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キライなことば―「時間」

長きにわたり更新を休んでおりました。にもかかわらずご来訪を続けていただきましてまことにありがたく存じます。またご心配をおかけした事をお詫び申し上げます。体調を崩したりモサドに暗殺されたわけではなく日々の雑事に忙殺されてどうにも更新できずにおりました。しかしこの頃ようやく字を書くゆとりが見つかるようになりました。
そんな毎日を送るとどうしても「時間」について考えることが多くなります。そのような訳で更新再開にあたり時間についての記事をしたためました。よろしくお願いいたします。




ちくたくと均一に刻まれる「時間」に追い立てられながら生きる我々は、はたしてそれが何かを見切っているのだろうか。雁字搦めに縛られて振り回されていながら時間の正体が見えていないとすれば、これを悲喜劇と呼ばずして何とすべしか。

「時間」、これはかつてこの連作で扱った「自由」「平和」「健康」などと同じく近代以前の日本には存在しなかった語彙、すなわち明治の新語である。明治の新語とは開国と前後して西洋から我が国に流入した文物の対訳として新たに考案された語彙、或いは「詩経」などに代表される漢語文献から借用した漢語熟語に新たに意味を付け加えたものをいう。
日本には古くから「とき-時」という立派なやまとことばがあった。にもかかわらず"time"の対訳になぜ「時間」ということばが新しく必要になったのか、それを少し考えてみたい。

当ブログに初めて来訪された方のために一応申し上げれば、本連作は明治の新語とその背景にある近代主義をを否定的に扱うものである。

明治を迎えるまでの日本の「時」の流れ方は今とは違う。そのせわしなさを光陰矢の如しと喩えることもあれば一日を千秋の思いで待ちあぐねることもあった。
日の出(明六ツ-あけむつ)から日の入り(暮六ツーくれむつ)までを一日と考え、そして夜を一日のうちに数えることなく今日と明日の間の空隙と見なしていた。そのために夏と冬では一日の長さがもちろん違っていた。刻を知らせる寺の鐘も明六ツから暮六ツの間を六分割して打つゆえ鐘と鐘の間隔は季節による伸縮があった。時候の挨拶として日が長くなった、短くなったなどと使われるが、ここでの「日」とは日照時間のことではなく「一日」そのものを指していた。

つまり夏と冬では、また昼と夜では時の流れ方がそもそも違うのである。そして人の体と気も時の流れと呼び合うかの如くその働きを違え、人が果たすべき仕事の量も種類も変わる。陽の光ふりそそぎ草木生い茂る夏は人にも精気がみなぎり、疲れを知らず、迫る危難をものともせず、心の戸を外に大きく開いて長い一日を働きとおすことができる。夏は冬をやり過ごすための糧を蓄えるためにある。やがて来る冬は人に疲れを思い出させる。寒さに萎縮した体は気孔を狭めることで自らに壁を築いて寒気の流入を防ぎ保温を図る。自然と気もふさぎ内を向く。すると何かと億劫になり、重いものを持ち上げる気も起こらず、夏に手荒く扱った体を知らぬまに労わるのである。昼間は道具の手入れなどをしながら過ごし、夜は火のそばで早く床に就く。風邪などをひき熱が出れば古い細胞は壊れて生まれ変わる。冬はまた巡り来る夏にそなえ体と気を養うためにある。
そして冬に相当するのが夜である。日が沈めば家屋の戸を閉ざし、火を囲んでは夜明けとともに働きつめて疲れた体をねぎらい、明日にそなえて眠る。夜を冬、日の出を春、昼は夏、日の入りを秋になぞらえることができる。つまり一日と一年は相似の関係にある。

人の一生や国の興亡、時代、地球、宇宙、すべてはこの相似の輪のなかにあるだろう。生まれ、栄え、熟れ、そして滅ぶのである。凡そこの世に生をうけたものが滅するまでの猶予こそが各々にとっての「時」である。すなわち「時」は個々の存在にとっても流れ方が違い、そして必ずその始めと終りがある。


