スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

冬のごあいさつ

2013年もあとわずかとなりました。みなさま如何お過ごしでしょうか。この季節になると時のたつ早さをつくづくと思い知らされます。
月を見れば十五夜、冷えきる冬空はますます蒼く冴え渡り、春の足音は未だ遠く…

新年とはいうまでもなく年が新しくなる節目をさしております。新春と呼ぶのは年を春から順に数えるためで、冬の眠りから覚めて春を迎えるその門出を祝い新たな年の五穀豊穣と息災を願うのが、わが国の新年でした。

春は。

日の高さ、そして長さが、草木を目覚めさせるに至った頃にはじまります。つまり立春です。立春にいちばん近い朔(新月)の日を新しい年のはじまりとしていました。それは朔からはじまり次の朔までをひと月と数えていたことから来ています。闇から生まれて満ち輝きまた闇に還り行くという人の生死という侵すことのできない律動をを月の満ち欠けに重ねてのことです。

一年の十二ヶ月のはじめの月の初めの日、それは立春を迎える頃の朔日でありました。

私はこのブログで毎年この時期になると同じようなことを書いており、昔からの読者のみなさまはもう呆れておられるだろうと申し訳なく思っておりますが、今年も例のごとく書かせていただいております。
明治の「改暦」により本来の新年は祝うことがなくなりました。代わって目出度いとされるようになったのは西洋のグレコリオ暦の新年です。その昔の西洋では一年は十ヶ月のみ、農事の営まれない真冬の二ヶ月は暦も日付もありませんでした。その後にユリウスとアウグストスが自分の名前を残すため真夏にユリウス月とアウグストス月を捻じ込みました。そうして春のはじまりにあった第一月は後ろにはじき出されてしまい、真冬に一年をはじめることになったのです。目出度いでしょうか。

春の気配をいち早く知る梅の花は立春が近づくとほころび始めます。手折ればそこから枝が分かれ、ますます栄える梅は初春の知らせであるとともに目出度いものとして喜ばれました。毒にも薬にもなる梅の実の霊力もひろく認められていました。それが正月に梅を門扉に飾る由縁であります。

あと三日、梅の花がほころぶことはありません。町の正月飾りの梅の花は紙か樹脂製の造花、そうでなければ特殊な環境で育てられた花でしょう。温室でぬくぬくと育ち、ようやく花をつけた梅はとつぜん真冬の空の下に放り出されます。梅の花に情をうつしてものを言うのもおかしな話ですが、私たちは同じ仕打ちを人に、世の中にしてはいないでしょうか。



新年を祝う習慣のない国に来てからは年末の慌しさも正月気分からもすっかり縁遠くなりました。だからこそでもありますが、やはり今の時期に年末年始のご挨拶をこのブログから申し上げるのは憚られます。
しかし皆様がこの先も健やかに、心やすくお過ごしになることを願って止まぬ気持ちは変わらず、日本の国が少しでも良くなることを祈る気持ちは皆様とともに在ります。

2012年の更新はこれまで、次号は2013年を迎えてからになります。またのお越しを心からお待ちいたします。

あやみ

スポンサーサイト

都立工芸高校  ものつくりの学校

東京は水道橋の駅前、そこには筆者の通った高校がある。今から二十年以上むかしの話し…

あまりに近代的な外見に、見た人はまさか高校だとは思うまい。しかしここはれっきとした高校であり、工業高校である。それも伝統工芸を骨子とした工業を学ぶ学校である。

筆者が在学したころはこの新しい建物ではなかった。関東大震災の後に立てられた旧校舎は石造建築を模したコンクリート造といういかにも戦前の香りのするものだった。明治の洋風建築をアールデコ風に再解釈したかのような、ちょいと洒落た建物だった。



「高校」は半端な位置にある。中学までの義務教育と大学という一大事の間に挟まれた緩衝地帯に位置しあまりに主体性がない。「高等学校」なのだから何か高等なことを教えて然るべきなのに大学受験の準備しかしていない。だから高校の選択は将来の大学受験を見越してするものとなり、これが高校の空洞化を加速させている。

