英国流「漁夫の利」


「アラブの春」が西欧によって書かれた台本に沿って進行していることをこのブログで再三指摘してきた。民主化から取り残された市民が国家の主権を得るために戦う「聖戦」であるかのようにメディアにより描かれた一連の抗議行動を「春」などと呼ばされているが、それが如何に狡猾に設計されたものであるかを今回、あらためて遠巻きに眺めてみることにする。



大航海時代の覇王であり、産業革命の旗手であり、第一次大戦の連合軍筆頭であり、国際連盟常任理事国であった国、冷たい海に浮かぶろくに資源もない小さな島国でありながら常に世界の頂点にあるのは「英国」である。いったいどういう頭脳をしているのかは知らないが、とにかくこの国の手段は人間業とは思えない。まず他国の内側に墨の如く染み入り人心を惑わして均衡を崩す。その混乱に乗じてその国の体制を作り変える。そのときに恨みと争いの火薬を綿密に仕込んでおくことを忘れず、時が来れば発火させて煽りたて内戦や紛争を起こす。しかもこの火薬は自らの手を汚さずに何度でも激しさを増しながら繰り返し燃え上がらせることができる。もちろん英国の描いた世界設計図に合うように、的確にである。英国が戦争で大暴れをすることはなく、また積極外交もしない。知恵を使って座りしままに漁夫に利を得るのがこの国流である。


中世も終わる頃、航海技術の進歩から世界の「かたち」が認識されるようになった。農業生産中心の自国経済に限界を見出しアジアや南米・アフリカ大陸からの搾取を前提とする貿易経済に移行した西欧は、さらに国外から安価で仕入れた材料で工業生産を行う形で発展を図った。産業革命である。そのための労働者は国内にいくらでもいた。産業が拡張するに従い徐々に需要が増したのが資源である。

西欧世界の資源庫はまずアフリカが挙げられる。必定、アフリカは次々と西欧列強に征服される運命をたどる。しかし欧州からもっと近いところに石油も石炭もうなるほど隠されていた。イラク、シリア、エジプト、アラビア半島、北アフリカ…どれもオスマントルコ帝国の版図にあった。


第一次世界大戦の場合、「バルカン半島の民族自決の擁護」がこの戦争を正当化する材料であり「サラエボ事件」が大戦の発端となった。言うまでもなくこれは戦争を起こすための名目でしかない。
「ヨーロッパの火薬庫」という20世紀初頭のバルカン半島を形容したこの言葉はあまりに有名である。オスマントルコ帝国の領土であったこの地域に共存していた多様な民族は18世紀の終わりからすこしづつその手を振り切り、「民族自決」を合言葉にそれぞれの国土を主張し第一次大戦前までに小さな王朝がいくつも誕生した。大国の狭間でどれも国家として成立する力のないほどの小国をわざわざ生み出し、その後ろで西欧は民族間の緊張を高めようと画策し、満を持してセルビア青年に武器を与えオーストリア-ハンガリー王国皇太子を手にかけるというサラエボ事件を起こした。自ら仕掛けた火薬庫にこうして火を放った。

(じつはサラエボ事件の前に日本で似たような騒動があった。「大津事件」である。来日していたロシアの皇太子(後のニコライ二世)が日本人巡査に切りつけられ負傷したこの事件だがロシアとの戦争には発展しなかった。不成功におわったとしてもこれが英国の差し金によるロシア挑発だったとすれば、血の日曜日も日露戦争ももっと早く起こっていたかもしれない。)


結果からいえばオスマントルコ帝国は第一次世界大戦に臨みドイツ・オーストリア側にについて敗戦し割譲を受ける。トルコの領土はアナトリア半島と呼ばれる一帯のみを残し、旧オスマントルコ帝国の領土からは20カ国にのぼる大量の独立国が誕生する。「イスラーム」という一つの共同体意識のもと、異人種、異民族、異言語という壁を壁ともせずに栄えていた帝国を内側から焚きつけるための火種、それは「民族自決」の一言であった。


敗戦国は戦後処理の名の下に、戦勝国の監視により国家体制の作り替えを強制される。中世であればただ属州とされる所だが近代の理屈ではそうも行かない。すでに通信が発達したこの時代、露骨な侵略支配を行えば当事国以外にも評価が残り後の時代まで侵略国の汚名を背負うであろうことはすでに理解されていた。ここで国際世論にも、そして後の歴史認識にも有無を言わせないための大義名分を打ち立てることが提案された。そこで1920年に国際秩序の監視役として正式に誕生した組織こそ国際連盟である。表向きは「国際紛争の平和的解決と国際協力のための機関」、その実は西欧中心の新世界秩序を正当化するための国際会議である。

常任理事国は英・仏・伊、そして日本であった。有史以来地中海世界と接触が皆無である日本をわざわざ参入させたのは理事会の中立性を演出する茶番といえる。第一次世界大戦の目的と連盟樹立の意義はこのトルコ割譲であった。

トルコが連合軍に突きつけられた新国家体制とは、

1. 帝国という旧態依然とした枠組みを廃止して周辺の資源地帯を手放し
2. 政治からイスラームを払拭し旧領の独立国との結束を捨て
3. 西欧寄りの世俗国家としての道を行き西欧の政治・経済・軍事に寄与する

これが大筋である。これに背けば連盟から非難を受け、将来にわたり国際条約を締結する折に何もかも不利にはたらく。連盟も、その後の連合もただの巨大な権威組織であり国際平和などは夢にも思わない。


イスラームとは信仰という枠の中にはとどまらず、生活と社会の規範としての重要な役割があった。イスラム帝国であるオスマントルコの領内の政治経済その他全ての規約はクルアーンに基づくイスラム法によるものであり、それぞれ異なる言語と歴史を持つ多様な民族を抱えながらも帝国の内部の均衡はイスラームの屋根の下にしかと保たれていた。異教徒は人頭税を納めることで帝国市民権を得られ兵役は免除されていた。
英国は19世紀初頭からしきりに民族自決を囁き資源地帯の属州をトルコから精神的に遠ざけようと画策していた。それが功を奏してアラビア半島、北アフリカ一帯の造反があいついで帝国はほころび始め、大戦勃発までに混乱は明らかなものとなった。帝国から独立を果たした資源地帯の国々は以下のとおり、モロッコ、アルジェリア、リビア、チュニジア、エジプト、パレスチナ、サウジアラビア、アラブ首長国、イエメン、バーレーン、クウェート、カタール、イラク、シリア、レバノン、ヨルダン、西欧の手口が巧妙と言わざる得ないのは、見事なほどちりじりばらばらに独立させたところにある。この国々は現代も近隣国と協力関係を築くことより目先の利益から欧米の指人形として働くことを選ぶ。エジプトでは英国委任統治時代にオスマントルコへの帰属か英国の統治を継続するかを巡り市民投票が行われたが、西欧化を求めるだろうと踏んでいた英国の算段を裏切りエジプト市民の大多数はトルコ帰属を選択した。こうした想定外の事件には「市民に教育が足りないので選挙無効」という処理法も持ち合わせていた。2012年のエジプトでの大統領選挙を無効にしたあの事件は実は英国のお家芸であった。


さらに、帝国の解体後に新生国家郡が再びイスラム連合として結束することを危惧した英国はイスラームの最高指導者であるカリフを廃して国外に追放した。カリフとは預言者の代理人、言うなればカトリック世界のローマ法王にあたる聖職であり、帝国誕生以来首都のイスタンブールに座し世界のスンニ派イスラム教社会の信仰生活と政治の指針を担っていた。イスラム世界はこうして求心力を失うことで迷走し、それが今日のイスラム社会の諸問題の原因となった。

いかに敗戦国といえど西欧にここまでの無体を受けてなおトルコは西欧化と世俗化を受け入れるのだろうか、それが受け入れたのである。巧妙な仕掛けは尽きない。

(オスマントルコ帝国と日本とは少しも関わりがない。しかし少なからず西欧というものに疑いの目を持つ方々には、これまでの話しが開国と敗戦という日本の被った二度の痛手と妙に共通するところがあることは感じていただけると存じる。)

歴史の授業では「セーブル条約」なるものも習う。1920年に連合国とオスマントルコとの間で交わされた戦後処理条約であるが、それによればトルコはアンカラ周辺の狭小な地域のみの領有を認められたとある。トルコ人が嘆き、怒り、失望に陥る中で一人の軍人が彗星の如く現れ、ギリシア駐屯軍を蹴散らしてイズミルを奪還し一気に共和政府を樹立し初代大統領を名乗った。そしてセーブル条約からたった三年でトルコは旧態依然とした帝国から見事民主化を果たしたと連盟に評価され「ローザンヌ条約」を締結、それにより現在の国境線まで国土を回復したとある。その軍人とは建国の父と謳われるケマル・アタテュルクである。

