問の表層だけを知識と呼ばされただやみくもにそれを拾い集めるが、評価されるのは集めた枝葉の量であり、そのために葉の色や姿を見つめる暇は与えられない。根から離れた知識は遠からず枯れて朽ちる。気づけば何一つ学ぶことなく人生を終えることになる。その空虚さ、不毛さが露わになることを恐れた個人も社会もただ「まねる」ことで殻を築く。他人から借りてきた思想と知識で武装する。そうしておけば世の中から嘲笑を買うことも抹殺されることもなさそうだから、である。

科学こそが真理であるという錯覚がここにある。それが科学そして科学を拠り所として生まれた思想、法律、経済に過度の権威を与えてしまったこと、そして権威を得たものがこの錯覚の発信源であることは畢竟、中世欧州の教会と神の関係を考えれば現代がその焼き直しに過ぎないことはよく分かる。科学は真理に築かれた「ことわり」を視覚化・具現化して我々に見せただけであり真理そのものではない。「まこと」をつかさどる世界は凡そ不可視である。


錯覚を捨てねば「まねる」ことはできても「まなぶ」ことはできない。この世の霧が晴れるまで、ひたすらまなぶことにつとめてはどうか。

境界論

なにやら仰々しい題だが小難しい話をしようというわけではないのでどうか敬遠なさらないでほしい。

「境界」、それは二つの領域が接するところである。
海や山河に隔てられた両側で互いに接触がなかった結果それぞれ違う領域ができあがる。古代の国や村の周縁を例に挙げることができるこれを「自然の境界」と呼ぶことができる。それに対し元々ひとつの領域であったものをある目的を持って隔てる場合、その境目は「意図のある境界」と呼んで前者と分ける必要がある。

今日この「意図のある境界」の弊害に世界は正気を失いかけている。境界論などという聞きなれないものを持ち出したのはそのことについての思考の機会をわずかでも持っていただきたいという願いからである。やや回りくどい話ではあるが、どうかご辛抱の上お付き合いいただきたい。



家屋の外壁や屋根は「そと」と「うち」を隔てる境界である。その目的は風雨、寒気、夏の日差し、盗賊、害虫、害獣そして人の視線から住人を守ることにある。木の国である日本の家屋は太古の昔から木造であった。木は暑さ寒さを遮る断熱材であり、湿度にあわせて呼吸をする生きた素材でもある。ただし火には弱い。平安の都は寺院や邸宅が密集した都市であったため一度火災が起こると都じゅうに燃え広がりかねなかった。そこで土と瓦を突き固めてつくる築地塀を敷地の境界にめぐらせ延焼を防いだ。また近世、住宅密集地となった江戸では家の塀や外壁に焼杉(裸火で表面を焦がし炭化皮膜をつくると着火しにくい特性を利用したもの)を用いるようになり、ほかにも「うだつ」と呼ばれる防火壁をあげて大火の備えとした。

 火除け
            築地塀                うだつ              焼杉


「聖域」を穢れから守る目的の境界も存在する。神社の鳥居や注連縄、寺院の山門がそれにあたる。ギリシアの聖山アトスやメテオラなどの修道院は下界との接触を絶つがごとく断崖絶壁の頂上に築かれた。石垣や壁のように外敵を物理的に遮断するのとは違い霊的・精神的な境界である。「聖」から隔てられるのは「俗」である。

 結界
           伊勢 夫婦岩                    メテオラ ルサヌ修道院 

この精神的な境界がいたる処に見受けられるのがわが国である。商店の軒にかけられた暖簾は物理的にはほとんど意味を成さないが立派な境界である。店のうちとそとを隔てつつも道行く人々を店の中に誘い、そして中にいる客の気持ちを外に逃がさないための装置である。
壁と扉の用を兼ねているのが障子や襖などの建具である。木の枠に紙や布を張った構造は軽くて開け閉めがしやすい。祝言や葬儀の席ではこの境界を取り払い大空間を設けることができる。逆に閉じられているときは個別の小空間に区切られて伺い立てなしに外から開けてはならないという不文律によりその空間の独立が担保されている。湿気の多い日本の気候にとり開閉のできるこの境界はその吸湿性のある材料とともに最適であるといえる。

 暖簾と襖
              暖簾                       障子と襖


古来から日本の村落の入り口には道祖神や地神を祀るなどして悪霊邪鬼が入り込むのを防ぎ、同じように都や江戸のような都市の周縁にも寺社を建立した。こういった境界は上述の注連縄や鳥居も含め特別に「結界」と呼ばれている。
木造の構造上、そして雨が多く湿度が高いという気候から家屋の床は地面よりも高く作られる。すると屋内には土埃が入らず、おのずと外と内の清潔さの違いが顕著になる。履物を脱いで「家に上がる」という風習はここに起因する。ここでは「高さの違い」が浄と不浄を隔てる境界を生んだことになる。
日本人の精神が育んだ境界は茶室に集約される。茶会にのぞむ者は露地、つくばい、にじり口を一つひとつ体験することで段階的な境界を越えていく。そして現世と隔てられた茶室へと迎えられ、そこには時と場から切り離された「一期一会」の宇宙がある。

 茶室
         つくばい            露地                  にじり口



敵意のある集団からの防衛という目的を課されたのは城壁や市壁、石垣、堀、である。襖のように吹けば飛ぶような境界とは違い水にも火にも強い素材を用いた堅牢な造りであるため太古の遺跡として今に残ることも珍しくない。
西洋においては日本と違い建築構造は石造が主であり、寺院、城砦、民家を問わず外壁は石造りが普通である。西洋の国々に古い町並みが残り、今もそれが生活の場として生きているのは素材の寿命の長さに起因する部分もある。敵意などない「自然」すら人間と敵対する脅威として捉えていた西洋人は自らの周りに防護壁としての強固な境界を築くことに積極的であった。あまりに強固な境界を持ち合わせたことの結果、西洋では日本人が深く意識した繊細な境界は顧みられることがなかったのはではないかと思えてならない。


都市の境界
      コンスタンチノポリスを囲む市壁              江戸城を守る寺院の結界



境界とは本来繊細なものである。建物の外壁同様にたとえば野菜の皮なども境界であるが、これは外からの刺激から野菜の組織をしっかりと守る反面、組織にとって必要な酸素や日光を吸収することができ、内包される組織の成長とともに皮も伸張する。これだけの繊細さがあってこそ境界として成り立つ。人間の皮膚も同じように繊細な境界であるが野菜と人間がお互いの皮を交換したところで何の役にも立たない。そして西洋と日本がそれぞれの家屋を交換した場合、どちらの居住性も最悪というほかないだろう。

