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すべての道は日本につづく ―ギリシアからの陸路

一年ほど前に、旧暦のひなまつりのよせて「もものはなし」と題した記事を書いた。その中で「古事記」に記された話を引用した。


イザナギノミコトが黄泉の国へと恋しい妻イザナミノミコトを尋ねていったとき、決して姿を見ないように言われていたというのに見てしまい、その変わ果てた恐ろしい姿におののいて逃げるのを、黄泉醜女(よもつしこめ)という走りっぷりのいい女力士に追いかけられる段、何とか逃げ切ろうとするイザナギは醜女にむかい桃の実を三箇投げつけた。そして醜女がそれに喰いついている隙に石戸を閉めて黄泉の国の入り口を塞いでしまった。

これは単なる「神話」ではなく先祖たちが桃の薬効と豊満な姿に霊力を認めたことをわれわれに語りかけるものであり、古くから桃の花が咲くこの季節に悪霊を祓い清め多産を祈る神事がおこなわれ後に大陸から伝わった暦法と結びついて「桃の節句」に発展した。


さて、まずはこれと何かの繋がりがあるであろう話から書いてみることにする。

ところはギリシア、ときは古代。ここの神様たちは戦と色恋に明け暮れていた。
男児がほしかったという父親から山に捨てられた赤子のアタランテーは雌熊の乳で命をつなぎ、後に狩人に見出されて女狩人として、そして地上で最も俊足をもつ人間として成長した。そのはず、アタランテーに乳を与えたのは狩の女神アルテミスが遣わした雌熊であった。
アタランテーの武功が轟きわたると求婚者が殺到した。しかし彼女はアルテミスがそうであったように処女を通す誓いを立てており誰とも結婚するつもりはなく、男たちの求婚は煩わしいばかりであった。そこで彼女の出した条件は「競走」、武装したアタランテーと競走し彼女に勝ったものと結婚するというものだった。しかし彼女に追い越されたものはその場で射殺されるという約束であった。多くの若者が命を落とすが、愛の女神アフロディーテに祈りを奉げたヒッポメーネスは女神にあるものを授けられていたため競走に勝つことになる。
ヒッポメーネスはその手に三箇の「黄金の林檎」を持っていた。アタランテーに追い越されそうになるたびにそれを投げつけ、彼女がそれを拾いに戻るたびに差をつけることを三度繰り返した。そして勝利を得て見事アタランテーを妻にしたのであった。

「黄泉醜女」は醜い女という意味ではない。力士のように強い女、「しこ」とは強さをあらわす語彙である。大国主命にも「あしはらのしこを―葦原色許男」という別名があり相撲の力士が踏むシコは神事でもある。しかし奈良時代になって漢字を充てるときに醜の字が使われていることから、どうやらこの手の女はわが国ではあまり美しいほうに分類されなかったようだ。しかしアタランテーはあまたの男に求婚されたというからよくわからない。

ともあれイザナギが読み黄泉醜女に桃の実を投げつけ逃げ切った話と、ヒッポメーノスがアタランテーに林檎の実を投げつけ逃げ切ったというこの話、両者が無関係であると考えるほうが難しい。じつはギリシア神話で語られている要素は日本の古典に時折り見出すことができる。イザナギが妻を慕って黄泉の国へと追いかけていった話はオルフェウスの冥界渡りとほぼ重なる。またイザナギとイザナミの間に最初に生まれた神は蛭子(ひるこ、奇形のこと)であったことから海に流されたのもクローノスとレアーの子ゼウスが疎まれて海に流された話に似ている。スサノオはヤマタノオロチの生贄にされかけていたクシナダヒメを助け、ペルセーウスはヒドラに捧げられ鎖で繋がれたアンドロメダーを助けてそれぞれ夫婦となっている。こういった現象が起こった背景は日本の皇族がギリシア人だったからだとか、稗田阿礼や藤原不比等がホメーロスを愛読していたとかそういうわけではないだろう。ではなぜか、それを考えながらつらつらと書き進めたい。


アタランテーの気を引いた「黄金の林檎」とはギリシア神話ではおなじみの小道具である。トロイア戦争の原因をつくったものこれであった。

ペーレウスと海の女神テティスとの婚儀に招かれなかったエリスはそれを面白く思うはずもなく、婚礼の宴にとんだ災いの種を投じた。「最も美しい者のために」と書かれた黄金の林檎を投げ込んだのであった。招かれていた女神たちの中のアフロディーテ、知恵と軍事の女神アテーナー、ゼウスの妻ヘーラーの三者はそれぞれに黄金の林檎は自分のものだと争いだし、それを見てほくそ笑むエリスは不和の女神である。
この争いの裁定をゼウスはトロイアの王子であり公正な若者と知られたパリスに委ねると宣言した。女神たちはパリスを懐柔するためそれぞれに、自分を選べばヘーラーは「アシアの王の座」を、アテーナーは「あらゆる戦の勝利」を、アフロディテは「永遠の愛」を与えることを約束する。パリスが選んだのは「永遠の愛」、アフロディテはすでに人の妻となっていたヘレネーを奪い取るようパリスを焚きつけた。

ヘレネーはかつてゼウスがスパルタ王の妻レーダーに横恋慕して生ませた娘である。白鳥に化けたゼウスと交わり身篭ったレーダーの生んだ卵から孵ったといういわば半神であり、長じて絶世の美女と謳われるようになると求婚者が殺到した。妻の不貞の相手がゼウスであったためもありヘレネーを不義の子であると知りつつも大事に育てた父王テュンダレオスだが、これでは争いが起こると悩んだ末にヘレネーが誰を夫にしても残りの全ての求婚者はヘレネーと夫を守り戦うことを約束させた上で婿を選び、その男メネラーオスをスパルタの後継者とした。

アフロディテにそそのかれるままにスパルタを訪れたパリスとそれを迎えたヘレネーは為す術もなく恋に落ちた。ヘレネーを財宝とともに略奪したパリスはトロイアの地へと戻る。ヘレネーを還すよう要求したスパルタ側だがそれを拒否されたため、かつてヘレネーに恋し求婚した諸侯、勇者、神の落し子たちを束ね、ヘレネーの夫の母国であるミュケーナイと連合してギリシア軍となりトロイアに宣戦布告をした。オリュンポスの神々も二つに割れての大戦争が始まった。しかしこの戦争をはじめ全ての混乱はもとより神の知るところのもの、つまり神が自ら引き起こしたものである。


「ギリシア神話」は単にこの地方の伝説をつなぎ合わせたものではない。ここで「神」と呼ばれたものたちはすなわち「権力者」であり「人」とは「市民」とその下層にあった「奴隷」たちである。神話に登場する「勇者」や「絶世の美女」たちは「神」の血を引く者つまり権力者たちの落とし子にあたる。戦争や災害などの史実に神話を添わせ、権力者たちに土着の自然神の性格を纏わせてその出自をより強固で神性豊かなものに作り上げていったというのが今の一般的な解釈である。「古事記」や「日本書紀」についても似たような認識がもたれている。


しかしこの解釈によってしまえばギリシア神話は権力者たちの血統書という性格から抜け出さないことになる。実際はどうなのだろうか。


われわれ現代人が「神」という言葉に期待するものはこのギリシアの神々は持ち合わせていない。絶えず禍根をばら撒いては戦を起こし血を流す。それは血を好むというよりも血に価値を置いていないと言うにふさわしい。なぜならこのギリシアの神々はいくらでも人と交わり容易に子を産み増やすことができる。殺そうが殺そうが代わりはいくらでも作ることができる。むしろ儲けた子どもたちに難題を与え、互いに争わせ、競わせ、落伍者たちをふるい落とすことに心血を傾けていたようにも見える。勇者たちはより高く、より速く、より強くあることを競い、勝者は世界を築くが敗者はライオンの餌食となった、そんな秩序を後押ししていたのがギリシア神話だろう。

神話は彼らの思い描いた残忍とも言える世界秩序を極めて詩的に語った。加えて完璧な神の姿を彫刻という視覚芸術で表現した。やがてローマ人たちがギリシアを飲み込み彼らの帝国を築くにあたっても下に敷いたのはこのギリシア神話的秩序だったといえる。ローマ人はギリシアの神々にラテン語の名前を与えて踏襲し、美術の世界もギリシアの理想「完璧な美」の更なる追求を推し進めた。