(筆者の中学時代の話なので、いまどうなのかは知らない)


「どの高校にいきたいの?」
そんなことを訊かれてもこまる。受験とは名ばかりで、所詮は成績の数字で第一から第三ぐらいの志望校を選ばされ無難なところに着陸するのである。志望などあったものではないことぐらい子供にでもわかる。せめてもの選択基準といえば制服がかわいいとか、部活が充実しているとか、繁華街に近いとか、その程度である。
はっきりいってどうでもよかった。義務教育だからあたりまえに、いわば惰性で中学に通っていたものの、いざその先のことを決めるように言われると決めようのなさにうんざりした。ましてさらにその先の大学のことなどは考えるのも馬鹿馬鹿しい。制服なんてどれも同じようにしか見えなかったし、部活にも熱中するほうではなかった。

将来の夢、漠然とした夢、それだけはあった。絵を書いたり、ものを作ったりして暮らしていきたかった。

先生方と志望校の話になるたびにあーだのうーだの言ってごまかしていたその頃、友人からこの工芸高校のことを聞かされて、飛びついた。

金属工芸科、いくつかある選科のなかでものすごく気になったのはこれだった。(当時の工芸高校には金属工芸かのほかにも機械科、室内工芸(木工)科、印刷科、デザイン科があった。いまはそれぞれ名称がカタカナに変わっている。)金属をいろいろと加工し作品を作ることを学ぶ。主体になる鍛金、彫金、鋳造の工芸技術実習と、ほかに旋盤やフライス盤などの機械工作、溶接、焼入れ、銀めっきなども習うという。しかも都立なので親孝行にもなる。さっそく両親に話し、大事な一人娘をを工業高校になどやれるかとも言われず「あっそう」と許しを得た。出願・入学の手続きも親の手を煩わせることなく全部自分でやったのを覚えている。

そして昭和も終わりに近づいたとある四月に、めでたく工芸高校での学生生活が始まった。

 

工芸高校の前身は明治四十年創立の「東京府立工芸学校」であり、職人を育てるための学校だった。当時の日本の工業は徒弟制度を頑なに守っていたが、急速に変わる国の事情は古臭い制度を捨てさせ近代化に努めることを推した。しかし明治政府がいかに殖産興業を叫ぼうと、どれだけ官営工場を作ろうと、工業界にとってみれば徒弟制度によって技を伝えることは捨てられなかった。工場生産品は短時間でたくさん出荷できるが、そのことは「よいもの」を作ることとは別だった。「よいもの」を作るためには先人から技を受け継がなければならない。徒弟制度はそのためにあった。日本の工業の先行きを憂う職人たちが政府に建白して作られたのがこの学校、親方たちは教師となり、たくさんの徒弟を生徒として抱え、場所は作業小屋から学校にと変わりはしたものの、かつて自らが教え込まれたことを一心に伝えた。創立当初は築地にあった府立工芸学校は関東大震災で全焼、四年後に水道橋(住所は本郷)に移り再開した。
そんなはなしを先生方からきかされた。



先生方はほとんどがこの高校の卒業生である。先生かつ先輩であり、師匠でもある。であるからして、われわれ生徒たちは激しく可愛がられた。教師である前に職人なのである。気難しいので生徒たちも子供ながらいろいろ気を遣ったりもした。

最初に触るのは「銅」だった。単元素の純金属である銅はやわらかくて一年生にも扱いやすい。ガスバーナーで焼きなめし、水で急冷し軟化したところを金槌で打って鍛えながら少しずつかたちを作る。これを何度も繰り返して蓋つきの小鉢をつくる。
鍛えると硬さが増すが、脆くなる。それが進むと金属疲労をおこし破断する。しかし加熱をすると膨張し、分子の配列がゆるくなるのでまた元のやわらかい性質(展延性)を取り戻す。これは純金属ならではのことで、たとえば合金のように分子構造が複雑になるほどこの性質は失われてゆく。なにやら人間くさい。