これに対し「時間」とはなにを指しているのだろうか。

かつて西洋において夜は悪魔の支配する暗黒世界と恐れられていた。民衆の本能的な恐怖心を逆手に取り、魔女や吸血鬼が闇夜に現れると吹聴しては魔女裁判や悪魔祓いの儀式により権威と利益を手にしていたのがカトリック教会であった。古代ギリシアの遺産でもある医術や天文学を神への冒涜と戒め、それを推奨しようものなら捉えられて刑をうけた。神の名を欲しいままに騙る教会の脅威から絶えず身を脅かされていた知識人たちは救いを教会とは別世界に在る科学に求めた。
果たして自然科学はその暗澹たる中世のとばりを破った。ランプの光に夜が隈なく照らし出されると人々は闇を克服し、日没から夜明けまでの空隙も社会生活に加えられることとなった。こうして不確かであった一日を昼夜あわせて二十四時間と定義しそれを六十分、六十秒と等分したものが「時間」である。この「時間」を座標の軸のひとつに見立て、速度・エネルギー・仕事・熱量などを算出するための次元としての役割を与えた。もとより得体の知れぬ流れであるはずの「時」を便宜上等間隔に切り揃え、均質かつあたかも実体を持つ存在のようにみせかけたもの、始点も終点ももたぬそれが「時間」である。わが国にも開国を待たず自然科学の波が押し寄せた。季節ごとに伸びては縮み人と共に歩む「時」は忘れられ、時計の刻む「時間」に管理されるようになる。

"time"はもとは詩的な意味合いが強い語彙であったが、より数学的な意味をルネサンスから産業革命期にかけて自ら獲得したといえる。しかしやまとことばの「とき」には数直線としての概念が明らかに欠けていた、いや、少なくとも開国までは必要がなかった。産業革命とその理念を我が国に輸入するにあたって初めてその必要が生まれたのである。歴史の授業では開国後の近代化・西欧化をさも美しく正しいものと教えている。しかし「近代化」の正体は日本を近代西欧の主導する産業経済の鎖に繋ぐための調教でしかなかった。そこで外来の価値基準を語る新しい語彙が多く必要になり、在来のことばはその居場所を失うこととなった。文化人と呼ばれる西洋かぶれたちがあらたな日本語を大量に製造した背景はこういったものである。「時間」も、しかり。

二十世紀以降またたくまに世界を席巻した資本主義経済は「時間」をさらに具現化することに成功した。それは生産という行動を貨幣に換算するための基準軸としてつねに「時間」を利用することによってである。生産に費やす熱量、電力量などのエネルギー(J = kg • m2/s2)は時間概念なしには算出できない。流通のための運賃も燃料のエネルギー消費量であり、また人の労動力は「労働時間」により人件費に換算される。在庫にかかる費用は倉庫の経費でありこれも時間がものを言う。生産品の開発から販売を管理する企業も同様、その人件費も維持費も時間によりはじき出される。市場にとって「時間」が季節や感情により伸び縮みするものであっては非常に都合が悪いのである。
自動車、飛行機、家電その他近代以降に開発された機器はすなわち利便性を追求するものである。利便性とは時間短縮と労働削減に他ならない。我々は生活する上であらゆる利便を獲得したわけだが、結局のところその対価を支払うために人生の時間のほとんどを労働従事に費やすことになる。
一方で生産者は生産効率を上げるため大量生産を図り、これを大量消費につなげるために「流行」なるものを自ら仕組んで消費者の趣向を一律に撫で付ける。流行は消費を煽り、より短時間でより多くの経済効果を生む。そして市場が十分に利益を回収すれば新たな流行に手綱を渡して自らを掻き消す。消費者は目まぐるしく立ち代わる流行に常に奔走させられる。こうなれば夏も冬もあったものではない。人は日も夜も問わずに馬車馬のごとく働くことで「時間」を貢ぎ続けねばならなくなった。



いにしへの、やまとことばの「とき」はいかなるものか。

過去から未来にかけて移りゆく、この不確かな、しかし決して逆に流れることのないものをわが先祖たちは「とき-時」とよんだ。
いや、こうして流れるもののひとつぶ、今の言葉で言う「一瞬」こそが「とき-時」であった。過去から未来にかけて移ろうそれを「とき-解き、溶き」、取り出したものは不変・不朽の「とき-常」である。それは決して変えることのできぬ過去であり、それは色あせぬ記憶でもあり、それは再び訪れることのない今でもある。ある「とき」からしばらく後の「とき」までを「ま―間」と言った。「つかのま」「ひるま」のように、領域を限定した時の流れをさす。「時間」という新語は「とき」と「ま」をあわせて創られた。
花が散らぬよう、緑が枯れぬよう、若きが老いぬよう願えどそれは決して叶わず、必ずや終りが訪れるという掟に従うしかないこの世をば、そのむかしは「うつしよ-現世、顕世」と、時が終りに向かって「うつろい-移ろい、映ろい、顕ろい」ゆくことに諦めをこめてそう呼んだ。そしてこの世での「時」が尽きた魂が逝く「とこよ-常世」は時の移ろわぬ、つまりは終りなき不変不朽の世界である。いま我々が「あの世」と呼ぶ世界のことである。
「とき-時、常」はこのように一瞬を示すことばでありながら実は永劫をも意味する。