嫉妬に狂い愛人を喰い殺すような女神が豊満でたおやかな身をくねらせ、髪に花をかざして微笑を湛えている。侵略と姦通を繰り返す男神は鍛え上げられた身体と威厳に満ちた顔を持つ。彫刻を通して神々を見るものは魅入られ、その行いを崇め、人間たち自らの強欲をも神になぞらえて肯定する。
そうした価値は実は現代まで生きている。キリスト教が広まるにつれてギリシア神話そのものは否定され埋もれていった、しかし、ギリシア神話の根底にあった権力者のための世界秩序はキリスト教社会が見事に継承していたのである。
(キリストの説く慈愛に満ちた教えと「キリスト教」および「キリスト教会」はさして関連がないと断言できる。教会は営利団体でありその教義は彼らの都合で常に変わる。)
14世紀になりルネサンスを迎えた欧州では、絵画、彫刻、建築を通し「ギリシア」の再来が実現した。遠近法の開発は絵画により写実的な奥行きを与えることに成功し「神々の世界」をあたかも現実のように、そしてこの上なく甘美に描き出した。無表情かつ直立型であったギリシア・ローマ時代の彫刻に怒り・苦しみ・喜び・嘆きの表情とともに躍動感が加わえられ、あたかも神々が人と感情を共有しているかという如き期待がもたらされた。建造物にはギリシアの神殿建築の様式・装飾を取り入れ、地中海地域の深層に横たわる「神性」を憑依させ新たな権威の象徴とした。


そして現代、子供たちに無理難題を与え、互いに争わせ、競わせ、ふるいにかけて落ちこぼれを作り出し、勝ち負けを押し付け勝ち残っていった者たちがまたしても争う、そんな現代は古代ギリシアの神々も恐れ入るのではなかろうか。

              横浜正金銀行
                  旧横浜正金銀行  ギリシアは日本まで到達していた



古代ギリシア人は遠征した先々の土着の信仰をも吸収し、ギリシア語の名をつけて神話の中に加えてしまう癖があった。われわれがギリシアの神々と知るものの一部はギリシアを取り巻く地域の神や王族である。

ケンタウロスの名で登場する民族もそのひとつで、半人半馬のその姿はスキュタイの騎馬民族の勇猛な戦いぶり、特に馬を駆りながら弓を打つ戦法を見せ付けられたギリシア人がその恐怖から想像したものであるという説がある。ケンタウロスは葡萄酒に悪酔いしたという描写がなされている。スキュタイも葡萄酒を知らなかった、つまり葡萄の生えない東方の乾燥帯に拠点を持っていたところは面白い一致である。

騎馬民族は身軽で機動性がよいため言語や伝説などを驚くべき速さで伝達する可能性がある。古代、地中海地域と東アジアの間を縦横に行き来しながらお互いの伝説を運び伝えることができる者たちがいたとすればまず騎馬民族が挙げられ、それは大まかには先述のスキュタイをはじめソグドや匈奴、月氏をさす。経由の軌跡は追いきれないが、最後には大陸から列島に伝わり日本神話の要素となった。日本の神話とギリシア神話の類似性、それは「類似」ではなく、神話の伝達者が存在したことによる「共有」といえる(この説は吉田敦彦氏の研究によるものである)。ただし神話として完成したものが伝達されることはまれで、むしろ神話の原型となった伝説や史実が伝達され、それがそれぞれの地で別の神話として出来上がった例のほうが多いように見受けられる。

スパルタからみればヘレネーが去っていったトロイアは東方に当たる。これについても興味深いことが日本神話のなかに隠れている。
「赤い玉」から生まれた美しい娘はアメノヒボコ(天日槍)の妻となった。娘はヒボコに日ごと豊かな食事を用意し尽したが、それに奢ったヒボコに罵られたのに腹を立てた娘は祖(おや)の国に行くといって姿を消してしまったという。ヒボコは後悔し妻を追って「東の国」へとやってきた。このアメノヒボコという男、じつは新羅の王族である。
「古事記」ではこの娘の名は阿加流比売神(アカルヒメノカミ)とあり、ヒボコとアカルヒメが夫婦喧嘩をしたのが新羅、アカルヒメが祖の国と呼び帰りついたのは日本の難波の津である。しかしヒボコは海の神に遮られて難波津に近寄れなかったために仕方なく但馬へと向かいそこで現地の娘と結ばれることになるという。
「播磨国風土記」によれば船団を従えたアメノヒボコが至ったのは播磨の海、それを迎え撃つは伊和大神またの名をオオクニヌシノミコト、製鉄集団であったヒボコの一族は良質の砂鉄のある播磨を目指しやってきたが、出雲についでこの地を平定しつつあったオオクニヌシの抵抗にあい激しく争った。折れたヒボコは但馬の国へと行きそこに定着したとある。このあたりも鉄資源に恵まれた土地である。

「日ごとの豊かな食事を供じて夫に尽くす」であるが、古事記の原文では「常設種種之珍味、恒食其夫。」とある。これはアカルヒメが豊穣の女神であったとも解釈できる。豊かな糧に驕ったヒボコすなわち新羅の王族は女神をないがしろにし、畏れることなく木を切り倒したために精鉄の燃料に欠かせない森林資源が尽きてしまったと考えると、どういうわけか瀬戸内海が地中海に繋がる。

ヘレネーはギリシア神話に取り込まれる以前はスパルタの地の土着の女神であった。樹木の女神であり、結婚と豊穣を司るとされていたのである。つまりヘレネーとアカルヒメをめぐる神話は同一のものかも知れないのである。ギリシア神話の中ではトロイア戦争が神々のいざこざとしか描かれていないが、ヘレネー簒奪劇の原型は多分に呪術の要素があったと思われる。
アカルヒメもヘレネーのように「玉」から生まれておりこの手の伝説は東シナ海を取り巻く地域によく見受けられる。またアカルヒメの母親は日光によって身篭った。これにも同じような伝説が中央アジア諸地域に見られる。


ヘレネーの故郷スパルタは今のギリシア・ペロポネソス半島、ミュケナイ文化の栄えた地である。ここに住んだ者たちは自らをアカイア人とよんでいた。アカルヒメの名の由来がアカイアだったとすれば、面白きことこの上ない。


古事記、日本書紀は日本の正史を伝えるものではない。時の権力者がその出自に神格を裏付けるために書かれた部分があまりに多く信憑性に疎い。しかしこれらをただの偽書とは言い難いのは、読み方によっては奥深く、史実の上を行く何かを見出すことができる書物であるからである。同じ題材がギリシアでは血みどろの戦いに描かれているのに対し記紀での扱いはは夫婦喧嘩だったりする。海の向こうから来た神様に言葉が通じなかったため途方にくれたオオクニヌシが蛙に助けを求めるところなどは可愛さすら込み上げる(これは蛙つまり雨を降らす神がオオクニヌシよりも昔からこの地にいたことを暗喩する)。もちろんギリシア神話に劣らぬ残忍な話も中にはあるが、概しては山と海に抱かれて生きてきた日本人たちの姿を豊かに描写し先祖の国づくりへの思いを今日に伝えている。大陸各地から集まった渡来人たちにたいしても「気づかい」のようなものが見え隠れしている。ただし国内の外縁にある人々に対して明らかに配慮がかけているのは現代に通じるものがある。



ギリシアの神々の血を引く西洋人は、かれらの先祖の思い描く世界秩序を全うさせようとしている。それを今我々は鼻先に突きつけられている。国境が取り払われた混沌の中で人々は競い合いに明け暮れることを余儀なくされ、敗者が勝者に身を奉げる様相がさらにあからさまになるだろう。多くの人の目にそれが地獄絵とは見えず、あたかもルネサンスの光溢れる油彩画のように映っているところが恐ろしい。

不老不死はどこにある

「長生きしたらあかん、いらん恥かくばかりやで。」
筆者がまだ学生の頃、京都の祖父がそういったのを覚えている。

頑固でへそ曲りの祖父だったが、「長生きしたらあかん」のはそれほど特殊な考え方とは思えない。むしろ「長生き」は父母やつれあいという大事な人がいつまでもそばに居てほしいという周囲の願いか、あるいは「はよう死ね」とはまさか言えない相手に対し使うことばなのかとも思う。

わが国の芸能にも長命を寿ぐ出し物は多く、「不老長寿」「千秋万歳」などは決まり文句として知られている。長く生きることは好いことであったに違いないだろう。
寿命の短い昔であればなおのこと、病を得ず、思い煩うことなく、人から謗られず恨みを買うことなく天寿を全うするのであれば目出度きことこの上ない。だがそういう生き方が難しくなった今は逆に医療が進み重い労働からも放たれたために寿命だけは延びた。「長生きしたらあかん」のは人にもよるのか、人をとりまく世の中によるのか。

