都立工芸高校  ものつくりの学校

東京は水道橋の駅前、そこには筆者の通った高校がある。今から二十年以上むかしの話し…

あまりに近代的な外見に、見た人はまさか高校だとは思うまい。しかしここはれっきとした高校であり、工業高校である。それも伝統工芸を骨子とした工業を学ぶ学校である。

筆者が在学したころはこの新しい建物ではなかった。関東大震災の後に立てられた旧校舎は石造建築を模したコンクリート造といういかにも戦前の香りのするものだった。明治の洋風建築をアールデコ風に再解釈したかのような、ちょいと洒落た建物だった。



「高校」は半端な位置にある。中学までの義務教育と大学という一大事の間に挟まれた緩衝地帯に位置しあまりに主体性がない。「高等学校」なのだから何か高等なことを教えて然るべきなのに大学受験の準備しかしていない。だから高校の選択は将来の大学受験を見越してするものとなり、これが高校の空洞化を加速させている。

(筆者の中学時代の話なので、いまどうなのかは知らない)


「どの高校にいきたいの?」
そんなことを訊かれてもこまる。受験とは名ばかりで、所詮は成績の数字で第一から第三ぐらいの志望校を選ばされ無難なところに着陸するのである。志望などあったものではないことぐらい子供にでもわかる。せめてもの選択基準といえば制服がかわいいとか、部活が充実しているとか、繁華街に近いとか、その程度である。
はっきりいってどうでもよかった。義務教育だからあたりまえに、いわば惰性で中学に通っていたものの、いざその先のことを決めるように言われると決めようのなさにうんざりした。ましてさらにその先の大学のことなどは考えるのも馬鹿馬鹿しい。制服なんてどれも同じようにしか見えなかったし、部活にも熱中するほうではなかった。

将来の夢、漠然とした夢、それだけはあった。絵を書いたり、ものを作ったりして暮らしていきたかった。

先生方と志望校の話になるたびにあーだのうーだの言ってごまかしていたその頃、友人からこの工芸高校のことを聞かされて、飛びついた。

金属工芸科、いくつかある選科のなかでものすごく気になったのはこれだった。(当時の工芸高校には金属工芸かのほかにも機械科、室内工芸(木工)科、印刷科、デザイン科があった。いまはそれぞれ名称がカタカナに変わっている。)金属をいろいろと加工し作品を作ることを学ぶ。主体になる鍛金、彫金、鋳造の工芸技術実習と、ほかに旋盤やフライス盤などの機械工作、溶接、焼入れ、銀めっきなども習うという。しかも都立なので親孝行にもなる。さっそく両親に話し、大事な一人娘をを工業高校になどやれるかとも言われず「あっそう」と許しを得た。出願・入学の手続きも親の手を煩わせることなく全部自分でやったのを覚えている。

そして昭和も終わりに近づいたとある四月に、めでたく工芸高校での学生生活が始まった。

 

工芸高校の前身は明治四十年創立の「東京府立工芸学校」であり、職人を育てるための学校だった。当時の日本の工業は徒弟制度を頑なに守っていたが、急速に変わる国の事情は古臭い制度を捨てさせ近代化に努めることを推した。しかし明治政府がいかに殖産興業を叫ぼうと、どれだけ官営工場を作ろうと、工業界にとってみれば徒弟制度によって技を伝えることは捨てられなかった。工場生産品は短時間でたくさん出荷できるが、そのことは「よいもの」を作ることとは別だった。「よいもの」を作るためには先人から技を受け継がなければならない。徒弟制度はそのためにあった。日本の工業の先行きを憂う職人たちが政府に建白して作られたのがこの学校、親方たちは教師となり、たくさんの徒弟を生徒として抱え、場所は作業小屋から学校にと変わりはしたものの、かつて自らが教え込まれたことを一心に伝えた。創立当初は築地にあった府立工芸学校は関東大震災で全焼、四年後に水道橋(住所は本郷)に移り再開した。
そんなはなしを先生方からきかされた。



先生方はほとんどがこの高校の卒業生である。先生かつ先輩であり、師匠でもある。であるからして、われわれ生徒たちは激しく可愛がられた。教師である前に職人なのである。気難しいので生徒たちも子供ながらいろいろ気を遣ったりもした。

最初に触るのは「銅」だった。単元素の純金属である銅はやわらかくて一年生にも扱いやすい。ガスバーナーで焼きなめし、水で急冷し軟化したところを金槌で打って鍛えながら少しずつかたちを作る。これを何度も繰り返して蓋つきの小鉢をつくる。
鍛えると硬さが増すが、脆くなる。それが進むと金属疲労をおこし破断する。しかし加熱をすると膨張し、分子の配列がゆるくなるのでまた元のやわらかい性質(展延性)を取り戻す。これは純金属ならではのことで、たとえば合金のように分子構造が複雑になるほどこの性質は失われてゆく。なにやら人間くさい。

 
つぎは「鋼」。鋼とは鉄と炭素の混合物である。純鉄はやわらかすぎて役に立たないが、大昔の人たちが坩堝の中に砂鉄と木炭をいっしょに放り込んで融解すると硬い鉄が得られることを見出した。炭素は鉄を硬くするだけでなく、酸素との結びつきを鈍らせる。鋼(スチール)が錆びにくいのはこのためである。鋼棒を旋盤で切削加工し、ハンマーをつくった。鋼は焼き入れをするとさらに硬くなる。これも分子構造の変化によるものである。いったん焼入れを施した鋼をもういちど加熱(焼き戻し)し粘り気(靭性)を与える。

それから「黄銅」。真鍮ともいうこの銅と亜鉛の合金は、サクサクとして切りやすいため彫金技法の基礎を学ぶに丁度いい。糸鋸を使った透かし彫り、やすりがけ、ホウの木の炭を使う研磨、銀ろう(銀と亜鉛)を溶かしておこなう溶接、などなど。

ほかにもアルミの砂型鋳造や銀の彫金など、数々の実習をやったが、なによりも手ごたえがあったのが「青銅」の鋳造だった。ブロンズというほうがなじみ易いこの金属は銅と錫の合金であり、いろいろな意味で鋳造に適しているが、やや脆い。世界各地の遺跡から出土する金属器のほとんどはこの青銅製であるのは鉄器に比べると腐食しにくいことと、銅剣のように武器の形はしていても脆いため戦闘用ではなく祭器としてつくられ、畏れ多いので武具や農具のように溶かして再利用されなかったとの予想がある。

原型(雄型)から型(雌型)をとり、そのなかに解けた金属を流し込んで原型と同じ形をしたものを作ることを鋳造という。工程のほとんどが原型作りとそれを雄型に仕舞いこむ(込め)という準備に費やされ金属に触れるのは鋳込みの時と仕上だけと準備にくらべて少ないのが特徴である。雌型が脆ければ鋳物のバリや段差のもとになり、雄型の肉厚が不均衡であれば鋳廻りが悪くなって鋳物に穴が開く。厚すぎても鋳物がその分余計に収縮するので凸凹になる。バリはタガネで切り、穴や亀裂は鋳掛て埋める。その傷跡も自然の鋳肌に近づけるため手作業で仕上げる。雄型と雌型を作るときに誤りが少なければそれだけ仕上げが短くなるということになる。鋳造とは本体になるべく触らないのが真骨頂、という粋な工芸である。

