アラブの春の夜の夢

古代ギリシアでは、地中海を挟んだ向こう側に果てしなく広がる大地をリュビアーと呼んでいた。カッダーフィーの築いた「リビア」はアフリカの古称である。

アラブの春の流れを受けリビアのカッダーフィー政権を揺るがそうとする動きが苛烈を極め出したのが去年の始め、そしてある事件を契機に、NATOのリビア総攻撃がはじまった。

ある事件、それは日本で起きた福島第一原発事故である。
世界の目がフクシマに奪われる隙に、リビアは焼かれた。

アフリカ、そしてアラブは日本にとって甚だしく関心の薄い地域であり接点もない。ただひとつ、石油を除いてはである。アラブの春とは中近東に位置するアラブ諸国の市民による、現行政権に対する抵抗をさして言う。「春」「抵抗」という言葉の性格上、ワルは現行政権という事に決まってしまう。これは恐ろしい短絡であるが、では誰がそうきめたか。


第一次大戦までにてアフリカ大陸と中近東はヨーロッパの列強が分け合い、数本の色鉛筆で塗りわけられるようになった。植民支配を受けた諸国はその後つぎつぎと独立を果したがそこには列強の傀儡政権が置かれた。また、直接支配を受けなかったかわりに欧米と激しく癒着した国も少なくない。筆者の住むトルコの十年前までの政権も英仏イスラエルによる指人形だったと言っていい。

植民支配をする間、宗主国の言語が公用語となる。現地民の一部を懐柔し警察や軍部の高官地位やその他特権を与え治安維持を行わせる。集会や結社は禁止される。豊富な鉱物資源と労働力、農作物はそっくりそのまま宗主国の財産となるが学校や病院はほとんどつくられない。人々は文盲であることを余儀なくされた。

しかし中世の王侯貴族がやってきたような支配は続けるわけに行かず、列強は植民地から徐々に撤退し多くの国は独立を掴んだ。。「独立」という言葉の魔術でいかにも新時代が到来したかに聞こえるが、その実はそれと程遠い。もれなく親欧親米の傀儡政権が残されたからだ。


例えばリビア、イタリア支配からの独立後は王国となり、自国の利益であるはずの石油収入は国外に流れ国民に還元されることはなかった。国はごく一部の世俗的な裕福層とその逆に別れた。西欧寄りの世俗主義にも国民の反感が募った。69年、将校カッダーフィーは反乱軍を率いて王を退位に追い込みリビア・アラブ共和国を建国、その元首となった。
彼はイギリスに留学していた。留学中に汎アラブ主義に目覚めたという。逆に西側に洗脳されアラブと西欧の亀裂を生成するエージェントに育てられたとの説もあるがやや眉唾である。
カッダーフィーによってリビアはそれなりに治まっていた。近隣諸国にやたら喧嘩をふっかけるは政治手段でしかない。砂漠ばかりで国民の少ないこの国、数ある部族たちがそれぞれ自治をし主張をし意見がまとまらないのこの国を民主主義で治めるのは理にかなわない。求められたのはやはり王制、しかも強固なイスラム王政であり彼はそれをやってのけた。そして民主主義を至上と考える国からは独裁者に映った。

外国資本を追い出し石油の収入は都市開発や教育、医療、福祉に回された。石油採掘や工事のために多くの外国人が合法的に雇用され、決して貧しくないトルコからも多くの労働者がリビアへと渡ったのはそれだけ雇用があり、条件がよかった証拠である。

そういう国で革命を起こすためにはいろいろな道具を使う。

所詮、砂漠の王国で起きていることなどは画面を通してしか知ることができない。逆にどうとでも語ることができる。映像を駆使して視聴者を操る術は欧米のお家芸である。「善人」と「悪人」の顔はハリウッド映画によって世界の人々の脳に刷り込まれている。太陽神アポロンのような顔が「善人」であればカッダーフィーは完璧な「悪党ヅラ」、説明がなくとも誰が悪役か明白だった。
だがあまり人を馬鹿にしすぎると尻尾も出る。8月にBBCが放送したニュースでのリビア反政府デモと銘打った画像(34秒以降)ではインドの皆さんがインドの国旗を振っていらっしゃる。

反政府勢力の中身はアルカイダ(アメリカ仕込の偽テロ集団)や外国人傭兵であったとする報告もある。2月にリビア各地で数千人規模の反政府デモが起こったと報道されているが、この人口の希薄な国で普通に数千人集めるだけでも大変なのである。ましてや命がけの革命に加担するだけの理由を持った者をどこから見つけたのだろうか。

