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ち のはなし ちち(乳)と つづ(唾)

前号からづづく

人の血液型が今の四種に分かれた経緯とそれが歴史に落とした影、そして食と血液型の間には生死にも関わる問題があることを前号で綴った。さて今号は血液型からは離れ、「血―ち」にひそむ力のあれやこれやを、やまとことばに問いかけながら書いてみたい。

競馬がお好きな方なら「馬は血で走る」という言葉をご存知であろう。瞬発力、持久力、闘争心、駿馬たる技量は親から譲り受けるもので躾よりも血が勝ることを説いている。また人の子が集中力や忍耐力、注意力を親から受け継ぎ生活に生かすことができればそれも「親譲り」である。逆に酒や博打に溺れやすいといった悪い癖までも譲られてしまう。しかし人は大脳の可能性が他の生き物より格段に大きいため生まれた後の経験次第で親から譲られなくても様々な技能と欠点を身に纏うことができ、これを「氏より育ち」などのことばでよく喩える。
しかし「血は争えぬ」ということばもある。この相反する二者はともにわれらが先祖の残したことばであり、その間をどう取り持つべきかはわれわれ子孫たちに残された謎かけなのかもしれない。


ちち(乳)のはなし

獣であれ人であれ乳とはそもそも母親が生まれた我が子に飲ませるためにある。生まれたばかりのかぼそい命をこの世に根付かせる奇しき水、「乳―ち」は血からつくられ正に「血―ち」の雫ともいえる。獣であれ人であれ何も知らないはずの赤子は母の乳に吸い付くことができ、また時が来ればみな乳離れをする。

かつての日本では子が生まれると乳が十分に出るようになるまでの間、家が裕福であれば乳母(うば、めのと)を頼んだ。そうでなければそれこそ必死で「もらい乳」をしたという。他人に頼み込んででもどうしても母乳を与えたのは知識ではなく経験からにちがいない。赤子は人の乳の他はうけつけられないようにできていたのである。しかし人工栄養の登場によりその経験は過去の習慣として葬られた。母乳がいかに優れた栄養であるかをここで書く必要はないのだが、人という種族の子らにとって唯一無二の栄養が人の乳であること、また人の乳が人の子の役にしか立たないことの理由を大まかに書いておく。

我々の口に入る食品は糖質、脂質、たんぱく質に大きく分けられ、それぞれ別の形で分解、消化される。赤子にとっての乳も然り。

乳の糖質を消化する酵素ラクターゼは哺乳類の生き物には生まれつきその小腸に備わるが成長と共に減少する。人の場合も同じくその酵素は乳離れをする二歳前後を以ってほぼ消滅すると言っていい。B型の人は牧畜民族の血が濃く現れているのでこの酵素には比較的恵まれている。が、やはり成長と共に見放される。母乳・獣乳にかかわらず乳の糖質は乳児のみが消化できる。

乳児の胃腸は通常のたんぱく質を消化するだけの酵素を分泌できない。乳児の腸壁は目の粗い網のようなもので、早くから離乳食を始めると消化処理されていない大きなたんぱく質分子が網目からすり抜け血液に取り込まれてしまう。それは目に見えぬ形でアレルギー体質の基礎を築き、数年後に疾患となって姿を現す。しかし母乳中のたんぱく質ラクトフェリンだけは全く違い、乳児の小腸でわずかに分泌される消化酵素によって容易に分解される。免疫力を高め他のミネラルと結びついてその吸収を助ける効果もある。子が乳離れをして胃腸の働きが成人に近づき胃酸が強力になると酸に弱いラクトフェリンは胃に到達した時点で破壊する。また熱にも弱く、牛乳などに少量(母乳の1/10程度)含まれはするが煮沸消毒をした時点で消えてなくなる。乳児がうけつけられるたんぱく質は母乳のみということになる。

乳の脂質はどう消化されるのだろうか。人の母乳の中には人の胆汁と出会ったときに始めて効力を発し母乳の脂質を分解する酵素(胆汁酸刺激リパーゼ)がある。まさに鍵と鍵穴である。

このからくりがあればこそ人の母は乳を我が子に与えることができるのである。もし人の乳を他の獣の子に与えてもその体とはかみあわない。そして逆に、牛乳という鍵が合うのはおそらくは仔牛であり、少なくとも人の子ではない。

これらは母乳と人の子の間の完全無欠な関係をしめすに十分であるが、これだけでは物質面での重要性に過ぎない。本稿の趣旨はただの母乳礼賛ではない。「乳」を「血」、ひいては「霊」と同属と見なした先祖がその中に見出した力とはもっと別のところにありはしないか、それを考えるものである。

乳母(うば、めのと)、それは一昔前まではごく当たり前の「職業」であった。いまは感染症などが問題視されるために皆無となったが、平安、鎌倉時代の貴人や武士の家に子が生まれると特に才長けた女房を乳母に選び、後に冠位や財産を与えていたことが記録に残る。また乳母たちには子が成人した後も家の運営や政治への発言権が認められたことはその地位の高さを物語る。平家物語には前号にも登場した武人・渡辺綱(わたなべのつな)と乳母の遣り取りが次のように描かれている。

都の人々を脅かした羅生門の鬼は渡辺綱に腕を切り落とされる。その噂を聞きつけた綱の乳母は遠く摂津は渡辺の里から都に上り綱の館を訪れた。どうしても腕を見せてほしい、と懇願する乳母だが、腕は七日の間しかと封印するようにと陰陽師・安倍晴明の固い言いつけがあるためにその願いは聞き入れられぬ旨を伝えれば、綱の恩知らずと地に臥して嘆く乳母に耐えかね、とうとう館に招き入れてしまう。そして唐櫃の注連縄を解き、蓋を開るや乳母の形相は変わり、腕を切られた鬼の本性を晒し腕をつかんで飛び去ったという―
                 綱と眞柴
         歌舞伎 「戻り橋」より   渡辺綱と乳母じつは鬼

これは実話とは言いがたいが、綱の実母を登場させるよりも乳母を選ぶと言う演出、さらに鬼の腕を切るほどの武人すら乳母には頭があがらなかった当時の様子が伝わるものである。

これも民族の経験に基づくものである。乳母を頼むことが習慣と化していたのならば、それは直に日本人はこの時代までに優れた乳母を選ぶことの値打ちを見出し共有していたことを示す。ならば資料に乏しいというだけで乳母の歴史はさらに古い時代に遡ることができてもおかしくない。
単に生まれた子の腹を満たすためであれば体の丈夫な若い母親を乳母に迎えさえすれば済む。しかしそうではなかった。

平安時代も終わり頃、朝廷から東国に遣わされた国司の娘が土地の豪族に攫われてそのまま妻にされたという。そして翌年に姫が生まれたとの知らせが届く。嘆けども後の祀りと、国司はせめて生まれた子のためにと優れた乳母を選び娘のもとへまいらせた。年月は流れ、国司の妻はとうとう堪らず東国を訪れて娘と孫娘を見舞うことにした。都の人々からすれば東国はあらくれ者の棲む偏狭であり、未だ見ぬ孫娘はさぞや粗暴に育ったことだろうと重い心持ちで東へと向かうのであった。そうして見るや、そこには雅なことこの上なき姫君があったという。

しきたり、ことばづかい、箸の上げ下ろしは無論のこと、人として集団の中で生きる心構えまでを教え込むのは産みの親ではなく乳母たちの勤めであった。乳母とは教育係でもある。ここで不思議なのは何故に乳母が躾役を兼ねていたのか、である。いや、乳を飲ませる事と子を躾けることがいったいどう絡むと考えられていたのだろうか。

歴史に名を残した人物の乳母にまつわる話をひも解けばまず家柄が問われ、教養と人柄、公家であれば歌に書に通じ、武家であれば兵法や武芸の心得までが求められた。子が成長した後も乳母とその家族は後見としてあらゆる支援を行った。源頼朝の乳母を勤めた比企尼(ひきのあま)はその顕著な例であり、伊豆に流された頼朝を二十年にわたって助けた比企家は鎌倉挙兵の際には一族を上げて加勢、その後も外戚関係を結びつつ有力御家人としての地位を築いた。
他にも乳母が後に政治に強く関わる例が数多く指摘されている。しかしそこで当然、生母の家族との確執や闘争という弊害を予期することができるがそれでもなお乳母を必要とし子の習慣を守り伝えた。その由は庶民の間に存在した「乳付け―ちつけ」なる風習に見ることができる。

おそらくは戦前まで生きていたこの風習、子が生まれると最初の授乳を乳の出る別の女性に頼むというものである。その乳付け親は幸せに暮らす心根の良い女性であることが求められたという。乳を媒体として乳付け親の人格、運気などの非物質的要素を子に受け継がせることを目的としていた。

民俗学者などにより乳付けは「呪術」的な意味を持つ儀式との解釈が付け加えられているがそれはあくまで科学で証明できないものはすべて呪術か迷信とする稚拙な近代主義的観点からでしかなく、歴史解釈たるものからは程遠い。庶民の次元でなら「縁起をかついだ」という言い方もあり得るかもしれないが、武士や貴族が政治の土台を揺るがす要因を作ってまで行うまじないなどは早々に廃れてしかるべきである。しかし先祖たちが生まれたわが子のため、家のためにと優れた女房を探し出して乳母としたのはやはり相応の成果が認められていたからこそである。乳母たちは乳を与えるだけに終わらずその後もその子の傍に仕え、教養を背景としたその振る舞いやことばの端にやどる見えざる力により子を教化したのでる。これを可能にしたのは乳に違いないであろう、かつて与えた乳という鍵をして才覚の扉を開けることができた。これは理屈ではなく経験である。いや、民族の記憶である。

「血―ち」が親の能力や人となりを子に伝えるのと似た別の構造を「乳―ち」は持ち合わせている、このことはそれを密かに物語る。


つづ(唾)のはなし

乳のはなしの項でも触れた「酵素」、酵素とは栄養素ではなく栄養を分解し代謝するための触媒である。生鮮食品や発酵食品から摂取するほか体内でも生成される。その原料はやはり血で、前号で書いた血液型と消化の話を裏付けるのはこれである。血液型により生成できる酵素の種類とその量に相違があるために起こった問題が、人間史に思いもよらぬ、そして多大な影響を与えたのである。
人の生命活動に関わる酵素は数千から数万種と言われまだ全ては判明していない。酵素は食物から摂取される他に人体のあらゆる体液中に潜在的に存在する。その中でも注目すべきなのは唾液、これはなくてはならない消化液である。