実習だけではなく専門の授業もあった。「銅鐸の作り方」「日本刀の作り方」「奈良の大仏の作り方」、金属工芸史はそのようなことを教わる。同級生たちはみな寝ていたが筆者はよく聴いていた。そんなことを知っていて何の役に立つのか、と考えてはいけない。金属であり、何であり、物の性質や人とのかかわりの歴史をいろんな角度から見る癖をつけておくのは誰にとってもよいことだ。もちろん当時はそんなことを意識していたわけもなくただ興味に導かれてのことだったが。

「機械製図」「材料」「宝飾意匠」、みな必修の専門科目だった。いまではCGやガラス工芸も教わるようだ。国語や数学の普通の授業もあるのに、よくもまあこれだけのことをたった三年で…と今さら思ってしまう。当時、卒業後は製作会社、デザイン会社や宝飾の工房に就職するのが普通だった。大学受験を考える学生はほぼ皆無だったため、普通の授業はえらく気楽だった。科学の時間は金属の化学反応についての実験ばかりしていた。めっき理論もここで詳しく教わった。物理の先生は変わった方で、波動の講義のために愛用のバイオリンでヘタクソなツィゴイネル・ワイゼンを弾いて下さり、波はそっちのけでジプシーの悲哀について延々と話して下さった。高校から大学受験を取り去ればこんな高等な学校になる。



作家の意識の世界で完結できる芸術を純粋芸術といい、絵画や彫刻、文学などがそれに数えられる。しかし「工芸」にはそれを手にして使う者、見る者の意識も加わる。すなわち工芸は純粋芸術から一線を画す。ましてや見た目の格好良さを追いかけ、または奇をてらうことに囚われて使い勝手を損なうようでは工芸とは呼ばなくなる。材料、道具、工程、技法、使われ方が常に意識されなければならないという大前提からはみ出さぬ限り、どんなに簡素でも、どんなに遊んでもよい。それが作家の持ち味になる。そう教わった。

石器時代の石斧にはじまり、煮炊きをする土器、祭祀のための青銅器や埴輪、織物、農具、馬具、家屋、人の暮らしが工芸を生み、工芸も人の暮らしを変えてきた。書画のための筆、舞の扇や装束、茶器、琴、道具としての工芸はさらにすばらしい世界を生み出す。あの法隆寺の造営に使われた刃物は「槍鉋」とよばれる長い枝つきのかんなだけだったという。庶民のための調度品もすべて職人による手仕事の工芸品だった。江戸時代は江戸中職人だらけ、誰にでも手に入る安値の道具たちは便利で、丈夫で、修理に耐えた。


「ものつくり」として身を立てていくであろう卒業生も、先生方もおなじ悩みを抱えている。工芸の精神を突き詰めてゆくと、ちっとも儲からないのである。よいものをつくることと金儲けは次元があわない。採算を考えた瞬間に作家としての手が鈍る。これはどうしようもないことである。しかし今の異常な消費社会の中にあっては、先生方とてかわいい教え子たちに「清貧に甘んじろ」とはいえないのである。

「どうすれば便利になるか考えなさい。人が喜ぶものを作りなさい。そのためには五感を鍛えなさい。精進しなさい。わからないことは先生や先輩にお願いして聞きなさい。」
そして「世の中いろいろ複雑なので、よいものがよく売れるとは限らないんです。逆に君たちがよく儲かるからといって君たちの作品がよいかどうかも別なんです。作家になったらたまに考えなければいけない。儲けだの、何だのと、面倒なことをかんがえずに作品に没頭したければはやく人間国宝になりなさい(笑)。」その先は自分で考えろ、と先生。



三年の高校生活を終える頃、工芸高校の改築工事が始まった。校庭を掘削して新校舎の基礎工事が始まった。昭和が幕をとじ、平成となった年のこと。日本が昭和を脱ぎ捨てた年であった。

筆者は卒業後、二年の浪人を経て美大にすすみ建築を専攻した。やはりこれも純粋芸術に属さない分野である。建築は工芸の延長線上にある。そのときのことはまたいつか書こうと思うが、いまは何とか設計で食べていけるようになった。(但し筆者が日本で設計で食べられたかどうかは極めて怪しい)
今の仕事で役に立つのは大学で学んだことよりも高校時代に身に付けたことのほうがはるかに大きい。工法、手順を考える癖がついているからだ。職人さんたちとの意思の疎通の道義も先生方からいろいろと聞かされていた。ありがたいことだ。

父との電話でそのことを話したとき、いつものごとく「あっそう」という父だがその声は意外さをともなう嬉しそうなものだった。あのとき工業高校に進学することに反対しなかったことを安心してか、それとも単に喜んでくれているのか、両方か。




おしらせ

今週末、水道橋の都立工芸高校において「工芸祭」が催されます。都内・近郊にお住まいの方でお時間がございましたら是非ともお寄りください。
かわいい後輩たち、いえ明日の工芸家たちの作品が所狭しと展示されています。販売もございます。みなさまのお運びを心よりお待ちいたしております。

都立工芸高校 http://www.kogei-tky.ed.jp/ 

JR総武線水道橋駅より1分、
都営地下鉄三田線水道橋駅より0分
TEL.03-3814-8755 

「工芸祭」平成24年10月27日(土)・28日(日)
https://twitter.com/kogeisai/
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道すがら

家から歩くこと20分、水平に測れば遠くはないが80m近い丘を登ったところに今の仕事場がある。丘よりも岩山と呼ぶほうが似つかわしい。

全景


道すがら、家々の庭の木や花を眺めるのも一興。カッパドキア地方は乾燥地でありながら果樹がおおく、アーモンド、桑、さくらんぼ、杏子、プラム、桃、梨、くるみ、林檎、葡萄、花梨が順々に花をつけ、実る。とくに葡萄は有名でカッパドキアワインは欧州のものに引けをとらない。その欧州からもワインの原料として葡萄を買い付けに来るほどである。
ところで、近所の女房衆をはじめこの辺りの女の人たちの多くは貧血による頭痛や目眩に悩んでいる。風土病なのかと考えていたが、たわわに実る果物を見ながらあることに気がついた。彼女たちはこの果物をあまり口にしない。
理由のひとつは「太る」から。医者は果物の中の果糖を白砂糖や甘味料と同一視してこれを制限するよう諭している。ただでさえ恰幅のよい彼女たちには同時に高血圧や糖尿病の気があり、糖度の高いスイカや葡萄はご法度なのである。当然、人の体を壊しているのは近代以降に使い始めた白砂糖や農薬で、医者の勧める薬の常用がそれに追い討ちをかけた。さらにはお里の怪しい農・畜産物、正体不明の人工甘味料、敵はこやつ等であって果物であるなどとは言掛かりにも程がある。葡萄を食べて血圧が上がるほうがおかしい、と、そう考える医者はおらず、ひたすら降圧剤を売りつける。