ドイツとトルコの猛反対がNATOのリビア介入を引き止めていた。
「人道を叫ぶならば先に介入すべき地域がある。原油生産地に限って介入したがるのは納得がいかない」
トルコのエルドアン首相は石油を見据えた軍事介入を弾劾した。各国の世論も慎重になりつつある中、英仏は爆撃したい衝動を歯噛みをして堪えていた。

「市民の覚醒を促したソーシャルメディア」
フェイスブックやツイッターを賞賛する声は絶えない。確かに便利な道具である。東電や日本政府の罪をマスコミが隠蔽する中でインターネットの果した役割は大きい。そしてブログ活動や投稿サイトは日本のあり方を討論する場をもたらした。しかしどんな道具も使う側の胸一つでいつでも凶器になり得る。暴動も戦争も促せる。ましてや国家が自国あるいは他国で暴動を誘発できるとしたら、その悪質さは計り知れない。

フェイスブックがネット上に生まれた翌年のに2005年に二つの暴動があった。イラン反政府デモとフランスの移民暴動事件、これらは暴動を扇動する道具にフェイスブックを試験的に駆使したものである。西欧では、イスラム教国の騒乱を見せつけ、移民の暴動を鎮圧することで現行政権の支持率があがる。

「福島原発のタイムリミットは48時間」
3月15日ごろだったか、そんな見出しの情報がネット上を駆け回った。一号機が水素爆発、三号機がおそらく核爆発を起こし、日本の政府がそれでもまだ悠長なことをぬかしている間、世界中の目は福島に向けられ警鐘を鳴らし続けていた。中でもフランスの声がやたらに大きかった記憶がある。その「どさくさ」に国連はリビア介入を決議、英仏主導の攻撃が始まった。


日本の一大事をたてに取られた、その怒りを分かち合える相手がいなかった。


震災後まもなくサルコジ(敬称不必要)が原発の必要性と素晴らしさを語るためにわざわざ来日した。おなじくヒラリーもTPP加入を促すための「対日審査報告書」なる書簡を引っさげて現れた。靴や生卵で追い返さなかった我が日本国民は世界でも類まれなる君子だ。もちろん嫌味である。

NATOの広報はリビアの惨状やカッダーフィーの残虐さを世界に発信し続けるが民間人の救済は二のつぎ三のつぎ、それどころか誤爆と称して多くの市民の命を奪った。漁船に乗り自力で脱出を図るが転覆し、漂流するリビア民間人をNATOの攻撃船は見殺しにした。

トルコ政府は負傷したリビア国民と外国人労働者を船で救出しトルコで治療を受けさせ、外国人労働者は母国に送還した。そしてカッダーフィーに辞任を求めこれ以上血を流してはいけないと訴え続けた。しかし国連から圧力がかかりそれ以上できることはなかった。

カッダーフィーが捉えられ殺害された映像は西欧の威力を誇示するかのように容赦なく公開された。ひと一人の命は地球より重いと言ったのは誰だったか、ならば地球はよほど軽いのか。

春の夜の 夢ばかりなる アラビアの 砂漠の獅子の 名こそ惜しけれ

カッダーフィーには「アフリカ統一」の夢があった。豊かな石油と鉱物資源、黄金、溢れる労働力、そして足もとに眠るといわれる水資源をして荒野を緑で満たし誰一人餓えることのない国を作りたかったという。リビアの緑一色の国旗はイスラム教スンニ派の象徴としてだけではない。西欧の搾取から立ち上がり、民主主義でも共産主義でもない独自の主義主張に依り、アフリカの古称リュビアーを以って「緑のアフリカ」を築こうとしていた。
アフリカの持ち主を自負する亡者どもがこれを見過ごす訳はなかった。彼らの資本主義帝国にとってアフリカは資源庫であり食料庫である。そして労働力の宝庫でもある。だからこそ植民支配し、民主化の名のもとに傀儡政権を残して撤退し、学問をさせず灌漑も開拓もさせずにおいた。彼らの連呼する「民主主義」という耳に心地よい言葉には資本主義という兄弟がいる。帝王が人々にカネの掴み合いをさせながらそれを吸い取る構造に、あまり儚い夢を追わないほうが良い。