唾液の和語は「唾―つば」でありこれは古語動詞「唾吐く―つばく」の語尾が脱落し名詞化したものである。唾液自体をさしているのはやまとことばの「唾―つ」。「ちち」もそうだが二音重ねて「つづ」とも言った。
「つ」はタ行子音であり、同様にタ行子音の「ち」とは必ずどこかで繋がっている。さてその唾液は何から作られるのか。それはやはり血からである。

もし食事中に水を摂取すると噛まずに飲み下すことができてしまうため咀嚼回数が減り唾液の分泌が激減する。唾液中の消化酵素は胃での消化に大きく寄与するのだが唾液が出ないとなるとその助けを十分に得られない胃はただでさえ苦境に立たされる上、ろくに咀嚼されていない固形食物を水で希釈されてしまった胃液で無理やり消化せざるを得なくなる。消化不良のために便秘や下痢を起こす。咀嚼不足で顎と歯と歯茎が退化する。また脳は咀嚼回数と分泌された唾液の量により満腹を察知するため、唾液が出なければ満腹に気付かず腹の皮が突っ張るまで食べ続けてしまう。消化不良と過食に挟み撃ちにされて肥満する。あるいは胃腸や肝臓を患う。唾液が分泌されなければ口の中の微生物の均衡が崩れ虫歯や口腔疾患を引き起こし噛むことがさらに困難となる。また唾液の分泌に関連した各種ホルモンが覚醒しないため生命活動が滞りもはや体のどこでどのような故障が起こるかは予想もつかなくなる。どうやら食事中に水を飲むと大変な事になるらしい。

唾を吐くのはもちろん、食事中に水を飲むのは行儀が悪いと躾けられた方も少なくないかと思われる。わが国の行儀の躾は他の国々からすれば厳しいほうで、実はこれは体の維持と整備に影で蜜に関わるのであった。唾液を吐いて粗末にするのも水で唾液を堰き止めるのも体を壊すもとであるのを先祖たちはよく知っていた。唾は大事なものである。

ここで冒頭に記した「血は争えぬ」という話に絡め、「世襲」制度なるものに触れてみたい。

世襲などは今では軽視された習慣であり時には非合理とまで批判される。これは「氏より育ち」のほうが近代主義の理念にふさわしいとされるためである。しかしかつては商人が店を継がせる段、跡取りとして選ぶのは当然わが子であった。職人も武士も同様である。しかし男児に恵まれなかったか、あったとしても病弱か技能に欠けている、あるいはとんでもない放蕩者でとても暖簾を譲れないなどの場合は同業者や弟子から養子を迎えた。娘があったならば婿養子として迎えられるので血縁関係は一代先送りでも守られる。しかしそれも叶わぬときは養子縁組が取り持たれた。そこで必ず為されるのが「盃事―さかずきごと」である。 
盃を交わして契りを固めるのは今にも残る古い習慣である。赤の他人どうしを夫婦、親子、兄弟また師弟として結びつけるに不可欠な儀式であり、その目的は両者の関係を血縁に並ぶ強いものとするところにある。今では多少変わってしまったが古くは一つの盃を使い父から子、兄から弟、師から弟子となる者の順、つまり親方が先に口をつけ子方がそのあとを飲み干すのが本来で、また口をつけた箇所を紙で拭いて渡したりもしなかった。ここで焦点となるのはやはり唾液である。

盃の酒はたかだか三くちで飲み干せる量、その盃にたった一度だけつけた口から移る唾液こそほんの微量であるにも関わらず、それが他人を親兄弟の間柄にまで結びつける力があったのか、それともただの呪術まがいの通過儀礼だったのか、精神的な繋がりを持たせるための形式的習慣に過ぎないのか、なのに固めの盃は古くは古事記に著され今日も古典芸能や極道の世界で守られているという事実はまことに興味深い。
                            

      親子盃。どういうわけか兄さん方の映像しか見つけられなかった。

近ごろ注目されている唾液遺伝子検査はこの唾液中の白血球細胞を利用して行われる。唾液には微生物や酵素のほかにも数多くの物質が含まれかなりの量の白血球も存在する。
もしやすると盃を介して白血球の遺伝子を「移植」し、人格や能力を遺伝させることができるのだろうか。
それはここでは検証のしようがないので先に続けるとする。

実は筆者の住むトルコにはこれに似ているとは言い難くも彷彿とさせる習慣がある。生まれたばかりの子を地域や親族の尊敬を集める人物のもとに連れて行きその唾を子の口の中に吐き掛けてもらうという、思わず後ずさりしたくなる習慣だが今もしかと残っている。先述の乳母の乳と同様に、信心や教養の深さと優れた人格の継承を期待しての行為である。

話を日本の世襲制度に戻す。我が子に自分の跡を継がせたいとの願い、また末代まで自分の血を残したいとの願いは自然なものであろう。そのために乳付けを試み、乳母を頼み、そして親として与えられる限りの資質を子に与えた筈である。しかし子にその技量が足らなければ家を継がせても傾いてしまう。江戸以降の武家や商家であれば周囲の助けでその運営が適うやもしれないが、職工や芸能の家にそういった余地は微塵もない。「血」は争えぬとは言えど「血」だけではどうにもならず、時として血族の外に後継者を求める必要に迫られた。血を別けた可愛い我が子をして跡を継がせたいという自我を封印し、盃を交わし義の血縁者として育てた弟子に職能を託したのであった。

職人、絵師、楽師、役者、医者その他これらは高等技能が求められる職である。六歳から元服の頃までに師について修行をはじめるのが常である。親方は実子をみずからに弟子入りさせ他の弟子たちと同等に扱う。また甘えを許さないために親子の縁を切ってから弟子にとる、あるいは初めから同業者のもとに弟子入りさせることも多かった。師弟とは親子同然、あるいはそれ以上のものであるとして差し支えない。この「弟子入り」に際して必ず盃を交わし師弟の契りを固める。
もちろん盃を交わしただけでは何も学んだことにはならないのであり、盃が済むと今度は長い長い修行が待っている。研ぐ、描く、打つ、舞う、ただの物理運動を魂に共鳴させるための修行である。いずれ弟子が技量を認められて師から名前を与えられるとき、その後さらに師の名を継ぐにあたり盃事が度々に取り持たれる。師が弟子に懸命に渡そうとしている何かがある。
ここに乳母や乳付け親の「乳―ち」と類似した鍵、「唾―つ」を見つけることができた。いずれも「血―ち」から作られる「霊―ち」の媒体である。
                            師弟
             鍛冶匠、硝子匠とその弟子たち           

職人に限らず、親の親から受け継ぎ血に刻み込まれた経験と技能がおのれと共に滅びてしまうことが身を切られるよりも辛いことであることは、手に職をお持ちの方であればよくご理解いただけると思う。何としても次世代に、血の中の覚書きを伝えなければ死んでも死に切れぬ、それほど切実であった。唾には本当に遺伝子や記憶を伝達する能力などがあるのだろうか、結果だけ見ればわが国の職工技能の水準は世界一、いや世界に類がない。

今日まで血を介して伝わった技能と魂を遡れば土の器に縄の文様をほどこした先祖たちや日本の土に稲を根付かせた渡来人たちにまで行きつく。あるいは黒曜石を求めて地球を半周し日本に至った熊襲たち、そして弓馬を携え東国のさむらいとなる蝦夷たち、また能狂言に恐ろしくも悲しく謡い描かれた土蜘蛛たちに辿りつく。彼らが国を築いた記憶は我々の血の道に脈打ち今を生きる力となった。「力―ちから」が「血―ち」に、そしてその後ろに控える「霊―ち」に由来することはやまとことばの構造が雄弁に語る。

―「力―ちから」は名詞「血―ち」に原因・理由の所在をあらわす接続助詞「から」が膠着したものである。

「氏より育ち」のほうが近代主義の理念に適うと書いたが、それは一斉教育で均一に生産された若者の甲乙を試験で評価し資本主義社会の各部品として使用するにあたって滅法都合がいいという意味で、それを人権だの機会均等だの小奇麗な言葉でまことしやかに飾り立てわれらの目と耳を欺いているに過ぎないのである。そこで重要なのは生産効率だけで親の血を引く技量などあってもなくてもどうでもいい。つまり、近代とは物質のみに意義を認めるのである。
日本の先祖たちが氏の子であろうと、赤の他人の子であろうと懸命に育てたことはもらい乳や師弟制度という習慣がすでに証を立てている。これこそが「氏より育ち」の示す深い部分であり、世襲制の否定とは無関係である。こうして血は血族だけでなく国という共同体に還元された。され続けた。そして今。

乳母の制度は守られることはなかった。人工栄養の「効率」のほうを重視したためである。さらに近年の「感染症」という脅威は乳母や乳付けの可能性を完全に閉ざしたと言える。親子盃でさえ盃を紙で拭いたり水で濯いだりという馬鹿げたお作法でその意味が枯らされ、先祖たちが交わした盃の意を踏襲しているのは極道の皆さん方のそれのみかと思われる。そもそも乳と唾は感染症から身を守る盾である。さらに言えば感染症の治療法を開発しながら感染症の原因菌を研究室で生産している連中は、ある国に武器を売つつその敵国にも武器を売る者たちの、近代主義の名のもとに日本から全てを奪った者たちの郎党である。日本のこのまま力、「血から」を失い続けていくしかないのだろうか。

やまとことばの音霊に、ほんのひととき身を委ねるだけでよい。それだけで先祖の声を聞くことができる。それだけで、逸れた道をいますこし正すことができよう。
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歌舞伎見物のおさそい―妹背山

いにしへの 賤のおだまき繰りかへし むかしをいまに なすよしもがな

「伊勢物語」にあるこの古歌が縦糸となり、遠い神代からこの世が繰り返してきた業を横糸に織りなした衣のような、そんな芝居がある。「おだまき」とは糸巻きのこと。糸を巻きかえすように昔を今に巻き戻すことができたなら、と思うのは、昔も今もかわらない。

正しくは「妹背山婦女庭訓―いもせやまおんなていきん」、古代の王朝交代を江戸の戯作者たちは冷徹に見抜き我々に供じていたのである。しかしすっかり鈍くなってしまった日本人はそれを受け取ることがままならなくなってきた。下手をすればこの戯作のもつ意味はこのまま埋もれてゆくだろう、それはあまりに惜しい。
しからば野暮を承知の悪あがき、何卒ご容赦のほど御願い奉りそうろう。

