ち のはなし   血液型と食の歴史

 血は体内を流れ、酸素と栄養素を体のすみずみまで運び、その帰り道に老廃物を拾って捨てる。生体が命を閉じるまで昼夜を問わずこれを繰りかえす。血流が鈍ると冷えや凝りがおこり、汚れが溜まって生体は力を失う。また、血の通り道たる血管が狭まるか詰まるかするとその先は補給を絶たれた戦場のようになる。血は流れているからこそ意味がある。

ただでさえ目に見えない血の働きであるが、さらに見えないところにまで旅をしよう。本稿では血にまつわる話を取り上げるものとする。


やまとことばの「ち」

やまとことばは大陸から漢字が伝来する以前、わが国の太古の祖先が意志の伝達そして祭祀にもちいた、また今日の日本語の礎石でもあることばである。表意文字の漢字とはもとより縁がなく語彙の音そのものが意味を持つ。「血―ち」の他に「ち」という音のあらわすやまとことばは幾つかある。

「乳―ち」「父―ち」「風―ち」「茅―ち」「千―ち」「個・箇―ち」「霊―ち」などがある。やまとことばでは、同音の語彙郡はその意味に必ずと言っていいほど共通点がある。では検証してみよう。
「乳―ち」つまり母乳、これは血液から造られる。今では常識だが古代人が乳と血をおなじ「ち」という音で呼んでいたことには驚かざるを得ない。しかし考えてみればわれらが先祖たちが血の濁りや淀みに驚くほど敏感であり、それに因んで乳の出が悪くなることなどは誰でも知っていたのかもしれない。乳とは命の源、そしてそれ以上の存在である。
古語における「父―ち」とは父親ではなく祖先、血筋といった意味で使われていた。血を媒体として受け継がれた系譜をさす。
現代日本語では「風」とかいて「ち」とは決して読ませない。しかし江戸時代までは暴風を「大山風―おほやま」などと呼んで怖れていた。歌には道真により「東風(こ)吹かば 匂ひおこせよ梅の花―」と詠まれている。風とは気の流れである。酸素をはこぶ。また風は雲を集めて大地に滋養の雨をもたらす。時に冷たく、時に暖かく、人に季節の流れをほのめかす。なにやら血の振る舞いによく似ている。
「茅―ち」とは「ちがや」という雑草をさす。萱の一種で恐ろしいまでの繁殖力があり古代からこの植物の穂を乾燥させて強壮剤、つまり血行促進剤として用いていた。「ち」の音の背景に子孫繁栄への思いが伺われる。ちなみに精子も母乳同様に血液から造られる。
数の多いさまを表すことばが「千―ち」である。「個・箇」を意味する助数詞「ち」を伴うと「千箇―ちぢ」になり千個、沢山、様々、となる。「千々」とも書かれる。「月見れば ちぢにものこそ悲しけれ―」など古歌にうたわれる。

「ち」の根底にある意識、それは「霊―ち」をおいては語れまい。

古代、その名に「ち」の音が含まれる語彙には霊力が認められていたといえる。たとえば「蛇―をろ(折曲がった霊)」、「雷―いかづ(怒れる霊)」、これだけでも「ち」の持つ恐ろしげな霊威が感じられる。さらに古事記などをひもとけば「大穴牟遅―おおなむ(多くの名を持つ霊)=大国主命」「火之迦 具土―ひのかぐつち(火の耀く霊)」、「久久能智―くくのち(木々の霊)」と、神々の名の中にも「霊―ち」が伺える。

つまり「血」には霊力があると、あるいは霊と同位のものとされていたのである。ただの物質でしかない躯(むくろ)という入れ物の中を駆け巡りそれに生気を与える。のみならず、思い、喜び、悲しむ魂を繋ぎとめる。精は子を成し、乳は子を育み、子々孫々に至るまで血を介して霊が伝わるのである。やがて魂が離れ血の流れがとどまると人は冷たい骸(むくろ) となる。


血液の進化

最初の人類が地中海一帯に現れた当初、その血液型はすべてO型であった。じつはこのOは「オー」ではなく「ゼロ(原初の意)」である。彼らの生活形態は動物の後を追って移動する狩猟型、つまり肉食を旨とした。それも火の扱いを習得するまでは獣肉を生で食べるのみ、無論それに適した消化機能が彼らには備わっていた。長い氷河期の間、大型動物を集団で狩猟しつつ生きていた。しかし気温が上昇すると大型動物が減る一方で人口は増え、肉に頼らず植物を採取して食料とする必要に迫られた。そしておよそ9千年前に採取が栽培へと移行して農耕がおこり定住化の契機となった。ここで大問題が起こる。この時点の人類の消化器は獣肉しか知らなかったのである。灌漑などの技術革新がもたらした豊かなみのり、つまり豆類や穀類が突然胃に詰め込まれるようになると人体のほうは窮地に立たされた。穀類は肉を消化する強力な胃酸で物理的に溶かされてはいても科学的には全く分解されず未処理のまま血液に取り込まれ、人はかつてない様々な病に悩まされたのである。いよいよ人類の存続が危ぶまれると、追い詰められた血液細胞が突然変異をおこした―A型の誕生である。これは農耕民族の血液型でありA型の血液細胞は穀類澱粉の組織を分解する酵素を生成し栄養とすることができる。農耕が人口の増加をもたらしたのであればそれはA型人口の増加を直接意味している。
その農業がおこるずっと以前にO型狩猟民族の一部の集団は獲物を追って中央アジアの高地に移動しそこで氷河期の終わりを迎えた。ここで見られたのは動物の小型化、羊の原種の発生で、彼らは単なる狩猟ではなくこれらの小形動物を捕獲し繁殖させることに成功する。牧畜の始まりである。すると生活形態は牧草を求めての移動型になるため農耕には向かず、足りない食料は動物の乳を加工したもの、つまり乳製品で賄われた。ここでまた大問題が起こる。O型狩猟民族は乳製品も消化できなかったのである。糖尿病その他の病に悩まされながらここでも突然変異によりB型が生まれた。B型の成立は獣肉と乳製品という準肉食の生活に起因する。AB型は後の世にA型とB型が出会い混血することで誕生する。
RBG

            赤血球から生えた糖の鎖の違いが血液型を決める


日本人の祖

上の説を日本古代史と重ね、やまとことばを手灯りにつらつらと考えてみた。筆者の推測も含まれているため一つの読み物として楽しんでいただければ幸いである。

氷河期、凍てつく海の水位は低かった。大陸と列島は陸続き同然か、小舟を使い島伝いに自由に行き来ができた。この頃に大陸から牧畜を経験せずに東進し日本南西部に到達したのが血液型O型の狩猟集団である。その後に日本の北側からやってきた集団はB型である。この両者こそ倭人、つまり縄文人である。これを単に捕食動物を追っての極東への旅とは考えにくい。その目的の中には当時の狩りに利用された細石器の材料(黒曜石)を求めてのことが考えられる。日本列島全域が硬度と劈開性に富んだ良質の黒曜石の産地である。また穀類以外の食料の確保のためよい漁場を求めて太平洋岸伝いにやってきたとも言える。魚肉は獣肉を主食とする民族にとっても無害であり、O型、B型双方にとって格好の栄養源であった。やがて氷河期は終わり海面が上昇すると海の道は途絶える。彼らは日本列島に腰を据えてのちに縄文時代と呼ばれる独自の時空を築く。

地中海一帯においてA型農耕民族の増え続けた人口は国家と権力者を生む。当然起こる戦乱は民族を四方に分散させた。東へと移動した集団はアジアで稲と出会い、約四千年前、ついにA型農耕民族が稲作と共に日本列島に至る。渡来人たちである。先住の縄文人との出会いと共存はいかなるものなりき。

果たして記紀にあるように稲作は天つ神からの授かり物とするほど有難い文明であったか、たしかに食料は生きるために不可欠であり、米はいろいろな意味で素晴らしい。そして実際に稲作の開始以降は人口も寿命も数字の上では増長した。結論は一言には収められないが、少なくとも縄文人にとっては大惨事だった。

先述のとおりO型とB型にとって穀類はそもそも天敵なのである。食べれば確かに腹は膨れるが滋養が得られずに活力を失い、そして病に陥る。各自が貴重な働き手である上に全体意識が重んじられた当時の社会では一人の病は集団全体に降りかかる災厄であり個人の問題では済まされなかった。
そこへ「旨いから食え」と言われ、「耕作しろ」と迫られ、挙句の果てに「天つ神を祀れ」と強いられた日には武器を取るのみ、しかし大規模な農業を運営するまでの組織力があり、ましてや鉄製農具と共に鉄製武器をも手にする渡来人たちに適うわけもない縄文人には彼らに従うか迫害されるかの道しかなかった。それが弥生時代である。
近畿・中部地方を中心に渡来人は農耕の地盤を築く。その一帯に先住していた縄文人にも耕作を伝え受け入れさせる。しかしそれにはそれなりの時間が必要であった。愛知県の朝日遺跡は農耕を核とした巨大な弥生遺跡として知られており、発見された人骨には結核や貧血などの痕跡が見られると言う。急激な人口過密化による栄養不足がその原因とされているが筆者は肉食から穀類食への転換期に起こった弊害と考える。やがて縄文人にA型農耕民族の血が混ざることで穀物の消化の問題は徐々に解消した。ここでA型とB型の婚姻によりかつて無かったAB型が誕生する。


迫害民の血

あまたの小国家の興亡を経て、やがてヤマト地方を中央に据えた大和朝廷の成立へと時代は向かう。その勢力圏を築くに当たって先住民たちに強いたのはヤマトへの恭順と外来の神々(天つ神=渡来人たちの先祖を神格化したもの)の信仰、そして穀物での納税であった。それに頑として従わぬ者たちは北へ、南へ、または人も通わぬ山奥へと押しやられた。
陸奥、出羽、蝦夷地、北日本に生きた縄文人たちは蝦夷との蔑称で呼ばれた。採取生活を頑なに守り、皮革、鉄製品を製造しながら朝廷と交易を行うまでの独自の生活圏を築くことに成功した。彼らこそ氷河期に日本列島の北側からやってきたB型狩猟民族の子孫たちである。A型の血が混ざらぬ以上はこの集団の血液はB型、そしてB型に内在するO型因子の覚醒により出生するO型から成る。
奈良時代に坂上田村麻呂の東国征伐をうけて朝廷支配に組み入れられた以降は国司が派遣され本格的に開墾がはじまる。しかし岩手県中部がその北限であり、その以北の地には縄文時代の生活形態を踏襲しつつ交易、生活具、装飾品、食、いずれをとっても躍動に満ちた華々しい時代が興った。これの実現にはある程度の寿命の延びが不可欠である。技とその精神を次世代に伝えるにはその共同体のなかに熟練者たちがいなければならない。子供を生んで育てるだけで寿命を迎えていたのでは彼らの技術的円熟は決して見られないのである。また老人たちの経験譚を子供たちが聞いて育つことでそれは民族の記憶として共同体に還元される。およそ文化と名のつくものはそれが具現化したに過ぎないのである。蝦夷たちは比較的長生きだったはずである。これが正しければ農業収穫による食料の安定確保だけが長寿の秘訣ではないことの裏づけとなるが、研究者諸氏の更なる調査が待たれるところである。

