歌舞伎見物のおさそい―妹背山

いにしへの 賤のおだまき繰りかへし むかしをいまに なすよしもがな

「伊勢物語」にあるこの古歌が縦糸となり、遠い神代からこの世が繰り返してきた業を横糸に織りなした衣のような、そんな芝居がある。「おだまき」とは糸巻きのこと。糸を巻きかえすように昔を今に巻き戻すことができたなら、と思うのは、昔も今もかわらない。

正しくは「妹背山婦女庭訓―いもせやまおんなていきん」、古代の王朝交代を江戸の戯作者たちは冷徹に見抜き我々に供じていたのである。しかしすっかり鈍くなってしまった日本人はそれを受け取ることがままならなくなってきた。下手をすればこの戯作のもつ意味はこのまま埋もれてゆくだろう、それはあまりに惜しい。
しからば野暮を承知の悪あがき、何卒ご容赦のほど御願い奉りそうろう。

  妹背山婦女庭訓
                               「妹背山婦女庭訓」

背景

蘇我氏は物部氏をおさえ、さらに崇峻天皇を暗殺、姪の推古女帝を立てると朝廷の実権はいよいよ蘇我馬子の手に落ちる。その子の蝦夷、さらにその子の入鹿の代まで専横をつくすもやがて中臣鎌足と中大兄皇子により討たれ(乙巳の変)、時代は律令国家の形成へと動いてゆく。


序段、二段目、

病で失明した帝は臣下の者たちに操られ、腹心であった藤原鎌足は謀反の疑いをかけられて息子の淡海とともに行方知れずとなってしまう。蝦夷は自らの娘・橘姫を皇后に立てようとしていたため、鎌足の娘で帝の愛妾でもあった采女の局も宮中から姿を消してしまった。蘇我入鹿は朝廷から帝を追放し自らが帝位につこうとする父・蝦夷の行状を仏法にかなわぬ非道だとし、父を諌めんがために即身仏となる入定修行にはいる。これに怒る蝦夷は入鹿の妻めどの方に詰め寄り、お前たちは味方ではなかったのか、では謀反の連判状を返せと斬りかかると、めどの方はその連判状を火にくべて燃やしてしまう。が、じつは偽物であり、そこにめどの方の父・安倍行主と大判事(司法官)が勅使として現れ本物の連判状を出して蝦夷を追い詰める。蝦夷はもはやこれまでと腹を切り自害する。大判事が蝦夷の介錯をしようとした瞬間、安倍行主が矢に倒れ息絶える。切腹も介錯も武士の風習であり古代豪族のものではないが、芝居の上では豪族たちを武士として描いている。

矢を放ったは蘇我入鹿、法衣を纏う入鹿が現れ、大判事にむかいこれまでの悪行をいけしゃあしゃあと言い聞かせる。父の器では帝位を奪うことはままならぬと、謀反の罪を父一人に擦り付けて自害させ後から全てを奪おうとのはかりごとであった。三種の神器を盗もうとしたが鏡と勾玉は見つからず、仕方がないのでこの「村雲の宝剣」だけは手に入れたと豪語する入鹿は、白塗りの二枚目から青隈取りの「公家荒れ」にかわり豪胆かつ陰鬱な恐ろしさをかもす。

いつまでも子が授からなかった入鹿の母は「白い牡鹿の血」を飲むことで入鹿を身篭ったのであった。鹿の入りたる蘇我入鹿、大悪党の由縁ここにありき。

入鹿を退治するには「爪黒の鹿の血」が要るという。そしてもうひとつ、「凝着の相のある女の血」が要るという。凝着とは嫉妬のことで、この両方の血を注いだ笛を吹くと入鹿の中の鹿の本能が暴れだし己を失う、そのときにこそ入鹿を倒すことができるという。


入鹿の暴挙は止まるところを知らず宮中に乱れ入り帝位を宣下する。三笠山に造営した御殿を大内裏と称し、その勢いに適わぬと悟った諸国の豪族たちは貢物を手に入鹿の元にに参内し恭順の意を表すのであった。
伊勢の神風吹き止んで天下がいよいよ傾こうとしていたその頃、愛妾の采女の局が池に身を投げて自害したとの噂を信じ、嘆きのあまりその池に行幸していた帝はまだ三笠山でのことを知らずにいた。知らせを受けた鎌足の息子・藤原淡海は帝にそれを気取られまいと猟師の芝六の家に匿うのであった。この芝六、じつは藤原家の家臣であり、主人鎌足の入鹿征伐のために黒爪の鹿を射止めていた。しかし神鹿のいる葛籠山は禁足地、ここで鹿を射ることは死罪に値した。芝六の息子の三作は鹿殺しの罪を被り石子詰めの刑(地面の穴に入れられ石で埋められる)を言い渡されそのための穴が掘られるが奇跡がおこる。掘った穴からは紛失していた三種の神器のうち鏡と勾玉が見つかった。その瞬間に帝の目は治癒し、自害したと見せかけて父親の鎌足のもとに身を寄せていた采女の局とも再会を果たす。三作はご赦免となる。

神鏡と勾玉の出現で光が戻る、それはアマテラスの天岩戸神話が元になっている。

藤原淡海とは日本古代史の立役者、藤原不比等その男である。中臣氏が壬申の乱で大友皇子の側についたことが仇となり政治の表舞台からは一時遠のいていたが、王族の妻を寝取り間にもうけた娘たちを次々と宮中に送り込み天皇の外戚としての地位を築いた。不比等にはじまり平安時代の終わりまでつづく藤原氏の外戚政治こそが日本史の基礎といっても過言ではなく奈良時代以降の皇室の血は最初の数滴を除けば藤原氏に由来する。さらにはわが国最初の国史書たる日本書紀の「立作者」として不比等から神代に遡る日本の足跡を「編纂」したのも不比等である。それまでに書かれていた「旧辞」「帝記」とよばれる史書は鎌足の入鹿暗殺を知らされた蝦夷が屋敷に火をかけ自害したおりに消失したとされている。が、そのことが記されているのも日本書紀でしかない。

この芝居において、藤原淡海(=不比等)と名付けられた役は史実での不比等と鎌足の両者を兼ねている(仕立ててある)。謀反の疑いで親子ともども政界から姿を隠すとある段は壬申の乱の結果、中臣氏が蟄居状態に陥ったあたりを示唆しているのだろう。ちなみに「淡海」は不比等が死後に諡られた国公(等級の名)である。

「帝」も一応は天智天皇という設定であるが裏がある。見えぬ目で亡き愛妾を求め彷徨う帝の女々しい描かれ方は少なくとも豪傑で知られる天智帝にはそぐわない。
645年の乙巳の変の後に続く改革を「大化の改新」と呼ぶ。この改革は孝徳帝の代で行われたが中心になったのは当時皇太子であった中大兄(後の天智帝)であった。鎌足は最初、入鹿暗殺の共謀者を帝位につく前の孝徳に考えていたが「器ではない」と断念、よって中大兄に持ちかけたとの説がある。
652年には日本初の首都といわれる難波長柄豊宮に遷都、しかし改革を進めるうちに孝徳帝と中大兄の対立が深まり中大兄は飛鳥河辺宮に群臣・皇族・皇后を連れて移ってしまう。皇后まで奪われた失意の孝徳帝は病に憑かれて崩御する。蘇我入鹿が役の上で三笠山に御殿を立て帝位を奪ったのは中大兄の行動を指しているのだ。