ペリーが日本に近代思想と資本主義を、そのあとマッカーサーが民主主義を持ち込んだ。それを受け入れたことで日本は金持ちになり、だからその主義主張に疑いを持たずにここまで来てしまった。民主化が上手くいかない国を蔑視してきた。何かが気に入らない時は必ず民主主義の原則に照らし合わせて批判した、が、何一つ前に進まない。選挙で選ばれた政治家は無力、金の力が物を言い、かつての宗主国に富が流れる。


しかしそのうち春の夜は明ける。夢から醒める時がくる。その時までに我々日本人の行くべき道を模索してはどうか。




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いにしへ の しほ いま の しほ

塩がそんなに悪いのか、といいたくなる。

過剰な塩分は血液に残留する。血中の塩分濃度を下げようとする機能がはたらき血液のなかに水分を呼び込む。かさが増えた血液を循環させる破目になった心臓は負担をこうむり血管は圧迫に耐えるために厚く硬くなる、すると血圧も上がる。
塩からい味を好むひとはこのような目に遭うという。



太古、狩猟生活をしていた頃は獣の肉から塩分を摂取できていた。が、農耕が始まり食物のなかに植物の割合が増えてくると塩分が足りなくなってきた。そこで人々は塩を作ることをはじめた。

「しほ(塩、潮、汐)」と字の如く、四方を海に囲まれた我が国では塩は海水から作られた。いまも日本では海水を乾燥させたものを塩として使う。
近代までは浜の一部を粘土質の土で覆った「塩浜」に海水を引き入れ天日で乾燥させていた。人力で海水を汲み入れる揚げ浜式、塩の満ち引きを利用する入り浜式があり無論後者の方が効率がよいが土地の高低や地形を選ぶため前者も廃れはしなかった。しかし、この方法は雨が多く日照時間の少ない日本では塩を完全に結晶させることは難しかった。塩浜では鹹水(かんすい・濃い塩水)をつくるに留まり、それを釜で焼き締めることでようやく塩が出来上がった。

いきなり海水から煮詰めていたのでは途方もない時間と燃料を費やしてしまう、そこで発明されたのがこの塩浜だが、そう古いものではない。では古代のひとびとはどのように鹹水を作ったのだろうか。


小倉百人一首のこの歌はご存知のかたも多いであろう。

   来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
       焼くや 藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ                藤原定家

来ぬ人を待つ心持ちを浜でじりじりと焼かれる「藻塩」に例えている。はて「もしほ」とはいかに?
この歌は万葉集にある長歌に対して詠まれた反歌である。そちらを見てみることにする。

  …淡路島  松帆の浦に  朝なぎに 玉藻刈りつつ  
      夕なぎに 藻塩焼きつつ  海人娘女(あまおとめ) …     笠金村(かさのかなむら)『万葉集』巻六 九三五

ここにも「藻塩」があり、さらに「玉藻」なる言葉がでてきた。


藻塩の会の方々はこの長歌を手掛かりに古代の製塩法をつきとめた。驚くばかりである。

代表の松浦宣秀さんが仰るには「玉藻」とは球状の気泡を持つ海藻「ホンダワラ」のことであるという。海から揚げたホンダワラを乾燥させると表面に塩が結晶する。それを甕に湛えた海水で洗い再び天日にさらし、また甕の中で洗う。これを繰り返すことで甕の底に鹹水が残る。ヒジキの仲間でもあるこのホンダワラは他の海藻より乾燥がはやく塩の結晶がまつわりつき易い形をしているのが特徴だ。


「朝なぎに 玉藻刈りつつ 」とある。
朝凪は朝の満潮(潮とはこれを指す)、この刻に海に入り玉藻を刈り取った。
日のあるうちは玉藻のしおを乾かし洗い、甕に溜めた。
「夕なぎに 藻塩焼きつつ」は、夕の満汐(汐のこと)の刻にこの日使った玉藻を焼くということを描いている。
土器の皿の上で玉藻を焼き、その灰を甕の鹹水に加え布で漉した。これを煮詰めることで塩を得た。


現代の食塩、その殆んどは原料こそ海水だがイオン交換によってもたらされる工業製品の「塩(エン)」であり、海の味のする「しお」ではない。

武田信玄の治める甲斐の国は海のない山国であった。駿河の今川方が塩の流通を止めたため瀕死に陥るが上杉謙信の贈った塩で生き返った。人は塩がなければ生きてゆけないのだ。どんなに塩からい味が好きな人でも摂取できる塩の量には限度がある。そして、よけいな塩分は体の外に出て行く仕組みになっている。塩のとりすぎで病気になるほうがおかしい。