だがセーブル条約などはどこにも存在しない。英国はロシアで確立しつつあった共産圏に対する緩衝地帯としてトルコを温存したかった。しかし西欧へのトルコの国民感情は最悪でありその反動からロシアに靡くことを懸念したため、黒海沿岸と東部トルコをロシアに与えて残りの海岸線地帯を英・仏・伊が割拠するという戦後処理案をちらつかせたのみであった。つまり「脅し」をかけトルコが西欧への仲間入りを泣いて懇願するように仕向けたのである。現代のトルコの領土は最初から英国の描いた国境線の中にある。架空セーブル条約は将来トルコ軍部が国内向けにおおいに利用した。
「セーブル条約」を信じたトルコ国民は死刑宣告に近い悪夢を見た。それを西洋人の目の前で破り捨てたとされるアタテュルクに対し国民はこの世が終わる日まで感謝を捧げ続けなければならないような錯覚に囚われた。アタテュルクは死後にいわば神格化され、彼のその遺志を継いだとされる「ケマリスト」たちの専横がはじまった。西欧の属国として「民主主義世俗国家トルコ」を作る傍ら国内の民族間の不協和音を指揮した。クルド民族のテロ問題は民族問題などではない。テロさえあれば失業しない軍部と、民族問題さえあれば民族主義の風を吹かせて国を牛耳ることができるケマリストと、ケマリストさえいればトルコを属国として扱える英国の共有財産である。


はたしてその火薬とは、ただの民族意識を敵対の道具に仕立て上げた「民族主義」である。


人種とは肌の色に代表される生物学的な括りである。さらにそれを言語、信仰、国境、記憶などの細かい括りで別けたものを「民族」と呼んでいる。
人間の遺伝子情報を俯瞰すれば民族間の差異などはじつに僅かなもの、いや皆無といえる場合もある。しかし人種と民族の違いに由来する争いは絶えることがない。人種による差別はやや前時代的なものになったとしても「民族」の問題は逆に加速をみせている。そうさせているのはその僅かな違いではない。



幼い頃、子供たちの間には罪のない差別と支配がそこらじゅうにあった。好きな歌手が違うから、着ている服が変わっているから、大人びているから、特技があるから、とにかく虫が好かないから、と、言い出せばきりがないが自分たちとは何かどこかが違う少数派を差別し、多少なりとも攻撃した経験が誰にでもある。あるいは逆の記憶もあるだろう。子供たちの社会で起こる現象は自然にちかい。ならば人の中には差別という自然が備わっていると言ってもいい。
ではなぜ差別をしてしまうか、それはひとえに保身のためである。自分たちにない特徴を持つものと行動を共にすると厄介なことになる、あるいは損をする。その日までに築いた自分らなりの規律や価値観を壊される、だから異分子を受け入れたくない。これこそ「虫が好かない」の構造である。生存圏を維持するための本能のようなものであり、差別そのものに罪はない。

幼い兄弟がいるとする。兄は弟のおやつをよこせと言い、弟が作りかけた積み木の塔を横取りして作り変え、一緒に遊ぶときもどう遊ぶかを指示して従わせる。これは強い方が弱い方に対して抱く支配欲求である。親(特に母親)と子、夫婦、友人、教師と生徒、どちらが強者であるかはその都度かわりえるが、支配欲というものは人が出くわすあらゆる関係のなかで必ず頭をもたげる。これもまた人の中の自然である。人が生存圏の拡大と充実を無意識に求めるために起こる。

しかし差別心も支配欲も相手の存在を認めることで鎖につなぐことができる。相手の持つ自分との違いを魅力と認識できるようになれば状況は大きく変わる。
そのためにはお互いが人として成長するか、または心ある大人に諭されるかを待たなければならない。

差別も支配も源とするのは利己である。人が生まれながらにして利己であることは昔も今もかわらない。しかし人がみな利己を貫いたのでは草生えぬ土地となり子や孫たちが生きる場所を失うことを、時代とともに学びあらゆる形で戒めてきた。それが人である。利己と戦い、躾け、他者との共存を模索してきた。ときに成功し、ときには不毛の荒野に墓標すら残らない。それが人の世である。

もともと利己な人々が集団で生きるために従わなければならない規範、古代においてそれは信仰であった。神の怒りを恐れることで自らを律し、神の報いを期待して善行をおこない、神との繋がりのなかで集団の価値世界を築いた。その世界を共有したものが「民族」の始まりである。
民族は分裂と融合を繰り返し、移動し、互いに価値を認め合えない異民族を蹴散らし、あるいは圧力をけ、反抗する者を抹殺した。恭順する者を支配した。支配を逃れて新天地を目指した。民族の生存圏を維持し拡大するための行動の軌跡が歴史である。
時代は降り、神に代わり或いは神の名において人を従えたのが国である。法に書かれた罪と罰の規範の中で人は否が応でも利己を抑えて国を共有した。軍事・経済・政治の面から強大な帝国に多民族が専制的に統括されることで戦争の起こりにくい時代を築いたこともあった。それがローマであり清であり、オスマントルコであった。規模は異なるがムガール帝国も江戸時代の日本もそうであった。

こうして眺めれば「人」と「民族」は相似の関係にあることがよくわかる。すなわち民族間の差別や支配も「利己」を源としている。一つの民族の中の個々が所属する共同体の価値と利益のために他の民族を疎外し、嫌悪し、あるいは利用して支配する。その構造の利用法を「民族主義」として開発したのが英国、それを煽り立て起きない戦争を起こしてきた。ローマは古いのでともかくとして、清もオスマントルコもインドも江戸幕府も英国にしてやられたではないか。

英国は外交の表舞台から姿を隠した。かわりに饒舌になったのが米国とイスラエルだが同じこと、鵜にくくりつけた縄を引くのは未だに英国である。

民族自決という美辞により独立建国を果たした国をみれば今、スンニ派が大多数をしめる国にシーア派の支配者がいる。シリアがそうである。その逆はバーレーンである。それぞれ他民族の住む複数の地域を無理に国としてまとめられたのはイラクである。虐殺の記憶の中で民族同士が敵視しあう国がある。ソマリア、ウガンダ、旧ユーゴ、パレスチナである。遠隔操作の爆弾を抱えさせられ主権も主張もできない国に自決も何もあったものではない。

政教分離という麗句は民族問題の解決策のひとつかのように聞こえるがどうだろう。特定の信仰・宗派が優遇されないためとされるこの政策は非キリスト教国の悪夢であった。これにより教育と風習から信仰心が叩き出された。結果として英国を背後に持つ世俗主義者の手に政治を受け渡すことになった。エジプトが、シリアが、チュニジアが、湾岸諸国が、その他西欧に支配を受けた全ての地域がそうである。

このような国々では日々、西欧の資金と入れ知恵で抗議集会や暴動が起こされ西欧から好かれない分子は現地の軍部に一掃される。時に起こる大虐殺をには自決権のある独立国に対し外から干渉することはできないと目をつぶり、そうかと思えば別の国には人道人道と叫びながら空軍がミサイルを撒き火事場泥棒を働く。
民族自決を謳った当事者はいま「グローバル化」と称して世界を均一に扱うことを標榜している。グローバルな世界には民族も信仰も言語も記憶も何もない。人はただの労働者と消費者であり、人と人との間には貨幣と物質の交換の他の何もない。こんな連中のいうことを鵜呑みにしていては明日はない。

さて日本、近隣国との中がこじれた経緯は近代史にきざまれている。どの悲劇も遡れば英国に行き着く。

恨みの記憶、言葉と思想の違い、人がみな生まれつき背負うもの、それを火薬たらしめる者たちから死守しなければならない。手を変え品を変え近づく卑怯者どもに隙を与えてはならない、そのためには近代から戦後にかけ英国とその弟子たちから教えられた全てのことをいまいちど吟味すべきである。わが子たちに火薬を背負わせ火の中に歩ませてはいけない。

偽典「バルナバスの福音書」に祝福を与えよ

この世界の価値基準となった「西洋」。その根源に横たわる「キリスト教」。それはある時期に変容をとげ、純粋な「イエスの信仰」からは乖離したものであることを前回前々回の記事に書いた。
とくに前回、トルコ東部の地下都市に眠る信徒の棺の中で発見されたパピルスの束を解読したところそれは「バルナバスの福音書」であり、イエスの母語であるアラム語で書かれており、イエスとともに生きた者の手で記されたかもしれぬものであり、炭素年代測定の結果がその記述を後押しするものであったこと、そして「イエスは人の子」であるとし、現代までキリスト教徒たちの間で守られてきた「イエスは神の子」という教理にまるで反していることとそれが意味することを記した。
「バルナバスの福音書」の発見以来、それに関わる者たちの身に何かが起こり始める。


―我はキプロスのバルナバス、天空暦48年の終わりに、讃えるべき、この世の創造主より、全ての言葉を預けられし精霊と、マリアの子の救世主イエスから伝え聞いたその通りを、第四の写本として此れに記すなり―


