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「独立遊戯」  戦争の序曲

その前夜

地域が国家からの離反を求めれば国家は当然それを阻止すべく軍事力を行使する。地域が蜂起してそれに抵抗すれば内戦がはじまる。ゲリラまがいの蜂起軍が政府軍に適うわけなどない。普通ならば程なく制圧がなされ反政府行動の罪を問われた首謀者たちが検挙されて事は終結する。しかし反政府勢力に武器と資金を与える別の勢力が存在すれば話はがらりと変わる。残念なことに実はこちらのほうが普通である。

過去、欧米列強が少数民族に対し独立の二文字をちらつかせ民族意識に火の粉をかけることで二つの大戦がおこされた。無論それには地域ごとに周到なる準備を整えてこそ成立したのである。
第一次世界大戦が主に何を目的としておこされたか、それは十字軍の時代から欧州の脅威であったオスマントルコ帝国を殲滅することにあった。北アフリカ・バルカン・東欧・黒海沿岸・紅海沿岸・湾岸・中東・コーカサスにまたがる広大な帝国版図には石油が唸る。この地域をピザのように割譲し、独立傀儡国家を誕生させてその資源、その労働力、その利権を搾取することは欧米列強の産業発展には不可欠と考えられた。帝国内各地に定住する民族を刺激して帝国からの離脱・独立気運を高め、武器弾薬を供給して内戦をあおり帝国を内側から蝕んだ。外からは列強が絶え間なく干渉を繰り返し露土戦争以降のオスマン帝国は衰退の一途を辿る。こうした背景のもと第一次大戦に参戦しドイツと共に破れあわや国家喪失となる段、青年将校ケマル・アタテュルクが唐突にあらわれ英国軍を駆逐して独立国を新たに樹立した。オスマントルコ帝国に変わって誕生したトルコ共和国は欧米に奉仕する道を歩むこととなる。
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         オスマントルコ帝国最大版図(1800年頃)と大東亜共栄圏  

そして第二次大戦が意図したところは、植民地の直接支配から傀儡国家の間接支配への移行である。具体的には欧米の植民地であったアジア全土を日本に奪われたふりを装いその後に日本もろとも叩き潰し、各地域に名目上の独立を認めた後も植民地時代とさしてかわらぬ傀儡国家として維持させることに成功、環太平洋の経済圏は全て英米に奉仕するよう建設された。また「ドイツの狂人」の愚行を口実に国家イスラエルを誕生させるのもこの大戦の重要な意図であった。戦争の金庫番であるユダヤ金融組織にかねてからの約束を果たし、さらに中東の戦火が一日とて消えることのないようその担保としてイスラエルは建国された。

維新後着々と太らされて有頂天にあった日本が更なるアジア攻略の一環として、かつ連合軍の行動力を削ぐために米・英・蘭・仏領のアジア諸国の独立運動を支援、運動家たちに軍事訓練を施して宗主国に対し蜂起させるという戦略をとった。しかし所詮はアラビアのロレンスの猿真似かあるいは敵国情報部の入れ知恵でしかなく、日本の敗戦と共に反逆罪で検挙されたアジア諸国の独立運動家たちは結果として「あぶりだし」を受けたことになる。これはアジア各国の独立の際に宗主国側にさらに有利な傀儡政権が置かれる事に寄与するのみとなった。
前号の記事をぜひ参照していただきたい。

まず植民地の独立を煽って運動家たちを狩り、変わって自らの息のかかった新指導者を送り込み傀儡政権を打ち立てるというこの戦略は英国が得意とするものである。近年ではアラブの春と銘打った中東クーデター症候群が世界を騒がせたが、手法と経過は違えどそのどれも基本構造は変わらない。

英国流外交戦略

現在もシリアとイラクでは戦闘が絶えない。ここでは当初から純粋な蜂起軍と国防軍の衝突とは次元の異なる、複数のテロ組織と海外正規軍が混戦する国際戦争が繰り広げられる。これを内戦と呼ぶのは元より正しくない。

アラビア半島からこの地域にかけてはアラビアのロレンスがラクダに跨り駆けずり回った砂漠地帯である。彼は実在した英国情報部員であり、この広大な砂漠に分散した諸々の部族の共同体意識に火を放ち、オスマン帝国に反旗を翻させるのが彼の任務であった。                                       
             ロレンス
                  ロレンス

現在のシリア、イラク、レバノン、ヨルダン、パレスチナそしてイスラエルは第一次大戦後にオスマン帝国からもぎ取った土地を英仏が自らの都合で勝手に分割して誕生させた国々である。ロレンスは師とも呼べる女性ゲートルード・ベルとともに地域の情報をほじくり返し、アラブ独立を口実にした戦略地図を作成し数年後にそれは現実の国境として発効する。しかしそれは英国の利益のみを追求したものであるため地域の歴史とも信仰とも民族とも、この国境線、いや境界線は全く噛み合わない。それが今に続く混乱と流血の原因になったことは多くの識者が指摘するもののそれを「英国流二枚舌外交」と賞賛するばかりで批判の声はあがらない。あげられない。この中東線引き活動の仕上げがイスラエル建国であるからして、英国戦略批判はイスラエルの否定に繋がるからである。ロレンスとベルは英国では今も英雄・女傑とされている。
          ベル-ロレンス
                砂漠の詐欺師

「ほらふき」ロレンスは大英帝国の名の下にアラブの部族たちに独立国の建国を囁く。そしてオスマン帝国から任命されたメッカ宰相フセインに近寄り独立の援助とヒジャース王の座を約束する(情報部員でしかない彼にその権限はない)。フセインはアラブ人たちを束ねて反乱軍を組織しダマスカス(現シリア首都)を陥落、そこを首都とするヒジャース王国(アラビア半島紅海沿岸地帯)を打ち立て独立を宣言した。が、英仏は申し合わせた上で独立を拒否した。怒り心頭のフセインはアラビア半島をヒジャース王国として維持、子のファイサルが残りの地域を以って大シリア王国とし王位を宣言、またファイサルの弟アブドゥッラーが今のイラクとなる地域でイラク王国を宣言する。しかし仏軍のダマスカス攻撃によりファイサルはシリアを追われ、後にイギリスの取り成しでイラク王となる。イラクから押し出されたアブドゥッラーは今のヨルダンを与えられる。
          フセイン
             ヒジャース王フセイン     
                           
傀儡王 
   次期ヒジャース王アリ  ヨルダン王アブドゥッラー  イラク王ファイサル

独立遊戯はまだ終わらない。英国はオスマン帝国の終焉と共に主を失った「カリフ=神の代理人」の座を指差し、父フセインを誘惑した。イスラム世界のその頂点に立つことを打診されたフセインは両手をあげて承諾、王位を長男アリーに譲りカリフを宣言する。するとアラビア半島は蜂の巣をつついたかの如く反乱の嵐となった。そしてフセインはまもなく敗走、替わって王位についたのは現サウジアラビア初代国王、そして現国王の父であるサウード家のアブドゥルアジズである。サウジ王室の米へのいじらしいまでの献身は今も続いている。
          abdulaziz
           初代サウジアラビア国王アブドゥルアジズ

19世紀半ばにはオスマン帝国から自治権を得ての半独立を果たしていたエジプトが完全なる独立を模索する中、アフリカ進出を目論む英仏の利益がそれに重なりエジプトと列強の関係が強まった。まず仏の援助でスエズ運河が建設される。そしてエジプトは資金難とかさむ外債から運河株の売却を決めると、英はロスチャイルド家から融資を得てその買収に成功、それによりエジプトは更なる経済難に陥り完全に英仏の管理下に置かれた。これは偶然でも必然でもない英仏の計画であった。

現在イスラエルと呼ばれる地は一神教の共通の聖地であるエルサレムを内包するため、昔からイスラム教徒とキリスト教徒とユダヤ教徒が着かず離れずに共存していた。その均衡を突き崩し戦火の火種として利用することはユダヤ武器商人たちの目論むところであり、母国を建国する足がかりとしてこの地を手に入れるのも「亡国の民」を称するシオニストたちの望むところであり、第一次世界大戦の運営に必要な資金をユダヤ資本家から搾り取るのも英国の得意とするところであった。英国はロスチャイルド家による莫大な資金援助の見返りとしてパレスチナの地にユダヤ人の国の建国を約束する。その後はパレスチナへのユダヤ人入植が相次ぎイスラム教徒との間の緊張が急激に高まって行く。
palestina
            増長するイスラエルと狭まりゆくパレスチナの地

ファイサルが追われたシリアは仏が植民地として直接支配した。仏はこの地に古くから住むマロン派キリスト教徒たちを保護するという口実で地中海に面した地域をレバノンとして分離独立させた。しかしユダヤ人入植とともに土地を失ったパレスチナ人が難民として流入するとまたしてもここで異教徒間対立が生まれ、常に一触即発の状態が今も続き、複雑な民族構成と機能しない政府を背景にレバノンはテロリスト牧場の様相を呈している。

こうしてひとつづつ、手ずから地雷を埋めるが如き周到さを以って禍いの種を撒くのであった。

米国流テロ戦略

第二次大戦を待たずに社会共産主義が産声をあげた。それは破竹の勢いで成長しロシア帝国を飲み込むと共産の城砦としてソビエト連邦が築かれた。植民地支配に苦しむ中東および北アフリカのイスラム諸国は英仏そして伊に対抗するための解決策としてソ連との接近を試む。地中海、そして太平洋への回廊が欲しいソ連にとってもこれらの国に対し影響力を持つことにやぶさかでない。独立運動家たちがソ連に招かれ軍事訓練とイデオロギー教育を受けると、第二次大戦後には中東・北アフリカ地域では次々と革命が起きいずれも社会主義的思想を掲げる軍事政権が発足する。畢竟、宗教を麻薬とするマルクスの考えはイスラームと相容れず不協和音を呼んだ。ソ連に従順な各国の軍事政権がイスラームからの離脱を推進したため国家の高官や公務員は世俗主義層に斡旋されることになり、信仰に重きを置いた層はその流れに完全に取り残され貧困と弾圧に苦しめられた。この構造が将来にもたらしたの、それがいわゆる「イスラム過激派」である。こうした波にすかさず付け入ったのはかつての英国の舎弟、今は仇敵となりつつある米国であった。

社会主義化だけではない。欧米から支援を受けたキリスト教層が優遇されたレバノンでも、欧米依存型の王政が国家を占有したパーレヴィー王朝イランやイラク王国、イスラエルに蹂躙を受け続けるパレスチナでも同じ弾圧がおこった。要はイスラム教徒たちを窮地に立たせさえすればすぐさま欧米の利益になるという戦略方程式がこの頃までに成立した。

不公平な境遇に不満を募らせた若者に金と武器を与える。あらかじめ用意しておいた似非イスラム指導者が神の名の下にあらゆる破壊を聖戦と見なす「手製の教義」をふりかざし殉教を呼びかける。そうすれば一夜にしてテロ組織が成立する(ターリバーン、アルカイダ、ダーイシュ、ヒズボッラー他)。あるいは真に自衛のために立ち上がった組織をも内側から蝕み分裂、吸収のすえ過ちを犯させる(アルシャハブ、ヌスラ戦線他)。米国はこうした戦略研究に国家資金で取り組み、CIAやペンタゴンという国家組織をしてその実現を図る。この方策は自らの手を汚すことなく、正規軍を動かすよりもはるかに安価に、国際人道法に縛りを受けない残忍な手立てを用い、そしてイスラム教徒を血塗りの狂信者として発信しつつ他国を内側から破壊することができる。そして介入、さらに侵攻。アフガニスタン、ソマリア、シリア、レバノン、イラク、イエメンその他、無政府状態あるいは傀儡政権を維持しつつ次の戦略のための足がかりとして管理されている。

シリアのハフィーズ・アサド前大統領(現大統領の父親)は完全な「ソ連製」シリア軍人であった。冷戦時代は反欧米、反イスラエルの立場を明確に打ち出しソ連に貢献することでその保護を受けた。世俗化政策を急進し国内では絶対多数勢力であるスンニ派ムスリムを徹底的に迫害し化学兵器による大虐殺をも行った独裁者である(1982年ハマの大虐殺、死者4万人)。逆に自らの宗派であるシーア・アラウィー派ムスリムを国家のあらゆる場で優遇した(アラウィー派は一部を除けば信仰心の薄い集団である)。それを世襲した息子の>べシャル・アサドは英国帰国子女の妻を娶るなど親西欧的な印象を与えようとはしたものの父親同様のロシアの飼い犬で、自国民への弾圧と強権ぶりは父親以上であった。
     アサド父子
                  アサド父子