 
つぎは「鋼」。鋼とは鉄と炭素の混合物である。純鉄はやわらかすぎて役に立たないが、大昔の人たちが坩堝の中に砂鉄と木炭をいっしょに放り込んで融解すると硬い鉄が得られることを見出した。炭素は鉄を硬くするだけでなく、酸素との結びつきを鈍らせる。鋼(スチール)が錆びにくいのはこのためである。鋼棒を旋盤で切削加工し、ハンマーをつくった。鋼は焼き入れをするとさらに硬くなる。これも分子構造の変化によるものである。いったん焼入れを施した鋼をもういちど加熱(焼き戻し)し粘り気(靭性)を与える。

それから「黄銅」。真鍮ともいうこの銅と亜鉛の合金は、サクサクとして切りやすいため彫金技法の基礎を学ぶに丁度いい。糸鋸を使った透かし彫り、やすりがけ、ホウの木の炭を使う研磨、銀ろう(銀と亜鉛)を溶かしておこなう溶接、などなど。

ほかにもアルミの砂型鋳造や銀の彫金など、数々の実習をやったが、なによりも手ごたえがあったのが「青銅」の鋳造だった。ブロンズというほうがなじみ易いこの金属は銅と錫の合金であり、いろいろな意味で鋳造に適しているが、やや脆い。世界各地の遺跡から出土する金属器のほとんどはこの青銅製であるのは鉄器に比べると腐食しにくいことと、銅剣のように武器の形はしていても脆いため戦闘用ではなく祭器としてつくられ、畏れ多いので武具や農具のように溶かして再利用されなかったとの予想がある。

原型(雄型)から型(雌型)をとり、そのなかに解けた金属を流し込んで原型と同じ形をしたものを作ることを鋳造という。工程のほとんどが原型作りとそれを雄型に仕舞いこむ(込め)という準備に費やされ金属に触れるのは鋳込みの時と仕上だけと準備にくらべて少ないのが特徴である。雌型が脆ければ鋳物のバリや段差のもとになり、雄型の肉厚が不均衡であれば鋳廻りが悪くなって鋳物に穴が開く。厚すぎても鋳物がその分余計に収縮するので凸凹になる。バリはタガネで切り、穴や亀裂は鋳掛て埋める。その傷跡も自然の鋳肌に近づけるため手作業で仕上げる。雄型と雌型を作るときに誤りが少なければそれだけ仕上げが短くなるということになる。鋳造とは本体になるべく触らないのが真骨頂、という粋な工芸である。

実習だけではなく専門の授業もあった。「銅鐸の作り方」「日本刀の作り方」「奈良の大仏の作り方」、金属工芸史はそのようなことを教わる。同級生たちはみな寝ていたが筆者はよく聴いていた。そんなことを知っていて何の役に立つのか、と考えてはいけない。金属であり、何であり、物の性質や人とのかかわりの歴史をいろんな角度から見る癖をつけておくのは誰にとってもよいことだ。もちろん当時はそんなことを意識していたわけもなくただ興味に導かれてのことだったが。

「機械製図」「材料」「宝飾意匠」、みな必修の専門科目だった。いまではCGやガラス工芸も教わるようだ。国語や数学の普通の授業もあるのに、よくもまあこれだけのことをたった三年で…と今さら思ってしまう。当時、卒業後は製作会社、デザイン会社や宝飾の工房に就職するのが普通だった。大学受験を考える学生はほぼ皆無だったため、普通の授業はえらく気楽だった。科学の時間は金属の化学反応についての実験ばかりしていた。めっき理論もここで詳しく教わった。物理の先生は変わった方で、波動の講義のために愛用のバイオリンでヘタクソなツィゴイネル・ワイゼンを弾いて下さり、波はそっちのけでジプシーの悲哀について延々と話して下さった。高校から大学受験を取り去ればこんな高等な学校になる。



作家の意識の世界で完結できる芸術を純粋芸術といい、絵画や彫刻、文学などがそれに数えられる。しかし「工芸」にはそれを手にして使う者、見る者の意識も加わる。すなわち工芸は純粋芸術から一線を画す。ましてや見た目の格好良さを追いかけ、または奇をてらうことに囚われて使い勝手を損なうようでは工芸とは呼ばなくなる。材料、道具、工程、技法、使われ方が常に意識されなければならないという大前提からはみ出さぬ限り、どんなに簡素でも、どんなに遊んでもよい。それが作家の持ち味になる。そう教わった。