天空暦48年とはおそらくイエスの昇天から数えて48年目ではないかと考えられている。西暦でいうと80年頃、ユダヤ戦争によりユダヤ人がローマ帝国にエルサレムを追われ、またユダヤ人であるイエスの使徒たちとその直弟子たちも散りぢりになってからである。
バルナバスの福音書は細々と守られたが325年、ローマ皇帝コンスタンティヌス一世が召集したニカイア公会議の席で採択された「イエスは神の子(あるいは神そのもの)」とする教理に適い「正典」とされたマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書の四書の他は炎に投じられ、バルナバスの福音書も例外ではなかった。禁書とされたこの福音書を携えるものは死刑に処されるほどであった。しかし迫害を逃れて密かに写本・翻訳が行われ生き延びたバルナバスの福音書がヴァチカンの法王直属の特別収蔵庫に眠っていた。16世紀の終わりにそこから盗み出されたとされる福音書が18世紀初頭にオーストリアの軍人プリンツ・オイゲンの手に渡りウィーンの図書館に収められ近代になって発見された。それはイタリア語訳本であった。
その英訳版が1907年にイギリスで「The Gospel of Barnabas」という題で出版された。しかしその発売日に何故か市場から姿を消し世に広まることはなかった。一説によればヴァチカンの修道士たちが一般人を装い書店という書店に列を成して買い占め、そうして集めた本を全て処分したという。大英博物館とアメリカ議会図書館に一冊ずつ残るのみとなった「The Gospel of Barnabas」のマイクロフィルムを入手したパキスタンのイスラム教徒が再版をかなえ初版から72年ぶりに日の目を見ることになった。


「The Gospel of Barnabas」の内容は明らかに新約聖書と相容れないものであった。使徒パウロを「騙された者」と呼び、三位一体を完全否定、イエスは神がアブラハムやモーゼ同様に預言者として遣わした「人の子」であり、磔にされる間際に神が天に引き上げ死なずして天国の住人となり、替わりに十字に架けられたのはイスカリオのユダであり…、いずれもカトリックをはじめいかなるキリスト教社会の認めようのない内容であった。さらにその中では預言者ムハンマドが現れることを予示されていた。
あたかもイスラームの教義に平行しているかのような「The Gospel of Barnabas」を教会はイスラム教徒の作為により書かれた「危険な偽書」と認定している。そして議論に上るたびに強硬にその内容を否定するのであった。


「ハッカリ文書(トルコのハッカリで見つかったバルナバスの福音書)」と「The Gospel of Barnabas」は原本と訳本の関係である。が、厳密にはそうとは言えない。アラム語からおそらく古ギリシア語、ラテン語、そしてイタリア語を経て英語に訳される段階でその意味を大きく変えてしまうほどの致命的な誤訳があって不思議ではない上に、訳者の主観と能力が必ず作用して原点から遠ざかることが余儀なくされる。純粋であることが求められる「福音」の翻訳は実は不可能なのである。であるからこそ、この福音書がよりイエスに近い時代にイエスの母語で書かれていることの意味が大きい。

ハムザ・ホジャギリは発見以来このバルナバスの福音書に関わり続ける数々の古代語の研究家として活躍するトルコ人である。ハムザ師曰く、バルナバスの福音書はその記述、その精神、その韻律どれをとってもイスラームの聖典であるクルアーンに共鳴するという。なぜそのようなことが起こりうるかは明白、ユダヤ教もイエスの信仰もそしてイスラームもそれぞれ矛盾することない同じ教えだからである。

ハッカリ文書の写本がゴラン高原に存在することを解読したハムザ師は旧知であっ
たヴィクトリア・ラビン(暗殺されたイスラエルの首相イツハク・ラビンの孫娘)に協力を求めた。イスラエル占領下のこの地ではラビン首相亡き後もその威光は健在であった。程なくバルナバス福音書の「ゴラン写本」を発見、そして解読する。師が解読文を英語で書き下し、それを読んだヴィクトリアはイスラームに帰依してしまった。

世界のどの古代遺跡の調査状況も諜報機関には常に筒抜けである。ましてやモサドのお膝元ともいえるゴラン高原の調査などはすぐにヴァチカン法王庁の知るところとなっていた。ハムザ師の解読が進む中で法王庁からの接触が始まり意見交換がなされていた。バルナバスの福音書とクルアーンが「同じ泉から流れる川」であるとのハムザ師の主張に対し、法王庁から来た枢機卿マルコはそれを否定するかわりにこう述べた。


「たとえ天からイエスが舞い降りようと、われわれのシステムは変わらない」


法王庁からゴラン写本を買い取りたいとの交渉を受けるヴィクトリアだが高額の提示にも断固として応じることはなく、それが禍したか27歳の彼女はモサドの手の者により殺害されてしまう。こうしてゴラン写本は渦中に陥りギリシアのある出版社に二束三文で買い取られてしまう。枢機卿マルコはその後原因不明の死を遂げている。

アンカラの司法裁判所の証拠品倉庫の中で2008年に奇妙な山羊皮製の本が見つかった。これもアラム語を古シリア文字で綴った文書であることが判るとバルナバスの福音書の原本ではないかという期待が持たれ炭素年代測定が行われたが、結果はおよそ1500年前に書かれたものであると判りバルナバスの時代のものではなかった。ハムザ師にその写真が送られると、曰くこの文書は「全く出来の悪い」聖書の一種で、およそ福音を伝えるために守られた本などではあり得ないという。皮の質が悪く書体も幼稚で、何より本の背面に十字架が描かれているなど福音書としてあるまじき姿という理由であった。皮肉なことにこの山羊皮本の出現によりバルナバスの福音書自体がイスラーム誕生後にイスラム教徒によって書かれた偽書であるとの評価がさらに高まった。この山羊皮本は2000年に摘発された古美術品窃盗団から押収されたがそのまま警察で眠っていたという。バルナバスの生地キプロスにその名を冠した聖バルナバス教会があり(バルナバスの墓所として知られているが信憑性は薄い)、実際に1996年に聖バルナバス教会はキプロス軍(トルコ軍の出先機関)の将校によって荒らされている。そしてこの事件を調査していたキプロスの新聞記者は同年何者かに殺害されている。結果を俯瞰すればこの山羊皮本をめぐる一連の事件はバルナバスの福音書を貶めるための謀りごとと考えられる。(トルコ軍の行動は常に不可解であるがイスラエルとの関係が緊密であることを考えれば理解しやすい。)

ハムザ師はバルナバスの福音書の全文を読んだおそらく唯一の生存者ではないかと思われる。そのハムザ師に対してもモサドをはじめその他正体不明の組織からの脅迫が止むことはなかった。研究を放棄することを要求され、従わなければ生命はおろか地位・学歴・職歴・出生証明・国籍の全てを白紙にすることもできると脅された。解読作業に関わる出版社や新聞社の人間が相次いで不慮の事故に遭い、さらに師は2003年ごろから癌を患い現在も闘病中である。イスタンブールの自宅から一歩も出ることなく暮らしているが訪れる取材には応じている。またテレビにも何度か電話を通して出演している。命などは惜しくないが身近な人々に事が及ぶのは耐えられないとする師は、すでにその全容を知りながらも福音書の訳文を発表することなく関連の執筆も一切行わず、取材を通してその内容の断片を語るのみである。


堕落したユダヤ教社会に生まれたイエスが広めたのはユダヤ教の原点に還らんとする教えであり「キリスト教」なるものを広めたというのは間違いである。イエスの昇天の後になって一神教の道から逸れ、ローマ帝国領土内の土着信仰―多神教的偶像崇拝―の鋳型に嵌められたのが「キリスト教」である。その種を撒いた者こそがタルソスのパウロであった。イエスと使徒を激しく迫害したパウロは突然回心し偶像崇拝者たちにイエスの教えを説きはじめる。それまで荘厳な、時には禍々しい姿をした「神々」を信じ、犠牲を捧げてその御心に適えば死後にこの世に生まれ変わると信じていた人々にとり目に見えぬ唯一神というものは想像に及ばぬ存在でしかなく、この世の人生は一度きりで肉体が蘇ることはないとする教えはとても認められるものでなかった。そこでパウロはイエスが「神の子」であるという主張を以って布教を行った。つまりイエスという媒体に神性を憑依させ神を物質化=偶像化したのである。

それによれば、信徒の全ての罪を背負うイエスを十字に架け、父なる神にそれを犠牲として捧げ、イエスの復活は罪が許されたことを意味し、信じるものは同様にこの世に生まれ変わることが出来る―イエスの教えから遠く離れたこのパウロの教えは瞬く間に多くの信徒を得た。論述に長けたパリサイ人であるパウロの影響力は強かった。パウロが使徒たちの中で着実に地位を固める中、それと争おうにも到底敵わぬバルナバスは去ってイエスと過した日々を振り返り「イエスの教え」を書きしたためた。それがバルナバスの福音書であり、逆ににローマ帝国の国教に上り詰めたのがキリスト教という名の「パウロの教え」である。


ヴァチカンのみならず全てのキリスト教会はバルナバスの福音書に光が当たることを望まない。教会の権威に亀裂が走ることは避けられない。亀裂はさらにキリスト教を政治の道具として、社会価値の礎として、イデオロギーの源泉として、非道の方便として利用してきたキリスト教社会つまり「西洋」に及んでその破壊すら招きかねない。二千年来この福音書は西洋の命取りであった。たとえ天からイエスが舞い降りようと変えられないという彼らのシステム、それはヴァチカンの体質などに非ず中世から近代にかけて築いた西洋中心の世界支配体制を指している。そして「西洋」を後ろ盾にするシオニスト、あるいは隠れ蓑に使うユダヤ人がいる。