もはや冷戦が虚構であったのは人々の知るところとなった。犬猿の仲と見せかけて裏では互いの権利を侵さぬよう取り決めが為されている。歴史的にみても米露は一度も戦っていない。今、米と露がシリアを取り合っているように見えるがそれもまやかしに過ぎず、最終的には「山分け」またはそれに相応する取引が為される。

現アサド政権はアラブの春では倒れなかった。アサド背後に立つ露とイランがアサドを倒そうとする民兵(自由シリア軍)を相手に援護射撃をおこない、それに米軍とNATO軍が応戦したため事態は泥沼化した。もちろんシリアを混迷させることで新しい機軸を構築するための米と露の茶番である。隣のイラクから泥沼を泳いでやってきたISIS(ダーイシュ)が突然シリアとイラクの真ん中に建国を宣言した。ISISはもとより米英によるイラク侵攻(2003~2011)に抵抗するためにイラク・アルカイダとして成立したアルカイダ傘下の組織であった。主に欧米資本の油田の占拠や関連施設の破壊に携わり、その後周辺の小規模なスンニ派テロ組織群を吸収してシーア派ムスリムの生活圏や宗教施設を中心に破壊活動を続け2006年に「イラク・イスラム国=ISI」の建国を宣言、それがシリアに拡大して「イラク・シリア・イスラム国=ISIS」となった。

ただのゴロツキ集団が国際テロ集団にまで成長するのには武器と資金と訓練の援助が不可欠であり、それ以上前にテロ組織に加わるだけの貧しい、無学の、不幸な、そして怒りと恨みを募らせた若者たちがあふれるような土壌が用意さがれていなければならない。またその存在を世界に知らしめる必要がある。欧米がサウジの御用メディアであるアル・ジャジーラを用いてISISを世界に露出し、日本人を犠牲にしてまでその残虐さを宣伝した。全てのテロは大国の産物である。
ISIS或いはその前身に敢えてシーア派を攻撃「させた」ことでイラン(とロシア)の敵役を演じさせた。となればスンニ派を標的に活動するシーア派テロ組織ハシディ・シャービ(民衆の力)が「自然」に発生したのも、イラン最高指導者のハメネイ師が彼らに公然と軍事訓練を含む大支援を行なったのもまた「自然」であるが、彼らの手にあるのは何故か(やっぱり)米軍が支給した武器である。

ISISの存在は同時に「新たな役者」を登場させることが可能になった。その役者とはクルド人たちである。

クルド・テロ回廊

クルドの民族性なるものは我々日本人からするとかなり理解しにくい筈だ。物質よりも精神の結びつきを重んじる、痩せてはいるが強靭な体をもつ働き者で、冗談が好きな概して「いい人」たちである。しかし怒らせると手がつけられない。恨みあう同士が急に仲良くなることもその逆もある(忘れっぽい)。民主主義などには全く興味も期待も持たず「アー(首長、族長)」の一言が全てを左右するという古風な共同体意識を持つ。狡猾な欧米人たちから見れば彼らの利用価値は非常に高い。欧米は70年代からシリア・イラク・トルコ国境付近に点在するクルド民族の耳に「クルディスタン建国」を囁き、アーたちの統率する小集団を束ねた武装組織PKKを結成させ、トルコ国内のクルド民族をも扇動してトルコをテロの脅威にさらし続けた。

90年代の終盤、シリアのアサド(父)政権がトルコ戦略のために保護していたPKKは両国の緊張を和らげるために一時解散させられ、直後にクルド人政党PYDとその配下の武装勢力YPGとして再編する。つまりYPGとはPKKそのものである。地域から誘拐した少年少女を兵士に仕立て盾に使うPKK同様の卑劣な戦法を使う。思想的には社会共産主義を打ち立てておりイスラム色は希薄である(イスラム以前の宗教であるゾロアスター教の影響が強い)。2013年以降ISISが地域で台頭するとその排除を名目に米がYPGに武器を供給し破壊活動を拡大する。
米軍が蹴散らせないテロ組織を他のテロ組織に退治させる、そんなでたらめが通じるとでも思っているのだろうか、しかし米政府はYPGを対ISIS戦略に貢献する「よいテロリスト」と認定し援助しており各国政府もメディアも腑抜けのように同調している。
米軍からYPGに支給された武器弾薬(トラック3500台分、トラックあたりYPG三人)はPKKに行き渡りトルコ国内での破壊活動に使用される。YPGの持つ本当の意味はPKKと同様に、トルコの東部国境地帯にクルド系「テロ回廊」を築いてトルコ以東中国まで繋がる経済圏から絶縁することにある。鳴り物入りで登場し世界を恐怖させたISISとはYPGの存在意義を長期にわたり保証するために敢えて作られた組織であった。
    YPG-ISIS
         黄色の地帯がYPG/PKKによる「テロの回廊」

そんなことをされては堪らないのがトルコである。アタテュルク改革以降80年、世俗化政策を徹底し欧米に貢いできたこの国はその舵を大きく変えていた。属国的な立場からの脱却を標榜し改革を続けるトルコに対し欧米はそれを阻まんとするテロ、経済封鎖、外交圧力、クーデター、虚偽報道などあらゆる攻撃を仕掛けており、それはこの先も続く。それに堪えるためには国内産業と資源供給の安定が必須であるため国境のすぐ外側がテロの温床という現状は何が何でも打開せねばならない。

イラク受難 「一人のサダムを殺したら100人のサダムがやってきた」

米によってサダム・フセインが血祭りにあげられたあとのイラクは無政府状態に近く、米英が打ち立てた形ばかりの傀儡政府は北イラクを制御できずクルド・イラク自治政府を認めざるを得なかった。またイラク中央部はシリア国境をはさんでISISが居座り続け首都バグダードに漸近し、イラク政府の勢力範囲は残りの南部のみとなる。北イラクはトルコと国境を接しておりトルコ国民と親戚関係にあるクルド人たちも多く住む。またオスマン帝国時代の臣民であったトルクメン人もこの地域で生活し続けているため地域の経済安定と治安維持を促す責任がトルコにあった。長期的なテロ土壌の解消に向けて北イラクに多額の援助を行いインフラを整備、民兵ペシュメルガにも協力をするなど、クルド人地帯を味方につけPKKから遠ざける努力を続けた。しかしクルド・イラク自治政府バルザーニ議長は米にクルディスタン建国を焚き付けられて舞い上がり、独立の是非を問う市民投票を決行する。

北イラク独立の選挙運動の風景、そこに意外な旗印があった。最近妙におとなしい、あたかもパレスチナに理不尽を働くほかは興味がないかのように振舞う狂犬。クルド独立を叫び、民族結集を喚くバルザーニの集会にはユーフラテス河、ナイル川、そしてダビデの六芒星を模したあの布切れがひるがえる。イスラエルである。
    ISRAEL
              イスラエルの威を借るクルド人

大イスラエル

産業基盤を持たない集団が民族という括りだけで独立する可能性はない。あったとしても吸血鬼のような大国に吸い尽くされるのが関の山、しかしクルド市民の答えは「独立」支持であった。絶頂のバルザーニをよそにイラク政府は国防軍に加えてシーア派テロ組織ハシディ・シャービ(イラン過激派でありながらイラク国防軍に編入)を北イラクに投入、クルド兵ペシュメルガは戦わずして逃走、独立遊戯に弄ばれたバルザーニは議長を退任した。北イラクのクルド人たちはリーダーを失った。しかし油をそそがれ燃え上がった独立の炎はもう鎮められない。クルド人の闘争への渇望に付け入ったYPG(PKK)がシリアから勢力を拡大し北イラクを掌握、現在トルコで投獄されているPKKの首領の大看板を担ぎ出しクルディスタン建国を鼓舞する。このペンタゴンによる戦略は現在までにほぼ完了した。

世に言う、いわゆる大イスラエル構想である。米の一言でISISがユーフラテス河流域のこの地域はをYPG(PKK)に明け渡せば事実上クルド人の土地となる。しかしクルディスタンとは名ばかりで米国に支援および管理される。欧米が謀ったクーデターに屈し完全に手足を縛られたエジプトはナイル河より東をイスラエルに委ねた。建国以来の無抵抗主義国ヨルダンはイスラエルに従属する。その他の条件がそろったその時、この地域に「大イスラエル」を宣言する、そういう事だろう。

同じ手に騙され続ける人類

本稿は大イスラエル構想をご紹介するためのものではない。近現代に横たわる大問題、世界が「独立」という同じ罠に100年以上も陥り続けていることを再考するためのものである。
第一次大戦後に引かれた中東地域の国境は地形も歴史も民族もすべて無視されたものであると前述したが、正しくは後に禍根を残すために敢えて「最悪」の形で分割した、と言い換えることができる。例えばクルド民族をトルコ・シリア・イラク・イランの四カ国に意図的に分断したのは、まず独立を餌に武器を取らせて地域に脅威を与え、そこへ「調停」と言いながら土足で踏み込み地下の資源ともども「管理」するためであった。コーカサスも、アフリカも、バルカンもかつて大東亜共栄圏と呼ばれたアジアの地域も第二次大戦後に同じように分割されたのである。ここで前号で綴ったロヒンギャ虐殺を思い出していただきたい。

第二次大戦前までは現在のパキスタン・インド・バングラディシュ・ミャンマーは英国領であった。ムスリムとヒンドゥー教徒と仏教徒が混在する地帯であったが英国はその独立を認める際、少数派が必ず多数派の中に残るよう工作を怠らなかった。イスラームが優勢なカシミール地方がイスラム国パキスタンではなく敢えてヒンドゥー国インドに帰属させられたことで印パは三度も戦争をおこしており現在もにらみ合いが続いている。
そしてミャンマー、かつてビルマと呼ばれた仏教国に取り残されたムスリムたち(ロヒンギャ族)は戦前から今日まで恐ろしい迫害を受け続ける。彼らの土地アラカン州をバングラディシュの国境内に敢えて含めなかったのは英国である。第二次大戦を連合軍側について戦った国には独立を認めると約束しておきながら、英国のために戦ったロヒンギャ族を独立はおろか異教徒のビルマの国境の中に封じ込め、仏僧たちに武器を与えて殺させた。畜生なり。

懸念ざれるのはロヒンギャのテロ化である。自衛組織ARSA(アラカン・ロヒンギャ解放軍)が今後、アルカイダなどのテロ屋の手に堕ちると事態は最悪となる。ミャンマー政府は仏教徒による虐殺を治安維持行為と偽り問題の所在をロヒンギャ側にすり替える声明を出し続けており、どうも中東問題と同じ匂いがしてならない。かねてから待機させていたロヒンギャ問題を今になって激化させ、そこへテロの菌をばら撒いてアジア戦略の材料とする可能性はあまりにも高い。ただしロヒンギャの民は欧米の目算よりはるかに強く、気高い。
すでにインドネシアとフィリピンにはアルカイダの手が伸びている。フィリピンのカトリック教徒の保護を口実に欧米が派兵するとすればスペインである。昨今のカタルーニャ独立騒ぎで投資家撤退の酷い目にあっているあのスペインである。カタルーニャ州首相のプッチダモンは国家攪乱という任務を果たしてベルギーに逃亡、それもそのはず、ブリュッセルはシオニストたちの溜り場である。今後スペインはこの手の攻撃を恐れるあまり米主導の対アジア戦略に噛ませ犬として担ぎ出されるかもしれない。

中国包囲網建設を目的としたこのアジア戦略に日本は当然巻き込まれている。日本が虐待をうけてテロに手を染めることはなさそうだが逆に虐待を与える側に堕ちぶれかねない。国民が現政権の続投を願うなら、それも仕方なかろう。
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ロヒンギャ大虐殺 ミャンマー独立の爪痕


今世紀、人類はここまで堕ちた

いまミャンマーの西海岸地域でおこる大虐殺を、例の如く国際情勢の圏外に位置する日本列島では知る由も無いかもしれない。しかしどうか直視していただきたい。なぜならこの虐殺の一端を担ってしまった我が国の一員にはその義務がある。ミャンマーのアラカン州に古くから居住するイスラム教民族・ロヒンギャ族に対し民族浄化とも呼べる残虐行為が日々行われており、世界市民がその実態を知ることをメディアは必死に妨げている。掠奪、強姦、機関銃掃射、怪我人の横たわる家屋に火を放ち、墓地を陵辱し、今日までに3千人を超える罪無き人々が命を奪われ、40万人を超える罪なき人々が家と家族を焼かれ片目両腕を無くして難民となった。雨季にさしかかった今月末、彼らは隣接するバングラディシュとの国境であるネフ河を自力で渡る。増水した河は彼らの僅かな食糧を飲み込む。そして幼児の溺死、悪条件に耐え切れず息を引き取る妊婦や怪我人。神よ、どうか彼らを助け、安住の地を与え給え。
     アラカン

