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くそ教師の罪状書 次男

「くそ教師どもっ」

普段は穏やかなうちの次男が家に帰るなり言い捨てた。中学二年、難しい年頃といわれる時期を生きているこの子は、一月ほど前に級友を痛ましい交通事故で失っていた。


その級友は去年の夏までオーストラリアで暮らしていたトルコ人家族の子だった。父親は海外で暮らすトルコ人のために政府から派遣されるイスラム教のイマーム、僧という訳はちと正しくないが。つまり聖職者であった。その任期満了を以って家族とともに祖国に戻り、筆者の暮らす町でモスクとイマムたちを統括するムフトゥという職に就いていた。

ユスフという名のその子はよその国で育ったためか頓珍漢なトルコ語を話す面白い子だった。たぶん何もない草原の中で大きくなったのだろう、大がらで大らかで大ざっぱな性格だった。彼はどう贔屓目みてもトルコ人に見えないうちの息子たちに親近感を覚えたらしく、次男の学級に転入してからずっと一緒に遊んでいた。家も近かった。

「どの高校にいくの?一緒に宗教学校にいってイマムになろうぜ」
次男はそんな妙なお誘いを受けるほどユスフから好かれていた。

大人は別としてだがこの国の子供たちの間には今のところ「いじめ」というものがほとんどない。本人に著しい問題がなければ、見た目が違っても家庭に問題のある子でも疎外されることはなく、うちの子たちも一度たりとて「よそもの」と揶揄されたことはなかった。

しかし次男の学級には「いじめ」の萌芽が見え隠れしていた。いじめを受けることはなかった次男であるが、集団の中で息苦しい思いをしている子たちの受け皿になってはいつも周囲との板ばさみになっていた。なぜそんな学級になったかははっきりしている。小学校の一年から五年までを担任した教師が、人生を成功させるには競争することで互いを高め合うことが効果的であり、そのためにはどうすれば相手に勝てるかを常に意識しなければならないという信念の持ち主であったからである。そんな彼女でも二児の母である。

その「教育」の方法は最初から卑怯そのものだった。新一年生たちの親、とくに母親たちをまず脅迫する。

競争はもう始まっている、そのバスに乗り遅れたら一生はそこで台無しになる、そうならないためには学校と家庭が子供を追い立てなくてはならない、模擬試験の結果は子供の「現在位置」を示す信頼のおける座標であり常にこの窓から子供たちを監視せねばならない、成績の推移は家庭の鏡であり親の監視の甘さは子供たちに即座に影響する、お宅のお子さんは成績が悪いが親としてどのように対応しているのか、と。

生まれた年度のほかは全てが違う子供たちに「平等」な教育を施すことを「公平」と思い込むおめでたい大人たちは、早足の授業についてゆけない子たち、頭の使い方がほかの子と違う子たち、興味がもっと別のところにある子たちがいることを考えない、考えようとしない。そんなことを考えているうちに教師たちの言うようにバスに乗り遅れてしまうからである。
女教師の得意技は「ゴミ拾い」、規律を乱したり宿題をわすれた子たちは罰としてゴミ拾いをさせられ、周りの子たちはそれを指差して笑うように指導された。そして努力しないとろくな職業に就けずにゴミ収集業者になるというのが口癖だった。規則を守らないことや努力を怠ることを恥じるように啓蒙しているというが、恐ろしい履き違いをしていることはここに書くまでもない。

入学してから半年たった頃の保護者会でのことだった。この担任教師は生徒の親が自分の陰口をたたいていると大泣きしながら訴えた。親たちからは指導が厳しすぎるという反発もあったが教師当人に抗議したところで聞き入れられないのなら当然おこる陰口である。しかし自分は生徒たちに寝ても覚めても頭を悩ませており夢に出てくるのは我が子ではなく生徒たちであると言っては自らを激しく弁護する。たとえ陰で何も言った覚えがなくともこの教師がやり過ぎだとは誰もが思っていたので泣かれた側としてばつが悪い。ありもしない罪の意識にかられてあえなく敗訴、弁護士兼原告兼判事のこの教師に教育という名の武力行使権をさらに与えてしまうことになる。雄弁であって当然な教師によるこの茶番法廷を卑怯といわなければ何と言おう。

遊びも、行事も全てが競争だった。遅れをとる子は罵倒された。怒鳴り声で緊縛され、頭が真っ白になったところで授業をうけるという毎日だった。自分の競争相手を見つけ、それに勝つことを目標にその日を生きるように教えられたと次男の口から聞いたときはさすがに「まずい」と思い学校へ行った。あんたの信念はそうかもしれないがうちの息子には関わりのないことだから今後は読み書き算術以外はなにも教えないでほしいとお願い申し上げた。面を喰らった担任は、これは自分の思い付きなどではなく有名な心理学者の推奨だと反論する。それがどうしたキチガイめ、こちとらその心理学者とやらにビタ1リラ(1リラ≒60円)の借りもないのである。

だからこの学級の子たちは人の失敗を喜ぶような癖があり、人を庇うことを知らず、押し付けはしても分け合うことができない。病気で学校を休んだ友達の親に向かって「次のテストで悪い点とるかもね」などと平気でいう。日本の慢性化したいじめには程遠いが、その初期症状ともいえる不器用な慳貪さを感じる。このまま放っておけばれっきとしたいじめに発展するだろう。
教師が親たちを煽り一緒になって押さえつけた結果である。この子達はいわば被害者だろう。しかし悲しいかな子供の心とはいえいつまでも哀れな被害者であることは自らが許さないのである。被害者同士のなかで弱者を選び出し、それに対して加害者となることで何とか矜持を保とうとしてしまうのである。そしてその弱者というのも教師側から勝手に弱者に分類された子たちであって彼らが判断したわけではない。

うちの次男のまわりには、不登校、落ちこぼれ、そのほか文字に書きにくい境遇の子たちが集まっては違う町へと越していった。

そして組変えを経ることなく同じ仲間たちがそのまま中学にあがった。今度の担任も二児の母親である。将来、職場で一番の成績を成したものだけが人生の成功者になれるのだからその訓練は今から始まる、一等賞の子供たちには豪華商品を与えてその味を覚えさせるべきである、という考えの持ち主である。国語(トルコ語)の教師であるだけにやはり弁が立つ。柔らかい口調で親たちを洗脳するのであった。

