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歌舞伎見物のおさそい―妹背山

いにしへの 賤のおだまき繰りかへし むかしをいまに なすよしもがな

「伊勢物語」にあるこの古歌が縦糸となり、遠い神代からこの世が繰り返してきた業を横糸に織りなした衣のような、そんな芝居がある。「おだまき」とは糸巻きのこと。糸を巻きかえすように昔を今に巻き戻すことができたなら、と思うのは、昔も今もかわらない。

正しくは「妹背山婦女庭訓―いもせやまおんなていきん」、古代の王朝交代を江戸の戯作者たちは冷徹に見抜き我々に供じていたのである。しかしすっかり鈍くなってしまった日本人はそれを受け取ることがままならなくなってきた。下手をすればこの戯作のもつ意味はこのまま埋もれてゆくだろう、それはあまりに惜しい。
しからば野暮を承知の悪あがき、何卒ご容赦のほど御願い奉りそうろう。

  妹背山婦女庭訓
                               「妹背山婦女庭訓」

背景

蘇我氏は物部氏をおさえ、さらに崇峻天皇を暗殺、姪の推古女帝を立てると朝廷の実権はいよいよ蘇我馬子の手に落ちる。その子の蝦夷、さらにその子の入鹿の代まで専横をつくすもやがて中臣鎌足と中大兄皇子により討たれ(乙巳の変)、時代は律令国家の形成へと動いてゆく。


序段、二段目、

病で失明した帝は臣下の者たちに操られ、腹心であった藤原鎌足は謀反の疑いをかけられて息子の淡海とともに行方知れずとなってしまう。蝦夷は自らの娘・橘姫を皇后に立てようとしていたため、鎌足の娘で帝の愛妾でもあった采女の局も宮中から姿を消してしまった。蘇我入鹿は朝廷から帝を追放し自らが帝位につこうとする父・蝦夷の行状を仏法にかなわぬ非道だとし、父を諌めんがために即身仏となる入定修行にはいる。これに怒る蝦夷は入鹿の妻めどの方に詰め寄り、お前たちは味方ではなかったのか、では謀反の連判状を返せと斬りかかると、めどの方はその連判状を火にくべて燃やしてしまう。が、じつは偽物であり、そこにめどの方の父・安倍行主と大判事(司法官)が勅使として現れ本物の連判状を出して蝦夷を追い詰める。蝦夷はもはやこれまでと腹を切り自害する。大判事が蝦夷の介錯をしようとした瞬間、安倍行主が矢に倒れ息絶える。切腹も介錯も武士の風習であり古代豪族のものではないが、芝居の上では豪族たちを武士として描いている。

矢を放ったは蘇我入鹿、法衣を纏う入鹿が現れ、大判事にむかいこれまでの悪行をいけしゃあしゃあと言い聞かせる。父の器では帝位を奪うことはままならぬと、謀反の罪を父一人に擦り付けて自害させ後から全てを奪おうとのはかりごとであった。三種の神器を盗もうとしたが鏡と勾玉は見つからず、仕方がないのでこの「村雲の宝剣」だけは手に入れたと豪語する入鹿は、白塗りの二枚目から青隈取りの「公家荒れ」にかわり豪胆かつ陰鬱な恐ろしさをかもす。

いつまでも子が授からなかった入鹿の母は「白い牡鹿の血」を飲むことで入鹿を身篭ったのであった。鹿の入りたる蘇我入鹿、大悪党の由縁ここにありき。

入鹿を退治するには「爪黒の鹿の血」が要るという。そしてもうひとつ、「凝着の相のある女の血」が要るという。凝着とは嫉妬のことで、この両方の血を注いだ笛を吹くと入鹿の中の鹿の本能が暴れだし己を失う、そのときにこそ入鹿を倒すことができるという。


入鹿の暴挙は止まるところを知らず宮中に乱れ入り帝位を宣下する。三笠山に造営した御殿を大内裏と称し、その勢いに適わぬと悟った諸国の豪族たちは貢物を手に入鹿の元にに参内し恭順の意を表すのであった。
伊勢の神風吹き止んで天下がいよいよ傾こうとしていたその頃、愛妾の采女の局が池に身を投げて自害したとの噂を信じ、嘆きのあまりその池に行幸していた帝はまだ三笠山でのことを知らずにいた。知らせを受けた鎌足の息子・藤原淡海は帝にそれを気取られまいと猟師の芝六の家に匿うのであった。この芝六、じつは藤原家の家臣であり、主人鎌足の入鹿征伐のために黒爪の鹿を射止めていた。しかし神鹿のいる葛籠山は禁足地、ここで鹿を射ることは死罪に値した。芝六の息子の三作は鹿殺しの罪を被り石子詰めの刑(地面の穴に入れられ石で埋められる)を言い渡されそのための穴が掘られるが奇跡がおこる。掘った穴からは紛失していた三種の神器のうち鏡と勾玉が見つかった。その瞬間に帝の目は治癒し、自害したと見せかけて父親の鎌足のもとに身を寄せていた采女の局とも再会を果たす。三作はご赦免となる。