すなわち、「妹背山」の帝は天智帝ではない。天智帝に背かれた孝徳帝であり、入鹿の本性こそが天智天皇である。さらに入鹿が共謀していた父・蝦夷を見限る筋書きはどうやら鎌足の仕業をなぞらえたものである。


三段目

美しい仕掛けが有名で「妹背山」の外題の由縁でもある大事な場面であるが西洋のシェイクスなにがしの芝居に似ていて巣晴らしいなどの馬鹿馬鹿しい評価が付きまとう場面であり、胸くそ悪いので思い切って省略したい。しかし役者泣かせの難しい場面である。


四段目、「道行恋苧環」

さて大詰め、舞台は急に江戸風俗を醸し出す。造り酒屋の娘お三輪は店子(長屋の間借人)の烏帽子職人の求女とひそかに恋仲である。しかし長屋の衆とお三輪の母親は、やたらに上品なこの店子が実は行方の知れなくなった藤原淡海ではないかと噂する。

赤糸と白糸を巻きつけた二巻の苧環、恋のまじないだといって赤糸のほうを求女にわたすお三輪であった。

しかしその求女の元に通う姫様がいた。求女はお三輪と姫様の二股をかけていた。 二人の娘が鉢合わせ喧嘩になるが、姫様のほうは何か事情があると見えてその場から逃げてしまう。姫の後を追う求女、またその後を追うお三輪であった。
求女は姫の身分を知らなかった。名乗ってくれれば一緒になろうという求女に対し、名は明かせないけれど一緒になれるのならば死んでもかまわないという姫であった。名乗れないのもそのはず、姫は蝦夷の娘、入鹿の実の妹の橘姫なのである。
嫉妬に駆られた三輪が二人に追いつくとそこでまた言い争いになる。恋に貴賎の隔てはないが、橘姫に比べればお三輪はあまりに賤しい生まれだった。しかし熱い血潮をたぎらせるようなお三輪の恋の仕草が見るものを引き付ける。

           道行恋苧環
                               お三輪と求女


お三輪から渡されていた苧環の赤い糸を橘姫の着物の裾に仕付けた求女はそれを辿って姫を追いかける。白い糸を求女に付けて追うはお三輪。その糸の続く先は天下の大悪党の棲む三笠山御殿であった。

「お三輪」の名には何が隠れているのか、それは大和三輪山に祀られる三輪明神、つまりオオモノヌシ(大物主命)である。オオモノヌシはスクナヒコナに去られて途方にくれるオオクニヌシのもとに海を輝らしながら現れ、汝の和霊(魂の一部)であると宣い、自らを三輪山に祀るよう望んだ神である。蛇神、水神、そして酒造りの神であり、お三輪が造り酒屋の娘と仕立ててあるのはこのためである。
「古事記」によるとその昔、イクタマヨリヒメ(活玉依比売)の元に容姿端麗な男が突然あらわれ結ばれたが、子を身篭ったヒメの父母が相手は誰かと問うとどこの誰かもわからないという。そこで父母はヒメに教えて曰く、夫の着物の裾に麻糸を結び付けておき、朝にそれを辿れば夫が誰だか判る、と。その糸は戸の鍵穴から外に通じ三輪山の社にまで続いており、かの男はオオモノヌシであったという神話である。
求女が男でお三輪が女というのが神話と逆転しているが、男らしいとはいえない求女と、逆に火のように激しいお三輪の対比がこの逆転を打ち消している。

「橘姫」、古代史上で「たちばな」といえばこの女あり、犬養美千代またの名を橘夫人である。
王族の美怒王の妻でありながら夫の遠征中に藤原不比等に嫁ぎなおしている。離縁して再婚したのか不比等が略奪したのかは判らない。軽皇子(後の文武帝)の乳母をつとめ、不比等との間に生まれた光明子は後に聖武帝の皇后となる。王族以外の娘が皇后となるのはこれが始めてであった。軽皇子の母の元明女帝に与えられた橘姓を以って三千代は橘氏の祖となった。

そして「求女」、いわずと知れた藤原淡海じつは不比等である。求女という名は「綺麗な男」に使われるもので、二人の娘を恋に狂わせた男にはおあつらえというもの、しかも、この役はただの色男ではなく「色悪」とよばれるもので、己の野望のために寝技を使う卑劣な悪役なのであった。
不比等はまず娘の宮子を文武帝に嫁がせ、その二人の間に生まれた皇子が聖武帝となり帝の外祖父となっている。さらに光明子を皇后に立てることに成功したのである。

江戸時代の戯作者たちは、不比等がどんな男だったかようく御存知だった。


四段目、「三笠山御殿」

諸国の大名が入鹿のもとに駆けつけ恭しく挨拶を述べる中、明らかに場違いな粗っぽい男が屋敷に上がりこむ。難波の浦の鱶七(ふかしち)、鎌足と意気投合した漁師だという。鎌足が今までの非礼を詫びて仲良くやりたいという手紙をそえて酒を送ってきたという。当然怪しいこの男、侘びを受け入れないのはやましい事があるからだ、などと言うが入鹿はなぜか苦笑い、鱶七を殺さずに人質にとることにした。

                   鱶七 
                          鱶七  十五代目市村羽左衛門

屋敷に橘姫が戻り官女が着替えさせようとすると裾に付けられた糸の気づく。それを手繰り寄せれば恋焦がれる男が現れ、官女たちは喜んで囃し立てる。野暮は禁物とばかりにいそいそと散る官女たち。


橘姫の正体を知り驚く求女いや淡海、自らも名乗りかくなる上は生かしておけぬと姫を手にかけようとする。が、叶わぬ恋と諦めるのであれば死んだほうがましだという姫の言葉に刀を納め、兄・入鹿の手にある宝剣を盗み出してくれたのならば夫婦になろうなどという取引きを持ち出す。こんな男に惚れてしまうのも女の悲しい性なのか、求女と添い遂げたい一心で兄を裏切り宝剣を盗み出す決心をする橘姫であった。

求女を追いかけて屋敷の庭に迷い込む三輪は豆腐を買いにいく女中から姫様の意中の男との祝言が今宵内々に取り持たれることを聞かされてしまう。あわてるお三輪、なんとか屋敷に入れてもらおうと官女に頼み込むが、事情に聡い女たちから酷い苛めを受けることになる。髪や着物を乱されて泣きながら馬子唄を歌わされるお三輪は自分の生まれの賤しさを思い知ることになる。