模擬試験の成績上位十五人だけスキー遠足に連れて行くだの、年度末に一等成績の「完璧くん、完璧ちゃん」を選び政府発行の金貨を贈るだの(その費用は保護者全員で出すのだが)ふざけたことばかり思いつくのである。いったい人を何だと思っているのだろう、鞭で尻を叩き人参を鼻先にぶら下げておけばいくらでも走る競走馬だとでもいうのだろうか、馬にも失礼である。

もう呆れてしまい抗議するのも面倒なのだが仕方なく学校へ行き、スキーも海水浴も金貨も間に合っているので頼むから普通に授業だけやってくれませんかとまたお願いした。そのときにたまたまその場にいたのがユスフの母親だった。どうやらユスフのことで呼び出されていたらしい。

ユスフは私にとって誇りともいえる生徒です、トルコ語がまともにできなかったのに短い間ですっかり上達して今ではほとんど支障がありません、とまず褒めていた。その後で、オーストラリアの教育は知りませんがこの国のシステムにそぐわなそうですね、ユスフのおかげで授業が遅れて困っています、と脅しつけ、さあ力を合わせてユスフを矯正しましょう、と母の心臓を一突きにした。彼は確かに落ち着きにかける子だったが授業の妨げになるほどではなかったし、もっと困った子は他に大勢いた。「いいがかり」をつけているのだとすぐにわかった。ユスフの母親もクルアーン学校の教師を長年つとめるいわば聖職者である。こういう一家は「学校」からは無視されるか目の仇にされるかのどちらかなのである。これはトルコという国が建国以来抱える難題のひとつである。

オスマントルコ帝国はイスラム教義に基づいた法(シャーリア)により統治されていた。イスラム法の善悪のよりどころはクルアーンであり、クルアーンは神が預言者ムハマンドに天使を介して与えた啓示を文字にしたものである。
大航海時代以来覇権を手にした欧州列強の目の上のこぶがトルコであった。なにしろ弱者からの搾取を基盤とする欧州経済理念が通用しないのである。この世の全ては神の持ち物であるとするイスラム経済によれば、命も知恵も力も神が与えたものであり、それによって富を得た者は喜捨をすることで弱者を守る義務があるとされている。富める者の喜捨こそが経済の礎であった。帝国の領土は広く食料と労働力に満ち市内にも宮殿にも黄金がひしめいているというのに、イスラム法は利息を厳禁としているためイスラム教徒に金を貸しつけ身ぐるみを剥がすことができない。経済のいろはを説こうと「神を畏れよ」と説教されるのが関の山、かといってキリスト教への改宗を促すと刀を抜いて追い返される。全く忌々しいのがイスラームであった。
しかしその帝国も不滅ではなかった。第一次大戦後に新政府が樹立されるとこの国にも日本の明治維新より80年ほど遅れて欧州化がはじまった。欧州の価値観が流れ込む中でそれにそぐわないものが次々に駆逐された。しかし西欧人が手こずったのはやはり神様、この世の物質の持ち主が誰か、それは神ではなく人であり人の命も所詮は物質であると人々に教え込むのには時間がかかることは容易に予想できた。そのため新政府は学校の整備と教師の育成を急ぎ、その傍らで聖職者たちを思想犯として追い詰めた。学校では子供たちに帝政とイスラム教を過去の汚点と教えた。


いま学校で威張り腐る教師たちはこの世代の孫か曾孫の代にあたる。ほとんどが左翼を自称するがマルクスとケインズの区別もつかないただの物質主義者、言い換えれば「アンチ神様」に過ぎない。小中学校からしてこの調子であればそこで好成績を修め人生の成功者としての道をすべりだした者たちがどのような社会を築こうとするかは理解にたやすい。しかしこの国が日本のような過度な物質主義国にはすぐに成り下がらなかったのは、まだ家庭という器がしっかりとしていたからだった。学校の先生が何を言おうと親の言うことが絶対であり、男子であれば親の職業を継ぎ女子はよき母親になればそれで十分と考えられていたため子供のうちから学校で競争する必要が全く無かったのである。が、それも過去の話となった。

次男の担任たちがまず親たちを脅して狂わせようと画策したのは教育界の闇の指令があったのかと感じないわけにはいかないのである。そしてそれは今のところ成果を挙げ続けている。わが子たちが成功者になれば家や車を手に入れ、よき伴侶を得て幸せに生きられると、だがバスに乗り遅れるとそのすべてを諦めることになると思い込まされた。


ユスフ一家は週末は病気見舞いや揉め事の仲裁に駆けずり回っていた。それは彼らの勤めでもあり、市内のみならず遠い地方まで足を伸ばすのはいつものことであった。そして事故はそこで起こってしまった。
ユスフと父親はその場で命を落とした。後部座席にいた母親と二人の妹たちのうち母親がその身で庇うことができた末娘だけは軽傷で済んだが長女はいまだに意識不明の重態である。危篤から抜け出した母親は、皮肉なことに意識が戻り悲劇を知ることとなった。天命とはいえ受け入れるにはあまりに重い。

一月まえの土曜日の朝、家の中を無言でさまよう次男に気がつきどうしたと聞けばニュースでユスフ一家の事故を知ったという。間違いかもしれないけれど怖くて誰にも聞けないという。そのうちに、葬儀を知らる町内放送が聞こえてきた。町中が悲しんだ。普段は物見高い人々も噂をするのが憚られるほどみな意気消沈した。モスクでの葬儀には町の内外から人が集まり救急車と軍警察が待機するほどの人混みとなった。今それから一月が過ぎようとしている。


人々が会してクルアーンを誦むことを「メヴリッド」という。イスラム教では葬儀から40日たった頃に残された隣人たちがそのメヴリッドを行い、この世からあの世に祈りをとどけるという習慣がある。40日は土の中で亡骸が朽ち土に還るためにかかる時だといわれている。この日はイスラム教の大預言者ムハマンドがこの世に降りたという祝日であった。40日にはだいぶ足りないがその恩恵にあずかるためにも繰上げてメヴリッド行われたという。