「時」のはじまりについて考えてみたい。

ひとり一人の「時」は誕生することにはじまる。魂が「この世」に存在するための媒体つまり「体」に宿り、そこで人としての「時」が発生する。ではその舞台となる「この世」はいつ始まったのであろう。「この世」とは我々が生きるこの領域、またそれを含む宇宙全体、つまり「物質界」である。その始まりとはおそらくビッグバンと呼ばれる瞬間である。
ビッグバン以前は全くの、「時-とき」の流れも「空-うつほ」の広がりも持たぬ途方もない「無」であった。その状態から突如として陰と陽が発生し、「時」と「空」が拡張を始めこの宇宙=「時空」となった。我々は広がり続ける時空の中のつかのまの存在である。


「この世は神による創造物である」という一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム)に共通する考えに基うならば、時は神なるものが「無」からこの世を創造したその瞬間からはじまったとすることができる。宇宙の始まりを説いたビッグバン説は「きわめて神学的」として発表されるなり学会から非難をうけた。神を毛嫌いし現実世界からぜひ切り離したいと願う科学者たちが宇宙に始まりがあることを拒絶したためである。なぜなら仮に宇宙に始まりがあったとした場合その誕生の原因と理由が科学的に実証できねばならず、それができない以上は「神のみわざ」と認めるほかなくなるからである。近代科学の出発点が「神との別居」であった以上それだけは断固拒否せねばならなかった。だからこそ宇宙は始点を持たぬ超然とした存在(絶対空間)でなければならず、同様に「時間」にも始まりがあってはならない(絶対時間)。だからこそ「時間」をあくまで過去から未来へと均一に経過する始点も終点も持たぬものであることを主張した。  




草木、山海、雪月花、そして人、森羅万象がこの世に姿を留めていられるのは時が流れてこそである。生きとしけるものに血が流れるのも、日の光りをうけて緑が育つのも月の満ち欠けも時のうつろいに拠る。またそれを眼に映し、耳に鼻に聞くことができるのも光と音と香りが時に運ばれてこそである。思い悩んではまた悦ぶことができるのも意識が過去を記憶し未来を想定するからに他ならぬ。人体しかり路傍の石しかり万物を構成する最小単位は原子の粒、その粒こそは原子核の周りをさらに小さい電子が運動(古典力学では回転運動、量子力学では波動)することで成り立つ。運動とは物事が時にともないその位置位相を変えることである。ならば時が運動を、そして運動が物の存在を担保していることになる。

「時がとまる」と聞いて静止画像のような情景を思い描いてはいけない。それは単に流れる時空の瞬間値を記録したにすぎず、それを観測できるのは他でもなく我々が流れる時空に存在するからである。もし時がとまれば電子運動はとまり、原子の結合がほどけ、音も光も届くことなく、惑星の自転も公転も止み、惑星間にはたらく力は消えてこの世のすべてが一瞬を待たずに崩壊する。苦痛と恐怖を伴う壮絶な最後とはまた違う虚しくも悲しい終末である。これは「時」が物質界を成立させていることをうまく説明しているがおそらく原因と結果が逆である。時がとまってこの世が終わるのではなく、物質界が消滅するにあたって「時」が流れなくなるのであろう。ただしこの世の終りがいつ訪れるかは神のみぞ知る。


延々と続く縦糸に横糸をくりかえし渡して織られた一重の衣、この物質界をそのような織物にたとえるならば、その縦糸こそが「時」であり横糸を「空」になぞらえることができる。ここで言う「空」とは何らかの力によって秩序付けられる場である。磁場であったり重力場であったりするが、どのような場であれそれを秩序だてる力が作用するためには時の流れが必要である。「時」と「空」は両者ともに絡み合ってこそ存在することができ、どちらも単独ではただの概念でしかない。「時」とは何かを論ずるためにはば先ず「時空」ありき、「時」はその構成要素として捉えるべきである。


ビッグバン説が通説としての地位をほぼ築いた今日でも一般には時間と空間が別々に語られている。計算上はそれも必要だが、それは計算という架空の世界においてのみ成立するのであり実際はそうはいかない。我々が振りまわされ続ける「時間」の正体は、いわば計算上の必要によって敢えて独立させられた概念、ただの架空の目盛りである。そんなものに何故ふりまわされるかは時間が貨幣の影法師であるからに違いない。だが貨幣もまた実体のない数字の羅列でしかない。同じことである。

誰が言ったか「Time is Money」、この低俗な言葉を日本語に翻すのであれは「時間は金なり」とするべきである。時は金に非ず。


ちと寄り道をば。
やまとことばにおいて「織る(をる)」と同じ音をもち、かつ繋がりのあることばに「折る-おる」と「居る-おる」がある。
横糸を右に左に「折」っては返し衣を「織る」、もとより「折る」とは波が繰り返し寄せては返すさまから生まれた反復・継続を意味することばであり、月日や季節、人の生死が巡るさまをも含む。そして「折る」を「折り」と名詞に直せばまた「時」を意味することばとなるのが興味深い。
「居る-おる」の意は存在する、ある、いる、である。先に述べたようにこの物質界において或いは物質界そのものが存在するためには「時」の裏付けが不可欠である。この世に存在するということは時と空の双方から認知されることである。