この虐殺の実行犯はミャンマー国防軍治安部隊、そしてアラカン仏教徒(Rakhine-Magh)の僧侶からなる武装集団である。

注:報道等で「ラカイン(RAKHINE)」と表現されるのは「アラカン(ARAKAN)」の現地の発音を英語で表記されたものであり、両者は同一の地名である。

近代以前

ミャンマー。かつてビルマと呼ばれていたこの国を、「ビルマの竪琴」の影響か純然たる仏教国とする思い込みも薄くは無いはずだ。しかしミャンマー北西部に位置し地図の上でラカイン=アラカンと書かれるこの地にはイスラム教徒がその以前から国を築き営んでいた。
アラブ人商人に連れられた最初のムスリム集団が10世紀までにこの地に定住した。彼らは自らを称した名称こそがロヒンギャであった。同じ頃に仏教徒のチベット系ビルマ人も東インドのMAGHADA地方からこの地に移住する。彼ら仏教徒はマグと自称し、先住民、またロヒンギャ族とともにこの地の構成員となる。アラカンは1407年ビルマ王の侵略を受ける。アラカン王は一族と共にムガール帝国の属州であったベンガルに逃れ20数年に亘りベンガル太守の庇護を受けるうちイスラームに帰依した。1430年、ベンガル太守の助けによりアラカンのビルマ勢力は駆逐されそこにアラカン-イスラム王国を建国、1784年にビルマ王国からふたたび侵略を受けるまでの350年にわたりこの地域を統治した。ビルマ占領下の1824年、英国とビルマが開戦しその結果アラカンは英国植民地の一部となる。イスラム圏、仏教圏を無視(或いは綿密に計算)した国境線が英国によって引かれビルマという国が成立したのは近代以降である。

パイプラインとアラカン
現在アラカンはミャンマーを区分する七つの州のひとつで、ここにはおよそ百万人のイスラム教徒が居住している。いや、していた。治安部隊とマグ族仏教徒によるムスリムへの迫害は2013年から激化が始まり、とくに今年2017年の8月以降は地獄と化した。
迫害政策の直接の原因はアラカンの戦略的立地条件である。
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アラカンは東南アジアのベンガル湾に面する南北500kmに渡る海岸線を持つ。中東に端を発しインド洋を渡り中国の雲南省に至る天然ガスと石油の二本のパイプラインがこのアラカン州を横切る形で2010年にその建設が始まった。すると同州は国防軍の管理下に置かれ軍用地同然の警備体制が布かれた。これはアラカンの住民が国防軍によって全ての権利を剥奪されたことを意味する。
         pipeline


パイプライン建設の警備とはいえ異常なまでの厳戒体制が取れられた背景として、アラカンのムスリムたちの土地には豊かな資源が埋蔵されていることが以前から囁かれており、そして2004年の調査の結果160兆㎥超の天然ガスと32億バレル相当の石油、金額にして七百五十億ドル相当の地下資源が存在すると判明したことが挙げられる。警備区域の侵犯を口実に地域住民であるムスリムたちが見せしめの如く頻繁に射殺されていった。つまり地域占領の本当の目的は埋蔵された地下資源の利権である。目的はどうあれ国防軍治安部隊とマグ族仏教徒によるその手口は婦女暴行や放火、子の目の前で親を射殺するという目も当てられない残忍さであり、しかもこれはここ数年の事件ではなく1941年から繰り返されていたことを我々は知りえなかった。

ミャンマー アラカン州埋蔵地下資源調査結果および試算(PDF)

ビルマ対英独立運動の爪痕

仏教の僧侶が武器を手に狼藉を働くのは実に想像しにくい。しかし室町の頃の日本でも僧兵というテロ組織が活動していたこと思い出しつつ、暴力を教義の上で禁じられた仏教の僧とて一つ間違えれば暴徒と化すことを認めなければならない。
ロヒンギャ族とマグ族は互いに信仰が異なうがそれだけでは一方が他方の民族浄化を標榜した殺戮の理由にはならない。しかしそこに第三の力が介入すればその関係をどのようにでも操作できる。両者の関係が悪化したきっかけは1930年初頭にはじまったビルマ対英独立である。独立運動の旗手であったタキン党がアラカン地域のマグ族と接触し多くの党員を確保したあたりから様相は一変し、そして最初の虐殺は1941年日本軍のビルマ侵攻の直後に行われた。それ以前の虐殺はロヒンギャ側の記録にも記憶にも残っていない。


19世紀末、英国との戦争に敗北したビルマはイギリス領インドに編入されインド総督下の副総督による統治がはじまった。人を人と思わぬその専横ぶりに統治民たちの不満が募る中、20世紀前半にはじまる対英独立運動は次第にその勢力を拡大、1930年にアウンサン・スー・チーの父であるアウンサンが学生を中心とするタキン党に参加し更なる運動が広まる。そしてとうとう総督府の撤退が決定、1937年にアラカンはビルマと共に植民地から自治区へと移行する。しかし、ビルマのその後の統治について協議がなされたロンドン円卓会議にはマグ族仏教徒の代表とビルマ全土に分散したインド系ムスリムが招待されたのに対しアラカンのムスリムはひとりとて招かれなかった。そしてその際、ラカイン州の自治をマグ族仏教徒に託すという無体な採択が取られた。現地民の信仰の違いを撤退後も地域を背後から操作するための起爆剤として利用するというおなじみ英国流の政治手法である。タキン党はアラカン地域の勢力を掌握するためにかつてからマグ族仏教徒と手を結んでいたのである。もちろん英国の入れ知恵である。こうしてアラカン自治政府の構成員は反ムスリムのマグ族タキン党員で満たされる。日中戦争のさなか水平線に第二次世界大戦が白み始めた頃である。日本軍は英米による中国支援の道を阻むためにビルマ攻略を標榜、独立運動を支援して反英闘争への発展を画策、運動家たちを海外に脱出させ軍事訓練等の支援をおこなった。アウンサンもその運動家の一人であった。
                  アウンサン
                   日本潜伏中のアウンサン

1941年ヤンゴンが、翌年にアクヤブが日本軍の空爆を受けるとビルマに駐留していた英国軍は英国領インドに撤退した。その折にアラカン自治区の全権をタキン党マグ族に委託した英国駐留軍は武器弾薬をも置き去りにし、そのすべてがマグ族の手に渡ってしまう。そして1942年、英国製の兵器で武装した僧侶も含むマグ族自治団の手によりロヒンギャ族に対する大虐殺が行われた。10万人の死者、50万人の怪我人、294もの村が消滅、故郷を後にせざるを得ない8万人がバングラディシュに逃げ堕ちた。当時英国は統治国としての責任範囲の外にいた。また新たな占領国である日本も一切関知しなかった。しかしロヒンギャ族は激しい抵抗をみせて遂にアラカンを奪還、ふたたびこの地に生きる基盤を築いた。
         ナフ河
            ナフ河を越えてバングラディシュに逃れるロヒンギャ族

1943年日本の後見でビルマ国が建国される。しかし翌年には日本の敗色がいよいよ濃厚になるとアウンサンを指揮官とする国民軍、タキン党を前身とする共産党などが連携して英国に寝返り、日本の指揮下にあるビルマ政府に対しクーデターを起こす。連合軍はそれに乗じて侵攻してビルマを日本から奪回し再度植民地とし、そのまま終戦を迎えた。英国は大戦で連合軍側についた植民地に独立を約束していたが、日本と協調したビルマに対しては様々な条件を出して独立を先送りにした。アウンサンはその間、やがては実現する独立の後に自らが率いるAFPFL(反ファシスト人民自由連盟)による一党支配の実現のための準備に奔走、ビルマ人以外の各地の少数民族に団結を説いて回った。姑息なアウンサンとの協調には何の希望も持てないロヒンギャはAFPFLへの加入を拒否する。大戦の折にロヒンギャ族は連合軍側に立ち英兵と行動を共にしていたのである。いうなれば戦後の独立を約束された立場にあった。それを英国側に主張しあくまで自治権を求めた。

そして1947年ビルマの将来を構想するための国民会議がアウンサン主催で開かれるが、ロヒンギャはまたしても意図的に招待されず、自治権はおろかビルマ人とは歴史を異にする民族としての認定すら得られなかった。
英国と日本の両方を利用し、また利用されたアウンサンらの処刑を経て1948年ビルマ全土の独立が実現、アラカンを内包する現在の国境線が引かれる。

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            現在のマグ族仏教徒武装集団の頭目Ashin Wirathu

血染めの衣を着る僧侶

英国の撤退を機にアラカンの警察権はふたたびマグ族仏教徒の手に渡り、当然の如くロヒンギャ・ムスリムへの殺戮が始まった。数で評価するべきことではないが1万人が命を奪われ、そして5万人がこの時点までに独立を果たしていたパキスタンへと亡命した。残ったロヒンギャたちは再び武装し仏教勢力と対峙、そして押し戻した。もとより大義名分の欠如したマグ族とそれを影で援助する政権にとってこれ以上の衝突は害があっても益が無いとの決断から、政権はロヒンギャに対してマグ族との和解と国政への加入を持ちかけた。ロヒンギャとしてもこれ以上の流血は回避せねばならない、しかしひとかけらも信頼をおけぬ連中との協力はそれこそ身を滅ぼしかねないと葛藤するうち共同体内の意見に一致が見られぬようになりそのまま弱体化していった。一方で政権はマグ族に対し民族間対立の「凍結」を指示、この不気味な静けさの中、次なる受難が近づいていた。
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                    焼失した村

1962年、軍部によりクーデターが決行される。軍が国の全権を掌握するや否や、アラカンのムスリムを反政府分子とする虚言を盾に彼らの権利の縮小が決行される。また軍から派遣された治安部隊による謂れのない暴力や恐喝、投獄は日を追って増し、それに勇気付けられたマグ族仏教徒は昔を懐かしむが如くロヒンギャたちに危害を加えるようになった。

数年おきに大量のロヒンギャ難民がおしよせるバングラディシュも事態を苦慮していた。ビルマ軍事政権は国境付近に避難したロヒンギャ難民をバングラディッシュからの不法入国者と主張しビルマ国籍を否定、彼らを無国籍状態におとしめた。人としても同じムスリムとしても難民たちを見殺しにできないが彼らを抱えるだけの国力もないバングラディシュの指導者はビルマ軍事政権に対し、ロヒンギャ難民をアラカンに帰国させない限りはカダフィーがリビアから部隊を差し向けアラカンでゲリラ活動を開始すると脅し、青くなったビルマ政府は早急に難民を召還した。しかし帰国したおよそ二十万人の難民たちにビルマの国籍を認めることはなく国民外と認定、事実上の無国籍である。
今現在もしつこく継続されるロヒンギャへの虐待と虐殺が国際社会から追及されるたびビルマにはロヒンギャと呼ばれる民族など存在しないことを主張し、国境地帯で逃亡生活をする人々をあくまで不法入国者と言い切り、国連の調査団はと言えば「ああそうですか」とばかりにミャンマーの言うがままの調査報告書を作成し帰っていくのである。そこらの市役所以下の仕事ぶりである。
          buddist
        イスラムホビックのまねごとをする血気盛んな坊主ども

きりがない。つまりロヒンギャ・ムスリムたちは絶え間なく交代する国家権力者にそのつど政治的迫害を受け、千年前から同じ土地に住むマグ族仏教徒からは物理的迫害を受け続けているのである。しかしこれはあくまで表皮でしかない。その内側の構造を端的に言えばマグ族仏教徒とは胸中の憎悪を刺激されればいつでも噛み付くように洗脳された集団であり、英国総督府にはじまり今日のミャンマー政府に至るまでの歴代の政権はアラカンからロヒンギャを一掃することを自らに義務化した集団であり、もしこの歴代政権が全て大英帝国の傀儡であると仮定すれば(べつに断言してもかまわないのだが)長期にわたりアラカンのロヒンギャ・ムスリムを虐待したがっているのは大英帝国だということになる。