40日目のメヴリッドは葬儀を出した家に隣人を招くのが普通であるが、参加者の多さ次第で集会場やモスクでも行われる。昼の礼拝の後に町で一番大きなモスクでメヴリッドがおこなわれるとの町内放送が聞こえたのはその日の午前、二時限目の授業中だった。
昼の礼拝は南中時の少し後にはじまるので、それが終わるのは今の季節なら午後の授業が始まった頃にあたる。次男と級友たちは担任にどうしてもメヴリッドに行きたいと懇願した。答えは「HAYIR (だめ)」、メヴリッドにかこつけて授業をさぼるつもりでしょうと頑として許さない。自分らは私用でいくらでも授業を放り出すくせにである。だが子供たちは諦めなかった。話をわかってくれそうな先生に片っ端から頼んで回る。葬儀となればともかく、それ以外の宗教行事のために生徒に授業を受けさせないのは本来禁止でありもし報告されれば懲罰を受けかねない。生徒たちの気持ちはわかってもなかなか首を縦に振ってやれない教師たちも、その心は物質主義と神様の間で揺れ動いていた。なぜならば彼らも子供時代に同じような思いをした記憶があるのだから。そしてとうとう教頭が折れてくれた。区役所からマイクロバスを調達して子供たちを乗せ、会場となるモスクまで引率してくれた。



この世での善行も悪行も全て天使が書き記し動かぬ証拠として神に献ずる。神はそれを秤にかけて魂の行く先を審判する。天国か、地獄。その秤は喜捨の金額や殺生の回数などの物質量ではうごかない。なぜなら人はもとより平等になどは創られておらず、施し得る善行も犯した悪行もその生まれに左右されるからである。蜘蛛を踏み潰すことを思いとどまった大泥棒が地獄行きを赦されるかもしれないことなどは在ってあり得ることである。もしかすると紙一重の差で地獄の業火に焼かれることから免れるかもしれない、残された者はその願いをこめてこの世から祈るが、それが聞き入れられるかは神のみぞ知る。
ならば体を離れた魂は祈りをささげる者があろうと、なかろうと、ただ神の御前に引き出されこの世での行いを裁かれるのみと思うほうがよい。ならば葬儀も墓標も残されたもののためにあるといえる。葬儀がなければ大事な誰かがこの世から去ったことを認めることができないだろう。墓がなければまだ生きているかもしれないと思い煩うだろう。人が集まりその世話に追われれば、身を斬る悲しみがいくらかは和らぐだろう。そしてその亡骸が朽ちた頃に人々はまた集い、この世というかりそめの時を生きる肉体は天命により必ず亡びることを、そして肉体は再びこの世によみがえることの無いことを、ならばこそ肉体のあるこの今を、裁きを受けるその前のたった一度の人生を神の御心に添うよう生きなければならないことを肝に銘じ、人生を踏み出したばかりの子供たちにも伝えるのである。



メヴリッドから戻った次男は願いを聞き入れようとしなかった教師たちを「くそ教師ども」と呼んでなじった後は、モスクでは集まった大人たちが抱きしめるように歓迎してくれたこと、そして教頭先生は連れて行ってくれただけでなく、28人の子達に昼食を手配してくれたことを静かに話した。

もう何年もこの学校に勤めている教頭はイマムの資格もある宗教学校の出身者である。そんな彼が教頭にまでなれるのは珍しいといってよい。三年前にやってきた新しい校長は無神論者にちかい人物なので教頭はかなり息苦しい思いをしており、そろそろ転勤を願い出ようかとこぼしていたらしいことを聞けば今度の行動は「やけっぱち」だったのかもしれない。以前ゆっくりと話したことがあるのだが、教頭いわく昔は「わたし」はなく「わたしたち」だけだったという。いい事も悪いことも「わたしたち」ものとしていつも分け合うのが当たり前だったが、いま生徒たちにその話をしてもまるで分かってもらえなくなった。「わたし」の目先の損得だけが評価基準となり「わたしたち」はどこかに消えうせたと。そして国の中もばらばらの「わたし」が闊歩するのみ、それを集めても「わたし」団体であって「わたしたち」にはなりえない、と。


キチガイのようなかつての担任教師だが、彼女はこの国での少数派に属するアゼルバイジャン系トルコ人であり東部は旧ソ連国境近くの貧しい村の出身であった。となれば彼女も教師の職をつかむまでの間には冷たい疎外を受けてきたその当人なのかもしれない。被害者でいつづけることに魂が耐えられず知らぬ間に加害者となってしまったのかも知れない。それは彼女の天命によるもので罪だけではない。だから憎んではいけないのだろう、彼女の教え子となったのも次男の天命といえる。


次男は家では兄と弟の間に挟まれて大きくなった。学校に行けばいつも弱い子と強い子たちの間にあった。そんな彼は叩き上げの板ばさみ体質なのか、すれ違う二つの心の双方を理解してしまう事ができるために一人で心を痛めることが多い。痛んでいるのが人の心なのか自分の心なのかが判らなくなるようだ。
もしユスフが生きていたら、歪んだ学級で息が詰まった彼の「一緒にイマムになろうぜ」という願いを断りきれずに本当にそうしたかもしれない、そう思うとなんだか可笑しい。イマムという職は世間並み以下の低収入で、農業や商店などと兼業しなければ生活は厳しく結婚すらおぼつかないこともある。そして故郷で職に就けるとも限らない。遠い寒村の子供たちにようやくクルアーンを教えるようになれた頃には同級生たちは大都市で外車を乗り回しているかもしれないのである。だがどんな生き方が幸せかは親や教師や社会に教え込まれる事ではない。見つけるのは他でもない自分である。

この子が大人になる頃には世の中はもっと複雑になり、幸せとは何かなどはもう到底わからなくなっているかもしれない。逆にその日の糧にも事欠く暮らしを世界中が強いられているかもしれない。どちらにしろ親である我々はそんな世の中しか残してやれそうにない。あまりに非力な我々が親としてできるのは、どんな天命でも受け入れられる心を持てればそれが幸せだということを、この人生をして見せてやることぐらいである。
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やいイスラエル、謝って済みゃ警察はいらねえ

日本ではまったく報道されていないと思うが、このあいだイスラエル政府が生まれて初めて謝った。誰にって、それはトルコ共和国にである。


    


あれはもう三年近く前、滅茶苦茶な事件だった。イスラエルに一方的な攻撃を受け続け食料も医薬品も底をついたパレスチナのガザ地区に救援物資を届けるため地中海を就航中の六隻の民間船(トルコ、アメリカ、ギリシア船籍など)がイスラエル軍に行く手を阻まれ、そのうち一隻が攻撃に遭い死傷者が出た。

過半数がトルコ人、そして周辺のイスラム・非イスラム国32カ国からなる総勢748人が分乗する船団はもちろん非武装であった。乗組員も民間の社会活動家や医師、記者などであった。