  妹背山婦女庭訓
                               「妹背山婦女庭訓」

背景

蘇我氏は物部氏をおさえ、さらに崇峻天皇を暗殺、姪の推古女帝を立てると朝廷の実権はいよいよ蘇我馬子の手に落ちる。その子の蝦夷、さらにその子の入鹿の代まで専横をつくすもやがて中臣鎌足と中大兄皇子により討たれ(乙巳の変)、時代は律令国家の形成へと動いてゆく。


序段、二段目、

病で失明した帝は臣下の者たちに操られ、腹心であった藤原鎌足は謀反の疑いをかけられて息子の淡海とともに行方知れずとなってしまう。蝦夷は自らの娘・橘姫を皇后に立てようとしていたため、鎌足の娘で帝の愛妾でもあった采女の局も宮中から姿を消してしまった。蘇我入鹿は朝廷から帝を追放し自らが帝位につこうとする父・蝦夷の行状を仏法にかなわぬ非道だとし、父を諌めんがために即身仏となる入定修行にはいる。これに怒る蝦夷は入鹿の妻めどの方に詰め寄り、お前たちは味方ではなかったのか、では謀反の連判状を返せと斬りかかると、めどの方はその連判状を火にくべて燃やしてしまう。が、じつは偽物であり、そこにめどの方の父・安倍行主と大判事(司法官)が勅使として現れ本物の連判状を出して蝦夷を追い詰める。蝦夷はもはやこれまでと腹を切り自害する。大判事が蝦夷の介錯をしようとした瞬間、安倍行主が矢に倒れ息絶える。切腹も介錯も武士の風習であり古代豪族のものではないが、芝居の上では豪族たちを武士として描いている。

矢を放ったは蘇我入鹿、法衣を纏う入鹿が現れ、大判事にむかいこれまでの悪行をいけしゃあしゃあと言い聞かせる。父の器では帝位を奪うことはままならぬと、謀反の罪を父一人に擦り付けて自害させ後から全てを奪おうとのはかりごとであった。三種の神器を盗もうとしたが鏡と勾玉は見つからず、仕方がないのでこの「村雲の宝剣」だけは手に入れたと豪語する入鹿は、白塗りの二枚目から青隈取りの「公家荒れ」にかわり豪胆かつ陰鬱な恐ろしさをかもす。

いつまでも子が授からなかった入鹿の母は「白い牡鹿の血」を飲むことで入鹿を身篭ったのであった。鹿の入りたる蘇我入鹿、大悪党の由縁ここにありき。

入鹿を退治するには「爪黒の鹿の血」が要るという。そしてもうひとつ、「凝着の相のある女の血」が要るという。凝着とは嫉妬のことで、この両方の血を注いだ笛を吹くと入鹿の中の鹿の本能が暴れだし己を失う、そのときにこそ入鹿を倒すことができるという。


入鹿の暴挙は止まるところを知らず宮中に乱れ入り帝位を宣下する。三笠山に造営した御殿を大内裏と称し、その勢いに適わぬと悟った諸国の豪族たちは貢物を手に入鹿の元にに参内し恭順の意を表すのであった。
伊勢の神風吹き止んで天下がいよいよ傾こうとしていたその頃、愛妾の采女の局が池に身を投げて自害したとの噂を信じ、嘆きのあまりその池に行幸していた帝はまだ三笠山でのことを知らずにいた。知らせを受けた鎌足の息子・藤原淡海は帝にそれを気取られまいと猟師の芝六の家に匿うのであった。この芝六、じつは藤原家の家臣であり、主人鎌足の入鹿征伐のために黒爪の鹿を射止めていた。しかし神鹿のいる葛籠山は禁足地、ここで鹿を射ることは死罪に値した。芝六の息子の三作は鹿殺しの罪を被り石子詰めの刑(地面の穴に入れられ石で埋められる)を言い渡されそのための穴が掘られるが奇跡がおこる。掘った穴からは紛失していた三種の神器のうち鏡と勾玉が見つかった。その瞬間に帝の目は治癒し、自害したと見せかけて父親の鎌足のもとに身を寄せていた采女の局とも再会を果たす。三作はご赦免となる。

神鏡と勾玉の出現で光が戻る、それはアマテラスの天岩戸神話が元になっている。

藤原淡海とは日本古代史の立役者、藤原不比等その男である。中臣氏が壬申の乱で大友皇子の側についたことが仇となり政治の表舞台からは一時遠のいていたが、王族の妻を寝取り間にもうけた娘たちを次々と宮中に送り込み天皇の外戚としての地位を築いた。不比等にはじまり平安時代の終わりまでつづく藤原氏の外戚政治こそが日本史の基礎といっても過言ではなく奈良時代以降の皇室の血は最初の数滴を除けば藤原氏に由来する。さらにはわが国最初の国史書たる日本書紀の「立作者」として不比等から神代に遡る日本の足跡を「編纂」したのも不比等である。それまでに書かれていた「旧辞」「帝記」とよばれる史書は鎌足の入鹿暗殺を知らされた蝦夷が屋敷に火をかけ自害したおりに消失したとされている。が、そのことが記されているのも日本書紀でしかない。

この芝居において、藤原淡海(=不比等)と名付けられた役は史実での不比等と鎌足の両者を兼ねている(仕立ててある)。謀反の疑いで親子ともども政界から姿を隠すとある段は壬申の乱の結果、中臣氏が蟄居状態に陥ったあたりを示唆しているのだろう。ちなみに「淡海」は不比等が死後に諡られた国公(等級の名)である。

「帝」も一応は天智天皇という設定であるが裏がある。見えぬ目で亡き愛妾を求め彷徨う帝の女々しい描かれ方は少なくとも豪傑で知られる天智帝にはそぐわない。
645年の乙巳の変の後に続く改革を「大化の改新」と呼ぶ。この改革は孝徳帝の代で行われたが中心になったのは当時皇太子であった中大兄(後の天智帝)であった。鎌足は最初、入鹿暗殺の共謀者を帝位につく前の孝徳に考えていたが「器ではない」と断念、よって中大兄に持ちかけたとの説がある。
652年には日本初の首都といわれる難波長柄豊宮に遷都、しかし改革を進めるうちに孝徳帝と中大兄の対立が深まり中大兄は飛鳥河辺宮に群臣・皇族・皇后を連れて移ってしまう。皇后まで奪われた失意の孝徳帝は病に憑かれて崩御する。蘇我入鹿が役の上で三笠山に御殿を立て帝位を奪ったのは中大兄の行動を指しているのだ。

すなわち、「妹背山」の帝は天智帝ではない。天智帝に背かれた孝徳帝であり、入鹿の本性こそが天智天皇である。さらに入鹿が共謀していた父・蝦夷を見限る筋書きはどうやら鎌足の仕業をなぞらえたものである。


三段目

美しい仕掛けが有名で「妹背山」の外題の由縁でもある大事な場面であるが西洋のシェイクスなにがしの芝居に似ていて巣晴らしいなどの馬鹿馬鹿しい評価が付きまとう場面であり、胸くそ悪いので思い切って省略したい。しかし役者泣かせの難しい場面である。


四段目、「道行恋苧環」

さて大詰め、舞台は急に江戸風俗を醸し出す。造り酒屋の娘お三輪は店子(長屋の間借人)の烏帽子職人の求女とひそかに恋仲である。しかし長屋の衆とお三輪の母親は、やたらに上品なこの店子が実は行方の知れなくなった藤原淡海ではないかと噂する。

赤糸と白糸を巻きつけた二巻の苧環、恋のまじないだといって赤糸のほうを求女にわたすお三輪であった。

しかしその求女の元に通う姫様がいた。求女はお三輪と姫様の二股をかけていた。 二人の娘が鉢合わせ喧嘩になるが、姫様のほうは何か事情があると見えてその場から逃げてしまう。姫の後を追う求女、またその後を追うお三輪であった。
求女は姫の身分を知らなかった。名乗ってくれれば一緒になろうという求女に対し、名は明かせないけれど一緒になれるのならば死んでもかまわないという姫であった。名乗れないのもそのはず、姫は蝦夷の娘、入鹿の実の妹の橘姫なのである。
嫉妬に駆られた三輪が二人に追いつくとそこでまた言い争いになる。恋に貴賎の隔てはないが、橘姫に比べればお三輪はあまりに賤しい生まれだった。しかし熱い血潮をたぎらせるようなお三輪の恋の仕草が見るものを引き付ける。

           道行恋苧環
                               お三輪と求女


お三輪から渡されていた苧環の赤い糸を橘姫の着物の裾に仕付けた求女はそれを辿って姫を追いかける。白い糸を求女に付けて追うはお三輪。その糸の続く先は天下の大悪党の棲む三笠山御殿であった。

「お三輪」の名には何が隠れているのか、それは大和三輪山に祀られる三輪明神、つまりオオモノヌシ(大物主命)である。オオモノヌシはスクナヒコナに去られて途方にくれるオオクニヌシのもとに海を輝らしながら現れ、汝の和霊(魂の一部)であると宣い、自らを三輪山に祀るよう望んだ神である。蛇神、水神、そして酒造りの神であり、お三輪が造り酒屋の娘と仕立ててあるのはこのためである。
「古事記」によるとその昔、イクタマヨリヒメ(活玉依比売)の元に容姿端麗な男が突然あらわれ結ばれたが、子を身篭ったヒメの父母が相手は誰かと問うとどこの誰かもわからないという。そこで父母はヒメに教えて曰く、夫の着物の裾に麻糸を結び付けておき、朝にそれを辿れば夫が誰だか判る、と。その糸は戸の鍵穴から外に通じ三輪山の社にまで続いており、かの男はオオモノヌシであったという神話である。
求女が男でお三輪が女というのが神話と逆転しているが、男らしいとはいえない求女と、逆に火のように激しいお三輪の対比がこの逆転を打ち消している。

「橘姫」、古代史上で「たちばな」といえばこの女あり、犬養美千代またの名を橘夫人である。
王族の美怒王の妻でありながら夫の遠征中に藤原不比等に嫁ぎなおしている。離縁して再婚したのか不比等が略奪したのかは判らない。軽皇子(後の文武帝)の乳母をつとめ、不比等との間に生まれた光明子は後に聖武帝の皇后となる。王族以外の娘が皇后となるのはこれが始めてであった。軽皇子の母の元明女帝に与えられた橘姓を以って三千代は橘氏の祖となった。

そして「求女」、いわずと知れた藤原淡海じつは不比等である。求女という名は「綺麗な男」に使われるもので、二人の娘を恋に狂わせた男にはおあつらえというもの、しかも、この役はただの色男ではなく「色悪」とよばれるもので、己の野望のために寝技を使う卑劣な悪役なのであった。
不比等はまず娘の宮子を文武帝に嫁がせ、その二人の間に生まれた皇子が聖武帝となり帝の外祖父となっている。さらに光明子を皇后に立てることに成功したのである。