ところ遺跡

            北海道北見市 ところ遺跡から出土した副葬品

また、山岳地帯に篭りひたすら朝廷との争いを繰り返した縄文人そしてその子孫たちは土蜘蛛と呼ばれ恐れられた。彼らの血液型は農耕を拒んだ以上はO型かB型であることは確かである。彼らは蝦夷たちとは違って朝廷からの卑劣な迫害に対する恨みゆえに完全に敵対、孤立した。文芸・能・神楽・歌舞伎等の古典芸能に描かれた「酒呑童子」や「茨木童子」、「国栖(くず)」そして「土蜘蛛」とは彼らのことである。桃太郎などの鬼退治譚で悪役に描かれる鬼たちも然り、朝廷側から見た脅威は絶対悪として歴史に焼き付けられる。
      大江山の鬼退治

      大江山の鬼退治   左から渡部綱、酒呑童子、源頼光


A型の現代人が渡来系である、ましてやO型の現代人がすべて土蜘蛛の子孫であるなどという話は論外である。今の我々の血液型は先祖の血を確かに反映してはいるが、その先祖とは単一系統ではありえないのである。例えば大陸からの渡来人はヤマトの地で権力者となると縄文系の豪族の娘たちを次々に妃に迎え、その子孫たちはみな朝廷貴族となった。これは何代にも渡って繰り返される。天皇の家系から源頼光や渡辺綱などの猛き武人たちが現れたのもいにしえの母たちから託された血が甦ったのであろう。さらに近世以降、人の行き来が激しくなると血の邂逅は止まることなく進み今に至った。我々の血液型はいつの時代のどの先祖の血が濃く現れたにより、母の胎内に宿るその時に決まる。


さむらいの血

国際語にもなった「さむらい」とは誰か。一般的な語源は「さぶらふ―侍ふ」とされ、貴人のそばに仕えるという誤った意味で定義されている。そうではない。やまとことば動詞「もる―守る」にはじまる。その未然形に上代の助動詞「ふ(反復・継続をあらわす)」が膠着し「むらふ―守らふ」、常に守り続けるという意味の語彙がつくられ、さらに語意をつよめる接頭語「さ」を冠して「さむらふ」になる。その名詞形が「さむらひ」である。貴族が雅語を使って発音すると「さぶらひ」になる。ではさむらいたちは誰を守り続けたのか。
平安時代中盤、朝廷の貴族や寺が私地を拡大して荘園領主となり、その警護に東国から猛者たちが集められたことを侍(にんべんに寺、大陸から渡る漢語漢字ではなく和製漢字)の始まりと教科書はほざいている。しかし上で述べたように、「さむらひ」という言葉が確立したのは上代以前、遅くとも奈良時代である。朝廷からの武力による干渉から同胞を守るために太刀を佩き、馬に跨り弓を構えた蝦夷たちである。彼らが守ろうとしたのは遠い祖から受け継いだ血、生き方であって貴族どもではない。
血族を核とした武装集団が日本の南に現れる。水先案内や海運を生業とし、または海賊でもあり、有事には朝廷の軍事力として機能していた集団は水軍と呼ばれた。彼らの先祖は南日本海域に点在した縄文人、熊襲である。後に熊襲の出の武士団として活躍する渡辺氏、村上氏などが有名で、また物部氏はかなり早い段階で朝廷に仕え軍事警察部門を受け持った熊襲である。「もののふ(=さむらい)」とは物部の和様の読み方から来ており「もの」とは武器を意味する。荘園領主たちはすでに存在していた武士たちに警護を依頼しただけであり、それを武士の始まりとするのは悪意さえ潜む誤りである。
そして北日本、蝦夷の中から現れた武装集団は地域を護衛しつつ弓と馬術の鍛錬にいそしみ勇猛な戦人として自らを育てた。鎌倉以降、武士の家柄を「弓馬の家」と言うがじつはそれは東国のさむらいたる蝦夷の血筋に由来する。中央から遣わされた役人が東国に土着し、地域の開拓を行いながら蝦夷と共に成長した武士団が奥州藤原氏を筆頭に数多く現れた。であるからして武家の棟梁たちの家系をたどれば大抵は源氏や藤原氏に行き着く。しかし東国に土着した以降は何代にも渡りその地の娘を妻に娶り子孫を残している。西国、南国でも同様の土着により武士団が形成された。父系の家名に拘らず冷静に俯瞰すれば武士たちはB型蝦夷とO型熊襲の血がより優勢であると言える。彼らは後に戦国武士として活躍、わが国の歴史の表舞台に立つことになる。

       弓馬の家

     弓馬の道トルコ流、そして日本流。彼らの先祖は中央アジア高地から東西に別れた。
 

農耕民の血

日本人の血液型で一番多いのはA型である。なぜか。
一昔まえの日本人の食生活だが、一言でいえば米が中心であり、その脇には常に味噌や豆腐や納豆といった豆製品があった。そして野菜の煮物、酢の物、漬物と少量の魚介類、これはA型農耕民にとって最も快適な食生活である。A型の消化機能ははでんぷん質を分解することに長けているが、動物性のたんぱく質を活力に代謝できないだけでなく血液中に病因として残してしまう。奈良時代から江戸時代にかけて時の政権は幾度も獣肉の禁令を出した。それは無類な殺生を戒める仏教に因るとも、働き手たる牛馬を保護するためとも、民衆の血の気を削いで従順にさせるためとも言われるが、結果として国家財政の基礎つまり稲作を担う農民層の胃腸を不向きな肉食から守りその繁栄を助けた。中世まで農村が搾取の対象とされながらもA型農耕民の人口は徐々に増え、そして江戸期に入り幕府の保護政策で豊かになった農村からは余剰した人口が都市に流れて大都市となった。それゆえ大都市の構成員もA型が優勢となり、するとそこでは米を中心に据えた食生活が展開する。今では喜ばれる中トロなどは敬遠されて猫の餌か畑の肥やしにされていたのも脂の強い魚肉が肉と同様にA型の敵であることと無関係ではない筈である。江戸時代に花開いた和食と名のつくわが国の食文化がA型の血になぞらえて構築されていたことは歴史学者からも栄養学者からも気付かれていない。
      米問屋

             米問屋の風景    食料であり貨幣でもあった米

逆に地方の武士、また山間部で生活する樵や猟師その他もろもろの職種の日本人は獣肉をかなり口にしていた。狩と称して野鳥や兎を公然と捕食しており、太鼓や鼓の皮の材料となる皮革を剥いだあとの牛と馬も当然の如く食用にされるなど獣肉の食文化も細々とではあるが継続されていたのである。そうでなければO型とB型の日本人たちは萎えきっていたはずである。いちばん気の毒だったのは粥ばかり啜っていた大都市に暮らす下級武士たちかもしれない。


血液型別の食を

上に書き連ねたことは昔話のようであるが現実に我々に流れる血もおなじ四種類、AとBとO、そしてABであり、各々の血液細胞のかたちと働きは縄文時代から変わっていない。これらの事をあわせ考えてみるといろいろなことに気付く。
例えばある現代人の血液型がO型だとすれば、それは彼が歴代の祖先たちから受け継いだ血の中のO型因子が色濃く現れたことによる。このO型因子は人類が狩猟民族であった頃からの名残である。すると彼の体の組織は胎児の時代からO型の血液細胞によって構築され、生涯その血に見合った栄養補給をつづければより快適に、より健やかに、またより長く生きて行ける。逆も真なり、血が苦手とする食生活は人体を疲弊させ、より早く老化させる。
蝦夷や土蜘蛛たちが頑なにまで農耕を受け入れなかったのは穀物を口にすまいとする血の為せる業でもあった。ならば現代もO型とB型の血は依然として同じ性格を持ち続けていることを思い出すべきである。A型以外にとって和食は体によいとの思い込みは危険極まりない。

A型であれば和食は理想の食生活である。現代の肉と乳製品に偏った食卓は見直すべきである。
B型は穀類以外なら安心して食べられる。乳製品も肉類も消化できるが両方を同時に口にすると負担になり得る。
AB型はAとBの両方の特性、強味も弱味も併せ持つ。何を食べても消化できるがそのぶん上限が低く設定されている。穀類、肉類、乳製品を同時に摂取しないほうがよい。
O型の場合、肉ばかり食べていてもそれで病気になることはない。逆に肉と魚しか食べられないとまでは言わずとも近いものがある。O型とB型が間違ってベジタリアンを目指すと内臓や血管が劣化し死に至りかねない。

これでは何も食べられないではないか、と嘆いてはいけない。まず日本人にとって米だけは別格である。米を食べ続けた我々の体内に米を分解する酵素がいつのころからか住み着いている。我々には麦よも米のほうが消化しやすい。そして葉物と根物の野菜の多くは誰にも害はなく、漬物はとくに優れた食品と言える。
また両親のうちのどちらかが自分と異なる血液型を持つのであればその特性を多少は引き継ぐことができる。たとえばO型の母親をもつA型の子が肉類を食べても血の中のO因子が消化を助けてくれる。血とはやはり争えないものである。

血液型が全てではない。人の生き死にはよろずのことの重なり合いである。しかし食べることなしには誰ひとりとして生きられず、血の助けなしには食べても体に生かせない。血がうけつけぬ物は決して体に還元されないのである。血のことをあまりに知らなさすぎたため我々はいらぬ病に冒されるようになったのである。乳製品は背が伸びる、肉は太らない、日本人なら日本食、どれも嘘ではないが相手構わず薦めたのではひどい間違いになる。少なくとも血というものを知る努力をせねばならない。せねば次の突然変異を待つ間に多くの命が苦しみ喘いで尽きていくであろう、それでもよいのだろうか。

血液型と食生活の話は筆者にもこの辺りまでが限界である。あとは専門家の方々に是非とも研究していただきたい。血にまつわるほかのはなしは次号にて。
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やまとことばでよむ「古事記」 イザナギ・イザナミ考

日本というものの純粋な部分が我々の中に今やどれだけ残るのか。純日本人でありつづける必要はないと思うが、このままよその世界に迎合しすぎれば脂のように溶け崩れ二度と形を成さなくなる、そう思えてならない。今や日々の会話は外来語なしには成り立たず、かりに西欧からの外来語を取り去ってもやはり漢語外来語と明治の新語だらけである。ことばとはその共同体に生きる上での価値判断と意志伝達を担う重要な媒体である。つまり今の日本は生活も意識も外来の文明にとことん支配されていると言うことになる。それ自体は良いことでも悪いことでもないが現状、日本は甚だしく見苦しい。

これまで「やまとことば」にこだわってきたのはこういった危惧があってこそである。

人とて、国とて、時とともに他と邂逅し変わりゆくのは道理であって不可避でもある。しかし決して他に空け渡してはならない処があるはず、こうも見苦しく息苦しい国ができてしまったのはそれが何なのかをいつの間にか見失ってしまったがためであろう。先祖たちが何を思い、何を守ろうとしたかを見出だすのは今となっては難しい。しかし太古に生まれたやまとことばを辿れば、その答えに行き着くことができるかもしれない。

大陸から漢字が流入するその遥か昔から使われていたやまとことばは音声のみの言語であり表記文字の存在は無かったとされれている。仮に古代文字があったとしてもごく稀に、たとえば司祭のみに使うことが許されていたとも思われるがこれは推測の域を出ない。とにかく音の持つ力(音霊)に支配された言語であることは確かである。