新たな資源戦争

実はビルマは1853年以来の世界の最も古い石油輸出国(英国植民地となった直後)である。そして2004年にアラカン州に石油が埋蔵されていることが判明すると中国はその購入を希望、マラッカ海峡を経由する従来の海路交通ではなく、アラカンからのパイプラインで直接輸入することを条件とした。2010年に開始されたパイプライン建設は2013年に完了、そして供給が始まった。アラカンの西海岸は資源運輸にとって少ない投資で高い利潤を得る上で絶好の条件を備えている。中東から海路で運ばれた資源をアジア全域に行き渡らせ、またミャンマーで採掘された資源を精製し輸出、海路・陸路、長い海岸線と穏やかな海、欧米の言いなりになる政府、これ以上の立地条件はそうはない。そうなると世界の石油業界はそこに群がる。これに投資する業者の面子はといえば、BP、BG、シェル、トータル、シェブロン、アラムコ(サウジ)・・・

またか、としか言いようがないのだが、アラカンの虐殺が世界のメディアから無視され続けていたのはこのためである。しかしそう括って諦めてはアラカンの人々の傷つく魂を癒すことはできない。それどころか更なる殺戮に対し目を背けることになる。人の子としてそれは許されないはずである。

一部の見解によればアラカンの無人化を率先しているのはサウジアラビアで、理由は資源輸出入の拠点にすることと同時に肥沃なこの地域を自国の食糧供給に寄与する形で再計画するためだという。なさそうな話でもないが、ウラン濃縮施設でもあるまいし農地計画に無人化の必要はないだろう、ましてや労働力が必要な農業にサウジ国民が出稼ぎに来るわけもなく、それでいて人払いとは何やら胡散臭い。今年(2017年)から急にロヒンギャ問題に世界の目が向けられるようになったのもアラブ人のアラカン進出が糞面白くない英国が無人化のための虐殺という罪の衣をサウジに着せるため虚偽混じりの情報公開を始めたとも考えられる。


意図的な誤報、またの名は虚偽

ロヒンギャ虐殺に関していま日本語で読める情報は非常に限られており、その元に間なる記事も海外の主だったニュースの英語版がせいぜいである。つまり日本列島に住む日本人はAPやロイターの書いた出任せのあらすじの日本語訳の書き損じのコピーを読まされている。ましてや○○大学の××教授による論評云々や某多極化説などは一体どうすればこんな嘘八百がかけるのだろうかと情けなくなるものが殆どである。こうして時を追うごとに情報は混乱し、事態は全く理解されないまま忘却されて行くのである。ロヒンギャ虐殺に関する幾つかの英語の報道に悪質な嘘が密かに記されていることをここに記しておきたい。 

NIKKEI ASIAN REVIW

ここには本稿で繰り返し殺戮者として表記したマグ族仏教徒(RAKHINE MAGH)をシーア派イスラム教徒にすり替えて記載されている。つまりロヒンギャ虐殺問題をスンニー・シーア対立の結果として扱おうとしているのである。卑怯を超えて姑息といえる。
この虚偽の目的は実は歴然としている。現在イスラム諸国の軍事力と経済力を少しでも削ぐことに血道を上げている欧米は、それをもっとも効率よく実現させるための戦略としてスンニーとシーアを衝突させることを常に目論んでいる。事あるごとに領宗派を刺激し、憎悪の念を呼び覚まし、過ちを犯すのを待つ。

国と呼べないミャンマー

本稿を通してビルマあるいはミャンマーという国をかなり批判した。しかしアウンサンの寝返りといい、軍事政権の意識の低さといい、まともな政治家を輩出できない国民といい、それ以前に民族浄化とも言える虐殺を平気で行うような国に国という称号などふさわしくないことは明らかである。今ロヒンギャ虐殺問題に為す術を持たないアウンサン・スー・チーには批判と同情の両方が寄せられている。中国と欧米に挟まれ動きが取れないのは理解できる。しかし立場が苦しいのはアジアのどの国も五十歩百歩であり、ましてやミャンマーには資源という強味を生かす機会がまだ残っている。私腹を肥やして保身に勤しむことをやめなければ政治などありえない。しかしこの国は軍事政権時代から資源輸出の利益の着服が横行し、スーチー氏自身も2016年新政府発足当初、国家顧問と兼任する形でエネルギー相を勤め僅か三月で謎のポスト返上をしている。彼女に贈られたノーベル平和賞は欧米の対中エネルギー政策の飛車角的存在である彼女への報酬でしかなく、明らかな虐待に目をつぶり外に対してはそれを否定すると言う態度は人々が平和なる言葉に抱く幻想を捨てて我にかえるための格好の材料である。今後も元首として国の矢面に立つのであれば討ち死に覚悟で戦うべきであり、できないならばさっさと退陣し回顧録でも書けばよい。


日本のすべきことは何か

日本人の耳に「戦争責任」と囁けば頭に血がのぼり右か左に転んでしまう。ドイツ人に「ホロコースト」と言ってみても同じことが起こる。
日本軍のビルマ侵攻の際、英国勢力の排除のために独立運動に加勢したことは戦略の上では効果があったが、多民族国家の抱える複雑な事情を考慮に入れず、まして自治権の発生と共におこった民族浄化政策を見てみぬふりで通したなどは人として許されることではなく、すでに地に落ちて血にまみれた大戦の大儀を美談で覆ったところで覆い尽くせる訳がない。右翼の皆様の口癖でもある「日本はアジアの独立に貢献」とは所詮この程度のものであり、独立国としての資質のない地域を無理やり独立させていまだに父親顔をしているに過ぎない。父親であれば幼い我が子に刃物を預けはしないだろう。
               切手

今の日本政府がロヒンギャ問題に言及しないのは国民が知らないであろうこの疾しい過去を今さら知られたくないからである。さらに言えばロヒンギャと同じ運命を辿り戦後六十年を経た今も苦しみ続ける民族がほかにいくつも存在するはずである。それを報告書にまとめて政府の横っ面を叩き外交の舵を引っ張ることこそ左翼の皆様の仕事であるはずなのに護憲だの反戦だのとわめき散らすばかりで何の役にも立っていない。職務怠慢である。
日本人はまず事実を知ることからはじめなければならない。知れば良心が見ぬふりを許さないはずである。見れば何をすべきかはおのずと導き出されるはずである。このままでは原爆投下や東京大空襲を知らぬ存ぜぬで通されても返す言葉がない。

本稿は掲載を急いだため無感情に事実関係のみを記すに限った。シリア、パレスチナ、イラクなどの諸地域を含めての考察は次号に続けたい。

ギュレン教団クーデターから一年 ― トルコをめぐる思惑

7月15日、あれから一年。
何事も無かったような日々をおくる中、時おり頭をよぎるのは、神と悪魔の間で揺れ動く弱き人のありさま、そしてこの世の行く末である。

チュニジアに端を発する「アラブの春」が中東を席巻したのが2011年、民主化を要望する民衆運動が蜂起へと発展、退陣を余儀なくされた指導者は亡命か投獄か、処刑という運命をたどった。この一連の動きが欧米の計画および主導による中東国家刷新事業であったことは今さらここに記す必要は無い。そして春が過ぎた中東には今、内戦に喘ぐイエメン、無政府状態となりテロの温床となったリビア、米国直属の軍事政権に独裁されるエジプト、そして屍と塵芥の山と化したシリアがある。
 
トルコにアラブの春が飛び火したのは2013年夏のことだった。
日本では「ゲジ公園プロテスト」と銘打たれ、あたかも民主化を求める市民運動と報道されていたが過度の歪曲があった。当初はイスタンブールの市役所による公園内の樹木伐採を糾弾す集会であった。しかし国内の反政府主義者と野党政党が国中に連動を呼びかけ、政府に反感を抱く若者が合流し各地で同日集会を催し、またそれに共感する一部国民の支持支援を得ての破壊活動――商店やバスに投石し放火、警察に火炎瓶を投げ、モスクに立てこもり飲酒――運動と呼ぶに及ばぬただの乱暴狼藉が行われた。政府にしてみれば相手は頭の悪い学生か幼稚な大人を大多数にもつ一般人であるため武装集団を一掃するようには行動できず、警察の失態も手伝ってその鎮圧に二ヶ月を要した。

これも欧米勢力の入れ知恵とお膳立てによる政府転覆計画であったのは言うまでもない。ゲジ公園で最初の集会が開かれる二日前からかなりの量の外国人記者がトルコに入国しゲジ公園の画像を捉えられるホテルに陣取り、また中継車や機材を借りあさっていた。彼らは未だ起きぬ春の風を周知しており、政権を退陣に追い込んだ後の担保となるよう事実を歪めて世界に知らしめるべく待ち構えていたのである。

この間に海外メディアのみならずニセの写真、ヤラセの動画、ありもしない窮状を訴える市民の声がソーシャルメディアを介して世界中に配信され、トルコが独裁者の弾圧に苛まれる非民主的国家であるという印象焼き付けた。こうして「ゲジ公園―」の目的の半分は達成されるのだが、残りの半分つまり政府を窮地に立たせて失脚させるには至らなかった。「政府への反感」そのものの底が浅いので持久力がないこと、夏休みが終わる頃には学生どもが集会場をさっさと引き上げたこと、なにより、この国には政府に反感を持つ市民も多いが政府を支持する国民がそれ以上に存在することが理由に挙げられる。

しかし去年のクーデターは生ぬるい抗議行動などでは無かった。7月15日深夜、決起した将校たちが軍本部と警察本部を占拠、軍最高指揮官を拘束、同時に国内各地の軍基地の機能が停止した。大都市では戦車隊が出動して市民を制圧、戦闘機が議会ビルを空爆、国営放送局に軍隊が押し入り、局員に銃を突きつけてクーデター成功の宣言を放送させた。、休暇で首都を離れていた大統領のもとにトルコ軍精鋭の特殊工作員が軍用ヘリで差し向けられた。もちろん大統領抹殺がその目的であった。

「ゲジ公園―」を支持した類の人々は両手を上げて喜んだ。事態の重大性が理解できないというか、とにかくお目出度い連中である。年端もいかない子供たちがクーデターを祝うメッセージを共有していたが、このあたりは親か学校教師からの影響であろう。 欧米勢力の思惑を、中東の惨状を知らないわけが無いこの人々はいったい何と何を秤にかけてクーデター支持という結論を導き出すのだろうか、つまりは思い描いたとおりに人生が運ばない人々がその落とし前を政府に求めているに過ぎないのである。この連中をよそに一部の民放は画面からクーデターの阻止を必死に訴え続けた。占拠された軍事警察拠点、市役所、放送局その他を反乱軍から奪取し、空港や病院、サテライト基地などを死守すべしと国民を鼓舞した。多くの国民がこれに呼応する如く国旗を手に市街に溢れ出た。

クーデターの詳細を知らされた大統領は数分後に滞在地をヘリで脱出、飛行機に乗り換えイスタンブールへと向かう。その後もぬけの殻になった部屋は一斉掃射と手榴弾を食らった。大統領が機内から生の画像でテレビに登場すると市街の国民は激しく勇気付けられた。その間、飛行機にF16が接近、しかし燃料が尽きて更なる追跡は断念された。無事に到着し空港で待ち構えていた民衆との邂逅が放送されると反乱軍は意気消沈、将校は部下の士気を高めるためにさらに激しい空爆を指揮し一般市民を襲った。
                      
    15 Temmuz 3
                2016年7月15日深夜


市民は走る戦車によじ登った。横たわって道を阻んだ。その排気口に靴下やシャツを詰め込んでエンジンを止めた。銃を構える兵士に立ち向かい、欧米に国を売るな、親を泣かすな、非国民として生きるな、後に背徳者として死ぬな、神を畏れろ、と説き続けた。殴られても撃たれても後に引かなかった。

実行犯は一部将校とその命令を遂行した兵士である。しかしその後ろには判事、検事、弁護士、官僚、警官、軍人、教師、大学職員と、思いつく限りの「公務員」、しかも高給取りと言える人種が共謀していた。何故このようなことになったのか。