ところでわざわざ豆腐を買いに行くこの女中、その名を「おむら」というが、おそらくは後代の桓武帝の皇后になる藤原乙牟漏(おとむろ)であろう。乙牟漏皇后は橘夫人の血筋であり嵯峨帝の生母である。嵯峨といえば豆腐、語呂合わせにしては意味ありげである。なぜなら壬申の乱以後天智系から天武系に移行した朝廷にふたたび天武系から返り咲いたのが桓武帝なのであるからして。

大化の改新と呼ばれる一連の事業の中には朝廷の勢力圏を東北に伸ばす政策があった。当時この地には朝廷に従わぬ民衆があったことが記紀の記述にあり、その征伐は神武天皇自らが始めたとの「先例」を以って記されている(神武東征)。しかし朝廷の組織が実際に東北に設置されたのはこの大化の時代である。

東北のまつろわぬ民、それは「一人で百人に値するつわもの」ともいわれた「えみし」である。

日本史の謎のひとつでもあるのが「蘇我蝦夷」という名、蛮族と賤しみ朝敵と見下していた「蝦夷」の名を蘇我の家はどうして惣領息子につけたのか、である。諸説ある中で興味深いのは、「蝦夷」は日本書紀の編纂者の側が後から意図的に付けた名前であるというものである。つまり蘇我氏が「えみし」同様に朝廷に害をなす一族であったことを後世にまで知らしめ、同じく東北征伐の正当性を引き立てる役を持たせているという説である(入鹿の名に関しても同様の説あり)。
朝廷がどうしても東北を取りたかったのは、肥沃な土地と海産物、名馬と黄金があるからだった。そして文身し弓と馬を自在に操る屈強な男たちが朝廷に靡かぬという事実はそれだけで脅威であった。


それまでの朝廷は天皇と豪族がよく建議し権限を分担する形で政治が行われていた。しかし遣隋使などを通して大陸の情勢が伝わるようになると大陸に対し独立を維持するためにも強固な律令国家を築きそのためには「中央」にさらなる権力の集中が必要という考えが朝廷内に生じた。そこで起こるのが「誰が天皇にたつのか」よりも「誰が天皇をたてるのか」の争いである。大化の改新の前後の日本はこの内紛にあけくれた。そこで生じた悪名・汚名の全てを蘇我親子に擦り付けて最後に日本を我が物にしたのが中大兄と藤原親子だった可能性は十分すぎるほどある。

女を使って出世を遂げた「色悪」不比等は得意の筆で日本書紀を書き下ろし、開闢以来の大悪党、蝦夷と入鹿を生み出して、ばさりと斬って闇の中。

           三笠山御殿
                              鱶七に刺されるお三輪



〽 袖も袂も喰い裂き喰い裂き、乱れ心の乱れ髪、口に喰いしめ、身をふるわせ、

屋敷の中から宴の賑わいがもれ聞こえ、いよいよお三輪は凝着の相もあらわに嫉妬に狂う。そこへ現る鱶七、いきなりお三輪を後ろから刺せば、橘姫の手の者と思い込んだお三輪はますます狂いだす。すると鱶七、「女悦べ」とお三輪を誉めそやす。漁師の衣装を脱ぎきらびやかな侍の姿に早替り、我こそは鎌足の家臣の金輪五郎、求女こそは我が若君の藤原淡海、仇敵・入鹿を退治するには凝着の相の女の血が、おまえの流す血が欠かせない、夫の手柄のために死ぬとはそれでこそ高家(身分の高い)の北の方(正室)、でかしたなあ、とそう言うとすでに爪黒の鹿の血を仕込んである笛にお三輪の血を注ぎかけ、この笛こそは入鹿を滅ぼす火串ならんとふかく拝する。

悦んだのはお三輪であった。恋しい男の妻として、その手柄のために死ねるなど女の冥加につきるもの、それでも最後に一目だけ求女を見たいと願いつつ巻く苧環の糸は切れ、お三輪もそして事切れた。


四段目、大円団

橘姫は宝剣を盗み出すがまたしても偽物、入鹿の知るところとなり姫は本物の宝剣で斬りつけられる。そこへどこからともなく笛の音が鳴り力萎える入鹿、宝剣は竜となり入鹿の手を離れて池にもぐる。そこへ藤原の軍勢がおしよせ入鹿を囲めばなおも大判事や金輪五郎に刃向かい抵抗するが鎌足がかざした神鏡に眼が眩み、ひるんだ入鹿は鎌足に首を取られてしまう。竜になった宝剣は鎌足の足元に舞い降りるのであった。天皇の象徴である三種の神器の宝剣が、帝というものがありながら何故に鎌足を選んでかしずいたかは、その後の日本での藤原氏の位置をよく語る。


史書にある歴史ををひっくり返さずに話を作るという歌舞伎の不文律を壊さずに本当の悪党が誰であったかを仄めかすという、この妹背山は神業に近い戯作である。
聴衆か観て溜飲を下げたかったのは淡海たちの最後であるが、入鹿が鎌足に討たれるという決まりごとは変えようがない。しかし序段から四段目を通して入鹿の見せた悪事はすべて史実での中大兄と藤原親子の仕業であることを語りきった。そして入鹿が頸を斬られる瞬間はすでに聴衆は心の中で入鹿を淡海たちに摩り替えている。だからこそ入鹿の最後の大見得に拍手と掛け声が集まるのである。


不思議な男の「鱶七」は悪役ではない。筋を貫徹させるために登場する、歌舞伎に付き物の神仙的な役である。「鱶=サメ」の名は古代の国つ神に数えられる海神の遣いであることの現われである。朝廷に抵抗した民衆の神もまたこの国つ神たちであり、入鹿の「鹿」も山の神の遣い、何よりもお三輪こそが国つ大神オオモノヌシの化身である。蝦夷と入鹿、そしてお三輪の荒ぶる魂を鎮め、あの世に還すためには是非とも鱶七にお出まし願うことになったのだろう。


「妹背山」の向こうには日本土着の「国つ神」と高天原の神々として知られる「天つ神」のはげしい戦いが隠れている。それは天智帝に始まり桓武帝に引き継がれる蝦夷征伐の序章でもあり、貴賎に囚われ生きる人の悲しさを描くものでもある。

くりかえし むかしをいまになしたとて むかしがいまに なるばかりなり


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歌舞伎見物のお誘い―土蜘蛛

最近ではほとんど上演されなくなったというこの「土蜘蛛」、その理由は物語性に欠けるからだと何かで呼んだことがある。素人の意見であれば罪はないが、もしこれが専門家の論評だったとしたらちょいと待った。先生、あんたも土蜘蛛の恨みを買いますぜ。

「土蜘蛛」
                                「土蜘蛛」



時は末法の頃、千筋の糸を放つ妖怪「土蜘蛛」が一族の恨みを晴らさんと源頼光(みなもとのらいこう)を苦しめた。その妖怪退治譚がこの「土蜘蛛」である。見せ場はなんといっても白い蜘蛛の糸を模したなまり玉が美しい軌跡を描いて舞い狂う立会いの場面である。

