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ラマダーン 断食月

イスラム世界は去る7月20日を以ってラマダーン-断食月を迎えた。星降る新月の夜から30夜数える次の新月までのあいだ、日中の飲食を絶つ。今年の断食月は夏の盛りにやって来た。

イスラム教国はみな、西暦とヒジュラ暦の両方を使っている。行政は西暦に沿って行われ、信仰に関わる行事はヒジュラ暦が用いられる。
日本の旧暦とおなじく太陰暦であるヒジュラ暦は新月から新月をひと月(平均29日半)とするために西暦よりも11日ほど早く一年が終わってしまう。しかし閏月を設けずに数え続けるので季節は次第にずれてゆく。33年で、一巡する。


断食といってもひと月丸ごと飲まず食わずで過ごすわけではない(無理)。教義にもとづいて飲食から遠ざかるのは空が白みはじめる時刻から日の入りまでである。モスクから響くアザーンの声がその時を知らせる。日没とともに飲食の禁は解かれ(イフタール)、一杯の水から食事を始める。そして真夜中にまた食事をとり翌日に備える(サフール)。

夏は日がながいので断食する時間も長くなる。ここトルコでは毎日およそ18時間、真昼は40℃の猛暑、今年を挟んだ数年は最もしんどい断食月を過ごすことになる。逆に南半球の国々では真冬である。こちらで渇ききっている頃にあちらでは寒さの中で空腹に耐えていることになる。そして16年ほど経てばこの季節は逆転する。なぜか公平にできているこの仕組みは地球が丸いことなど知られていなかった時代から守られている。


仏教の世界でも座禅や無言の行などとともに断食は精神修養のひとつにかぞえられており、日本人からしてみればそれほど受け入れがたい習慣ではなく一般人でも専門家の指導の下で体験できる。そして断食は体の働きを整えることもよく知られている。しかし大きな違いは、日本では断食がもともと僧の修行としての色が濃いのに対し、イスラームのそれは教徒すべてに義務として課されていることである。

断食の義務はイスラム教徒としての自覚が持てる年にまで育った男女のうち体と心に病がない者にあるとされる。妊婦や乳飲み子を持つ母親はその限りではなく、母子のどちらかに害が及ぶようであればしなくてもよい。産褥期と月経中の女性は体調に関わらず断食しない。日中も薬の投与を続けなければならない病人、断食することで回復が遅れる病人、怪我人、また虚弱者も断食してはいけない。そして気のふれたものが断食をしても、させてもいけない。

イスラームの断食は、クルアーンに神がそう望んだとのみ記されておりなぜ行うのかは触れられていない。もとより神の望みに勝るものはなくその理由を突き詰めるなど畏れ多いことではあるが、単に飲食から遠ざかるだけの行事と捉えていたのでは意味がない。

日没までの断食をどう感じるかは人それぞれ、しかしどんなに辛かろうが終りがみえている。日が沈めは食べ物にありつけるのだし、なにより断食月は次の新月になれば終わるのだ。いつ終わるか知れぬ飢えに苦しむ者たちがいるこの世、たったひと月の断食で彼らとその苦しみを「分かち合う」ことなどできまいが、しかし少なくともそれに思いを馳せることはできよう。ここが断食の入り口である。

一杯の水に喉が鳴る。これを堪えることができるならば、もはや奪うことから遠ざかることができる。
あと少しで日が沈む。これを待つことができるならば、もはや目先の欲に狂うことはない。
内側にある「欲」が爪を立てる、この獣を飼い慣らすことができれば、人の道を違うまい。

人々はそれを試されている。



心のありかの体はどうか。

心にくらべて体のほうはもっと賢くできている。十数時間の断食は最初の数日こそ堪えはするがその後はすんなりと慣れてしまう。消化器も泌尿器も、限られた水分と栄養で一日をどうやりくりするか勝手に考えてくれる。白く乾いてしまった唇も三日もすれば元に戻る。

中が空になると胃は何か溶かすものはないかと盛んに働き出す。このときの違和感が空腹感である。溶かすものが見つからないとやがて停止する。腸も胃が動かなければ仕事をやめる。食べる暇がなくて空腹をやり過ごしてしまうのはこれである。しかし自らを維持するために常に栄養を求める体は胃腸からの栄養補給に見込みがなければ別の行動に出る。