クーデター加担者の共通項、それはある宗教団体―「ギュレン教団」の名で日本を含む世界各国で活動するイスラム系新興宗教に入信していたことだ。

端的に言えばこの教団は信仰という仮面を被ったテロ組織である。
世俗国家であるトルコといえどイスラームは未だに不可侵の領域といえる。宗教活動は神聖であり信頼の鍵でもある。40年ほど前から政財界や司法界を筆頭に国内外のトルコ人社会でギュレン教団の信者たちの地位が築かれ始めた。その便宜に預かった信者たちは国家公務員となって昇進を果たすか、或いは事業主として政府から多額の援助を受け成功を収めることになる。
そこで信者は教団に喜捨、つまり善意の寄付を行うことになる。たとえば普通の公務員であれば給与の三分の一を、警視や軍将校、判事などの高級職であれば三分の二を教団に寄付する。つまり公務員給与と民間への補助金として計上された国家予算がずるずると教団に吸い取られていたのである。いうなれば国庫の裏に穴を開けて教団の金庫として利用していた。
教団は私立校・大学、学生寮、進学塾をつくり教育支援を行うが、そこでは学生たちに教祖フェトフッラー・ギュレンを慕い敬うよう強制、いや洗脳が行われた。特に警察学校、軍隊付属校ではまだ考える力の無い子供を有事の即戦力となる人材として育成していた。大学入試、公務員試験、役人や軍人の昇進試験の問題を作成する公機関の中に存在した教団関係者は試験問題を盗み信者たちに配布した。彼らは国家のあらゆる部門に食い込み着々と昇進を果たした。

この構造の露呈がなぜこうも遅れたか、
まず盗撮、盗聴、脅迫という手段で信者たちが固く拘束されていたために暴露の可能性が小さかったことがあげられる。次には過去のトルコは政権の交代が激しく、そのたびに管理体制が解体されてしまうため実情があやふやであったこと、さらに教団の影響はマスコミにも及び、世論に上る教団批判が常に掻き消されてその賛美のみがされていたこと、イスラームを嫌う海外世論もこの教団の活動にはかなり好意的に対応していたこともある。

なにより出世ほど甘いものは無かった。特に軍隊と警察では教団に属さなければ出世の見込みは薄かった。場合によっては飲酒も賭博も不倫も許されるというイスラム教には断じて有り得ない宗旨も魅力だったのだろう、脅迫を受けるまでもなく教団に背を向ける者はいなかった。

教団の首領であるフェトフッラー・ギュレンは心臓手術を口実に1999年アメリカへ渡りペンシルバニアに拠点を移している。以降はアメリカの手厚い庇護の下に活動を展開する。

            フェトフッラー・ギュレン
                 フェトフッラー・ギュレン

レジェップ・タアイプ・エルドアンが首相に就任したのが2003年、国内外、特に発展途上国へのイスラム教育支援を惜しまぬこの教団と政府との関係は良好だった。政府の保護下(学校その他法人の許認可、補助金の交付)でますます勢いを増した教団だったが、水面下で進められていた計画――国家簒奪計画が察知されるのは時間の問題だった。

エルドアン首相(当時)はその長い政権の中でギュレン教団への対応を転換し教団の一掃を目指した。しかしその頃までには政府内部が教団にとことん蝕まれていたためにそれは困難を極めた。教団関係者を国家反逆罪で逮捕しても警察が証拠不十分として釈放するか、法廷に引き出しても判事と検事がつるんで無罪放免にし、教団に厳しい態度をとる司法官は次々と罷免されてしまう。さらに教団御用メディアが贈収賄、横領、テロ支援、イスラム原理主義化政策などををうそぶいてエルドアン政権を批判し世論を混乱させ、虚偽報道をしたとして規制にのりだせば表現の自由の侵害などと言い出す。海外メディアは喜んでこれを利用し反エルドアン報道を繰り返した。日本で一番喜んだのは田中S氏あたりか。

2012年、全ての進学塾を閉鎖する決定を下した政権に対し、国内各地の地下活動拠点である進学塾に鎖をかけられた教団は過剰に反応、牙を剥いて攻撃を始めた。政権に対する不当な批判で世論が混乱する中で迎えたのが「ゲジ公園プロテスト」である。これを鎮圧する際に失態を重ねて混乱を招いた警察長官(当時)がギュレン教団に属していたことはそれからだいぶ後に発覚した。

一介の新興宗教団体が国家簒奪を企て、あわや成功などという話があり得るのだろうか。たとえばオウム真理教は世間に衝撃と被害を与えはしたが国家が揺らぐことはなかった。結局、ギュレン教団は当初からテロ活動を目的に計画された組織であった。それもただの武装集団ではなく、国家の末端から中枢のあらゆる箇所に浸入し、繁殖し、尋常に振舞いながら発病の機を待つ癌細胞の如く、姦計を以って活動する陰謀集団である。痛みを感じて病に気づいたときにはすでに臓器は壊死し切除するほか術が無い。それで救われるならまだしも、脳にあたる部分―すなわち国家の中枢が冒されたのであればそれは国の脳死であり、外からの援助で首を挿げ替えることはすなわち国家の簒奪を意味する。目的はここにあった。

筋書きはこうである。
大統領を抹殺したクーデター勢力が全権掌握し暫定府政を宣言する。これに抵抗を見せる市民を反政府分子として投獄、クーデターに関与しなかった軍人と警官を離反者として逮捕、さらに国境のすぐ外で活動するPKK,YPG,PYD,IS(DAIS)等テロ集団が一気に国内になだれ込み各地で破壊活動をおこない、どさくさに大統領寄りの政治家や著名人を殺害(抹殺リストが実際に存在した)、暫定政府はこのテロリストたちを制圧してほしいと海外に援助を要請する。そこで軍事同盟国であるアメリカが大手を振って介入、テロリストどもが飼い主の命令でおとなしく引き上げると同時にアメリカの足の裏でも舐める新政府が誕生する。筋書きは、こうだった。

フェトフッラー・ギュレン自身は過去にシゾフレニアで精神病院送りになったことのある男である。自らを「救世主(終末に再降臨するイエス・キリスト)」であると宣言し、「大天使ガブリエルが政党を立ち上げてもそこに投票しない」とほざき、預言者ムハマンドの生涯に難癖をつけるなど宗教家である以前にイスラム教徒には絶対に有り得ない、支離滅裂ともいえる発言を繰り替えすいわば病人で、彼を利用しトルコ政府転覆の大役を与えたのもくどいようだがアメリカである。アメリカは「カリフ」の座をギュレンに報酬として約束した。カリフとはイスラームの庇護者であり神の代理人である。これだけならばカトリックの「法王」に近いがその大きな違いは、カリフ制では政治こそイスラム教義に則るべしという解釈から教分離主義をとらず、カリフたるものは宗教指導者にして政治指導者であり、その影響は国境を越えて全イスラム界に及ぶ。歴史上最後のカリフはオスマン帝国最後の皇帝であり第一次大戦後に帝国が崩壊して退位を余儀なくされた後はカリフの座は空のままだった。カリフ制再興を求める声は世界のムスリムの間に今も強い。

政教分離を否定するカリフ制などをアメリカが援護することはじつに理解に苦しむところではある。しかしここで「腐ったカリフ」をイスラム界全体に押し付けるとどうなるか、考えてみると実に興味深い。

教団結成からクーデターに至るまでの調査・研究・準備はCIAによる。
気違いではあるが一応は導師であり、ある種のカリスマ性を備えたギュレンを起用し教団を結成、そしてCIAは組織拡大のためのすべての指導を行った。学生洗脳、茶話会を介した一般信者獲得、盗聴や脅迫という手段、国家機関への浸入、こうした技術すべてを習得する一方、ギュレンはバチカンと接触していた。

     papa
                    ギュレン、ヨハネ・パウロ2世 1998

ヨハネ・パウロ二世の時代、ギュレンはバチカンを訪れある重要な会議(Pontifical Council for Interreleigious Dialogue-法王庁宗派間対話評議会1998)に名を連ねた。元来キリスト教の各宗派の代表が集まるこの会議にギュレンはあろうことか全イスラム教徒の代表として参加している。全イスラム教徒を代表する組織(たとえばオスマントルコ帝国)もその代表も存在しない今、新興宗教の一教祖でしかないこの男をまるでカリフのような肩書きでカトリックの総本山に招待していたのである。ギュレンの訪バチカンはイスラム諸国はおろかトルコの宗教省ですら報告を受けていなかった。つまりこれは甚だしい越権行為である。ギュレンが会議に携えた法王宛ての手紙には「伝道活動の一部を担いたい」とはっきり書かれている。その十数日後に法王は新しく20人の枢機卿を任命するがその中の二人の名前が公表されておらず、ここでギュレンはこの「秘密枢機卿-in pectore(=胸中)」の役を授かったとしてほぼ間違いない。つまりバチカンはイスラームのキリスト教傾倒を目論んでいた。イスラームの強靭さの根源である信仰そのものに矛盾を加えて内的崩壊に追いやることを意味する。十字軍がことごとく追い散らされた過去、コンスタンティノポリスを陥された過去、イスラム教徒に煮え湯を飲まされた過去への復讐である。

筋書きはこうである。
CIAとの密約でバチカンはギュレンを全イスラム社会の代表者に任命、さらに秘密枢機卿としてキリスト教伝道の任務を極秘に与えた。トルコ国家の全権がギュレン教団、いやアメリカの手に堕ちた時、隠れ枢機卿にまで成り下がったこの腐ったカリフをイスラム世界の頂点に据える。ギュレンはカリフの立場からこれまでのイスラム教儀解釈の揚げ足を取り珍妙な新解釈をひねりだし、十字軍遠征に正当性を与え、コンスタンティノポリス(現イスタンブール)をキリスト教徒に返還すると唱えだす。また飲酒や自由恋愛、利息利益を解禁、逆に断食・礼拝・巡礼といった義務からの解放など徹底的に世俗化を進めてイスラームの背骨を抜く。一方でトルコからカリフが選ばれることに不服なサウジアラビアやイランがおとなしくしている訳も無く、ロシアがこれに便乗して小競り合いがはじまり、ゆくゆくはアメリカに忠誠を誓ったアラブ諸国を巻き込んでの中東紛争に発展、武器商人たちは少なくとも百年は飯が食えることになる。荒唐無稽にすら思える酷い筋書きであるが、事実なので仕方が無い。

アメリカという国は利用価値の無い人間に餌を与えはしない。クーデターの失敗後、ギュレンの口を封じるだけなら注射一本で始末してロシアがやったと言えば済む話だのに、トルコ政府からのしつこいまでの返還要請に生返事をしながらギュレンをいまだペンシルバニアで飼い続けている。つまり、アメリカは今一度クーデターそを企てている。

古い話になる。
11世紀も終盤、急速に版図を広げコンスタンティノポリスの縁まで迫るトルコ人に眠りを侵されるビザンス皇帝は、窮してローマ教皇に助けを求める。カトリックたるローマ教皇は東方正教会に属するビザンス帝国を蔑み、本来ならば相手になどしない。しかし貧困と疫病に喘ぐカトリック諸国にとりイスラム教徒に抱く脅威たるや東方に引けをとらず、憂いの中で神に救済を求める教皇ウルバヌス2世はついにあることを思いついた。宗派の分かれたキリスト教徒を結束させて兵を集め、イスラム教徒を追い散らし、掠奪し、ビザンス帝国もエルサレムもすべてカトリック教会の手中に―彼らはこれを「天啓」と呼ぶ。

ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラームの共通の「聖地」エルサレム。当時この地はファーティマ朝ムスリムの領土であったが、ユダヤ教徒、キリスト教徒、そしてムスリムが共存する安泰かつ豊かな都市として栄え、巡礼とシルクロード貿易がもたらすその富は欧州人の羨望の的であった。ウルバヌス2世は東方正教会とカトリック教会の司教たちを南仏クレルモンに一堂に集めて呼びかけた。

―ムスリムからの蹂躙に苦しむ聖地エルサレムを救わん。巡礼者たちは殺戮され、都市は掠奪を受けている。天国の王国、どこよりも豊かな、永遠の神の恵みたるかの地をトルコ人とアラブ人どもから取り戻さん。これは神の望みなり。さもなくば汝らを待つのは地獄のみなり。

      クレルモン会議
             クレルモン会議 1095

この声に陶酔し、東の富に目の眩んだ欧州諸国の王侯貴族は民兵を募り、軍隊、騎士団を整えエルサレムに向かう。第一次十字軍遠征である。通りかかったキリスト教徒の村や都市すらなりふり構わず掠奪しながら進軍し、ビザンス帝国からの援軍も加わった十字軍はアナトリア半島を踏みにじりついにエルサレムに到着、エルサレム側は降伏し市民の命と引き換えに都市をあけ渡す。しかし、そこで行われたのは1万人のユダヤ教徒と7万人のムスリムからなる市民の大虐殺だった。1099年7月15日。