神鏡と勾玉の出現で光が戻る、それはアマテラスの天岩戸神話が元になっている。

藤原淡海とは日本古代史の立役者、藤原不比等その男である。中臣氏が壬申の乱で大友皇子の側についたことが仇となり政治の表舞台からは一時遠のいていたが、王族の妻を寝取り間にもうけた娘たちを次々と宮中に送り込み天皇の外戚としての地位を築いた。不比等にはじまり平安時代の終わりまでつづく藤原氏の外戚政治こそが日本史の基礎といっても過言ではなく奈良時代以降の皇室の血は最初の数滴を除けば藤原氏に由来する。さらにはわが国最初の国史書たる日本書紀の「立作者」として不比等から神代に遡る日本の足跡を「編纂」したのも不比等である。それまでに書かれていた「旧辞」「帝記」とよばれる史書は鎌足の入鹿暗殺を知らされた蝦夷が屋敷に火をかけ自害したおりに消失したとされている。が、そのことが記されているのも日本書紀でしかない。

この芝居において、藤原淡海(=不比等)と名付けられた役は史実での不比等と鎌足の両者を兼ねている(仕立ててある)。謀反の疑いで親子ともども政界から姿を隠すとある段は壬申の乱の結果、中臣氏が蟄居状態に陥ったあたりを示唆しているのだろう。ちなみに「淡海」は不比等が死後に諡られた国公(等級の名)である。

「帝」も一応は天智天皇という設定であるが裏がある。見えぬ目で亡き愛妾を求め彷徨う帝の女々しい描かれ方は少なくとも豪傑で知られる天智帝にはそぐわない。
645年の乙巳の変の後に続く改革を「大化の改新」と呼ぶ。この改革は孝徳帝の代で行われたが中心になったのは当時皇太子であった中大兄(後の天智帝)であった。鎌足は最初、入鹿暗殺の共謀者を帝位につく前の孝徳に考えていたが「器ではない」と断念、よって中大兄に持ちかけたとの説がある。
652年には日本初の首都といわれる難波長柄豊宮に遷都、しかし改革を進めるうちに孝徳帝と中大兄の対立が深まり中大兄は飛鳥河辺宮に群臣・皇族・皇后を連れて移ってしまう。皇后まで奪われた失意の孝徳帝は病に憑かれて崩御する。蘇我入鹿が役の上で三笠山に御殿を立て帝位を奪ったのは中大兄の行動を指しているのだ。

すなわち、「妹背山」の帝は天智帝ではない。天智帝に背かれた孝徳帝であり、入鹿の本性こそが天智天皇である。さらに入鹿が共謀していた父・蝦夷を見限る筋書きはどうやら鎌足の仕業をなぞらえたものである。


三段目

美しい仕掛けが有名で「妹背山」の外題の由縁でもある大事な場面であるが西洋のシェイクスなにがしの芝居に似ていて巣晴らしいなどの馬鹿馬鹿しい評価が付きまとう場面であり、胸くそ悪いので思い切って省略したい。しかし役者泣かせの難しい場面である。


四段目、「道行恋苧環」

さて大詰め、舞台は急に江戸風俗を醸し出す。造り酒屋の娘お三輪は店子(長屋の間借人)の烏帽子職人の求女とひそかに恋仲である。しかし長屋の衆とお三輪の母親は、やたらに上品なこの店子が実は行方の知れなくなった藤原淡海ではないかと噂する。