石器時代の石斧にはじまり、煮炊きをする土器、祭祀のための青銅器や埴輪、織物、農具、馬具、家屋、人の暮らしが工芸を生み、工芸も人の暮らしを変えてきた。書画のための筆、舞の扇や装束、茶器、琴、道具としての工芸はさらにすばらしい世界を生み出す。あの法隆寺の造営に使われた刃物は「槍鉋」とよばれる長い枝つきのかんなだけだったという。庶民のための調度品もすべて職人による手仕事の工芸品だった。江戸時代は江戸中職人だらけ、誰にでも手に入る安値の道具たちは便利で、丈夫で、修理に耐えた。


「ものつくり」として身を立てていくであろう卒業生も、先生方もおなじ悩みを抱えている。工芸の精神を突き詰めてゆくと、ちっとも儲からないのである。よいものをつくることと金儲けは次元があわない。採算を考えた瞬間に作家としての手が鈍る。これはどうしようもないことである。しかし今の異常な消費社会の中にあっては、先生方とてかわいい教え子たちに「清貧に甘んじろ」とはいえないのである。

「どうすれば便利になるか考えなさい。人が喜ぶものを作りなさい。そのためには五感を鍛えなさい。精進しなさい。わからないことは先生や先輩にお願いして聞きなさい。」
そして「世の中いろいろ複雑なので、よいものがよく売れるとは限らないんです。逆に君たちがよく儲かるからといって君たちの作品がよいかどうかも別なんです。作家になったらたまに考えなければいけない。儲けだの、何だのと、面倒なことをかんがえずに作品に没頭したければはやく人間国宝になりなさい(笑)。」その先は自分で考えろ、と先生。



三年の高校生活を終える頃、工芸高校の改築工事が始まった。校庭を掘削して新校舎の基礎工事が始まった。昭和が幕をとじ、平成となった年のこと。日本が昭和を脱ぎ捨てた年であった。

筆者は卒業後、二年の浪人を経て美大にすすみ建築を専攻した。やはりこれも純粋芸術に属さない分野である。建築は工芸の延長線上にある。そのときのことはまたいつか書こうと思うが、いまは何とか設計で食べていけるようになった。(但し筆者が日本で設計で食べられたかどうかは極めて怪しい)
今の仕事で役に立つのは大学で学んだことよりも高校時代に身に付けたことのほうがはるかに大きい。工法、手順を考える癖がついているからだ。職人さんたちとの意思の疎通の道義も先生方からいろいろと聞かされていた。ありがたいことだ。

父との電話でそのことを話したとき、いつものごとく「あっそう」という父だがその声は意外さをともなう嬉しそうなものだった。あのとき工業高校に進学することに反対しなかったことを安心してか、それとも単に喜んでくれているのか、両方か。




おしらせ

今週末、水道橋の都立工芸高校において「工芸祭」が催されます。都内・近郊にお住まいの方でお時間がございましたら是非ともお寄りください。
かわいい後輩たち、いえ明日の工芸家たちの作品が所狭しと展示されています。販売もございます。みなさまのお運びを心よりお待ちいたしております。