この物語が歌舞伎として舞台に登場したのは実は明治になってからで、歌舞伎においては古典の中に数えられない。しかし題材とされたのは古典も古典、能の「土蜘蛛」あるいは「土蜘」である。能に取材して作られた歌舞伎芝居の背景は能舞台を模して羽目板に松を描いたものとするという決め事がある。このような芝居を「松羽目物」といい、勧進帳や船弁慶などもそうである。

江戸時代はもとよりそれ以前から能は舞うのも観るのも貴族や武士の特権であり庶民には禁じられていた。彼らに許されていた芸能に「神楽」があるが、「土蜘蛛」はこの神楽にも取り上げられている。さて土蜘蛛とはいかなるものか。

       
                  土蜘蛛の精


「土蜘蛛」が日本の文献にはじめて登場したのは古くも「日本書紀」と「古事記」(それ以前の文献が残っていないので仕方がないのだが)、つづいて諸国「風土記」に記載が見られる。いずれも朝廷の意にそわぬ集団すなわち「まつろわぬ者」たちである。

後の神武天皇カムヤマトイワレヒコがまだ天皇として即位する前、帰属を拒む土着の豪族たちを征伐しつつ覇権を東へと広げていった。これを古代史では神武東征と呼んでいる。土蜘蛛は記紀の東征譚のなかに書かれている。
まず古事記では「尾生土雲八十建―尾の生えた土蜘蛛ヤソタケル」とあり、八十建‐ヤソタケルとは単独の人名ではなく、八十建つまり「猛き者の群集」の意である。尾があるといういかにも未開な集団と表現されたこのヤソタケルをイワレヒコはだまし討ちにした。ヤソタケルに近づき宴を催して豪勢な料理をふるまうが、ある歌を合図に料理人たちがヤソタケルを討ち、倒したという。
そして日本書紀ではイワレヒコの大和地方征圧において新城戸畔(ニヒキトベ)・居勢祝(コセノハフリ)・猪祝(ヰノハフリ)の三者をさして「三ヶ所の土蜘蛛」との記述がある。ハフリとは司祭者または巫女を意味し、呪術性のある首長の存在を物語っている。記紀の後に書かれた諸国の風土記にも登場する土蜘蛛の多くは女性の首長が統治していたという。

それに続いて登場するのが葛城山の土蜘蛛である。

大和・和泉にかけてつらなる和泉山脈と金剛山地に「葛城山」と名のつく山が幾つかあるが、この地には朝廷が興る前から自治をする集団が、あるいは王朝があった。その民は胴が小さくて手足が長く、蜘蛛のようにな姿で歩き、洞穴の中で暮らしていた。彼らがやすやすと神武東征に屈するわけもなく激しく抵抗したという。
イワレヒコ(神武)は葛のつるで編んだ網をしかけてこれを誅殺し、この地が「葛城」とよばれる由来となった。因みに常陸国風土記にも登場する土蜘蛛伝説では茨のつるで編んだ網で土蜘蛛を退治しその地を「茨城」と呼ぶようになったとの記述がある。実に興味深い。

この葛城山の土蜘蛛の恨みが後の世によみがえる。黄泉から、還る。

汝知らずや、我れ昔、葛城山に年を経し、土蜘の精魂なり。
なお君が代に障りをなさんと、頼光に近づき奉れば、却って命を絶たんとや


謡曲「土蜘蛛」より

平安の時の世、権力を争う貴人たちの間では讒言と呪詛が絶えず、一方で都を繰り返し襲う災害や疫病は失脚させられ怨霊と化した者の祟りと恐れた。そのための加持祈禱や寺院建立、荘園の開墾と寄進は凶事とともに庶民たちを疲弊させた。そんな都において貴賎を問わず誰もが頼りにしていた存在、それが源頼光である。武芸を修め心身ともに磨き上げられた武人の握る刀には破魔の力が宿り、末法の世にはびこる悪霊を討ち祓うと信じられていた。

しかしその頼光までもが瘡(マラリア)に倒れた。

病床の人となった頼光を甲斐甲斐しく看る侍女の胡蝶は薬と偽り頼光に毒を盛る土蜘蛛の化身であった。そうとはっきり表現しているのは神楽のみで能と歌舞伎では仄めかすにとどめてある。そして夜更け、頼光のもとに現れた怪しげな法師が自らが蜘蛛であることを明かし千条の糸を放って頼光を責めるが、名刀「膝丸」を抜いて返す頼光に背を斬られ退散する。 

                  智籌
                           怪しげな僧・智籌 じつは土蜘蛛の精魂
  

土蜘蛛の精魂は神武天皇への恨みをその子孫が治める世を乱すことで晴らそうとした。頼光に近づいたのは都の守を揺るがすためとひとまず解釈しておく。

土蜘蛛の精は血痕をたどり追ってきた武者たちと再び渡り合い、そして仕留められる。

「土蜘蛛」のあらすじは上のとおりで能・神楽・歌舞伎ともにほぼ共通している。その出典は平家物語のなかに見られ、さらにそれは日本書紀を拠り所にしている。では、蜘蛛の巣を掻き分けながらその先に入ってみよう。

平家物語によれば手負いの土蜘蛛は北野天満宮へと退いていった。特筆すべきは、北野天満宮に祀られているのが菅原道真であることだ。
当時、菅原道真の怨霊に対する人々の怖れは大きかった。文官としての最高位にあった道真を失脚・配流に追い込んだのは政敵の藤原時平、しかし時平はその後若くして世を去り、その後も時平を外戚とする皇族たちの病死、雨乞いの祈禱をする最中の内裏が落雷をうけ火事となり多くの死者が出たほかそれを目の当たりにした帝までもが病死する。重なる凶事を人々は道真の怨霊と結びつけ、それを鎮めんと北野天満宮を造営し道真の霊を祀ったのである。

    雷神
                               
                               北野天神縁起絵巻


「祀る」とは表向きはその霊をなぐさめるためであるが本来は霊力をそこに封じ込めるためと言える。道真の霊を是非とも封じ込めておきたかったのは言うまでもなく藤原摂関家である。

藤原氏は飛鳥時代以来、政敵を陥れて官職を奪いながら地位を固めた一族であり、古代史の政変に藤原氏がかかわらなかったことはほぼないといってよい。その傍らで女子を天皇家に嫁がせて外戚となり朝廷を意のままに操った。飛鳥・奈良・平安を通して藤原氏の謀った政変の最後に位置するのが安和の変(あんなのへん‐969年)である。
醍醐天皇の皇子として生まれるが源氏の家に降下した源高明はその高貴な身分にあわせ朝儀や学問に通じており、冷泉天皇の即位とともに左大臣に上り詰めた。しかしこのとき、冷泉帝の皇太子を選ぶにあたって争いが起きた。関白を務める藤原実頼と右大臣の藤原師尹が源高明のさらなる躍進(外戚となること)を阻まんと共謀し、源高明に謀反の疑いをかけこれを失脚させた。高明は菅原道真とおなじく大宰府に左遷、藤原師尹は右大臣から左大臣に昇格した。