日本の河川敷、その風景はコンクリートの堤防に覆われたものである。堤防もまた河川と陸地の境界である。増水による水害から街区を守るという目的がある。かつての考え方では川は必ず増水するものであり、そのそばに家を作るのは愚の骨頂であった。河川の両側は増水時の緩衝地帯として「河原」が設けられ、また火災の折に延焼を食い止めるための「火よけ地」として機能していたため建物の普請が禁じられていた。そこには大道芸人や物売りが集まり、市中とは違った趣の賑わいがあった。
現代、流通の便から河川の河口付近は開発が率先され人口が密集したことから住宅街が川に漸近してしまった。行政は当然のごとく堤防を築く。が、そこに使われるコンクリートは水と陸の境界に適した素材とはいえなかった。水辺に棲む生き物は生活の場を奪われて姿を消し代りに起きたのはヘドロや悪臭、そして河口付近の藻類の大量発生である。水と陸の出会う処に巣食う生き物たちには彼らの使命があった。そこで生き食いつ食われつする傍らで水と泥を清めてきた。その営みを分断したのがコンクリート製の境界だった。
水辺のみならず地面も地と空の境界である。アスファルトで覆われた地面、おかげで履物に泥がつかなくなったのは確かで建物の中も掃除がしやすくなっただろう。しかし夏の日差しが恨めしくなったに違いない。土中に吸収されることのなくなった熱は逃げ場を失い気温を上げ続け、そして日没後に空に向かって放熱する。人は冷房に頼らざるを得ず、また室外機からの放熱も気温を上げる。
土に命の営みがあればその死骸は微生物が分解し、雨水に触れて溶け土に還る。風が酸素を吹き込み新しい土になる。しかし草も虫もほかの多くの生き物も生活圏を奪われ、さらにアスファルトの下にある土は雨や雪に清められることはなく、水際のコンクリートによる生態系の変化が地中でも起きているといえる。土は穢れ、病巣をはぐくみ病院での治療が不可能な疾患を生む。

微生物や魚介類よりも人間の暮らしを考えるのが行政の義務である。しかしどのような些細なことも巡りめぐって人の世に跳ね返るのをもはや認めないわけには行かない。
老朽化し産廃となったコンクリートの瓦礫を狭すぎる国土のどこに持っていくかとつねに議論すると同時にコンクリートの材料である砂とセメントの両方を大量輸入しているのが日本、まことにもって不思議な国である。


世界地図をみればあまたの国々が網目のように走る境界を接して大陸を共有している。それは「国境」と呼ばれるが、わが国には海岸線が広がるだけで壁も鉄条網も見当たらない。兵士たちが銃を構えて海の向こうを睨んでいるわけでもない。
しかし日本の他のほとんどの国は他国と地続きであるために「国境」を接している。

地面に線を引いただけではない。この国境の一方と他方では法制度が異なりそれぞれにその執行者である政府がある。政府は国益を守るという目的でこの国境という境界をかたくなに守り外からの侵害を許さない。ただし双方に利益を生む場合は接点を設ける。それは交易であり、運輸である。海のない国は輸出入を陸路に頼るほかなく、国境を接する国々と仲が悪ければ難儀する。商品を通過させる側の国に関税やら規制やらをかける権利があるからだ。北極海に面したロシアは通年使える不凍港がないことに大昔も今も悩まされている。こういう国にとっての外交とは海に活路を開くための戦いでもある。地下資源に恵まれているならば強気な外交に打って出ることもできる。しかしそれがない場合は大国の傘下に下ることを余儀なくされる。有り余る地下資源を持ちながらそれを活用する機会を去勢されてしまった国も大国の言いなりになしかない。


山脈の峰をそのまま国境とした地域もあれば遠い昔の国境を今も保持している地域もあるが、アフリカ大陸は第一次大戦後に欧州の列強がアフリカの国土と資源を談合の上で山分けにしたため不自然な直線で国境が描かれている。また38度線やかつてのベルリンの壁はひとつの国をイデオロギーの力で分断した境界である。境界は戦争のたびに消えたり、増えたり、移動したりする。逆に言えばこの「意図的な境界」の塗り替えのために戦争が絶えない。大国同士の力関係が微妙に変化するたびその都合で境界が設定されてしまうからである。

つまり「意図」の在処は大国である。世界の各地でおこる対立、紛争、そして戦争は大国の意図により起こされる。民族や宗教の問題はその材料でしかない。

ぼやけた境界もまた対立を生む。国の輪郭を海によって描かれ、時として「島国」とよばれる日本は世界でも稀な境界を持つ国といえるが本島から離れた小さな島々は幅広い境界線上にあるためその所属が明確でない。だから対立の要素になる、いや、される。
近代日本はこれに翻弄された。日本が北の国と協調することを喜ばない西の国々が先の大戦の終わりに残した禍根が北の島々の帰属問題である。西欧は北の国の産業が発展し国力を伸ばすことを妨げるために運輸に障害を来たすことを意図し欧州に境界をもうけた。それは「反共の壁」とよばれるイデオロギーを大義名分に国々を対立させ物理的かつ精神的に分断するぶ厚い壁だった。ベルリンの壁などはそれを象徴するものである。
そして極東である。仮に日本がソ連と協調し、太平洋に向かって開かれた凍てつくことのない日本の海岸を共有し、その見返りに大陸の資源を安価で輸入することができたとすれば西欧はさぞ気を悪くしただろう。それを阻むため西欧は北方四島をソ連のものとし、日本とソ連がお互いに門戸を開こうとするそのたびに足かせとなることを、日本が欧米に忠誠を誓い反共の壁となることを、その見返りに与えられた経済発展に溺れることを目論み、悲しいかな今日まさにその目論見どおりになった。
日本の南の島には基地がおかれその問題をめぐる紛糾は国が分断されるほどである。反米感情と対米依存という矛盾した二つの感情に引き裂かれ憲法の議論すらまともにできない。迷走する世論は米国にさらなる政治介入を許してしまう。
そして誰も棲まない猫の額ほどの島々をめぐってはありもしない開戦論が繰り広げられている。なぜそこまで血を流したいのか。

資源を無駄にたれ流し、子供に魚を食べさせず、墓参りはおろか先祖に思いを馳せることもなくなった国の政府が漁業権や資源権、先祖が生きていた土地の話をするなど片腹痛い。では聞こう、その北や南の島々の先祖たちに日本の中央がしてきた仕打ちはどう説明するつもりか。その魂に報いるために子孫の暮らしをまたしても踏みにじるつもりなのか。