江戸時代の戯作者たちは、不比等がどんな男だったかようく御存知だった。


四段目、「三笠山御殿」

諸国の大名が入鹿のもとに駆けつけ恭しく挨拶を述べる中、明らかに場違いな粗っぽい男が屋敷に上がりこむ。難波の浦の鱶七(ふかしち)、鎌足と意気投合した漁師だという。鎌足が今までの非礼を詫びて仲良くやりたいという手紙をそえて酒を送ってきたという。当然怪しいこの男、侘びを受け入れないのはやましい事があるからだ、などと言うが入鹿はなぜか苦笑い、鱶七を殺さずに人質にとることにした。

                   鱶七 
                          鱶七  十五代目市村羽左衛門

屋敷に橘姫が戻り官女が着替えさせようとすると裾に付けられた糸の気づく。それを手繰り寄せれば恋焦がれる男が現れ、官女たちは喜んで囃し立てる。野暮は禁物とばかりにいそいそと散る官女たち。


橘姫の正体を知り驚く求女いや淡海、自らも名乗りかくなる上は生かしておけぬと姫を手にかけようとする。が、叶わぬ恋と諦めるのであれば死んだほうがましだという姫の言葉に刀を納め、兄・入鹿の手にある宝剣を盗み出してくれたのならば夫婦になろうなどという取引きを持ち出す。こんな男に惚れてしまうのも女の悲しい性なのか、求女と添い遂げたい一心で兄を裏切り宝剣を盗み出す決心をする橘姫であった。

求女を追いかけて屋敷の庭に迷い込む三輪は豆腐を買いにいく女中から姫様の意中の男との祝言が今宵内々に取り持たれることを聞かされてしまう。あわてるお三輪、なんとか屋敷に入れてもらおうと官女に頼み込むが、事情に聡い女たちから酷い苛めを受けることになる。髪や着物を乱されて泣きながら馬子唄を歌わされるお三輪は自分の生まれの賤しさを思い知ることになる。

ところでわざわざ豆腐を買いに行くこの女中、その名を「おむら」というが、おそらくは後代の桓武帝の皇后になる藤原乙牟漏(おとむろ)であろう。乙牟漏皇后は橘夫人の血筋であり嵯峨帝の生母である。嵯峨といえば豆腐、語呂合わせにしては意味ありげである。なぜなら壬申の乱以後天智系から天武系に移行した朝廷にふたたび天武系から返り咲いたのが桓武帝なのであるからして。

大化の改新と呼ばれる一連の事業の中には朝廷の勢力圏を東北に伸ばす政策があった。当時この地には朝廷に従わぬ民衆があったことが記紀の記述にあり、その征伐は神武天皇自らが始めたとの「先例」を以って記されている(神武東征)。しかし朝廷の組織が実際に東北に設置されたのはこの大化の時代である。

東北のまつろわぬ民、それは「一人で百人に値するつわもの」ともいわれた「えみし」である。

日本史の謎のひとつでもあるのが「蘇我蝦夷」という名、蛮族と賤しみ朝敵と見下していた「蝦夷」の名を蘇我の家はどうして惣領息子につけたのか、である。諸説ある中で興味深いのは、「蝦夷」は日本書紀の編纂者の側が後から意図的に付けた名前であるというものである。つまり蘇我氏が「えみし」同様に朝廷に害をなす一族であったことを後世にまで知らしめ、同じく東北征伐の正当性を引き立てる役を持たせているという説である(入鹿の名に関しても同様の説あり)。
朝廷がどうしても東北を取りたかったのは、肥沃な土地と海産物、名馬と黄金があるからだった。そして文身し弓と馬を自在に操る屈強な男たちが朝廷に靡かぬという事実はそれだけで脅威であった。


それまでの朝廷は天皇と豪族がよく建議し権限を分担する形で政治が行われていた。しかし遣隋使などを通して大陸の情勢が伝わるようになると大陸に対し独立を維持するためにも強固な律令国家を築きそのためには「中央」にさらなる権力の集中が必要という考えが朝廷内に生じた。そこで起こるのが「誰が天皇にたつのか」よりも「誰が天皇をたてるのか」の争いである。大化の改新の前後の日本はこの内紛にあけくれた。そこで生じた悪名・汚名の全てを蘇我親子に擦り付けて最後に日本を我が物にしたのが中大兄と藤原親子だった可能性は十分すぎるほどある。

女を使って出世を遂げた「色悪」不比等は得意の筆で日本書紀を書き下ろし、開闢以来の大悪党、蝦夷と入鹿を生み出して、ばさりと斬って闇の中。

           三笠山御殿
                              鱶七に刺されるお三輪



〽 袖も袂も喰い裂き喰い裂き、乱れ心の乱れ髪、口に喰いしめ、身をふるわせ、

屋敷の中から宴の賑わいがもれ聞こえ、いよいよお三輪は凝着の相もあらわに嫉妬に狂う。そこへ現る鱶七、いきなりお三輪を後ろから刺せば、橘姫の手の者と思い込んだお三輪はますます狂いだす。すると鱶七、「女悦べ」とお三輪を誉めそやす。漁師の衣装を脱ぎきらびやかな侍の姿に早替り、我こそは鎌足の家臣の金輪五郎、求女こそは我が若君の藤原淡海、仇敵・入鹿を退治するには凝着の相の女の血が、おまえの流す血が欠かせない、夫の手柄のために死ぬとはそれでこそ高家(身分の高い)の北の方(正室)、でかしたなあ、とそう言うとすでに爪黒の鹿の血を仕込んである笛にお三輪の血を注ぎかけ、この笛こそは入鹿を滅ぼす火串ならんとふかく拝する。

悦んだのはお三輪であった。恋しい男の妻として、その手柄のために死ねるなど女の冥加につきるもの、それでも最後に一目だけ求女を見たいと願いつつ巻く苧環の糸は切れ、お三輪もそして事切れた。


四段目、大円団

橘姫は宝剣を盗み出すがまたしても偽物、入鹿の知るところとなり姫は本物の宝剣で斬りつけられる。そこへどこからともなく笛の音が鳴り力萎える入鹿、宝剣は竜となり入鹿の手を離れて池にもぐる。そこへ藤原の軍勢がおしよせ入鹿を囲めばなおも大判事や金輪五郎に刃向かい抵抗するが鎌足がかざした神鏡に眼が眩み、ひるんだ入鹿は鎌足に首を取られてしまう。竜になった宝剣は鎌足の足元に舞い降りるのであった。天皇の象徴である三種の神器の宝剣が、帝というものがありながら何故に鎌足を選んでかしずいたかは、その後の日本での藤原氏の位置をよく語る。


史書にある歴史ををひっくり返さずに話を作るという歌舞伎の不文律を壊さずに本当の悪党が誰であったかを仄めかすという、この妹背山は神業に近い戯作である。
聴衆か観て溜飲を下げたかったのは淡海たちの最後であるが、入鹿が鎌足に討たれるという決まりごとは変えようがない。しかし序段から四段目を通して入鹿の見せた悪事はすべて史実での中大兄と藤原親子の仕業であることを語りきった。そして入鹿が頸を斬られる瞬間はすでに聴衆は心の中で入鹿を淡海たちに摩り替えている。だからこそ入鹿の最後の大見得に拍手と掛け声が集まるのである。


不思議な男の「鱶七」は悪役ではない。筋を貫徹させるために登場する、歌舞伎に付き物の神仙的な役である。「鱶=サメ」の名は古代の国つ神に数えられる海神の遣いであることの現われである。朝廷に抵抗した民衆の神もまたこの国つ神たちであり、入鹿の「鹿」も山の神の遣い、何よりもお三輪こそが国つ大神オオモノヌシの化身である。蝦夷と入鹿、そしてお三輪の荒ぶる魂を鎮め、あの世に還すためには是非とも鱶七にお出まし願うことになったのだろう。


「妹背山」の向こうには日本土着の「国つ神」と高天原の神々として知られる「天つ神」のはげしい戦いが隠れている。それは天智帝に始まり桓武帝に引き継がれる蝦夷征伐の序章でもあり、貴賎に囚われ生きる人の悲しさを描くものでもある。

くりかえし むかしをいまになしたとて むかしがいまに なるばかりなり


歌舞伎見物のおさそい ― 助六

畜生だらけの世の中にゃ愛想もくそも尽き果てた
こうなりゃめかして歌舞伎へと しゃれこむのも悪くねえ
かわいい女房と連れ立って、浮世を離れて夢心地
そちらのお兄さん方お姐さん方、ささご一緒に、歌舞伎見物とめえりやしょう

御存じ「助六」は歌舞伎十八番の内に数えられる人気の演目、しかしこの大元の話が「曽我兄弟」という仇討ち物であることは芝居好きでなければ知る由もない。黒羽二重に緋色の襦袢、頭に〆る鉢巻は江戸紫の右結び。江戸の「いき」を具現化した様式美の世界といってしまえばそれまでだが、それだけでは勿体無いのがこの助六。もしもご覧になる機会がございましたらぜひともこの薀蓄をお供にお連れくださいまし。

  助六
                                 「助六」

吉原に出向いては相手構わず喧嘩をふっかける助六、じつは曽我五郎時致という侍である。その助六とは恋仲の、その真夫(まぶ)の所業に悩むのは花も盛りの花魁の三浦屋揚巻、そして二人の仲に割って入ろうとする大尽、髭の意休。いきな男、いきな女、やぼな男、そんな三者の駆け引きが話の大筋、と解されている。しかしその根底にある「曽我兄弟」の物語、そしてその舞台となる源平合戦から頼朝の時代の匂いを知ればそのぶん楽しみが増すことは間違いない。