しかし、安和の変の裏には実際に藤原氏に反逆する動きがあったという指摘がある。それに絡むのが頼光の父、源満仲である。

朝廷の支配の行き届かない山の奥で周囲とかかわりを持たずに生きる土着の民がおり、彼らはやはり土蜘蛛と呼ばれ蔑まれていた。源満仲は安和の変に乗じて藤原氏を倒すためこの土蜘蛛一族を謀反に抱きこみ武装させたという。しかし満仲は挙兵を断念、そればかりか保身のために謀反の存在を朝廷に密告したとある。朝廷を憎悪する土蜘蛛たちは今こそと決起したが密告を受けた朝廷に殲滅されてしまう。

頼光が土蜘蛛の精に呪われたのは父・満仲の所業への報いであったと囁かれもしたという。

源高明への疑いは濡れ衣であったとの見方が強いが、「源平盛衰記」には高明は東国に下り、先の皇太子争いに敗れた為平親王を奉じて挙兵しようとしていたとある。もしこれが本当であればかつて東国の受領を歴任しこの地の土豪たちとも縁が深かったであろう源満仲の存在がさらに重要になる。そして満仲が手を結ぼうとした土蜘蛛とは、先に記した常陸の国は茨城の土蜘蛛一族の末裔ではあるまいか。


もう一点、気になって仕方のないことがある。
能「土蜘蛛」の謡いのなかでの、もはや最後が迫ったと気を落とす頼光とそれを励ます胡蝶のやり取りが何やら妙に色っぽい。


〽色を尽して夜昼の。色を尽して夜昼の。境も知らぬ有様の。時の移るをも。覚えぬほどの心かな。


謡曲の解説書を見れば「色を尽くす」は「色々と手を尽くす」という野暮な対訳しかついていない。しかしわざわざ「色」ということばを使っているからには「色事」の意が係っていると採るべきであろう。さらに続く「夜昼の境も知らぬ有様」がそれをうけ強調している。夜昼を問わず色事に耽った末に病になったといってしまうのはやや下世話だが、頼光といえば鬼の首を切るほどの豪傑、それが蜘蛛の色仕掛けで骨抜きにされそうだとあれば聴衆もさぞや気を揉むことだろう。
数ある風土記に記された土蜘蛛の集団には、おそらくは巫女の役割をはたした女性の首領の存在が多く見受けられるが、これを土蜘蛛の精が美しい女の姿で頼光に近づいたことの原点とみてよい。歌舞伎では怪僧(じつは土蜘蛛の精魂)の役をつとめるのは女形というのが普通(そのときの興行によって胡蝶が出なかったり僧が出なかったり、胡蝶と僧と土蜘蛛の三者を早代わりで演出したりと色々)である。

土蜘蛛が歌舞伎になったのは近代になってからと先に述べたが能と神楽のそれが作られたのは古い時代にまで遡り作者も判っていない。当時の人々にとって土蜘蛛とはまだ伝説と化す前の記憶に新しい存在だったであろう。そして朝廷への帰属を拒み抵抗するもいずれは消え行く運命にあったことへの哀れみをひそかに覚えていたのかもしれない。その記憶が芸を通して受け継がれたからこそ、舞台で見得を切る土蜘蛛に惜しげない喝采が集まる。
 
明治以降、世が西欧化を推し進めるにつれ歌舞伎の世界も変革をせまられた。それまでの歌舞伎の筋を「非合理」「荒唐無稽」とし、近代国家にふさわしい「起承転結」が理路整然と表現されなおかつ不明瞭な時代考証が正されることを求められ「西洋人にも解るように」しようというのである。すなわち西洋人に解らないものは価値がないと言っている。この馬鹿げた発想は西洋から流れ込んだ新しい価値観を重視するあまりそれに合致しないものを完全否定した当時の風潮、いや政策に由来する。

その昔、遣唐使のもたらした大陸文化は日本を大陸色に塗り替えてしまった。これは後に明治維新をもっていまいちど繰り返される。遣唐使廃止を建白した菅原道真は讒言により失脚、その首謀者の藤原氏の祖をだどれば日本の律令化に貢献し日本書紀の「著者」でもある藤原不比等に行き着く。日本書紀以前の史書は不比等の父(中臣)鎌足によって蘇我氏とともにすでに闇に葬られていた。
藤原氏の策謀や朝廷の弾圧により生まれた怨霊・鬼を退治するはずの武士たちは、却って貴族たちから政権を取り上げ武士たちの治める国を作った。いま、日本の古典芸能とよばれるものが大成されたのは貴族の世ではなく武士の世であった。

歌舞伎のみならず日本の芸能は決してそのひとつの話では始終せず、それぞれに遠い太古から続くこの国の足跡が刻まれこれからの行く末をも映している。それを縦糸とすれば、横糸は話と話の間の切りようのない繋がりであろう。縦と横、限りなく広がる世界のたった一部を画のように切り取って楽しむことを、日本人は好んだ。それはみる側とみせる側の双方の魂が豊かであったからに違いない。長屋の子倅たちまでもが頼光と四天王に扮して遊ぶ、日本人たちはそのむかし、そんな国に生きていた。

そして明治、藤原氏の子孫たちは公爵として政界に舞い戻り西欧文化の輸入にいそしんだ。明治維新はそれまでの時代とのあいだに亀裂をつくった。土蜘蛛の精魂は時代の裂け目から這い出し、この時代を生きた天才戯作者・河竹黙阿弥の筆をつたってふたたび世を呪った。

          土蜘蛛



我を知らずや其の昔、葛城山に年経りし、土蜘の精魂なり。
此の日の本に天照らす、伊勢の神風吹かざらば、我が眷族の蜘蛛群がり、六十余州へ巣を張りて、疾くに魔界となさんもの


歌舞伎「土蜘蛛」より

脱原発と江戸明け暮れ考―「技の巻」

カネとはあくまで物や事に対して支払われる対価である。
と、考えるのであれば、先ず実態としての「物事」があり、これに日が当たっているとする。
日の高さが変われば影の長さも変わり、濃淡は日の強さに左右される。日がなければ影も消える。
そう、「カネ」とは影のようなものである。

前号の「金の巻」で江戸時代の人々の金への執着のなさとその背景を述べた。
今回「技の巻」はその逆、身分や職に関わらずこの時代の人々がとことん拘ったものについて書くとする。

江戸時代は「奇跡の時代」とも言える。筆者のつたない筆などではとても書きつくすことのできない世界、ただしそれが長い日本史の中に彗星の如く現れたのではなく、戦国の世を、鎌倉を遡り、平安を越え、飛鳥を辿り、そしてそれよりも遥かに遠い神代から続く営みがその後ろに控えていることを今号の冒頭に記しておきたい。