赤糸と白糸を巻きつけた二巻の苧環、恋のまじないだといって赤糸のほうを求女にわたすお三輪であった。

しかしその求女の元に通う姫様がいた。求女はお三輪と姫様の二股をかけていた。 二人の娘が鉢合わせ喧嘩になるが、姫様のほうは何か事情があると見えてその場から逃げてしまう。姫の後を追う求女、またその後を追うお三輪であった。
求女は姫の身分を知らなかった。名乗ってくれれば一緒になろうという求女に対し、名は明かせないけれど一緒になれるのならば死んでもかまわないという姫であった。名乗れないのもそのはず、姫は蝦夷の娘、入鹿の実の妹の橘姫なのである。
嫉妬に駆られた三輪が二人に追いつくとそこでまた言い争いになる。恋に貴賎の隔てはないが、橘姫に比べればお三輪はあまりに賤しい生まれだった。しかし熱い血潮をたぎらせるようなお三輪の恋の仕草が見るものを引き付ける。

           道行恋苧環
                               お三輪と求女


お三輪から渡されていた苧環の赤い糸を橘姫の着物の裾に仕付けた求女はそれを辿って姫を追いかける。白い糸を求女に付けて追うはお三輪。その糸の続く先は天下の大悪党の棲む三笠山御殿であった。

「お三輪」の名には何が隠れているのか、それは大和三輪山に祀られる三輪明神、つまりオオモノヌシ(大物主命)である。オオモノヌシはスクナヒコナに去られて途方にくれるオオクニヌシのもとに海を輝らしながら現れ、汝の和霊(魂の一部)であると宣い、自らを三輪山に祀るよう望んだ神である。蛇神、水神、そして酒造りの神であり、お三輪が造り酒屋の娘と仕立ててあるのはこのためである。
「古事記」によるとその昔、イクタマヨリヒメ(活玉依比売)の元に容姿端麗な男が突然あらわれ結ばれたが、子を身篭ったヒメの父母が相手は誰かと問うとどこの誰かもわからないという。そこで父母はヒメに教えて曰く、夫の着物の裾に麻糸を結び付けておき、朝にそれを辿れば夫が誰だか判る、と。その糸は戸の鍵穴から外に通じ三輪山の社にまで続いており、かの男はオオモノヌシであったという神話である。
求女が男でお三輪が女というのが神話と逆転しているが、男らしいとはいえない求女と、逆に火のように激しいお三輪の対比がこの逆転を打ち消している。

「橘姫」、古代史上で「たちばな」といえばこの女あり、犬養美千代またの名を橘夫人である。
王族の美怒王の妻でありながら夫の遠征中に藤原不比等に嫁ぎなおしている。離縁して再婚したのか不比等が略奪したのかは判らない。軽皇子(後の文武帝)の乳母をつとめ、不比等との間に生まれた光明子は後に聖武帝の皇后となる。王族以外の娘が皇后となるのはこれが始めてであった。軽皇子の母の元明女帝に与えられた橘姓を以って三千代は橘氏の祖となった。

そして「求女」、いわずと知れた藤原淡海じつは不比等である。求女という名は「綺麗な男」に使われるもので、二人の娘を恋に狂わせた男にはおあつらえというもの、しかも、この役はただの色男ではなく「色悪」とよばれるもので、己の野望のために寝技を使う卑劣な悪役なのであった。
不比等はまず娘の宮子を文武帝に嫁がせ、その二人の間に生まれた皇子が聖武帝となり帝の外祖父となっている。さらに光明子を皇后に立てることに成功したのである。

江戸時代の戯作者たちは、不比等がどんな男だったかようく御存知だった。


四段目、「三笠山御殿」

諸国の大名が入鹿のもとに駆けつけ恭しく挨拶を述べる中、明らかに場違いな粗っぽい男が屋敷に上がりこむ。難波の浦の鱶七(ふかしち)、鎌足と意気投合した漁師だという。鎌足が今までの非礼を詫びて仲良くやりたいという手紙をそえて酒を送ってきたという。当然怪しいこの男、侘びを受け入れないのはやましい事があるからだ、などと言うが入鹿はなぜか苦笑い、鱶七を殺さずに人質にとることにした。

                   鱶七 
                          鱶七  十五代目市村羽左衛門

屋敷に橘姫が戻り官女が着替えさせようとすると裾に付けられた糸の気づく。それを手繰り寄せれば恋焦がれる男が現れ、官女たちは喜んで囃し立てる。野暮は禁物とばかりにいそいそと散る官女たち。


橘姫の正体を知り驚く求女いや淡海、自らも名乗りかくなる上は生かしておけぬと姫を手にかけようとする。が、叶わぬ恋と諦めるのであれば死んだほうがましだという姫の言葉に刀を納め、兄・入鹿の手にある宝剣を盗み出してくれたのならば夫婦になろうなどという取引きを持ち出す。こんな男に惚れてしまうのも女の悲しい性なのか、求女と添い遂げたい一心で兄を裏切り宝剣を盗み出す決心をする橘姫であった。