2010年5月30日、地中海各地からキプロス島に集まった船がガザに向かって出航した。事件は早くもその日の深夜におこる。午後10時を過ぎた頃、船団に対しイスラエル側から警告が始まった。イ海岸線から50海里以上はなれた公海上である。法律上、公海は全ての国に解放された水域であり、そこではその船の掲げた国旗の示す国の法律によってのみ拘束される。この地点でイスラエルにとやかく言われる筋合いはない。この救済船団の主要船であったマーヴィ・マルマラ号の船長は、航行の目的と積荷の明細をイスラエル側に告げ、また停泊・進路変更の意思も義務もないことを伝えた。数時間におよぶ無線応答のあいだも船団は南下を続けるがイ領海を侵すことはなかった。拿捕の上イスラエルに連行する旨を伝えられるが船団はこれを拒否、なおも南下を続けた。乗組員たちは万一に備え救命胴衣とガスマスクに身を包んで待機した。無線以外の通信手段は妨害電波により絶たれていたためNATOにも国連にも通報できなかった。

    gazze
    緑の破線が船団の航路、赤破線がイスラエル軍、紫の海域は各国の領海域を示す

そして夜明け間近、依然として公海上にありしかも応戦する装備などない船団にヘリと高速船が近づいた。自動小銃をにぎる完全武装の特殊部隊が強行に乗り込むと六隻のうち五隻は無血で拿捕されたが、大型船であったマーヴィ・マルマラ号はそうは行かなかった。

イスラエル兵は無抵抗の乗組員に対しいきなり発砲し、昏倒するまで殴りつけた上に至近距離から頭や胸を撃ち抜いた。普段からガザで働いている暴行と同じ手口、その模様は乗組員たちが撮影している。ましてや各国の報道関係者が撮影機材を積み込んでおり攻撃の詳細が記録されることはイスラエル側もわかっていた筈だ。これが世界中に公開されることも目的の一つであったかのようである。

なぶり殺しにされぬために、甲板にあった角材や金属パイプで乗組員たちは必死に防戦した。しかし死傷者が増え続けることを恐れた船長は降伏し拿捕受け入れを決定、白旗を掲げてその意を示したがその後も攻撃はしばらく続いた。死者9名、重軽傷者54名。死者のうち8人がトルコ人で一人はアメリカ国籍を併せ持つ未成年のトルコ人であった。


イスラエル国防軍の特殊部隊とは何やら強そうだがそのうち三人が武器を奪われて袋叩きにされている。本当は弱いのだろうか?イスラエルの行動などはもとより理解不能なため見失いがちだが、静観すると不自然なところがいろいろ浮かんでくる。船団のなかには20人規模の船もあったというのにわざわざ500人以上も乗船している船を選んで騒ぎを起こすのはおかしい。日本とは違いトルコには兵役があり、成人男子は素手で武装者と戦う訓練を一応受けている。いくら武装しているからとはいえ、大勢に囲まれればそれなりに不利になるし、それを見越した装備であったとも思えない。

乗組員たちの行動は極めて冷静であった。イ兵の銃を奪い取るが使用はせずに海に投げ捨て、負傷し降伏した兵士の手当ても船医が速やかに行っている。仮に奪った銃を発砲して応戦してしまったとすれば海賊行為を働いたとの嫌疑が向けられていただろう。また負傷兵を見殺しにしていたとすれば殺人罪で起訴された可能性もある(生きたまま重しをつけて海に放り込んでやりたいのを必死でこらえたことだろう)。負傷したイ兵の懐中には乗組員の名簿があり、氏名・職業などの詳細が写真とともに詳細に載せられていた。どの船に誰がいるかまで知られていた。

おそらくこの事件の裏には過去のイザコザが関係している。

トルコは新政府樹立から親イスラエルで知られていた。トルコ軍の高官はすべてイスラエルの肝煎りで、軍備はほとんどイスラエルから調達していた。国家の武器庫の内訳をにぎられていたことにもなる。(いや、そんな国がほとんどである筈なのに戦争だの国防だのといっているほうが可笑しい)
しかしこの最後の十年でトルコは進路を変えた。親イスラムの政権が生まれイスラエルとは当然距離を置くことになった。イスラエルに媚びへつらって私腹を肥やしていた軍人や政治家はその勢いをほぼ失った。
2009年のダボス国際フォーラムにおいて、トルコのエルドアン首相はイスラエルのペレス(敬称不要)に対しガザ(パレスチナ)への暴力を面と向かって批判した。ペレスが激昂し反論するには、パレスチナで暴れているのは我々ではなくハマスである、我々は平和を求める民族であり、それに牙を剥くハマスと戦っているに過ぎない、お前は何も分かっていない、と。それを受けたエルドアン首相は頭から湯気を出して怒った。(過去においてハマスは武装集団としての活動が目立ったが近年は代替わりが進み、いまでは国民に支持された与党政党である。しかし国連とアメリカはハマスに対しテロ組織としての指定をまだ解除していない。)

       

この模様は日本語でも紹介されておりご存知の方もあるだろう。しかし英語から日本語に訳したものでは微妙に感触が違うので筆者がトルコ語から日本語に直してみた。首相が伝法に喋るのは皆様の気のせいである。(映像で最初にでてくるのはイスラエルのペレス、エルドアン首相の演説は一分を過ぎたころからはじまる。)

年寄りのくせしてふてえ声を出しやがる。悪党どもの声がでかくなるのは負い目があるからに違えねえ。
やい、てめえらは人殺しにかけちゃあ見上げたもんだ。
こちとらガザの海岸でてめえらが年端もいかねえ子供らをどうやって殺したかはよっく知ってらあ。
そういやイスラエルの昔の首相の中で二人の野郎が面白れぇこと言ってやがったな。戦車に乗ってパレスチナに入ったときの気持ちよさときたら他たぁ一味違うんだとよ。それから戦車に乗ってパレスチナに入ったときゃあ滅法幸せな気持ちになるんだとよ。
てめえらも許せねえが、この極悪非道を手を叩いて囃し立てる連中も許せねえ。子殺し人殺しを誉めそやす奴らも同じ穴のムジナってことよ、てめえらの悪行を洗いざらいぶちまけてやりてえがそれほど暇じゃねえ、たったの二つだけしゃべらしてもらうから神妙に聞きやがれ!


ここまで話すと司会者が邪魔に入る。時間がありませんから、と、一体何様のつもりか知らないが一国の首相の肩を揺すり喋らせまいとする。司会者を睨んで一分待ちやがれすっこんでろと怒る首相、しかし執拗に首相の言葉を遮る司会者に堪忍袋の緒が切れた。

へえへえありがとさんにございやす、あっち(ペレスの持ち時間)が25分でこっちがたった12分たぁどういうことでえ!こんなふざけたダボスなんざ呼ばれたって二度と来るもんか畜生め!