遠い昔。日本がひとつの国になる前のこと、朝廷は中央に恭順せぬ辺境の民を鬼になぞらえて異端視し、東北の民を蝦夷(えみし)、西南の民を熊襲(くまそ)、隼人(はやと)と名付けて軽んじた。日本書紀をひもとけば神武天皇東征をはじめとする数々の辺境民族征伐譚が記されるが朝廷軍や神々が「騙まし討ち」を仕掛けて勝利したことが臆面もなく書かれている。茨を編んで作った罠に陥れたこと、強い酒を飲ませて酔いつぶしたこと、美しい娘に化けて近づいたこと、宴に招いて皆殺しにしたことなどが敢えて記されたことの背景には日本書紀が編纂された当時にはじまる朝廷の東国征伐を正当化するためにその前例を神々に求めたからである。そして時代は降り江戸のころ、蝦夷地松前藩の横暴に対し蜂起したアイヌの民の首長は藩主から和睦の酒宴に招かれ、酔い潰されて殺された。これは非道である。中央ではできない非道でも境界の外の辺境でなら行えるとする人目を憚りはしても神を畏れぬ理論である。今の日本政府の東北への仕打ちも同様、「安全だからそこにいろ」という学者の言葉に裏付けられた見えない境界で人々をそこに縛り付けている。


律令時代に中央と辺境の境界には「柵」と呼ばれる最前線基地が置かれた。そこは朝廷の覇権が及ぶ限界線を示す。「さく―柵」とは、やまとことばの動詞「さく―裂く、割く、避く、離く」がそのまま名詞になったものである。この動詞から「さかふ―境ふ、界ふ」が派生しさらにそこから生まれた言葉が「さかひ―境、界」、つまり境界である。

境界、それは衣服であり、家である。固く厚い壁を築くだけではなく風土と季節によりその材料を変えて、また窓や門扉、門戸を設けて境界の外と繋がることができる。ときに緩め、ときに堅く閉ざす。
また皮膚であり、細胞膜、細胞壁でもある。外界から内部を守りつつも生体の代謝を妨げぬだけの仕組みがある。
そして民族と宗教である。これは人々の間に見えない境界を築く。先祖から受け継いだ生き方を子孫に伝えるための意識を民族意識といい、それを振りかざして他民族に対する差別と抗争を煽るものを民族主義という。この前者と後者をとりちがえたままでは禍根としての境界でしかない。宗教も同様である。     
知識と経験は人に見識を与え、人はこの見識越しに目の前の事象を捉えてその内側で思考する。したがってこの見識というものは自己と外界の間の境界である。人の見識を育てるのは親であり地域であった。次世代を思う親たちの心があってこそ与えることができた。しかし今、社会の価値基準は経済に乗っ取られ、人々と外界の間にできたのは経済の忠犬であるメディアによって築かれた「意図的な境界」である。人は事象の捉え方をそれに押し付けられている。それがどのようなものかは物質主義経済が大国に奉仕するものであることを考えれば察しがつく。

生態系を無視した土木工事、季節も風土も考慮されない新建材や化学繊維は自然という大きな全体の中からその部分であるはずの人の暮らしを粗末な壁で遮蔽したに過ぎず却って人を痛めつけた。人々がそれに気づいていながらにして抜け出せないのは「意図的な境界」に囚われており、この境界内の掟である「経済」の呪縛を解くことができないからである。需要なき供給そして消費のための消費、経済速度を上げることが目的の経済において数字に換算できないものは無視される。水辺の生き物も人の命の平安も経済の前にあっては価値がない。ましてや第三国の国境などは地面に書いた線に過ぎず経済政策の都合にあ合わせ書いて消してまた書けばよい、民族と宗教そしてイデオロギーを道具に使い、武器を取らせて血を流させて、その赤い血で書けばよい、そんな仕組みを呪わずしてこの世の明日があろうか。


やまとことばは我々に説く。
境界の語源である「さく―裂く、割く、避く、離く」と同列のことばの「さく―咲く」、これは固い蕾が割れて花がほころぶことを意味しており、そこから「さかう―盛う、栄う」が派生する。「さかひ―境」と「さかえ―栄」は縁がある。

ある領域の周りに境界を築き守りを固めるのはその内側が栄えることを求めてである。しかし一方のみの繁栄のために他方を拒絶しても虐げてもならない。道理なき境界であればその内も外も栄えることはなく、ただ水を澱ませ血を穢す。そして人の心に鬼を棲まわせ非道をさせる。

質の違う二者が対峙すれば必ず境界が生まれる。水と油の間には界面ができ、夜と朝の間には夜明けが横たわる。民族が違えば言語も風習も相容れない。人は自然の中にありながらそれとは一線を画して生きなければならない。だから裸では歩けない、雨露をしのぐ家がいる、そして誰もがそれぞれの生まれに誇りを持って生きなければならない。だからこそ外界に対し何らかの境界を持たないわけにはいかない。この世の全ての境界を取り払い「自由」を求めるなどという考えはあまりに幼稚、そして不可能である。語るべきはその境界が道理に従って置かれたかどうかであってその有無ではない。


そこに境界があればその意図を、誰が何のために築いたのかを読まなければならない。あるべきはずの境界が見当たらないときはそれを取り払ったのは誰か、何故かを探さなければならない。悪い意図がはたらいているかを見抜かなければならない。そうすれば、おのずと道理が浮き上がる。




逆ふ、逆らふ、諍ふ、下ぐ、これらもすべて「さく―裂く、割く、避く、離く」から枝分かれした動詞である。抗争、反目、侮蔑を意味する。これはまさに国境をはさんで起きている現象である。「さかふ―逆ふ」が名詞化した「さかひ―逆ひ」は「さかえ―栄」の対極にある。境界が両刃の剣であることを、太古の先祖たちは知っていた。

これからの聖戦 四男

「まったくこの不景気だってのに四人も生んでどうするの!学校にやって、食べさせて、結婚させて…あああ~あんたの亭主の稼ぎじゃ足りるわけないでしょうが!」

四年前に長女が生まれたときは近所の人たちによく叱られたものだ。よそ様の生活といえど、おせっかいなこの国の人たちは本気で心配してくれる。町ですれ違う見ず知らずのおばさんからも同じような小言を食らったものだ。

しかしさすがに五人目となると周囲の方々も諦めたのか呆れたのか、よかったねえ、と素直にいってくれる。じつは先日、四男がうまれた。


  bebek



筆者には薄情なところがある。新生児を前にしても「新しい生命の誕生…」とか「穢れなき真っ白な存在…」とか、その手の感情にまるで駆られないのである。新生児が新しいのは当たり前ではないか、と思うし、生まれたての赤ん坊の顔をみて「あどけない」とは思ったことがない。


およそ子供という子供には父方と母方の血が流れており、その中には遺伝子などという言葉だけでは語りつくせない太古の記憶が眠っている。「血―ち」と「霊―ち」は互いに近い意味を持つ言葉である。
浮世の思惑に触れていない子供たちには先祖との「霊―ち」のつながりが色濃く現れる。我々には聞こえない声が聞こえる。だからどの子も気難しい老人か求道者のような顔をしている。赤ん坊が何からも影響を受けていない穢れなき白紙の状態と思えないのはこのためである。