たとえば「おふ-OU」という音の動詞は漢字で書けば「生ふ」「追ふ」「老ふ」「終ふ」などのように意味が別れるが、漢字と出会う前まではただ「おふ」の一言で語られていたことになる。そんな無茶なとも思える。しかし生ずるとは即ち時を追うごとに老いて一生を終えることであり、また「負ふ、覆ふ、帯ぶ」は持つ、身に具えるの意から体という媒体が一生という時を背負うことに通じる。「おふ」の音にはその全てが秘められていたのである。先祖たちは「生いる」と「老いる」の相反する現象が実は不可分であると当然の如く認識していたことが解る。やまとことばはこの例のみならず、ひとつの語彙から複数の意味が枝分かれしつつ音韻を共有する。つまり、それにより成されたひとつの文章からは何通りもの意味を引き出すことができ、ゆえに短い文で壮大な世界を語ることも可能になる。その精神を技法として生かしたものが和歌や俳句などである。
しかし漢字によって視覚化されて意味が細かく分かたれたことばはその流動性を失った。音霊は文字の中に封印され、自在に駆け巡ることはなくなったのである。

さて、先ずそのようなことを踏まえつつ、現存するわが国最古の書物である「古事記」に焦点を当ててみたい。
「古事記」以前から存在した書物は大化の改新の折にすべて焼失したとされておりその内容は定かではない。壬申の乱を経て、天武帝の勅令により凡そ天地開闢からの故事と皇族の系譜が書物としてあらたに書き著された。言語はやまとことばであり表記法は漢字の音を借りた万葉仮名である。
古事記を読み込む場合、この書物の本質が音霊に支配されたやまとことばであることを忘れてはならない。単語を分解し、漢字の持つ意味よりもまずその音を頼りに意味を汲み取らなければならない。国産み物語の主人公として親しまれるイザナギとイザナミも然り、物語に現れる神々や国の名ひとつ一つに遠い昔の出来事が隠されている。

        古事記
               古事記  上巻二 天地初發之時…

夫婦神イザナギとイザナミ、その名はやまとことばの「いさなふ-誘ふ」に由来する。
「をと、ひ、おな(カ・ガ行子音)」、「をと、ひ、おな(マ行子音)」などにみられるように、語尾の「ギ」と「ミ」はそれぞれ男、女を意味する音として捉えれば共有部分「イザナ」が残る。これはすなわち動詞「いさなふ」の語幹である。
「いさなふ」を今の言葉で言えば「さそう」「みちびく」「ともなう」というあたりか。イザナミとイザナギはお互いをいざない合い、そして結ばれた末にこの国が生まれたことを思えば、「いさなふ」とは何かと考えざるをえない。

「いさなふ」は「いさ」と「なふ」からなる合成語である。

「いざ行かん(さあ行こう)」などと、人を誘うために発する感動詞として知られる「いざ」はその語源を「いさむ」に求めることができる。単純そうだが実は深いことばである。奮い立つ、いきり立つ、励む、と言う意味の「いさむ-勇む」、また戒める、引き戻す、差し止めるという意味の「いさむ-諫む、禁む」、このように「いさむ」は相反する二つの性質を持つ。ひとつのことばの中のこの矛盾は俄かには理解しがたい。しかし人はただ後先なしに勇み立つだけでは傷つき絶え果てるのみである。ひとは常にこの蛮勇を諫め、逸れた勢いを本道にひきもどさなければならない。それでこそ潔く(諫清く)生きることができる。つまり「いざ」とはやみくもに人を駆り立てる掛け声ではない。ひとをよき道に導きながら鼓舞するという祈りにも似たことばである。

「なふ」の解釈にはものごとを合わせなじませる「なふー合ふ、和ふ」、拠りをかけて多くのすじを混ぜ合わす「綯ふ」がふさわしい。「なわ-縄」はそれが名詞化したものである。
日本では縄は単なる生活用具ではなかった。縄を張り巡らすことで「結界」を築いたことからそれは呪術や意志伝達の上で重要な意味を持っていたことが解る。「結界」の役割は二つに別けられる。ひとつは清浄なる神の領域に人の世の穢れを持ち込まないため(ハイルナ)、そしてもうひとつは荒ぶる神、悪霊や鬼またその力をある領域の中に封じ込めるため(デルナ)である。神社と呼ばれるものはこの二面的な結界に分け隔てられた領域であり、ここでの縄は「注連縄」という形に象徴され今も残る。かしこき「縄」を「なふ」業は神事のひとつとして捉えられていたはずである。

我々の先祖が始めて出会った「縄」は何であったか、それは「へそのお」ではなかろうか。この不思議なナワが母親と胎児の命を繋いでいたことは科学などに触れなくとも、ましてや言語を持たない原始の昔でも容易に知れたであろう。そしてそれをよく見れば何やら二本の道が拠り合わさっているではないか。へそのお=臍帯は栄養と酸素を供給する道(陽の道)と老廃物を回収する道(陰の道)の二本が二重螺旋を描いている。この姿に霊性を覚えぬはずがあろうか、後の時代に縄を神聖視したことの根源はこの辺りにあるのではないかと充分に考えられる。ちなみに遺伝子の構造も二重螺旋であるが、これは先祖たちの知る由も無いことではある。

              へそのお
                      へそのお
                    
ふ」の語源は「-土」であろうと考えられる。練-る、塗-る、均-らす、伸-す、滑-めるなど、ナ行動詞には泥、土、土地に関わる多くの語彙があり、さらに名詞の「-泥」「-丹」「は-埴」「ま-沼」はまさに泥そのものである。このように一音節かつ複数の動詞の語幹の音であることばはかなり古いやまとことばの一つと言える。しかし縄を綯うという語彙がなぜ植物ではなく土や泥から想起されたのだろうか、不可解ではあるがここには「土器」が関わっていそうだ。

藁縄が作られるようになったのはもちろん稲作が行われる以降である。それまでは葛のつるを煮て繊維を取り出したものなどが縄の材料に使わたとの記録があるが、ここで何かを「煮る」ためには土器が無くてはならない。植物の繊維から縄を綯う技術に先行して縄文土器の使用が始まっていたことになる。

   土器


ろくろの無かった縄文時代に土器の壷や甕はどのように作られたかといえば、まず粘土を縄状にのばし、それを輪にして一段ずつ積み重ねるか、蛇のとぐろのように螺旋を描いて円筒の容器をつくる。この粘土の縄を作る作業こそが「ふ」であったと考えられる。
日本史における縄文土器の持つ意味はあまりに過小に評価されている。木の実の灰汁抜きをしただけではなく、獣の肉か魚を直火で炙るだけの食生活から飛躍的な変化をもたらしたであろう物が縄文土器である。肉・魚介類を木の実や芋類、海藻とあわせて煮込み、煮汁とともに摂取するようになった。塩造り酒造り、また夏に乾燥させた食材を冬に水戻しすることも、草や根を煎じて薬とすることも可能になった。このように滋養、殺菌、投薬などの様々な面から日本人の暮しを豊かにしたことは間違いない。しかし食の変化という視点からは稲作伝来以上の意味があるはずの縄文式土器は、弥生式土器と比較して品質が低い、装飾的であるが実用的ではないなどの無意味な評価ばかりを受けており、理不尽とはこのことである。
縄文土器のその名の由来となったいわゆる縄目は焼成前に意図的に付けられたものである。粘土の縄は生地の厚さを均す際に消えてしまう。土器のその肌にあらためて縄目を付けたのはやはり神の恵みたる糧を穢れから守らねばという意識が働いたに違いない。縄目の文様はただの装飾ではなくやはり「結界」であったと思われる。

そろそろイザナギとイザナミに戻ろう。

「古事記」の国産みの段はイザナギとイザナミのあけすけな濡れ場だけがむやみに注目されているが、古事記が男女のそれになぞらえて語らんとするのは「陰と陽の誘い合い」である。生物の繁殖はもちろん大地に雷が落ちるのも、月の満ち欠けも、原子構造も、そのほかの全ての物理現象は陰陽(±)に拠るとし、更にこの世の起源をも陰陽に求めているからである。
男神のイザナギは陽の力、女神のイザナミは陰の力を象徴した存在であり、その使命とは縄を綯う如く陽と陰を拠り合せ何かを生み出すことである。ただし「な-土」という重要な媒体を通す。イザナギ以前の世界にはその名に泥土を暗示させる神々が複数現れており、またイザナミとともに「アメノボコ-天矛」を以って形なき流れる大地を掻き回したとされている。天地は「な-土」に始まる。

        こおろこおろ
             天沼矛をとるイザナギ、そしてイザナミ

即ち「いざかしこみて陰陽を交え土より産み為さん」、そう誘い合うのがイザナギとイザナミの名の解釈となる。産み成さんとするのは国産みと神産みにほかならない。

こうした考え方は大陸の陰陽思想に影響を受けたとするのは狭い見方といえる。なぜなら陰と陽の両極支配は日本の先祖たちが自然の摂理の中にすでに見出しており、上述の「老ふ-生ふ」「諫む-勇む」の例にもそれは明確に現れている。稲作をはじめとする大陸文化が伝わるそのずっと昔に、やまとことばは陰陽を基本構造のひとつとしてすでに組み立てられていた。後に大陸から伝わった陰陽思想を抵抗なく受け入れたのは日本にそうした土壌があったからこそであり、陰陽への理解がすべて大陸文化の影響であった訳ではない。
                              
この世の起源、わが国においてそれは天地開闢という神話に語られ今日に伝えられている。しかし現代ではこの神話というものを古代人の空想による説話と割り切り歴史そのものからは切り離して考えるのが普通である。時代が降るにつれ人も文明も進化し現代は古代より優位にあるという根拠なき思い込みが常に働くことがその原因であろう、しかし実際は、時代とともに人も社会もただ怠惰に、強欲に、淫蕩に、脆弱に、臆病かつ残虐になったことだけは確かでも優れているかは実に疑わしい。いにしえの祖たちは子々孫々たる我々に何かを託そうとしたことは疑いなく、それを空想と括って非現実と扱うことが果たしてどれだけ罪深いか、思うにつけ畏怖の念に駆られざるを得ない。それならば神話とは史実とでも言うのか、とお叱りを受けそうだがそうではない。では何なのか。

その前に「な-土」について、もうすこし書かねばなるまい。

奈良時代後期に開墾地(稲田)の私有が認められ出すと、多くの場合は所有者が自らの名を墾田に冠していた。この田は田(みょうでん)と呼ばれ徴税の単位とされた。また多くの名田を支配し納税を請け負った有力農民を主(みょうしゅ)と呼んだ。平安時代に武士が発生すると、彼らは一族の生活基盤(つまり稲田)のある土地の地名を姓として名乗るようにもなる。後に勢力範囲を広げた武士は大(だいみょう)となり、やがては日本全土を掌握するに至る。このように古代から近世にかけて「な-土」と「な-名」の間にはただの同音異句というだけではない構造的な関係が保たれていた。しかしこの関係は実はさらに古くに始まっていた。

「国作り神話」で知られるオオクニヌシはスサノオの六世の孫とされており、またの名をオオナムチ(大穴牟遅)という。ほかにも多くの名を持つことがオオムチ=大持と呼ばれる由来とされ、また名前が多いのはスサノオの血を引く複数の神々を総称したのがオオナムチであるからとする説もある。高天原を追われ出雲の地に降り立つスサノオはクシナダヒメ(奇稲田姫=霊妙なる稲田の女神)と結ばれる。これは縄文人(スサノオ)の稲作との出会いであり、広大にして豊かな出雲の国を築いたスサノオの子孫はオオクニヌシ(大主)と呼ばれるまでになった。つまりオオクニヌシとは出雲地方に実在したであろう出雲王朝の歴代の王たちを指している。ただし、「な-土」というやまとことばがある限りオオムチの意を「多くの(土地)を持つ者」と解するべきであり、そうでなければ「大国主」という呼称との繋がりが希薄になる。海の向こうから現れオオクニヌシの国作りを手助けたスクナヒコ(少彦)という神の名は、渡来神(渡来人)であるために「日本国内に名=土が少ない」と意味を引き出すことができる。「土」とは生活基盤であり、出自を担保するものでもあり、つまり母胎である。また「名」とは出自そのものであり、「名は体を現す」とのことばの通りその特性の現れであり、特性とはその母胎で育まれるものである。やはり「名」と「土」は縁続きなのである。神により最初の人間として「土」から創造された預言者アダムは先ず天使をして万物の「名」を教えられたという「クルアーン」の教えともどこかで繋がりがあるのかもしれない。