そういい捨てるとエルドアン首相は席を立ってダボスを後にした。(後日、首相は危うくあの司会者をぶん殴るところだったと述懐している)イスラム教国諸国はもとよりパレスチナを援助するキリスト教団体やそのほか人権擁護団体からは首相のこの発言に対し感謝の声が降り注いだ。国内の野党からも一切の批判は出なかった。

誰がどう見ても主催者側の態度はおかしく、イスラエルの嘘もあからさまだった。後でペレスから届いた弁明によれば耳が遠いので何を言われたのかよく理解できなかったため誤解が生じたとか、何やら爺くさい言い訳だがどう聞き間違えればイスラエルが悪くないことになるのかは不明である。いずれにしてもこの騒動はここで幕を閉じた。しかしイスラエル政府やそれと同じ穴のムジナたちはさぞ面白くないことだろう、首相を賞賛する声で沸き返る国内もいつかイスラエルから手の込んだ嫌がらせを受けることは肌で感じていた。

イスラエルによるパレスチナの攻撃は緩急の差はあろうとも止むことはない。飛び地状態のガザ地区は二方をイスラエルと国境を接し一方には海が迫り、残りの一方はパレスチナに対して頑なであったエジプトに面していたため正に陸の孤島、食料も飲み水も燃料もイスラエルの機嫌しだいで皆無になることもあった。市民は国連による雀の涙ほどの援助でようやく命を繋いでいた。

首相が名指しで批判したのはイスラエルだけではない。同じ穴のムジナたち、つまりこの非道を止める気のない国連、まともな救援活動をしないWHO,WFP,勘定奉行のIMF,イスラエルの使い走りのEUと欧州議会、イスラエルの産みの親であり御目付役であるアメリカ合衆国政府、そしてそのアメリカに引導を渡し知らぬ存ぜぬを通す世界中の人々全てに対し啖呵を切ったのであった。

そして起こったのがかのマーヴィ・マルマラ号事件であった。国連に救援物資を委託してはドブに捨てるも同然、そこでトルコの市民団体がわざわざ80万ドルを負担して船を購入しての救援活動だった。積み込まれていたのは食料や薬品のほか、手術や検査のための医療器具、建築資材、工具など、一刻も早く役立てねばならない品々であった。イスラエルに連行された船団と乗組員は二ヶ月以上軟禁されてようやく帰国することができたが、その喜びとは別に言葉にできない悔しさをかみ締めていた。船体に残る銃痕は事件を言葉なく語っていた。
内心どうあれ国連、NATO,EUからはこの事件に関しイスラエルを非難する声明が出されている。船団の届けるはずだった救援物資は国連が責任を持ってガザ市民に分配すると約束した。(そもそもこいつらがまともに仕事をしていれば起きない事件であった。盗っ人猛々しい。)
しかしアメリカは、市民団体の援助はハマスに対し向けられたものでイスラエルの権利を害する行為にあたり、またイ軍の制止を強行に突破しようとしたのは犯罪的である、即ち事件をイスラエルの正当防衛とする意見を出した。繰り返しになるが船団はイスラエルの領海には掠りもしていない。そのままガザに到達しようがイ軍には制止する権限など存在しない。つまりアメリカでは海軍が公海を鮫のようにうろつき、軍人が装備のない民間船に乗り込んで一般人に殴る蹴るの暴行を加えた上に射殺することは正当な防衛なのだそうだ。なるほど、そういえばアメリカの裏路地では警官が同じようなことを市民に行っている。

その「力」を誇示することが存在の目的であるかのように何かしらを絶え間なく攻撃するしか他にやることがないのである。凶暴な上に嫌われるのが好きでたまらないという物理的かつ生理的に迷惑な国、イスラエルとはそんな国だ。
報道陣の撮影を妨害しなかったのは事件後に公開させたかったからである。妨害電波を張り巡らせて救援を呼ばせなかったのはNATOに対する「思いやり」であろう。トルコ人を執拗に挑発し反撃させようと試みた。特殊部隊の中に弱い奴を混ぜて置いたのか、あるいは芝居を打たせたのかはわからないが意図的に武器を奪わせ使わせようとした。そして殺させようとした。そしてその映像を公開し「民間人を使ってハマスのテロに加担するトルコ政府」と銘打ってにっくきトルコの顔を潰そうとしたのである。誰を射殺するかは事前に手に入れた乗船名簿から検討されていた。アメリカも、アメリカ国籍を持つ少年の射殺に対し眉一つ動かさないことでトルコ側に弁解の余地がないとする態度を強調するつもりだった。が、そうは問屋がおろさなかった。乗組員の冷静な行動によりマーヴィ・マルマラ号作戦は失敗に終わった。

そして三年ちかく経ったつい先日、イスラエルは事件の非を認め謝罪してきた。遺族および被害者に対する補償も要求どおり行うとも言ってきた。トルコ政府は謝罪を受け入れる方針を示したが実のところは謝罪ということを建国以来一度もしなかった国からこういわれたので薄気味悪くて困っている。ぎりぎりの外交努力で掴んだ謝罪には違いないが素直に喜ぶわけには行かない。

たしかに三年前の勢いはイスラエルにない。欧米とてみな自国の経済難を何とかすることに忙しくイスラエルのすることにかまっていられるほどの余裕はない。また中東でのトルコの発言力は増す一方で欧米はもはやこれを無視できなくなっている。欧米は中東・アフリカ地域の管理・搾取をトルコを利用することでより潤滑に行いたいため、うわべだけでもトルコに仁義を切ろうとする。だから仕方なく謝罪してきたのかと思えば、それだけでもないだろう。

国際社会におけるトルコの地位を必要以上に引き上げ中東の「君主」として舞い上がらせることで石油成金諸国(サウジ、クウェート、バーレーン、ヨルダンその他)との仲たがいをさせたがっている。小さなことですぐに関係が壊れるのがこの地域の危ういところである。アラブ人たちが国家間紛争を部族同士の小競り合いと同じ次元でしか考えていないからである。エルドアン首相は周辺諸国に対し協和の大切さを強調し、欲からは欲が、憎しみからは憎しみしか生まれないこと、欧米の庇護を受けずに自立した上で自国民のための政治を行うべきだと説いて回っている。石油漬けで頭が働かなくなった王族たちの理解を得るのは至難の業だがエルドアン首相は決して怯まない。
そんなことをされては商売上がったり、欧米にしてみれば迷惑千万である。イスラム社会の覚醒ほど彼らが嫌うものはない。長年かけて築き上げてきた西欧中心の唯物主義社会が音を立てて崩れ去るかもしれないからである。だから彼らは今、イスラムの弱点を探し漁りそれを突くことに血道をあげている。