「へ?こんなものどうすんの?」

トルコの助産婦さんは臍の緒を持って帰りたいという変な注文におどろきながらも大事にガーゼにくるんで手渡してくれた。(半分だけ)日本の赤ちゃんが生まれたと病院中から看護婦さんや事務員さんたちが「見物」に来ていた。美女に囲まれてご満悦の四男とは裏腹に先生はちょっと不機嫌だった。この子の体重が平均よりも少なめで、筆者が処方されていたビタミンや鉄剤を使わなかったのを知っていたからである。ちなみにトルコでは新生児は3.5kgぐらいが望ましいとされ、妊婦はだいたい20~25kgぐらい体重が増える(!)。おそらく、新生児の体重が3.5kgに近いほど、担当医は産科医としての評価が上がるのだろう、しかし申し訳ないが栄養剤を使ってまでもご協力するようなことではない。子供は、天から授かった己が命運で生まれてくるのだから、その体重にまで周り口出しするものではない。


臍の緒は、医者が匙を投げるような大病をしたときに煎じて薬にするためにとっておくと祖祖母から聞いていた。「母と子の感傷あふれる記念品」という解釈はかなり新しいものである。イワシの頭よろしくこれも民間信仰の一種だともいわれているがそうとも言い切れないだろう。この手のことをあまり科学の窓から見つめるのは好きではないのだが、臍帯血は白血病の治療に現に役立っており、臍帯の中の体液は細胞を再生させる効果があるとされている。日本の先祖たちはこの不思議な緒の中に何かを見出していたのだろう。しかし科学という窓を持たなかった先祖たちはこういうものに「信心」と名をつけて守ってきたのだと思う。
とにかく薬として使わずに済むことを祈りつつ、とっておく。


母親という殻に宿った時から、その子は臍の緒をとおして母親の血から栄養、酸素そのほか全てを補う。元気な子が生まれるようにと母親はつとめてよい食生活を心がける。そう、母親が口にしたものと嗅いだものは即刻その子に届いてしまうのだ。煙草や薬品、排気ガス、化学物質、何もかもである。人の体に入った「毒」は肝臓や腎臓、膵臓脾臓が分解してくれるのだが、はたしてどこまでか。この臓器は生まれてこのかた摂取し続けた薬品や化学物質の分解に疲れ果てている。血圧や糖やコレステロールが高い価を示すのは、肝臓がもう仕事をしきれなくなっていることの現れである。そしてアレルギー疾患の原因は免疫力の低下、その原因もやはり体の自浄力の衰えにある。


食品とて生体である。植物や動物の組織を食べやすく加工しただけであり、そこでは生きた成分や微生物がまだ活動を続けている。しかし電子レンジの電磁波は人の胃のなかに納まった食品の分解に役立つ成分を殲滅してしまうために大仕事は全て消化器の負担となる。
胃が重いといっては胃薬を飲み、その分解もまた肝臓に押し付けられる。鼻水が出るといっては抗生物質をつかい、体内の自浄活動を担う微生物をも殺してしまう。消費者の五感に訴えようと添加した着色料や香料は体に残留する。フッ素という有害金属を喜んで歯磨き粉に添加し骨を脆くする。それだけではない。洗髪料、液体洗剤、乳液、化粧品はその中にたった一滴の植物油を混ぜておくことで植物オイル配合と表示できるが基材は石油系鉱物油、さらにその品質維持のための保存料、安定剤、乳化剤、香料、保湿剤、色素などの毒物が添加されたものを、、人はなぜか顔や体に塗りたくっている。それは皮膚と呼吸器から体内に浸透し血に混ざり「処分場」へと集められるが、処分しきれない毒は溢れてふたたび血に戻され臓器や血管に巣食う。
農作物に使われた農薬と化学肥料、そして有機肥料と銘打つのは得体の知れない添加物入りの餌を食べた家畜の糞であり、遺伝子を組み替え大量生産した作物を食べさせられ、ひどい国では家畜を生きたまま挽肉にしたものを乾燥させて飼料にまぜている。その肥料で育った作物を、あるいはその飼料で育った家畜の肉を食べたとき、工業や生活排水に毒された水域で育った魚介藻類をたべたとき、捕食の頂点にいる人間はどうなるか、言うなれば、環境の中の毒素を最も濃縮した存在となる。


父となり母となる齢を迎えるまでに人の血はこのように毒されてゆく。母親だけが身篭ってから気をつければよいというものではない。


この惨憺たる状況下でも元気な子供たちが生まれるのは奇跡というほかない。目には見えない力が働いて子供たちを穢れから守ってくれているのだろう。
臍の緒の根っこの部分である胎盤が胎児の呼吸器と泌尿器と消化器の仕事をしており、おそらくここで母親側から来る多くの毒物はせき止められるのだろう。胎児には胎児の体内で新しい血がつくられ、母親の血が混じることはない。産後直後にこの胎盤は母体から剥離する。血に滞った毒素とともに母体を去る。大量の血を失った母体は授乳のために必要な清い血を大急ぎで作り出す。そう、「乳―ち」は「血―ち」から作られる。

母乳が子供に免疫力を与えることはすでに知られている。ならば母乳にありつけなかった子達はこの先つねに病魔の脅威にさらされることになるのか、そうではない。母親の胎内にいるうちから免疫力はやはり臍の緒をとおして受け取っており、母乳はその延長上にある。妊婦がくよくよ、いらいらしてはお腹の子に障ると昔からいわれているとおり、母親が心を乱すと内分泌が狂い臓器を作るに必要な成分や免疫力の譲渡を妨げてしまうためである。
始まったばかりの生命活動から排出した老廃物はまだ臓器が出来上がっていないためには母親に戻される。これも臍の緒を介してである。

しかしそれでも子供の虚弱やアレルギー体質、先天的な疾患は起きてしまう。あるいは生後何年もたってから食生活や生活環境と絡み合い病におかされることもある。胎盤が盾になれない毒物もある。放射線である。

つまり、世の抱えるさまざまな問題が、この世のもっとも弱い、抵抗の余地のない存在である赤ん坊に「病」という皺寄せを与えている。そしてその問題とはひとごとではなく我々一人ひとりが関わっている。


我々の消費した資源が何らかの環境汚染を引き起こしているのは間違いない。いかに行政の過ちが大きかろうとも消費したのは我々である。妊婦のみならず誰ひとり心穏やかに暮らせないのもみなが異常なまでの「不安」をかかえて生きているからであり、その温床は我々の属する競争社会である。溢れ返る情報の尻馬に乗り目隠しをしたまま走るのも、商品に無駄な付加価値をのせることで利潤が上がる市場のありかたを受け入れているのも、その市場に依存してしまっているのも、隣国に嫌悪を抱くゆえに開戦をほのめかすような政党を勝たせたのも我々である。その政党は原発再稼動、TPP、戦争へと向かう。