血や臓器の中の脂肪や毒素を分解し栄養として消費し始める。体に停滞し濁った水分を絞り出す。

たとえば日本の子供たちの多くは空腹を知らない。それだけ食べ物が有り余る証拠だが、過剰な栄養を摂り続けた子供たちの体には消費しきれなかった養分が居座り、その子の体のつくりによって肥満や虚弱、あるいは病の種となる。いずれ成長した彼らはすでに物騒なものを体の中に抱えており、その体がいつ襲われようが不思議ではない。さまざまな成人病、あるいは癌がそれである。

ほとんどの病は生活習慣病であって、癌を体質だの遺伝だのとするのは大きな誤解である。遺伝するのは体の特徴であって癌ではない。生まれた後の悪習慣に作られた毒素が親から受け継いだ体の弱いところを選んで虐め、そうして病をつくる。体質などというものは自分の体をよく知ってさえいればいくらでも作りかえられる。
月経中や産褥期の女性が断食を許されないのは穢れた存在として差別しているというのもまた誤解である。この時期に古い血は失われ新しく作られる。すなわち体の浄化が行すでに行われている最中に無用な負担をかけないためである。


「たべる」こと、人にとってこれほど重要なことはない。
しかし今やこの行為と上手く付き合うことのなんと難しいことか。世界を見れば、戦争や旱魃あるいは貧しさからひもじい思いをする者の数と、そして飽食による肥満と病に悩む者の数はほぼ等しい。この世から飢餓をなくすためと銘打たれて世に出た遺伝子組み換え食品はその恐ろしい正体が暴かれつつある。農業から離れた市民は地球の裏側から農薬でまぶした食べ物を買い付ける。食品産業は消費者の味覚と視覚を刺激するために手をつくし、その後は医療産業がいろいろと手をつくしてくれる。そのときにはもう限られたものしか口にできない。
かつては土地のもの、季節のものしか手に入らず、収穫期には冬を越すための保存食を家々で作った。食べられないところは牛にやるか、肥やしにするか、乾かして焚きつけにした。
かつては医者もいなければ、病人もそれほどいなかった。

断食には、身に余るものを使い果たし、血を清め、穢れを体から押し出す力がある。
日没までに幾度か感じる空腹などは、そのときに体の悪が退治されていることを思えば、心地よい。

しかし胃や腸の壁が荒れている人はこの退治がはじまる前に降参してしまう。胃腸が自身を溶かしだすからである。言うまでもなく胃腸の荒れは生活の荒れの現われであり、ここを正さない限りは始まらない。だから酒や煙草、過食、好色、過眠、怠惰、体に害を為すほど働くこと、悪感情を抱くこと、これらはクルアーンに「避くべきこと」として記されている。この世で生きるための体は神からの「預かり物」であり、それを粗略に扱えば病という形で罰が与えられる。それでも悔恨せぬ者はあの世でさらに痛い目をみると、そう記されている。

絶えず何かを飲み食べする、煙草が離せない、そういう癖があると人よりも辛い思いをする。断食の辛さは日ごろの悪癖の裏返しとも言える。そして夜明けの礼拝を欠かさない者は食事のために真夜中に起きることも苦にはならない。

そして日没、空になった胃袋は思ったほど食べ物を受け付けられない。まず水を飲み、そして水分の多い食事を少量とる。胃腸を疲れさせないよう獣肉や卵はなるべく避けチーズやヨーグルトなどの発酵食品をえらぶ。野菜と果物は季節のものを摂るとよい。夏、スイカやきゅうりの繊維は腸にとどまり水分を長時間保持してくれる。体を冷やす夏野菜を天日で干すとその効果が 逆になり、冬に体を温める食材になる。そして柑橘類は冬の渇きを潤してくれる。

そのひとくちを噛みしめるたび、日々の糧に感謝を、そして事欠く者たちのために祈りをささげる。



世の中を人の入れ物と考えるとどうなるか。

働いて富を得ることを悪とはしておらず、むしろ奨励するのがイスラームである。ただしひたすら蓄財することは堅く禁じられている。世の中の富とは体にとっての栄養のようなものであり、滞れば脂肪や病巣にしかならないのである。富めるものは喜捨(ザカート)をして弱者を助け、寺院や学校、井戸や道を作らねばならない。そこで雇用がうまれればその富は分配されて世の中が成長する。弱者たちは世の中に守られる。