「記紀」によれば、高天原の「忌服屋-いみはたや」では「天の服織女-あまのはたおりめ」たちが神に捧げる「神衣-かむみそ」を織るという。また高天原の統治者たるアマテラスは自ら神衣を織る服織女でもあったという。この「神衣―かむみそ」こそが時空つまり人の領域たるこの世を暗示しているのはなかろうか、じつはそんな予感を糸口に本稿をしたためた次第である。







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歌舞伎見物のお誘い―土蜘蛛

最近ではほとんど上演されなくなったというこの「土蜘蛛」、その理由は物語性に欠けるからだと何かで呼んだことがある。素人の意見であれば罪はないが、もしこれが専門家の論評だったとしたらちょいと待った。先生、あんたも土蜘蛛の恨みを買いますぜ。

「土蜘蛛」
                                「土蜘蛛」



時は末法の頃、千筋の糸を放つ妖怪「土蜘蛛」が一族の恨みを晴らさんと源頼光(みなもとのらいこう)を苦しめた。その妖怪退治譚がこの「土蜘蛛」である。見せ場はなんといっても白い蜘蛛の糸を模したなまり玉が美しい軌跡を描いて舞い狂う立会いの場面である。

この物語が歌舞伎として舞台に登場したのは実は明治になってからで、歌舞伎においては古典の中に数えられない。しかし題材とされたのは古典も古典、能の「土蜘蛛」あるいは「土蜘」である。能に取材して作られた歌舞伎芝居の背景は能舞台を模して羽目板に松を描いたものとするという決め事がある。このような芝居を「松羽目物」といい、勧進帳や船弁慶などもそうである。

江戸時代はもとよりそれ以前から能は舞うのも観るのも貴族や武士の特権であり庶民には禁じられていた。彼らに許されていた芸能に「神楽」があるが、「土蜘蛛」はこの神楽にも取り上げられている。さて土蜘蛛とはいかなるものか。

       
                  土蜘蛛の精


「土蜘蛛」が日本の文献にはじめて登場したのは古くも「日本書紀」と「古事記」(それ以前の文献が残っていないので仕方がないのだが)、つづいて諸国「風土記」に記載が見られる。いずれも朝廷の意にそわぬ集団すなわち「まつろわぬ者」たちである。

後の神武天皇カムヤマトイワレヒコがまだ天皇として即位する前、帰属を拒む土着の豪族たちを征伐しつつ覇権を東へと広げていった。これを古代史では神武東征と呼んでいる。土蜘蛛は記紀の東征譚のなかに書かれている。
まず古事記では「尾生土雲八十建―尾の生えた土蜘蛛ヤソタケル」とあり、八十建‐ヤソタケルとは単独の人名ではなく、八十建つまり「猛き者の群集」の意である。尾があるといういかにも未開な集団と表現されたこのヤソタケルをイワレヒコはだまし討ちにした。ヤソタケルに近づき宴を催して豪勢な料理をふるまうが、ある歌を合図に料理人たちがヤソタケルを討ち、倒したという。
そして日本書紀ではイワレヒコの大和地方征圧において新城戸畔(ニヒキトベ)・居勢祝(コセノハフリ)・猪祝(ヰノハフリ)の三者をさして「三ヶ所の土蜘蛛」との記述がある。ハフリとは司祭者または巫女を意味し、呪術性のある首長の存在を物語っている。記紀の後に書かれた諸国の風土記にも登場する土蜘蛛の多くは女性の首長が統治していたという。

それに続いて登場するのが葛城山の土蜘蛛である。

大和・和泉にかけてつらなる和泉山脈と金剛山地に「葛城山」と名のつく山が幾つかあるが、この地には朝廷が興る前から自治をする集団が、あるいは王朝があった。その民は胴が小さくて手足が長く、蜘蛛のようにな姿で歩き、洞穴の中で暮らしていた。彼らがやすやすと神武東征に屈するわけもなく激しく抵抗したという。
イワレヒコ(神武)は葛のつるで編んだ網をしかけてこれを誅殺し、この地が「葛城」とよばれる由来となった。因みに常陸国風土記にも登場する土蜘蛛伝説では茨のつるで編んだ網で土蜘蛛を退治しその地を「茨城」と呼ぶようになったとの記述がある。実に興味深い。