日本人と「技」との出会いは研究が進むにつれて遠い昔へと遡っていくようだ。さらに古い時代のものが次々と発見され続けている。
柄の先に石器をくくりつけた石槍はマンモスなどの大型動物を捕らえ、やがて気候の変化から動物が小型化し俊足になると弓矢で追うようになった。また、小さく鋭い石刃を刃こぼれするたびに付け替えるという高度な細石器も登場した。気候の温暖化を受けて植生が変わると椎や栗を採取して食するようになる。それを煮沸、アク抜きするための土器が発達した。また魚や動物の骨で銛や釣り針をつくった。獣の皮や木を加工した道具も当然あったがこれらは土に還ってしまったであろう。


細石器刃は黒曜石を砕き薄く剥離させて作る。日本の各地で産出される黒曜石だが、道具として発掘された場所と材料である黒曜石の産地が遠く離れていることが多く、このことは大昔の人々がより良い材料を捜し歩いたことを語っている。


銅器、稲作、鉄器、機織り、新しい「技」が次々ともたらされた。


「稲作伝来」と一言で片付けるのは簡単だが、稲作には土地選び、灌漑、耕作、農具、施肥、貯蔵、暦術、祭祀など多くの事柄が含まれており、それら全部を大陸から丸ごと輸入することを「伝来」とは言わないのである。長い試行錯誤を以って日本の地に根付かせた先祖たちがあったからこそ日本史を通じてのコメ文化がある。
戦乱のない江戸時代、農民の生活は飢饉などにに見舞われながらも押しなべて安定しており農業に集中できた。元禄時代に著された「農業全書」が木版で何度も刊行され広く農民たちに読まれた事を見ると農村の識字率も低くはなかったことが伺われる。こうして知識が深まってゆくとともに農具の発達や開墾がおこなわれ生産量が上がっていった。


コメ作りとともに定住生活に入った日本人は機織りや養蚕も習得した。七世紀以降の律令時代、絹織物は税として朝廷に納められた。が、奈良時代から戦国時代までは農村に養蚕をするまでの余裕がなく、織物工業は発達したものの原料の生糸は中国からの輸入に頼りきっていた。これは日本で産出した貴金属の流出の原因にもなった。江戸時代に入ると寒冷地を除けばコメのほかは年貢をかけられず野菜や織物は農家の収入源となった。綿の栽培が各地で本格的に始められ綿織物が盛んに織られる傍ら、幕府は養蚕を軌道に乗せ天領の専売品として保護、その後専売を解いて各地に奨励し、生糸の自給から絹織物生産までを確立、こうして地域ごとにそれぞれ違う豊かな織物の文化が生まれた。


鉄器とともに製鉄法が伝わり、程無く鉄の鉱山も国内に見出された。伝来時の原始的な製鉄法によって農具や武具が作られるようになり、その後材料を吟味しさまざまな工夫が我が国において加えられ、そして末に出来上がったのは悪霊をも切り伏せるであろう「日本刀」である。刀工たちは硬度が低いが粘り気が強い鋼と、硬く切れ味が良いが脆い鋼の二種類を抱き合わせる法を編み出した。前者が刀身の峰側、後者が刃側となる。炎にくべては槌でうち鍛え何度も折り返し、姿が整うと焼(やき)を入れて研(とぎ)をかける。焼き入れの際、金属分子の構造変化による膨張がおこるが、刀の反(そり)は二種の鋼の膨張率の違いにもたらされる。


平安時代、都は讒言、呪詛、流刑、幽閉がまかり通り世の中が酷く荒んだ。度重なる天災と東国の反乱は政争に敗れた者の悪霊の為せる業と懼れ、貴族であろうと僧であろうと雅な暮らしとは裏腹に心は病み、その悪霊から逃れんと寺院建立、加持祈祷に勤しんだ。仏の加護を頼りに国を治める鎮護国家の思想がおこる。これは仏教美術と寺院建築の興隆の契機となり、折りしもこのころ遣唐使廃止を受けて唐に対し鎖国状態にあった我が国は美術・工芸・建築においても独自の様式を模索する道を歩み始めた。
しかし、この文化の土台は寺社や貴族に寄進される地方の土地財産であったため農作物を守護や地頭に吸い上げられたうえ重い労役が課された農民の疲弊は甚だしく、土地を棄て餓えて彷徨うことを選ぶものが絶えなかった。


地から産まれた鋼を身を清めた刀工たちが炎に投じ鍛えた刀には霊力が宿り、それを使い得たのは武士と呼ばれるつわものたちであった。身を鍛え武芸を磨き命を賭して戦うことを本道とする武士が振る刀には魔を破る力があるとされた。御仏は、衆生を生き地獄にさらした貴族たちに光明を与えなかった。悪霊どもは平安の世もろとも斬って棄てられ時代は武士の手にと移っていった。


戦乱から遠ざかった江戸時代、強固な行政と安定した食料の供給に支えられ、それまでに蓄えられた「技」が一気に花開いた。江戸・大阪・京の三都をはじめ各地の地方都市にはあらゆる「職」がひしめきそれを担ったのが士農工商でいう「工」に属する日本人たちであった。


「工」を代表するのが先ず「普請業」。大工、建具屋、左官などをさす。
そして何かを作って売るのが「製造業」、刀屋、桶屋、鍛冶屋、畳屋、指物屋、豆腐屋、下駄屋、漬物屋、筆屋、ものの種類だけ職種があったと言ってよい。
さらに道具の手入れをする「修繕業」、大工が使う鋸の手入れをするだけの目立て屋、刃物を研ぐだけ研ぎ屋、ゆるんだ桶の箍(たが)を交換するだけの箍屋、割れた鍋や釜の修理だけをする鋳掛屋など多くの超専門職が独立して成立していた。成立とは、それなりに需要があって食べていかれるだけの対価が得られ、次世代を同業者として育てるに値したという意味である。


彼らが手にする賃金は微々たるものであった、が、おのれの「技」を極めるという人生の目的に比べれば大きな問題ではなかった。その結果として人に喜ばれ、信頼を得ることを「冥利」とは言ったが本道には非ず、それを得るために世に媚びることはしなかった。


農民や職人たちが作り出したものを流通させて富を築いたのが商人、そして豪商たちの溢れる富はまた世界の違う「技」を育てた。書画工芸、歌舞音曲、そして遊郭である。
我が国の陶器、漆器、染物、織物などの工芸品は遠い昔からすでに調度品の枠を超え書画同様に見る者の魂を奪うまでに昇華していた。その主導者が貴族や僧から武士へと代わり、この時代はとうとう商人のものとなったのだ。商人は競って金を出し職工を育てた。
室町までに大成した「能楽」の鑑賞は庶民にはご法度であった。江戸当初に出雲の阿国がはじめた「かぶきおどり」が大当たりし大衆芸能の走りとなった。安泰な世の中が訪れると娯楽も盛んになるもので、商人たちは芸能の世界においても競い合った。芝居小屋の金元(かねもと)となり戯作者に脚本を書かせ、贔屓の役者の支度一切を引き受けて祝儀までふるまった。作者も役者も資金に心を悩ますことなく「技」の道に没頭することができた。こうして「歌舞伎」が確立していった。
歌舞伎と切り離せないのが「浮世絵」、紙漉きが発達し質のよい和紙の普及も手伝い、一点物の肉筆画が版画へと発展し刷り物となったことで庶民の手に届くようになった。絵師と彫師と刷師のそれぞれ領域の異なる技がその絵ごとに生きていた。