収穫の多くは大都市に出荷されるかぶどう酒の原料になる。イスラム教国の農村の女たちがぶどう酒を飲む筈もなく結局ほとんど口にはいらない。血が薄くなったのはこの土地に生まれて生きているにも関わらずその土の恵みを取り逃がしてしまったことが災いしたと、そう思えてならない。

梨

三歳半になる娘と家を出る。以前はこの子を仕事に連れて行っていたが、今の現場は高所で足場も悪く一緒に行くのは諦めた。近所の友人に預けてしばしの別れ。
いざ、岩山へ。

いきしな


道すがら、頬にあたる風が日ごとに冷えて行くのがわかる。刺すような日差しはもうない。秋が来た。
急な坂道を登り町から外れるともう人の気はなくなる。このあたりはもう誰も住んでいない。ここはその昔、村の中心地であった。足下に広がる新市街はかつては農地だった。人々は風当たりと日当たりの強すぎる平地での暮らしを嫌い、夏は涼しく冬暖かい岩の洞窟の中で暮らすことを好んだ。人々は日の出とともに羊や牛を連れてこの岩山を下り、畑で働き、日の沈む頃にまた岩山を登った。この暮らし近代はとともに消え失せた。人々は岩山を捨て平地に降りた。物言わぬはずの壁が、窓が、釜戸の煤が、かつてのその営みをひそりと語りかける。

門


カッパドキアは地方全体が世界有数の遺跡である。先史時代から多くの民族が住み、キリスト教徒たちが隠遁し、後にイスラームと共生し、網の目のように這う絹の道をらくだに乗った隊商が行き来した。後からきた異文化が先にあったものを駆逐することなく上にかぶさり融合してゆく。寿命の長い岩と石の建築はそれを許すことができた。その逆の道を歩んだのが日本の建築であった。日本の建材は朽ちて腐りゆく木や紙によるものだからこそ風景も、人の心もまた違うのだろう。その違いは風土と呼ばれるものになる。



世界の遺跡の町の共通の悩み、それは「今」がないことであろう(どれほどの人が悩んでいるかは不明だが)。遺跡が売り物であるということは遺跡に寄生して生きることを意味する。異国人相手の商売が増え小さな子供たちまでがぺらぺらと英語をはなす。人々は過去の歴史を誇るばかりで今を生きようとしない。かつて旅した中でそれをもっとも強く感じたのはアテネであった。行きそびれたがおそらくカイロやアンコールワットもそうではあるまいか。しかしトルコという国は逞しいといおうか、過去に縋りつくこともしなければ切り離してもいない。過去を下敷きにした今を感じることができる。


洞穴


堆積岩の中をくりぬいた洞穴にかつての暮らしがあった。時とともにその住人はかわり人の息吹が絶えた今、雨と風に削られて崩れようとしている。
大岩とてやがては千々に砕けて塵となる。そのことわりを覆すことはできない。だからこそ岩とともにあったこの地の暮らしに背いて生きるより、それを少しでも長く守ることを選びたい。


現場1


筆者が携わるのはこの洞穴住居群の修復・転用の設計、そして進行中の現場の管理である。正式な設計家、いわゆる「御用建築家」なるものが存在するのだが、彼らの図面などはまるきり役に立たないので現場でほとんど変更しなければならない。そして新たに図面を描いて職人たちを指揮し工事を進める。

修復工事には膨大な資金が掛かるため、集客力があり資金の回収ができる施設への転用が必要となる。もちろん世界遺産に指定されるような遺跡であればそうも行かないが幸か不幸かここはそういった指定を受けるほどではなかった。ここに紹介する計画は主体はホテルであるが洞穴の数だけでも二千を超える大規模なもので、工事完了まで十年ぐらいかかると目算されている。

この洞穴がすべてホテルの客室になるというわけではない。それではあまりに能がない。野外劇場や大浴場などの計画もあるが実際の設計はほとんど白紙に近いというか、何をしたらよいかを考えあぐねているようである。とりあえず右端のほうから着工して順次開業し、先のことは稼ぎながら考えよう、と、そんな感じなのである。なんたる気楽さであろう、そう呆れてしまうこともできるが、入札だの利権だのと民官ともにずぶずぶの関係にはまり無駄な建設ばかりに勤しむどこかの国に比べれば、むしろ潔さすら感じる。




洞穴住居は岩の中の洞穴部分と外に向かって増築した石造部分からなる。増築といってもその年代は幅広く30年前のものもあれば数百年前のものもあり、その架構方法はほとんどがアーチである。


現場2


古いアーチを解体し傷んだ石を新しいものに取り替えて再び組み立てる。
崩れそうな洞穴の天井を下から新たに支える。鉄骨や木の梁を渡すか石のアーチを架ける。
大空間を壁で隔て、荷重を分散させることで負荷を小さくすることもある。

これは補強についてであるが、それに加えて増築もおこなう。崩落してしまった石造部分を再現する、あるいは新たに計画し周囲にそぐわせる。


現場3


さらに内部、主に洞穴部分の内部の転用のための設備も整える。給排水、給排気、電気、断熱、防水、暖房など。湿気の少ない国なので冷房はまったく必要ない。
古いものに新しい役を担ってもらうには、それなりの「仕度」がいるのである。

紙に描かれた図面など大して役に立たない。何代も親の職を継いできた職人たちの勘と技が頼りである。「知識」と「技術」などは彼らがかつて十年がかりでしていた仕事を数ヶ月でやり遂げるよう後押ししているに過ぎない。


もぐら


難しいのは「動線」、つまり「道」である。街区、庭、家、部屋、それらを結ぶ人の軌跡の計画である。ここからそこに行くまでの短い時間をどういうものにできるかの尋常勝負である。激しい高低差は眺望をもたらしはするが足を疲れさせる。昇り下りが苦痛になってしまっては台無しになる。そして階段に食わせる面積は馬鹿にできない。坂道は人も下りるが水も下りる。でも水は自分から上に昇ってくれるはずもなく水を逃がす道を常に考えておかなければならない。道の所々にあるのが扉であるが、道すがらに扉を開けたその瞬間、目に「よいもの」が飛び込むようでなければいけない。とくに浴室、よほど用を足したいとき以外は便器は見たくないものである。種類の違う動線が交差するのは危険を伴う。熱い紅茶を運ぶ給仕と母親の元に走る子供が交差するような場所は十分な広さと見通しが必要になる。


階段


補強、復元、増補、設備、動線、これらの計画が現場で毎日討論されながら同時に進められている。建築家先生の設計図はあるが先に述べたように大した役に立ってはいない。なぜならば、既存の洞穴郡を下敷きに設計をするにおいては紙の上(キャド画面)での計画などは絵空事に過ぎないからである。机上の空論―Desktop Fantasy とでもいおうか。