          高砂
                              能 高砂


秦の始皇帝のころ、「不老不死」の仙薬を探してわが国までやってきた人物がある。

その名は徐福、司馬遷の「史記」にその実在が証されている。
徐福は斉の国、今の山東半島のあたりに紀元前三世紀の後半に生まれた。この地方にもとよりあった神仙術、つまり呪術や祈祷,薬学,占星・天文学の師であり、その職を方士といった。神仙術は道教にも影響を与えたとされている。

方士たちは錬丹術をよく知る。丹とは水銀を原料とした丸薬のことで、この時代は水銀が「不老不死」をもたらすという考えから鉱物として出土する辰砂(硫化水銀)を用いてさまざまな薬が試されていた。錬丹術の手法は錬金術とほぼ同じものであった。神仙術を極めた方士は錬丹術によって得た仙丹を自ら服し不老不死の仙人になれると信じられていた。

絶大なる権力をその手にした始皇帝はこの神仙術にとり憑かれた。この世の全てを欲しいままにしながらも未だ唯一得られないものは「永遠の命」、自ら斉の国に赴き方士を探した。

中国の歴代の歴史家たちはこの方士に対して冷淡である。多くの権力者たちがこの辰砂のために中毒死したという事実がそれを裏付けており、方士とは「調子のよいことを言いつらね皇帝に媚び諂っては大金を巻き上げた」との酷評が残る。それは神仙術が道教に影響を与えていることと、歴史家の多くが儒教の思想を汲んでいることと無関係ではないとの指摘もある。

さて徐福は、「海の東にある方丈山,蓬萊山,瀛洲山の三神山には不老不死の仙人あり」と始皇帝に上奏した。喜んだ始皇帝は、すぐさま赴き仙人から仙薬を譲り受けるように命じ童男童女千人と三年分の食料・衣類・そのほかの支度をととのえた。しかし徐福は大魚に行く手を阻まれたなどと言い訳をし舞い戻る。あるいははなから出立せずにいた。苛立った始皇帝はさらなる船と装備を与えて急き立てた。いかにしても不老不死の薬がほしかった。

かくして童男童女千人、技術者百人、金、鉄、五穀の種、蚕、農具、工具を満載した大船八十五隻を連ねて朝鮮半島を経由し、徐福は我が国にやってきた。


 徐福来日


日本各地に残る徐福伝説は枚挙に厭わず、徐福その名が神として祀られている。その背景には徐福一行の我が国にもたらしたただならぬ恩恵があるのだろう。その恩恵とは、いかに。


その頃の日本ではすでにはじまっていた稲作により各地に定住型の共同体が築かれつつあった。徐福一行はまだ黎明期の稲作に灌漑や農具の製造に関わる技術と暦法を与え、茶の栽培、養蚕そして絹織物を伝えた。なにより得意とする薬学を生かし生薬や鉱物薬を人々に知らしめた。錬丹術に欠かせないのは鉱物であるが、それを探し当てる技術といおうか、嗅覚のようなものが斉人たちには備わっていたのかもしれない。おそらくは水の味や土の色から解るのであろう。鉱脈を見つけるかたわら井戸や温泉をも掘り当てた。


その頃の秦は逆に乱れていた。始皇帝は自らの執政を最高のものと信じるあまり過去の政治の否定を徹底した。古書は焼き払われ、特に先帝たちの先例を重んじる儒家の思想は「焚書坑儒」を以って弾圧された。土木工事に明け暮れそれに使役されただでさえ疲弊した民衆は謀反の疑いをかけられただけで生き埋めにされた。始皇帝自身は不老不死にこだわり方士たちに作らせた水銀入りの薬をあおっていた。その身体は徐々に蝕まれていったのか、四十九歳という若さでこの世を去った。


徐福に従い来日した多くの斉人たちはその後日本で秦(はた)の姓を名乗りそのまま定住したとの説がある。朝廷は彼らにそのころに来日したであろう彼ら以外の大陸人たちとともに「伴造(とものみやつこ)」としての役職を与え職人集団として保護した。
徐福の名は日本の教科書には出ておらず「渡来人」たちが大陸文化を伝えた、とだけある。その但し書きの中で「記紀には西文氏(かわちのふみうじ)、東漢氏(やまとのあやうじ)、秦氏(はたうじ)らの祖先とされる渡来人について伝えられている」とある。
ご存知のように記紀は奈良時代初期の朝廷とその実験を握っていた藤原氏の都合で書かれたものであり日本の正史とは言いがたく、そこに記載されていることはそのまま理解するのではなく「なぜそう書かれたか」という目で読まなければならない。日本書紀によれば秦氏の祖は弓月君であり、百済からの亡命者とある。


史実と伝説と想像をかいくぐり、ちと問答をしてみよう。

徐福はなぜ帰国しなかったのか?

始皇帝の残虐政治を知る徐福はもとより秦を見限り来日したのかもしれない。そのまま秦に残っていたのでは先祖から伝わる術も一族もろとも焚かれ坑められることを見抜いており、始皇帝をあざむいて秦を逐電し、一族を率いて新天地であらたな共同体を築いて先祖の精神をそこに残そうとしたのではないか。


徐福一行と倭人との間に摩擦はおこらなかったのか?

仮に徐福に王国を築く野望があれば起きていたと思われる。が、斉人は戦闘とは縁の遠い人々であったらしく異国で覇王になるという気質があったかは疑わしい。それよりも神仙術を役立て実らせることこそが彼らの理想郷の実現であったというほうが彼らに似つかわしい。実際のところはわからないが、この頃日本にに興った数ある王朝のうちのいくつかは徐福一行かその子孫を王に戴いていたかもしれない。(福岡や福島の地名がその名残とする説あり)しかし大和朝廷がそれであったかという考えには反対である。なぜなら、朝廷の行動形式と神仙思想はどうも似ていないからである。


辰砂(硫化水銀)はからだによいのか?

悪い。ただし毒と薬が紙一重であることは今の新薬も昔の生薬も変わらないのである。何であろうと使い方を誤れば人の命を奪う。水銀には鎮静効果が認められており現代の医薬品にも何らかの形で混入されている。水銀は「赤チン」に使用されていたし乳幼児に摂取するワクチンにすら今も混入されている。
鮮やかな赤色を呈するこの鉱物が主に防腐・防虫効果のある顔料として使われていたのはその毒性の効果を以ってのことである。このようなものを食前食後就寝前に服用していたのでは命取りになることぐらいは方士たちも知っていたに違いない。しかし、敢えて皇帝に献上していたのである。やんごとなき大君におわしますればその御命永々しくあらせられんことを…とかなんとか申し上げつつ内心では「はよう死ね」と思っていたのかもしれない。


徐福は日本を知っていたのだろうか?

最後の氷河期が終わるまでは大陸と列島は陸続き同然であった。当然のごとく、倭と大陸に住む者たちは気候の変動や資源の枯渇などが原因でその両方を移動していたことだろう。どこからが倭人でどこからが大陸人かという線引きは実は難しく、ひとつの共栄圏がある時代までに少しずつ海に阻まれ分断されたと考えるほうが説明がつきやすい。海の向こうに行った、あるいは残してきた同胞たちの記憶が子孫に伝わり、それが仙人の住む蓬莱山伝説に昇華したのではないか。海の東には木々と水に恵まれた、悪王のいないよい国があると語り継がれていたのではないか。


徐福は不老不死の薬を探したのだろうか?

そもそも不老不死をどうとらえていたのだろうか。肉体の存続のみに重きを置く現代医学と徐福のめざした神仙術は「命」への思いも違うはずである。もし仙薬を使って自らを永らえることに執心するならば病気快癒や五穀豊穣、そして子を産み育てるための国をつくることになど価値を置かないだろう。ならば呪術や薬学、農学のどれもが意味をもたなくなる。
その肉体という入れ物が滅びようと、共同体という入れ物を築きその中で、先祖から受け継いだ魂を朽ちることなく永らえることを「不老不死」と解いたのかもしれない。そうとらえたならば徐福たちはまさしくこの日本に不老不死を求めやってきたことになる。始皇帝はやはり欺かれたのであろう。

                  辰砂
                                  辰砂


「日本書紀」や「古事記」はある意味疑わしいかわりに読みようによっていろいろ解釈ができる。
スサノオの子孫は数代にわたり開墾をつづけ国を広げ豊かにしていったが、オオクニヌシの代になると不思議なことが起こったという。

故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內剥鵝皮剥、爲衣服、有歸來神。爾雖問其名不答。且雖問所從之諸神、皆白不知。