求女を追いかけて屋敷の庭に迷い込む三輪は豆腐を買いにいく女中から姫様の意中の男との祝言が今宵内々に取り持たれることを聞かされてしまう。あわてるお三輪、なんとか屋敷に入れてもらおうと官女に頼み込むが、事情に聡い女たちから酷い苛めを受けることになる。髪や着物を乱されて泣きながら馬子唄を歌わされるお三輪は自分の生まれの賤しさを思い知ることになる。

ところでわざわざ豆腐を買いに行くこの女中、その名を「おむら」というが、おそらくは後代の桓武帝の皇后になる藤原乙牟漏(おとむろ)であろう。乙牟漏皇后は橘夫人の血筋であり嵯峨帝の生母である。嵯峨といえば豆腐、語呂合わせにしては意味ありげである。なぜなら壬申の乱以後天智系から天武系に移行した朝廷にふたたび天武系から返り咲いたのが桓武帝なのであるからして。

大化の改新と呼ばれる一連の事業の中には朝廷の勢力圏を東北に伸ばす政策があった。当時この地には朝廷に従わぬ民衆があったことが記紀の記述にあり、その征伐は神武天皇自らが始めたとの「先例」を以って記されている(神武東征)。しかし朝廷の組織が実際に東北に設置されたのはこの大化の時代である。

東北のまつろわぬ民、それは「一人で百人に値するつわもの」ともいわれた「えみし」である。

日本史の謎のひとつでもあるのが「蘇我蝦夷」という名、蛮族と賤しみ朝敵と見下していた「蝦夷」の名を蘇我の家はどうして惣領息子につけたのか、である。諸説ある中で興味深いのは、「蝦夷」は日本書紀の編纂者の側が後から意図的に付けた名前であるというものである。つまり蘇我氏が「えみし」同様に朝廷に害をなす一族であったことを後世にまで知らしめ、同じく東北征伐の正当性を引き立てる役を持たせているという説である(入鹿の名に関しても同様の説あり)。
朝廷がどうしても東北を取りたかったのは、肥沃な土地と海産物、名馬と黄金があるからだった。そして文身し弓と馬を自在に操る屈強な男たちが朝廷に靡かぬという事実はそれだけで脅威であった。


それまでの朝廷は天皇と豪族がよく建議し権限を分担する形で政治が行われていた。しかし遣隋使などを通して大陸の情勢が伝わるようになると大陸に対し独立を維持するためにも強固な律令国家を築きそのためには「中央」にさらなる権力の集中が必要という考えが朝廷内に生じた。そこで起こるのが「誰が天皇にたつのか」よりも「誰が天皇をたてるのか」の争いである。大化の改新の前後の日本はこの内紛にあけくれた。そこで生じた悪名・汚名の全てを蘇我親子に擦り付けて最後に日本を我が物にしたのが中大兄と藤原親子だった可能性は十分すぎるほどある。

女を使って出世を遂げた「色悪」不比等は得意の筆で日本書紀を書き下ろし、開闢以来の大悪党、蝦夷と入鹿を生み出して、ばさりと斬って闇の中。

           三笠山御殿
                              鱶七に刺されるお三輪



〽 袖も袂も喰い裂き喰い裂き、乱れ心の乱れ髪、口に喰いしめ、身をふるわせ、

屋敷の中から宴の賑わいがもれ聞こえ、いよいよお三輪は凝着の相もあらわに嫉妬に狂う。そこへ現る鱶七、いきなりお三輪を後ろから刺せば、橘姫の手の者と思い込んだお三輪はますます狂いだす。すると鱶七、「女悦べ」とお三輪を誉めそやす。漁師の衣装を脱ぎきらびやかな侍の姿に早替り、我こそは鎌足の家臣の金輪五郎、求女こそは我が若君の藤原淡海、仇敵・入鹿を退治するには凝着の相の女の血が、おまえの流す血が欠かせない、夫の手柄のために死ぬとはそれでこそ高家(身分の高い)の北の方(正室)、でかしたなあ、とそう言うとすでに爪黒の鹿の血を仕込んである笛にお三輪の血を注ぎかけ、この笛こそは入鹿を滅ぼす火串ならんとふかく拝する。

悦んだのはお三輪であった。恋しい男の妻として、その手柄のために死ねるなど女の冥加につきるもの、それでも最後に一目だけ求女を見たいと願いつつ巻く苧環の糸は切れ、お三輪もそして事切れた。