富める者、力のある者が欲に任せて富を掻き集めれば、弱い者は虐げられ彼らの中にも恨みの火がともる。それは鎖となり世の中は腐れゆくだろう。だからこそ神は富を吐き出すことを命じている。

断食月のあいだ人々は貧者に施しを惜しまない。近所衆や親戚のなかで困っている者はいないか、食べられない者がいないか調べて助け合う。モスクの前の広場には仮設の食堂が設けられ、誰かしらの寄付によって毎晩のように食事が振舞われる。日々の暮らしに事欠かない者たちも勿論この食事に加わることができる。賑わえば、賑わうほど神は喜び、あまたの加護が降り注ぐからである。

常に神の加護を求めて行動することこそがイスラームの根本であり、どうするべきかはクルアーンにすべて記されている。厳しい修行で悟りを開くことは求められておらず、生き方に対する回答を最初から与えられている。どうあるべきかは預言者ムハマンドの生涯がその手本として示されている。

「ラマダーン」は「断食」そのものと解されがちだが元は太陰暦第九月の呼称である。六世紀の終わりにメッカに生まれたムハマンドは毎年ラマダーン月になると山の洞窟で瞑想をするようになっていた。610年、齢40を迎えたムハマンドがこの年も洞窟に篭っていると、ジブリール(大天使ガブリエル)があらわれてムハマンドが神に預言者として選ばれたことを告げ、そして最初の啓示が与えられた。ラマダーン月も終わりに近づいたある日のことである。その後22年にわたりムハマンドを通してこの世にもたらされた神の啓示をまとめたものがクルアーンである。イスラム世界は今もこの日の前夜を「宿命の夜」と呼び深い祈りのなかで朝を迎える。ひと月近い断食が終わろうとする頃、醜い穢れが拭い去られようとする頃である。

クルアーンは決して難解な書ではない。イスラム教国に生まれさえすれば誰でもその文章を理解することができる。しかし文章を解するのと心のなかに刻むことは同じではない。石油太りで身動きのとれない王族も、痩せた体で痩せた土を耕す民衆もいずれもイスラム教徒である。欲に羽交い絞めにされた心は、蝕まれた体に逆らえない心は、富を生み出すためだけにある世に生きる心は乾き萎縮し固く閉ざされる。そこに何かが沁みわたる筈もなく、父の声、母の声さえ届かない。ましてや姿の見えない神の声がどうして聞こえようか。


「人々よ、なぜわからぬのか」「いつになればわかるのか」

預言の書クルアーンは始終そう問いかける形で書かれている。あたかもこの世が神の望まぬ姿に向かって変わりつづけるであろうことを示すかの如く。それがこの世の宿命であるならばそこに生きる人も宿命を共にする他ない。しかし逆らい得ぬ宿命の中にあっても神の加護を求め穢れを断ち切ろうとする者たちは必ずや、あまねく慈悲につつまれるであろう、クルアーンにはそう記されている。


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もものはなし

そろそろ桃の花が見ごろであろうか。散ってしまったか。


日本が旧暦に従っていたころは月初めは新月、月中は満月、そして次の新月で月が改まった。すると一年365日には11日ほど足りない計算になる。それが三年たまるとおよそひと月になり、その足りない分を「閏月」として四年目のどこかに挟み込む。今年はその年にあたり次の新月から「閏三月」が始まる。

なにせ三年分のずれが立て込んだ年である。先月末の旧暦の桃の節句でも桃の花盛りにはちと早かったのではないだろうか。ましてや新暦の三月三日に店先に出回る桃の花などは、どこの誰かであろうか。


桃と日本人の関わりは深く、古くは縄文時代の遺跡からも桃の種が見つかっている。大陸から伝わったというのが定説であるが日本在来種があったかなかったかはまだ結論が出ていないという。


遠い神代の昔、イザナギとイザナミの頃から桃の話が残る。
古事記によれば、息絶えたイザナミを忘れることが出来なかったイザナギは恋しい妻を黄泉の国まで追い、姿のみえぬ暗がりの中で会うことができた。そしてどうしても戻れと聞かない夫をイザナミは決して見てはならぬと制しそこに待たせた。しかし待てど暮らせど来ぬ妻にしびれをきらせたイザナギは禁を犯して灯をともし、雷神の纏わり憑く変わり果てた妻の姿を見てしまう。恐れをなして逃げだしたイザナギをイザナミに仕える黄泉醜女(ヨモツシコメ、力士のような女)が追い迫る。髪飾りや櫛を投げると山葡萄や筍に変わり、醜女がそれに喰いついている隙に逃げる。が、イザナミはさらに雷神と黄泉軍(ヨモツイクサ、黄泉の大軍)を遣わして負わせ、イザナギは剣を後ろ手に振りながら猶も逃げる。黄泉比良坂の坂本(登り口、つまり黄泉国は地下ではなく山の上であった)に着いたとき、イザナギがそこにあった桃の木からもいだ実を三つ投げつけると追っ手は退散したという。