オオクニヌシが出雲の海辺に佇んでいると、波の間から天之羅摩船に乗り蛾の皮をすっかり剥いで作った着物を着た神様が現れた。名前を聞いても答えてくれず、そばにいた神々に聞いてもみな知らないといった。天之羅摩船というのはガガイモという強壮成分のあるつる草の実を割って一寸ほどの船にしたものをさしている。小さい神様のようだ。蛾の皮とは繭のこと、それをすっかり剥いで着物を作ることは絹糸と絹布を作ることを暗喩している。また名前を聞いても答えず、ほかの皆も知らないという。どうやら異郷から来たらしい

爾多邇具久白言、此者久延毘古必知之、卽召久延毘古問時、答白此者神產巢日神之御子、少名毘古那神。
多邇具久(ヒキガエル)が言うには久延毘古(かかし)が知っているとのこと、早速かかしを呼び問うた。「こちらにおわすはカミムスビ神の御子のスクナヒコナ神にございます」とこたえた。ヒキガエルは田畑に雨を呼ぶ神の化身であり、かかしは田畑から鳥を追う神の化身である。この二神は土着の神(国津神)を思わせるが、カミムスビは世界の最初に現れた三神のうちの一柱(天津神)である。
スクナヒコナ(少名毘古那)の名にはオオクニヌシの名が「おおじぬし」の意であることへの対比、すなわち日本にまだ土地を持たない外来の神だということをほのめかしている。

故爾白上於神產巢日御祖命者、答告、此者實我子也。於子之中、自我手俣久岐斯子也。故、與汝葦原色許男命、爲兄弟而、作堅其國。故、自爾大穴牟遲與少名毘古那、二柱神相並、作堅此國。然後者、其少名毘古那神者、度于常世國也。

さてそうしてタカムスビノカミに申したところ、「まさに我が子、我が手指の間から滴り落ちた子である。ゆえに汝オオクニヌシと兄弟となり国造りを進めよ」とのたまわれ、このさきオオクニヌシとスクナヒコナの二柱の神は力を合わせてこの国を作り固めた。その後はスクナヒコナは常世の国へと旅立った。

オオクニヌシとスクナヒコナは共に日本各地を旅したらしく諸国風土記にもその名を残している。片方が土を担ぎ、もう片方は糞を我慢してどちらが先に音を上げるかを比べたなどの支離滅裂な説話もあるが、それは灌漑法と施肥術を広めたことと理解できる。素直にそう書けばよかったではないかとも思えるがそうは書残せない事情があったのかもしれない。記紀に徐福の名が出てこないのもそうかもしれない。ちなみに出雲周辺はオオクニヌシの国造り神話の舞台であり徐福伝説の空白地帯である。

いや、スクナヒコナを徐福と見なすのはちと乱暴なので控えておくが、少なくともこの説話は稲作が広まりつつある時代に大陸からの渡来人が多くの技をもたらした事実を示したものに違いなかろう。事実スクナヒコナは医術、呪術、農耕、酒造り、温泉、石、機織りの神に祀られており、どれも大陸の影響なしには語れないことばかりである。
そして、身の丈の大きい神であったなら威圧する力を感じるところを敢えて小さいと記されているのを見れば、それは此の国に圧力をかけた存在ではなかったと伝えたかったのだろう。
日本の神様たちはまともな場所から産まれることがあまりないので指の股から滴り落ちたというのも侮蔑には当たらない。しかしカミムスビが後であわてて認知したという印象はとうにもぬぐえない。のちに朝廷が渡来人たちに「「伴造(とものみやつこ)」という地位を与えたことに由来するのだろうか、「伴」の字にこめられたのは、オオクニヌシのときから伴に国を作り固めてきたことへの恩義かもしれない。

そしてスクナヒコナは忽然と姿を消し、「常世の国」へと渡りけむ。

                        徐福
                               徐福

日本の先祖たちは「不老不死」を願ったのだろうか?

「不死」は漢語、つまり大陸からきた外来語である。日本語の「死ぬ・死す」も漢語の「死―シ」から作られたものでさはど古くない。では昔は何と言っていたかといえば、じつは漢字とともに漢語が流入するまでに我が国で使われていたやまとことばには「死」に相当する語彙はなかった。
「ゐぬ―去ぬ」「うす―失・亡す」「かくる―隠る」「ゆく―逝・行・往く」「たぶ―渡・度ぶ」などが「死」に近い言葉であった。
先祖たちにとって「からだ」とは「たましい」をいれる袋のようなものであったという。その袋は脆いもので永らえることはできない、そしてあるとき「たましい」がそこから去り、どこかに往き、目に見えぬ処に隠れてしまう。すると袋は朽ちて土になる。これを死とは呼ばず、ただ体を離れた魂がどこかにわたりゆくと考えられていた。そのゆきつく処を「とこよ―常世」と呼んでいた。

常世、それはあの世をさす。四季の花々が枯れることなく咲き乱れ、それは時がながれぬ故であり、時の流れぬ国ゆえに常世という。故に老いることも、死ぬこともない。ここに至ることが我々の先祖にとっての「不老不死」であった。
倭人に出会い、そのたましいに触れた徐福は何を思っただろうか。「嗚呼 是也不老不死、此在蓬莱之国!」と喜んだか、あるいは逆に落胆したか、それはもう想像から出ることはない。どのみち始皇帝が暴政をふるう秦への帰国はありえなかった。日本の土になることを選んだ徐福であった。

やがて漢字と漢語が伝来し、そのなかの「死」の文字と概念が倭人のなかに染みわたり、また仏の教えは「彼岸」を説いた。そしてそれを「常世」と同じことと捉えた先祖たちはそのあとも、不老長寿を求めこそすれ不老不死は請わなかった。


「長生きしたらあかん」と言った祖父はスクナヒコナがやってきたという出雲の生まれであった。里子にだされ幼い頃に里親とともに台湾に渡り、そこで終戦をむかえて京都に引き上げた。京都で生き、そして十年前に常世の人となった。筆者の頑固でへそ曲がりなところは祖父譲りである。不思議な縁である。


「くし」の構造 ―うつくしきくに

我が国で太古から使われていた言葉、すなわち大陸から列島に漢語の波が押し寄せてくる前のことばをやまとことばという。やまとことばからは、今を生きる我々がとうに忘れてしまった本当の祖国、それを造った先祖たちの生き方を伺い知ることができる。

やまとことばにおいてクシの音をもつものはまず「髪-クシ」、これは頭髪のみを指す。「頭-クシ」は頭部と頭髪の両方を意味する。ちなみに「頭-カシラ」は「クシ」の美称である。髪と頭は「カミ」の音も共有している。「首-クシ」というものもあるが、頸部ではなくそこから上すなわち頭部のことをいい、「頭」とほぼ同意である(すでに身体をはなれてしまった頭部を指すことが多い)。

そして今では完全に忘れ去られた言葉、「奇し-クシ」は、不思議な、霊妙な力をたたえた状態を示す形容詞である。

漢語の「奇-qui」が日本語化したようにも見えるがそうではない。漢語外来語であれば「し」の音はサ変動詞「す」の連用系ということになり「くす」という動詞が存在して然るべきだが、ない。「奇し」の「し」はシク形容詞の終止形でありまぎれもなくやまとことばと言うべきである。ところが奇妙なことに「奇」の漢字源をみればやまとことば「奇し」のもつ意味とは当たらずとも遠からぬ「不安定なものが不思議な力によって支えられている様子」とある。どのような接点があったのだろうか。

大陸と列島がほぼ陸続きであった大昔、日本語の祖語がはぐくまれた頃の大陸人と和人は双方の国を行き来し、そして少なからぬ共通の語彙があったと、筆者は考える。奴国王や倭の五王、ひいては漢字伝来などの遥か昔の話である。

物を言い、音を聞き、姿や香りを捉える窓のある、憶えおもんぱかる処でもある「頭-くし」は人の霊力の源、「奇しきもの」にほかならない。

その「奇し」から派生した語が「櫛」である。
そのむかし、髪をすくことを「くしけづる」といった。切ってもまた伸びる髪は生命力の証であり、異性を虜にする力も持ち合わせている。「クシ」を「梳る-ケヅル」道具である「櫛-クシ」にも霊力を見出していた。「梳る」ことは、筋道をつけ整えて恵みを受け入れる支度といえる。田を「鋤く-スク」ことと髪を「梳く」ことが同じ音で表されるのは偶然ではない。