この葛城山の土蜘蛛の恨みが後の世によみがえる。黄泉から、還る。

汝知らずや、我れ昔、葛城山に年を経し、土蜘の精魂なり。
なお君が代に障りをなさんと、頼光に近づき奉れば、却って命を絶たんとや


謡曲「土蜘蛛」より

平安の時の世、権力を争う貴人たちの間では讒言と呪詛が絶えず、一方で都を繰り返し襲う災害や疫病は失脚させられ怨霊と化した者の祟りと恐れた。そのための加持祈禱や寺院建立、荘園の開墾と寄進は凶事とともに庶民たちを疲弊させた。そんな都において貴賎を問わず誰もが頼りにしていた存在、それが源頼光である。武芸を修め心身ともに磨き上げられた武人の握る刀には破魔の力が宿り、末法の世にはびこる悪霊を討ち祓うと信じられていた。

しかしその頼光までもが瘡(マラリア)に倒れた。

病床の人となった頼光を甲斐甲斐しく看る侍女の胡蝶は薬と偽り頼光に毒を盛る土蜘蛛の化身であった。そうとはっきり表現しているのは神楽のみで能と歌舞伎では仄めかすにとどめてある。そして夜更け、頼光のもとに現れた怪しげな法師が自らが蜘蛛であることを明かし千条の糸を放って頼光を責めるが、名刀「膝丸」を抜いて返す頼光に背を斬られ退散する。 

                  智籌
                           怪しげな僧・智籌 じつは土蜘蛛の精魂
  

土蜘蛛の精魂は神武天皇への恨みをその子孫が治める世を乱すことで晴らそうとした。頼光に近づいたのは都の守を揺るがすためとひとまず解釈しておく。

土蜘蛛の精は血痕をたどり追ってきた武者たちと再び渡り合い、そして仕留められる。

「土蜘蛛」のあらすじは上のとおりで能・神楽・歌舞伎ともにほぼ共通している。その出典は平家物語のなかに見られ、さらにそれは日本書紀を拠り所にしている。では、蜘蛛の巣を掻き分けながらその先に入ってみよう。

平家物語によれば手負いの土蜘蛛は北野天満宮へと退いていった。特筆すべきは、北野天満宮に祀られているのが菅原道真であることだ。
当時、菅原道真の怨霊に対する人々の怖れは大きかった。文官としての最高位にあった道真を失脚・配流に追い込んだのは政敵の藤原時平、しかし時平はその後若くして世を去り、その後も時平を外戚とする皇族たちの病死、雨乞いの祈禱をする最中の内裏が落雷をうけ火事となり多くの死者が出たほかそれを目の当たりにした帝までもが病死する。重なる凶事を人々は道真の怨霊と結びつけ、それを鎮めんと北野天満宮を造営し道真の霊を祀ったのである。

    雷神
                               
                               北野天神縁起絵巻


「祀る」とは表向きはその霊をなぐさめるためであるが本来は霊力をそこに封じ込めるためと言える。道真の霊を是非とも封じ込めておきたかったのは言うまでもなく藤原摂関家である。

藤原氏は飛鳥時代以来、政敵を陥れて官職を奪いながら地位を固めた一族であり、古代史の政変に藤原氏がかかわらなかったことはほぼないといってよい。その傍らで女子を天皇家に嫁がせて外戚となり朝廷を意のままに操った。飛鳥・奈良・平安を通して藤原氏の謀った政変の最後に位置するのが安和の変(あんなのへん‐969年)である。
醍醐天皇の皇子として生まれるが源氏の家に降下した源高明はその高貴な身分にあわせ朝儀や学問に通じており、冷泉天皇の即位とともに左大臣に上り詰めた。しかしこのとき、冷泉帝の皇太子を選ぶにあたって争いが起きた。関白を務める藤原実頼と右大臣の藤原師尹が源高明のさらなる躍進(外戚となること)を阻まんと共謀し、源高明に謀反の疑いをかけこれを失脚させた。高明は菅原道真とおなじく大宰府に左遷、藤原師尹は右大臣から左大臣に昇格した。

しかし、安和の変の裏には実際に藤原氏に反逆する動きがあったという指摘がある。それに絡むのが頼光の父、源満仲である。

朝廷の支配の行き届かない山の奥で周囲とかかわりを持たずに生きる土着の民がおり、彼らはやはり土蜘蛛と呼ばれ蔑まれていた。源満仲は安和の変に乗じて藤原氏を倒すためこの土蜘蛛一族を謀反に抱きこみ武装させたという。しかし満仲は挙兵を断念、そればかりか保身のために謀反の存在を朝廷に密告したとある。朝廷を憎悪する土蜘蛛たちは今こそと決起したが密告を受けた朝廷に殲滅されてしまう。