現代の世界の枠組みの中、イスラームは「仮想敵」として想定されている。文盲、貧困、飢餓、女卑、暴力の先入観を植え付けたこの仮想敵をひたすら批判し攻撃を加えることで自らの正義を貫き、その影で行う搾取により資本主義帝国を築いた西洋としては、炎にくべた素顔のイエスの教えがイスラームに生き写しであり、しかもその預言者の誕生を予示していたことを表沙汰にされては非常にまずい。



さて、「The Gospel of Barnabas」に書かれていた「預言者ムハンマドの予示」は果して「ハッカリ文書」「ゴラン写本」にも存在した。ハムザ師の解読によれば

―我(イエス)の後にもう一人の預言者が続くであろう、それに従う者たちは熟れた麦の穂のごとくになろう―

そう表現されているという。
もとより旧約聖書(申命記)にも新約聖書(マタイ記)にも後に大預言者が現れるであろうということは書かれている。ただしキリスト教側はそれをムハンマドであるとは見ておらず、彼らに言わせれば旧約にあるのはイエスの誕生であり、新約にあるのはイエスの復活がそれに当たるとされている。

「熟れた麦の穂」をどう解することが出来るか、ハムザ師によればそれは繁栄や増殖を示すとされる。しかし僭越ながら筆者が付け加えさせてもらえば、たわわに実り穂をたれて地を覆う熟した麦が一斉に風になびくその様子がイスラム教徒の集団礼拝の光景を暗示していると思えてならない。ハムザ師は文字の世界に生きる人間であるがゆえ視覚からの安易な発想は避けているのかもしれない。凡人である筆者にはわからない。が、イスラーム特有と思われている頭を垂れ額を地につける礼拝の形がユダヤ教の古くからのそれであり、それはイエスと使徒たちに受け継がれ、そして今もアッシリア東方教会やエチオピア・コプト正教会に残ることをここに付け加えておきたい。



日本には縁のない話、と思われる方々も多いはずである。遠い国の昔話に聞こえるかもしれないが、「西洋」に無体を受ける筆頭の国として是非お気に止めていただきたい。神の御心のままに生きていたのでは物質の豊かさの中で歓喜することが許されぬことを知り、神ではなく物質をを礼賛する世界をひそかに築こうと目論んだ西洋は、福音を改竄して偶像つまり手製の神を祀らせたのである。

物質へのその凄ざまじい欲望を原動力に彼らは近代までに世界の大部分を支配下に置く。その後は武力による支配に加えてイデオロギーによる支配がはじまる。
イデオロギーとは疫病である。人はこれに侵されると物質界の価値に盲執し、虐殺が正義に、庇護が差別に、搾取が取引に見えてしまう。そしてよそから借りてきた言葉と脳で主張を始める。別の病人とは意思の疎通が全く出来なくなる。時として胸に涌くいくばくかの疑いも借り物の脳は受け付けない。
何も疑うことなく西洋の価値基準にあわせて自らを作り変えたある国はいま何もかもを吸い尽くされようとしている。それでもまだ西洋の発明したイデオロギーを疑うことができず西洋の政治や制度に規範を見出そうと腐心している。

これもまた西洋がその手で作り上げた神々であり、偶像である。その偶像の御心に沿うため、近づくため、人々は物質と精神を犠牲として捧げ続けている。犠牲の血を吸う土は穢れ、新たな犠牲を生み出す。紀元前から戒められていた偶像は、姿を変えて今も人の世を狂わす。




イスラームはそれまでにこの世に現れた預言者たちをすべて神の使徒であるとし、それぞれに託された預言は対立することはないと、モーゼも、イエスも、ムハンマドも同じ道を歩むものであると断言している。

セルマンは6世紀の終わりにうまれたユダヤ人であり、後にキリスト教に入信しアンティオキア教会で学ぶ。祈りの日々の中、遠い砂漠の国に預言者が現れたという噂を聞き是非会ってみたいと旅に出た。アラビア半島のメディナに至ったセルマンは人買いに囚われ奴隷の身となるが、彼を買い取り解放したのは預言者ムハンマドであった。セルマンはムハンマドの言行に触れ、まさしく神の遣わした預言者であることを認めイスラームの門をくぐる。しかし問わずにはいられなかった。アンティオキアの教会のかつての同胞たちは天国に行けないのだろうか、と。イスラームを知らねば天国も知り得ぬとするムハンマドの答えにセルマンは眠れぬ夜を過ごした。神への感謝と祈りをささげる心優しき同胞たちに救いはないのだろうか、セルマンはふたたび、みたびその問いを投げかけた。するとムハンマドにひとつの預言が降りた。

―疑うなかれイスラームと共にある者、モーゼと、イエスと共にある者、そして偶像を戒めるあらゆる教えと共にある者は、その教えの中で神と審判の日を畏れ、神の名の下に善行に勤しむならば、審判の日に恐怖と悲しみはおとずれぬ(クルアーン 雌牛の章62節)―

バルナバスの福音書

1981年ハッカリ県ウルデレ村―トルコ東部に位置しシリアと国境に近いこの村であるものが発見された。
狩りの途中に猟犬を見失った村人はその犬を探して洞穴にたどり着く。そこで足の下のほうから―大洞穴に響き渡るような―吠える声を聞いた。その声を頼りに下方に降りてゆくとそこには地下都市が蟻の巣のように広がっていた。
彫刻の施された石棺を見つけると「お宝」の期待に胸を躍らせながら村人はその蓋を開ける。そこに見つけたのは遺骸とその腕に抱かれた書物―見たことのない文字でうめられたパピルスの束―であった。
村人たちはそのパピルスの束を持ち帰る。聖書であろうことは間違いなく、これを換金しようと考えた村人はシリア正教の司祭のもとへとそれを持ち込むのであった。現代はトルコ国境の内側にあるとはいえここではシリア正教徒のシリア系住民が僅かながら生活している。この地域は原初キリスト教徒たちがローマ帝国の迫害を逃れて隠遁生活を営なんだ中心地のひとつであり、その後シリア正教教会の確立とともにその勢力範囲に含まれた。

しかし司祭にもさっぱり読めなかった。このパピルスの価値のわからぬ村人はとにかく売却しようと客を探し回った。そのうちにある国会議員の注意をひき、専門家の鑑定を受ける運びになった。


ハムザ・ホジャギリ(Hamza HOCAGİLİ)は十数種の古代語に長けた、特にアラム語にかけては世界有数の識者であった。ハムザ師はパピルスの最初の二枚を食い入るように見つめると、それは古シリア文字で書かれたアラム語の文書であることがわかった。

―我はキプロスのバルナバス、天空暦48年の終わりに、讃えるべき、この世の創造主より、全ての言葉を預けられし精霊と、マリアの子の救世主イエスから伝え聞いたその通りを、第四の写本として此れに記すなり―

洞穴の石棺に眠る者が胸に抱いていたのは、バルナバスの福音書であった。


炭素による年代測定によればパピルスが紀元前、使用されていたインクは西暦80年頃のものであることがわかった。イエスの生誕を紀元前四年とし、その昇天を西暦27年あたりであるとすれば「天空暦48年」というものを「イエスの昇天から48年目」と解釈することができ年代測定結果とほぼ噛み合う。このパピルスの束がいかに重大な意味を持つものかを知り、そして厳重に保護し記録に残さなければならないことを村人に説くが高額を要求され交渉は難航した。やっと出資者を見つけ出し契約までこぎつけ、いざ村人が師のもとに福音書を手渡すために村を出るとその車は軍警察の検問にかかり盗掘の疑いで身柄を拘束される。福音書は没収されてしまいその後この福音書はトルコ軍司令部の手に渡る。


聖バルナバス、イエスとほぼ同年代にキプロスに生まれた実名をヨセフというユダヤ人。バルナバスとは「慰め(ナバ)の子(バル)」を意味する霊名である。イエスの十二使徒の中には含まれないものの、イエスの傍に身を置きイエス昇天の後も使徒たちの布教に加わった。私財のすべてを手放して「イエスの言葉が少しでも遠くまで伝わるように」と布教のために身を尽くす。新約聖書に含まれる「使徒行伝」のなかに「聖なる魂に満ち溢れる者」と賞賛される。

「福音」とは「よき知らせ」、つまり創造主たる神が預言者に託した言葉である。イエスが神に預言を授かりそれはイエスの言葉、振る舞いを通して人々に伝えられた。そしてその昇天(新約聖書でいう磔刑)の後に弟子たちの口伝により福音として広められた。それをその後に集めて書き表されたものが「福音書」である。
イエスの母語は何であったか、宣教を始めた地ガリラヤでは当時アラム語が使われていた。イエスが使徒たちと交わした言葉は自然に考えればみなアラム語だった筈である。であるならばイエスを直接知る者がその言行を書き残そうとしたときに使われる言語はアラム語であるというのが考えやすい。しかし現存するの福音四書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ伝)の最古のもの(三世紀)はみな古ギリシア語である。ならばそれはアラム語から翻訳したものであるか、あるいははじめから古ギリシア語で書かれたものかのどちらかである。問題はイエスがこの世に在るうちにその言行が文字で綴られなかったことにあるのだが、口伝を繰り返した後に著された福音四書の内容と「イエスに託された天啓」の間には深刻な距離があると言っていい。