ホテルの経営などに興味はない。いったいこのさきどれだけのあいだ観光などと言っていられるか怪しいとさえ思っている。むしろ人々がそんなものから愛想を尽かし、日々のくらしこそを喜ぶ時代が来ることをどこかで願っている。もしそうなればこの岩たちはもういちど住み手を脱ぎ変えてゆくことだろう。それも、一興。


かえりしな


旅の道すがらに訪れた町でこの目にに飛び込んできた光景は、この先もこの瞼から消えることはない。岩との対話は続く。

娘を出迎え家へとゆく道すがら、今年の葡萄を味見する。

葡萄

悪銭 身につかず

悪事や賭け事で儲けたカネなど役に立つどころかあれよという間に消えてゆく、そんなことを諭す諺や格言はそれこそ世界中にある。世の中を見渡せばたしかに悪銭は身につかず泡沫と帰すことは目に見えている。が、人々がこの諺に教訓を得ているかどうかはまた別のようである。



日本はかつて金持ちなどではなかった


兎に角よく働き、怠けることを嫌う。よいものを作ることに喜びを見出し試行錯誤を惜しまない。遠い国から見たことのないものが伝わるとわずか数年でそれ以上のものを自ら作ってしまう「目」と「手」を持っていた。勤勉にして利発、そして器用という日本人の気質は昨日今日のものではなく遠い先祖から受け継いだものである。しかしかつての日本人たちは心豊かな暮らしをしてはいたものの決して「金持ち」などではなく、少なくとも江戸時代までは西欧列強諸国からしてみれば「木と紙と藁の家に棲む」「裸同然の」「貧しき民」でしかなかった。



開国から戦後

幕末以降、海外に留学した者たちは口をそろえて日本の遅れを訴え、日本の国際社会への参入を標榜し技術や思想の輸入と移植に励んだ。それは日清・日露の戦勝をへてついに日本の手に届くものとなった。

しかし第二次大戦によって日本は焦土と化し大東亜共栄圏の盟主という肩書きは敗戦国に取って変わられた。多くの命が奪われ多くの物を失った。それでも日本人たちは日々の糧に事欠きながら皆で働き、そして働いた。日本人の作るものはたちまち世界中で重宝された。敗戦からたったの20年、オリンピックや万博を招致するに至ったことはここに記するまでもない。当時うわ言のように呟いた「西洋に追いつけ」は、その昔に「殖産興業」「富国強兵」などと言ったものの戦後版だろう。

貧しいながらも正直で働き者の夫婦が最後に大判小判を手に入れるという昔話を地で行った、それが日本の経済成長だった。



経済大国

勤勉な国民性が功を奏したか、ついこの間まで焼け野原に佇んでいた日本人はわずか半世紀で世界第二位の経済大国となるにまでに国を成長させた。筆者自身を含む多くの日本人は父母や祖父母が骨身を削って働き今日の繁栄を手にしたことを信じ、誇りに思う。そしてこれは事実でもある。


しかし。

常に世界一の経済大国を誇る某国の国民は我々のように勤勉ではない。どちらかというとその逆でおおむね怠惰、まともな機械部品ひとつ作れない。作ろうとしない。先に述べたように幕末までの日本人はまさに働き者であったが金持ちではなかったことを考え合わせると、どうやら金持ちと働き者とはさして関係のないものということになる。



日本はどうやって金持ちになったか

日本が占領されている頃の世界は「冷戦」の影に覆われていた。軍需産業の甘い蜜を忘れられない戦争屋たちが先進国の国土を焼かずに戦争するための秘策であった。1950年、日本のすぐ対岸で朝鮮戦争が勃発するとそこに国連軍として出兵したのは日本に在留していた占領軍だった。畢竟、占領下にあった日本は占領軍の受注を満たすための工業生産と輸送に勤しむことになる。朝鮮戦争に日本は無関係であったにしろそのことはあまり議論されず、むしろ外貨獲得の好機との受け入れ方が強かった。
特需の内訳は輸送(出兵や民間人の引き揚げ、物資、武器)や建設(国内の基地や滑走路などの軍用施設)、修理(飛行機、自動車)などの事業と、紡績品や鉄鋼資材・機関車等の輸出からなる。
戦後に武器の生産が禁止されたため当初は秘密裏に行われていた武器輸出も52年の法改正を期に制約がなくなり輸出高の多くを占めるようになった。銃器・戦車・船舶などを日本国内で製造し、輸出した。

雇用は増えドルやポンドが舞い込んだ。これを「特需景気」と呼ぶ。日本はこの朝鮮特需によって戦後復興のはじめの一歩を踏んだ。

日本製品がすぐさま歓迎されたわけではなかった。当時の日本人はまだ機械類を工場で大量に生産することに不慣れだったため最初は多くの不良品を出荷してしまった。そんなことをされて困るのは最前線で戦闘中の軍である。製品の水準を上げるために徹底した生産管理の枠組みを占領軍自らがつくり現場で厳しく指導した。
ここで日本は産業革命以来の欧米のお家芸である「大量生産」の運営・管理法を伝授されたことになる。明治維新による西欧化の不完全であった部分をこうして徐々に補填してゆく、その一例である。この秘術にわが国流の創意工夫を加え出来上がったものは今日の日本の工業の土台になった。

その後は我々が父母から聞いて知るところの高度経済成長期へと流れてゆく。



戦争ほど儲かる仕事はござんせん

「特需」という言葉を最初に使ったのは日本経済新聞だった。経済に重きを置く新聞ならではの論調でこの特需景気に期待をかけ歓迎している。他の大手新聞社もこれに追随し、世論は特需を、いや朝鮮での戦争を歓迎した。
戦後の日本をこの目で見た年代ではないが、その酷いありさまは家族たちから聞いて育った。ここにそれを記すのは憚られるため割愛するとして、とにかく一日も早く立ち直りたかったことであろうことは明らかである。しかし戦争の悲惨さを身に浸みて知っているはずの日本人が見出した活路はまた戦争だった。皮肉である。

日本の軍需工場で作られた銃が、戦車が、よその国で暴れまわり町と人を焼く。そのころ戦争の真の当事者たちの国ではそよ風がふいている。この構図に誰かが少しでも疑問を抱いたかどうかはもはや知る由もない。あったとしても新聞の作り出す世論はそれをたやすく掻き消したであろう。どの道、特需や戦争に後ろ指をさすことなどはGHQの検閲が見逃すわけがなかった。
朝鮮戦争のみならず、戦争になどひとかけらの道義も存在しない。国が別たれ人が引き裂かれるが、そんなことは戦争の儲けに比べれば些細なことと見向きもされない。