胎児の異常の有無を調べようと、医者つまり政府は「検査」を推奨する。ダウン症などの障害の兆候が認められると中絶を勧める。ひとつの家族にとって障害を抱えた子を持つことは大変なことであることは間違いない。その子の人生も健常者のものとは明らかに違い周囲の支援が必要になる。その後ろ盾にならなければならないのは政府である。その筈の政府が「面倒を見たくないから生まないでくれ」とばかりに門前払いにするのは筋違いだ。国にとっては経済効果の期待できないない見返りのない仕事である。だから冷たい。そしてこの先、子供たちの先天疾患は確実に増えていくことを重々承知しているためになおさら突き放すのである。
どういう姿で生まれようとそれはその子の天命である。その子の親となることは親の天命である。その子を社会の、国の一員として迎えることは世の中の天命である。それに逆らいまだ産ぶ声をあげる前の人生を雑草のごとく摘み取ることを国は推奨する。そう、強制ではなく奨励という名のやわらかい脅迫である。この検査を受けるかどうかの判断は子の人生に責任のある親のほうにある。政府の勧めに忠実に従う必要はない。



「ジハード―聖戦」、この言葉を聞いて思いに浮かぶのは、剣を喉元につきつけて改宗を迫るイスラム教徒、あるいは神の名の元に破壊活動をする中東ゲリラといったところだろう。しかしこれは異教徒側がイスラム教徒を悪意の目で見たときの姿であり本来はそうではない。聖戦とは神の教えを守って生きることを阻害するもの、「異教徒との戦い」は狭義でいう聖戦である。広義では人の中の欲や悪意、物質世界への固執との戦いをいう。
そして人の体は魂がこの世で生きるための入れ物として神から与えられたものという考えがある。いわば神からの借り物である体に害を与えることは「ばちあたり」であり、他人の体はもちろん自らのその体も穢し傷つけることを禁忌としている。

ならば、体を穢すものとの戦いは聖戦である。

次世代の命を病に曝し、あるいはこの世に生まれる前に命を奪う「毒」、その毒の出どころは社会であり、こともあろうにその社会の持ち主は我々である。経済中心の社会の掟を忠実にまもる我々である。「人の中の欲、悪意、物質世界への固執」、これは仏教の言葉の「貪欲・瞋恚・無明」つまり「煩悩」にとても近い。また古代日本の先祖に言わせれば「けがれ―穢れ・気枯れ」になる。全人類の敵は大昔から知られていた。


冒頭にあるおばさんの小言は罪のないものだが実は世相が露呈している。この世の不安を「不景気」という言葉で一括してしまう。「不景気」の行き先は「貧困」である。物質の豊かさは幸せに生きるためなくてはならない条件、家と車と貯蓄があって初めて幸せといえるような幸福観に人々は支配されてしまった。生活に追われる経験がまだない若い世代はさらに即物的である。最新の通信機器と誰にも干渉されない部屋、なるべく時間に縛られない楽な仕事をして趣味三昧の暮らしをするのが彼らの幸せである。結婚の条件は経済力、それを得るために教育を受け、病気になっても医療費が払えることが解決であり、事故を起こしても保険が保障し、裁判になればよい弁護士をつければよい。寄せ来る不幸の盾になるのも金銭である。自分の持ち物が隣人のものより劣っているのは我慢がならない。だから「貧困」は何よりも恐ろしい。姿なき神の怒りよりも、いまだまみえぬ地獄の業火よりも、目の前の貧困に呑まれるほうが恐ろしいのである。
 
怒りを人間外にむけることは難しい。人は顔の見えない敵と戦うために仮想敵をつくりだすことでようやく怒りを集中させることができる。そこで誰かを、どこかの組織を、自国政府あるいはよその国を敵に見立てて戦いだす。しかしそのような狭義の戦いは不毛、新たな怒りの呼び水にしかならない。いま怒りを向けている相手は影法師、東電も、原発も、政権も、戦争もアメリカもイスラエルもみなおのれの欲の化身かもしれない。見誤ってはいけない。敵は一人ひとりの中にいる。


目まぐるしく変わるわが子の面差しには日本の両親や弟、叔父たち、もとより会うことの叶わぬ遠い遠い先祖の顔も現れているのだろう。かわいい子孫の誕生をことほぎに黄泉の国から現れたのか、それともこちらから会いに行ったのか。
大好きだった祖祖母と祖父の顔が見えたときはさすがに涙が流れて止まらなかった。
主人の家族も冬の終わりに他界した義父の顔も順番に見える。スキュタイや突厥と呼ばれていたトルコ人の先祖や、北バイカルの大地を馬で駆け回っていた民も現れているかもしれない。そして彼らは在りし日に大陸から列島に渡り、その血を縄文の日本にもたらしたのかもしれない。綿々と続く親子の縁を縦糸に、時の記憶を横糸にした織物はながらえて今に至る。


― 穢れと戦え これは聖戦ぞ ―
先祖たちは子の母親の肝に銘じ還っていった。







キライなことば―「信じる」  

こういう美々しい言葉には気をつけたほうがいい。
「平和」「正義」「自由」などと同じく、耳にはじつに心地よいが。

「信じる」、なにやら得体の知れない押し付けがましさを感じる言葉、それは今流行りの「絆」にも似たものがある。ただでさえ言論というものが力を持ちすぎたこのご時勢、それに振り回されないためにもこの怪しげな言葉を疑ってみる価値はある。


いま我々が使う日本語は「現代日本語」である。それ以前のものをおおざっぱに「古語」という。「古語」は新しい順に「近世日本語」「中世日本語」「中古日本語」「上代日本語」というように別けられる。言語の様相が変わるからにはそれだけの理由がなければならなく、たとえば「現代日本語」が生まれた契機、それは明治維新にともなう西洋文化の流入つまり「ガラス」「ピアノ」のように外国語を外来日本語として輸入するか、「心理」「哲学」のようにそれまでの日本になかった新しい概念の対訳として新日本語を造語することで語彙がふえたことにある。
それ以前の転換期にも似かよったことが言えるのだが影響したのは西洋ではない。上代においては大陸の文物と渡来人の来日と律令制度、中古は遣唐使廃止と仮名文字発明による内的な熟成、中世は政治の担い手が近畿の公家から関東の侍へと変わったことによる「あずまことば」の開花と禅の影響、そして近世は天下泰平の中で多様化した社会・職業・身分においてそれぞれの言葉が独自に育ったことにある。