頼光が土蜘蛛の精に呪われたのは父・満仲の所業への報いであったと囁かれもしたという。

源高明への疑いは濡れ衣であったとの見方が強いが、「源平盛衰記」には高明は東国に下り、先の皇太子争いに敗れた為平親王を奉じて挙兵しようとしていたとある。もしこれが本当であればかつて東国の受領を歴任しこの地の土豪たちとも縁が深かったであろう源満仲の存在がさらに重要になる。そして満仲が手を結ぼうとした土蜘蛛とは、先に記した常陸の国は茨城の土蜘蛛一族の末裔ではあるまいか。


もう一点、気になって仕方のないことがある。
能「土蜘蛛」の謡いのなかでの、もはや最後が迫ったと気を落とす頼光とそれを励ます胡蝶のやり取りが何やら妙に色っぽい。


〽色を尽して夜昼の。色を尽して夜昼の。境も知らぬ有様の。時の移るをも。覚えぬほどの心かな。


謡曲の解説書を見れば「色を尽くす」は「色々と手を尽くす」という野暮な対訳しかついていない。しかしわざわざ「色」ということばを使っているからには「色事」の意が係っていると採るべきであろう。さらに続く「夜昼の境も知らぬ有様」がそれをうけ強調している。夜昼を問わず色事に耽った末に病になったといってしまうのはやや下世話だが、頼光といえば鬼の首を切るほどの豪傑、それが蜘蛛の色仕掛けで骨抜きにされそうだとあれば聴衆もさぞや気を揉むことだろう。
数ある風土記に記された土蜘蛛の集団には、おそらくは巫女の役割をはたした女性の首領の存在が多く見受けられるが、これを土蜘蛛の精が美しい女の姿で頼光に近づいたことの原点とみてよい。歌舞伎では怪僧(じつは土蜘蛛の精魂)の役をつとめるのは女形というのが普通(そのときの興行によって胡蝶が出なかったり僧が出なかったり、胡蝶と僧と土蜘蛛の三者を早代わりで演出したりと色々)である。

土蜘蛛が歌舞伎になったのは近代になってからと先に述べたが能と神楽のそれが作られたのは古い時代にまで遡り作者も判っていない。当時の人々にとって土蜘蛛とはまだ伝説と化す前の記憶に新しい存在だったであろう。そして朝廷への帰属を拒み抵抗するもいずれは消え行く運命にあったことへの哀れみをひそかに覚えていたのかもしれない。その記憶が芸を通して受け継がれたからこそ、舞台で見得を切る土蜘蛛に惜しげない喝采が集まる。
 
明治以降、世が西欧化を推し進めるにつれ歌舞伎の世界も変革をせまられた。それまでの歌舞伎の筋を「非合理」「荒唐無稽」とし、近代国家にふさわしい「起承転結」が理路整然と表現されなおかつ不明瞭な時代考証が正されることを求められ「西洋人にも解るように」しようというのである。すなわち西洋人に解らないものは価値がないと言っている。この馬鹿げた発想は西洋から流れ込んだ新しい価値観を重視するあまりそれに合致しないものを完全否定した当時の風潮、いや政策に由来する。

その昔、遣唐使のもたらした大陸文化は日本を大陸色に塗り替えてしまった。これは後に明治維新をもっていまいちど繰り返される。遣唐使廃止を建白した菅原道真は讒言により失脚、その首謀者の藤原氏の祖をだどれば日本の律令化に貢献し日本書紀の「著者」でもある藤原不比等に行き着く。日本書紀以前の史書は不比等の父(中臣)鎌足によって蘇我氏とともにすでに闇に葬られていた。
藤原氏の策謀や朝廷の弾圧により生まれた怨霊・鬼を退治するはずの武士たちは、却って貴族たちから政権を取り上げ武士たちの治める国を作った。いま、日本の古典芸能とよばれるものが大成されたのは貴族の世ではなく武士の世であった。

歌舞伎のみならず日本の芸能は決してそのひとつの話では始終せず、それぞれに遠い太古から続くこの国の足跡が刻まれこれからの行く末をも映している。それを縦糸とすれば、横糸は話と話の間の切りようのない繋がりであろう。縦と横、限りなく広がる世界のたった一部を画のように切り取って楽しむことを、日本人は好んだ。それはみる側とみせる側の双方の魂が豊かであったからに違いない。長屋の子倅たちまでもが頼光と四天王に扮して遊ぶ、日本人たちはそのむかし、そんな国に生きていた。

そして明治、藤原氏の子孫たちは公爵として政界に舞い戻り西欧文化の輸入にいそしんだ。明治維新はそれまでの時代とのあいだに亀裂をつくった。土蜘蛛の精魂は時代の裂け目から這い出し、この時代を生きた天才戯作者・河竹黙阿弥の筆をつたってふたたび世を呪った。

          土蜘蛛



我を知らずや其の昔、葛城山に年経りし、土蜘の精魂なり。
此の日の本に天照らす、伊勢の神風吹かざらば、我が眷族の蜘蛛群がり、六十余州へ巣を張りて、疾くに魔界となさんもの