命を絶たれたイザナミを恋うて黄泉の国にまかったイザナギが暗がりの中で櫛の歯を折って火を灯し、そこで見たものはこの世のものではなくなった妻のあるべき姿であった。身体のいたるところに雷神が纏わりつき蛆の湧いたイザナミに怖れをなしイザナギは黄泉の国を後に逃げ出した。怒るイザナミは追っ手を遣わす。イザナギは髪に挿してあった櫛を取り、その歯を折って投げるとそこから竹の子が生え、追っ手がそれに喰らいつく隙に黄泉から逃げ切った。
イザナミとイザナギの子、スサノオは乱暴狼藉をはたらいた末に高天原を追われて出雲へと降り立つ。その地でスサノオは、ヤマタノオロチに姫たちを全て奪われ最後に残った末の姫までも生贄に差し出さねばならぬと嘆く老いた夫婦に出会う。オロチ退治を買って出たスサノオは、生贄の姫を妻に貰うことを言い交わすがその姫の名こそ「櫛名田比売-クシナダヒメ」である。古事記では「櫛名田」と記されているが「日本書紀」では「奇稲田」とある。「霊妙なる稲田」を意味するであろうクシナダヒメがスサノオと結ばれることは日本人と稲作との出会いを暗喩するとされている。スサノオはクシナダヒメを櫛に変え髪に挿してオロチを退治した。ヒメの「奇しき」力を櫛に変え、それを身に纏い戦いに臨んだのである。
スサノオの子(あるいは六世の子孫)のオオナムチ(大国主命)とスクナヒコナの二神が力を合わせて国つくりをしていたが、スクナヒコナが忽然とオオナムチの元を去る。

遂に因りて言ノタマはく、今此の国を理ヲサむるは、唯吾一身ヒトリのみなり。

オオナムチが途方にくれていると海原を照らしながら誰かがやってきた。

時に神光アヤシキヒカリ海ウナバラを照テラし、勿然タチマチに浮び来る者有り。曰イはく、如モし吾在アらずば、汝イマシ何イカにぞ能く此の国を平コトムけまし。

そして言うには、吾在ってこそこの国を平らげることができると。オオナムチが誰かを訊ねれば、吾は汝のさきみたま・くしみたまであると答えた。

然らば則スナハち汝は是れ誰タレぞ。対コタへて曰ノタマはく、吾は是れ汝が幸魂サキミタマ奇魂クシミタマなり。(日本書紀 一  神代 上)

神の霊魂にはそれぞれ二つの性質が在り、ひとつは天災や凶事をもって世と人心を荒らし争いへといざなう「荒魂-アラミタマ」、もうひとつは逆にあらゆる恵みをもたらす「和魂-ニギミタマ」であるとされている。そしてニギミタマをさらに二つに分けて解釈がなされている。即ち人に収穫などの幸いを与える「幸魂-サキミタマ」、神秘的な力をもって人に奇跡をもたらす「奇魂-クシミタマ」である。

オオナムチに対し自身の幸魂・奇魂であると明かし、自らを三諸山(大和・三輪山)に祀ることを求めたのはオオモノヌシ(大物主)として知られる三輪山の祭神である。オオモノヌシは蛇神、水神、雷神とさまざまな性質を持ち合わせ、稲作や酒造りの神でもある。


ここでまた、「奇し」から生まれたことばを挙げよう。
「酒-クシ」である。酒の持つ力を考えれば奇しきものにちがいなく、人を良くも悪くも変えてしまう。傷や病を癒す力もある。その効果は特に「薬-クス」と表現されるがこれも悪く使えば毒になる。つる性の植物「葛-クズ」の根から取れる澱粉は食品として、また薬として重用されていた。滋養に優れており胃の働きを整え、体を温めて発汗を促す力がある。いっぽうその激しい繁殖力は時として手に余り作物や樹木の生長を妨げ、現代では害草とも見なされている。この植物を「葛―カタ」とも呼ぶのは水に溶いて加熱すると固(カタ)まる性質をしめしている。そして「仇-カタキ」の語源にもなった。

上代、大和、そして常陸の国に土蜘蛛とよばれる集団があった。朝廷と距離をおき古来(縄文)の風習を保つ彼らは「国巣-クズ」とも呼ばれ恐れられていた。時に激しく抵抗し、時には宮中に参内し土地の産物を献上して楽を奏でることもあった。ヤソタケルと呼ばれる土蜘蛛の一族を騙し討ちにかけたイワレヒコ(後の神武天皇)に手を貸したのは同じ土蜘蛛の国巣の一族であった。さらに大和の土蜘蛛はイワレヒコが葛のツルを編んで仕掛けた網にかかり滅んだ。この故事からその地は葛城山と名づけられ、葛城山の土蜘蛛の霊は朝廷を仇と恨み平安京によみがえった。


もうお気付きの方々もおられるだろう、「うつ」というやまとことばを記事にしたことがあったが今回はそのつづきでもある。

終わりのある「現世-ウツシヨ」、つまりこの世での命をながらえるための「器-ウツワ」である人の、その「空-ウツ」なる「「内-ウチ」側が「うつ」であると書いた。そこに霊妙なる、奇しき力を宿した人はもはや「うつくし-ウツ・クシ」さを隠すことなどできまい。

ひとのうつくしさは言葉や振舞い、そして顔に現れる。その根源はその人の内側にある魂であり、そこにやさしさや強さや厳しさが具われば口をついてよい言葉となり、よい行いとなり、いずれはよい顔をつくる。見た目の整ったうわべの麗しさとはそもそも源を異にする。奇しき力とは向こうから歩いて来はしない。櫛で梳いた髪も如く、鋤で鋤いた田の如く、つとめて整えられた心の内にこそはじめて降り立つ。

人のみにあらず、それは森羅万象すべて同じく空も、海も、草木も雪も月も花も鳥もみなうつくしい。山河はもとより路傍の石とて人がこの地を踏むはるか昔に生まれ悠久の時に形づくられた姿を呈している。裸でこの世に生まれた我々の暮らしを支える道具もまたうつくしい。日々精進し技を磨いた職人の作り出す道具は用に徹し微塵の隙もなきにしてそのうつくしさは時として人の心を奪う。一枚の画は人の目を楽しませるだけの色と形の組み合わせに非ず、画工の魂から溢れるものをその腕によって紙に写したものである。見るものの心がそれに打たれ画工の心と邂逅したときにうつくしいと思うのである。しかしそれを見る側の心が鈍っていればなにも感じることはできない。

いま、大量生産された粗悪品に囲まれる日々は我々の心を鈍らせる。経済に重きを置くあまり、ありもしない需要をひねり出しありあまる供給をなし無茶な消費を迫る。無駄が無駄を呼ぶ。ありもしなかった需要に存在の価値があるはずもなくすぐさまゴミとして彷徨うことになる。うつくしき山河は土に還らぬ骸で埋められようとしている。
音楽や絵画など凡そ芸術と呼ばれるものは全て商品化されたであろう。作家の魂には値札がつけられ見るものの心はその数字にのみ打たれる。目と舌先を喜ばせるだけの華美な食卓は病巣を育てる。いかがわしい原料から作った物の悪臭を隠すために香料を添加し、あるいは見目よく着色する。おなじく見た目の麗しさを追いかけるのみの美容は異性の目を惹きつけるか同性との競いに勝つためのものでしかない。見ばえのする姿態と見ばえのする暮らしを維持したいと願うものは子を産み育てることから逃げたがる。放射能や遺伝子組み換え食品が不妊を招くといくら喚起したところで馬耳東風、このような人たちと次世代の話する術など、どこにあろう。


日本人が目先にとらわれ心の内側をこれほどまで置き去りにしてしまったのはいつからか。


原発という巨悪に対し立ち上がる動きは日に日に大きくなる。原発を擁護する世論はそれに押され弱まりつつあるかのようにも見える。

しかしここに掻き消せない一抹の不安がある。

それは危険極まりない原発も目に見える表層の現象でしかなく、その内側にははるかに大きな悪が控えていようそのことである。かりに日本から原発がなくなったとして、その後の日本をどう造るのかが如何に語られているのか。いまの生活、いや経済水準を維持するために必要な電力を何かしらの方法でひねり出すことが解決なのだろうか。原発の内側にある本当の問題に気づく者がこの先増えていくのだろうか。

現状、原発の是非の問答は経済にはじまり経済に終わる。ただでさえ不況を抱える今、原発による電気の供給がなければ経済が落ち込むという恐怖が人を捕らえて離さない。それを言い換えれば競争に負ける恐怖である。
周囲から引けをとっていないかに気を揉み、相手を出し抜く方法を教え込まれ、目の前の相手の価値を収入と肩書きで値踏みする。自らと競争相手だけで構成される集団の中で生きている。我々がこの競争に勝つことに生きる意味を求めている以上何も変わりはしないだろう。原発をなくしたところで原発よりもさらに危ういものを作り出すだろう。国とは人の集まりである。人同士の繋がりが競争でしかないのなら、それが集まった国とはいったい何なのか。国同士の繋がりが競争でしかないのなら、この世はいったい何のためにあるのか。