時は鎌倉の夜明けの頃、曽我五郎とその兄の十郎の父・河津三郎祐泰は、親たちの領地争いに巻き込まれ義従兄にあたる工藤祐経の送った刺客の矢に倒れた。母・満江が再嫁したため幼い二人とまだ乳飲み子の末の男子は曽我の家に入るがいつの日か父の恨みをはらさんことを胸に秘めて成長した。とはいえ義父となった曽我祐信は頼朝の御家人だったが所領は小さく実子に継がせるだけの財産があるだけでさらに三人の男子を立身させるだけの力はなかった。加えて「仇討ち」の気を孕むものを育てていたのでは幕府から睨まれかねぬ状況にあったため、弟の五郎は父の菩提を弔うためにと箱根権現の稚児として仏門をくぐることになる。兄の十郎はそのまま曽我の子として元服したが不服は募るばかりであった。
いっぽう仇の工藤祐経は、もとは平家に仕えて上洛したこともある男であったが頼朝挙兵後に鎌倉に下り源氏の家来となる。朝儀に明るく歌舞音曲にも長けていた祐経は公家との交渉ごとに手を焼いていた頼朝に重用された。幕府の重臣となった祐経の命を狙うことは力ない若い兄弟にとっていよいよ難しくなる。
あるとき箱根権現に頼朝が参拝、そこで稚児を勤める五郎は頼朝に従う工藤祐経を見た。父の仇を討とうと祐経に近づくが、あまたの戦場を駆け抜けてきた武人のまえでは成す術もなく逆に祐経に捕まり説教をされる。そして五郎は祐経の手から赤木柄の短刀を授けられた。間もなく五郎は箱根を出奔、有力者であり叔母の嫁ぎ先でもある北条時政の元に走る。この時政は尼将軍・北条政子の父、野心の男であった。仇討ちの心を打ち明け元服を願い出た五郎に対し、時政は烏帽子親(元服の後見)になることと仇討ちの支援を買って出た。
父の死後十三年目にして仇討ちの好機は訪れた。頼朝を筆頭に主要の鎌倉武士たちがこぞって狩を競う「巻狩り」が富士の裾野で催されることなり、無論そこには憎き工藤祐経もその名を連ねていた。
当時「狩」といえば単なる捕食行為ではなく通過儀礼としての色合いが強かった。ここでは頼朝の嫡子である頼家(当時12歳)を後継者として御家人衆に披露目をする目的があり、十数日間続けられた巻狩りは頼家が大鹿を仕留め奉納されたその日を以って終了となった。宿舎には遊女や白拍子が招かれ盛大な宴が開かれる。その宴もしずまった頃、武人の中にまぎれていた曽我兄弟は工藤祐経の寝所に押し入り名乗りを上げた。そして祐経はその昔に五郎に与えた赤木柄の短刀で仕留められる。遊女の悲鳴を聞いた武人たちが駆けつけ宿舎は修羅場と化す。この日のために武芸を磨いていた兄弟は強く十人余りをその場で撫で斬りにしたという。しかしとうとう兄の十郎は討ち取られ、逃れた五郎は頼朝の寝所に押し込んだところを捕らえられて死罪となった。



建久四年にこの討ち入りが実際にあったことは「吾妻鏡」にも記され史実と認められている。しかし大事件である割には扱いが小さいため鎌倉幕府側が事件を隠蔽しようと画策したとの憶測もある。歴史の中に埋もれかねなかったこの仇討ちを世に知らしめたのは兄・十郎祐成と恋仲にあった大磯の遊女・虎御前である。「助六」の舞台が廓であることへとここから繋がってゆく。

仇討ちを控えた兄弟は妻帯せぬと決め、十郎には虎御前、五郎には化粧坂の少将とよばれる遊女がそれぞれ妾として寄り添った。当時の鎌倉周辺の遊里には公家や武家出身の遊女たちが鎌倉武士たちを客としていたため遊女といえども教養も気位も高かった。もっとも遊女や遊里そのものが今の夜の町とはまるで違う風情のものであった。この気質は江戸吉原にも引き継がれていき、金では客に靡かない「花魁の意気地」なるものの根源になった。

兄弟の死後、虎御前は二人の菩提を弔うため比丘尼となる。仇討ちから四十年後に没するまで諸国を行脚し二人の忠孝と武功を口伝して歩いた。それをまとめたものが「曾我物語」として後世に伝わり浄瑠璃や歌舞伎の狂言へと昇華したのである。この曾我兄弟を題材にした狂言を特に「曾我もの」と呼び、義経の登場する「判官もの」と並んで大入りの人気を常に博してきた。

歌舞伎の曾我ものには「寿曾我対面」「外郎売」「矢の根」「雨の五郎」など沢山ある。多くは「廓」という設定がなされている。曾我兄弟の仇討ちを物語と成らしめたのが遊女であったことへの思い入れが見られはしまいか。「助六」はやや特異で、はじめは上方で興った心中ものの芝居であったが吉宗の頃に江戸に伝わったとたん曾我ものに鞍替えしたという経緯がある。

皆に共通する描かれ方はこうである。いつも弟の五郎が血の気の多い主人公として登場し、超然と構える敵役の工藤(助六では意休)に対し五郎は何かにつけては刀を抜こうとする。冷静な兄の十郎がそれを引き止める。あるいは遊女たちがやんわりとはぐらかしながら廓の匂いを醸す。
気が短く喧嘩っ早くて勝負に強い、これは身分を問わず江戸の人々に心底好かれた性格である。渡辺綱や義経などはその代表格で、死後何百年も錦絵や舞台を飾り続けた。しかも親の敵を追い続けいずれは若い命を散らすという五郎の生き様は人々を陶酔させた。 

そうして確立されていったのが「五郎」すなわち「助六」の男っぷりである。十郎はそんな五郎の引き立て役に徹して描かれ、和事(やさおとこ)を勤める立役者か女形がその役を勤める。助六では白酒売りに身をやつして登場し助六から喧嘩の仕方を習ったりする。


「助六」は季節に関係なく上演されるが、舞台は満開の桜で演出されている。これは「暮れることなき廓の春」を隠喩している。花魁道中が花道を踏み三浦屋揚巻の登場、酒に酔った揚巻の色気に桜の花も霞む。喧嘩ばかりしている息子を案じる助六、いや五郎の母・満江からとどいた手紙を読み胸を痛める揚巻、そこへ髭の意休が子分たちを連れて現れる。
さてこの意休、もてない野暮天の代表などではない。礼も作法もわきまえた、吉原にしてみれば大変な上客でむしろ迷惑な客とは助六のほうである。だが助六は遊女たちの人気の的、その助六をつかまえて盗人と言うため意休は嫌われた。なぜ悪く言うかといえば助六は意休の仇、仇は仇でも恋仇であるからだ。意休は揚巻に横恋慕をしている。
目の前で助六をこき下ろす意休に腹を立てた揚巻は、おまえと助六さんじゃおなじ男でも大違い、と悪態をつき、さぁお斬りなんせと居直る。命を張った花魁の見得に意休もふてくされる。揚巻がぷいと店に上がってしまうと、いよいよ助六が河東節の調べにのって花道から現れる。ああ、いい男だねぇ

                     十一代目市川団十郎
                       十一代目市川団十郎の「助六」


助六は、ある刀を探している。源氏の宝刀「友切丸」を紛失した咎を兄弟の養父・曾我祐信が負わされていたのであった。この宝刀を見つけ出さないうちは仇討ちは叶わない。そこで助六、いや五郎は人の集まる吉原でわざと騒ぎをおこし、人々に刀を抜かせてはその銘を確かめ友切丸を探していた。ちなみにこの友切丸、古くは渡辺綱が一条戻り橋の鬼(茨木童子)の腕を切り落としたという伝説の刀であり、次々と持ち主を乗り換えては名を変え、一時は頼朝の手に渡るが平治の乱で平清盛に奪われている。鎌倉幕府の成立後にふたたび頼朝に還るがその後紛失、元寇のころに見つかったという数奇な運命を持つ刀である。意休が助六を盗人呼ばわりするのは助六がいつも相手の腰の辺りを探るような喧嘩の仕方をするためだからだという。

                 綱
                       茨木童子の腕を切る渡辺綱 

やんやと囃して助六を迎える遊女たち。「煙草のまんせ」と右から左から吸い付け煙草が渡されいささか迷惑そうな助六は「火の用心が悪ふごんせうぞへ」などと言う。面白くないのは意休、「君達の吸付たばこをいつぷく給べたい」といえば遊女たちには「お安いことでござんすが。きせるがござんせぬ」と知らん顔されてしまう。ここで名ぜりふ「煙管の雨が降るような」をのたまう助六だが、この「雨」は助六がさして現れる傘にかけてある。曽我兄弟が工藤の寝所に討ち入るときに傘に火をつけそれを松明とした故事があり、傘をさして現れる助六の姿は五郎の魂が江戸の町に蘇ったことを仄めかしている。斬り殺され、あるいは自害を許されずに処刑された兄弟は悪霊となって流行り病をおこすと恐れられた。それはいつしか御霊信仰に結びついた。しかしもとより死は覚悟の上の仇討ちであり見事本懐も遂げている。なぜこの世に恨みをのこし悪霊になろうことがあるのか。


曾我兄弟は、二人の支援者であった北条時政に利用されていたとの見方がある。北条氏は桓武平家を祖とする氏族であり源氏に家臣として仕えることなどは本意ではない。しかし頼朝の圧倒的な政治力の前には屈するしか道はなかった。兄弟の父親が殺されたのは領地争いの顛末であるはずなのに、殺した工藤は一切咎めがないとしながら殺された側の無念は捨ておき子女のみが不遇な人生を強いられたのは頼朝の裁定に悪意があってのこと、その頼朝を討つことこそが真の忠孝なるぞ云々、そう兄弟を諭して頼朝の暗殺をも実行させようとの企みは、時政ならば有り得ることだ。じっさい、父の仇をみごと討ち取った兄弟がその場で捕らえられることを拒み激しく抵抗しているのは不可解である。その答えは五郎が最後に頼朝の寝所に踏み込んだということが十分明らかにしてはいまいか。ほかにも兄弟が陰謀に巻き込まれたとする諸説は存在するが、そこに当事者たちの罪悪感があったことには違いなさそうだ。

助六は意休にも刀を抜かせようと挑発する。しかし貫禄の意休は動じない。

芝居が進む中で、意休の子分どもや兄の十郎、吉原詣での田舎侍やらが出てきては江戸風俗を楽しませてくれる。中でも通人(遊びなれた旦那)の股くぐりは見せ場で有名どころが至芸を披露する。そしてとうとう母の満江までもが登場してくれる。喧嘩ばかりしている我が子が情けなく、暴れるとすぐに破れてしまう紙子の衣装を助六に着せ、この紙子は母との約束と思い決して破いてはなりませぬぞと言い渡して去ってゆく。しかたなく喧嘩をじっと我慢する助六。曾我ものは忠孝の心が大前提、その主人公であるからには母との約束を破るわけにはいかないのである。
いよいよ静かなる山場を迎える。店に上がっていた意休が再び現れると助六は揚巻の内掛けの裾の内に(喧嘩ができないので)隠れる。揚巻を口説く意休。くやしい助六は意休のすねをつねって嫌がらせをする。しかしはじめから全てを見通している意休は助六に喝をとばす。