復興と戦争

この朝鮮特需によって日本は急速に復興の道を切り開いた。
朝鮮戦争は日本にとって偶然でしかないとし仮に起こらなかった場合の復興の遅れを数値によって検証した論文などが存在し、特需なしでの復興はあり得たのかという研究は広くなされている。しかし筆写がこの手の研究に興味を持てないのは、戦争をはじめから天災のような「偶然」に位置づけているという誤りの上で議論されているからだ。

戦争は仕方なく起こるものではなく誰かが意図的に起こすもの、この時期にこの地域で煙が立つことを望む輩がいたのだからそうなったに過ぎない。この日本列島が戦場となり朝鮮半島のような運命をたどっていたかもしれないことはよく知られている。「日本ではなく朝鮮で戦争が始まり」、「日本はその戦争特需によって復興し」、「高度経済成長を成し遂げ」、「占領国にいつまでも貢ぎ続ける」。そんな安手の脚本がハリウッドあたりで書かれていたのだろう。

占領国は非占領国の復興に責任がある。少なくとも20世紀以降は道義上そうである。
しかし「極東の大悪党」たる日本を立ち直らせるため国費を費やすことに占領国の国民が納得するわけもなく、復興させようにもその費用をどこからか捻り出す必要があった。そこでよくある話、占領国は朝鮮戦争の物資・武器弾薬を日本で調達する名目で日本に出資する。雇用の賃金と製品の対価によって潤った日本が自力で復興したということであれば批判は避けられる。

ただし当時の日本政府は敗戦国として膨大な占領経費を支払っていた。これは今の「思いやり予算」に近いもので、占領軍の生活費をふくむ諸経費を負担していた。この額は特需の総売り上げに匹敵、もちろん日本側に監査の権限はなかったので占領軍側の発表であるが、これは朝鮮戦争が日本の負担で行われたことを意味するという見方もできる。


「ものつくり」

日本は工芸の国でもある。狩猟と採取に明け暮れる太古から道具を作ることに長けていた。よりよい材料を得るために列島中を移動した。名もない職人の作る道具でも使い勝手と美しさを兼ね備えていた。我々はそんな先祖をもっている。日本人が物を作るときは必ずその「ものつくり」の血が騒ぐ。誰かの役に立つように、誰かに喜ばれるように、そう願いながら手を動かす。
そして戦後、明らかに今までと違う方法で物を作らされるようになった。それでも使う者の身になり役に立つよう喜ばれるよう精魂をこめた。
軍需工場で働いた者のなかには戦争で父や夫を失った女たちもあった。人を傷つける道具をその手で組み立てた彼女たちの心中や、いかに。


悪銭身につかず

戦争は悪事である。その悪事に加担して稼いだカネは悪銭である。そう考えるのならば特需でつかんだ好景気とそれを資本に発展した日本経済すべてを悪銭と罵り拒絶しなければならない。しかしその繁栄のなかで安穏に育った世代の人間にそうする資格はなく、さりとて「悪銭だろうがカネに変わりはない」と居直るのではもはやそれまでである。

悪銭で潤うことに呵責がないのであれば初めから騙して脅して奪えばよい。ならば働く必要などは何処にもない。国民に働く気力もなく、薬物中毒と肥満に悩む国が世界一の経済大国でいられるのは大して不思議な話ではないのだ。彼らとてそんな国を築きたかったのではなかった筈、ではなぜそうなったのか。悪銭が、そうさせたのか。

復興とともに家や学校が建てられ、昼夜を問わず皆が働き、病院も役所もできた。憲法が整い占領軍も引き上げた。大量生産技術を習得したため経済は加速し続ける。日本製品は嫌われながらもよく売れた。外交と防衛は「外注」してあるので商売に没頭できた。さらなる需要に追いつくために資源をつぎ込みまた加速、世界中の金融機関に義理を果たし、いつの間にやら原発だらけ、そして気がつけば家庭は冷え、教育の場からは悲鳴が、医療も行政も疑問だらけ、司法は乱れて地に落ちた。我々が築きたかった国はこれなのか、やはりあれは悪銭だったのか。


当時の日本人たちが占領国の書き下ろした脚本どおりに動くほか術がなかったのは仕方がない。忌むべきは当時の、そして今も変わることのない構造そのものである。我々に求められるのはのは、あたらしい生き方だ。

悪銭は身につかぬばかりでなくその身を穢す。悪銭と知っていようが知るまいが人と世を蝕む。増え続けたかと思えば人に穢れを残し忽然と消えうせる。そして人がそれに目を背けている以上、悪銭は回り続ける。

禁断の果実

神はアダムを、そしてその妻としてイヴを創造した。二人を楽園にすまわせ木という木のにたわわに実るあらゆる果実を食べることを許したが、その中の「智恵の樹」と「生命の樹」の果実だけは禁じられていた。
しかし二人はその果実を蛇にそそのかされて知恵の樹の実を口にしてしまった。すると裸であったことに「気付き」、体をイチジクの葉で覆って隠した。神は怒り、豊かな楽園の実りは枯れて僅かなものとなった。この後二人は飼い、耕し、寒さに耐えながら働き生きることを余儀なくされた。神はこの二人の子孫が「生命の樹」に近寄ることのないよう、炎の剣-雷を置き守らせた。

旧約聖書によれば二人をそそのかしたのは蛇であるが、イスラームの聖典クルアーンでは異なる。
神は自らの代理人として人間を創造することを天使たちに告げた。天使たちは驚き、人間などを創ってはこの世は争いと血にまみれてしまうと嘆いたが、神は土からアーデム(アダムのアラビア語読み)を創り上げた。そして天使たちに命じアダムに万物の名前と意味を教えさせた。さらにアーデムに平伏すよう命ずるとイブリースを除くすべての天使はそれに従った。
イブリースは火、それも煙の無い炭火のような火から創造された存在であった。天使ではなかったものの神へ対する敬虔さから天使の列に加えられていた。「我々が平伏す相手とは、この泥から創られたものなのか? 火から生まれた我の平伏す相手はこれなのか?」イブリースはさらに続ける。「神よ、審判の日まで我に命を与えるならば、このアーデムとその子孫たちの僅かなるものを除いてすべてを悪の道に誘い込み操るであろう。」
神は「行け」と叫ぶ。「これ(イブリース)に従うものすべてに地獄という見返りが与えられよう。」ここでイブリースは天使から悪魔へと堕ちる。
イブリースは自ら吐いた言葉の通り楽園に暮らす二人を誘い禁断の果実を食べさせた。二人は後悔し許しを請うが、その罪は許されたものの楽園から地に追われてしまう。


学問の世界から教典を「解釈」しようとすれば―― 一神教の世界では神とは絶対なるものでありその言葉に背くものは罰を免れない。神が禁じたものを口にすることこそ禁忌であり、禁断の果実とは一つの象徴である―― とこうなる。

逆に神を畏れる者は創世記も失楽園も大洪水もすべて史実ととらえていえる。そのため、禁断の果実が何であったのか、何を象徴しそれを以って何を教えんとしたのかは大きな問題であった。
この果実が何であったかはいずれの教典にも書かれていない。リンゴやイチジクだといわれるのは西洋の画家たちが失楽園物語を描く際にこれらを用いたせいもあるが、地域の伝承や後世の研究からいろいろな果物があげられている。いずれも薬効、或いは毒性をもつ植物である。