四段目、大円団

橘姫は宝剣を盗み出すがまたしても偽物、入鹿の知るところとなり姫は本物の宝剣で斬りつけられる。そこへどこからともなく笛の音が鳴り力萎える入鹿、宝剣は竜となり入鹿の手を離れて池にもぐる。そこへ藤原の軍勢がおしよせ入鹿を囲めばなおも大判事や金輪五郎に刃向かい抵抗するが鎌足がかざした神鏡に眼が眩み、ひるんだ入鹿は鎌足に首を取られてしまう。竜になった宝剣は鎌足の足元に舞い降りるのであった。天皇の象徴である三種の神器の宝剣が、帝というものがありながら何故に鎌足を選んでかしずいたかは、その後の日本での藤原氏の位置をよく語る。


史書にある歴史ををひっくり返さずに話を作るという歌舞伎の不文律を壊さずに本当の悪党が誰であったかを仄めかすという、この妹背山は神業に近い戯作である。
聴衆か観て溜飲を下げたかったのは淡海たちの最後であるが、入鹿が鎌足に討たれるという決まりごとは変えようがない。しかし序段から四段目を通して入鹿の見せた悪事はすべて史実での中大兄と藤原親子の仕業であることを語りきった。そして入鹿が頸を斬られる瞬間はすでに聴衆は心の中で入鹿を淡海たちに摩り替えている。だからこそ入鹿の最後の大見得に拍手と掛け声が集まるのである。


不思議な男の「鱶七」は悪役ではない。筋を貫徹させるために登場する、歌舞伎に付き物の神仙的な役である。「鱶=サメ」の名は古代の国つ神に数えられる海神の遣いであることの現われである。朝廷に抵抗した民衆の神もまたこの国つ神たちであり、入鹿の「鹿」も山の神の遣い、何よりもお三輪こそが国つ大神オオモノヌシの化身である。蝦夷と入鹿、そしてお三輪の荒ぶる魂を鎮め、あの世に還すためには是非とも鱶七にお出まし願うことになったのだろう。


「妹背山」の向こうには日本土着の「国つ神」と高天原の神々として知られる「天つ神」のはげしい戦いが隠れている。それは天智帝に始まり桓武帝に引き継がれる蝦夷征伐の序章でもあり、貴賎に囚われ生きる人の悲しさを描くものでもある。

くりかえし むかしをいまになしたとて むかしがいまに なるばかりなり


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歌舞伎見物のお誘い―勧進帳

唐突だがお許しあれ。

こともあろうに「歌舞伎の筋は荒唐無稽、とても追随できないので深く考えないように」などという歌舞伎解説が多い。そんなこたあない。古典に精通しているはずの識者の皆様がこんなことを言ったんじゃ、嫌でもそういうことになっちまう。

そこで今回あたらしく立ち上げましたる新連作、
歌舞伎がなんでこんなに面白いのか、知らざァ言ってきかせやしょう。


                    勧進

                                 「勧進帳」


初回という事もあるので有名どころから引っ張ってみたい。

時は鎌倉前夜、壇ノ浦の合戦を以って源平の戦いも終わりを迎え、平家を滅ぼした源頼朝は武家の大棟梁たるべくその礎を固める中、どうしても厄介な者がいた。義弟、源義経であった。
鞍馬山での稚児時代、そして奥州平泉での食客時代を通して義経が夢見続けたのは「平家打倒」であった。いまだまみえぬ義兄、頼朝の挙兵を知り「いざ鎌倉」と奥州を駆け出した義経は戦功を重ね頼朝をよく助けた。
二人の想いは何処で行き違ったか、義経は兄の不興を買い追われる身となり自らの原点ともいえる奥州に落ち延びるべく、義経は弁慶そして四天王とよばれた郎党らとともに東をめざした。芝居はここからはじまる。


〽旅の衣はすずかけの 旅の衣はすずかけの 露けき袖やしおるらん

すずかけ(篠懸)の衣とは山伏が着物の上に着る露よけの衣のこと、一行は修験の者に身をやつし、月の都を立ち出でて濡れぬ衣を涙で濡らしつつ加賀安宅の関まで辿り着いた。帯刀した者たちが大勢で移動するとなれば怪しいのは当然で、姿を変えるとすれば山伏が妥当であった。一方頼朝も義経一行が変装し東国へ向かうであろうことは察しており、各地の関所にて山伏を硬く詮議するよう達していた。