稲作は、端的に言えばカミに帰属するはずの土地に資産価値を与えてしまったのである。木や土の中に生るもの、海から山から獲れるもの、それをカミの恵みと拝して共食していた時代は去り、自らの力で切り開いた土に糧を実らせさらには庫に蓄えるようになった。森羅万象はおしなべてカミの持ち物であるという考えはここで破綻した。糧のある処を求めて、つまりカミの意のままに移動していた先祖たちは土に縛られた。冒頭で音霊が文字の中に封印されたと述べたが、それに実によく似ている。そして土を争い、名を競い、血を流した。弱者は強者に使われるようになり、強者の先祖神を氏神と祀ることを余儀なくされたのである。氏神は土地の神として君臨し、農耕を基盤とする土地と人民支配はこの氏神の名の下に行われた。土は氏神の物となり、その総帥である高天原の神の物になり、ひいてはその子孫たる天皇家の物となる。律令制が布かれ土が完全に支配されるようになる時代を迎えると、「古事記」や「日本書紀」が文字によってかかれた。「文字」の古語もまた「な-名」であることは偶然だろうか。

(これは筆者の独り言に過ぎないが、古代文字は存在した筈である。凄まじい開発力を持つ日本民族が文字だけを編み出さなかったというのはどうしても解せない。ではなぜ残らなかったかである。おそらくは、音霊を文字に縛り付けることを畏れたのではないだろうか。一度は文字を成立させたものの、音霊の苦しげな叫びを聞いたのか、またどのような嘘でも書けば後の世に残せることに気づいた先祖はその恐るべき文字の力を邪悪なものとみなし、それまでに粘土などに刻み付けた文字という文字を全て破壊したのではなかろうか。)

出雲王朝は後に大和朝廷の傘下に降る。これはオオクニヌシが出雲の国を高天原の神々に譲るという「国譲り神話」として描かれているが、もちろん出雲王朝が朝廷の武力に屈したと考えられている。その恨みゆえにオオクニヌシが悪霊と化し世に災いをなすことをた畏れた朝廷は出雲大社にその霊魂を祀った、言い換えれば結界の中に封じ込めたのであった。出雲大社は怨霊を祀る神社であるなどとまことしやかに囁かれるが、神社とはもとよりそういうものである。

日本の神話はギリシア神話ゾロアスター教、インド世界の神話と類似性がある。いや直接関連がある。それは古代人の血の中に宿った民族の記憶が移動や通商にともない東西に拡散したからであり、遠く離れた地中海神話の片鱗が日本神話の中に現れていてもさほど驚くべきことではない。神話とはいずれも太陽神を筆頭とする擬人化された神々が人と交わり子を産んで王族の祖となっている。しかし日本の太古の先祖たちが本当に畏れ敬ったものは手足や目鼻のある神々などではない。溢れる恵みを人の世にもたらし、或いはすべてを奪い去る、自然の摂理の内に秘められた目には見えない存在である。それをカミと名づけて冒さぬよう、穢さぬように気を配り、ひたすら祀ることで怒りを鎮めようとした。擬人化した神々に名前を付け、親子関係を持たせ、また遠い国の物語を織り込んで神話を綴ったのは実は時代がだいぶ降ってから、つまり稲作による豪族や王朝の支配が生まれた以後のことである。わが国に限った話ではなく、権力者は後世にまでその血統の正当性を認めさせるため出自を必ず神に求め、「氏族の系譜」を「神の系譜」へとすり替える。そうして書かれて世界中に残ったものがいわゆる神話である。ここでこの「神話」をそのまま「神の話」と認識してしまうと途端に荒唐無稽な説話と成り変わり、ひいては本来の「カミ」なる存在を陳腐化するという誤りに至る。

神話は史実ではないが史実を反映したものである。権力者の都合で書き作られた神話の行間から史実をよみとる努力をするべきである。こうした神話の評価は「カミ」の否定には決して繋がらない。神話の中の偶像をふるいにかけてこそ先祖たちが真に畏れた「カミ」に漸近することができよう。

天地開闢、国産み、神産みの段も今後の記事にてよむとしたい。

すべての道は日本に続く クルアーンと浦島伝説 後編

「アスハーベル・カーフ(أصحاب الكهف)―洞窟の衆」を再掲し前編から続けたい。

偶像を崇拝する多神教の帝国にありながら唯一神を敬う六人の若者たちは皇帝に囚われて投獄され、唯一神を忘れて多神教の神々の偶像に跪くか死罪かを選べと迫られた。牢獄を破り逃げた若者たちはにべもなく現世を打ち捨て、神の教えを貫くために山へ踏み入るとそこに犬を連れて現れた一人の羊飼いが彼らを洞窟に導いた。その夜、羊飼いを合わせた七人は神の教えを今日まで守り得たことを感謝してさらなる大慈大悲を請い、犬に守られながらそのまま眠りにつく。やがて目を覚ますと彼らの中の一人が銀貨を手に糧を求めて町へと下った。目に映る町の様子も人々の装いも大きく変わっているのを怪訝に思いながらもひとつの店に入り銀貨を渡してパンを求めた。店主にしてみればその若者のほうがよほど怪訝であった。なぜなら古めかしい衣服を纏い、手渡された銀貨には数百年前の皇帝の名と肖像が刻まれていたからである。領主に知らせが走り盗掘の疑いで若者は捕らえられた。よくよく話をしてみれば、若者は洞窟での僅かな眠りから目覚めるまでの間に偶像崇拝の時代が過ぎ去り一神教が栄えたことを知り、そして町の人々は三百年前の偶像崇拝時代に追っ手を振り切り姿を消した一神教徒の若者たちが再来したと知る。町は奇跡に沸き返り、その騒ぎは皇帝の耳に届く。皇帝は奇跡の若者たちを尋ねて洞窟へと向かう。そしてそこに至ればまさしく残る者たちと犬が佇み、皆と言葉をかわし、やがて若者たちは再び、しかし今度は深い眠りについたとも伝わり、忽然とその姿を掻き消したとも伝わる。


伝承「アスハーベル・カーフ」の全体を眺めると、「海幸山幸」と「浦島伝説」に何らかの関連があるとしか思えない。糧を求めて町に下った若者が当惑する様は故郷に戻った浦島太郎に、道案内として描かれた羊飼いは水先案内をした鹽椎神(シホツチノカミ、潮流の神)、連れていた犬は鮫または亀に、七人(犬をあわせれば八)という数は昴星か畢星の童子たち…もちろん物語の起承転結のとおりには符合しない。結婚譚が存在しないのはそれが大和朝廷の征服譚に付随するものであるという見方をすれば当然といえる(前編参照)。


昴星と畢星(プレアデス星団とヒアデス星団)は牡牛座のなかにある。インドから地中海にかけての地域では太古から、牡牛を神々に捧げる犠牲、ときに神の化身たる聖獣、ときに神体そのものと、多神教偶像崇拝の象徴として特別視しており特に地中海世界では牛の頭を持つ神像(偶像)に男児を犠牲として捧げるという忌むべき悪習が存在したことはよく知られている。ここで牡牛座の中に繋がれた星たちは多神教という牢獄に囚われた若者たちと符合する。「アスハーベル・カーフ」の中では若者たちと犬の名前がアラビア語で伝わるがその一人はデベルヌシュ(Debernuş)といい、プレデアス星団に属する二等星のアルデバラン(Al-debaran、Alはアラビア語の定冠詞)を指していると言って間違いない。洞窟の七人が神に祈り助けを求めたように豊玉姫が海神たる父の大綿津見に助けを求めている。海幸と山幸の兄弟の確執は分裂する東西ローマ、そこから発展するオーソドクスとカトリックの陰鬱な反目、ひいては元来おなじ教えであったユダヤ教、キリスト教、そしてイスラームの三つ巴の争いを暗喩しているかのようである(海幸と山幸はホスセリを含めて三兄弟)。

           Seven_sleepers_islam.jpg
 アラビア語の文字で表現された舟の舵は七人の若者と犬の名前。山の洞窟に舟というのも興味深い。

この古代伝承を現代にまで知らしめたものの一つはキリスト教の聖人列伝「黄金伝説(Legenda aurea-1267)」第96章に記されている「眠れる七聖人(教会ラテン語)」である。より古いキリスト教系文献(最古のものは古シリア語)も幾つか存在し、細部はそれぞれ異なりつつも凡そ多神教のローマ帝国支配の下にてキリスト教が激しく迫害された時代を背景に描かれている。

キリスト教の見地から言えばこれは厳粛なる実話であり物語ではない。若者たちが隠れた洞窟の候補地は地中海からウイグル新彊にかけて30箇所以上ある。また迫害者は三世紀終盤にローマ東西分割支配をはじめた皇帝ディオクレティアヌスと副帝マクシミアヌスに比定され、マクシミアヌスが自らの重臣であった六人の若者に偶像崇拝への帰還を強要したとされている。そして五世紀初頭テオドシウス二世の治世に若者たちが目覚めたと一般に考えられているが、しかしこの説だと時の経過が200年に満たず浦島伝説のそれとは合致しない。あろうことか、300年という数字がはっきりと書かれているのはイスラームの聖典クルアーンである。

クルアーン第18章「洞窟の章」での描写はキリスト教由来の伝承に比べればより抽象的になされている。地域も時代も皇帝も、若者たちの名も人数も書かれてはおらず、若者たちがキリスト教徒であったかどうかにも触れられていない。明確なのは一神教に帰依した数人の若者たちが偶像崇拝者たる支配者から逃れて洞窟に隠れ、助けを求める祈りに報いた神が彼らの耳を閉じ(眠りを与え)たこと、そして皆が目覚めひとりが銀貨を手に町へと下ったこと、そして若者が眠る間に現世で流れた時間である。

彼らは洞窟の中に三百年、さらに加えて九年過ごせり。(クルアーン 洞窟の章25節)

イスラム神学においてこの数字は太陽暦で300年、太陰暦で309年と解すべきとされている。他の細部がすべて抽象表現される中でこれだけがはっきりと書かれているのは実に不思議である。

若者たちが眠りについていた洞窟は異界と現世の交錯点である。いや、神に眠りを与えられたことでそこが異界と繋がった。彼らがそこで幾許かの眠りから覚めると現世では三百年が過ぎ、目覚めた後も異界との繋がりは保たれていた。しかし一神教を受け入れた後代の人々が洞窟に足を踏み入れ若者と邂逅したことで僅かに開いた異界への扉は永遠に閉じられた。まさに現世に還った浦島太郎が玉くしげを開けたそのときに異界と現世が遠ざかったのを思わせる。