近頃の考察では、この禁断の果実は「火」であったという指摘がある。――人間は火を使うことを知りそこから多くの「文明」が生まれた。それにより暮らしが豊かになる反面、争いが絶えず人が人の命を奪う世界をもたらした――

意味深い考察である。さらにギリシア神話をみれば人と火の出会いはプロメテウスによるものとされている。


プロメテウスは天空たるウラノスと大地たるガイアの間にうまれた子供たち、タイタン神族の子孫である。ゼウスも同じ一族から出ているが父親クロノスに殺されそうになったところを逃れて逆に戦いを挑み、これに勝ってタイタン神族を滅ぼした。プロメテウスはタイタン神族の不利を見抜いてゼウス側に付いていたことから生き永らえながらも一族の復習をその胸に潜めていた。ゼウスは人間から火を奪い(氷河期か?)自らの武器である雷を作らせるため火と鍛冶の神であるヘパイストスに預けるが、プロメテウスはヘパイストスの炉から火種を盗み出し人間に与えてしまった。

ゼウスは怒り、プロメテウスを山の頂上に繋ぎハゲタカに肝臓を食らわせた。尚も静まらぬゼウスの怒りは人間たちにも向けられ、地に禍を与えんと神々に命じて「女」を創らせた。男を苦悩させる美しい姿、ずる賢く卑屈な心をもつ「女」にパンドラと名づけ、決して開けてはならない箱とともに地上に遣わした。人類にとって「女」ほど大きな禍はないという(お互いさまである)。開けてはならないと知りつつ、箱はあけられた。出てきたものはこの世のありとあらゆる災禍、そして思わせぶりな希望。


旧約やクルアーンの預言と世界に残る神話を混同してはいけない。しかし神話や教典に綴られる比喩がともに史実と重なり合うのは認めねばならない。


イザナギとイザナミの夫婦は日本の島々、そしてたくさんの神たちの親である。まず国産みを終え、そして海や山、草などの万物(の神々)を産むが、火の神カグツチを産む段でイザナミは大火傷を負う。ここでも「火」だ。
火傷に苦しむイザナミからまたも神々が生まれ続ける。養蚕の神、水の神、埴(粘土)の神、そして鍛冶と鉱山の神カナヤマヒコ・カナヤマヒメが生まれた。
イザナミがこと切れるとイザナギは嘆き悲しみその涙からまた神が生まれ、怒りにまかせてカグツチを斬り殺すとその返り血からも神々がうまれた。

亡くした妻を忘れられずにイザナギはイザナミを求めて黄泉国(ヨモツクニ)へとまかる。しかしすでに黄泉の国の食べ物(黄泉戸喫‐ヨモツヘグイ)を口にしているから戻れぬというイザナミは、どうしても戻るようにきかない夫にしばらく待つよう、ただし決して覗かぬようにと告げた。
いくら待っても音沙汰なく、とうとうしびれを切らせたイザナギは櫛の歯を折って火を灯しあたりの様子を伺った。すると見たもの、それは蛆が湧き、体のいたるところに雷がささった(雷神たちが纏わりつく)妻の恐ろしい姿だった。


イザナギの黄泉巡りとオルフェウスの冥界下りは互いに酷似する神話として名高い。
竪琴の名手オルフェウスは亡き妻を求めて冥府に入る。冥王ハデス、そして妃のペルセフォネに妻を返してもらえるよう悲しみの程を竪琴の調にのせて懇願した。胸を打たれた妃は王を説き伏せとうとう許されるが、冥府を出るまで決して妻の姿を振り向いてはいけないと言い渡される。そして見てしまう。


「見るな」「食べるな」は引導。


ペルセフォネは収穫の女神デメテルの娘である。ハデスはペルセフォネに懸想し無理やりに冥府へとさらってきたのだ。娘を奪われたデメテルは怒り狂い地上の実りを絶やしてしまう。ハデスはゼウスに諭されやむなくペルセフォネを返すことを受け入れるが、そのとき冥府のザクロの実を与えられたペルセフォネはその幾粒かを口にしてしまうため地上に戻れなくなる。デメテルの抗議の末に、ペルセフォネは冥府で食べたザクロの実の数を月にかぞえ一年のうちその分をハデスの妻として傍に留まり、その間は地上の実りが枯れることとなった。これは季節の始まりと捉えられ暦の起源とされている。


イザナギが黄泉国から葦原中国にもどり最初に行ったのは禊であった。
水に入り、左目を清めるとその水からアマテラスが、右目を清めるとツクヨミが、そして鼻を清めるとスサノオが生まれた。
アマテラス(天照大神)とツクヨミ(月読命)はそれぞれ太陽と月をつかさどり、それは太陽暦と太陰暦をも象徴している。

スサノオは乱暴狼藉の咎めを受け高天原を追い出され出雲、つまり葦原中国にゆき、そこでやヤマタノオロチ(八岐大蛇)と渡り合いこれを退治する。出雲が豊かな砂鉄の産地であり、ヤマタノオロチがその鉄を求めてこの地に移り住み先住民を脅かした精鉄集団を象徴したものであることを以前の記事で述べたが、オロチすなわち「蛇」が出てくると繋がりが増す。退治とは必ずしも「排する」意味にはならず、この場合は「征する」ととるほうが正しい。スサノオが蛇を征することで鉄を手に入れたように日本において蛇と製鉄の関わりを探せば枚挙に厭いがない。スサノオの子、オオクニヌシの和魂(ニギミタマ)は蛇神であり雷神であり水神でもあるオオモノヌシである。


オルフェウスの妻は蛇に噛まれて冥府に下った。
イヴそしてアダムをたばかったのも蛇であった。
蛇が冬の眠りから醒めるのは春雷の頃、二十四節季でいう「啓蟄」、間もなくである。


世界で最も古い製鉄は古代ヒッタイトで行われたとされている。鉄鉱石と炭を一緒に炉の中で加熱する製法で、後の時代に日本で始まる「たたら製鉄」も同様に行われる。脆さの原因となる酸素と結合しやすい鉄は裸火、つまり炎を嫌う。炭火は炎を出さず、しかも炭素と鉄が先に結びつくことで酸素の侵入を阻むことが出来ることをヒッタイト人たちは見出していたのである。
彼らは高度な製鉄技術を外に漏らさなかった。製鉄が世界に広がるのはヒッタイト王国の滅亡を待つことになる。

彼らの製鉄路を覗けば鉄と炭が赤黒く光を放っていたであろう、あたかもザクロの実のように。

ペルセフォネが食べてしまった冥府の果実、ザクロ。トルコ語やペルシャ語でザクロをナールというが、これはアラビア語の「火」を語源としている。火と炎は違う。炎ではなく灼熱した鉄のような火、これこそ悪魔イブリースの元素である。ザクロの粒の色に地獄の業火への恐れを重ねたのか。