歌舞伎や役者絵を眺めてみれば、その題材となった江戸の庶民や侍、遊女が、鎌倉武士や平安貴族が、悪党が、悪霊が、その原点である古事記や日本書紀に書かれた神々が、役者に扮してこちらを睨んで見得を切る。



「技」が時を越えて運んだものは、こういうものではなかろうか。



日本人たちは何かと対峙したときにそれを見つめ、読み、呼吸を合わせて対話する。相手が一握の種籾であろうと、謡曲であろうと、刀剣であろうと変わらない。先人に習い、それに達したとき「技」として身に纏う。その手をそこで止めることなく磨き続ける。これは日本人が日本人たる所以である。


この「技」と、我々が「技術」と呼んでいるものは、似てるようだがたいそう違う。
技術は引力や熱、つまり自然の成り行きと戦う術であり、鉄のかたまりを飛ばしたり水平方向に加速させたり物の温度を異常に変えたりすることを指す。膨大な生産力を持ち膨大な利益をもたらすが、膨大な資源が必要であり、膨大な資金も費やす。それは膨大な消費者の欲求を煽ることでいくらでも補うことができる。が、後に残った膨大な「穢れ」を土に還す術は無く、今、膨大なツケを子孫に残そうとしている。それが技術である。それに政治の思惑がかぶさり、膨大な情報が操作され戦争が起こされ膨大な殺戮、破壊、征服がなされ、勝者は膨大な利益を得る。その道具も技術である。


かつて「技」の後をついて来るのが「金」であった。しかし今。「技術」は「利益」を生み出すちゃちな道具に成り下がった。よく「技術の恩恵」などという都合のいい言葉を耳にするが、一体どこまでを恩恵と考えるべきか今ここで吟味するべきだ。便利な生活にはそれこそ膨大な対価を支払い続け、知らぬ間に他国の人々の生活をも脅かし、たりないところは次世代に補わせようとしている。江戸の人々は我々にこんな禍根を少しでも微塵たりとも残したであろうか。



わざ(技、事、態、業)は自然のことわりを越えるものではない。越えれば即ち、わざわい(災、禍、厄)に転じる。その線引きができないのであれば技など身に着けるものではない。


脱原発と江戸明け暮れ考―「金の巻」

あれほどあぶねえ原発なぞに
惚れてかけおち無理心中
とかくこの世は間違いだらけ
馬鹿の考え殺すに似たり

原発の否定は現代生活の否定、そんなに嫌なら勝手に江戸時代にでも行きやがれ、という一部の世論に過剰に反応した筆者はこれまで江戸時代の明け暮れと現代生活を比べようとの試行錯誤からこの連作を書いている。しかし「衣」 「食」 「住」のみでは現代生活のつまらなさも江戸の面白みも云い尽くせまい。よって時おりこうして付け加えてみたい。



「宵越しの金はもたねぇ」これが江戸経済の基本である。

その日に稼いだ日銭が夜にはすっからかん。つまりちっとも金が貯まらないのである。月〆で働く奉公人とて同じことで家賃やツケを払うとその日のうちに給金は消えてなくなる。

とはいえ、いくらなんでも実際は飲んで打って買っておしまいのその日暮しという訳にはいかない。衣食住はもとより商売道具の購入や手入れにも金がかかる。江戸の人口の半分を占めたであろう出稼ぎの者は国許への仕送り、帰省の路銀も必要だった。つまり暮らしを成り立たせるための出費はもちろんあった。

当時の貨幣は我々が使用する「紙幣」ではなく、金・銀・銅という貴金属を材料にした「おかね」である。カネという日本語はもともと金属を意味する。

その昔、日本は金・銀・銅が多く産出された。佐渡金山、石見銀山などの名は興味のない方々でもご存知であろう。カネのなる木とまでは言えなくとも国家の財源が穴を掘ると出てくる、こんなに有難いはなしがあるだろうか。
生産された貴金属はそれぞれ金座、銀座に運ばれ奉行の監督の下で貨幣として鋳造された。

金との間柄は士、農、工、商、それぞれちがったが、商を除けば基本的にあまり金とは縁がなかった。

唯一カネの臭いのする「商」人はどうであったか。
自らが生産して販売するよりも生産品を取引して儲けを出すことに重きをおいた職業、いわゆる「流通業」である。小間物の行商から廻船問屋まで数えればきりがないが、今日の儲けが明日の元手になるというのが基本、商いが大きくなればなるほど儲けも元手も大きくなる。

「蜜柑舟」、ある江戸商人の一代記である。

時は霜月、所は御江戸、火を扱う職人たちが鍛冶の神様をお祭りする鞴祀り(ふいごまつり)が迫る中、お供物に欠かせない蜜柑がどこにもないときた。海がしけて遠州灘が荒れ狂い、上方から船が出せないという。
火を扱う職人たちはことのほか火事を恐れていた。火事を起こせば死罪を免れなかった。向う一年の破魔除災と商売繁盛を願うこの祀り、鞴を清め、注連縄をはり、酒と蜜柑をお供えしてはそれを来客や近所衆にふるまうもの、屋根から撒かれる蜜柑を子供たちは競って拾った。蜜柑は風邪を退治する薬でもあったので鞴祀りの蜜柑ともなれば霊験はさぞあらたかであったことだろう。
天下一の工業都市であった江戸なればこそ鍛冶屋、鋳物師、刀鍛冶はもとより鋳掛屋も金物屋の数はべらぼうで、蜜柑がないのにはみな大弱り。

「てえへんだ、ことしゃ商売上がったりにちげえねい」
「てやんでえ、てめえの商売なんざ儲かったってたかが知れてらあ」
「それより火事がしんぺえよ」

文左衛門は紀州の生まれ、その年紀州は蜜柑の大豊作に見舞われ、上方では安値が底を割り買い手がつかず哀れ蜜柑は荷の中で腐るのを待つことになったという。
すわ何を思ったか舅に大金を無心しておんぼろ舟を買い叩き、なんとか漕ぎだせる程に修理した。大安売りの蜜柑をつんだその名も「幽霊丸」、意気揚々と江戸を目指して帆を揚げた。

只さへ難所と 聞こゑたる 遠州灘を 乗切って
 品川沖に 現れしは 名にし紀の国 蜜柑船 幽霊丸とぞ 知られける
沖のナァ 暗いのに 白帆が 白帆が見ゆる あれは 紀の國蜜柑船ぢゃえ

これぞ紀伊国屋文左衛門、紀文大尽と長唄にまで唄われた男である。大しけの海を命をかけて蜜柑を積んでやって来た。江戸っ子たちが狂喜して迎える姿が目に浮かぶ。神田の青物市場に卸した蜜柑八萬五千籠は飛ぶようにうれた。握った金は五千両、それを元手にいざ吉原へと参りける。