900年以昔の話だが、少しも色褪せることなく今に重なる。
経済危機のどん底でもがく欧州も、アメリカも、その打開策を常にイスラム圏からの搾取に見出す。他に思いつかないのである。アフリカ・アジアのイスラム国からは露骨な掠奪をする一方、トルコに対しては世俗・西欧化を吹き込み自らの歴史と信仰に背を向けさせてひたすら欧米に追従させた。その立地そして資源面からこの国を自立させるわけにはいかなかった。いつまでも不安と劣等感に縛られる弱小国でいさせねばならなかった。
しかしレジェップ・タアイプ・エルドアンを生かしておいたのでは決して思い通りにいかないことに気がづいた。彼の政権下で外交・経済・教育・福祉・医療その他どれをとってもまともに動き出し、欧米のテロ支援を叱咤し、2009年のダボス会議ではイスラエル大統領に一喝し謝罪までさせた。国民がかつての傀儡国家時代に踏みにじられた誇りを取り戻す一方で世界中のイスラム諸国にも並ならぬ希望を与えた。貧困と対峙する欧米を尻目にトルコの経済は順調に伸び続ける。出産奨励により人口も増加傾向にある。虚偽報道、経済封鎖、テロ工作など、欧米はさまざまな手でトルコを世界から孤立させる。しかしエルドアンは欧米によるイラクとシリアに対する大搾取に果敢に立ちはだかった。さらに兵器の国産化と無利子を標榜した金融政策が始まると武器商人のアメリカと金貸しのバチカンはもはや黙っていなかった。そしてエルサレム大虐殺のその日を選んだ。

―エルドアンからトルコを取り戻さん。これは神の望みなり。

2016年7月15日、トルコ国防軍の軍服を着た十字軍が900年ぶりに押しよせた。自国軍の戦車、戦闘機、機関銃、手榴弾で母国と同胞を襲った。神の声に耳をふさぎ悪魔に跪き、国旗のほかには手に何も握らない市民を襲った。しかし甘言を囁く悪魔に唾を吐いた兵士たち、そして市民は猛攻し、国中のモスクから神を称え加護を求めるアザーンの声は朝まで止むことなく響き、249人の死者、2000人を超える怪我人、彼らの血と引き換えにクーデターは阻止された。神は偉大なり。

勝利
                2016年7月16日朝


思うに、ギュレン教団とはひとつの「現象」である。実体があるようで、ない。
教団の原動力は他でもない一般人である。苦労をしないで学歴を得たい、ばか息子を出世させたい、楽をして稼ぎたい、生活に満足がいかず、現状にあきたらず、虚飾を好み、肩書きと地位に憧れ、妬み、嫉み、隣人に脅威を与えようが、法を犯そうが、国を売ることになろうが―CIAやバチカンなどに縁もゆかりも無い普通の人々の、さほど罪深く無さそうな「欲」が肥大して具現化したものがギュレン教団であり、もとより人が浅はかな欲を掻かなけれは成立しようがないのである。逆にクーデターが不発に終わろうがギュレンを死刑にしようが欲に魂の鍵をあけ渡し、おのれを醜く歪める人々がある限りこれは幾度も姿を変えて生まれ変わるだろう。

よく「悪魔につけいれられた」などという。つまり悪魔は決して自ら武器をとらない。とらせるだけである。悪魔が何を言おうと選択権は当人にあり、その手を取れば地獄、振り払えば天国への道が開けるという、ただそれだけである。人はこうして悪魔と神の声の間で揺れ続けながら審判の日を迎える。



すべての道は日本に続く クルアーンと浦島伝説 後編

「アスハーベル・カーフ(أصحاب الكهف)―洞窟の衆」を再掲し前編から続けたい。

偶像を崇拝する多神教の帝国にありながら唯一神を敬う六人の若者たちは皇帝に囚われて投獄され、唯一神を忘れて多神教の神々の偶像に跪くか死罪かを選べと迫られた。牢獄を破り逃げた若者たちはにべもなく現世を打ち捨て、神の教えを貫くために山へ踏み入るとそこに犬を連れて現れた一人の羊飼いが彼らを洞窟に導いた。その夜、羊飼いを合わせた七人は神の教えを今日まで守り得たことを感謝してさらなる大慈大悲を請い、犬に守られながらそのまま眠りにつく。やがて目を覚ますと彼らの中の一人が銀貨を手に糧を求めて町へと下った。目に映る町の様子も人々の装いも大きく変わっているのを怪訝に思いながらもひとつの店に入り銀貨を渡してパンを求めた。店主にしてみればその若者のほうがよほど怪訝であった。なぜなら古めかしい衣服を纏い、手渡された銀貨には数百年前の皇帝の名と肖像が刻まれていたからである。領主に知らせが走り盗掘の疑いで若者は捕らえられた。よくよく話をしてみれば、若者は洞窟での僅かな眠りから目覚めるまでの間に偶像崇拝の時代が過ぎ去り一神教が栄えたことを知り、そして町の人々は三百年前の偶像崇拝時代に追っ手を振り切り姿を消した一神教徒の若者たちが再来したと知る。町は奇跡に沸き返り、その騒ぎは皇帝の耳に届く。皇帝は奇跡の若者たちを尋ねて洞窟へと向かう。そしてそこに至ればまさしく残る者たちと犬が佇み、皆と言葉をかわし、やがて若者たちは再び、しかし今度は深い眠りについたとも伝わり、忽然とその姿を掻き消したとも伝わる。


伝承「アスハーベル・カーフ」の全体を眺めると、「海幸山幸」と「浦島伝説」に何らかの関連があるとしか思えない。糧を求めて町に下った若者が当惑する様は故郷に戻った浦島太郎に、道案内として描かれた羊飼いは水先案内をした鹽椎神(シホツチノカミ、潮流の神)、連れていた犬は鮫または亀に、七人(犬をあわせれば八)という数は昴星か畢星の童子たち…もちろん物語の起承転結のとおりには符合しない。結婚譚が存在しないのはそれが大和朝廷の征服譚に付随するものであるという見方をすれば当然といえる(前編参照)。


昴星と畢星(プレアデス星団とヒアデス星団)は牡牛座のなかにある。インドから地中海にかけての地域では太古から、牡牛を神々に捧げる犠牲、ときに神の化身たる聖獣、ときに神体そのものと、多神教偶像崇拝の象徴として特別視しており特に地中海世界では牛の頭を持つ神像(偶像)に男児を犠牲として捧げるという忌むべき悪習が存在したことはよく知られている。ここで牡牛座の中に繋がれた星たちは多神教という牢獄に囚われた若者たちと符合する。「アスハーベル・カーフ」の中では若者たちと犬の名前がアラビア語で伝わるがその一人はデベルヌシュ(Debernuş)といい、プレデアス星団に属する二等星のアルデバラン(Al-debaran、Alはアラビア語の定冠詞)を指していると言って間違いない。洞窟の七人が神に祈り助けを求めたように豊玉姫が海神たる父の大綿津見に助けを求めている。海幸と山幸の兄弟の確執は分裂する東西ローマ、そこから発展するオーソドクスとカトリックの陰鬱な反目、ひいては元来おなじ教えであったユダヤ教、キリスト教、そしてイスラームの三つ巴の争いを暗喩しているかのようである(海幸と山幸はホスセリを含めて三兄弟)。

           Seven_sleepers_islam.jpg
 アラビア語の文字で表現された舟の舵は七人の若者と犬の名前。山の洞窟に舟というのも興味深い。

この古代伝承を現代にまで知らしめたものの一つはキリスト教の聖人列伝「黄金伝説(Legenda aurea-1267)」第96章に記されている「眠れる七聖人(教会ラテン語)」である。より古いキリスト教系文献(最古のものは古シリア語)も幾つか存在し、細部はそれぞれ異なりつつも凡そ多神教のローマ帝国支配の下にてキリスト教が激しく迫害された時代を背景に描かれている。

キリスト教の見地から言えばこれは厳粛なる実話であり物語ではない。若者たちが隠れた洞窟の候補地は地中海からウイグル新彊にかけて30箇所以上ある。また迫害者は三世紀終盤にローマ東西分割支配をはじめた皇帝ディオクレティアヌスと副帝マクシミアヌスに比定され、マクシミアヌスが自らの重臣であった六人の若者に偶像崇拝への帰還を強要したとされている。そして五世紀初頭テオドシウス二世の治世に若者たちが目覚めたと一般に考えられているが、しかしこの説だと時の経過が200年に満たず浦島伝説のそれとは合致しない。あろうことか、300年という数字がはっきりと書かれているのはイスラームの聖典クルアーンである。

クルアーン第18章「洞窟の章」での描写はキリスト教由来の伝承に比べればより抽象的になされている。地域も時代も皇帝も、若者たちの名も人数も書かれてはおらず、若者たちがキリスト教徒であったかどうかにも触れられていない。明確なのは一神教に帰依した数人の若者たちが偶像崇拝者たる支配者から逃れて洞窟に隠れ、助けを求める祈りに報いた神が彼らの耳を閉じ(眠りを与え)たこと、そして皆が目覚めひとりが銀貨を手に町へと下ったこと、そして若者が眠る間に現世で流れた時間である。

彼らは洞窟の中に三百年、さらに加えて九年過ごせり。(クルアーン 洞窟の章25節)

イスラム神学においてこの数字は太陽暦で300年、太陰暦で309年と解すべきとされている。他の細部がすべて抽象表現される中でこれだけがはっきりと書かれているのは実に不思議である。

若者たちが眠りについていた洞窟は異界と現世の交錯点である。いや、神に眠りを与えられたことでそこが異界と繋がった。彼らがそこで幾許かの眠りから覚めると現世では三百年が過ぎ、目覚めた後も異界との繋がりは保たれていた。しかし一神教を受け入れた後代の人々が洞窟に足を踏み入れ若者と邂逅したことで僅かに開いた異界への扉は永遠に閉じられた。まさに現世に還った浦島太郎が玉くしげを開けたそのときに異界と現世が遠ざかったのを思わせる。

「玉くしげ-玉匣」をどう理解するべか、くしげとは櫛や鋏(はさみ)をしまう箱をいい、玉は美辞をつくる接頭語であり、魂、霊にも通じる。「くし」の音をもつやまとことばは「櫛、髪、頸、頭、串、酒、奇し…」とあり、こうしてならべるだけでもこの音の持つ「かしこさ-畏さ」が伝わる。霊の降り立つところ、霊力をもつもの、という意味がある。ならば玉くしげとは異界への扉、その中は現世を包む無限の異界、そう考えればよい。明治政府がそれを玉手箱と書き換えたのは、玉くしげの言葉の意味を知るからこそ秘かに恐れおののいたからに違いない。玉くしげを開けた浦島太郎が老人になり悲嘆に暮れたという解釈こそ近世以降のものである。白髯白眉の姿にかわることは神仙界に迎えられるという意味に近く、古くはむしろ寿ぐべきことであった。「不幸な結末」との見方は乙姫との日々を諦める太郎の心情を汲むいささか俗な解釈であるといえる。

そもそも山幸が海幸にお互いの「さち」を取り換えたいと求めたのは何を意味しているのだろう、もし「アスハーベル・カーフ」が中東から日本に伝わり「海幸―」の原型の一角を成したのだとすれば二つほど思い当たる。

まずは山を舞台とした伝承の舞台を海に置き換えるための布石というのがひとつ。こうした手法は日本人が古くから身につけていた演出の一つであり能や歌舞伎に見出すことができる。
そして二つめ、山幸が兄に変えろと迫った「さち」とは実は「信仰」だったのではないかと考えられる。信仰とは人の生きる指針であり、王朝や国の単位に拡大すればそれは政治となる。海幸彦が象徴する土着の氏族あるいは王朝が信仰したのは縄文時代以来の国津神(くにつかみ)、そして山幸彦側は天津神(あまつかみ)でありお互い性格が違う。兄弟が魚も兎も獲れなくなったのは一方がもう一方に(山幸が海幸に)自らの神を強いたことで海の幸と山の幸が遠ざかり「けがれ(気枯れ=枯渇)」を招いたことの表現ととれる。しかも弟は兄の「さち=信仰」を海に打ち捨て自らの剣を鋳なおして作った「五百の鉤、千の鉤=手製の信仰」を押し付けた。が、兄はそれを撥ねつけ戦いとなる。その末に海神の力を借りた山幸が海幸を組み伏せる。天津神は国津神を下に従えた。こうしてみると一般に善玉と慕われる山幸彦の行動は実は酷くローマ的である。ならば山幸彦の拝する天津神はローマの神々に例えることができる。