歌舞伎「勧進帳」は能の「安宅」を模しており、ほぼ忠実にその筋が再現されている。安宅とは現在の石川県にある地名、そこに新たに設けられた関所には富樫左衛門が義経を討ち取らんと目を光らせていた。


弁慶は義経を強力(ごうりき‐荷物持ち)に仕立てた。
まさか主君が荷物持ちの姿をしていようとは気付かれまいと敵の目を欺くための算段であった。

「所詮みちのく(陸奥)までは思いもよらず」と覚悟を決めている義経は今さら強力などに姿を変えることがあろうかと弁慶に質す。郎党どもも刀に物を言わせて関を踏み破ると息巻くが弁慶は、とにもかくにもこの弁慶にお任せあれとこれを押し留める。

勧進帳では義経役を勤めるのは女形と相場が決まっている。舞台の義経には平家を滅ぼした猛者の姿はなく、まるで姫君のようである。とはいえ決して女々しい訳ではないがあまりにも儚い、義経の行く末を知る聴衆にとっては尚のことそう映るのである。能の「安宅」では子方(子役)が義経を舞うのだが、これは死地を求めて旅をする義経の魂がすでに浄められ菩薩と化し、遮那王と呼ばれた稚児のころの姿でそれを体現したのではないかと思う。それを必死で庇護するのが不動明王のような弁慶であった。

布施を募ることを勧進という。消失した東大寺を再建するための資金を諸国を巡り集めるために遣わされた、と申し開きをする弁慶に、ではその勧進の証である勧進帳のなきことはよもやあるまじと迫る富樫左衛門。

  勧進帳
                                     勧進帳読み上げ

弁慶  なんと、勧進帳を読めと仰せ候な
富樫  いかにも
弁慶  ムム、心得て候

弁慶の手にもとより勧進帳はあるはずもなく、白紙の巻物を天も響けとよみあげる。

富樫はさらに問い詰める。山伏の装束の由来は何ぞや、仏門にあって刀を佩くのは如何に、云々。もとは高野山の修行僧であったためそれに難なく答える弁慶であった。これは山伏問答と呼ばれる場面である。

「勧進帳」ひいては「安宅」は軍記物語の「義経記」に取材したものというのが常識であるがこれは明治以降の常識に過ぎない。義経と弁慶の都落ちは日本にもっと古くからのこる諸伝説が基になっている。

「御伽草紙」に収められた物語は民衆に語り継がれた太古の伝説をおおく含んでいる。その中にある「大江山の鬼退治」はこの「勧進帳」の要素のひとつと指摘したい(過去に指摘はあったであろうが書物となっているかどうかは調べられなかった)。

その昔、丹波の国の大江山のその奥に、京の都を脅かす鬼どもが棲んでいた。女を攫い人を喰い宝を奪うなどして人々を震え上がらせていたという。帝は鬼の棟梁・酒呑童子退治の勅命を源頼光に与えた。この摂津源氏の頼光は義経や頼朝の直系の祖にあたり、轟く武勇は帝のおぼえもめでたく都の警護には欠かせない人物であった。頼光は四天王とよばれる渡辺綱、坂田金時(金太郎)、碓井貞光、卜部季武らの郎党を従え、加えて貴族ではあるが剛の者であった藤原保昌と共に石清水八幡・住吉明神・熊野権現へと詣で鬼退治を祈願、そして鬼たちに怪しまれぬよう山伏にと姿を変え大江山へと向かった。もうここまでで勧進帳の原型となっていようことは明白だが、まだ続く。
一行は途中、三人の翁にであう。聞けば彼らはそれぞれ都のそば、津の国、紀の国から鬼に攫われた妻を捜して来た者という。頼光らが勅命をおびて鬼退治に参じたことを知っており、「神便鬼毒酒」なる、鬼にはしびれる毒となり、神の使いには薬となる酒を差し出した。この翁たちは石清水八幡・住吉明神・熊野権現の使いであった。
鬼の棲家に入り込んだ一行は酒呑童子の前に通され、自らを鬼神に呪文を与えることを修行の旨としていると偽った。一行を怪しむ鬼は頼光に激しい山伏問答を投げかける。尽く答うる頼光を本物の山伏と認めた酒呑童子は心を許して身の上を語る。

  大江山
                               「大江山酒呑童子酒宴之図」

「我が名を酒呑童子と言うことは。明け暮れ酒に好きたる故なり。されば是を見かれを聞くにつけても。酒ほど面白き物はなく候。客僧たちも一つきこし召され候へ」(謡曲 大江山)