原発はなくすしかない。なくなるしかない。だが本当に戦う相手は原発や原子力村などではない。魔物は我々一人ひとりの内にある。それは見せ掛けの豊かさを手放せない弱さである。他人への妬みと嫉みである。飽くことのない欲である。もとより人に備わる穢れではあるが先祖たちはこれをよく戒め、手懐けて生きていた。それが近代の幕開けとともに競争原理がなだれ込み、勝ちたいがためにこの力を解き放った。鎖を解かれた獣は自由放蕩に暴れ周り我々を競い合いへと駆り立てる。

人々が常に誰かと競い、走り続けるこで経済の車輪が動く。立ち止まることは市場の持ち主たちにとって許しがたい行為である。だから脅して賺して走らせる。脱落するものは踏み潰されそして誰一人として勝者になれない。なぜなら輪を描いて走り続けるだけなのであるから。

外にとらわれ心の内側をこれほどまで置き去りにしてしまったのは、それは無理矢理に外を向かされたそのとき、近代を迎えたときからである。道を誤ったのであれば辻まで戻って行き直すしかない。

心の内側に巣食う魔物をねじ伏せることができさえすれば、原発などはその後ろ盾を失いたちまちに消えて失せる。そして心の内に奇しき力をふたたび呼び戻すことができるだろう。そしてうつくしき人に戻り、うつくしき国を立て直すことができよう。

歌舞伎見物のお誘い―土蜘蛛

最近ではほとんど上演されなくなったというこの「土蜘蛛」、その理由は物語性に欠けるからだと何かで呼んだことがある。素人の意見であれば罪はないが、もしこれが専門家の論評だったとしたらちょいと待った。先生、あんたも土蜘蛛の恨みを買いますぜ。

「土蜘蛛」
                                「土蜘蛛」



時は末法の頃、千筋の糸を放つ妖怪「土蜘蛛」が一族の恨みを晴らさんと源頼光(みなもとのらいこう)を苦しめた。その妖怪退治譚がこの「土蜘蛛」である。見せ場はなんといっても白い蜘蛛の糸を模したなまり玉が美しい軌跡を描いて舞い狂う立会いの場面である。

この物語が歌舞伎として舞台に登場したのは実は明治になってからで、歌舞伎においては古典の中に数えられない。しかし題材とされたのは古典も古典、能の「土蜘蛛」あるいは「土蜘」である。能に取材して作られた歌舞伎芝居の背景は能舞台を模して羽目板に松を描いたものとするという決め事がある。このような芝居を「松羽目物」といい、勧進帳や船弁慶などもそうである。

江戸時代はもとよりそれ以前から能は舞うのも観るのも貴族や武士の特権であり庶民には禁じられていた。彼らに許されていた芸能に「神楽」があるが、「土蜘蛛」はこの神楽にも取り上げられている。さて土蜘蛛とはいかなるものか。

       
                  土蜘蛛の精


「土蜘蛛」が日本の文献にはじめて登場したのは古くも「日本書紀」と「古事記」(それ以前の文献が残っていないので仕方がないのだが)、つづいて諸国「風土記」に記載が見られる。いずれも朝廷の意にそわぬ集団すなわち「まつろわぬ者」たちである。

後の神武天皇カムヤマトイワレヒコがまだ天皇として即位する前、帰属を拒む土着の豪族たちを征伐しつつ覇権を東へと広げていった。これを古代史では神武東征と呼んでいる。土蜘蛛は記紀の東征譚のなかに書かれている。
まず古事記では「尾生土雲八十建―尾の生えた土蜘蛛ヤソタケル」とあり、八十建‐ヤソタケルとは単独の人名ではなく、八十建つまり「猛き者の群集」の意である。尾があるといういかにも未開な集団と表現されたこのヤソタケルをイワレヒコはだまし討ちにした。ヤソタケルに近づき宴を催して豪勢な料理をふるまうが、ある歌を合図に料理人たちがヤソタケルを討ち、倒したという。
そして日本書紀ではイワレヒコの大和地方征圧において新城戸畔(ニヒキトベ)・居勢祝(コセノハフリ)・猪祝(ヰノハフリ)の三者をさして「三ヶ所の土蜘蛛」との記述がある。ハフリとは司祭者または巫女を意味し、呪術性のある首長の存在を物語っている。記紀の後に書かれた諸国の風土記にも登場する土蜘蛛の多くは女性の首長が統治していたという。

それに続いて登場するのが葛城山の土蜘蛛である。

大和・和泉にかけてつらなる和泉山脈と金剛山地に「葛城山」と名のつく山が幾つかあるが、この地には朝廷が興る前から自治をする集団が、あるいは王朝があった。その民は胴が小さくて手足が長く、蜘蛛のようにな姿で歩き、洞穴の中で暮らしていた。彼らがやすやすと神武東征に屈するわけもなく激しく抵抗したという。
イワレヒコ(神武)は葛のつるで編んだ網をしかけてこれを誅殺し、この地が「葛城」とよばれる由来となった。因みに常陸国風土記にも登場する土蜘蛛伝説では茨のつるで編んだ網で土蜘蛛を退治しその地を「茨城」と呼ぶようになったとの記述がある。実に興味深い。

この葛城山の土蜘蛛の恨みが後の世によみがえる。黄泉から、還る。

汝知らずや、我れ昔、葛城山に年を経し、土蜘の精魂なり。
なお君が代に障りをなさんと、頼光に近づき奉れば、却って命を絶たんとや


謡曲「土蜘蛛」より

平安の時の世、権力を争う貴人たちの間では讒言と呪詛が絶えず、一方で都を繰り返し襲う災害や疫病は失脚させられ怨霊と化した者の祟りと恐れた。そのための加持祈禱や寺院建立、荘園の開墾と寄進は凶事とともに庶民たちを疲弊させた。そんな都において貴賎を問わず誰もが頼りにしていた存在、それが源頼光である。武芸を修め心身ともに磨き上げられた武人の握る刀には破魔の力が宿り、末法の世にはびこる悪霊を討ち祓うと信じられていた。

しかしその頼光までもが瘡(マラリア)に倒れた。

病床の人となった頼光を甲斐甲斐しく看る侍女の胡蝶は薬と偽り頼光に毒を盛る土蜘蛛の化身であった。そうとはっきり表現しているのは神楽のみで能と歌舞伎では仄めかすにとどめてある。そして夜更け、頼光のもとに現れた怪しげな法師が自らが蜘蛛であることを明かし千条の糸を放って頼光を責めるが、名刀「膝丸」を抜いて返す頼光に背を斬られ退散する。 

                  智籌
                           怪しげな僧・智籌 じつは土蜘蛛の精魂
  

土蜘蛛の精魂は神武天皇への恨みをその子孫が治める世を乱すことで晴らそうとした。頼光に近づいたのは都の守を揺るがすためとひとまず解釈しておく。

土蜘蛛の精は血痕をたどり追ってきた武者たちと再び渡り合い、そして仕留められる。

「土蜘蛛」のあらすじは上のとおりで能・神楽・歌舞伎ともにほぼ共通している。その出典は平家物語のなかに見られ、さらにそれは日本書紀を拠り所にしている。では、蜘蛛の巣を掻き分けながらその先に入ってみよう。

平家物語によれば手負いの土蜘蛛は北野天満宮へと退いていった。特筆すべきは、北野天満宮に祀られているのが菅原道真であることだ。
当時、菅原道真の怨霊に対する人々の怖れは大きかった。文官としての最高位にあった道真を失脚・配流に追い込んだのは政敵の藤原時平、しかし時平はその後若くして世を去り、その後も時平を外戚とする皇族たちの病死、雨乞いの祈禱をする最中の内裏が落雷をうけ火事となり多くの死者が出たほかそれを目の当たりにした帝までもが病死する。重なる凶事を人々は道真の怨霊と結びつけ、それを鎮めんと北野天満宮を造営し道真の霊を祀ったのである。

    雷神
                               
                               北野天神縁起絵巻


「祀る」とは表向きはその霊をなぐさめるためであるが本来は霊力をそこに封じ込めるためと言える。道真の霊を是非とも封じ込めておきたかったのは言うまでもなく藤原摂関家である。