これに対抗できるのは法的手段でも復讐や憎悪でもない。人の手による法律などは人がいかようにでも利用することができる。懲罰は神に委ねるべきものであり、憎しみに任せて手を振り上げることは許されない。仲間の額を打ち抜いた兵士を捕まえても血祭りに上げなかったのは神への畏れがそうさせたのである。イスラエルの兵士とて人の子、神の創造物である。その罪を問うのは神であって人ではない。憎しみは悪魔の糧、復讐は悪魔の余興、これを悪魔に貢いではいけない。一人が武器を捨てれば100人の血が救われる。皆が憎しみを捨てれば、この世の傷は明日にでも癒える。





日本人が仮に国の外で拘束され、酷い目に合わされたとしても日本政府は救出はおろか補償に関しても一切の外交努力をしないだろう。その気もなければ能力もないときてるから恐れ入る。どなたさんもお気をつけなすって。

道すがら

家から歩くこと20分、水平に測れば遠くはないが80m近い丘を登ったところに今の仕事場がある。丘よりも岩山と呼ぶほうが似つかわしい。

全景


道すがら、家々の庭の木や花を眺めるのも一興。カッパドキア地方は乾燥地でありながら果樹がおおく、アーモンド、桑、さくらんぼ、杏子、プラム、桃、梨、くるみ、林檎、葡萄、花梨が順々に花をつけ、実る。とくに葡萄は有名でカッパドキアワインは欧州のものに引けをとらない。その欧州からもワインの原料として葡萄を買い付けに来るほどである。
ところで、近所の女房衆をはじめこの辺りの女の人たちの多くは貧血による頭痛や目眩に悩んでいる。風土病なのかと考えていたが、たわわに実る果物を見ながらあることに気がついた。彼女たちはこの果物をあまり口にしない。
理由のひとつは「太る」から。医者は果物の中の果糖を白砂糖や甘味料と同一視してこれを制限するよう諭している。ただでさえ恰幅のよい彼女たちには同時に高血圧や糖尿病の気があり、糖度の高いスイカや葡萄はご法度なのである。当然、人の体を壊しているのは近代以降に使い始めた白砂糖や農薬で、医者の勧める薬の常用がそれに追い討ちをかけた。さらにはお里の怪しい農・畜産物、正体不明の人工甘味料、敵はこやつ等であって果物であるなどとは言掛かりにも程がある。葡萄を食べて血圧が上がるほうがおかしい、と、そう考える医者はおらず、ひたすら降圧剤を売りつける。

収穫の多くは大都市に出荷されるかぶどう酒の原料になる。イスラム教国の農村の女たちがぶどう酒を飲む筈もなく結局ほとんど口にはいらない。血が薄くなったのはこの土地に生まれて生きているにも関わらずその土の恵みを取り逃がしてしまったことが災いしたと、そう思えてならない。

梨

三歳半になる娘と家を出る。以前はこの子を仕事に連れて行っていたが、今の現場は高所で足場も悪く一緒に行くのは諦めた。近所の友人に預けてしばしの別れ。
いざ、岩山へ。

いきしな


道すがら、頬にあたる風が日ごとに冷えて行くのがわかる。刺すような日差しはもうない。秋が来た。
急な坂道を登り町から外れるともう人の気はなくなる。このあたりはもう誰も住んでいない。ここはその昔、村の中心地であった。足下に広がる新市街はかつては農地だった。人々は風当たりと日当たりの強すぎる平地での暮らしを嫌い、夏は涼しく冬暖かい岩の洞窟の中で暮らすことを好んだ。人々は日の出とともに羊や牛を連れてこの岩山を下り、畑で働き、日の沈む頃にまた岩山を登った。この暮らし近代はとともに消え失せた。人々は岩山を捨て平地に降りた。物言わぬはずの壁が、窓が、釜戸の煤が、かつてのその営みをひそりと語りかける。

門


カッパドキアは地方全体が世界有数の遺跡である。先史時代から多くの民族が住み、キリスト教徒たちが隠遁し、後にイスラームと共生し、網の目のように這う絹の道をらくだに乗った隊商が行き来した。後からきた異文化が先にあったものを駆逐することなく上にかぶさり融合してゆく。寿命の長い岩と石の建築はそれを許すことができた。その逆の道を歩んだのが日本の建築であった。日本の建材は朽ちて腐りゆく木や紙によるものだからこそ風景も、人の心もまた違うのだろう。その違いは風土と呼ばれるものになる。



世界の遺跡の町の共通の悩み、それは「今」がないことであろう(どれほどの人が悩んでいるかは不明だが)。遺跡が売り物であるということは遺跡に寄生して生きることを意味する。異国人相手の商売が増え小さな子供たちまでがぺらぺらと英語をはなす。人々は過去の歴史を誇るばかりで今を生きようとしない。かつて旅した中でそれをもっとも強く感じたのはアテネであった。行きそびれたがおそらくカイロやアンコールワットもそうではあるまいか。しかしトルコという国は逞しいといおうか、過去に縋りつくこともしなければ切り離してもいない。過去を下敷きにした今を感じることができる。


洞穴


堆積岩の中をくりぬいた洞穴にかつての暮らしがあった。時とともにその住人はかわり人の息吹が絶えた今、雨と風に削られて崩れようとしている。
大岩とてやがては千々に砕けて塵となる。そのことわりを覆すことはできない。だからこそ岩とともにあったこの地の暮らしに背いて生きるより、それを少しでも長く守ることを選びたい。


現場1


筆者が携わるのはこの洞穴住居群の修復・転用の設計、そして進行中の現場の管理である。正式な設計家、いわゆる「御用建築家」なるものが存在するのだが、彼らの図面などはまるきり役に立たないので現場でほとんど変更しなければならない。そして新たに図面を描いて職人たちを指揮し工事を進める。

修復工事には膨大な資金が掛かるため、集客力があり資金の回収ができる施設への転用が必要となる。もちろん世界遺産に指定されるような遺跡であればそうも行かないが幸か不幸かここはそういった指定を受けるほどではなかった。ここに紹介する計画は主体はホテルであるが洞穴の数だけでも二千を超える大規模なもので、工事完了まで十年ぐらいかかると目算されている。