もしバルナバスが本当に福音書をアラム語で書き記していたのであれば、「天啓にいと近き書」にちがいない。

1986年、ハムザ師は当時政権にあったトゥルグトゥ・オザル首相に軍部が保管しているバルナバスの福音書の翻訳の重要性を説き口添えを願い出た。さまざまな駆け引きを経て一年後にやっと軍部が首を縦に振り最初の十数枚を撮影、軍司令部の中、いくつもの鉄の扉に隔てられた厳重な警備の元に翻訳が開始された。
ハムザ師によればそこにはまさにモーゼが神から賜りし預言と同じことを、つまりこの世を創造した唯一神のほかを神とするなかれ、人の子が手ずから偶像を作り崇めることなかれ、神の名をみだりに口にするなかれ、安息日に働くことなかれ、父母を蔑ろにするなかれ、殺すなかれ、盗むなかれ、姦淫するなかれ、嘘をつくなかれ、隣人の家を、家人を、奴隷を、家畜を、ひいては全てをよこしまな目で見るなかれ…すなわち「十戒」を説いていたという。そしてソドムの罪への警告やイエスがマリアから生まれた人の子であること、預言者であることがはっきりと書かれていた。


イエスはユダヤ人である。そして使徒たちも含めモーゼの教えを守る敬虔なユダヤ教徒であり、礼拝は会堂(シナゴーグ)にてトーラー(モーゼ五書)に沿ってなされた。キリスト教はユダヤ教徒と寸分の違いなき同じ信仰であるはずであった。が、時とともに解釈を曲げ偽善で塗り固められたユダヤ教はモーゼの言葉を受け入れられないほどに堕落した。
エルサレムのユダヤ教徒たちはイエスを弾圧した。神殿を商業施設として使い私服を肥やし、神を尊ぶふりをして実は物質を拝する、そして論理で武装し堕落を指摘する隙を与えないユダヤ人たちの態度をイエスが激しく叱責したからである。唯一神とその神殿を利用して富を築いたユダヤ教徒にとって純粋な正論を語るイエスは憎々しい存在であった。ユダヤ教徒の中でもサドカイ派とパリサイ派による迫害は苛烈を極めた。

弾圧者の筆頭に在ったパリサイ人(びと)のパウロはローマの市民権をもつユダヤ人であった。ある日、天空にイエスの姿を見てさらにその声―汝を異邦人への伝道者とせん―を聞き改心してイエスの教えに帰依する。当初はかつての迫害の恨みからユダヤ人たちから強く拒絶されはしたが、故郷に近いアンティオキア(現トルコ・アンタクヤ)で多神教徒(古代神を祀る偶像崇拝者)たちに対し熱心な伝道を行った。
イエスがこの世を後にしてからはその兄弟のヤコブ(聖マリアがイエスの後にヨセフとの間に得た子)がエルサレムの信徒たち(エルサレム教団)の指導者となっていた。そのヤコブにアンティオキアの噂が届くと様子を伺うため使者を立てるが、それに選ばれたのがパウロと旧知であったバルナバスである。
バルナバスが見たアンティオキア教会はいまだ多神教の影を纏うおよそ一神教とは言い難い有り様であった。まず割礼を行わなかった。安息日を守らなかった。そして手製の偶像の前で犠牲を屠り、その血と肉を口にした。しかしパウロをエルサレムに連れ帰りヤコブに引き合わせると、新たにモーゼの教えに触れたのであれば直ちに全てを実践するのは難しいであろう、偶像に捧げた犠牲の血肉から遠ざかりさえすれば神は汝らを拒みはしない、と、ヤコブは周囲の反対を押してアンティオキア教会を破門せずに受け入れた。その後パウロとバルナバスは伝道の道を共に歩んだ。
しかし「イエス」の在り方について論争が起こった。バルナバスは「イエスは人の子」であるとし、パウロは「イエスは神の子」であるとし、二人は激しく争った末に袂を別つ。傷心のバルナバスは故郷キプロスに戻りそこで生涯を閉じたとの伝説が残る。

弁論に長けたパリサイ人のパウロはやがて使徒として迎えられ、イエスの言行の解釈を明文化する上で絶大な功績を残したとされる。パウロの名を冠した数々の手紙は「パウロ書簡」として福音四書とともに新約聖書に含まれる。


エルサレムは多神教を奉じるローマ帝国の一属州であった。一神教の立場からローマの古代神を敬わないユダヤ教徒社会のエルサレムは(神へ情熱だけではないが)帝国と反目することになる。西暦70年、ユダヤ戦争でローマ帝国に敗れたユダヤ人はエルサレムから追い出される。ヤコブの率いるエルサレム教会も今のヨルダンへと活動の場を移した。しかし地理的に遠いアンティオキア教会は戦渦を逃れてそのまま存続し布教活動を続け帝国内に膨大な信徒を獲得した。やがてローマ帝国がキリスト教を容認しさらに国教とするに当たって中心に存在したのがアンティオキア教会の流れを汲むものたち、つまり多神教の要素を多分に含むパウロの弟子たちとそれに教化された信徒たちであった。彼らの考えと後に結びつくのは「神」とは「父なる創造主、子なるイエス、父が子に吹き込んだ精霊」の三位を一体とする理論である。

四世紀に入り、無尽蔵に拡大したローマ帝国を一つの共同体として掌握するための決め手に事欠いたコンスタンティヌス一世は信徒の増え続ける「イエスの信仰」を共同体意識として利用することに目をつけた。そのために混乱した教義を整理し正当教義を明示する必要に駆られたのである。口伝により広まったイエスの言行が遠く離れた各地で拾い集められ収められた福音書のその数は数千に及ぶ。どれが正典で、どれが外典で、どれが異端であるかを審理し「キリスト教」を確立するため325年、ニカイア(現トルコ・イズニク)にて初めての公会議が行われる。

審理の争点は「イエスの存在について」「三位一体論」の二つであった。しかしこの時代にはパウロの流れを汲む「イエスは神の子」と「父と子と精霊」という考えがすでに権威を得ており会議の流れはおのずと決められていた。そして採択されたのが「ニカイア信条」であり、膨大に集められた福音書のなかでニカイア信条に適う福音書はたったの四書、聖マタイ、聖マルコ、聖ルカ、聖ヨハネの名を冠するその四書のみである。しかし「冠している」だけで実際に誰がいつ書いたものであるかなどは学説ばかりで実は不明である。ただし共通項として「三位一体と神の子イエス」があることを踏まえればこの四書は「パウロの福音書」と呼ぶことが出来よう。こうしてモーゼの教えと決別して確立したのが「キリスト教」である。「イエスの信仰」とは別のものである。
異端とされたほかの福音書は炎にくべられた。異端として追放されたアリウス派をはじめとする諸派は隠し持った福音書を手に東方へと逃れ、岩窟に地下都市を築き隠遁の時代をすごす。

「三位一体」の構造をなぜ一神教が許さないか、それは正しい説明が広くなされていないのでここに記しておく。
「神」とは「在りて在るもの」である。その存在の原因は存在せず、その存在は何者にも依存しない。誰からも生まれず、そして誰も生まない。そして人の姿はおろかどのような姿をも持ち合わせない「みえぬ存在」、つまり「非物質」である。肉体を持ったイエスを神の子とするのはイエスを媒体として神を物質化することである。物質化された神と神格化されたイエスは「同質」となり人々は目に見えるイエスを直接「神」として見てしまう、ここですでにキリスト教が創造主をおいてほかに神はなしとする一神教の原則から外れたことになる。ユダヤ教、原初キリスト教、後のイスラ―ムにおいても預言者(アダム、ノア、アブラハム、モーゼ、ダヴィデ、イエス、ムハンマド、そのほか大勢)は神の言葉を託されただけであり神そのもの、或いは同質などとはされていない。また、神像やイコンのみならず偶像とはあらゆる物質がそれになり得るのである。肉体とてその内に入る。人の子が何物かに価値を置き固執し、そのために自己や他人を、社会を、国家を犠牲にささげることこそが偶像崇拝である。そして現代、最も身近な偶像は貨幣である。

じつは三位一体の構造は大昔からあった。

太古、地中海沿岸からオリエント、インドに根を伸ばす古代信仰や神話群に三神一体(三相一体)を多く見出すことが出来る。いずれも創造・繁栄・破壊の三相の循環の永遠性を意味する信仰であり、これは天と大地の恵み(創造)による収穫(繁栄)と枯渇(破壊)の営みに対する畏怖の形として農耕に深く関係している。その根にあるのは「再生」への強い願望で、収穫や繁栄を司る神はデーメーテールやキュレベーのような地母神として捉えられていた。ギリシア神話は特にその色が濃く、それをほぼそのまま踏襲したローマ世界にも「三神一体」と「地母信仰」が継承された。
そして信仰が信仰として在りつづけることはなく必ずや政治が影響する。古代国家の政治が神の名を騙ることでなされてきたことがそれを物語る。そこで漏れることなく見られる形が「支配者・神官・信託」、それは支配者の意向を神官の口から信託と偽って吐くことであり、キリスト教の「父・子・精霊」の関係の原型を見ることが出来る。