こうして客僧をもてなす酒宴の席となり、頼光は土産の神便鬼毒酒を皆に勧めた。

「我比叡山を重代の住家とし」ていたが、「大師坊(伝教大師)というえせ人」が見せた奇跡に仏たちも騙されて「出でよ出でよと責め給えば」仕方なく比叡を立ち退き、あちこちの山を渡り歩いた挙句都に近い大江山に参りしも、今は末法の世、大師坊の如き法力の持ち主は絶え、ときおり都に出向いては好き放題をし楽しんでいるところだが、頼光という強者が邪魔をするようになったとつづける酒呑童子であった。

                          酒吞童子
                                   酒呑童子

しかしふと頼光を睨みつけ、ようよう見ればおぬし頼光に似てはおらぬか、と呻く。そこで頼光はその場を乗り切らんと――頼光とは神を畏れぬ極悪非道の者なればそれに似るとは承服しがたくも、この上は力及ばず、我らが命取らんとあらば好きにされよ――と居直った。非礼を詫びた酒呑童子、ますます酒を重ねては寝入ってしまった。鬼たちはそうして首を切られた。

「勧進帳」の山伏問答の後はこうである。一行は関を通ることを許され出立するが義経扮する強力がこの者は判官殿(義経のこと)に似ていると呼び留められた。もはやこれまでといきおい立つ郎党を押し留め、弁慶は最後の大芝居に出た。

弁慶「判官殿世と怪しめらるるは、おのれが業の拙きゆえなり、思えば憎し、憎し憎し、いでもの見せん。」

〽金剛杖をおっとって さんざんに打擲す

弁慶「御疑念晴らし、打ち殺して見せ申さん」
富樫「早まり給うな、番卒どものよしなき僻目より、判官殿にもなき人を、かく折檻もし給うなれ、今は疑い晴れ候、とくとくいざない通られよ。」

不動明王の「鬼」の側面を見せる弁慶であった。家来が主君を打つなどはもってのほか、しかし何としてでもこの場を切り抜け奥州へと落ち延びなければならぬと心を鬼にして禁を破った。弁慶の機転と忠義心に胸を打たれた富樫は通行を許す。富樫はとおに義経らであることを見抜いていたのだ。武士の情けなれども義経を見逃すことは鎌倉に対する謀反、即ち死罪に値することは承知千万。

富樫は門の内に去る。不忠を泣いて詫びる鬼の弁慶、手をとって許す菩薩の義経。

そこへ暫し暫しと酒を持って現れる富樫、先ほどの面目を雪ぐため一献差し上げたいと酒を勧める。ありがたやと葛桶の蓋に酒を注がせ一気に飲み干した弁慶は請われて舞をさす。

ここに酒盛の場面があることは大江山鬼退治の騙し討ちという原点を見事に構築しなおしている。酒で尻尾を出させる謀りごとかとちらり疑う弁慶、ともかく請われるままに舞をさし、関守たちが見惚れる隙に義経以下郎党どもを出立させる。

〽とくとく立てや手束弓の、心許すな関守の人々、暇申してさらばとて 笈をおっとり肩にうちかけ

「鬼」と呼ばれた酒呑童子は太古、民衆の信仰の対象であった。が、仏教が朝廷により広められるにつれ居場所を失っていった。童子が伝教大師を「えせびと」と呼び、仏たちがそれに騙されたと語っているところが鬼の心情を表している。童子の生い立ちを語る説のなかで注目すべきは伊吹山の鍛冶師の息子として生まれたというものである。父の伊吹弥三郎と呼ばれた者は八岐大蛇を祀る一族の子孫、かのスサノオに退治されたオロチ族の一派が出雲を逃れて伊吹山に棲むようになったという。そして伊吹山も大江山もかつては鉄を産出した山である。
鬼たちの根城は「鬼の岩屋」とも「鉄の御所」とも伝えられている。これを鉄鉱山と解することで古代の製鉄集団が鬼と呼ばれて恐れられ、朝廷に背き、いずれは征服されたという、史書にはさやかに書かれていない歴史に触れることが出来る。朝廷に背くことが必ずしも「悪」であったという解釈は愚かしい。
八岐大蛇も八塩折之酒‐ヤシオオリノサケという強い酒で酔ったところを成敗されている。子孫の酒呑童子もまったく同じ手を喰らうのだが、この卑怯な騙し討ちは日本の支配者たちが「特定の敵」に対してたびたび行ってきた。