多神教偶像崇拝を基盤とした軍事・経済・司法により堅牢に築かれたローマ帝国にとり、イエスの説く一神教はそれを根底から覆してしまう戦慄すべき教えであった。ならば力ずくでも捨てさせて人々をかつての多神教に戻らせなければならならず、そうして起こったのがイエスの信徒への迫害であった。しかし膨れ上がるその数をとうとう無視できなくなった帝国は逆に一神教を公認し利用する判断を下す(313年)。皮肉なことに、それまでに使徒たちの地下活動により広まった教義は、純然たるイエスの教えと多神教の土壌で信徒を獲得する過程で徐々に多神教の要素を獲得したものとが共棲し混乱していた。そこで帝国は教義を整えるためとしてあらゆる福音書と書簡を一堂に集めるが、帝国の政策にそぐわない書を異端として焼き捨てた(325年)。それを基盤として後に編纂されたのが新約聖書である。つまりイエスの教えをそのまま受け入れたわけではなく、帝国の運営の利益のために手心を加えてから公認したのである。当時の皇帝コンスタンティヌスが根強い偶像崇拝者であったことはそれを雄弁に語る。そこに見られるキリストを神の子であるとする解釈、そして聖母マリアを神を生む者であるとする定義、これらはすでに一神教からは大きく外れている。。現代のキリスト教はその延長にありイエスの教えとは分けて考えねばならない。それを「海幸―」にのなかに探せば次のくだりに行き着く。

是以海神、悉召集海之大小魚問曰、若有取此鉤魚乎。…於是探赤海鯽魚之喉者、有鉤。卽取出而淸洗、奉火遠理命之時、其綿津見大神誨曰之、以此鉤給其兄時、言狀者、此鉤者、淤煩鉤、須須鉤、貧鉤、宇流鉤、云而、於後手賜。(古事記 上巻 7)

大小の魚を悉く集め鉤を知るものは有るかと海神(綿津見大神)が問えば…鯛の喉に鉤はみつかる。即ち取り出して洗い清めて山幸彦に授ける時に海神は教えて曰く、この鉤を兄に与える時は「この鉤は、おぼち、すすち、まずち、うるち」といって後手(しりえで)にあたえよ、と。

大小の魚を悉く集め…皇帝の呼びかけでニカイア公会議が開かれた。そこにはイエスの教えを弟子や孫弟子たちが書き記した福音・書簡数千書が全て集められた。
取り出して洗い清め…「神は産まず、神は生まれず」とする一神教の大基本たる教義を綴る書を選り分け、偽典として火にくべた。残ったマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ伝の四書を正典とした。

「後手に」とは「後ろ手に」と解されているが定かではない。いずれにしろ物の渡し方として尋常でないため先立つ「おぼち、すすち、まずち、うるち」の四つの文言とともに呪いの仕草であると考えられている。海幸に対するこの山幸の仕打ちは、イエスの教えの解禁を神に祈り待ち続けていた教徒たちに手製の信仰を天啓と偽りつつ手渡す行為に、まさに呪いといえる業に重ね合わせることができる。

妻の産屋を覗いてしまった山幸彦、玉くしげを開けてしまった浦島太郎は「アスハーベル・カーフ」の誰に該当するかといえば、それは主人公の若者たちではない。300年後に奇跡の若者たちを洞窟に尋ねた一神教徒たちである。ここが日本の伝承と大きく違う点である。「見てしまった」ことで何が起こったか、キリスト教会によるその評価は、奇跡を目の当たりにした民衆が神の力の偉大さにあらためて触れ信仰をより強固なものに高めたとある。しかしキリスト教は若者たちが目覚めたとされる時代にはすでに変質し暗黒の中世に向かい突き進んでいた。

ここで、クルアーンにおいて迫害する者、される者そしてその時代が限定されていないことに着目したい。同章の中で伝承の細部や史実との関連にこだわることは教えの本道から外れるとしてそれを戒めている。なぜか、それは一神教の迫害はどの時代にも起こることであり、実に起きてきたことであり、しかし教えを貫きひたすら神に救いを求める者は必ずや神の庇護を受けられるという教義に人々を至らしめるためである。また悲しいかな人は同じ過ちを幾度も繰り返しながら歴史を刻むであろうことを、ローマ時代に起こった迫害もその一つに過ぎないことを囁いている。七世紀のはじめにはアラビア半島にイスラム教が芽生える。それは今日もなお止まぬ新たな迫害と弾圧の幕開けでもある。クルアーンはメッカに生まれたムハンマドに預言が降りるたびに弟子たちが書きとめたものであり、そしてその時代は迫害者ディオクレアヌス帝の治世のおよそ300年後にあたる。
伝承がある時代のある昔話として凍結されると人々は詳細に囚われ伝承に中に隠された異界からの声がきこえなくなる、クルアーンはそれを避けよと説いている。

山幸と海幸の争いは神武東征に、山幸と鹽椎神の出会いは大国主命と少彦名命のそれに、妻にした姉妹の片方との別れはニニギや允恭天皇のそれに、一夜を共にしただけで身篭った妻を疑う話は雄略記に、記紀や諸國風土記を見渡せば「海幸―」「浦島―」の片鱗がいくつも見つかる。浦島伝に限らずおよそ日本の古代伝承というものはこのように同じ話が時代と主人公を着替えながら幾重にも絡まり伝えられている。複数の人物が同一視される諸説は記紀神話のこの性格に拠るものである。もとは時代も人物も限定されない普遍的な伝承を幹として多くの説話が枝分かれしたようにも思えるこの話法が、クルアーンのそれとは正反対というのが非常に興味深い。

誘惑に負けて禁を破った男が不幸な結果に見舞われる…「見るなの禁」に対してはこうした見方が強い。ここで言う不幸とは妻との別れや老人になることであるが、禁を破ったイザナギはアマテラスやスサノオを生み、山幸彦は大和朝廷の祖となり、浦島太郎は神仙となった。こうしてそれぞれ新しい境地へと歩を進めており不幸と一言で片づけるのは僭越である。つまり近現代の我々が浦島太郎らの境遇をあくまで現世的な価値観から眺めて不幸と断定し、それを指して仏教的な因果応報の教訓に無理やり結びつけているに過ぎず実は的外れも甚だしい。では「見るなの禁」とは何か、いったい誰が何故にこの制止をおこなうのか。

見るな、開けるなの禁、それは権力者たちの常套手段であると断言してよい。多神教世界では権力者とは神の子孫であり神そのものであるという主張が罷り通る。その権力者の後ろ盾であり、隠れ蓑であったのが多神教偶像崇拝である。そして多神教の対極にあるのが神は子をなさずして親を持たぬとする一神教である。だからこそ古代の王者たちは民衆に唯一神の教えを直視することを制止した。見るなの禁を以って封印し、呪うぞ祟るぞ不幸になるぞと脅しをかけてきた。多神教時代の王者、多神教化したキリスト教会は代わりに目にも鮮やかな手製の神像や偶像を掲げ、人心をひきつけてモーゼ、イエス、ムハンマドといった預言者たちを介して説かれた天啓から遠ざけた。遠ざからぬ者たちには迫害と弾圧を施した。中東に限らず預言者は人類の誕生以来それこそ世界中に数え切れないほど降り立ったという。もちろん日本も例外ではない筈だが、残念なことにそれを語るに足りる文献は日本に存在しない。

文字のない時代のわが国にも天啓が降り注いでいたであろう、しかし万葉仮名や漢文で書かれる前の、やまとことばにより口伝されていた伝承にはもはや触れることはかなわない。ただこうして記紀神話を開いて目を凝らしたとき、「海幸―」「浦島―」がそうであるように旧約やクルアーンの世界につながる道がうっすらと見えることがある。記紀はあくまで朝廷の勅令で編纂されたものである。いにしえの伝承をそのまま記述したのでは大和朝廷の大義名分を裏付けるという責務を果たせるわけもなく、当然様々な思惑が織り込まれている。「アスハーベル・カーフ」の若者たちが洞窟で「眠った(クルアーンには現世に対して耳を閉じるとも書かれており隠遁生活を送っていたとの解釈もある)」とされるくだりが記紀では結婚譚に変わった事情はこのあたりであろう。
ローマの臭いを醸す大和朝廷の神々、天津神は多神教のそれであり、それと相容れない国津神として描かれたのは唯一神を畏れ敬う諸王たちだったのかもしれないとふと思うことがある。海の神と山の神が同一神であったというのもそれなら頷ける。いや記紀神話を追うまでもなく、多くを望まずに、世を汚すことなきよう行いを正し、口を戒め、海と山の幸を与える神をひたすら畏れて生きたであろう我らが遠い先祖たちの面影は一神教徒たちの横顔に垣間見える。

神が迷信と位置づけられた今なお「見るなの禁」は健在である。
この世という帝国と学界政界財界の神官たち、かれらが築いた権力の神殿、そこに鎮座する偶像神の数々に跪く民衆、その偶像神の正体を見ようとすれば必ず不幸の翼が触れる。それは醜聞、困窮、投獄、死、即ち現世的不幸である。そうでなくとも地位、財産、自由、快楽という現世での幸福を逃す不安から人はこの禁を破ることができない。その必要すら感じ得ない。アスハーベル・カーフ―洞窟の衆はそれを破った勇者たちである。

人には救いが必要である。ただし人が何かに救いを求めるのであれば、それは人の手による作りもの即ち偶像であってはならない。たとえば貨幣、たとえば思想、たとえば権力、それは人が足元に跪いたとき偶像神として目覚め人の世を呪う。一神教が禁じた偶像崇拝とはこのことであり、黄金の神像のみにあらず。

たまくしげ 開けてぞ進め洞窟へ 見るなと呪う 魔に背を向けて

セキュラリズム―刹那の現世主義 前編

セキュラリズム、「信仰―霊的な存在からの教え」に由来する思考から政治と社会契約上の判断を切り離すべしとする主義主張であり、いわゆる政教分離はこの産物である。一般には「世俗主義」と日本語訳されている。多民族、多宗教を抱えるインドなどがセキュラリズム国家と呼ばれる。

が、そこだけに着目していてはこのセキュラリズムの正体を見誤まる。その発生、背景、そして語源までを辿ればこの矛盾に満ちた「酷すぎる現代」の構造を見ることができる。日本は苦しい国である。それは日本が、日本人がセキュラリズムに染まったため、いっそ染まり切ってしまえばもはや苦痛を感じないだろう、いま日本人が覚える得体の知れない苦痛はセキュラリズムに憑依された部分とそうでない部分が引き裂かれる痛みである。たしかに現代は酷いが中世よりはマシ、いや現代は素晴らしいとお考えの方には尚のこと一読頂きたい。


セキュラリズム(英・secularism)の語源は中世教会ラテン語のsaeculumに遡る。今われわれが生きるこのかりそめの「現世」という意味にして、死後に往くであろうあの世「来世」の対義語である。社会・政治学でいう「世俗主義」とは実はライシテ(仏・laïcité)という「聖職者以外の人間」を意味するラテン語laicusに語源を持つ言葉に当てられた訳である。セキュラリズムの世俗主義という日本語訳は誤りであり正しくは「現世主義」とするべきである。

その場かぎりの至福に身をまかせる態度は「刹那的」などと呼ばれるが、「刹那」とは極々みじかい間のことである。人の一生は長いとも短いともいえよう、どちらにせよ世の営みという悠久を思えば瞬きほどに短い。ひとりにとっての現世はそんな刹那でしかない一生である。それをどのように生きようと世間に迷惑及ばねば「自由」とばかり好きに生き、来世などは自己責任、後は野となれ山となれ…誰も彼もがそう生きて死んだならば、どんな現世になるかは明白である。



セキュラリズムの前夜

暗黒時代の中世欧州、王権と結びついた教会勢力により社会は窒息する寸前であった。「地球」などと言い出せば異端審問をうけ火刑に処された。
天体を論ずるまでもなく教会にカンテラの灯りを点したというだけで「神の与えたもうた闇を侵した」罪を問われて投獄される。病気治療といえば司祭が聖水をかけるという程度、衛生観念に激しく欠けた環境にいて当然のごとく伝染病に罹った者と、その病を撒き散らす魔女の疑いがかけられた者は即ち炎に投じられた。