禁断の果実が比喩するものを「火」とする指摘は重要である。が、決してそこにとどまるものではないはずである。火は製鉄に繋がる。製鉄は農具と武器をもたらす。鉄製農具によって増えた収穫は備蓄され富を産み、国や王が生まれる。鉄製武器は動物を狩るだけではなく、人間にも向けられるようになった。農と武の二つに分かれた製鉄の道は国同士の攻防という形で再び一つになった。剣に対し盾が作られ、鎧で実を固め、馬に蹄鉄を打ち、そして、火薬がうまれる。鉄が火薬を伴い火器となる。

人類と火の出会いを学問の世界では落雷によるものと説いており学会にプロメテウスの出る幕はないのだが、雷を作るヘパイストスの鍛冶床から火種を盗ったのであればそれは落雷を意味しているのだろう。大地と天空の陰陽が引き合い雷が起こる。雨を呼ぶ。闇空を駆けるイカヅチの姿に人々は蛇をみた。


雷と書いてカミナリともイカヅチとも読む。黄泉のイザナミにまとわりついていたのはヤクサノイカヅチ(八の雷)であり、「怒る」の語幹と「チ‐霊」を接続詞「ツ」で繋いだイカヅチは「雷神」を示す。雷神を目の当たりにしたイザナミは恐れをなして逃げ、黄泉国に通じる道「黄泉平坂‐ヨモノヒラサカ」の口を大岩で塞ぎ、それまでなだらかに繋がっていたこの世とあの世に結界が結ばれた。


科学は雷の力の正体を「電気」とし、人はそれを神に頼ることなく自らの手で作る知恵を得た。プロメテウスはまたしても禁をおかしたのか。

電気を作り続けるには絶え間なく燃える火、そのための資源が要るのであった。地から資源を掘り出し足りなくなると力ずくで奪うようになる。その争いは血を流し国を焼き、より力強い武器がつくられた。天使の嘆きはさらに深く、イブリースの笑いのみが聴こえる。

火から生まれたものが人々の暮らしを大きく変えた。日の出から日の入りまで働きづめ、餓えや寒さに苦しみながら短い一生を終えていた人間が命をより長く楽しむようになったという。かつて人々が憧れた「不老不死」が形になりかけているかのようである。禁断の果実が行き着くのはここかもしれない。



長寿であった垂仁天皇はさらなる命を望み、タヂマモリ(但馬守、多遅麻毛理、田道間守)を常世(黄泉国の意であるがここでは大陸?)に遣わして不老不死の木の実を探させた。タヂマモリが十年かけて探し当てたトキジクノカグノコノミ‐非時香果を持ち帰った時には遅かりし、天皇の崩御の後であった。タヂマモリは悲しみ息絶えてしまう。この実はタチバナ‐橘、火の色を持つ蜜柑の祖である。

カグノコノミの「カグ」に「香」の文字が充てられているため「香ぐ」と錯覚しやすい。「カグ」はかぐや姫の音と同じ「カガヤク」から来る。竹取の翁はかぐや姫の残した不老不死の薬を使わず火に焼いた。そこは「天の香具山」であった。なにより、イザナミの産んだ火の神カグツチは「耀ぐ」つ「霊」であった。ふいご祀りで鍛冶の神々に蜜柑を奉納するのは荒ぶる火を畏れてのことである。


悪魔はなおも誘う。教典も、神話も、我々に警告を繰り返す。が、知恵に塞がれた我々の目と耳はそれを認めない。

そして禁断の果実をほおばる。

放射能は人の思考を止めるのか

ただの気違いを除いて放射能が安全だなど本気で考えてる人はいないと思う。
放射能が体にどのような影響をあたえるかは例え漠然とでも皆しっている。
家族が、自らが癌を患ったり、わが子が障害を抱えて生まれてきたり、病に鞭を打って働いてもその稼ぎがすべて治療に消えたり、そしてそのすべてを背負うことになるのを一体、どこの誰が望むというのだろう。

東日本大震災以来、いや原発事故以来、日本の家族や友人としばしば意見を交換したりネット上で世論を覗いてみたりするようになった。その限りでは、どうやら日本では放射能の話しを敬遠、あるいは拒絶しているかのように見える。
「お耳障りかとは思いますが」などと前置きをして友人達にメールを送り原発や日本のこの後の事を対話しようと試みた。事故当初は「かまって」貰えたが、秋以降はさっぱりである。目にはさやかに見えぬ放射能よりも目前の不景気の方が敵として認識しやすいのだろうか。


放射線について考えてみよう
文部科学省が小学生向けに作成した放射線に関する教材である。地方によってはこれによる授業がすでに始まっている。

小学生を相手に、放射能が恐れるに足りないものであるということを解りやすく強調している。
「こういう指針で教材を作れ」というお達しが政府から文科省官僚に、官僚から下っ端どもに出されるのであろう、その「指針」がたとえどういったものであろうと関係ない。忠実に、忠実に作成されてしまう。省庁とはそういう環境なのか、そこで勤務するためには人としての判断力も良心も売り渡さねばならない。いや、そこに入省するべく幼いころから努力された方々には売り渡す判断力すら備わらなかったと言って差し支えなかろう。


放射線って、何だろう?

放射線は、太陽や蛍光灯から出ている光のようなものです。
薄い花びらを明るいところでかざして見ると、花びらが透けて光が見えます。これは、薄い花びらを光が通り抜けるからです。
光と放射線の違いは、放射線が光より「もの」を通り抜ける働きが強いことです。
放射線は、色々なところから出ています。放射線がどのようなところから出ているか調べてみよう。


                                                   (放射線について考えてみよう より抜粋)

放射線が我々の体を通り抜けると害があることは書かれていない。それに我々は「もの」ではない。放射線が何処から出ているか知りたければ教えてやろう、福島第一原発だ。


放射線は、どのように使われているの?