「汝、吾を助けしが如く、葦原中国(アシハラノナカツクニ)に有らゆる宇都志伎(ウツシキ)青人草(アヲヒトクサ)の、苦しき瀬に落ちて患ひ愡む時、助くべし。」と告りて、名を賜ひて意富加牟豆美命(オホカムヅミノミコト)と号ひき。

―我を助けたように、葦原中国(日本)にいる此の世の人々が苦しいときや患い悩むときに助けるべし―イザナギはそうのたまい、オホカムヅミノミコト‐大神実命の命と名を与えて呼んだ。


イザナギを助けたものが桃であったと古事記に記されているからには、桃に秘められた力に人々が助けられていたと考えることが出来る。そしてその力とは他の木の実ならぬ桃にのみ見出すことができたのであろう。


苦しいときや患い悩むときに助けになるのは先ず薬。実はもちろんのこと種にも葉にも花にも薬としての効果がある。
整腸のために薬草を食べるなどの本能は動物たちでも持ち合わせている。しかし人間は草木から単に治療や滋養だけではなくより深い何かを求めた。それは病や死などの穢れを遠ざけ、人に生きて命を継ぐ力を与えてくれる霊力であった。

枝も折れんばかりに実をつける桃は豊かさの象徴であった。
桃に限らずマ行の音ではじまる「やまとことば」には「生産」や「増加」の意味が多く見当たり

ス(増す)、ル(丸、円)、ユ(繭)、(実、身、三)、ツ(満つ、蜜、水)、ス(産す)、ツ(持つ、物)、チ(望、餅)、モモ(桃、百)

などをすぐに挙げることができる。また、女を意味する名詞もマ行の音を含むことが多い。

(女、雌、妻、妾)、ヒ(姫)、イ(妹)、オナ(女、嫗)、ノト(乳母)、イザナ

「女」とはあらゆる意味で生産の担い手である。花の色、身のかたち、いずれも「女」を思わせ、そして子供である「実」をたわわにもたらす桃の木に霊力を感じないわけにはいかぬはずである。

黄泉の国の軍勢が生産のしるしたる桃の実を嫌がったのも無理はなさそうだ。

さて、気になるのは桃の保存方法である。古代人は我々とは違い収穫したものを腐らせることなどはしなかったはずである。
木の実には栗や椎の実のようにそのままとって置けるものと、干し葡萄や干し柿のように乾燥させるもの、梅のように塩漬けにできるものがある。しかし桃はそのままでは腐ってしまう。日差しが強く乾燥した国でも干し桃というものがないところを見れば日本では尚更むりであろう。塩梅ならともかく、塩桃などはどう考えても美味くない。蜂蜜漬けはできたかもしれないが大量の蜂蜜を使ってしまうことになるので理にかなわない。

おそらく唯一の保存法は果実酒、娘たちが桃の実を噛んでつくる口噛み酒ではなかろうか。
酒造りは神事であり神々のためにつくられる。そして人々は一旦神々に捧げられた酒を下賜されるかたちで口にする。酒は人の心を楽しませ、疲れを癒し、薬でもあり、あるいは我を忘れさせ心を惑わす力もあった。これらは神々の力によるとされていた。

話をわざとそらすと、スサノオがヤマタノオロチに飲ませた「八塩折之酒」は何度も繰り返し醸造させた強い酒であった。日本書紀に「汝、衆(あまた)の菓(このみ)を以ちて…」とあるように、米から搾った酒ではなく「あまたのこのみ‐いろいろな果実」の酒であることが窺える。桃はその中にあったのだろうか。ヤマタノオロチが甘い桃の酒でへべれけになったことを思うのもまた面白い。