義経らが目指した「みちのく」とは「道の奥」、律令国家となってもなお天皇の威光が届かぬ東北が道なき未開の地と思われていた頃の名である。都からは遠く離れ雪深い、縄文の血の色濃いみちのくの人々は平安時代を迎えてもなお征し難く反乱が絶えなかった。陰陽道に照らし合わせれば東北は丑寅の方角、即ち都からは鬼門にあたり、鬼やもののけの棲む「穢れ」の地と括られた。人が人を支配しようとしたときに必ず生まれる都合とでも言うのか、特定の敵とは「穢れ」と想定された者たちを指す。
このみちのくに生きた人々を「えみし‐蝦夷、毛人」と呼んだ。朝廷との争いの中で少しずつ帰服がすすみ大和化した蝦夷たち(俘囚)こそ、武士の祖である。学校日本史は武士の起源を荘園警護の土豪としか教えない。

武家のことを「弓馬の家」という。馬を駆り弓を使いこなす技はこの弓馬の家に生まれ育つことで得られる。遠い先祖の昔から馬と弓と供に暮らしてきた彼らを朝廷が追い落とせなかった道理はここにある。蝦夷を祖とする優れた武芸者たちは次第に都の戦闘貴族たちの郎党に組み入れられ平氏や源氏という巨大な武士集団が形作られた。彼らに求められたのはむき出しの武力ではない。卓越した武芸に裏打ちされた死をも恐れぬ強き魂があってこそ手にできる「辟邪の武」である。人の手に負えない疫病や天災の元凶となる悪霊を退治するにはこの辟邪の武をおいてほかはなかった。これが源頼光が鬼退治の大役を仰せつかる所以であるが、武士も鬼も互いに朝廷から恐れられ疎まれたものの中から生まれたことは皮肉であり、皮肉こそが人の世の常である。


義経を育てた奥州藤原氏も源氏に忠誠を誓うみちのくの武家の一つであった。源氏の子として生まれ生粋の武人たちの下で弓馬を修めた義経は「辟邪の武」の継承者としてふさわしく、それは合戦で華々しく証明された。しかし人々か義経に酔いしれるのとは逆に頼朝は苛立っていた。腹黒い貴族と血の気の多い武士たちの間を取り繋ぎ新たな政権を立ち上げる政治の「建て前」が、義経から匂い立つ武士の「本音」とまるで噛み合わなかったのだ。結末は悲劇、義経追討という鬼退治になった。

酒呑童子が酔い潰されて首を切られるその断末魔、「鬼に横道はなきものを」と恨みをこめて言い放つ。まつろわぬが故に征される者の声であろう、征することこそ横道なるや。義経はこうして鬼の胎内へと戻るがその二年後、頼朝にもはや逆らえない奥州武士たちに攻められ自害、さらに頼朝が奥州を平定し、夢の跡には夏草が生い茂る。

弁慶は酒呑童子であり、不動明王でもあり、頼光でも渡辺綱でもある。
富樫は鉄の御所で頼光を待ち受ける鬼の棟梁であり、鬼退治の役目を負う頼光でもある。
義経は穢れとして追われる身であり、聖として守られる身であった。

このような交錯を受け入れられるのは近代以前の日本人の豊かさであった。
神と仏と鬼が入れ替わる。聖と俗が立ち変わる。日本の足跡そのものである。

明治以降、演劇に対する批評の目はシェイクスピアという色眼鏡をかけられてしまい、よりよい芝居には起承転結と善悪が整然と表現されることが求められ、町人の子供でも飲み込めた歌舞伎の筋書きは「荒唐無稽」と罵られるようになった。庶民から三度の飯より好きな歌舞伎を取り上げて高嶺の花の伝統芸能と奉ったのはGHQであった。そして見向かれなくなった。歴史書にない日本史の語り部であった歌舞伎はこうして封印されたも同然、いまさら「識者」などにそれは解せない。
歌舞伎を見れば先祖たちの息づかいは我々に、技に裏打ちされた役者たちから必ずや伝わるだろう。それを感じたならば知識などはあとから幾らでもついてくる。

                   富樫
                   弁慶


舞台で見送る富樫、花道に立つ弁慶、互いに想いを共にする同士、見交わし、幕。
富樫に心を残し、弁慶は飛び六法にて花道を入る。


〽虎の尾を踏み 毒蛇の口をのがれたる心地して 陸奥の国へぞ くだりける

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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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