「時致の腰抜けめが」

曽我五郎の諱(本名)の「時致」を発することは助六が曽我五郎時致その男であるのを知っていたことであり、意休その男もこの世の者ではないことを意味する。

そう、意休は実は伊賀内左衛門家長、またの名を平家長、源平最後の合戦壇ノ浦の戦いで平家方の総大将・平知盛とともに入水した武将の再来であった。二位の尼に抱かれた安徳天皇と三種の神器が海に沈んでゆくさまを見届け自らも命を絶った内左衛門はその後に神器なき帝を後ろ盾として将軍となる源頼朝、頼朝が礎となる武家政権とその集大成となる江戸の世を、冥土で歯噛みをしながら見ていたのであろう、泰平の江戸の浮世に迷い出て五郎時致にまみえる。意休はその場にある三本足の香炉台を引き合いに出しながらのたまう。兄弟三人が心合体なすば千斤の鼎を置くとも倒れず崩れず、また離ればなれになるときはこのとおり…そして刀を抜いて香炉台をばったと切り倒す。その刀こそ探しあぐねた友切丸であることを助六はしかと見た。かつて工藤祐経が幼い五郎を説教し短刀を授けて引導を渡したように、意休は廓で恋に耽る助六を叱咤し友切丸をわざと見せ付けて助六に大望成就の火をつけた。平家の武将の亡霊ともいえる内左衛門が五郎を鼓舞するからには、言うまでもなく頼朝を討てと告げているのである。  
  
           幕
                     勇み立つ助六、止める揚巻、友切丸を掲げる意休

今では大抵はぶかれるが、この後に助六は意休を斬り友切丸を手に入れる。追っ手から身を隠すため助六は水を湛えた大桶に飛び込み(水入り)気を失う。おそらくは、壇ノ浦で自害したように内左衛門は助六の体を借りてまた入水しあの世へと還っていったのではないか。内左衛門の霊が体を通り抜けていったために昏倒した助六は揚巻に抱きしめられて蘇生する。虎御前によって曽我兄弟の物語がこの世に蘇ったことへの追憶か。



曽我兄弟を取り巻く陰謀も鎌倉幕府の内紛も今でこそ書籍や論文などに書かれるようになった。しかし驚くべきは、そんなことは江戸の庶民の間では常識だったということである。
頼朝の目の黒いうちは東国の武士たちを心の糸で繋ぎとめることができたが、彼の死後は鎌倉幕府は音を立てて崩れ北条氏の手に落ちる。本領安堵という物質的な約束ではつわものたちを縛ることは叶わず、安堵する領土が足りなくなれば主従の大義名分が立たなくなった。争いは争いを呼び、元寇の後三百年をこえる混迷の時代を経てやっと江戸時代を迎えることができたのである。この混迷期の出来事は芝居や芸能に刻まれ天下泰平の江戸の町衆に広められたのである。残念だが今の歌舞伎はその型を踏襲はしているものの、その上澄みだけを楽しむものに過ぎない。



ところで「友切丸」の行方はいかに。本物かどうかは確かめる術はないのだが、いまは大阪の北野天満宮に収められているという。北野天満宮といえば寺社の中でも悪霊鎮護専門店として知られている。それなら…本物?
 



歌舞伎見物のお誘い―土蜘蛛

最近ではほとんど上演されなくなったというこの「土蜘蛛」、その理由は物語性に欠けるからだと何かで呼んだことがある。素人の意見であれば罪はないが、もしこれが専門家の論評だったとしたらちょいと待った。先生、あんたも土蜘蛛の恨みを買いますぜ。

「土蜘蛛」
                                「土蜘蛛」



時は末法の頃、千筋の糸を放つ妖怪「土蜘蛛」が一族の恨みを晴らさんと源頼光(みなもとのらいこう)を苦しめた。その妖怪退治譚がこの「土蜘蛛」である。見せ場はなんといっても白い蜘蛛の糸を模したなまり玉が美しい軌跡を描いて舞い狂う立会いの場面である。

この物語が歌舞伎として舞台に登場したのは実は明治になってからで、歌舞伎においては古典の中に数えられない。しかし題材とされたのは古典も古典、能の「土蜘蛛」あるいは「土蜘」である。能に取材して作られた歌舞伎芝居の背景は能舞台を模して羽目板に松を描いたものとするという決め事がある。このような芝居を「松羽目物」といい、勧進帳や船弁慶などもそうである。

江戸時代はもとよりそれ以前から能は舞うのも観るのも貴族や武士の特権であり庶民には禁じられていた。彼らに許されていた芸能に「神楽」があるが、「土蜘蛛」はこの神楽にも取り上げられている。さて土蜘蛛とはいかなるものか。

       
                  土蜘蛛の精


「土蜘蛛」が日本の文献にはじめて登場したのは古くも「日本書紀」と「古事記」(それ以前の文献が残っていないので仕方がないのだが)、つづいて諸国「風土記」に記載が見られる。いずれも朝廷の意にそわぬ集団すなわち「まつろわぬ者」たちである。

後の神武天皇カムヤマトイワレヒコがまだ天皇として即位する前、帰属を拒む土着の豪族たちを征伐しつつ覇権を東へと広げていった。これを古代史では神武東征と呼んでいる。土蜘蛛は記紀の東征譚のなかに書かれている。
まず古事記では「尾生土雲八十建―尾の生えた土蜘蛛ヤソタケル」とあり、八十建‐ヤソタケルとは単独の人名ではなく、八十建つまり「猛き者の群集」の意である。尾があるといういかにも未開な集団と表現されたこのヤソタケルをイワレヒコはだまし討ちにした。ヤソタケルに近づき宴を催して豪勢な料理をふるまうが、ある歌を合図に料理人たちがヤソタケルを討ち、倒したという。
そして日本書紀ではイワレヒコの大和地方征圧において新城戸畔(ニヒキトベ)・居勢祝(コセノハフリ)・猪祝(ヰノハフリ)の三者をさして「三ヶ所の土蜘蛛」との記述がある。ハフリとは司祭者または巫女を意味し、呪術性のある首長の存在を物語っている。記紀の後に書かれた諸国の風土記にも登場する土蜘蛛の多くは女性の首長が統治していたという。

それに続いて登場するのが葛城山の土蜘蛛である。

大和・和泉にかけてつらなる和泉山脈と金剛山地に「葛城山」と名のつく山が幾つかあるが、この地には朝廷が興る前から自治をする集団が、あるいは王朝があった。その民は胴が小さくて手足が長く、蜘蛛のようにな姿で歩き、洞穴の中で暮らしていた。彼らがやすやすと神武東征に屈するわけもなく激しく抵抗したという。
イワレヒコ(神武)は葛のつるで編んだ網をしかけてこれを誅殺し、この地が「葛城」とよばれる由来となった。因みに常陸国風土記にも登場する土蜘蛛伝説では茨のつるで編んだ網で土蜘蛛を退治しその地を「茨城」と呼ぶようになったとの記述がある。実に興味深い。

この葛城山の土蜘蛛の恨みが後の世によみがえる。黄泉から、還る。

汝知らずや、我れ昔、葛城山に年を経し、土蜘の精魂なり。
なお君が代に障りをなさんと、頼光に近づき奉れば、却って命を絶たんとや


謡曲「土蜘蛛」より

平安の時の世、権力を争う貴人たちの間では讒言と呪詛が絶えず、一方で都を繰り返し襲う災害や疫病は失脚させられ怨霊と化した者の祟りと恐れた。そのための加持祈禱や寺院建立、荘園の開墾と寄進は凶事とともに庶民たちを疲弊させた。そんな都において貴賎を問わず誰もが頼りにしていた存在、それが源頼光である。武芸を修め心身ともに磨き上げられた武人の握る刀には破魔の力が宿り、末法の世にはびこる悪霊を討ち祓うと信じられていた。

しかしその頼光までもが瘡(マラリア)に倒れた。

病床の人となった頼光を甲斐甲斐しく看る侍女の胡蝶は薬と偽り頼光に毒を盛る土蜘蛛の化身であった。そうとはっきり表現しているのは神楽のみで能と歌舞伎では仄めかすにとどめてある。そして夜更け、頼光のもとに現れた怪しげな法師が自らが蜘蛛であることを明かし千条の糸を放って頼光を責めるが、名刀「膝丸」を抜いて返す頼光に背を斬られ退散する。 

                  智籌
                           怪しげな僧・智籌 じつは土蜘蛛の精魂
  

土蜘蛛の精魂は神武天皇への恨みをその子孫が治める世を乱すことで晴らそうとした。頼光に近づいたのは都の守を揺るがすためとひとまず解釈しておく。

土蜘蛛の精は血痕をたどり追ってきた武者たちと再び渡り合い、そして仕留められる。

「土蜘蛛」のあらすじは上のとおりで能・神楽・歌舞伎ともにほぼ共通している。その出典は平家物語のなかに見られ、さらにそれは日本書紀を拠り所にしている。では、蜘蛛の巣を掻き分けながらその先に入ってみよう。

平家物語によれば手負いの土蜘蛛は北野天満宮へと退いていった。特筆すべきは、北野天満宮に祀られているのが菅原道真であることだ。
当時、菅原道真の怨霊に対する人々の怖れは大きかった。文官としての最高位にあった道真を失脚・配流に追い込んだのは政敵の藤原時平、しかし時平はその後若くして世を去り、その後も時平を外戚とする皇族たちの病死、雨乞いの祈禱をする最中の内裏が落雷をうけ火事となり多くの死者が出たほかそれを目の当たりにした帝までもが病死する。重なる凶事を人々は道真の怨霊と結びつけ、それを鎮めんと北野天満宮を造営し道真の霊を祀ったのである。

    雷神
                               
                               北野天神縁起絵巻


「祀る」とは表向きはその霊をなぐさめるためであるが本来は霊力をそこに封じ込めるためと言える。道真の霊を是非とも封じ込めておきたかったのは言うまでもなく藤原摂関家である。

藤原氏は飛鳥時代以来、政敵を陥れて官職を奪いながら地位を固めた一族であり、古代史の政変に藤原氏がかかわらなかったことはほぼないといってよい。その傍らで女子を天皇家に嫁がせて外戚となり朝廷を意のままに操った。飛鳥・奈良・平安を通して藤原氏の謀った政変の最後に位置するのが安和の変(あんなのへん‐969年)である。
醍醐天皇の皇子として生まれるが源氏の家に降下した源高明はその高貴な身分にあわせ朝儀や学問に通じており、冷泉天皇の即位とともに左大臣に上り詰めた。しかしこのとき、冷泉帝の皇太子を選ぶにあたって争いが起きた。関白を務める藤原実頼と右大臣の藤原師尹が源高明のさらなる躍進(外戚となること)を阻まんと共謀し、源高明に謀反の疑いをかけこれを失脚させた。高明は菅原道真とおなじく大宰府に左遷、藤原師尹は右大臣から左大臣に昇格した。