桃の節句は大陸から伝わった五節句のひとつ、上巳にあたる。
唐の歴法によれば奇数が揃う三月三日や五月五日などの日は邪が近づくとされ、それを祓い清めるために川にはいり禊をおこなう「避邪」の風習があった。その暦法は風習をも伴って日本へとやってきた。当時の日本での三月三日はちょうど桃の花が咲く頃、上巳は古代日本の桃の霊威への畏れと重なり「桃の節句」と相成った。平安貴族たちは上巳のならわしとして紙を切り抜き自らに見立てた人形に穢れをうつし水に流す「流し雛」をおこなった。まだヒト(人)に満たない小さなものをヒナ(雛)という


やまとことばの「母音が変わる」という特徴を考えればモモ(桃)はミミ(三三)と関わりがあって不思議ではない。そういえばイザナギが投げた桃の数も三である。桃が生産の象徴であるとするならば、その前提には夫婦がなくてはならない。神前で夫婦の契りを結ぶ三々九度の杯も三に三を掛けたもの、偶然なのだろうか。

最初の夫婦神はイザナギ・イザナミではない。古事記によればイザナギ・イザナミよりも前に生まれたウヒジニ(宇比地邇)・スヒジニ(須比地邇)がそうであり、それぞれ泥と砂の神性を持っていた。そして人形の祖は土偶や埴輪であった。紙という貴重品を流し雛として使う以前には泥の人形を流していたのではないだろうか。

これらが複雑に絡み合い、雛祭りの基になったのではなどと思う。

                ひなまつり


本題である。暦とは年や月や日を番号で整理する方法ではない。天体の運行で日々変わり続ける磁力や重力、日の光、潮の動き、草木が目覚め育ち実をつけまた眠る律動を知るための術である。それを読み人々に告げるのはスメラミコトたる天皇の為すことである。

明治六年の「改暦」を以って旧暦は廃されグレコリオ暦(現在の暦)が施行された。同時に五節句も国の行事から外された。そうして日本は目出度くもない日を祝い、咲くはずのない花を供え、穢れを祓うことを忘れた国となった。自然の力に生かされていることを思い出さなくなった。
外国と付き合うための改暦であれば節句や正月という国の大事まであっさり変える必要が何処にあろう。これは偶然ではなく、故意である。日本の国を資本主義帝国に取り込むためには自然との共生を旨とした江戸時代までの日本人の生き方が邪魔だった。それを根底から突き崩すために作られたのが「明六社」である。‘

このようなことは「識者」たる方々が考え主張して然るべきであって、れっきとした無識者である筆者が書きたてることなどではない。ところが皇室の行事も神社の神事もみな一向にグレコリオ暦によって為されている。愛国者を名乗る政治家は国歌と国旗を振りかざすが、それだけだ。まったく以って理解しがたい。

                         
                    三日月



新月をついたちとする旧暦では、毎月三日目の月は三日月となる。
三日月は上弦、晴れていれば、日の入りの頃の西の空には地に向かって弓をひく三日月が見えるだろう。そして今年は閏年。来る新月に閏三月がはじまり、今年はもういちど上巳がある。それは新暦四月二十四日である。
その昔、桃の木で作った弓には穢れを祓い幸を呼ぶ力があるとされていた。

願はくば ももの弓もて祓はれむ 霞ヶ関の 痴れものどもを

いわし しめなわ おにはそと ― 節分

さて、まもなく節分がやってくる。節分とは父親が豆をぶつけられる日ではない。

立春、立夏、立秋、立冬は「節」とよばれ、それは新しい季節を迎える日でありその前日が「節分」であった。季節の変わり目に入り込む邪鬼を追い払う儀式である追儺(ついな)の風習が飛鳥時代から奈良時代初期にかけて中国から暦学とともに伝わり宮中行事として定着した。日本では春の始まりである立春が特に大事にされ、その前日には炒り豆を撒いて鬼を追い払う行事が「節分」という名で今も残る。明治の改暦後に正月をはじめとするあらゆる行事が西暦に直された中でこの節分は古い暦に基づいて今も続いている。

明治以前、我が国では新月から新月を一ヶ月と考え、新月が月初め、満月を月中、次の新月の前を晦日として数えた。そして立春に一番ちかい新月が「正月一日」であった。

ここで今では考えにくいことが起こる。その歳によって、節分が正月の前であったり後に来たり或いは同日になったりするのだ。これは一ヶ月を月の満ち欠け(月の公転周期)で勘定しているのに対して「節」が太陽の運行(地球の公転周期)から導き出されているために起こる。我々には不可解だが当時にしてみれば当たり前であった。