三位一体というラテン語を最初に使ったのは二世紀後半にカルタゴ(現チュニジア―北アフリカも多神教的地盤にキリスト教が浸透した地域である)で生まれたテルトゥリアヌス、彼はキリスト教徒であり法学者であった。ストア派哲学に基づく法精神をふんだんに盛り込んだラテン語のキリスト教著作が彼によって残され、その中にあった言葉が「三位一体-Trinitas」である。この構造を以って国家を統治することの有効さをよく知っていたローマ人たちがこれを見逃すわけがなかった。地中海の地にもとからあった三神一体構造がこうして三位一体として生まれ変わり、ニカイア公会議を機にキリスト教の礎石となった。

地母神と結び付けられたのが聖母マリアであった。「人を産むもの」か「神を産むもの」の論争が行われ「神の母」との決着がつけられたのは431年のエフェソス(現トルコ・エフェス)公会議であるが、この地はかつてのアルテミスを豊穣女神と崇める地母信仰の中心地でありキリスト教の浸透後はマリア信仰がそれに取って変わった場所でもある。マリアを「神の母」とするに明らかに有効な場所で持たれたこの公会議では「人の母」たる見解を崩さなかったネストリウスが異端とされエジプトに追われた。

一神教での「再生」とはこの世での仮の人生を終えたものは肉体を離れて真の人生を迎えることを指す。しかしキリスト教での「復活」の描かれ方はこの世での肉体の再生の意味が強い。これには古代信仰に脈打つ「再生への願望」が少なからず影響している。


1991年、ハムザ師の翻訳が突然中止された。政権や軍の幕僚が交代しそのほかの政治的な動きが複雑に絡んでのことだがその後ヴァチカン法王庁から買取の打診があろうとカーター本米国大統領が見せろと言おうと軍部は頑として受け付けなかった。バルナバス福音書は軍部の保管庫に閉ざされてしまう。
翻訳が済んでいない残りのパピルスのうち数枚のコピーがハムザ師の手に残るのみとなるも奇跡とはこういうものなのであろう、その中にはこの福音書の兄弟ともいえる写本の在り処が記されていた。

その場所はイスラエルに占領を受けるシリア領ゴラン高原、サウジアラビア北部にあるトゥル山の修道院、北イラクのザホの三箇所、つまり最初の一枚に書かれていたようにこの福音書は全部で四書あるという。

ゴラン高原の文書の位置はダヴィデ王に纏わる遺跡の地図とともに記されていた。シリア領でありながらイスラエルに不当に占領されているゴラン高原でこの文書を探すためにハムザ師が協力を求たのはかつてイスタンブールの大学の研究室に勤務していたころ学生であったヴィクトリア・ラビン、在任中に暗殺されたイスラエルの首相イツハク・ラビンの孫娘であった。彼女が発起人となりドイツ企業の提供をつけ遺跡探索・発掘が進められた。2002年、バルナバス福音書の「ゴラン写本」が見つかった。同じくアラム語の古シリア文字による記述、そして同じ内容、同じ神の言葉…

2007年にサウジアラビアにあるという写本もアラブの軍人によって発見された。北イラクのものはいまだ発見されていないという。


「ゴラン写本」をハムザ師が翻訳し、ユダヤ教徒であったヴィクトリアはそれを読むとイスラム教徒としての道を選ぶ。
そしてエチオピアから来たという何者かの手にかかりヴィクトリア・ラビンは命を絶たれる。

バルナバスの福音書を西洋は歓迎しない。ハムザ・ホジャギリはこの後に多くの死を目の当たりにすることになる。以下次号。



迷える魂に光を、迷わぬ魂に力を、迷わす魂に雷を与えよ―


戦争屋の理屈 シリアで化学兵器が使われたことについて

この映像は春の風が吹きすさぶリビアにサルコジ前大統領が仏軍を侵攻させさた後だった。2011年6月2日、イスラエルのテル-アヴィブ大学で行われた講演である。講師はフランス人哲学者のベルナール・アンリ・レヴィ(Bernard-Henri Lévy)、そして現在イスラエル法相のツイッピー・リヴニ(Tzipi Livni・当時はイスラエル野党第一党党首)である。



おふらんす野朗のオカマ英語にイライラするのでご了承いただきたい。



-レヴィ氏に質問します…政治において倫理と現実との間の選択はどのように為すべきとお考えですか?たとえばじきにエジプトで大統領選挙がありますがムスリム同胞団が議席の過半数を得たとしますと、どのような立場をとられるでしょう?アルジェリアで起こったようにエジプト軍がムスリム同胞団の政権獲得を阻止する必要があるというご意見はおありでしょうか?もしくはガザ地区でハマスがそうなったように民主主義の掟に従いムスリム同胞団の勝利を許すのでしょうか。

-1992年にアルジェリアで選挙が(軍事クーデターにより)中断したのを肯定的に見ている。「GIA(武装イスラム集団)」や「イスラム救済戦線」が与党となるのは民主主義に反している。
ガザの例(ハマスが選挙に勝ったこと)にも同じ感情を抱いている。私に言わせればあれもクーデターだ。民主的なクーデターだがクーデターには違いない。ヒットラーが1943年に与党を勝ち取ったのもクーデタだ。
エジプトでムスリム同胞団が与党に立ったとしても「民主主義がこれを欲した」とは言えまい。「選挙の結果に従おう」とは、もちろん言えまい。
モンテスキューの言を用いてバラク・オバマが言ったように、民主主義は選挙だけを指すのではなく社会的価値を指す。両方とも必要だ。
もし私が何を信じているかしりたいのなら…ここでこれをいうにはリスクがあるけれど…私もエジプトの専門化ではないので皆さんと同様に状況を見ながら主張しているに過ぎない(ことを前提に話す)が、私の主張は、エジプトで有力になるであろう新しい空気(ムバラク独裁を駆逐し国民投票による民主政治が始まること)はムスリム同胞団にとっていい風を送るとは言えないということである。同胞団が与党になりそうだという状況を役立てるために彼らを「力をもつ唯一の政治組織」と認めることを私は肯定しない。

-あなたのお話を正しく理解したとすれば、もしムスリム同胞団が正式に選挙に勝ったとすれば、同胞団が与党に立つことを阻むために軍部がクーデタを起こすことに賛成するとおっしゃるのですか?

-ああ、賛成する。彼ら(ムスリム同胞団)が与党に納まらないためならなんでもする。

-国際法に従って、ね(笑うリヴニ)

-さっき話したようにね(笑うレヴィ)




演題は「リビア」であった。ここでは欧米がリビア問題にどういう姿勢をとるべきかということが話され、その関連で話に上ったのがエジプトである。
講演の日付は2011年6月でありながら、語られた内容はまさに今日のエジプトである。これが何を意味するかはお察しのよい方であれば説明の必要もない。


レヴィの主張を要約すれば次のようになる。

ひとつ、西欧の価値観から外れた政党が当事国国民の支持を得て勝利した場合それをクーデターと定義している。

ふたつ、アルジェリアの選挙が軍事クーデターにより反故にされたことを肯定している。

みっつ、国民が指導者を選ぶという民主主義の大原則をはなから無視している。

よっつ、エジプト国民が選んだ政党をエジプト軍によるクーデターにより排除すべきだとしている。



ベルナール・アンリ・レヴィは、アルジェリア生まれのフランス国籍を持つ「哲学者」である。ユダヤ系であるとされている。アフリカ・中東・旧ユーゴ・旧ソ連のあらゆる政治問題に首を突っ込んでは欧米の軍事介入を煽るいわば「戦争屋」である。懇意にしていたサルコジ前大統領に仏軍のリビア侵攻を提唱したのもこの男、つまり「アラブの春」の脚本家の一人でもある。レヴィに鼓舞されたためかサルコジは仏軍にリビア空爆を開始させ、英米軍はそれに続く形で参戦した。さらにNATO軍が加わりリビア介入は空爆開始後半年でようやく終結する。この映像の講演が行われたのは仏英米NATO軍の「いい加減な」爆撃のため多くの市民が誤射・誤爆の犠牲になっていることが明るみになり介入に批判の声が集まりだした頃であり、おそらくは軍事介入の正当性を再確認するためにもこのような講演会が催されたのだろう。

仏軍のリビア侵攻は一般には「悪者カッダーフィー」を王座から追い落としたとされ肯定的に見られているがそうではない。アフリカ・アラブ一帯に欧米の新体制を布くための作為であり、侵略である。今のエジプトの惨劇も同じように欧米の標的となったために起きたであろうことはこの映像がそれを証明している。

横で首を立てに振りながら賛同する女はツイッピー・リヴニである。ユダヤ人である彼女はシオニスト武装組織の幹部の娘として生まれた。兵役の後モサドに勤務しパリなどを舞台に多くの特殊工作(暗殺)に携わった。その後弁護士を経て政界に入りシャロン首相の懐刀として活躍、脳卒中に倒れたシャロン(暗殺未遂説あり)からオルメルトに政権が移るとそこで外務大臣に就任した。その後一時政治の中心から遠ざかるが去年から議員として復帰する。現在はネタニヤフ政権の法務大臣を務める。殺し屋が大臣になれる物騒な国である。