では、上代日本語以前のこの国の言語はどうだったのだろう、ということになる。

古代語、仮にそう名づけると、それを指して純粋な日本語というかは難しい。遠い昔は日本列島は大陸とは地続き同然であり、陸伝いに人々が、島伝いに舟々が行き来していたのであるから、大陸の影響を受ける前の時代などというものはもとより存在せずその意味で純粋な日本語というものもありえない。すると議論はなぜか日本が大陸の属州であったか否かに掏り替わり兼ねず喧嘩腰の方々を喜ばせるだけになる。それは本稿の目的ではないためそこは「そうっとして」おくことにする。
我々日本人の古代語は、漢字、かな、いかなる表記文字をも持たぬ「おと」によってのみ言い表すことのできることばである。その「おと」による太古からの一語一語に五世紀以降大陸からやってきた漢字を意味の上で対応させ、そうして日本語が表音・表意の両方に使うことのできる文字を得た。日本語固有の「おと」は「訓読み」として後世まで残ることになり、漢字の持っていた漢語音が日本風に訛ったのが「音読み」である。

漢字以前の時代から日本にあったことばを特に「やまとことば」という。漢字と出会う前であるためやまとことばに「音読み」は存在しない(とも言い切れないのが悩ましいのだがそれ別の機会に)。


そこで「信じる」というこの日本語、辞書では訓読みとされているが、漢語の「信―シン」に「する」という日本語の動詞がくっついた(膠着した)ものだ。つまり漢語外来語からの造語であってやまとことばではない。

この連作では明治以降に採用された「明治の新語」の生む悪影響を主に取り上げてきたが、今回の「信じる」は新語と呼ぶにはいささか古いといえる。
いったいどれくらい古いことばなのだろう、それはわからないが、とにかく「信じる」という行動を我々は古代から外来語に頼ってきた、さらに昔は「無かった」かもしれないというから、えっと驚く。


現代日本語での「信」は大きく分けて二通りの意味を持つようになった。一つは「通信」「音信」「信号」に見られる記号的な使い方である。情報を機械のように無感情に淡々と伝える方策であり、その情報が真実であるか否かはここでは問われない。
もうひとつは「信仰」「信心」「信頼」「信用」「信念」、つまり「本当と思う」こと、悪い言い方をすれば「思い込む」ことであり「信じる」といった方が美しげに聞こえるが意味は同じである。


「信」の文字は古くは聖徳太子の「十七条憲法」の中にみられる。

九曰。信是義本。毎事有信。其善悪成敗。要在于信。群臣共信。何事不成。群臣无信。万事悉敗。

九に曰く。信これ義の本。ことごとに信にあるべし。それ善悪の成敗は。かならず信にあるべし。群臣ともに信あれば。何事か成らざらん。群臣ともに信なくば。万事ことごとく敗れる。

「十七条憲法」の原本は見つかっておらず全文が書き記されている最古の書物は「日本書紀」である。今の歴史家の間には十七条憲法は日本書紀の編纂時に改竄されたものであるという説があり、それどころか聖徳太子不在説まで囁かれている。つまり「信」の字の使用を飛鳥時代まで遡ることができるかどうかはいまひとつはっきりしていない。

とにかく、人としてとるべき道の根本、善悪の判別の根拠はことごとく必ず「信」にあるべきだとされている。そして遅くとも日本書紀の書かれた時代には「善悪の判別の根拠」とまで意味づけられるようになる。どうやら大変な文字である。


漢字のふるさとの大陸では「信」の字をどう扱っているのだろう。

「人」と「言」の会意文字、字源は「人が口に出したことを守る」。転じて「口に出したことを守る人」に対する形容になった。

動詞で使う場合はまず日本語同様「信じる」、それから「言を守る」「実証する」「知る」とあり
形容詞では、「真実の」「正直な」「偽りの無い」などである。
名詞になると「盟約」「割符」「標識」「使者」「消息」「書簡」となる。

「信」は儒教の五徳にも数えられる「言明をたがえないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること」である。ここで注意して見れば「信」とは言明をする、真実を告げる、あるいは約束を守るその人間あるいは媒体にかかわる問題であり、告げられる「真実」とは別の存在として考えられていることがわかる。この五徳の「信」は十七条憲法のそれに代入して読んでもとりあえず意味は成す。

何かしらの情報を発する側と受け取る側の存在があってはじめて成立する語彙のようである。つまり「情報の発信と受信」である。

しかし、「十七条憲法」の口語訳では「信」は「まこと」とされている。


日本語のまこと、それは「ま―真」と「こと―事、言」からなるやまとことばである。「ま」さしき「こと」、本当の事、真実といってもいい。ただしこれは「情報の真偽」ではなく「事の真性」を語ることばであるため中国語でいうなれば「信」ではなく「真」に近い。したがって「情報のやりとり」をあらわす「信」の字に「まこと」を対応させることも、「善悪の判別の根拠」としてしまうのにはかなり問題がある。なぜこのような矛盾が起きてしまったかは現代人が「信」という言葉に抱く感情に原因がある。



ところで、「信じる」の影で忘れられていたかのような「信―のぶ」ということばに触れておくことにする。これは辞書によって「信」の訓読みとしているものとしていないものがあるようだが一般には「まこと」とならんで人名漢字の読みとして受け入れられている。しかしこれは、やまとことばの草創期から使われるれっきとした動詞の一つである。

「のぶ―述・陳ぶ」、口をついて出たことばがあたかも泥水を流したように水平に「のび―伸・延び」ひろがる様を現わしている。そして人の上に立つ者、たとえば司祭や大王の「のぶ」ることばは「のる」と美化され「のり―呪・祝・宣・憲・法」となる。
言葉を受け取る側はこれを「のむ―飲・呑む」のである。この語源もまた「のむ―伸・延む」であり、ことばがのび広がる現象の一環であることがわかる。これこそ「情報のやりとり」に近いことばであろう。



「信じる」は他動詞であるため必ず目的語をとる、つまり信じる対象が存在する。たとえば報道や評論などの言論、たとえば科学のもたらす研究結果、人、自分、金銭、権威、社会、未来、そして神、その他諸々をただの情報として受け取ることにとどまらず「まこと」と捉えてしまうことを「信じる」という。
やまとことばを話していた時代は「のぶ」と「まこと」は二つの全く異なる語彙であったが、大陸から輸入した「信」により一つに抱き合わされ、混同されたのである。



今日び、「信じる」ことの大切さや崇高さが高らかに謳われる。これはいわゆる美辞として使われている。しかし重きを置くべきはその対象に「まこと」が在ることの筈であり、そして「まこと」はそうはやたらに転がっているものではない。そこで「信じられる」ことを求める側はそこを突かれることを嫌うため自らに欠けた「まこと」を何かで補い激しく「発信」する。「信じろ」と発信するのである。彼らは「まこと」を装う方策に長けている。それに対し明らかに弱い我々は「信じぬ」ことを躊躇し、迷い、あらぬ「まこと」を見てしまう。それはやがて「妄信」につながる。

実は我々は信じるか否かをそのつど選んでいる。自らにとって喜ばしいことは受け入れ、そうでないこと、受け入れがたいことは拒む。情報と自らの願望の合体、これが「信じる」ことの構造である。