イオン交換でつくられた食塩は塩化ナトリウムの純度がたかく、海水にふくまれるカリウムやマグネシウム、カルシウムがほとんど排除されたものである。カリウムには塩分を体外に排出させる力があり、それを棄てるという事は「体に居座る塩」を食べていることになる。


近年、自然製法の食塩も市場に出るようになった。喜ばしいことだが価格がいまひとつ喜ばしくない。畢竟、加工食品に使われるの安価なイオン式の食塩である。ましてや海の向うからやってくる食品はどんな食塩を用いているか知れたものでない。
また減塩が叫ばれる中、漬物や佃煮から味噌醤油にいたるまで塩気の強い食品はやむなく塩の量を減らすことになる。すると防腐効果が落ちてしまうため防腐剤を大量に添加する破目になる。いったい何をしようとしているのだろう。


日本の外には甲状腺の働きが壊れる怖い病気がある。バセドウ病や橋本病の仲間だが原因が違う。ヨード(ヨウ素)不足によっておこる深刻な疾患で、甲状腺が異常をきたすと甲状腺肥大、ホルモン異常、高血圧、高コレステロール、心臓病、肥満…さまざまな問題をおこし体を壊す。筆者の住むトルコもこの病気に悩む国の一つであり、我が姑も患者のひとりである。
これは海藻を食べる習慣がない国におこる病気ともいわれている。海藻のなかにヨードが多量に含まれからである。しかしこれを摂取しすぎるとまた同じ病気にかかったしまうから難しい。日本人は世界一海藻をよく食べるのになぜこの病気が少ないか、それは同時に大豆をよく食べるからである。あの小さな豆のなかにあるフコイダンという物質は、ヨウ素が甲状腺に必要以上集まることを防いでくれる。はじめからヨウ素とフコイダンの両方を背負っているモズクは有難い海藻だ。また、海藻はカリウムをも多く含んでいる。


ヨード不足を解消するため世界的に採られているのは食塩にこれを添加する方法である。日本以外の多くの国ではこれが奨励、或いは義務化されている。
また、高血圧などの疾患に配慮しナトリウムの純度をさげるためにカリウム化合物を添加したものも作られている。

WHOに属する国際食品企画委員会(日本も加入)が作成した国際規格をみれば食塩にはヨードのほかにも凝固防止剤や乳化剤が何種類もごてごてと添加されている。これを食品と呼んでいいかどうかはぜひ本人の勝手にさせてもらいたい。こういう機関は足りないヨードやカリウムを食塩に無理やり添加させることはしても海藻を食習慣に取り入れようという発想には決して行き着かない。そのために海を汚さない努力もしない。工業的に添加された栄養素の有効度は強調されていても弊害はきちんと調査されていない。都合が悪くなると「人体に影響がないほど微量」だの「喫煙の害にくらべれば問題にならない」だのと訳のわからないことを言って煙に巻く。(煙草はそのために売られているのだろうか?)
どのみち、人道の名のもとに暴力をふるう国連やWHOの言う事をいちいち鵜呑みにしていたのでは体がいくつあっても足りない。

食の土台でもある塩がこのていたらくなら他の食品の有様は察して余りある。健康や栄養に留意する気持が少しでもあるのなら、栄養価やカロリーなどの数値に誤魔化されるのはそろそろ止めにしては如何だろう。我々や子供たちの口に入るものが何処から生まれたのか、どのような道を、誰の手を経てやってくるのかを先に考えて欲しい。


浜で玉藻を焼きそれを加えて出来た塩には当然、海藻の持つ力が還元されていた。そして勿論そうとは知らずされていたのである。万物に霊の宿ることを信じていた古代の先祖たちの為せる業である。藻塩焼きは、わたつみの霊を塩のなかに呼び入れるための神事であった。


いま、その海の汚染がとどまるところを知らないことはここに記するまでもなく、胸が痛む。天日塩や海藻を摂ろうとしてもそれにどれだけ意味があるかは誰にも解らない。明らかなのは海を汚してはいけなかったことだ。


海に、山に挑みかかり、欲しいものをむしり取る生き方は許されるはずもなくその身を滅ぼす。森羅万象に与えられてこそ人は生きてゆける。それを思い出したい。

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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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