一般人が勝手にこのようなことをほざく分には問題はない。しかし欧米の政財界そして世論に少なからぬ影響力を持つこの男が、国立大学の講演会で元閣僚と同席の上で発言したことであれば意味が違う。さらなる問題はエジプトがこの男の提言したとおりの道を歩まされていることである。



今日のエジプトの惨状は日本でも映像が公開され知られるものとなったがわかりづらいことが多い。「誰が暴力を振るっているか」が見えにくい。

虐待を受けるのはムスリム同胞団とそれを支持する市民たちである。
銃で市民を射殺するのはエジプト軍である。
催涙ガスや棒で市民を攻撃するのは警察である。
軍や警察とは別の「自警団」がある。現地では「バルタギイヤ」と呼ばれている。テロや紛争で親を失った子供たちをムバラク政権が保護養育しバルタ(=斧)を持つ私服の暴力集団として育てた。思想も信仰もない。金、食料、覚せい剤を与えられ、家もなくバラックで暮らす。ムバラク政権時時代には敬虔なイスラム教徒の市民たちはこのバルタギイヤに常に生活を脅かされていた。
ムスリム同胞団のデモ隊に危害を加え、逃げる者をリンチにかけ、逃げこんだモスクを取り囲んでは火をつけ、教会に放火しその罪をムスリム同胞団になすりつけたのはこのバルタギイヤである。ソーシャルメディアの映像の中で棒を振り上げ暴れ周り「暴徒化したムスリム同胞団」の印象を世界に与えたのはこのバルタギイヤである。

アメリカはエジプト軍に対する一切の援助から手を引き制裁することを宣言した。こうして表面上は虐殺を受ける側に立つかのように取り繕う。しかしアメリカの中東外交はイスラエル抜きでは語れない。アメリカがエジプト軍に資金と兵器を流さないことはイスラエルを中東で丸裸にすることに近いのである。ではどうやってイスラエルを納得させたか。

アメリカが停止した援助は我々が埋め合わせる、と、エジプト軍を勇気付けるサウジアラビア王家。イスラエル・米・サウジ・エジプト軍がそう合意した上での制裁宣言だった。サウジを含む湾岸諸国の殆どは欧米追従型の世俗主義政権である。彼らにとって同胞団の台頭は甘い石油を貪ることを阻害されかねないために何より恐ろしい。その湾岸諸国を使い石油価格を操る欧米としては同砲団にその基盤をひっくり返させるわけにはいかない。この好機に同胞団をあぶり出し、駆除したいのである。

エジプトではムスリム同胞団の幹部たちが次々に捕らえられている。
若く血気盛んな者たちに忍耐を教え、神の言葉を咀嚼して説くことのできる老練の指導者が最も必要なこのときに彼らは軍によって獄中に送られる。
そのかわりに獄中から舞い戻ったのは無期懲役で服役していたムバラクである。今後は自宅で軟禁されるという。

世界のメディアがいかに同胞団をテロ組織呼ばわりしようとそうでないものは仕方がない。彼らの真の目的は教徒として生き、教徒として死ぬことである。そして神のほかには誰にも服従しないという教義を守るためには命を顧みずに戦う。
傀儡政権によって信仰を妨げられることに反抗したこの市民たちを「民主化を求めて立ち上がった」と勝手に定義したのはじつは西洋人である。


シリアでも昔からムスリム同胞団が政治組織として活躍していた。そして悲劇は国民のほとんどがスンニ派イスラム教徒であるこの国で、シーア派であった軍人ハーフィズ・アサドが欧米の支援でクーデターを起こして政権を乗っ取ったことで起こった。スンニ派の同砲団と市民は政府から激しい弾圧を受けることになった。そして1982年、「ハマの大虐殺」が起こる。非武装の市民が政府軍の爆撃に遭い、地下に避難した市民は毒ガスによって殺害、その数は三万人を超える。シリアにおいてこの大虐殺に触れることは投獄を意味している。

そしていま泥沼の内戦にあえぐシリアでは、息子のバシャール・アサド政権と、それに反抗する勢力が攻防を繰り返している。

反政府勢力はひとつではなく、いくつもの勢力がゲリラ的に戦いを続けていることは「いったい誰が悪いのか」を見えにくくしている。


父から大統領を継承したバシャール・アサドは引き続きスンニ派の国民を迫害し続けた。
ハマの大虐殺以後もムスリム同胞団は地下活動を続けアサドを政権から追う好機をうかがい続けていた。そしてエジプトから飛び火したアラブの春に乗じて反政府デモを開始したが政府軍の激しい制圧はデモを内戦に発展させた。
シリア軍から離反した軍人たちが「自由シリア軍」を結成し反政府戦闘勢力の中心的存在となる。
シリア北部に勢力を持つクルド人武装部隊も反政府側に組みしているが、圧政に対して戦う集団とは目的が違い彼らは「国土」を求めている(旗をたてれば建国できると思っている)。
そのほか金で雇われた寄せ集めのアルカイダとヒズボッラー(いずれも擬似イスラム武装集団)が目的もなく暴れている。その雇い主もまた欧米である。
アサド政権を非難しこの反政府組織に資金協力をするのは欧米である。
それに対しアサド側に資金を貸し付け武器を売るのはロシアである。
これだけの流血惨事を前にして、指一本動かそうとしないのが国連である。


いったい誰と誰と誰が悪いのか。


アメリカはアサド政権に対し「化学兵器の使用が(侵攻の)限界線である」とかねてから宣言していた。しかし去年から化学兵器が使用されたとの噂が流れていたが調査する権限のある唯一の組織である国連は何の調査も行わなかった。
今月にはいりエジプトの情勢がますます悪化するのと同時にシリアの戦火は激しさを増した。そして今週明けに国連の調査団がシリアに入り化学兵器の使用があったかどうかの調査がようやく行われ始めた。


その矢先である。
21日未明ダマスカス近郊の数箇所で、サリンと思われる化学兵器が使用された。正式でない発表によれば死者は1300人を超える。苦しみながら命を落とした罪なき市民の、その大半は子供だった。


アサド政権は化学兵器の使用を否定した。
ロシアは反政府勢力のプロパガンダだとして支援していたアサドを庇った。
国連は直ちに事の真相を明らかにするよう委員会を立ち上げる意向を明らかにした。
アメリカは「限界線を超えた」と指摘、反政府勢力に更なる資金援助をすると発言。
イギリスはアサドを非難。
フランスは「軍事介入」と即座に言った。
イスラエルはアサド政権が化学兵器を使用したことを諜報部が確認したと発表。


国連調査団がシリア国内で活動中の今なぜ化学兵器を使ったか、これは解せない。
アメリカが以前から化学兵器の使用を侵攻の前提のような言い方をしており、イスラエル諜報部がその使用を告発し、それにフランスが呼応するかのように侵攻を叫んだ、これも解せない。
なにより今まで何もしなかった国連が重い腰を持ち上げて調査団を送った時点と化学兵器が使用された時点の一致、これが一番解せない。

そして気が遠くなるほど恐ろしいのは、化学兵器を使ったのは誰であったかを「認定」するのは国連なのである。



冒頭の、民主主義とは投票結果ではなく社会的価値観だという戦争屋の主張をぜひもう一度読んでいただきたい。その価値観とやらの中には非西洋人社会のそれは含まれていない。まさにこれが民主主義の産みの親たちが掲げた思想である。
この世で親子が死に別れたり、一家が消えてしまったり、町中、村中、国中が焼かれたり、国が孤児たちをゴロツキに育てたり、そして同国人を殴り、襲い、血を流して内戦へと引きずり込む地獄絵の背景にはこの吐き気のするような戦争屋の理屈があることを知っていただきたい。
そしてこれはイスラエルという特殊な国での理屈ではなく世界の主導権を握って離さない欧米と、国連という決して和平のためになど機能しない巨大組織で共有する思想であることを、ゆめゆめ忘れないでいただきたい。

スノーデンなんかにかまっている場合ではない

青白いヲタク青年がやたらとメディアに露出しているのが引っかかっていた。出すぎである。アメリカにとって本当に都合が悪いことであれば隠蔽できる類の事件であろう、もう彼の存在の目的が見えてきたような気がする。あくまで予測でしかないため短い記事にしておこうと思う。


「のぞき趣味」をすっぱ抜かれた合衆国政府はまっつぁおになり捜査に乗り出す。が、そのころにはスノーデンは香港に逃れていた。彼はNSAのプリズム計画(監視・盗聴システム)が存在することとその手口を告発、NSAから持ち出した機密情報を複製して多数の新聞社に送付し、危害が加えられることがあればその情報を公開するとそして身の安全を図った。
スノーデンはプリズム計画を告発した時点で合衆国政府からパスポートを失効させられている筈であり、そうなれば香港当局に身柄を拘束されアメリカに強制送還されなければならない。なのになぜか香港から出国できた。行き先はロシアだった。