何かを信じることは安心につながる。大多数の意見を信じておけば社会から取り残されずにその恩恵に与れる。銀行を信じて貨幣を預けておけばいつの間にか増えてくれる。医者や薬を信じておけば痛みや病が進む恐れから逃れられる。惚れた相手の言うことを信じていれば傷つかずにいられる。大司教の説く神の言葉を信じていれば地獄に落ちない。信じる者はとりあえず救われるだろう。しかしその中に「まこと」が無ければ少しも報われないことになる。

信じたことが思い通りにならければまた別の何かを信じてみる。が、またしても当てがはずれ、それを繰り返すと経験的に疑うということを覚えるはずなのだが皆にできることではない。なぜなら我々の願望といというものは少しでも擽ればすぐに泡立ちいくらでも膨れ上がる。相手はそれをよく知っている。そして「信じろ」と、発信し続ける。

そうこうするうちに時は過ぎ、人は年をとり世も歳を経て今に至った。過去において信じさせる術をよく知っていた者たちの子孫、あるいは弟子たちが今のこの世で力を持つ者となった。そして今もなお、彼らを信じる我々がいる。


先祖たちにしてみればまるで与り知らぬ「信」の言葉は律令制とともに行き渡ることとなった。ではそれまでは何も信じることなく生きていたのだろうか。



「信じる」必要などなかった。巨石や巨木、地に山に海に宿る霊を、そして先祖の霊を「おそれ」「うやまひ」生きていたのである。こぼれた種から芽が出て親と同じ木となり、秋に落ちた木の葉は春になると再び芽吹く。これは他でもない「まこと」である。生まれた子には親の面影があり、その子にも、またその子にも受け継がれてゆく。ちから溢れていたからだも霊が抜け出てしまうと物言わぬ骸となり朽ち果てる。そこには木の葉のように再び霊が芽吹くことはない。先祖たちはこの厳粛な「まこと」を見つめ、それに抗うことなく自らの願望を何かに結びつけることもなく、「まこと」をつかさどる霊たちをただただ畏れ敬い生きたのである。

疑う、それはなにやら後ろめたさの滲む言葉である。信じることを美化した故におこる反作用なのであろう、信じる者には光が当たり疑う者には影が落ちるような気がする。これは動詞「たがふ―違ふ」に「う」がついたものである。心に生じた違う理解同士が対立することをいう。似たような意味の動詞「うたぐる」も「たぐる―手繰る」に「う」がついて、事象を手繰り吟味することをいう。そこに「まこと」が在るかをつぶさに見つめる方法のことであり後ろめたさなどは元々は無い。
動詞に「う」を頂くと別の新しい動詞が生まれることがある。「う」は「得」すなわち「知る」を意味する可能性があるが、今のところ確証は無い。「うながす」「うがつ」などもそうである。

ことばとは時とともに姿かたちをかえて永らえる生き物である。人がことばを作る傍らことばは人をも国をも作る。言語の構造が国民性に反映することは明白である。現代日本語は明治維新から数えてたった150年の歴史を持つにすぎない。近世日本語はいまから400年前、中世のそれは800年前、中古は1100年前、上代日本語はおよそ2000年前からのものである。それより昔の古代語であるやまとことばは少なくとも2万年以上の間話されていたことばであるからには日本の国と日本人の心の礎を築いたのは実はどの時代のことばであるかは明白である。しかしその後に外来の言葉を喜んで受け入れ、それが我々の暮しに入り込んだことで急速な変化を強要された日本人はさまざまな副作用に苦しんでいる。
新語と呼ぶには古い言葉ではあるが、古語辞典を開いても「信」の文字は仏教用語と僧の名前を含めたところでそれほど多くは見られず、むしろ明治以降におびただしい量の「信」が熟語として頻出するようななったといえる。やはり明治以前は「信」を外来語に近いものとして扱っていたと考えられる。そして開国とともに我が国に押し寄せた科学・近代思想への「信頼」じつは「盲信」を煽るあざとさが「信」に感じられてならないのである。



「アナタハ神ヲシンジマスカ?」
青い目の神父さんにそう訊かれれば、「信じない」という他ない。
「まこと」をつかさどる存在を神と呼ぶのであれば、ひたすらそれを畏れそして敬うだろう。
近代や科学などと同じように信じていい筈はない。

とき、とこ、ところ

遠い昔の日本人は「時空」というものをどう心得ていたか、やまとことばを道しるべに思いを馳せてみたくなった。


延々と移ろう時は「うつつ―現」といわれ、うつろう時をすらりと切った切り口(断面)が「とき―時」だとされていた。時と時のあいだに仕切られた領域は「ま―間」であった。

幕末以降、近代思想の輸入とともに西欧諸語と対比させやすい合理的な日本語語句の「和製漢語(明治の新語)」がおおく造語された。そして「ま」には「時間」と、そしてそれを刻んだ「とき」には「時刻」という造語を充てられた。「うつつ」を表現できる単語は新語には見当たらないが、強いて言えば「過去現在未来」とせねばならぬ。

「うつ―空、虚、内、移、遷、映、写、現、打…」この「うつ」の音の持つ深くも広い意味は以前の記事で触れている。目には映るが不変ではない、儚いものをさしていう言葉である。人々はその虚ろな器の内に何かを打つ(充填する)ことで姿をとどめようと試みるが、それとてやがては空しくなる。

「うつつ」を「う―つつ」に分けると、「う」は大いなる、という意味の接頭語になる(例・うみ―海―大いなる水)。そして「つつ」にもともとある次のような意味が浮き上がる。
「思ひつつ」「嘆きつつ」がそうであるように、ひとつの動作を継続するときに「つつ」をつける。この解釈は「思いながら」だけでは不十分で、「思っては、また思い」というように動作や現象が絶え間なく「つく―付く」ことでもある。(「つつく―続く」の語源)
「うつつ」、大いなる時の流れである。

中が空洞の「つつ―筒」状の入れ物の中を現象が流れている、時の移ろいをこのように思い描いていたのではないだろうか。その「つつ」をどこかで斬るとその切り口に「つ」が現れる。この「つ」は「いつ―何時」の「つ」、と思われる。

竹を取りつつよろづのことに使いける竹取の翁がいた。その翁がかがやく竹をふしぎに思い切ってみると、そこから現れたのはちいさなちいさな姫だった。この世ならぬどこか別の世からやってきた姫は、竹という筒のその節と節にしきられた「ま―間」にいましたのである。「ふし―節」もまた、季節や人生の変わり目などの時を示す言葉である。この世で限られた「ま―間」を過ごしに来た姫を運ぶ器はやはり「竹」でなければならなかったのだろう。では別の世とは、である。