歌舞伎「土蜘蛛」より

学問のすすめかた

日本の教育がどういうことになっているか、今となっては想像するほかないのだが。

トルコ人の主人と所帯を持って以来、そして子供を授かってからもトルコに住んで子供たちをトルコの学校に通わせることに何の疑問も抱かなかった。日本の学校教育に対する失望のあらわれだったとでも言おうか、今でこそ失望の所在を言葉にできるが若かった頃の自分にその術はなく、気がつけば三人の息子たちがここで学んでいた。

筆者の長男は高校一年生、家から少し離れたカイセリという地方都市で寮生活をしている。矢継ぎ早に試験があり、いつも夜遅くまで勉強しているという。
日本のそれに比べてトルコの教育がそんなに素晴らしいか、決してそのようなことはない。「受験」という名のもので振り回し子供時代をむだに忙しくする以外、意味はない。

より良い職に就いてより良い暮らしを手に入れる、そのためには良い教育を受けなければならない、そこまでなら間違いではなかろう。が、そのために競争を強いられ勝者と敗者が生まれるのではすでに間違いだ。なぜなら勝敗を決める側の人間に都合のよい世の中をつくることが出来るからだ。
子供のころの筆者は何度か引越しをしたためにそのつど学校がかわった。すると自分を取り巻く環境もかわり、成績や評価が変わることに気付く。前の学校でドンジリでも今度の学校では優等生、自分は同じなのにである。おかげで周りのだれかと競争をして成績という評価を得ることの無意味さを早くから知ることができた。人とではなく、自分と競えばそれでよいではないか。


トルコでは学校に必ず「トルコ建国の父ケマル・アタテュルク」の銅像を、教室には肖像を置くことが義務とされている。このアタテュルクはトルコの近代教育の父でもある。

                atatürk



第一次大戦に敗れたオスマン帝国は西欧列強により割譲され支配を受けた。彗星の如くあらわれたアタテュルクが軍を率いて列強を押さえ、独立を勝ち取りトルコ共和国を建国したのが1923年、その後アタテュルクは西欧諸国と肩を並べるために様々な改革に着手した。それまでのアラビア文字を廃しローマ文字が導入され、都市にも農村にも学校かつくられた。小学校で自ら読み書きを教えるアタテュルクの写真は子供たちの教科書に今も必ず載っている。

                           ata


つい最近までこの国の子供たちは学校で何を習っていたか、アタテュルクの生涯、独立戦争、トルコ共和国の歩み、などである。西暦、メートル法、人権、民主主義、「新しく、すばらしいもの」はすべてアタテュルクを通してもたらされたという。アタテュルク以前は原始時代と同じ扱いかそれ以下で、帝政が布かれていたころは世襲制による恐怖政治が行われ文盲であることを強いられた民衆は餓えと恐怖の中で生きていたと、それを救ったのが近代思想と民主主義であったと、それは皇帝を追い出したアタテュルクによって国民に与えられたと教わっていた。

「アタテュルク」を日本語に訳すと「明治維新」になりはしないか。

新生トルコにとって近代化を阻むものは「信仰」であった。なぜなら、オスマン帝国の大義名分はイスラームの庇護にあった。政治も法律も教育も経済もすべてイスラームによるものであり、イスラームのためのものであった。民衆のイスラムの神に対する信仰心を破壊しないかぎりは「アタテュルク」を神格化できなかったからである。
近代国家である以上は信仰の自由を認めなければならない。禁教のかわりに行われた様々なイスラム蔑視は教育の場にも持ち込まれた。

「アタテュルクと預言者ムハマンドが川で溺れていたらどちらを助けるかい?」

教育省から学校に派遣される監視員が小学生にこう聞くと、子供たちは「アタテュルク」と答えねばならなかった。さもなくば担任教師と校長が処罰され、それから逃れるには子供たちにそう教えるしかなかった。保身のためのアタテュルク至上主義教育がいつしか常識と化すにはさほど時がかからなかった。

ハリス


半世紀ほどのずれがあるものの、明治維新とトルコ建国の背景、そしてその後の道はあまりにも似ている。日本には一神教の国にあるような明確な「神」はいない。しかし我々にとってのその存在は先祖であったり、山や海、大岩の内に見出すことのできる自然の秩序であるといえる。その仲立ちをしてきたのが祭司そして神社であった。明治新政府が国家神道の名のもとに推し進めた神社合祀はトルコにおいてのイスラム阻害と同じ目的を持つ。心のよりどころであった神々は「整理統合」され、このさき何を信じるべきかは尋常小学校でしっかりと教えられた。