「玉くしげ-玉匣」をどう理解するべか、くしげとは櫛や鋏(はさみ)をしまう箱をいい、玉は美辞をつくる接頭語であり、魂、霊にも通じる。「くし」の音をもつやまとことばは「櫛、髪、頸、頭、串、酒、奇し…」とあり、こうしてならべるだけでもこの音の持つ「かしこさ-畏さ」が伝わる。霊の降り立つところ、霊力をもつもの、という意味がある。ならば玉くしげとは異界への扉、その中は現世を包む無限の異界、そう考えればよい。明治政府がそれを玉手箱と書き換えたのは、玉くしげの言葉の意味を知るからこそ秘かに恐れおののいたからに違いない。玉くしげを開けた浦島太郎が老人になり悲嘆に暮れたという解釈こそ近世以降のものである。白髯白眉の姿にかわることは神仙界に迎えられるという意味に近く、古くはむしろ寿ぐべきことであった。「不幸な結末」との見方は乙姫との日々を諦める太郎の心情を汲むいささか俗な解釈であるといえる。

そもそも山幸が海幸にお互いの「さち」を取り換えたいと求めたのは何を意味しているのだろう、もし「アスハーベル・カーフ」が中東から日本に伝わり「海幸―」の原型の一角を成したのだとすれば二つほど思い当たる。

まずは山を舞台とした伝承の舞台を海に置き換えるための布石というのがひとつ。こうした手法は日本人が古くから身につけていた演出の一つであり能や歌舞伎に見出すことができる。
そして二つめ、山幸が兄に変えろと迫った「さち」とは実は「信仰」だったのではないかと考えられる。信仰とは人の生きる指針であり、王朝や国の単位に拡大すればそれは政治となる。海幸彦が象徴する土着の氏族あるいは王朝が信仰したのは縄文時代以来の国津神(くにつかみ)、そして山幸彦側は天津神(あまつかみ)でありお互い性格が違う。兄弟が魚も兎も獲れなくなったのは一方がもう一方に(山幸が海幸に)自らの神を強いたことで海の幸と山の幸が遠ざかり「けがれ(気枯れ=枯渇)」を招いたことの表現ととれる。しかも弟は兄の「さち=信仰」を海に打ち捨て自らの剣を鋳なおして作った「五百の鉤、千の鉤=手製の信仰」を押し付けた。が、兄はそれを撥ねつけ戦いとなる。その末に海神の力を借りた山幸が海幸を組み伏せる。天津神は国津神を下に従えた。こうしてみると一般に善玉と慕われる山幸彦の行動は実は酷くローマ的である。ならば山幸彦の拝する天津神はローマの神々に例えることができる。

多神教偶像崇拝を基盤とした軍事・経済・司法により堅牢に築かれたローマ帝国にとり、イエスの説く一神教はそれを根底から覆してしまう戦慄すべき教えであった。ならば力ずくでも捨てさせて人々をかつての多神教に戻らせなければならならず、そうして起こったのがイエスの信徒への迫害であった。しかし膨れ上がるその数をとうとう無視できなくなった帝国は逆に一神教を公認し利用する判断を下す(313年)。皮肉なことに、それまでに使徒たちの地下活動により広まった教義は、純然たるイエスの教えと多神教の土壌で信徒を獲得する過程で徐々に多神教の要素を獲得したものとが共棲し混乱していた。そこで帝国は教義を整えるためとしてあらゆる福音書と書簡を一堂に集めるが、帝国の政策にそぐわない書を異端として焼き捨てた(325年)。それを基盤として後に編纂されたのが新約聖書である。つまりイエスの教えをそのまま受け入れたわけではなく、帝国の運営の利益のために手心を加えてから公認したのである。当時の皇帝コンスタンティヌスが根強い偶像崇拝者であったことはそれを雄弁に語る。そこに見られるキリストを神の子であるとする解釈、そして聖母マリアを神を生む者であるとする定義、これらはすでに一神教からは大きく外れている。。現代のキリスト教はその延長にありイエスの教えとは分けて考えねばならない。それを「海幸―」にのなかに探せば次のくだりに行き着く。

是以海神、悉召集海之大小魚問曰、若有取此鉤魚乎。…於是探赤海鯽魚之喉者、有鉤。卽取出而淸洗、奉火遠理命之時、其綿津見大神誨曰之、以此鉤給其兄時、言狀者、此鉤者、淤煩鉤、須須鉤、貧鉤、宇流鉤、云而、於後手賜。(古事記 上巻 7)

大小の魚を悉く集め鉤を知るものは有るかと海神(綿津見大神)が問えば…鯛の喉に鉤はみつかる。即ち取り出して洗い清めて山幸彦に授ける時に海神は教えて曰く、この鉤を兄に与える時は「この鉤は、おぼち、すすち、まずち、うるち」といって後手(しりえで)にあたえよ、と。

大小の魚を悉く集め…皇帝の呼びかけでニカイア公会議が開かれた。そこにはイエスの教えを弟子や孫弟子たちが書き記した福音・書簡数千書が全て集められた。
取り出して洗い清め…「神は産まず、神は生まれず」とする一神教の大基本たる教義を綴る書を選り分け、偽典として火にくべた。残ったマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ伝の四書を正典とした。

「後手に」とは「後ろ手に」と解されているが定かではない。いずれにしろ物の渡し方として尋常でないため先立つ「おぼち、すすち、まずち、うるち」の四つの文言とともに呪いの仕草であると考えられている。海幸に対するこの山幸の仕打ちは、イエスの教えの解禁を神に祈り待ち続けていた教徒たちに手製の信仰を天啓と偽りつつ手渡す行為に、まさに呪いといえる業に重ね合わせることができる。

妻の産屋を覗いてしまった山幸彦、玉くしげを開けてしまった浦島太郎は「アスハーベル・カーフ」の誰に該当するかといえば、それは主人公の若者たちではない。300年後に奇跡の若者たちを洞窟に尋ねた一神教徒たちである。ここが日本の伝承と大きく違う点である。「見てしまった」ことで何が起こったか、キリスト教会によるその評価は、奇跡を目の当たりにした民衆が神の力の偉大さにあらためて触れ信仰をより強固なものに高めたとある。しかしキリスト教は若者たちが目覚めたとされる時代にはすでに変質し暗黒の中世に向かい突き進んでいた。

ここで、クルアーンにおいて迫害する者、される者そしてその時代が限定されていないことに着目したい。同章の中で伝承の細部や史実との関連にこだわることは教えの本道から外れるとしてそれを戒めている。なぜか、それは一神教の迫害はどの時代にも起こることであり、実に起きてきたことであり、しかし教えを貫きひたすら神に救いを求める者は必ずや神の庇護を受けられるという教義に人々を至らしめるためである。また悲しいかな人は同じ過ちを幾度も繰り返しながら歴史を刻むであろうことを、ローマ時代に起こった迫害もその一つに過ぎないことを囁いている。七世紀のはじめにはアラビア半島にイスラム教が芽生える。それは今日もなお止まぬ新たな迫害と弾圧の幕開けでもある。クルアーンはメッカに生まれたムハンマドに預言が降りるたびに弟子たちが書きとめたものであり、そしてその時代は迫害者ディオクレアヌス帝の治世のおよそ300年後にあたる。
伝承がある時代のある昔話として凍結されると人々は詳細に囚われ伝承に中に隠された異界からの声がきこえなくなる、クルアーンはそれを避けよと説いている。

山幸と海幸の争いは神武東征に、山幸と鹽椎神の出会いは大国主命と少彦名命のそれに、妻にした姉妹の片方との別れはニニギや允恭天皇のそれに、一夜を共にしただけで身篭った妻を疑う話は雄略記に、記紀や諸國風土記を見渡せば「海幸―」「浦島―」の片鱗がいくつも見つかる。浦島伝に限らずおよそ日本の古代伝承というものはこのように同じ話が時代と主人公を着替えながら幾重にも絡まり伝えられている。複数の人物が同一視される諸説は記紀神話のこの性格に拠るものである。もとは時代も人物も限定されない普遍的な伝承を幹として多くの説話が枝分かれしたようにも思えるこの話法が、クルアーンのそれとは正反対というのが非常に興味深い。

誘惑に負けて禁を破った男が不幸な結果に見舞われる…「見るなの禁」に対してはこうした見方が強い。ここで言う不幸とは妻との別れや老人になることであるが、禁を破ったイザナギはアマテラスやスサノオを生み、山幸彦は大和朝廷の祖となり、浦島太郎は神仙となった。こうしてそれぞれ新しい境地へと歩を進めており不幸と一言で片づけるのは僭越である。つまり近現代の我々が浦島太郎らの境遇をあくまで現世的な価値観から眺めて不幸と断定し、それを指して仏教的な因果応報の教訓に無理やり結びつけているに過ぎず実は的外れも甚だしい。では「見るなの禁」とは何か、いったい誰が何故にこの制止をおこなうのか。

見るな、開けるなの禁、それは権力者たちの常套手段であると断言してよい。多神教世界では権力者とは神の子孫であり神そのものであるという主張が罷り通る。その権力者の後ろ盾であり、隠れ蓑であったのが多神教偶像崇拝である。そして多神教の対極にあるのが神は子をなさずして親を持たぬとする一神教である。だからこそ古代の王者たちは民衆に唯一神の教えを直視することを制止した。見るなの禁を以って封印し、呪うぞ祟るぞ不幸になるぞと脅しをかけてきた。多神教時代の王者、多神教化したキリスト教会は代わりに目にも鮮やかな手製の神像や偶像を掲げ、人心をひきつけてモーゼ、イエス、ムハンマドといった預言者たちを介して説かれた天啓から遠ざけた。遠ざからぬ者たちには迫害と弾圧を施した。中東に限らず預言者は人類の誕生以来それこそ世界中に数え切れないほど降り立ったという。もちろん日本も例外ではない筈だが、残念なことにそれを語るに足りる文献は日本に存在しない。

文字のない時代のわが国にも天啓が降り注いでいたであろう、しかし万葉仮名や漢文で書かれる前の、やまとことばにより口伝されていた伝承にはもはや触れることはかなわない。ただこうして記紀神話を開いて目を凝らしたとき、「海幸―」「浦島―」がそうであるように旧約やクルアーンの世界につながる道がうっすらと見えることがある。記紀はあくまで朝廷の勅令で編纂されたものである。いにしえの伝承をそのまま記述したのでは大和朝廷の大義名分を裏付けるという責務を果たせるわけもなく、当然様々な思惑が織り込まれている。「アスハーベル・カーフ」の若者たちが洞窟で「眠った(クルアーンには現世に対して耳を閉じるとも書かれており隠遁生活を送っていたとの解釈もある)」とされるくだりが記紀では結婚譚に変わった事情はこのあたりであろう。
ローマの臭いを醸す大和朝廷の神々、天津神は多神教のそれであり、それと相容れない国津神として描かれたのは唯一神を畏れ敬う諸王たちだったのかもしれないとふと思うことがある。海の神と山の神が同一神であったというのもそれなら頷ける。いや記紀神話を追うまでもなく、多くを望まずに、世を汚すことなきよう行いを正し、口を戒め、海と山の幸を与える神をひたすら畏れて生きたであろう我らが遠い先祖たちの面影は一神教徒たちの横顔に垣間見える。

神が迷信と位置づけられた今なお「見るなの禁」は健在である。
この世という帝国と学界政界財界の神官たち、かれらが築いた権力の神殿、そこに鎮座する偶像神の数々に跪く民衆、その偶像神の正体を見ようとすれば必ず不幸の翼が触れる。それは醜聞、困窮、投獄、死、即ち現世的不幸である。そうでなくとも地位、財産、自由、快楽という現世での幸福を逃す不安から人はこの禁を破ることができない。その必要すら感じ得ない。アスハーベル・カーフ―洞窟の衆はそれを破った勇者たちである。