江戸の大商人が儲けた金は蔵で眠りはしなかった。次の商売に使い、屋敷を造り、職人や絵師や役者を育て、遊郭で豪遊した。身代が傾くほどの金を遊女の身請けにつぎ込んだりした。
紀文は吉原で黄金を蜜柑の如くばら撒いた。それを拾うは苦界の炎に焼かれる遊女たち、これにゃあ鍛冶の神様もたいそうお喜びなすった。


紀文大尽


「くーっ あやかりてえ!男の中の男ってもんだ」
「お前さんも紀文の爪の垢でも煎じて飲んだらどうだい!」

さて、その頃の大阪、大和川と淀川が大阪城の北でぶつかるために堆積した土砂が水の道を妨げ度々水害に悩まされていた。ある年はそれが災いして疫病にも苦しめられたという。そこで紀文が蜜柑で儲けた金をつぎ込んだのは何か。

「疫病には塩鮭でござい」

江戸中の塩鮭を買い占めて上方へ戻った。大阪の人々は我先にと塩鮭を買いまたしても大儲け。今流なものの見方をすれば詐欺まがいのこの商売、現代医学の減塩神話という屁理屈を信じるならば別であるが塩には菌を殺し免疫を高める力がある。塩が穢れを祓うことは当時の人々には常識であった。なによりも病に憑かれて意気消沈した大阪が、命知らずで気前がよくて、江戸中の人気を博した紀文が引っ下げてきた塩鮭を喜ばない筈がなかった。


お上とて、金を吐き出させる技に長けていた。諸藩に課した参勤後代の義務は二年毎に藩主が国表と江戸を行き来し莫大な費用を落とした。幕府に対し謀反を企てるだけの財力を蓄えさせないためである。さらに街道や水路の整備の必要があると諸藩は「自発的に」普請を行わなければならなかった。
また藩も幕府も城下の豪商たちにに公共工事などの負担を命じた。それを「御用」と言ったが隙のない商人たちは袖の下を使ってでも「御用商人」の地位を築きさらなる商売の拡大に努めた。


そして紀文は塩鮭の儲けを元手に材木問屋を始める。明暦の大火の折に木曽の原木を買占め富を得ると今度は幕府の要人に賄(まいない)をつつみ寺院の造営に参画、押しも押されぬ幕府御用の商人となった。 



燃えてなくなりゃ誰かが造る、造りゃ誰かがまた燃やす、金は天下の回り物。
   


諸行は無常、いくら稼いで貯めたところで炎がすべてを焼き尽くす。木と紙でできた家並みは一度火がつけば消しようがなかった。江戸時代に限らず昔の日本人の金に頓着しない気質はここから来る。どうせ灰になるならば粋に使ってしまうに越したことはなかったのだ。

火事で儲けた紀文を襲ったのもまた火事であった。深川一帯が火事に見舞われ紀伊国屋の木場も消失、財産の大半を失う。

鍛冶の神様が気まぐれをなすったか、金山、銀山、どうも覇気がない。採掘量が年ごとに減っていき、江戸の貨幣が足りなくなった。
小判や銀貨が腐るわけでなし何故に通貨が足りなくなったのだろうか、実は大量に海外に流失していた。金銀は地金として輸出されたり清国に生糸の対価として渡っていた。日本の豊富な貴金属の存在は「東方見聞録」などによって世界の知るところとなり西欧は伝道師を通じて接近を図ったが、日本側は経済問題をも見越しバテレン追放令そして鎖国令を出すに至った。しかしそれでは追いつかず、長崎から絶えず取るに足らない御禁制品が流入、金銀が流出しつづけていた。江戸幕府が窮乏していった原因の一つがこれである。それに追い討ちを掛けたのが飢饉と火事だった。
幕府は足りなくなった通貨を「水増し」するため貨幣の改鋳を繰り返した。結局これは何の解決にもならず物価高騰を招くのみであった。


将軍綱吉の治世、金銀の減産に対し銅は増産する傾向にあったのを受けて銅銭の流通量を増やす建議を固めた幕府は従来の一文銭、四文銭(寛永通宝)に加えて十文銭の鋳造に踏み切った。これに起死回生を懸けた男がこれまた紀文、十文銭・永宝通宝鋳造の御用を請け負い残りの財産すべてをこれに注ぎ込んだのであった。
しかしこの十文銭、使い勝手がすこぶる悪かった。額面では一文銭の十倍であっても純銅の目方はたったの二倍半、秤量通貨の原則から大きく外れ金貨銀貨との換算時に混乱を招いた。なんとなく大きいのも「じゃまくせえ」と揶揄された。
あまりの評判の悪さに綱吉の死を以って発行後わずか一年で通用停止となった。

紀伊国屋文左衛門その後は失意のまま没落したとも、八幡神社に大金を奉納したとも、凡庸な二代目がその身代を食いつぶしたとも、あるいははなから架空の人物だったとも云われている。

人は一代 名は末代 
作るも消すも 世の中に
天晴男と 唄はれて

実在していようとしていまいと、ここで肝心なのは紀文の一代記が江戸経済の見事な縮図であるということ、そして作った巨万の富は一代で消えても人には末代まで好かれ続けていることだ。金が世の中の本道ではないということの証かもしれない。いや、少なくともこの頃はそうであったと言っていい。


江戸幕府が改鋳した貨幣、金銀銅の比を下げて質を落としたものを「悪銭」というならば今我々が追い掛け回す紙幣などはただの紙、いくらでも刷って増やせるいわば「極悪銭」である。

開国後に明治政府がおこなった神社合祀政策により、鞴祭りの祭神は稲荷神と改変されたがもとよりこれは鉱山・鍛冶の神であるとされるカナヤマヒコ(金山比古)とカナヤマヒメ(金山比売)である。我が国に豊富なカネをもたらし、外の国からそれを睨まれると今度は隠してしまわれた。それに気付かず悪銭を流通させた幕府は痛い目を見たのではないだろうか、などと考えると興味深い。まだ貧乏だった文左衛門に船を買う金を融通した舅は神官であったという。神様も、鞴祭りのための蜜柑を命がけで運ぶ紀文を守りはしたが、後に神社ではなく寺の造営に関わった途端に厳しくなり、額面に見合わない銅銭の鋳造に手を伸ばすにいたってはとうとう愛想をつかしたか、とも思える。

朝な夕な神棚の変わりに電波映像を垂れ流す箱を拝む現代、あれほどの事故を起こした原発が誰一人罰を受けていない。その危なっかしいものをよその国に売りつけようとしているのを不思議とも思わない。「日本の医療は世界一」「地球温暖化」「原発は安心」なる「神話」を信じ込み、電気をありがたがり、浪費と消費を履き違えた不毛な経済に引きずりまわされる我々。その護符たる紙幣をみれば、福澤諭吉なる西洋かぶれがべたりと張り付いている。



「へっ それじゃあ神様にそっぽ向かれるってもんよ」


次号「技の巻」につづく


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Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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