この洞穴がすべてホテルの客室になるというわけではない。それではあまりに能がない。野外劇場や大浴場などの計画もあるが実際の設計はほとんど白紙に近いというか、何をしたらよいかを考えあぐねているようである。とりあえず右端のほうから着工して順次開業し、先のことは稼ぎながら考えよう、と、そんな感じなのである。なんたる気楽さであろう、そう呆れてしまうこともできるが、入札だの利権だのと民官ともにずぶずぶの関係にはまり無駄な建設ばかりに勤しむどこかの国に比べれば、むしろ潔さすら感じる。




洞穴住居は岩の中の洞穴部分と外に向かって増築した石造部分からなる。増築といってもその年代は幅広く30年前のものもあれば数百年前のものもあり、その架構方法はほとんどがアーチである。


現場2


古いアーチを解体し傷んだ石を新しいものに取り替えて再び組み立てる。
崩れそうな洞穴の天井を下から新たに支える。鉄骨や木の梁を渡すか石のアーチを架ける。
大空間を壁で隔て、荷重を分散させることで負荷を小さくすることもある。

これは補強についてであるが、それに加えて増築もおこなう。崩落してしまった石造部分を再現する、あるいは新たに計画し周囲にそぐわせる。


現場3


さらに内部、主に洞穴部分の内部の転用のための設備も整える。給排水、給排気、電気、断熱、防水、暖房など。湿気の少ない国なので冷房はまったく必要ない。
古いものに新しい役を担ってもらうには、それなりの「仕度」がいるのである。

紙に描かれた図面など大して役に立たない。何代も親の職を継いできた職人たちの勘と技が頼りである。「知識」と「技術」などは彼らがかつて十年がかりでしていた仕事を数ヶ月でやり遂げるよう後押ししているに過ぎない。


もぐら


難しいのは「動線」、つまり「道」である。街区、庭、家、部屋、それらを結ぶ人の軌跡の計画である。ここからそこに行くまでの短い時間をどういうものにできるかの尋常勝負である。激しい高低差は眺望をもたらしはするが足を疲れさせる。昇り下りが苦痛になってしまっては台無しになる。そして階段に食わせる面積は馬鹿にできない。坂道は人も下りるが水も下りる。でも水は自分から上に昇ってくれるはずもなく水を逃がす道を常に考えておかなければならない。道の所々にあるのが扉であるが、道すがらに扉を開けたその瞬間、目に「よいもの」が飛び込むようでなければいけない。とくに浴室、よほど用を足したいとき以外は便器は見たくないものである。種類の違う動線が交差するのは危険を伴う。熱い紅茶を運ぶ給仕と母親の元に走る子供が交差するような場所は十分な広さと見通しが必要になる。


階段


補強、復元、増補、設備、動線、これらの計画が現場で毎日討論されながら同時に進められている。建築家先生の設計図はあるが先に述べたように大した役に立ってはいない。なぜならば、既存の洞穴郡を下敷きに設計をするにおいては紙の上(キャド画面)での計画などは絵空事に過ぎないからである。机上の空論―Desktop Fantasy とでもいおうか。

ホテルの経営などに興味はない。いったいこのさきどれだけのあいだ観光などと言っていられるか怪しいとさえ思っている。むしろ人々がそんなものから愛想を尽かし、日々のくらしこそを喜ぶ時代が来ることをどこかで願っている。もしそうなればこの岩たちはもういちど住み手を脱ぎ変えてゆくことだろう。それも、一興。


かえりしな


旅の道すがらに訪れた町でこの目にに飛び込んできた光景は、この先もこの瞼から消えることはない。岩との対話は続く。

娘を出迎え家へとゆく道すがら、今年の葡萄を味見する。

葡萄

学問のすすめかた

日本の教育がどういうことになっているか、今となっては想像するほかないのだが。

トルコ人の主人と所帯を持って以来、そして子供を授かってからもトルコに住んで子供たちをトルコの学校に通わせることに何の疑問も抱かなかった。日本の学校教育に対する失望のあらわれだったとでも言おうか、今でこそ失望の所在を言葉にできるが若かった頃の自分にその術はなく、気がつけば三人の息子たちがここで学んでいた。

筆者の長男は高校一年生、家から少し離れたカイセリという地方都市で寮生活をしている。矢継ぎ早に試験があり、いつも夜遅くまで勉強しているという。
日本のそれに比べてトルコの教育がそんなに素晴らしいか、決してそのようなことはない。「受験」という名のもので振り回し子供時代をむだに忙しくする以外、意味はない。

より良い職に就いてより良い暮らしを手に入れる、そのためには良い教育を受けなければならない、そこまでなら間違いではなかろう。が、そのために競争を強いられ勝者と敗者が生まれるのではすでに間違いだ。なぜなら勝敗を決める側の人間に都合のよい世の中をつくることが出来るからだ。
子供のころの筆者は何度か引越しをしたためにそのつど学校がかわった。すると自分を取り巻く環境もかわり、成績や評価が変わることに気付く。前の学校でドンジリでも今度の学校では優等生、自分は同じなのにである。おかげで周りのだれかと競争をして成績という評価を得ることの無意味さを早くから知ることができた。人とではなく、自分と競えばそれでよいではないか。


トルコでは学校に必ず「トルコ建国の父ケマル・アタテュルク」の銅像を、教室には肖像を置くことが義務とされている。このアタテュルクはトルコの近代教育の父でもある。

                atatürk



第一次大戦に敗れたオスマン帝国は西欧列強により割譲され支配を受けた。彗星の如くあらわれたアタテュルクが軍を率いて列強を押さえ、独立を勝ち取りトルコ共和国を建国したのが1923年、その後アタテュルクは西欧諸国と肩を並べるために様々な改革に着手した。それまでのアラビア文字を廃しローマ文字が導入され、都市にも農村にも学校かつくられた。小学校で自ら読み書きを教えるアタテュルクの写真は子供たちの教科書に今も必ず載っている。

                           ata


つい最近までこの国の子供たちは学校で何を習っていたか、アタテュルクの生涯、独立戦争、トルコ共和国の歩み、などである。西暦、メートル法、人権、民主主義、「新しく、すばらしいもの」はすべてアタテュルクを通してもたらされたという。アタテュルク以前は原始時代と同じ扱いかそれ以下で、帝政が布かれていたころは世襲制による恐怖政治が行われ文盲であることを強いられた民衆は餓えと恐怖の中で生きていたと、それを救ったのが近代思想と民主主義であったと、それは皇帝を追い出したアタテュルクによって国民に与えられたと教わっていた。