藤原氏は飛鳥時代以来、政敵を陥れて官職を奪いながら地位を固めた一族であり、古代史の政変に藤原氏がかかわらなかったことはほぼないといってよい。その傍らで女子を天皇家に嫁がせて外戚となり朝廷を意のままに操った。飛鳥・奈良・平安を通して藤原氏の謀った政変の最後に位置するのが安和の変(あんなのへん‐969年)である。
醍醐天皇の皇子として生まれるが源氏の家に降下した源高明はその高貴な身分にあわせ朝儀や学問に通じており、冷泉天皇の即位とともに左大臣に上り詰めた。しかしこのとき、冷泉帝の皇太子を選ぶにあたって争いが起きた。関白を務める藤原実頼と右大臣の藤原師尹が源高明のさらなる躍進(外戚となること)を阻まんと共謀し、源高明に謀反の疑いをかけこれを失脚させた。高明は菅原道真とおなじく大宰府に左遷、藤原師尹は右大臣から左大臣に昇格した。

しかし、安和の変の裏には実際に藤原氏に反逆する動きがあったという指摘がある。それに絡むのが頼光の父、源満仲である。

朝廷の支配の行き届かない山の奥で周囲とかかわりを持たずに生きる土着の民がおり、彼らはやはり土蜘蛛と呼ばれ蔑まれていた。源満仲は安和の変に乗じて藤原氏を倒すためこの土蜘蛛一族を謀反に抱きこみ武装させたという。しかし満仲は挙兵を断念、そればかりか保身のために謀反の存在を朝廷に密告したとある。朝廷を憎悪する土蜘蛛たちは今こそと決起したが密告を受けた朝廷に殲滅されてしまう。

頼光が土蜘蛛の精に呪われたのは父・満仲の所業への報いであったと囁かれもしたという。

源高明への疑いは濡れ衣であったとの見方が強いが、「源平盛衰記」には高明は東国に下り、先の皇太子争いに敗れた為平親王を奉じて挙兵しようとしていたとある。もしこれが本当であればかつて東国の受領を歴任しこの地の土豪たちとも縁が深かったであろう源満仲の存在がさらに重要になる。そして満仲が手を結ぼうとした土蜘蛛とは、先に記した常陸の国は茨城の土蜘蛛一族の末裔ではあるまいか。


もう一点、気になって仕方のないことがある。
能「土蜘蛛」の謡いのなかでの、もはや最後が迫ったと気を落とす頼光とそれを励ます胡蝶のやり取りが何やら妙に色っぽい。


〽色を尽して夜昼の。色を尽して夜昼の。境も知らぬ有様の。時の移るをも。覚えぬほどの心かな。


謡曲の解説書を見れば「色を尽くす」は「色々と手を尽くす」という野暮な対訳しかついていない。しかしわざわざ「色」ということばを使っているからには「色事」の意が係っていると採るべきであろう。さらに続く「夜昼の境も知らぬ有様」がそれをうけ強調している。夜昼を問わず色事に耽った末に病になったといってしまうのはやや下世話だが、頼光といえば鬼の首を切るほどの豪傑、それが蜘蛛の色仕掛けで骨抜きにされそうだとあれば聴衆もさぞや気を揉むことだろう。
数ある風土記に記された土蜘蛛の集団には、おそらくは巫女の役割をはたした女性の首領の存在が多く見受けられるが、これを土蜘蛛の精が美しい女の姿で頼光に近づいたことの原点とみてよい。歌舞伎では怪僧(じつは土蜘蛛の精魂)の役をつとめるのは女形というのが普通(そのときの興行によって胡蝶が出なかったり僧が出なかったり、胡蝶と僧と土蜘蛛の三者を早代わりで演出したりと色々)である。

土蜘蛛が歌舞伎になったのは近代になってからと先に述べたが能と神楽のそれが作られたのは古い時代にまで遡り作者も判っていない。当時の人々にとって土蜘蛛とはまだ伝説と化す前の記憶に新しい存在だったであろう。そして朝廷への帰属を拒み抵抗するもいずれは消え行く運命にあったことへの哀れみをひそかに覚えていたのかもしれない。その記憶が芸を通して受け継がれたからこそ、舞台で見得を切る土蜘蛛に惜しげない喝采が集まる。
 
明治以降、世が西欧化を推し進めるにつれ歌舞伎の世界も変革をせまられた。それまでの歌舞伎の筋を「非合理」「荒唐無稽」とし、近代国家にふさわしい「起承転結」が理路整然と表現されなおかつ不明瞭な時代考証が正されることを求められ「西洋人にも解るように」しようというのである。すなわち西洋人に解らないものは価値がないと言っている。この馬鹿げた発想は西洋から流れ込んだ新しい価値観を重視するあまりそれに合致しないものを完全否定した当時の風潮、いや政策に由来する。

その昔、遣唐使のもたらした大陸文化は日本を大陸色に塗り替えてしまった。これは後に明治維新をもっていまいちど繰り返される。遣唐使廃止を建白した菅原道真は讒言により失脚、その首謀者の藤原氏の祖をだどれば日本の律令化に貢献し日本書紀の「著者」でもある藤原不比等に行き着く。日本書紀以前の史書は不比等の父(中臣)鎌足によって蘇我氏とともにすでに闇に葬られていた。
藤原氏の策謀や朝廷の弾圧により生まれた怨霊・鬼を退治するはずの武士たちは、却って貴族たちから政権を取り上げ武士たちの治める国を作った。いま、日本の古典芸能とよばれるものが大成されたのは貴族の世ではなく武士の世であった。

歌舞伎のみならず日本の芸能は決してそのひとつの話では始終せず、それぞれに遠い太古から続くこの国の足跡が刻まれこれからの行く末をも映している。それを縦糸とすれば、横糸は話と話の間の切りようのない繋がりであろう。縦と横、限りなく広がる世界のたった一部を画のように切り取って楽しむことを、日本人は好んだ。それはみる側とみせる側の双方の魂が豊かであったからに違いない。長屋の子倅たちまでもが頼光と四天王に扮して遊ぶ、日本人たちはそのむかし、そんな国に生きていた。

そして明治、藤原氏の子孫たちは公爵として政界に舞い戻り西欧文化の輸入にいそしんだ。明治維新はそれまでの時代とのあいだに亀裂をつくった。土蜘蛛の精魂は時代の裂け目から這い出し、この時代を生きた天才戯作者・河竹黙阿弥の筆をつたってふたたび世を呪った。

          土蜘蛛



我を知らずや其の昔、葛城山に年経りし、土蜘の精魂なり。
此の日の本に天照らす、伊勢の神風吹かざらば、我が眷族の蜘蛛群がり、六十余州へ巣を張りて、疾くに魔界となさんもの


歌舞伎「土蜘蛛」より

「うつ」の構造

日本語の奥深いところに踏み込んでみたい。

我々の先祖がとおい昔に話していた言葉、「やまとことば」とは。
とても簡単に言えば大陸から漢語外来語が漢字と共に伝わる以前から我が国で使われていた言語である。
しかしこの説明では不十分、そのむかし最後の氷河期までは日本列島と大陸は陸続き同然であったために大陸の諸言語を祖語とする集団が絶えずこの地をめざしてやって来た事、あるいは南海の諸言語を祖語とする集団が船を巧みに操って日本に到達していたという事をふまえると当然やまとことば草創期は各国語の単語がひしめいていたであろう事になる。

解りやすい例が「ウマ」である。
日本列島には馬がいなかったとされている。この動物は訓読みで「ウマ」というがこれは漢語の「マー」が日本語化したものである。音読み「バ」「マ」も同様、元をたたどればマーになる。つまり大陸から離れる前の日本に大陸人が移動してきたとき傍らに馬を連れていて、それを見て驚いた倭人との間で

倭人 「こは なんぞや?」

漢人 「馬(マー)也。」

倭人 「んま?」

漢人 「是。」

などという会話を交わしたかはあくまで想像であるが、遠い処からやって来た物に和名をつけずそのまま外来語を受け入れたこともあった。
そして「馬‐ウマ」も立派にやまとことばの内にかぞえられる。

今回の話は何処から始めていいかよくわからない「輪廻型」のものなので唐突に馬の話などをしてしまったがお許し願いたい。日本人と馬の話はまた別の機会にとっておくとする。
日本人がいま日本で息苦しく暮らしているのはなぜか。それは日本の社会の現実と日本人の心の構造とがしっくりいかないからに違いない。もちろん無理を強いられているのは現実ではなく心の方だ。
ここで日本の社会についてどうこう言う前に、我々の心の構造はどういうものなのか思いを廻らせて見たい。やまとことばを道しるべに小さな旅をしよう。