人には救いが必要である。ただし人が何かに救いを求めるのであれば、それは人の手による作りもの即ち偶像であってはならない。たとえば貨幣、たとえば思想、たとえば権力、それは人が足元に跪いたとき偶像神として目覚め人の世を呪う。一神教が禁じた偶像崇拝とはこのことであり、黄金の神像のみにあらず。

たまくしげ 開けてぞ進め洞窟へ 見るなと呪う 魔に背を向けて

すべての道は日本に続く クルアーンと浦島伝説 前編

我々の知る「浦島太郎」は明治時代、尋常小学校の教科書用に修正し書き直された新しいものである。それ以前の浦島伝説が文章で残るのは古い順に「日本書紀」「丹後國風土記」「万葉集」「お伽草子」などであるが、そこで綴られる浦島太郎は親孝行な働き者ではなく男前の風雅者であった。乙姫とは浦島が釣り上げた海亀が変化(へんげ)して現れた女人であり、そして二人は夫婦の契りを交わしそのまま享楽の三年を過ごす。が、明治の新政府からしてみれば青少年の健全な育成にふさわしからぬけしからん内容であるため野暮な忠孝者の話に改められた。

しかし日本書紀の浦島太郎にもその前世というか、前身がある。

日本の昔話の特徴として、それが単体の物語であることが無いに等しいほど少ないことをまず挙げたい。土着の「はなし」と遠い国から伝わる「はなし」が出会う。混ざり、重なり、それが時を経るごとに時代に染まり、風俗を着こなしその姿を変え続ける。遠い昔のはなしをそのまま伝えるものと思われがちな昔話は、実は日本という島であたかも人の如く育ったものである。これというのも流動的に文物の伝播がなされる大陸に対し、我が日本列島がいわば袋小路のような位置にあることに大きく由来する。日本の昔話の代表たる「浦島伝説」もその例に漏れずそれぞれ別の伝説から構成された物語といえる。

九州は日向地方に伝わる伝承で記紀にも収められた「海幸山幸」は「浦島伝説」の原型として知られる。

山で獣を狩る山幸彦と海で魚を獲る海幸彦は天孫の子である。弟の山幸彦は兄にお互いの「さち(幸、刺ち)」、すなわち獲物を獲る道具を取り替えてみたいと三度も乞い、ようやく許されて兄から借りた鉤(つりばり)で漁に出るが、一匹の魚を獲ることも叶わず挙句にその鉤を海の中に失くしてしまう。一方、弟のさち(紀:弓矢)にて狩りに出たが何も獲れずに帰った海幸彦は弟から大事な鉤を失くしたことを告げられると大いに怒り、如何にしても返せと迫る。山幸彦は腰に佩いた剣から五百の鉤を作るも兄はそれを取らず、千の鉤を作るも受け入れなかった。
海辺で泣き患う山幸彦のもとに現れた鹽椎神(しほつちのかみ、潮流の神)は、事情を聞くと山幸に小船(紀:目の詰まった籠)を作り与えて載せ、潮を押して綿津見(わたつみ-海つ神)の神の宮に送り届けた。
そこで大綿津見神(海神)の娘の豊玉毘売命(とよたまひめ)と結ばれた山幸彦は綿津見神宮で三年を過ごすが何故ここに来たかを思えば嘆かずにはいられず、その夫を見かねた豊玉姫は大綿津見神にそれを告げて助けを求めた。海の魚という魚を呼び集めて失せた鉤を聞き質し見つけ出した大綿津見の神は、潮盈珠(しおみつたま)と潮乾珠(しおふるたま)を山幸彦に鉤とともに与え、その珠をして海幸彦を従わせる術を授けた。山幸彦は一尋和邇(ひとひろわに、=鮫)の背に乗り陸に戻り、大綿津見神に教えられた通りに兄を懲らしめた。
身篭っていた豊玉姫は海原で天つ神の子を産むわけに行かぬと陸に上がる。子を産む時は決して産屋の中を覗かぬようにと念を押された山幸彦だが、気掛かりに負けてつい産屋の中をみてしまう。すると、もとより八尋和邇(やひろわに、=大鮫)の化身であった姫が本当の姿にもどって子を産む姿がそこにあった。豊玉姫は辱しめを受けたと怒り、子を残して海の中に帰ってしまう。後に神武天皇の父となる、その子の乳母として豊玉姫の妹の姫が山幸彦のもとに送られ、やがて妻として迎えられる。



本稿は「浦島伝説」の原典をどれだけ遠くにまで求められるかを考察するものである。まず「海幸山幸」とともに分解して要素を整理し、一般史観と筆者の偏見による解釈を羅列したものを前編、そして中東の伝承を加えて再解釈したものを後編として書き記したい。そんな考察をしなくても地球は回るのだが、味気ない現世を放れて束の間の心の旅をするのも悪くはない、と、そんな思いにお付き合いいただけるならば恐悦至極。さればさっそく分解してみる。


     「浦島伝説」

     い) 亀(じつは乙姫)との遭遇
     ろ) 異界(竜宮城あるいは蓬莱山)への旅
     は) 乙姫との三年(現世での三百年)の蜜月
     に) 両親への思いに駆られ暇を乞う
     ほ) 乙姫から玉くしげ(=大事な物の箱の意)を授かり陸に戻る
     へ) 三百年経っていた
     と) 玉手箱を「開けてはならぬ」約束
     ち) 約束を破ることで乙姫との離別が確定する。

     「海幸山幸」
 
     イ) 兄から借りた鉤を失い責められる
     ロ) 異界(綿津見神の宮)への旅
     ハ) 豊玉姫との三年の蜜月
     ニ) 兄との決着をつけるために暇を乞う
     ホ) 大綿津見神から宝珠と兄を征伐する方法を授かり陸に戻る
     ヘ) 兄を懲らしめ、恭順させる。
     ト) 豊玉姫の出産を「見てはならぬ」約束
     チ) 約束を破ることで豊玉姫との離別が確定する。


異界の者が人の女に姿を変えこの世の男の妻となって幸せな日々を送るも(は)(ハ)、男が「見て(開けては)はならぬ」の禁を破ることでそれが崩壊するという筋書き(と)(ト)は「つるにょうぼう」「くわずにょうぼう」「羽衣天女」などに共通するおなじみのものであり古くはイザナミとイザナギの別れに、さらには遠いギリシアのオルフェウスやパンドラの神話の中にも見ることができる。男と女はそもそも生きる世界が違うことの現われなのか。だからして、ここは古代伝承における普遍的要素の一つと解釈してやや遠巻きに見るべきである。本題をここに求めてしまうと道に迷いかねない。

「海幸山幸」にあって「浦島伝説」にない要素のひとつに「兄弟の争い」が挙げられる。この「海幸―」の根幹ともいえる顛末は海幸彦の子孫とされる隼人族が山幸彦の流れを汲む朝廷と敵対しつつもやがて恭順してゆく経緯であり、発端(イ)からして「浦島―」には描かれていない。稲作に向かない九州地方に住む隼人族は朝廷の米による徴税に酷く苦しめられて反乱が絶えず、朝廷も手を焼いたが王朝としての力が蓄えられる過程でこれも制圧されたことを物語る。
「海幸―」における姫の父親の大綿津見神は日本土着の海の氏族の長と考えることができる。彼らが朝廷に協力し(ホ)、さらに一族の娘たちを妃として朝廷に嫁がせていたことが伺える。一方の「浦島―」に海神は登場せず乙姫がその役を兼ねて勤めている(ほ)。

二つのはなしに共に現れるのが海の生き物、「浦島―」では亀、「海幸―」では和邇(ワニではなく鮫)であるが、いずれも美しい姫の姿となり三年の甘い月日の伴侶として過ごしたとある。亀が長寿の象徴であることからも、明治以前の書物には竜宮城ではなく蓬莱山と記述されていることからも「浦島―」が神仙思想の影響を受けていることがよくわかる(ろ)。蓬莱山とは中国の神仙思想でいう不老不死の仙人のすむ理想郷をさし日本では古代からその山が富士山と結び付けられていたことは竹取物語や除福伝説にも見られる。

豊玉姫が「八尋和邇」の化身であったこと、また「一尋和邇」が山幸彦を陸に送り届けたことは海神の一族として描かれているのが謎の古代氏族・和邇氏である考えられる。系図の上で五代考昭天皇の血脈とされる和邇氏は富士山を祀神とする浅間(せんげん)神社の神官を代々つとめた家系である。富士山の怒りを鎮めるための神事を預かり、和邇氏の娘たちの中から巫女が選ばれた。巫女を妻に娶ることは天皇にのみ許されていたが、和邇氏からは多くの娘が妃として六代考安天皇に始まる歴代の天皇に嫁いでいる。

初代神武から九代開化までの天皇は実在性が薄いとされ神話と史実の間を埋める架空の存在とする見方が強い。それに対し日本に古来から存在した倭人の王朝の系譜を天孫系(大陸系)王朝たる大和朝廷が吸収し我が物にしたとする説もある。いずれにしても記紀はそれを覆うために創られた血統書であると考えられている。後者の系譜吸収の説を採るならば、和邇氏の存在はその土着の古代王朝の血筋か、そうでなくとも深い関わりがあるといえる。

和邇氏は元来、安曇氏や海部氏と縁続きの海人(あま)族であり、海神である綿津見神をその始祖として祀る一族であった。船を操って海から河川を登りその生活圏を山に移し、直接政治に関わることはなかったが天皇家の血統の維持には大きな影響を持っていたと考えられている。またなぜ海神の子孫が富士山を祀るのか、それは火を噴く霊峰を牽制するためにはやはり水をあやつる海神と縁続きの彼らがその司祀に望まれたからであろう。天皇家が和邇氏の血を混ぜたがったのはその霊力を我が物にせんとする目論見があったのではないだろうか。

海幸彦も山幸彦も「富士山」と「火」には大いに関わりがある。この二神の母は木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ、別名を神阿多都比売-カムアタツヒメ)という富士山に鎮座する女神である。姫はたった一夜を共にしただけで身篭ったために夫の邇邇芸命(ニニギノミコト、アマテラスの孫)に不貞の疑いを抱かれ、不義の子でなければ焼け死ぬことなく無事に生まれるであろうとの「うけひ(=誓約)」を立て産屋に自ら火をかけた。燃え盛る炎の中で生まれたのがホデリ(海幸彦のこと)、炎が弱まる中でうまれたのがホスセリ、最後に炎が消えた中で生まれたのがホオリ(山幸彦)である。木花咲耶姫の父である大山津見神(オオヤマツミ-山の神)は邇邇芸命に木花咲耶姫とその姉であるイワナガヒメの姉妹二人を嫁がせたが、邇邇芸命は醜い姉を送り返していた。と、ここでも妻にした姉妹のうちの片方との離別(チ)が描かれている。

「浦島―」と「海幸―」にともに見られる結婚譚は極めて魅惑的であり物語にとってなくてはならない要素ではある。しかし上にも記したが、これは別の系列の伝承が原典に習合したのではないかと思えてならない。異界の姉妹を妻にするという話は古くは邇邇芸命にその例を見ることができ、それが山幸彦に受け継がれたことは間違いない。さらに「浦島―」にある「乙姫」という名は本来、姉妹の姫の妹のほうを指しての愛称つまり「弟姫―オトヒメ」であり、ここでの乙姫は姉が登場しなくても妹の方であることを匂わせ、物語が「海幸―」を下敷きにしていることを暗示していると取るべきであろう。また征服者に一人ではなく姉妹両方を差し出すという行為が完全服従を意味しているとも想像できる。昔話の結婚譚とは色恋沙汰を装う征服譚である。