炒り豆を鬼に投げつける風習、これは日本にしかない。生の大豆をわざわざ炒り豆にするのは、逃げ出した鬼の怨念がふたたび芽を出さぬようにとの願いがあるという。この念の入れようがまた日本らしい。
この宮中行事は平安時代には庶民にも広がり今に受け継がれている。そして家の門口に「柊鰯(ひいらぎいわし)」を飾った。

柊の小枝に先に焼いた鰯の頭を刺しそれを注連縄につける。豆撒きの影に隠れ忘れられたかのように見えるが、いまでも節分にこれを飾る地域もある。

参考:門守りのサイト―柊鰯 


鰯のにおいに誘われた鬼が門に近づくと柊の葉に目を刺されて退散するというこの柊鰯、最古の記録は平安時代の「土佐日記」に「小家の門の注連縄の鯔の頭と柊」とある。鰯ではなく鯔(なよし=ぼら)であるが同じ役割を果していたと考えていいだろう。
鯔は成長につれて名前が変わる出世魚、目出度いとされたために門にかざられたというが、それが何故いわしに変わったかは解っていない。鰯の古語がなよしという鯔の別名だったという説もある。ただ、この日記の日付けは承平五年(935年)元日となっている。

その昔、元日と節分は別ではありながらも一つの流れの中にある行事であったことが伺われる。またその流れの延長には上弦の月の人日の節句(七草)、満月の小正月が待っている。いま伊勢神宮で売られる正月の注連飾りには蜜柑やウラジロといっしょに柊の枝がついている。柊鰯も注連飾りもその役割はともに春の始まりに穢れが入り込むことを防ぐ「さかひ」であることを思えば繋がりがあって当然なのかもしれない。


「さかひ」(仏教でいう結界)は、人の生きる俗世界のうらみ、わざわい、やまい、くるしみ、なやみという穢れが入ることのできない聖域を作り出し、そこに神を迎え入れる場をしつらえるためにある。動詞「さく(放く、離く、裂く、割く)」に意味を限定する接尾辞がつき「さこふ(境ふ)」となった。さらに名詞に変化したのが「さかひ(境)」である。寺社の「境内」とはそういった場で、鳥居や山門という「さく(柵)」によって俗界と別けられている。

神社仏閣にかぎらず日本の建築にはこの「さかひ」が意識が随所に見られる。例えば茶室は聖域とみなされ、そこに至るまでには露地をぬけ蹲踞(つくばい)で清めをおこない、にじり口をくぐるという段階を踏まなければならない。
また家屋においても玄関を境に床が高くなり、人は履物をぬいでそこを上がる。外の湿気や汚れから家を守るための日本の屋づくりに起因することだが、やはりここでも穢れを防ぐという考え方に通じる。
外から内へ、廊から間へ、間から間へと違った場に入る時には一呼吸おいて意識を変えるのが作法であった。敷居を踏みつけてズカズカと入り込むのはよろしくない。襖や障子が閉まっているときは「隔絶」を意味し、問わずに外から開けてはならぬという不文律があった。几帳やついたて、屏風の向こう側もむやみに覗くものではない。

入るものすべてを跳ね返すものであってはいけない。商売をしていれば福の神にも客にも来てもらわなくては困る。門を硬く閉ざしてしまえば商売にならず逆にあけすけでは何が入り込んでくるか知れたものでないし福も客も散ってしまう。そこで重宝したのが店舗と街路を仕切る「暖簾」であった。店の銘を染め抜き、暖簾がでていれば「商い中」の合図でもある。店の中と外では暖簾に視界を遮られながらもお互いの気配は感じることができる。客は店の賑わいに誘われ、くぐって入ればほんのひと時その領域にとらわれの身となる。

塩は手っ取り早く穢れを祓う便利なものだった。腐敗を防ぐ効果に古くから神性を見出していたからだ。家や店の入り口には普段から盛り塩をし、いまいましい客を追い出したあとにはあてつけがましく塩をまいた。