「ま―間」は時間と空間の両方を表す言葉である。もしかするとその両方の境がなかったのかもしれない。

「ときは―常磐」という古い日本語がある。古語辞典を引けは「トコイハ(常磐)の変形、永久不変」とあり、岩(磐)の不変さのなかに永遠を見出したゆえにこの意を得た言葉であることがわかる。
「とこ―常」はそれ自体が不変を意味するが、上述の「とき―時」の変形でもあり、時間の概念から流れを除いたものと考えられる。そして「いは(わ)」とは古代の日本人たちがその霊性を見出し畏れ敬った「岩、磐、巖」であり、その原義は「いは(わ)ふ―祝、敬、斎ふ」という動詞にある。さらにその語源か、あるいは語源を共にする動詞「いふ―結ふ」にもつながる。

やまとことばは単純な動詞から枝葉のように言葉がうまれ、広がった。

動詞「いは(わ)ふ」からはまた別の名詞「にわ―庭、わ―輪、は―端、ば―場、わ―和」などが生まれた。これらはいずれも「領域」をさす。その周囲から切り取り区別した処のことである。「わ―輪」を描いたり、そのまわりを「まわる―廻、周、回る」ことは領域を決定する原初的な方法で、そこから結界を「いふ―結ふ」などの呪術の手段に発展する。
「不変である」とする「場」を周囲から切り取ったとき、そこが「常磐」となる。神社の境内などがそうであり、三輪山や厳島のような場もそれにあたる。そしてその不変たる場はあの世を垣間見せる。

この世は時のうつろいとともに変わり続ける。不変と見立てられた岩でさえ不変不滅ではなく、万物はその姿を変えやがては塵となる。時のうつろうこの世は「うつしよ―現世」である。そして時のうつろわぬあの世を「とこよ―常世」といった。

「とき」と「うつつ」、「とこよ」と「うつしよ」、これらはそれぞれ相対の関係にある。それでは「ときは―常盤」とその関係にある言葉はあるだろうか、あるとすれば「うつは―器」をそれとするべきである。
体は魂の器である。家は親子兄弟と先祖の器、里も、国もまたそれぞれ器であり、さらにその器である「この世」のその中にあるのは時のうつろいとともに変わり続ける万象である。


やまとことばは子音という「体」に母音という「心」を打ち込むことで命を得る。だから母音が変わればそのことばの振る舞いが変わる。「とこ」と「とき」は母音の違いが用法に微妙な違いをあたえた類義語である。「とこ」はさらに母音が変わると「つき」になり、「たけ」にもなる。ふしぎだ。
鬱蒼と繁る竹薮は常盤の庭、かぐや姫はそこに降り立った。姫が来たとされる別世界とはやはり「とこよ」であった。そして翁のもとで美しい姫となるものの、月をみてはしきりに嘆くようになった。「とこよ」の者である姫にこの「うつしよ」で過ごすことの許された束の間が「つき―尽き」たとき、「つき―月」へと往かねばならなかった。

(「竹取物語」は純粋な伝説ではない。いくつもの伝説を巧みに組み合わせた「物語」であり、全体よりも細部を凝視することでその厚みを知ることになる。これは古事記から脈々と続く、能や歌舞伎にもみられる我が国ならではの表現方法で、あくまで全体評価しようとする西洋式の見方をすると荒唐無稽なものに映る。民話や童話が「子供たちにもわかりやすいように」と書きかえられているが、これは子供たちのためにではなく西洋化してしまった大人たちのためにである。)



前回の記事で触れたように、古代人の生死観は今とはいささか違うようであった。肉体が滅びると魂がそこから離れて別の世界にと旅立ってゆくというものであった。
やまとことばには「死ぬ」に当てはまる語彙がないこともそれを裏打ちしており、その代わりに使われていた言葉として「ゆく―行・逝・往く」「ゐぬ―去ぬ」「うす―失・亡す」「かくる―隠る」「たぶ―旅・渡・度ぶ」などがあった。

もちろんこれらの言葉は死ぬときばかりでなく物事のありきたりの動作をあらわす動詞である。ここを「去に」てそこへ「行く」、月が雲に「隠れ」て光の「失す」ことなどをも語ることができる。そのなかで「たぶ―旅・渡・度ぶ」がやや特別な意味を帯びて見える。

名詞「たび―旅」は動詞が「たぶ」からうまれた。「旅をする」の意であるが、そのもとの意味は「ゆく」にちかい。が、どこが違うか。

「たぶ」の語源は「とふ―訪・問ふ」であった。おとずれる、様子をきく、病を見舞う、などの使われ方をした語で、「つまどひ―妻問ひ」とは男が女の許をたずねることや求婚することをさす。かぐや姫を悩ませたのも男どもの「つまどひ」であった。
それが変化し「たぶ」になった。なにせ昔のはなしである。ちと様子を聞こうにも人づてにでは心もとなく、恋しい相手に手紙をしたためるのはもっと後の時代を待つことになる。心が疼けば野山を越えて行ったのであろう、旅をしたのだろう。

「ひとたび」「ふたたび」の「たび」もここに語源を持つ。「回、度」を意味するこの言葉はすなわち旅をさしていた。たとえば春が来て去ってゆく、そして年を一回りしてふたたび訪れる。月も日も然り、これも「たび」である。回り周るのはなにも人だけではないことに、また繋がる。


「サファリ」は遠い遠い砂漠の国の民が話すアラビア語だが、その原型の「サファル―سفر」の意味も「旅」そして「回、度」である。彼らにとっての旅とは駱駝に乗っての隊商であり、イスラム化してからは巡礼であり、布教や戦のための遠征でもあり、砂漠の旅を生涯のうちいくたびとなく果たした。風に任せて姿を変え続ける砂丘は人をはぐらかし、彼らの道しるべはその季節の空を回る月と星と日であった。

森と海の民である我々と、砂漠の民たちの遠い先祖のことばの間に繋がりがあったとは考えにくい。しかしこの接点は偶然ではないだろう。ことばがじかにつながるのではなくその作られ方に同じ思いがはたらいたのであろうと思う。アラビア語もまた「体」の子音にが「心」の母音を宿す言語である。このことは別の機会に書いてみたい。
天体は道しるべであり、時しるべでもある。自らの在る時と所を月や星そして日という「しるべ―知る辺」に頼み導き出すのである。天体の位相を読んで処を知り、天体を暦に照らして時を知り、人のさだめをも読むことができた。とき―とこ―ところ、これはもともと切り離しては捉えることはできない。遠く離れた先祖たちは同じ思いで空を眺めていたことだろう。だが西の国ではその後、空が回るか大地が回るかで大騒ぎになったという。どちらも回るというのにご苦労な話である。


空も、時も、人々も、回りまわって会い、別れる。いつか、どこかでまた出会う。月日は百代の過客、いまここにある我にとれば月日こそが旅人であり、それを出迎え見送るのが我である。そしてこのうつし世のだれもがいつの時か、見送られて常世のたびにつく。


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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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