放射線を使って、細菌の付いていないきれいなものにすることができることから、病院で使う注射器などに利用されています。
これは、放射線に「細菌を退治する働き」があるからです。
放射線は、色々なことに利用されています。放射線がどのように利用されているか調べてみよう。
                                                                (同ページより抜粋)


われわれは発芽せぬよう放射線で去勢したジャガイモを食べさせられている。体内の細菌も、細胞、組織、臓器、人間、すべて退治できる。その力を利用した最たるものが核兵器である。


日本の政府は徹底的におかしいのだが、そこだけを批判する気になれない。なぜなら政府は国家の縮図であるからだ。(選挙によって国民が選んだのだからという意味ではない。)
電気漬けの生活を求めているのは紛れもなく大多数の国民である。家庭での使用のみではない。電気をはじめとする資源の過剰な使用の上に成り立つような社会を作り上げてしまったのも国民である。人件費を削るための機械化、生産費を下げるための大量生産、流通をうながす過剰広告、過剰包装、画一規格、そのための流行、そのための使い捨て、そのためのゴミの山、そして原発…すべては国民が望んで受け入れたものである。残念ながらこの国民にしてこの政府がある。

「原発」が日本経済の心の臓だという大前提があり、それが事実であるかどうかとは別に大多数がそれを信じる上で、日本人は原発がなくなることによって今日までに築き上げた社会が瓦解することを恐れている。戦後の焼け野原を裸足で歩いていた日本人はものを作り外に売ることをしながら富を得た。石油のない我が国が外に頼らず工業製品をつくり続けるには原発が一番都合がいいと思った。
原発がなくなれば、それを舞台に繰り広げられる今の産業、流通、経済すべてが「幕」になる。困る。生きる指針をすべてここに向けていたのだ。学歴、職業、地位、結婚相手、子供の教育、住まい、投資、老後…人生設計の根幹であるこの価値観を打ち砕かれたのではいまさら何をよすがに生きてゆけばよいのかわからなくなる。                                            


だから、穢い廃棄物が残ろうと酷い事故が起ころうと原発を「必要悪」と思い込もうとしている。
さして原発を推進したいわけではないが脱原発には背を向ける。それが日本の胸の内、違うか。


放射線を出すものって、なんだろう?

「放射線を出すもの」は、放射性物質と呼ばれ、植物や岩石など自然のものに含まれています。
放射性物質を電球に例えると、放射線は光になります。
放射性物質は、放射線を出して別のものに変わる性質をもっています。
元の放射性物質は、時間がたつにつれて減っていき、その減り方は、放射性物質の種類によって違います。
始めに1000個ある放射性物質が4か月で半分の500個になる場合、1年たつと始めにあった放射性物質は何個になるか考えてみよう。
                                                                 (同ページより抜粋)


電気店で売っている電球に家庭で電気を流すと発熱、発光する。一方、天然の放射性物質に中性子を工業的にぶつけた時に核分裂をおこしてこれも発熱、発光する。ただし放射性物質は電気店では間違っても売っていないし家庭で核分裂をおこしたら間違いなく死ぬ。次元の違いすぎる例をあげて子供を騙すのは正しくない。そして半減期が二万年の放射線物質があるという大問題をよそに四ヶ月という例を出している。この教え方はサラ金の利用規約を思い出させる。


放射線を受けると、どうなるの?

放射線の利用が広まる中、たくさんの放射線を受けてやけどを負うなどの事故が起きています。また、1945年8月には広島と長崎に原子爆弾(原爆)が落とされ、多くの方々が放射線の影響を受けています。
                                                                 (同ページより抜粋)


やけどで済むのか、原爆の影響がどういうものか知らないとは言わせない。言わせてはならない。


放射線は、どうやって測るの?

学校内の色々な場所を測定器を使って測ってみると、場所によって放射線の量が違うことが分かります。
例えば、学校の教室や体育館などで測った放射線の量に比べ、石碑の周りで測ると高くなることがあります。これは、石碑の中に放射性物質が多く含まれているからです。                                        
                                                                 (同ページより抜粋)
    
    

例えば原発が爆発を起こし空から放射線を帯びたものが降ってくれば教室や体育館の中より校庭の放射線量が高くなるだろう。わざわざ石碑を指し示して「放射線源はあくまで石碑の御影石に含まれるジルコン」と言い張るのは問題をそちらに追いやろうとしているからである。

このような文書を教材として作る側の者とはどのような人たちだろうか、それは日本の最高学府、あるいはその亜流で学んだ輩で、そこに辿り着くまでには幼い頃から「調教」を受けて育った。出題者の望む答えを「選択」出来るようになるための訓練を受けたのである。そこでは考える力など必要なく、逆に求められるのは瞬発力のようなもの、つまり出題者の意図を瞬時に汲みその答えを選択する力である。思考の方向性を一方に撫で付けられる。出題者と同じ思考に染まる。それが正解を出す近道だからである。もはやそうなれば出題者の望んだ答えが正しかろうと大嘘であろうと構わない、いや判断できない。冒頭でも述べたがそれを判断する能力が備わらないのは、こういった教育の賜物である。

この出題者とはそれほど特別な人たちかといえばそうでもなく、上で述べたような瞬発力を鍛え、それを得点という数値でより高く評価されたという違いがあるだけである。日本人みなが同じ道を通ってきた。かつて我々も、そして子供達がいま同じ訓練をされている。その中の一握りが官僚や学者に昇りつめ出題する側に立ち、そうでないものたちは自らを「負け組」などと称する。好きにすればよい。


放射線から身を守るには?

放射性物質が決められた量より多く入ったりした水や食べ物をとらないように気を付けたりするなど対策を取ることが大切です。
                                                                (同ページより抜粋)



原発を作り事故を起こしその収拾がつけられないうちに尚も原発を作ろうとする側の人たちによって決められた量など信用してはいけない。いけないが、信じたがる。
信じることで「経済大国日本」を継続できると思いたいからだ。人の思考を止めているのは放射能なのか、何なのか。


脱原発の是非を東京都民投票に問うための署名が行われ、その活動をされた方々は大変なご苦労をされたという。寒さとそれ以上に冷たい都民の態度に耐えて集めた署名は、石原慎太郎(敬称不要)によって積極的に無視されようとしている。

ブログ どくだみ荘日乗 『原発都民投票』

得点が足りず上級職につかなかった者でも思考は同じ方向へと流れるだろう。その流れに逆らう者を気味の悪い存在と捉え、攻撃せずとも無視を決め込む。



たとえば現代国語や英語の試験で自ら考えて解釈し回答すれば得点も成績も素晴らしく下がる。出題者の評価不能な回答は邪魔なだけで、早くねじ伏せておかないと自分の足場が危うくなるからである。理科や数学は一見そうはみえにくいが所詮は同じ、出題者の求める解析法を強いられている。ピラミッドの高さは三角関数などを用いなくても影と実体の長さの比を使うことで測れる。円の中心も角の三等分も紙切れを折ることで求められる。ピタゴラスやアルキメデスにいちいち証明をお願いする義理などない。

「君、数学のセンスはあるけど得点はとれないから安心しろ」
中学生だった筆者が数学の先生に頂いたお言葉。先生が何を仰りたかったかはその時すぐに理解した。先生にはおそらく教育のからくりが見えていたのだろう、現に数学も国語も成績は悪かった。このお言葉を励みに安心して生きていくうち気がつけば日本の社会の外にいた。

だからいま、偶然と当然が重なって我が子たちを日本の学校にやらずにいる。ともあれ支離滅裂な教材で放射能を楽しく明るいものだと思い込まされずに、そして大多数の日本人に望まれる思考を植えつけられずに済んだ。仮に日本にいてこの教材と対峙していたらどうしていただろうか、迷わず仮病で休ませるか、それでもダメなら学校を辞めさせるか。


おそらく出来ない。日本で安穏と暮らすためにはその判断力をかなぐり捨てなければならないからだ。



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Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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