日本人と、先祖から受け継いだものとの間に亀裂が走った。その後は音をたてて崩れていった。

「文明」という服を着た近代思想は格好がよく洒落ていたのですぐに歓迎された。だから近代思想とは一皮?けば暴力と軍事力にものを言わせて好き勝手をする「戦争屋たちの理屈」にすぎないことに気付くものはいなかった。いたのであろうが、いないことにされた。文明開化の演出をしたのは福澤諭吉とその仲間たちであった。

                  学問のすすめ
       

現代トルコ語の中に存在するアラビア語・ペルシャ語の語彙は英仏の外来語にとって替わられれ、今では外来語なくしては会話が成り立たないほどになった。そのため人々は生活の規範であるクルアーンを読めなくなり、読めたとしても意味が汲めなくなってしまった。若くとも敬虔な信者たちは社会から抹殺された。実際には投獄や拷問による獄死も横行していた。教義にのっとり髪をスカーフで隠した女性は職に就けず、大学には入試すら拒まれた。高校は普通科の他に職業(商業・工業・宗教)高校があり、職業高校を出た学生は大学受験が不利になるよう入試の際の得点を割り引かれた。


近代思想の崇高さは叩き込まれたものの、近代思想とは何なのかは誰も理解していなかった。


ここまで露骨にイデオロギー教育がなされていれば多くの者がおかしいと思うはず、トルコにとって結局はそれが救いとなった。9.11テロが契機となり西欧主導の近代思想の馬脚が見え始めると、それまで口を閉ざし、目を閉ざし、息を殺していた者たちがようやく立ち上がった。
独立後90年間この国の舵取りをしていた旧政権は倒され新政権は膨大な矛盾の解消に着手し、もちろんその筆頭には教育があった。国を貶める歪んだ歴史教育を廃し、近代史の年表とアタテュルクを讃える詩を暗記させるのみの指導法は通用しなくなった。

ここまで順調に進んだことは評価するべきである。が、その先は簡単ではない。むしろ教育があさっての方向に歩き出すおそれがある。

なにしろ近代史の年表とアタテュルクを讃える詩を暗記させるのみで事が足りていたのである。
生徒の前で威張り散らすだけでも給料と年金を保証されていた教育者たちは政権が変わったぐらいでは変質しないのだ。例えば中学校の社会の教師はアタテュルク史以外は知らなくて当たり前、試験で問われるお決まりの項目を繰り返していればよかった。それが急に古代帝国の興亡からオスマン帝国の足跡、地理史まですべて網羅せねばならなくなり、生徒たちの成績という形で逆に自らたちが評価されるようになってしまった。他の教科も状況は同じ、大混乱である。
教師たちが不名誉を免れるためにやることといえば、生徒の尻を叩き、競争させて点数を取らせる程度、子供は被害者のままだった。「競争原理」が加わったことでさらに悪くなった。


高校はもはや大学受験の予備校としか捉えられていない。では大学は何の予備校なのだろう、トルコにはこんな諺がある――利口な子には仕事をさせろ、馬鹿な子は学校にいかせろ――。


敗戦し、西欧列強によってたかってむしりとられている最中のトルコに突然現れたたった一人の軍人が本当に国を独立に導くことができるのだろうか。戦費をどこでどうやって調達したか、愛国心だけで勝てるのか、そんな事を考えさせないためには考える力を削ぐのが一番早い。そのために教育が、学校がある。
ともあれ一足先に誕生していたソビエトと、中近東とヨーロッパの間に位置するこの国の、かつての西欧寄りの政治を見れば盾として使われてきたことは明白である。

ソビエトの誕生も日露戦争が大きく関わっていた。本当は資金などなかった日本に戦費を融通してまで開戦させたのはアメリカのユダヤ人だった。二つの大戦に参戦したのも戦後の復興も外から仕組まれててのことだった。学校はそれを知らしめぬためにある。


いま、ともに教育を含む改革を叫ぶ両国で、このさき競争原理から踵を返し人の世をつくるための政治に立ち戻る可能性のあるのはトルコであって日本でではない。改革の骨組みが違いすぎるのである。近代思想が踏み砕いたものをイスラム回帰によって繋ぎ合わせているトルコに対し、目先の不満にとらわれて指導者を乗り換えつづける日本が同じ失敗を繰り返してしまうのは当然である。先祖たちが築いた共同体の根底にあったもの、自分たちに流れる血の中にあるものを見据えてゆかない限り不毛である。そうでなければ一つの国が国として成り立つはずもなく、政治屋たちの醜い争いの泥をかぶるだけで終わるだろう。国旗や国歌を道具にして改革を謳う輩には特に気をつけなければいけない。なぜなら、「象徴」が眩しければ眩しいほど中身が見えなくなるからである。



改革が行われるのを待つ間にも我が子たちはどんどん育ってしまうのだ。そしてその改革が良いほうに進むとは限らない。だからこそ親たちが正気を失ってはならない。


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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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