「アタテュルク」を日本語に訳すと「明治維新」になりはしないか。

新生トルコにとって近代化を阻むものは「信仰」であった。なぜなら、オスマン帝国の大義名分はイスラームの庇護にあった。政治も法律も教育も経済もすべてイスラームによるものであり、イスラームのためのものであった。民衆のイスラムの神に対する信仰心を破壊しないかぎりは「アタテュルク」を神格化できなかったからである。
近代国家である以上は信仰の自由を認めなければならない。禁教のかわりに行われた様々なイスラム蔑視は教育の場にも持ち込まれた。

「アタテュルクと預言者ムハマンドが川で溺れていたらどちらを助けるかい?」

教育省から学校に派遣される監視員が小学生にこう聞くと、子供たちは「アタテュルク」と答えねばならなかった。さもなくば担任教師と校長が処罰され、それから逃れるには子供たちにそう教えるしかなかった。保身のためのアタテュルク至上主義教育がいつしか常識と化すにはさほど時がかからなかった。

ハリス


半世紀ほどのずれがあるものの、明治維新とトルコ建国の背景、そしてその後の道はあまりにも似ている。日本には一神教の国にあるような明確な「神」はいない。しかし我々にとってのその存在は先祖であったり、山や海、大岩の内に見出すことのできる自然の秩序であるといえる。その仲立ちをしてきたのが祭司そして神社であった。明治新政府が国家神道の名のもとに推し進めた神社合祀はトルコにおいてのイスラム阻害と同じ目的を持つ。心のよりどころであった神々は「整理統合」され、このさき何を信じるべきかは尋常小学校でしっかりと教えられた。

日本人と、先祖から受け継いだものとの間に亀裂が走った。その後は音をたてて崩れていった。

「文明」という服を着た近代思想は格好がよく洒落ていたのですぐに歓迎された。だから近代思想とは一皮?けば暴力と軍事力にものを言わせて好き勝手をする「戦争屋たちの理屈」にすぎないことに気付くものはいなかった。いたのであろうが、いないことにされた。文明開化の演出をしたのは福澤諭吉とその仲間たちであった。

                  学問のすすめ
       

現代トルコ語の中に存在するアラビア語・ペルシャ語の語彙は英仏の外来語にとって替わられれ、今では外来語なくしては会話が成り立たないほどになった。そのため人々は生活の規範であるクルアーンを読めなくなり、読めたとしても意味が汲めなくなってしまった。若くとも敬虔な信者たちは社会から抹殺された。実際には投獄や拷問による獄死も横行していた。教義にのっとり髪をスカーフで隠した女性は職に就けず、大学には入試すら拒まれた。高校は普通科の他に職業(商業・工業・宗教)高校があり、職業高校を出た学生は大学受験が不利になるよう入試の際の得点を割り引かれた。


近代思想の崇高さは叩き込まれたものの、近代思想とは何なのかは誰も理解していなかった。


ここまで露骨にイデオロギー教育がなされていれば多くの者がおかしいと思うはず、トルコにとって結局はそれが救いとなった。9.11テロが契機となり西欧主導の近代思想の馬脚が見え始めると、それまで口を閉ざし、目を閉ざし、息を殺していた者たちがようやく立ち上がった。
独立後90年間この国の舵取りをしていた旧政権は倒され新政権は膨大な矛盾の解消に着手し、もちろんその筆頭には教育があった。国を貶める歪んだ歴史教育を廃し、近代史の年表とアタテュルクを讃える詩を暗記させるのみの指導法は通用しなくなった。

ここまで順調に進んだことは評価するべきである。が、その先は簡単ではない。むしろ教育があさっての方向に歩き出すおそれがある。

なにしろ近代史の年表とアタテュルクを讃える詩を暗記させるのみで事が足りていたのである。
生徒の前で威張り散らすだけでも給料と年金を保証されていた教育者たちは政権が変わったぐらいでは変質しないのだ。例えば中学校の社会の教師はアタテュルク史以外は知らなくて当たり前、試験で問われるお決まりの項目を繰り返していればよかった。それが急に古代帝国の興亡からオスマン帝国の足跡、地理史まですべて網羅せねばならなくなり、生徒たちの成績という形で逆に自らたちが評価されるようになってしまった。他の教科も状況は同じ、大混乱である。
教師たちが不名誉を免れるためにやることといえば、生徒の尻を叩き、競争させて点数を取らせる程度、子供は被害者のままだった。「競争原理」が加わったことでさらに悪くなった。


高校はもはや大学受験の予備校としか捉えられていない。では大学は何の予備校なのだろう、トルコにはこんな諺がある――利口な子には仕事をさせろ、馬鹿な子は学校にいかせろ――。


敗戦し、西欧列強によってたかってむしりとられている最中のトルコに突然現れたたった一人の軍人が本当に国を独立に導くことができるのだろうか。戦費をどこでどうやって調達したか、愛国心だけで勝てるのか、そんな事を考えさせないためには考える力を削ぐのが一番早い。そのために教育が、学校がある。
ともあれ一足先に誕生していたソビエトと、中近東とヨーロッパの間に位置するこの国の、かつての西欧寄りの政治を見れば盾として使われてきたことは明白である。

ソビエトの誕生も日露戦争が大きく関わっていた。本当は資金などなかった日本に戦費を融通してまで開戦させたのはアメリカのユダヤ人だった。二つの大戦に参戦したのも戦後の復興も外から仕組まれててのことだった。学校はそれを知らしめぬためにある。


いま、ともに教育を含む改革を叫ぶ両国で、このさき競争原理から踵を返し人の世をつくるための政治に立ち戻る可能性のあるのはトルコであって日本でではない。改革の骨組みが違いすぎるのである。近代思想が踏み砕いたものをイスラム回帰によって繋ぎ合わせているトルコに対し、目先の不満にとらわれて指導者を乗り換えつづける日本が同じ失敗を繰り返してしまうのは当然である。先祖たちが築いた共同体の根底にあったもの、自分たちに流れる血の中にあるものを見据えてゆかない限り不毛である。そうでなければ一つの国が国として成り立つはずもなく、政治屋たちの醜い争いの泥をかぶるだけで終わるだろう。国旗や国歌を道具にして改革を謳う輩には特に気をつけなければいけない。なぜなら、「象徴」が眩しければ眩しいほど中身が見えなくなるからである。



改革が行われるのを待つ間にも我が子たちはどんどん育ってしまうのだ。そしてその改革が良いほうに進むとは限らない。だからこそ親たちが正気を失ってはならない。


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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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