「うつ」という音を持つやまとことばを追いかけてみる。

人が生れ落ち生きてゆく世を「うつしよ‐現世」といった。「うつしよ」では時が流れる。ひとは生まれてから死ぬまでという、必ず終わりの来る一定の時をここで過ごす。仏教の「此岸」のことである。その逆の「彼岸」は「とこよ‐常世」といった。「うつしよ」での人生を終えたものが行くところでここでは時が流れない。日本書紀や古事記、風土記などに書かれた「よもつくに‐黄泉の国」「根の国」はそれにあたり、浦島太郎が迷い込んだ竜宮城もこの「とこよ」であった。

「うつしよ」の「うつ」とは「うつ‐現」を意味する。目に見えるさま、いわゆる物質界を指している。

そしてそのさまは人の目に、水や鏡にうつる(映る)。人は五感を通して情景や色や香りを心にうつし(移し)、絵や文としてうつす(写す)。しかしこの目にうつる花の色はやがてあせる。なぜなら、時のうつろひ(移ろひ)がそうさせる。これが「うつしよ」の理である。

お気づきのとおり、「うつる」という何となく似た動詞が違った漢字で書き表されている。しかし我が国に漢字がやってきたのは日本語が出来上がってから後であるということを是非お心にとめていただきたい。古代の日本語は現代にくらべるととても少ない数の動詞が使われていたことになる。だがその中での微妙な違いを皆で共有し、わかりあっていた。漢字を巧みに使いこなし重厚な文章を作り上げるのとはまた違った奥深ささがあると思うのだが、いかがであろうか。


もうひとつの「うつ」、それは「うつ‐空」である。空っぽで空しいさまを指す。二つの漢字「空」と「現」、これをならべると似ても似つかない互いに無関係な言葉と捉えたくなるが、じつは不思議なほど通ずるものがある。

頭の中がうつけて(空けて、虚けて)ぼうっとした人間は「うつけもの」といわれた。人はある種の入れ物と捉えられていた。入れ物、すなわち「うつは‐器」であり、「あの人は器が大きい」などと形容する。
ではその「うつは」は何から何を隔てているのであろう。それは外から「うち‐内」を別けている。うつは(器)のうち(内)に湛えた水をうつ(棄つ)とうつろ(空)になる。太鼓や鐘をうつ(打つ)ことで音が鳴るのはうち(内)がうつろ(虚ろ)だからである。おもしろい。
建設現場でコンクリートを型枠に流し込む作業、もちろん近代以降の話だがこれも「コンクリートを打つ」という言い方をする。動詞「打つ」の同じような使い方は「布団を打つ」などに見られる。いずれも器となるものの内側に何かを充填することで物として成り立たせる働きを説く。さらに視野を広げれば「裏打ち」という今あまり聞かれなくなった言葉も見え、これには修理や補強、精進などの意味がある。物を作る、つとめを果すという目的を遂げるため計画的に行動することが「打つ」だろう。「芝居を打つ(人を騙す意ではなく芝居興行のこと)」「墨縄を打つ(大工などが木材に印をつける作業)」はまさにそれである。

人は死ぬとからだという入れ物から霊が抜け出し空っぽになると考えられていた。死ぬという事は霊が「うつしよ」を離れ、別の次元へと旅立つことである。現し世での器たる体は空ろになった。ここで「現」と「空」、ふたつの「うつ」が重なった。偶然ではない筈だ。


ひとのからだはたった数十種類の原子でできているらしい。そのような「物質」が、立って歩いて笑って涙を流す。恋をして、子を為して、裏切り奪い騙しもする。こんな不思議、いや不条理とも言えることが起こるのは人という器の内側に霊が存在するからである。

死んで霊が抜け出たからだは物言わぬ骸となり、あたかも蝉の抜け殻の如くただ塵となるのをまつのみである。うつせみ-空蝉の言葉の意味を辿れば「うつしおみ-現人」すなわち現世に生きる人に行き着く。蝉の抜け殻をそれに重ねあわせたのはいにしえの人々の聡明さであろうか、否、やまとことばと共に暮らしていた先祖たちにしてみれば「現」はもとより「空」であったことなど自然なことであったはず、 今を生きる我々からすれば驚きでしかないが。


さて、からだをはなれた霊はどこへゆくのであろうか。
信心によって言い方はちがう。あの世、彼岸、天国、時には地獄という。
遠い昔の日本では「黄泉つ国」あるいは「根の国」なる処へ行くとされていた。その国では時間の概念がない。死ぬまで、いや死んでも、いやもう死なないので時間が経つということがない。暑からず寒からず、四季の花が枯れずに常に咲き乱れているという。つまり四季もない、終わりもない、時のながれぬ「常世」である。

なぜ「根の国」といったのか、「根」の文字が地の底を思わせるために死後の世界が地下にあると解されがちだが筆者はそうは思わない。
そこに一本の木があるとする。その木には花が咲き、青葉が繁り、鳥や虫たちが棲み、秋にはたわわに実をつける。それも一度きりではなく何年も、何十年も繰り返す。実からこぼれた種からは自らの子が生まれ、うまく根付いてゆけばそこは林になる。
これはみな人の目に映る「現象」である。しかしそれを支える「根」の働きは見ることはない。目に映らない国、それが「根の国」であろう。

時がたてば花も葉も枯れて落ちる。棲み付いていた生き物たちもやがては土に還り溶けて根に迎えられる。先祖たちはそれを知っていたのか、うつしよでの時を終えたひとのからだは土になり、霊は根の国にゆくと信じられていた。

「こんなはずではなかった」
人生を悔やみながら死ぬと歪んだ霊となって根の国にゆくことになる。時代が降るにつれてそんな霊は増えていったことだろう。目に映るものに憧れ、それが手に入らないと知ると苦悩し嫉む、あるいは奪い取ろうとする。そして搾取や戦がおこり命が踏み散らされた。こんなはずではなかったと恨みつらみを抱えて根の国へと旅立った霊、それは根の国をも歪めて穢すことになる。

根が傷つき腐りだすと木には虫が湧き花も実もつけなくなる。それどころか芽を吹かぬようになり、枝を枯らし、なおも根腐れがすすめばすっかり枯れてしまう。目に映らぬところで起こっていることはこうして我々の前に姿を現す。いまの世の中は虫食まれ枯れるのを待つ木立ちによく似ている。


近代思想の「教え」では、現世という物質界こそ全てであり人は死ねば後には何も残らぬと、さらには現世での行いを裁くのは法であって神ではなく、そもそも天国も地獄も迷信であると説いている。目に映らない世界を切り捨てよ、と命じている。それに帰依してしまった人間は行いを正すことを忘れ、法にふれなければ、またその網をくぐりさえすれば何をしてもよいと解した。そして法などはいくらでも都合よく作りかえられることも承知した。弱い者たちから奪おうが、騙そうが、殺そうが裁かれない。あの世を顧みず目に映るものを追えば追うほどそれは酷くなる。しかし近代思想の屁理屈が何をほざこうと霊は間違いなく存在しからだを離れてもなお在り続けるのだ。霊は見えない世界に行って見える世界の根となる。

すべてはうつしよの絵空事、ひとにそう思い切ることができるのであれば苦労はない。容易ではないがしかし、そうと諦めねばならない。「あきらめる‐諦める」は何やら逃避を思わせる物悲しい言葉となってしまったがそうではなかった。もとは「あきらむ‐飽きらむ」、つまりこれで充分と「満足する」ことである。それによって煩いや迷いを打ち消し心の内を「明きらむ」ことができる。いとも不思議なことに「あき」の音は回りまわって「空き」にとどく。



もうひとつ不思議な「うつ」がある。
「鬱」、この漢字は「ウツ」とよむが訓読みではない。したがって普通に考えれば大陸語であってやまとことばではない。しかし「鬱病」はひとが己の「うち」側にのめりこむ病で、字源をみれば、木々の間で酒を醸すときに香草で「うつは‐器」を覆ってその香りを酒に「うつす‐移す」作業を描写したものとある。どうやらやまとことばの「うつ」と無関係ではなさそうなのである。
鬱の訓読みである「しげる」は草木が生い茂ることを意味し、その結果は「鬱蒼」とした森になる。また、日本でウコンとよばれる薬草は中国語で「ウッコン‐鬱金」、沖縄ではウッチンという。鮮やかに輝く黄色を意味するそうだ。鬱にはうちに秘められた力が外に向かってなにかを放つ、そんな語意が感じられてならない。その力がどのようなものであるかによって酒にも森にも病にもなりうるのではないであろうか。
冒頭で述べた「馬」と同様、「鬱」はやまとことばと大陸語の中間に漂うことばではないか、筆者は何となくそう思う。



かりそめの、うつしよでの時を終えた霊はいよいよ本当の世界へとうつる。その時によき霊となるか、悪しき霊となるかが今ここで生きているうちに試されていると思うことができれば、この世も少しはましになるだろう。

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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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