柊鰯や注連飾りは一年のうちの特別な時期、そのときに限って現れる神様を迎え入れ、そのときを狙って入り込もうとする鬼を締め出す装置であった。


はて鬼とは、である。
絵に見る赤鬼・青鬼の姿は仏教の羅刹や夜叉の影響で出来上がった図像であり、物語の鬼は娘にも老婆にも変幻自在、しかしその本質は人の心の中にあった。死者がこの世に残した恨み、生きたものの妬み、嫉み、尽きることのない欲、犯した罪への悔恨、失うことへの恐れが具現化したものであった。幕末まで国を閉ざし外の国から攻められることが殆どなかったともいえる我が国にとって己の敵はまた己の中にあった。鬼退治は未知なる敵に戦いを挑んでいるのではなくあくまで人の世の穢れとの戦いであった。桃太郎に泣いて謝る鬼の大将や豆をぶつけられて逃げ惑う鬼たちの姿に親しみを覚えるのもそのためである。
古代、朝廷にまつろわぬ(恭順しない)存在を「蝦夷」「隼人」「土蜘蛛」などとよび神武天皇やスサノオ、ヤマトタケルらがこれを追討したと記紀に書き記されている。歌舞伎や能、昔話にのこる鬼退治譚の原型はここに求めることができる。そのまつろわぬものたちが棲むところは銅や鉄の採れる山であることが多いのについてはまた別の機会に書いてみたい。


これらの「さかひ」は人と霊の決め事であって実際は吹けば飛ぶようなもの、霊を懼れぬ者の攻撃には抗いようがない。悪意あるものは霊威を懼れず、したがって「さかひ」などは気にならない。踏みつければよい。家々に土足で上がり乱暴狼藉をはたらき火をかけて逃げてゆく。
明治の頃、糠の成分が脚気に効くことを指摘した農学者の鈴木梅太郎を学会は笑った。曰く「鰯の頭も信心からだ、糠で脚気が治るなら小便を飲んでも治る」と揶揄したという。近代思想と科学技術に毒された者からみれば鰯の頭などは取るに足らない迷信でしかなかった。


近代以降、日本は富を得る傍らとてつもない穢れを呼び込んでしまった。やり方が拙かった。外の国に向かい門を開けるときに、何一つ「さかひ」を用いなかったがために百鬼がなだれ込んで来た。近代の思想は資本主義経済と手を組んで我々の欲を煽り、膨れ上がった欲は鬼となって襲い掛かる。人に道を誤らせ、妬みを呼び、この世は嘘と疑いで溢れかえる。科学技術は利便と汚染を同じだけもたらした。もはや今こうなると鰯はおろか鯨の頭を吊るしても足りない。


おにはそと ふくはうち
懼るることを知るうちは
鰯の頭 鬼をも避けん




雑談

筆者の住むトルコ、その北海岸には黒海が広がる。冬の名物ヒシコイワシが今年も豊漁。
日本でイワシといえばマイワシでヒシコイワシは煮干の材料、あまりぱっとしないが黒海のヒシコは驚くほど味がいい。
十年前であれば内陸のトルコ人たちは海の魚など嫌がって見向きもしなかったのだが、一旦流通が始まるとみんなに好かれた。こちらの家庭では粉をはたいて油で揚げるか焼皿にずらーっと並べてオーブン焼きにし、レモンを搾って食卓に。

筆者はあまり和食にこだわらない。こだわりたくても味噌と醤油がここにはない。オランダ製の醤油が売られているが、GMO大国の大豆製品など恐ろしいので是非よけて歩きたい。日本の家族に頼めばいくらでも送ってもらえるのだがそれも往生際が悪い気がしてならない。
食文化の違いは気候や滋味に左右されるもの、それに逆うことで起こる害に悩むより、こちらの食を堪能する事を好むのである。

とはいえ子供たちのことになると話がちがってくる。いつか日本に行ったとき和食の味を知らなかったでは両親とご先祖さまに叱られてしまう。そのため、たまに料理してみる。

               すし
              〆鰯のにぎり


ヒシコイワシの頭、腸をとり、開いて骨をはずす。平たい容器に塩、イワシ、塩…と重ねて数時間つけおき、あがってきた水(ナンプラーとして使える)を切り酢で洗う。もういちど平たい容器に並べてかぶる程に酢をかけ、また数時間つけおく。
鮨飯は砂糖が少し勝つぐらいがいいようだ。塩は岩塩、酢はぶどう酢。酒と味醂は抜き、昆布と醤油は去年の父の手みやげだ。

なつかしい味がする。

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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

つれづれのかきこみ

さがしもの

こよひのつき

CURRENT MOON