しかし、安和の変の裏には実際に藤原氏に反逆する動きがあったという指摘がある。それに絡むのが頼光の父、源満仲である。

朝廷の支配の行き届かない山の奥で周囲とかかわりを持たずに生きる土着の民がおり、彼らはやはり土蜘蛛と呼ばれ蔑まれていた。源満仲は安和の変に乗じて藤原氏を倒すためこの土蜘蛛一族を謀反に抱きこみ武装させたという。しかし満仲は挙兵を断念、そればかりか保身のために謀反の存在を朝廷に密告したとある。朝廷を憎悪する土蜘蛛たちは今こそと決起したが密告を受けた朝廷に殲滅されてしまう。

頼光が土蜘蛛の精に呪われたのは父・満仲の所業への報いであったと囁かれもしたという。

源高明への疑いは濡れ衣であったとの見方が強いが、「源平盛衰記」には高明は東国に下り、先の皇太子争いに敗れた為平親王を奉じて挙兵しようとしていたとある。もしこれが本当であればかつて東国の受領を歴任しこの地の土豪たちとも縁が深かったであろう源満仲の存在がさらに重要になる。そして満仲が手を結ぼうとした土蜘蛛とは、先に記した常陸の国は茨城の土蜘蛛一族の末裔ではあるまいか。


もう一点、気になって仕方のないことがある。
能「土蜘蛛」の謡いのなかでの、もはや最後が迫ったと気を落とす頼光とそれを励ます胡蝶のやり取りが何やら妙に色っぽい。


〽色を尽して夜昼の。色を尽して夜昼の。境も知らぬ有様の。時の移るをも。覚えぬほどの心かな。


謡曲の解説書を見れば「色を尽くす」は「色々と手を尽くす」という野暮な対訳しかついていない。しかしわざわざ「色」ということばを使っているからには「色事」の意が係っていると採るべきであろう。さらに続く「夜昼の境も知らぬ有様」がそれをうけ強調している。夜昼を問わず色事に耽った末に病になったといってしまうのはやや下世話だが、頼光といえば鬼の首を切るほどの豪傑、それが蜘蛛の色仕掛けで骨抜きにされそうだとあれば聴衆もさぞや気を揉むことだろう。
数ある風土記に記された土蜘蛛の集団には、おそらくは巫女の役割をはたした女性の首領の存在が多く見受けられるが、これを土蜘蛛の精が美しい女の姿で頼光に近づいたことの原点とみてよい。歌舞伎では怪僧(じつは土蜘蛛の精魂)の役をつとめるのは女形というのが普通(そのときの興行によって胡蝶が出なかったり僧が出なかったり、胡蝶と僧と土蜘蛛の三者を早代わりで演出したりと色々)である。

土蜘蛛が歌舞伎になったのは近代になってからと先に述べたが能と神楽のそれが作られたのは古い時代にまで遡り作者も判っていない。当時の人々にとって土蜘蛛とはまだ伝説と化す前の記憶に新しい存在だったであろう。そして朝廷への帰属を拒み抵抗するもいずれは消え行く運命にあったことへの哀れみをひそかに覚えていたのかもしれない。その記憶が芸を通して受け継がれたからこそ、舞台で見得を切る土蜘蛛に惜しげない喝采が集まる。
 
明治以降、世が西欧化を推し進めるにつれ歌舞伎の世界も変革をせまられた。それまでの歌舞伎の筋を「非合理」「荒唐無稽」とし、近代国家にふさわしい「起承転結」が理路整然と表現されなおかつ不明瞭な時代考証が正されることを求められ「西洋人にも解るように」しようというのである。すなわち西洋人に解らないものは価値がないと言っている。この馬鹿げた発想は西洋から流れ込んだ新しい価値観を重視するあまりそれに合致しないものを完全否定した当時の風潮、いや政策に由来する。

その昔、遣唐使のもたらした大陸文化は日本を大陸色に塗り替えてしまった。これは後に明治維新をもっていまいちど繰り返される。遣唐使廃止を建白した菅原道真は讒言により失脚、その首謀者の藤原氏の祖をだどれば日本の律令化に貢献し日本書紀の「著者」でもある藤原不比等に行き着く。日本書紀以前の史書は不比等の父(中臣)鎌足によって蘇我氏とともにすでに闇に葬られていた。
藤原氏の策謀や朝廷の弾圧により生まれた怨霊・鬼を退治するはずの武士たちは、却って貴族たちから政権を取り上げ武士たちの治める国を作った。いま、日本の古典芸能とよばれるものが大成されたのは貴族の世ではなく武士の世であった。

歌舞伎のみならず日本の芸能は決してそのひとつの話では始終せず、それぞれに遠い太古から続くこの国の足跡が刻まれこれからの行く末をも映している。それを縦糸とすれば、横糸は話と話の間の切りようのない繋がりであろう。縦と横、限りなく広がる世界のたった一部を画のように切り取って楽しむことを、日本人は好んだ。それはみる側とみせる側の双方の魂が豊かであったからに違いない。長屋の子倅たちまでもが頼光と四天王に扮して遊ぶ、日本人たちはそのむかし、そんな国に生きていた。

そして明治、藤原氏の子孫たちは公爵として政界に舞い戻り西欧文化の輸入にいそしんだ。明治維新はそれまでの時代とのあいだに亀裂をつくった。土蜘蛛の精魂は時代の裂け目から這い出し、この時代を生きた天才戯作者・河竹黙阿弥の筆をつたってふたたび世を呪った。

          土蜘蛛



我を知らずや其の昔、葛城山に年経りし、土蜘の精魂なり。
此の日の本に天照らす、伊勢の神風吹かざらば、我が眷族の蜘蛛群がり、六十余州へ巣を張りて、疾くに魔界となさんもの


歌舞伎「土蜘蛛」より

歌舞伎見物のお誘い―勧進帳

唐突だがお許しあれ。

こともあろうに「歌舞伎の筋は荒唐無稽、とても追随できないので深く考えないように」などという歌舞伎解説が多い。そんなこたあない。古典に精通しているはずの識者の皆様がこんなことを言ったんじゃ、嫌でもそういうことになっちまう。

そこで今回あたらしく立ち上げましたる新連作、
歌舞伎がなんでこんなに面白いのか、知らざァ言ってきかせやしょう。


                    勧進

                                 「勧進帳」


初回という事もあるので有名どころから引っ張ってみたい。

時は鎌倉前夜、壇ノ浦の合戦を以って源平の戦いも終わりを迎え、平家を滅ぼした源頼朝は武家の大棟梁たるべくその礎を固める中、どうしても厄介な者がいた。義弟、源義経であった。
鞍馬山での稚児時代、そして奥州平泉での食客時代を通して義経が夢見続けたのは「平家打倒」であった。いまだまみえぬ義兄、頼朝の挙兵を知り「いざ鎌倉」と奥州を駆け出した義経は戦功を重ね頼朝をよく助けた。
二人の想いは何処で行き違ったか、義経は兄の不興を買い追われる身となり自らの原点ともいえる奥州に落ち延びるべく、義経は弁慶そして四天王とよばれた郎党らとともに東をめざした。芝居はここからはじまる。


〽旅の衣はすずかけの 旅の衣はすずかけの 露けき袖やしおるらん

すずかけ(篠懸)の衣とは山伏が着物の上に着る露よけの衣のこと、一行は修験の者に身をやつし、月の都を立ち出でて濡れぬ衣を涙で濡らしつつ加賀安宅の関まで辿り着いた。帯刀した者たちが大勢で移動するとなれば怪しいのは当然で、姿を変えるとすれば山伏が妥当であった。一方頼朝も義経一行が変装し東国へ向かうであろうことは察しており、各地の関所にて山伏を硬く詮議するよう達していた。

歌舞伎「勧進帳」は能の「安宅」を模しており、ほぼ忠実にその筋が再現されている。安宅とは現在の石川県にある地名、そこに新たに設けられた関所には富樫左衛門が義経を討ち取らんと目を光らせていた。


弁慶は義経を強力(ごうりき‐荷物持ち)に仕立てた。
まさか主君が荷物持ちの姿をしていようとは気付かれまいと敵の目を欺くための算段であった。

「所詮みちのく(陸奥)までは思いもよらず」と覚悟を決めている義経は今さら強力などに姿を変えることがあろうかと弁慶に質す。郎党どもも刀に物を言わせて関を踏み破ると息巻くが弁慶は、とにもかくにもこの弁慶にお任せあれとこれを押し留める。

勧進帳では義経役を勤めるのは女形と相場が決まっている。舞台の義経には平家を滅ぼした猛者の姿はなく、まるで姫君のようである。とはいえ決して女々しい訳ではないがあまりにも儚い、義経の行く末を知る聴衆にとっては尚のことそう映るのである。能の「安宅」では子方(子役)が義経を舞うのだが、これは死地を求めて旅をする義経の魂がすでに浄められ菩薩と化し、遮那王と呼ばれた稚児のころの姿でそれを体現したのではないかと思う。それを必死で庇護するのが不動明王のような弁慶であった。

布施を募ることを勧進という。消失した東大寺を再建するための資金を諸国を巡り集めるために遣わされた、と申し開きをする弁慶に、ではその勧進の証である勧進帳のなきことはよもやあるまじと迫る富樫左衛門。

  勧進帳
                                     勧進帳読み上げ

弁慶  なんと、勧進帳を読めと仰せ候な
富樫  いかにも
弁慶  ムム、心得て候

弁慶の手にもとより勧進帳はあるはずもなく、白紙の巻物を天も響けとよみあげる。

富樫はさらに問い詰める。山伏の装束の由来は何ぞや、仏門にあって刀を佩くのは如何に、云々。もとは高野山の修行僧であったためそれに難なく答える弁慶であった。これは山伏問答と呼ばれる場面である。

「勧進帳」ひいては「安宅」は軍記物語の「義経記」に取材したものというのが常識であるがこれは明治以降の常識に過ぎない。義経と弁慶の都落ちは日本にもっと古くからのこる諸伝説が基になっている。

「御伽草紙」に収められた物語は民衆に語り継がれた太古の伝説をおおく含んでいる。その中にある「大江山の鬼退治」はこの「勧進帳」の要素のひとつと指摘したい(過去に指摘はあったであろうが書物となっているかどうかは調べられなかった)。