合衆国政府はスノーデンの引渡しをロシア側に要請するが、両国間には犯罪者の引渡しに関する取り決めがないため交渉は平行線をたどる。プーチン大統領は「おいでやすモスクワへ」とも言えないのですぐには入国を認めなかった。その間スノーデンは空港内(ここはロシア国内でないためロシアの法律が及ばないとされる。もちろん外交上の言い訳でしかないが)にとどまり、同じく空港内のロシア外務省出先機関から各国政府に対し亡命の申請をしていた。また人権団体との面会も頻繁に行われていた。

結局ロシアが一年を期限とした亡命を受け入れた。

国家機密の国外持ち出しはどこの国でも最高刑に値する重罪である。アメリカはロシアの犯罪者保護を激しく非難した。しかしその国家機密というのが「国家的のぞきシステム」であったというのが笑うに笑えない。諜報機関がある国ならばどこでもやっていることと主張するオバマには悪びれた様子もない。さて、各国はこれをどう評価しているか。

盗聴の対象にされたのは一般人の個人情報から大学、ひいては各国大使館に及ぶ。各国政府は一様に不快感の声をあげた。しかしその程度である。その筈、冷戦時代から大使館の盗聴などは日常茶飯事であり、KGBとCIAは言うなれば盗聴の家元であった。時代が変わってコンピューター化したために情報の量と速度が増しただけのことであり、NSAの収集したような情報は世界中で共有され使い回される。どの国も文句を言う筋合いでない。

事件は一般人の興味を引いてはいるがその反応は鈍い。個人情報を盗まれていることに対する危惧よりも事件のドラマ性に惹かれて興味本位で成り行きを眺めているといっていい。おそらくこの手の情報収集が行われているであろうことは一般人でも多かれ少なかれ予感していたことで、やや不感症に陥っているのかもしれない。メールの内容や個人情報が盗まれているのではないか、それによる脅迫がこの先おこるのではないか、そんなことは普通にささやかれていた。そして、

「後ろめたいことをしていなければ恐れることはない」

多くの人がそう結論付けている。
強請られるようなことをしなければよい、たしかにそうだがそこでは終わらない。指紋や声紋や筆跡を利用したり、データを改竄した冤罪がいくらでも可能になる。犯罪現場に政府にとって煙たい人間の指紋を人工的に残すことなど朝飯前になる。これはやや極論めいているとしても「データ」の過信が覆すことのできない冤罪を生む可能性はおおきい。

それでも多くの一般市民に直接降りかかる災難というよりは反政府的な発言を繰り返す文筆家や一部の政治家が危惧することであろう、やはり普通に暮らす善良な小市民には縁遠い話である。だからこのスノーデン事件をスパイ映画を観る感覚で眺めていられる。





この事件をいつものヤラセ・アメリカーナだったと仮定する。
大使館をはじめ一般人の個人情報までが公然と盗まれている、そんな事実が公になったとしてもアメリカは痛くもかゆくもない。実はこうして告発されて明るみに出ることで、世界中に盗聴を「承諾」させることができる。既成事実による事後承諾である。それが意味するのはすなわち「あなたは監視されてますよ」という暗示である。

監視を受けていることを潜在的に意識することで人々は政府批判、政治談議、そういったものから無意識に遠ざかるだろう、沈黙を余儀なくされる。政府に従順な国民をそだて、その枠の中で民主主義とやらを展開させればいいことになる。楽だ。

そして親たちは政治から目を背け、ただでさえメディアが垂れ流す娯楽に骨を抜かれたその子供たちは一切政治に触れずに成長することになる。今の子供たちが成人する頃には世の中から政治の話をするものが絶滅することになる。これが第一の目的であろう。



スノーデンは香港から出国できたというだけでも十分におかしいが香港は完全に中国とは言い切れない地帯である。100年もの英国支配を受けた土地は返還の一言でその影響が一蹴されるようなことはない。国家機密を持ち出したとされるスノーデンは女王陛下のスカートの中にかくれた。盗聴されて困るようなことが何もない中国政府は「しらんかお」を通し目をつぶり、英国情報部との細かい調整を終えたスノーデンはモスクワ・シェレメチヴォ空港へと発った。

英国とアメリカは別の国はあるが親子関係にある。本店と支店の関係ともいえる。

スノーデンのもつ情報がはたしてロシアに有益なのか、ゴミ屑同然かもしれない。そしてスノーデンを受け入れることで米から批判を受けるのと米露関係が傷つくのは明らかである。しかしロシア行きは最初から決まっていた。なぜか。

この事件を受けてオバマは九月に予定されていた訪露を一方的に中止した。メドヴェーシェフ時代に氷解に向けて動いていた米露関係はプーチンの再就任により逆戻りしたように見える。

W・ブッシュ時代の外務大臣であり現在は大学で教鞭をとるゴンドリーサ・ライスはCBSの番組に出演しオバマの訪露中止を支持する発言をした。「ロシアによるスノーデン亡命受け入れはアメリカの顔に食らわせた平手打ちだ」、そして「米露関係は冷戦時代に逆戻りしたとは言わないまでも恐ろしいものとなった」と言った。

ここにきて「冷戦」の言葉をちらつかせている。
第二の目的がこれである。冷戦状態はアメリカにとってもロシアにとっても都合がいい。大統領の支持率は上がり、武器弾薬がよく売れる。



そして第三の目的は中東問題の長期化である。
九月に予定されていたプーチン・オバマ会談では長引くシリア問題の解決が重要な議題とされていた。表向きは内戦という触れ込みのシリア問題もアサドを利用したロシアと欧米の代理戦争である。双方ともまだ停戦する気がないためわざと仲たがいして見せることで和平協調の席に敢えて着かないのである(イラン系サイトのアサドを支持する記事を鵜呑みにするとロシアが正義の味方に見えてしまうので注意が必要である。普通どの国も自国の利益のためにしか動きはしない)。




当ブログに中東事情を綴るのは単なる興味や暇つぶしではない。ましてや無責任な正義感からでもない。中東で常に非道をはたらく影の勢力と、わが日本人が憧れて止まず生き方や思想の手本としている国々は同一であることを申し上げたいのである。そのようなことは判りきっているとおっしゃる方々には、ではなぜそれに甘んじて生きてゆかねばならないのかをお尋ねするためである。
わが国は知らぬうちにその非道に加担していることも、いずれ同じ非道を行うであろうことも逆に同じ非道を受けるであろうことも目に見えている。中東の戦火は対岸の火事ではない。
日本には日本の先祖が残した知恵と生き方がある。近代の訪れとともにその全てを「非合理」と見なしかなぐり捨てて、西欧に学び西欧を真似て生きてきた150年間の負債をいま突きつけられている。このまま非道に迎合し続けるか、踵を返すかを日本人がその胸に問いただす時は今である。


エジプトでは敬虔なイスラム教徒でありムルシー大統領を支持する非武装の市民が軍のクーデターの餌食になり、13日から続いたなりふり構わぬ虐殺で600人以上の命が失われた。黒幕でありながらこの恐ろしい殺人劇に気づかぬ振りをしてきたアメリカはここに来てようやく流血を非難、アメリカに続いて西欧諸国と国連も似たような声を上げた。西欧には非難に必要な死者数というものがあるらしい、さすがは数量でしか物事を判断しない民主主義の信望者である。しかし軍と市民のどちらを非難しているのかまったく不明瞭なゆるい発言であった。エジプトにはコプトと呼ばれるキリスト教徒が生活しており、その宗教活動のための教会も多数ある。その教会が放火による被害を受けていることをオバマは軍部に反抗するイスラム教市民の仕業と発言しているが明らかな虚偽である。なぜならたとえ異教徒のものであろうと聖域は聖域、決して侵してはならないという教義がイスラームにはある。なによりも無抵抗で凶弾に倒れることを選んだ市民は蛮行など働けない。

アメリカとイスラエルも親子である。イスラエルと国境を接するシナイ半島では混乱に乗じてイスラエル軍が侵入し市民に危害を加えている。ここでも馬鹿息子に火事場泥棒をさせている。
ムルシー支持派の市民を軍に殲滅させ、その軍事政権はこのまま世界世論に抹殺させてエジプトの全土、あるいは一部をイスラエルの手に委ねようとしているのかも知れない。そしてパレスチナを完全に孤立させることを目論んでいるのかも知れない。



イラク、シリア、レバノン、パレスチナ、エジプト、ソマリア、紅海をはさんでイエメン、いま非道が進行している地域である。この地域を人の近づけぬ地獄にしてしまいたいのである。なぜか、石油目当てというだけではない。
ここはユダヤ教・キリスト教の初期の教徒たちが流浪した土地である。ローマ教会とシオニストたちが歪曲する前の純粋な教義を記した、教義とともに生きて死んだ教徒たちの魂を刻んだ紙片が、羊皮が、木片が、石碑が石油の如く埋もれている土地である。宗教を大義名分に世界地図を作り上げた欧米が知られて本当に困ることはこの地に昏々と眠る。スパイが持ち出した情報などは紙屑にも及ばない。




スノーデン事件。アメリカがとっつきやすいスパイ劇をメディアにばら撒いたという予測とその理由に関する覚書きとして読んでいただければ幸いである。

ただし理由とした部分は予測などではない。

Pagination

Utility

書き手

ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

つれづれのかきこみ

さがしもの

こよひのつき

CURRENT MOON