これまでの話をまとめてみる。
西日本に拠点を築いた大陸系王朝が勢力圏を徐々に東へと延ばす上で、富士山をその信仰の頂点に戴く東日本の土着氏族(縄文人)との衝突と婚姻を描いたものが「海幸―」と言える。その征服譚を隠し結婚譚を前面に出して叙情的な物語に仕上げたのが「浦島―」である。さらに皮肉なことに「明治浦島」は結婚譚までが隠されたため亀を助けた報いに何故か老人になってしまうという奇妙な物語に成り果てた。
しかしこの物語には征服と結婚だけでは語れない何かがある。異界への旅、そして時の流れ である。

明治以降の「浦島―」では海の中に山があるという物理的な矛盾を解消するため蓬莱山の名が削られて竜宮城と改められたわけだが、それを無視すればやはり異界とは海の底とは限らないようである。和邇氏の系譜もさることながらこの物語からは海と山の間にある不思議な互換性が感じられ、上述の山の神・大山津見神の別名が和多志大神(ワタシノオオカミ-渡しの大神)つまり航海の神であるのも見逃せない。

「丹後國風土記」を見ればあるいは空の彼方へと旅をしたのかという思いにも駆られる。

「即七竪子來。相語曰。是龜比賣之夫也。亦八竪子來。相語曰。是龜比賣之夫也。茲知女娘之名龜比賣。及女娘出來。嶼子語竪子等事。女娘曰。其七竪子者昴星也。其八竪子者畢星也。君莫恠焉。(丹後國風土記 逸文)」

龜比賣(かめひめ、乙姫のこと)に誘われて蓬莱山に至った嶼子(しまこ、浦島太郎のこと)を迎えた七人の童子が、この方は亀比賣の夫君だと相語った。また別の八人の童子も、この方は龜比賣の夫君だと相語った。嶼子が宮から出てきた比賣にそのことを話すと、比賣はその七人の童子たちは昴星(すばるぼし)、八人の童子たちは畢星(あめふりぼし)なので怪しむことのないようにと言った。

昴星、畢星とは、中国の占星・天文学に用いられた二十八宿の中の隣り合った二宿、おうし座のなかにあるプレアデス星団とヒアデス星団を指している。宇宙に引き上げられた浦島太郎が牡牛座の中に遊び、再び地上に戻れば三百年の時が経っていたとされる説の根拠はじつはこの逸文に求められる。勿論ない話ではない。計器と燃料を搭載した宇宙船だけが宇宙への橋渡しではない。
二十八宿の知識は七世紀ごろに渡来人たちが我が国にもたらしたとされるが、月と星の位置を知ることはさらに古い時代から我が国古来の海の民にとっても重要であった筈、天体の運行を熟知した海の氏族が当然存在しただろう。「海幸―」に登場する潮流の神の鹽椎神は「渡し」つまり水先案内人の役を勤めている。すると、ここで邇邇芸命の舅、山幸の祖父、コノハナサクヤヒメの父たる大山津見神、またの名をワタシノオオカミと繋がる。

浦島太郎や山幸彦の旅した先は海か、山か、星屑か、はたまた中国王朝か、物語を読み込めば総てが輪のように繋がってしまうようである。物理的な位置を割り出すまでもなく、万葉集には「常世」と答えが書いてある。われわれが今日まで生きてきたこの世、それを「現世-うつしよ」と呼ぶが、その向こう側は「常世-とこよ」である。仏教でいう彼岸であり、来世ともあの世とも端的に死後の世界とも呼ぶその世界、花は散ることなく緑褪せずして、実り尽きず雪の融けぬ国、時の流れぬその国を常世と呼ぶ。おそらくは現世の者が踏み入れることの出来ないその国を旅し生きたまま戻った者の言い伝えがこの伝承が原典であろう。それを入れ物に結婚譚や征服譚が綴られて各地にさまざまな伝承が残り、太郎たちの行った先はそれに応じて言い換えられ今に伝わった。


                seven sleepers

そろそろ本題に移るとする。「浦島―」にしか存在せず「浦島―」の心臓ともいえる要素、それは三百年の経過であろう(は)。ではひとまず日本から遥か西方に目を向け、中東の不思議な伝承「アスハーベル・カーフ(أصحاب الكهف)」を記しひとまず筆を置く。以下次号。

偶像を崇拝する多神教の帝国にありながら唯一神を敬う六人の若者たちは皇帝に囚われて投獄され、唯一神を忘れて多神教の神々の偶像に跪くか死罪かを選べと迫られた。牢獄を破り逃げた若者たちはにべもなく現世を打ち捨て、神の教えを貫くために山へ踏み入るとそこに犬を連れて現れた一人の羊飼いが彼らを洞窟に導いた。その夜、羊飼いを合わせた七人は神の教えを今日まで守り得たことを感謝してさらなる大慈大悲を請い、犬に守られながらそのまま眠りにつく。やがて目を覚ますと彼らの中の一人が銀貨を手に糧を求めて町へと下った。目に映る町の様子も人々の装いも大きく変わっているのを怪訝に思いながらもひとつの店に入り銀貨を渡してパンを求めた。店主にしてみればその若者のほうがよほど怪訝であった。なぜなら古めかしい衣服を纏い、手渡された銀貨には数百年前の皇帝の名と肖像が刻まれていたからである。領主に知らせが走り盗掘の疑いで若者は捕らえられた。よくよく話をしてみれば、若者は洞窟での僅かな眠りから目覚めるまでの間に偶像崇拝の時代が過ぎ去り一神教が栄えたことを知り、そして町の人々は三百年前の偶像崇拝時代に追っ手を振り切り姿を消した一神教徒の若者たちが再来したと知る。町は奇跡に沸き返り、その騒ぎは皇帝の耳に届く。皇帝は奇跡の若者たちを尋ねて洞窟へと向かう。そしてそこに至ればまさしく残る者たちと犬が佇み、皆と言葉をかわし、やがて若者たちは再び、しかし今度は深い眠りについたとも伝わり、忽然とその姿を掻き消したとも伝わる。

すべての道は日本に続く 愛宕イラン起源説

修験道の霊山として名高い愛宕山。この山に祀られている神様はとんでもなく遠い国から来たかもしれないという思いが頭をかすめてはや十数年、研究などというものには程遠いが、はしり書きらしきものをここに置いておく。


現代イランからパキスタンに位置する地帯には古代、メディアとよばれる帝国があった。「メディア」の名はギリシア神話に登場する英雄イーアーソンに懸想し計り知れぬ悲劇を生んだ魔術使いであり、コルキスという黒海東岸の古代王国の王女から取ったものである。現代における情報媒体を意味する「メディア」という言葉もこの魔術を能くする悲劇の王女に由来する。

         medea


メディア帝国に関する記録は非常に限られており正確に書くことは難しいが、インドの北で暮らしていたアーリア人がデカン高原とイラン高原に別れて移動し紀元前10世紀頃までにイラン高原に定住した集団がその源流であることは確かだ。自らをアーリア人と自覚していた彼らが後にメディア人と呼ばれるようになったのは紀元前6世紀ごろにコルキスに入植したギリシア人たちがその南に広がるイラン高原をメディアの地と記したことによる。「崇高な民」という意味を持つ「アーリア人」は現代のイランという国号の語源でもある。アーリア人は太陽や天空をはじめとする様々な自然神を崇める多神教徒であった。中でも太陽神の性格のつよいミトラ神を最高神と拝し聖牛が犠牲として捧げられた。そしてイラン高原への移動後に土着の信仰を吸収しながら再解釈され、また他方ではアッシリアの神々を習合しメディア帝国独自の信仰が形成された。天空崇拝は天文学と占星術の基礎を築き、もともとインドに根強い輪廻転生への願いはメディアの信仰にも受け継がれ、「再生」を実現するための「秘儀」が伝えられた。最高神の象徴である太陽は炎の属性を持つとされる考えからか、炎は神体あるいはそれに近いものとなり、メディア帝国の火炎崇拝は呪術的要素を濃厚にした。

閑話休題。紀元前17世紀ごろに発祥したと伝えられるミトラ信仰はインドからイラン高原にかけて広がりその後もギリシア・ローマ文化圏に拡大しつつ、変化を遂げながらキリスト教がローマ帝国の国教と定められる四世紀までの地中海世界に勢力を誇った。ミトラ信仰がこれだけ長期にして広大な地域に影響を与えたにも関わらずその名が歴史の表層に現れないのには訳がある。もしミトラ信仰の細部に日が当たれば今日のキリスト教の教義・儀式の根底にある構造のなかの多神教ミトラ信仰的要素が表沙汰に、つまりキリスト教がローマ帝国に受け入れられるまでにミトラ教化したことが露見し、一神教の大義名分により異教徒を迫害することで築いたキリスト教主導型国際社会は面目を失いかねない。古代信仰の研究が学会の賞賛を受けないのも、またこの地域の石油資源を目的に繰り広げられていると一般に解される軍事侵攻が調査を妨げ、古代史の生き証人たる遺跡を破壊し続けているのも偶然ではない。

紀元前550年頃にメディア帝国が滅ぶとアケメネス朝ペルシアがエジプト、リディア(小アジア)、カルデア(バビロニア)一帯を統一した。この大帝国で支配的になった信仰はメディア時代にミトラ信仰の中から発生した拝火教のゾロアスター教である。

熱と光を生む「炎」は凍てつく冬から人を守り、灯れば闇夜に迷う人を導く。炎は狩りや農耕に欠かせない金属の加工技術をもたらし人の暮らしを豊かなものとした。同時に炎からは鉄製武器も生まれ王者の後ろ盾となった。しかし怒れば雷とともに空から降り、あるいは山を裂いて噴き上がり、富も栄えも人とともに焼きつくす。人の祖(おや)たちがこの炎の振舞いに「神」を見出したのはごく自然だといえよう。古代、同様に神と見なされていた太陽や月に比べ炎は格段に身近であった。神殿を築き聖火壇を設ければそこに神を招くことができるのである。炎からは手に届かぬ太陽よりも強い繋がりを得ることが出来たはずである。これが世界各地にある火炎崇拝の背景である。
イラン高原のミトラ信仰の呪術や神話、教義を整理し天文や占星の学問を加味したものがゾロアスター教であった。メディア時代からマゴイという名の一族が司祭となり「magi-マギ」と呼ばれ、アケメネス朝帝国下でもメディア人のマギたちがそれを踏襲した。彼らによる呪術と占術は国政に大きな影響を及ぼした。「マギ」は古ギリシア語を経て英語の「magic=魔術、呪術」の語源となった。

ところで、現代トルコ語と現代ペルシア語で「火」のことを「ateş-アテッシュ」と言うのだが、より古いペルシャ語では「Âtar-アタール」と言う。これはメディア人(アーリア人)の崇めた火神の名でもありゾロアスター教にも継承された。ペルシャの生き別れの兄弟のインドでも火そのものあるいはバラモンの火神を意味するサンスクリット語の「अग्नि-アグニ」が存在する。火神アグニは聖火壇に火を点すことで呼び覚まされるという。アグニの伝説のなかに、生まれてすぐに両親である天空神と地母神を焼き殺したというものがあり、これは正にあることを思い出させる。