その昔、丹波の国の大江山のその奥に、京の都を脅かす鬼どもが棲んでいた。女を攫い人を喰い宝を奪うなどして人々を震え上がらせていたという。帝は鬼の棟梁・酒呑童子退治の勅命を源頼光に与えた。この摂津源氏の頼光は義経や頼朝の直系の祖にあたり、轟く武勇は帝のおぼえもめでたく都の警護には欠かせない人物であった。頼光は四天王とよばれる渡辺綱、坂田金時(金太郎)、碓井貞光、卜部季武らの郎党を従え、加えて貴族ではあるが剛の者であった藤原保昌と共に石清水八幡・住吉明神・熊野権現へと詣で鬼退治を祈願、そして鬼たちに怪しまれぬよう山伏にと姿を変え大江山へと向かった。もうここまでで勧進帳の原型となっていようことは明白だが、まだ続く。
一行は途中、三人の翁にであう。聞けば彼らはそれぞれ都のそば、津の国、紀の国から鬼に攫われた妻を捜して来た者という。頼光らが勅命をおびて鬼退治に参じたことを知っており、「神便鬼毒酒」なる、鬼にはしびれる毒となり、神の使いには薬となる酒を差し出した。この翁たちは石清水八幡・住吉明神・熊野権現の使いであった。
鬼の棲家に入り込んだ一行は酒呑童子の前に通され、自らを鬼神に呪文を与えることを修行の旨としていると偽った。一行を怪しむ鬼は頼光に激しい山伏問答を投げかける。尽く答うる頼光を本物の山伏と認めた酒呑童子は心を許して身の上を語る。

  大江山
                               「大江山酒呑童子酒宴之図」

「我が名を酒呑童子と言うことは。明け暮れ酒に好きたる故なり。されば是を見かれを聞くにつけても。酒ほど面白き物はなく候。客僧たちも一つきこし召され候へ」(謡曲 大江山)

こうして客僧をもてなす酒宴の席となり、頼光は土産の神便鬼毒酒を皆に勧めた。

「我比叡山を重代の住家とし」ていたが、「大師坊(伝教大師)というえせ人」が見せた奇跡に仏たちも騙されて「出でよ出でよと責め給えば」仕方なく比叡を立ち退き、あちこちの山を渡り歩いた挙句都に近い大江山に参りしも、今は末法の世、大師坊の如き法力の持ち主は絶え、ときおり都に出向いては好き放題をし楽しんでいるところだが、頼光という強者が邪魔をするようになったとつづける酒呑童子であった。

                          酒吞童子
                                   酒呑童子

しかしふと頼光を睨みつけ、ようよう見ればおぬし頼光に似てはおらぬか、と呻く。そこで頼光はその場を乗り切らんと――頼光とは神を畏れぬ極悪非道の者なればそれに似るとは承服しがたくも、この上は力及ばず、我らが命取らんとあらば好きにされよ――と居直った。非礼を詫びた酒呑童子、ますます酒を重ねては寝入ってしまった。鬼たちはそうして首を切られた。

「勧進帳」の山伏問答の後はこうである。一行は関を通ることを許され出立するが義経扮する強力がこの者は判官殿(義経のこと)に似ていると呼び留められた。もはやこれまでといきおい立つ郎党を押し留め、弁慶は最後の大芝居に出た。

弁慶「判官殿世と怪しめらるるは、おのれが業の拙きゆえなり、思えば憎し、憎し憎し、いでもの見せん。」

〽金剛杖をおっとって さんざんに打擲す

弁慶「御疑念晴らし、打ち殺して見せ申さん」
富樫「早まり給うな、番卒どものよしなき僻目より、判官殿にもなき人を、かく折檻もし給うなれ、今は疑い晴れ候、とくとくいざない通られよ。」

不動明王の「鬼」の側面を見せる弁慶であった。家来が主君を打つなどはもってのほか、しかし何としてでもこの場を切り抜け奥州へと落ち延びなければならぬと心を鬼にして禁を破った。弁慶の機転と忠義心に胸を打たれた富樫は通行を許す。富樫はとおに義経らであることを見抜いていたのだ。武士の情けなれども義経を見逃すことは鎌倉に対する謀反、即ち死罪に値することは承知千万。

富樫は門の内に去る。不忠を泣いて詫びる鬼の弁慶、手をとって許す菩薩の義経。

そこへ暫し暫しと酒を持って現れる富樫、先ほどの面目を雪ぐため一献差し上げたいと酒を勧める。ありがたやと葛桶の蓋に酒を注がせ一気に飲み干した弁慶は請われて舞をさす。

ここに酒盛の場面があることは大江山鬼退治の騙し討ちという原点を見事に構築しなおしている。酒で尻尾を出させる謀りごとかとちらり疑う弁慶、ともかく請われるままに舞をさし、関守たちが見惚れる隙に義経以下郎党どもを出立させる。

〽とくとく立てや手束弓の、心許すな関守の人々、暇申してさらばとて 笈をおっとり肩にうちかけ

「鬼」と呼ばれた酒呑童子は太古、民衆の信仰の対象であった。が、仏教が朝廷により広められるにつれ居場所を失っていった。童子が伝教大師を「えせびと」と呼び、仏たちがそれに騙されたと語っているところが鬼の心情を表している。童子の生い立ちを語る説のなかで注目すべきは伊吹山の鍛冶師の息子として生まれたというものである。父の伊吹弥三郎と呼ばれた者は八岐大蛇を祀る一族の子孫、かのスサノオに退治されたオロチ族の一派が出雲を逃れて伊吹山に棲むようになったという。そして伊吹山も大江山もかつては鉄を産出した山である。
鬼たちの根城は「鬼の岩屋」とも「鉄の御所」とも伝えられている。これを鉄鉱山と解することで古代の製鉄集団が鬼と呼ばれて恐れられ、朝廷に背き、いずれは征服されたという、史書にはさやかに書かれていない歴史に触れることが出来る。朝廷に背くことが必ずしも「悪」であったという解釈は愚かしい。
八岐大蛇も八塩折之酒‐ヤシオオリノサケという強い酒で酔ったところを成敗されている。子孫の酒呑童子もまったく同じ手を喰らうのだが、この卑怯な騙し討ちは日本の支配者たちが「特定の敵」に対してたびたび行ってきた。

義経らが目指した「みちのく」とは「道の奥」、律令国家となってもなお天皇の威光が届かぬ東北が道なき未開の地と思われていた頃の名である。都からは遠く離れ雪深い、縄文の血の色濃いみちのくの人々は平安時代を迎えてもなお征し難く反乱が絶えなかった。陰陽道に照らし合わせれば東北は丑寅の方角、即ち都からは鬼門にあたり、鬼やもののけの棲む「穢れ」の地と括られた。人が人を支配しようとしたときに必ず生まれる都合とでも言うのか、特定の敵とは「穢れ」と想定された者たちを指す。
このみちのくに生きた人々を「えみし‐蝦夷、毛人」と呼んだ。朝廷との争いの中で少しずつ帰服がすすみ大和化した蝦夷たち(俘囚)こそ、武士の祖である。学校日本史は武士の起源を荘園警護の土豪としか教えない。

武家のことを「弓馬の家」という。馬を駆り弓を使いこなす技はこの弓馬の家に生まれ育つことで得られる。遠い先祖の昔から馬と弓と供に暮らしてきた彼らを朝廷が追い落とせなかった道理はここにある。蝦夷を祖とする優れた武芸者たちは次第に都の戦闘貴族たちの郎党に組み入れられ平氏や源氏という巨大な武士集団が形作られた。彼らに求められたのはむき出しの武力ではない。卓越した武芸に裏打ちされた死をも恐れぬ強き魂があってこそ手にできる「辟邪の武」である。人の手に負えない疫病や天災の元凶となる悪霊を退治するにはこの辟邪の武をおいてほかはなかった。これが源頼光が鬼退治の大役を仰せつかる所以であるが、武士も鬼も互いに朝廷から恐れられ疎まれたものの中から生まれたことは皮肉であり、皮肉こそが人の世の常である。


義経を育てた奥州藤原氏も源氏に忠誠を誓うみちのくの武家の一つであった。源氏の子として生まれ生粋の武人たちの下で弓馬を修めた義経は「辟邪の武」の継承者としてふさわしく、それは合戦で華々しく証明された。しかし人々か義経に酔いしれるのとは逆に頼朝は苛立っていた。腹黒い貴族と血の気の多い武士たちの間を取り繋ぎ新たな政権を立ち上げる政治の「建て前」が、義経から匂い立つ武士の「本音」とまるで噛み合わなかったのだ。結末は悲劇、義経追討という鬼退治になった。

酒呑童子が酔い潰されて首を切られるその断末魔、「鬼に横道はなきものを」と恨みをこめて言い放つ。まつろわぬが故に征される者の声であろう、征することこそ横道なるや。義経はこうして鬼の胎内へと戻るがその二年後、頼朝にもはや逆らえない奥州武士たちに攻められ自害、さらに頼朝が奥州を平定し、夢の跡には夏草が生い茂る。

弁慶は酒呑童子であり、不動明王でもあり、頼光でも渡辺綱でもある。
富樫は鉄の御所で頼光を待ち受ける鬼の棟梁であり、鬼退治の役目を負う頼光でもある。
義経は穢れとして追われる身であり、聖として守られる身であった。

このような交錯を受け入れられるのは近代以前の日本人の豊かさであった。
神と仏と鬼が入れ替わる。聖と俗が立ち変わる。日本の足跡そのものである。

明治以降、演劇に対する批評の目はシェイクスピアという色眼鏡をかけられてしまい、よりよい芝居には起承転結と善悪が整然と表現されることが求められ、町人の子供でも飲み込めた歌舞伎の筋書きは「荒唐無稽」と罵られるようになった。庶民から三度の飯より好きな歌舞伎を取り上げて高嶺の花の伝統芸能と奉ったのはGHQであった。そして見向かれなくなった。歴史書にない日本史の語り部であった歌舞伎はこうして封印されたも同然、いまさら「識者」などにそれは解せない。
歌舞伎を見れば先祖たちの息づかいは我々に、技に裏打ちされた役者たちから必ずや伝わるだろう。それを感じたならば知識などはあとから幾らでもついてくる。

                   富樫
                   弁慶


舞台で見送る富樫、花道に立つ弁慶、互いに想いを共にする同士、見交わし、幕。
富樫に心を残し、弁慶は飛び六法にて花道を入る。


〽虎の尾を踏み 毒蛇の口をのがれたる心地して 陸奥の国へぞ くだりける

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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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