教会の審理が世の中を動かすことができたのも、ひとえに世の中の善悪・可否の判断がキリスト教に由来していたからである。いや、ただでさえ食うや食わずの民衆に敢えて読み書きすら与えぬ教会は世の判断力を一手に握っていたといえる。民衆はおろか王侯貴族でも教会の言葉を否定することは不可能だった。欧州では当然にこのような社会からの脱却が望まれ、そのためには「キリスト教」の束縛から逃れるしかないという結論に至る。契機となるのは仮想敵であり事実上の脅威でもあるイスラム勢力から流入した「科学」―古代ギリシア人の残した知的遺産を「神への冒涜」として焼き払ったキリスト教徒とは反対にムスリムが「神の賜れし叡智」として暖めた物理学や数学、哲学との再会である。欧州社会はコペルニクスからニュートンに至る数世紀を費やして(現代から考えれば恐ろしく長い時間だが当時の時間の流れはこのようなものであったのだろう)事象の可否を経験と因果性により論証するべきと結論し、判断を神学に委ねることから離れた。当初は激しい抵抗を見せた教会も次第にそれを認めこの流れは後のルネッサンス運動へと繫がることになる。

ここまではキリスト教会の暴力に喘ぐ欧州社会の切実な必要によるものとして一応受け取ることが出来る。しかしその先が悪かった。教会が科学と和解するためにはそれなりの見返りがあったはず、この運動を教会がなぜ受け入れたか。


まず教会が勢力を保てなくなっていた。重なる十字軍遠征の失敗とそれに伴う農村の荒廃、欧州の土から吸い上げるものは尽き、目はいやおうなしに外を向いていた。力学、数学、つまり戦争と増産の技術というものには総身が疼いた。現世に有用なことは教会にも魅力であった。

教会は何とか権威を維持しながら科学を社会に認める口実を聖書に求め、見出した。

イエスは言ひ給ひて曰く 『さらばカエサルの物はカエサルに、神の物は神に納めよ』 ルカの福音書 第20章25節


この世の富と繁栄、その所産の名声や権力も含めた物質的価値を「カエサルの物」になぞらえ、それは現世に納める(=帰属する)。対して神の御心に適うことで得る霊的・精神的価値は「神の物」であるとし来世に納める。それを互いに侵すことなかれ、福音からこういった解釈を導いた。
現世は神の領域に在らずとする大義名分、ここにあり。

本来のイエスの教えによれば、さらにモーゼもムハンマドも同じく説くところによれば現世を統治するのも人の子ではなく神である。それを無視している以上この引用は福音の意図的な悪用である。また現世とは来世(天国ないし地獄)のための修練の場でありこの二つの世界は最後の審判をはさんで確実に連続するという教えを知りながら、それを分断して現世と来世は並行して別々に存在するという思考へと人心を導いたのがセキュラリズムである。つまり、「神との別居」である。


そして夜明け

セキュラリズムという名が与えられたのは近代を迎えてからであるが、それに至るまでは特に形のある思想ではなく今も一言で定義するのは難しい。「神との別居」を目的としたあらゆる努力が神学者と科学者、聖と俗のそれぞれで行われた末に近代が生まれたとも言える。
まず13世紀の神学者トマス・アクィナスが神学の立場からセキュラリズムの土台ともいえる観念を引き出した。それによると創造主たる神の「永久の法」のなかに含まれる被造物たる人間が、その理性に由来する独自の「自然の法」を分有すると説いた。神中心の無限界の中に人間中心の領域を設けたのである。その領域では1+1が常に2であるように理論・視覚・経験の上で整然とした法、つまり科学や論理学に則る法則が求められた。そこでは科学と論理で証明できないものはその存在が認められない。よって神も存在しない。その領域の支配者は人間である。トマスによって科学は市民権を得たといえる。
トマスの後、イエズス会の「努力」で世界中に大学が設立された。科学、そして修辞学(言論・演説に関する学問)が広く学ばれ科学者と思想化が次々と輩出、ニュートン、カント、マルテス、マルクス、ダーヴィン、ウェーバー…科学者たちは神の領域を侵すことなく人間の領域の法を整える。そして思想家たちは神の干渉をうけずに「倫理」を確立、科学の擁護を展開した。
それが物質主義や合理主義、そして後に資本主義、個人主義、民主主義などと呼ばれるものと発展しセキュラリズムの遺伝子を世界に、未来に拡散した。

神を完全否定するアテイズム(=無神論)とは違い、セキュラリズムが敢えて神の領域と人の領域を分けたにとどまり神の存在を否定してはいないことに注意すべきである。これならば神の領域を侵さずに人の領域の運営に集中できることがひとつ。ふたつめに、信仰を科学に目覚めぬ暗黒時代の因習として軽視・蔑視の対象に据えることで人々を現世に没頭することへの罪の意識からほぼ開放したことを挙げられる。これは、「神の陳腐化」である。


対イスラーム戦略

「神との別居」の出発点がイスラームとの攻防であったことを先に記した。その後も欧州がなぜイスラームと敵対したかは、物質主義や合理主義、そして金利の理念がイスラームの教義に反するそのためにキリスト教徒がセキュラリズムを通して立ち上げた資本主義経済網を富の溢れる東方に拡大できなかったことに拠る。現世と来世が連続しているとする一神教本来の教義を強固に持ち続けていたイスラム教徒を「どうにかする」にはセキュラリズムを感染させるのが唯一にして最も効果がある、と欧州は悟った。

東ローマ帝国を滅亡させ十字軍を追い返し続けたオスマントルコ帝国がどのように解体されたかは過去の記事で触れたとおり帝国内の民族主義を煽られたことによる。その後にふたたびイスラームとしての統合や団結が叶わなかったのも、帝国から独立したアラブ諸国・バルカン諸国そして新生トルコ共和国に「世俗主義政府」がそれぞれ打ち立てられ政治の領域からイスラームが駆逐されたためである。およそ独立国としての技量にかける新生国を裏から無理に支えていたのはもちろんイスラームによる結束を阻む欧州である。
新生世俗国家の教育はセキュラリズムを徹底し、信仰ゆえに抵抗を見せる学生は冷遇され社会の下層に留まることが強いられる。そうして信仰が貧困と暗愚の象徴になる。逆に上層、とくに政治・司法・教育界に参入できるのは優等生として出世街道を進んだセキュラリストのみとなる。こうなれば自動的に「神との別居」と「神の陳腐化」が国家単位で進む。セキュラリズムの遺伝子からなる民主主義は「信教の自由」を高らかに謳うが、嘆かわしくはこの欺瞞に気づく者が無いに等しいことである。


日本とセキュラリズム

世界中の国々を資本主義経済の網に取り込むためにはその国ごとのセキュラリズムの移植が不可欠であり、もちろん日本も例外ではなかった。
黒船でやってきた西洋人の碧い目には日本人と別居させるべき信仰が何なのか不明瞭で、当の日本人も実はよく分かっていなかったことが予想できる。日本共同体の土台となっていたものはいわゆるキリスト教のように体系付けられた信仰ではなく、自然の摂理の向こうにある不可視な世界への漠然とした畏怖心であった。誰かひとりの不心得が疫病、ひでり、嵐、不作などを以って共同体全体に跳ね返るとし、そして子孫は現世で生きる場を失い、黄泉の国の先祖は苦しむ事になる、そういった意識であった。だからこそ潔斎して生きることを心がけ、生きる場である共同体、つまり現世を穢さぬよう勤めたのである。わが国でのは神道や仏教ですら根底のこの意識の上にただ腰掛けたものだったと考えられる。この様相は西洋人には簡単には理解できなかったのであろう、彼らに言わせればこれはある種の「倫理」であり「信仰」の定義からは外れている。

それでは日本にセキュラリズムはどのように入り込んだのか結果から検証する。
あくまで「巫(かむなぎ)」の頂として神の意思を政治に反映させる存在であった天皇が、大政奉還後、お雇い外人の書いた大日本帝国憲法により「現人神」として祀られたことの意味を考えてみなければならない。具現的な信仰の対象をもたない日本人の前に「神」としての天皇が降臨した。異国人に踏み込まれ動乱する国の中でそれは救世主のごとく鮮烈であり、それまでの日本に残る精神遺産―史観や風習や道徳観―の多くを天皇と神道に結びつけ、恭順し、寺は廃され、神社は祀神を変えられ、日本には天皇中心の社会が始動した。

もしかするとだが、「国家神道」はセキュラリズムを浸透させる目的で設計された信仰だった可能性がある。ためしに上の文を少々変えると次のようになる。

「あくまで「預言者」として神に預けられた言葉を人々に伝える存在であったイエスを、その昇天の後、使徒パウロが突然「神の御子」と宣言し、共通の信仰対象を持たない多神教徒の集まりであったローマ帝国市民に「神」としてのキリストが説かれた。ローマ人がそれまで多神教の神々に求めていたもの―救世主、大地母神、犠牲、再生―をキリスト教に結びつけ、熱狂し、ローマの神殿と神像は破壊され、地中海一帯にはキリスト教中心の社会が始動した。」

キリスト教がローマの国教に採択されたのはローマの政治支配と軍事力拡大を目指した民意の統制という背景がある。「国家神道」をキリスト教に、「天皇」をキリストに重ねればここに相似形を見出すことができる。「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」との大日本帝国憲法による「法定」は四世紀のニカイア公会議にて「イエスは神の御子」であるという審理に基づく新約聖書と同じ臭いがする。彼ら西洋人は自らの歴史をよく識る者であり、それを外に対してどう利用するかを心得ている。

明治新政府が推し進めた殖産興業と富国強兵は国民に合理主義と物質主義、つまり近代思想を刷り込むことで成立した。そこで活躍したのが欧州で近代主義の洗礼を受け日本に啓蒙した知識人たちである。近代化の障害となる非合理な、されど古き良き在来の精神世界は知識人たちの罵詈雑言にて萎縮する。居場所を失った日本人としての生き方、日本人の意識や誇りは皇室という万世一系の神の系譜に集約される。その後は近代というものの中身を吟味する余地もなく、日本人のひたむきで疑うことを知らない気質が手伝い、追いつけ追い越せとばかり自らを駆り立てて近代化が進められたといっていい。忠孝心、愛国心、畏怖心、そういった意識は天皇とともに空高く舞い上がり、そして敗戦をうけて撃沈、昇天し現世から切り離された。そして現世は戦後という時代を迎えるが、そこに残るのはかつて知識人たちに因習そのものと定義された脱ぎ捨てる対象としての過去、そして輝ける近代思想に裏付けられた未来への期待であった。日本にはこうしてセキュラリズム=現世主義が定着した。疑いなく、我々は尊いものと引き裂かれた。

戦争やクーデターがおこり、国民が自失状態に陥った後などにセキュラリズムは浸透する。その効果を長続き、いや恒久化させるため、セキュラリズムは教育に埋め込まれるのが常である。
社会の細胞は個人である。個人の確立は「教育」と「教え」に作られた下地に実社会での経験が加わることで起こる。非道を働けばどうなるか、「教育」では法で裁かれ牢に繋がれると言い「教え」では神や仏に裁かれ地獄に落ちるとされる。「教え」つまり信仰を現世と絶縁させておけば地獄は不安材料にはならない。現世での不幸を「生き地獄」と比喩することはあるがそれは自分よりもむしろ他人の非道によることが多くやはり来世への畏れにはつながらない。ならば騙されるよりも騙すほうが得をする、もちろん現世での法の範囲では。また善行を行えば来世で天国へ迎えられるという教えよりも、善行の見返りには現世で名声や信用を得るとする教育が上に立つ。現世での罪への歯止めや善悪の根拠は「教育」へと傾き、そうした社会で経験しうるのは受けてきた教育の確認でしかない。この循環の中で来世は忘れ去られ、人の意識は有限な物質界である現世でのみ生きる。限りあるゆえに人は競い合い、奪い合い、騙し、謗り、罠と禍を仕掛け、傷つき、魂を穢し合う。しかし人はなぜかこの生き地獄を「自由」と呼ばされ崇めている。


セキュラリズムが世に与える苦痛とはなにか、なぜそこから脱却しなければいけないか、出来るのだろうか、そしてその術は、セキュラリズムと「自由」の関係は、それは次号後編に続けるとする。やや余談になるが以下に世間ではよく知られていながら議論には殆ど上らないことを記して前編を閉じたい。


GHQによって焼却処分されところであった靖国神社はローマ法王の口添えによりそれを間逃れている。こうして禍根としての靖国は残り、少しでもつついて揺さぶれば国論と国際世論を刺激し常に日本の外に利益をあたえる。現世の利益のためなら霊を来世から借用してでも悪用するというセキュラリズムならではの手法を以って、「靖国」は「エルサレム」と化した。禍根は残るものではなく、残すものである。

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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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