日本神話の火神カグツチ(火之迦具土神)は生まれるそのときに母親であるイザナミの女陰を焼いて死に至らしめた。亡き妻を追い慕い黄泉の国(冥界)に渡ったイザナギは、イザナミから決して見るなと制されていたにも関わらず堪えきれずに火を灯し、目にしたのは体中におそるべき雷神が纏わり憑いたイザナミの姿であった。


原始、「火」と人の出会いの契機は落雷であったと言えよう。天空(陽)と大地(陰)の交わるさまが落雷であり、その末に地に生まれたのが火であった。その火は母なる大地を焼き払った。カグツチとアグニのそれぞれの生誕にまつわる物語はそれを今に言い伝えているのだろう。アグニは仏教に取り入れられて「火天」と漢語に訳され日本にも到達している。

インドの古代信仰では天空の神々にささげられた犠牲は火炎を介して煙と化し神々の元に届けられると信じられていた。この解釈があればこそ火葬という風習が生まれたのであろう。火炎信仰はバラモン教を介し、さらに仏教と出会い密教が確立される上で大きな役割を果たすことになる。つまり護摩壇に炎を焚き真言を唱えるという密教の祈祷「護摩=हवन-ホーマ」はアグニ信仰から受け継がれたものである。

              homa
                                 バラモンのホーマ


日本に伝来した当時の仏教は渡来人と貴人たちの私的な信仰というべきものであったが、その後に徐々に伝わった密教(この時点では雑密と分類される密教)はその鎮護国家の性格を朝廷に歓迎され、九世紀の密教正伝(最澄と空海の帰国)を待たずして密教は仏教を国家信教とならしめた。律令国家としての体裁を整えることが急がれる中で、その基盤となる租税と庸兵の重きに民衆が耐えるための心のよすがを掲げる必要があった。それには「祟る」神よりも「救う」仏のほうが朝廷にとり人心をとらえる上で都合がよかった。こうして日本の神々の受難が始まった。

日本には古来から山岳信仰というものがあり、険しく聳え人を寄せ付けない山々は神霊の降り立つ場あるいは神体そのものであるとして畏れられていた。しかし政治に仏教色が強くなるにつけ日本の在来の神々は仏の叡智に教化されるべき存在として格を下げられ、時には世に災いを為す「鬼」とまで見なされた。鬼とされた地神たちが徳の高い僧の唱える経により改心し仏門に入るか、仏法に守られた武者に退治されるなどの物語が多く残されている。謡曲「大江山」では支配地の比叡山を寺だらけにされて棲めなくなった酒呑童子が最澄のことを「大師坊なるえせびと」と罵りるくだりがあり、仏教のおかげで立場を失った自然信仰の素直な心境として興味深い。こうして山は、特に都の貴人たちからは鬼の棲む場と恐れられるまでとなった。

仏教に萎縮させられた山岳信仰をある形で存続させたのが修験道であった。その開祖として伝わる役小角(えんのおづぬ)は七世紀半ばに実在した呪術師、大和は葛城山に臥し荒行に耐えて修験を修め、若くして仏門に入り最澄・空海以前の時代に日本に伝わっていた密教の秘法を身につけたとして知られている。修験道の行にも欠かせないのが護摩である。   

           syugen
                                  愛宕山修験

役小角が実際に修験道を始めたのかどうかという事よりも、小角は誰の子孫であり、小角が密教を修めていたことが強調されて伝わることが何を意味するかに焦点をあて、それを書いてみたい。


修験の霊山の中で注目すべきは「愛宕山-あたごやま」である。丹波と山城のくにざかい(京都盆地北西)に位置し火除けの神の「愛宕さん」と親しまれる愛宕山であるが、その登山口のある亀岡市には「元愛宕」といわれる神社がある。開祀は神代にまで遡り「愛宕さん」はここ元愛宕から分霊されたと社伝にみられ、役小角が天狗に神験をうけて神廟を祀ったことが愛宕山の霊山としての発祥とされている。もとは白手山という名前がこうして愛宕山となったとの説もあるがこれは定かではない。
「愛宕さん」、「元愛宕」ともに火神カグツチとその母イザナミを祭神に祀る。が、カグツチとはあくまで記紀に倣った名であるに過ぎず、「あたご(阿当護-阿多古)神」という火神がカグツチと同一視され「元愛宕」に祀られていた。  

     atago


平安京の北東部一帯はかつて「愛宕郷-おたぎのこおり」と呼ばれていた。漢字などは当然後から当てられたものと解すべきであり、音から想起できる意味として適当なのは「お焚き」、つまりこの地名が古くから「火」とかかわりのあることが伺える。
さらにここは古代氏族の賀茂(加茂)氏が支配した土地である。賀茂氏の子孫は上賀茂神社・下鴨神社の祠官家を継いでいるのだが、その祀神はイザナミの体に刺さった雷神を父に持ち、上賀茂神社の北西の神山に降臨した賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)、その母の建玉依姫命(たけたまよりひめのみこと)、さらに姫の父である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)である。伝説といってしまえばそれまでではあるが、やはり雷-火-人の関わりを思わずにはいられない。

賀茂一族の始祖として祀られている賀茂建角身命は神武天皇を紀伊半島の熊野から大和に導いた八咫烏の化身として伝えられる。これは建角身命が神武東征に協力した大和地方の原日本人(縄文人)であったことを、娘を雷神(記紀ではオオモノヌシ≒オオクニヌシ)に嫁がせたのは火神を祀る立場を確保した(火を祀る製鉄集団と姻戚となり?そして神武に鉄製武器を供与した?)ことを匂わせている。賀茂一族は大和の三輪族、葛城族、秦氏との繋がりが記紀や各国風土記に記される謎めいた氏族であるが、何故かいつの頃か大和を後にして上賀茂・下鴨両社のある一帯(後に愛宕郷と呼ばれるところ)に至りその地を治めた。修験道の開祖の役小角はこの加茂氏の子孫である。


その愛宕郷から西を望めばそこにあるのが愛宕山である。そしてそのさらに延長は北インド、さらに延長すればメディア帝国がかつて存在したイランがある。火除けの神の「愛宕さん」は、火神アタールのことである可能性がある。もちろん想像力を逞しくすればの話であり、証明しようもなければ否定も出来ないことではあるが一考してみる面白さはある。

シルクロードの商人は文物とともに神様も連れてきたことであろう。アケメネス朝ペルシアの支配下にあったオリエントで交易の担い手となりシルクロード経済の重要な役割を果たしていたのはソグド人で、ソグド語はシルクロード商人たちの公用語と言えるほど重視されていた。彼らが信仰したのはゾロアスター教であり、アタールを含むゾロアスターの神々を東に伝播(その信仰への帰依ではなく主に文化面のみの拡散を)したのはソグド人と考えるのがおそらく適当である。また、横道にそれるが前述のミトラ神はソグド語で「Miir-ミール」といい「弥勒-ミロク」信仰の源である。大陸ではそれぞれ異教の神々を習合しつつ互いに影響しあうのが常であり日本の神仏習合だけが特異だと考えるべきではない。多神教とはそういうものである。ただしゾロアスター教自体はあまりに呪術性が強く近親婚などの特殊な教義が儒教の道徳に著しく反れることから大陸全般には広まらなかったのだが、ともあれゾロアスター教の要素は大陸東シナ海沿岸まで到着する。そして大陸から伝わった仏教という信仰の中にはそもそも仏教とは別の多神教的要素が入れ子状に存在したことをここで指摘するものとする。

つまり、加茂氏の祖先は、渡来人とともに来日した「火神アタール」に出会う。火神の祠官たる加茂氏は先祖神とは別にアタールをも氏神としこれを「あたご」神と呼んだ。彼らの土地も「あたご」と呼ばれた。そこからアタールの故郷イランの方角である西を望めば美しい山が在り、その山に神廟を築こうとしたが土着の山の民(土蜘蛛か?)にはばまれ断念、しかたなくその麓に「本愛宕」を開廟する。「国つ神=土着神」を祀る山の民たちはその後も「天つ神=渡来神」の子孫を名乗る朝廷と仏教の共通の敵であり続けるが、時代は降り、仏教(いや密教)が国家権力と結びつくと、朝廷軍を背景にとうとう山の民たちを封じ込め、愛宕神を山の高きに祀るという加茂氏の祖先の思いは遂げられた。それが加茂氏の純粋な信仰か、それとも朝廷の権威の象徴かの議論は別に、とにかくそれが愛宕山であった。
…というのが筆者の「愛宕イラン起源説」である。

役小角が天狗の導きで愛宕山に分霊を行ったとする伝説は、山の民を天狗にたとえ、朝廷の武力行使による制圧ではなくあくまで山の民から支配権を譲渡されたと後から主張したものではないかと予測できる。修験道が役小角によってある日突然始められたと考えるより、土着神の祟りを恐れていた朝廷がそれとの完全な敵対を避けようと仏教と土着信仰の間を取り持たせる何かを必要とし、そこで密教の覚者たちが山に伏して臥して(山で寝起きをして)修験をし時をかけて融和を試みたものと考えるほうが自然である。これが山伏(山臥)、つまり修験者の語源でもある。修験者に引導を授けられた土着神は仏門に入り「権現」の名を与えられ後も人々の信仰を受け、土着神の面目はかろうじて躍如された。奈良時代以降に多くの山々が修験者によって仏教化されたが、武力制圧の見られた山には鬼退治伝説が、土着民との何らかの協力関係が生まれた山には天狗伝説が残ったのではないか、などとも考えられる。

さらにまた、「あたご」一帯に属する今の修学院白河のあたりは古代の火葬地でもあった。

母北の方、同じ煙にのぼりなむと、泣き焦れ給ひて…  源氏物語/桐壺

桐壺の更衣の母が娘の葬儀のために愛宕へと向かうくだり、娘の死に瀕し、共に荼毘の煙になってしまいたいと嘆いている。「煙」の文字がそれは火葬であったことを示している。今のように中東から輸入した燃料ではなく、当時は亡き骸を大量の焚き木で盛大に「焚く」のであった。遅くとも平安時代には愛宕を「おたぎ=お焚き」と読んでいた理由、それはアタゴとオタギの語呂が偶然にも合ったのか、オタギが先で後からアタゴと訛っただけか、それともやまとことばの「焚く」がじつは「アタール」を語源としているかは考え出すと夜も眠れない。

ちなみに「焚く-たく」と同属のやまとことばには「高-たか、長け・丈・岳・竹・建-たけ、凧-たこ」などがある。いずれもより高く、より上に至ろうとする意味の語彙であり、「焚く」の場合は炎や煙の姿がそれを表しているといえる。が、結びつきとしては特に強固ではなさそうだ。「焚く」を同属から外し外来語としての可能性を探る余地があるかも知れない。加茂氏の祖とされる賀茂建角身命、建玉依姫命に「建-たけ」の字と音が付いているのも興味が尽きない。

尽きないのだが、そろそろオリエントに戻り話を閉じるとする。
冒頭に掲げたコルキスは、ヘパイストスから雷を盗み人間に火を与えたプロメテウスが罰としてハゲタカに肝臓をついばまれた山のある場所でもあり、ここにも雷-火-人の関係がありそうだ。
ギリシア神話によればコルキスの王女メディアの父王は太陽神ヘーリオスの子でその名をアイエーテースという。ギリシア語「アイエーテース-Αἰήτης」と先述のペルシア語「アテッシュ-ateş(火)」の音は酷似しておりおそらく同源である。そして娘のメディアも触れるものを焼き尽くす火の属性をもつ女であったことはその伝説が雄弁に語る。


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Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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