都立工芸高校 http://www.kogei-tky.ed.jp/ 

JR総武線水道橋駅より1分、
都営地下鉄三田線水道橋駅より0分
TEL.03-3814-8755 

「工芸祭」平成24年10月27日(土)・28日(日)
https://twitter.com/kogeisai/

道すがら

家から歩くこと20分、水平に測れば遠くはないが80m近い丘を登ったところに今の仕事場がある。丘よりも岩山と呼ぶほうが似つかわしい。

全景


道すがら、家々の庭の木や花を眺めるのも一興。カッパドキア地方は乾燥地でありながら果樹がおおく、アーモンド、桑、さくらんぼ、杏子、プラム、桃、梨、くるみ、林檎、葡萄、花梨が順々に花をつけ、実る。とくに葡萄は有名でカッパドキアワインは欧州のものに引けをとらない。その欧州からもワインの原料として葡萄を買い付けに来るほどである。
ところで、近所の女房衆をはじめこの辺りの女の人たちの多くは貧血による頭痛や目眩に悩んでいる。風土病なのかと考えていたが、たわわに実る果物を見ながらあることに気がついた。彼女たちはこの果物をあまり口にしない。
理由のひとつは「太る」から。医者は果物の中の果糖を白砂糖や甘味料と同一視してこれを制限するよう諭している。ただでさえ恰幅のよい彼女たちには同時に高血圧や糖尿病の気があり、糖度の高いスイカや葡萄はご法度なのである。当然、人の体を壊しているのは近代以降に使い始めた白砂糖や農薬で、医者の勧める薬の常用がそれに追い討ちをかけた。さらにはお里の怪しい農・畜産物、正体不明の人工甘味料、敵はこやつ等であって果物であるなどとは言掛かりにも程がある。葡萄を食べて血圧が上がるほうがおかしい、と、そう考える医者はおらず、ひたすら降圧剤を売りつける。

収穫の多くは大都市に出荷されるかぶどう酒の原料になる。イスラム教国の農村の女たちがぶどう酒を飲む筈もなく結局ほとんど口にはいらない。血が薄くなったのはこの土地に生まれて生きているにも関わらずその土の恵みを取り逃がしてしまったことが災いしたと、そう思えてならない。

梨

三歳半になる娘と家を出る。以前はこの子を仕事に連れて行っていたが、今の現場は高所で足場も悪く一緒に行くのは諦めた。近所の友人に預けてしばしの別れ。
いざ、岩山へ。

いきしな


道すがら、頬にあたる風が日ごとに冷えて行くのがわかる。刺すような日差しはもうない。秋が来た。
急な坂道を登り町から外れるともう人の気はなくなる。このあたりはもう誰も住んでいない。ここはその昔、村の中心地であった。足下に広がる新市街はかつては農地だった。人々は風当たりと日当たりの強すぎる平地での暮らしを嫌い、夏は涼しく冬暖かい岩の洞窟の中で暮らすことを好んだ。人々は日の出とともに羊や牛を連れてこの岩山を下り、畑で働き、日の沈む頃にまた岩山を登った。この暮らし近代はとともに消え失せた。人々は岩山を捨て平地に降りた。物言わぬはずの壁が、窓が、釜戸の煤が、かつてのその営みをひそりと語りかける。

門


カッパドキアは地方全体が世界有数の遺跡である。先史時代から多くの民族が住み、キリスト教徒たちが隠遁し、後にイスラームと共生し、網の目のように這う絹の道をらくだに乗った隊商が行き来した。後からきた異文化が先にあったものを駆逐することなく上にかぶさり融合してゆく。寿命の長い岩と石の建築はそれを許すことができた。その逆の道を歩んだのが日本の建築であった。日本の建材は朽ちて腐りゆく木や紙によるものだからこそ風景も、人の心もまた違うのだろう。その違いは風土と呼ばれるものになる。



世界の遺跡の町の共通の悩み、それは「今」がないことであろう(どれほどの人が悩んでいるかは不明だが)。遺跡が売り物であるということは遺跡に寄生して生きることを意味する。異国人相手の商売が増え小さな子供たちまでがぺらぺらと英語をはなす。人々は過去の歴史を誇るばかりで今を生きようとしない。かつて旅した中でそれをもっとも強く感じたのはアテネであった。行きそびれたがおそらくカイロやアンコールワットもそうではあるまいか。しかしトルコという国は逞しいといおうか、過去に縋りつくこともしなければ切り離してもいない。過去を下敷きにした今を感じることができる。


洞穴


堆積岩の中をくりぬいた洞穴にかつての暮らしがあった。時とともにその住人はかわり人の息吹が絶えた今、雨と風に削られて崩れようとしている。
大岩とてやがては千々に砕けて塵となる。そのことわりを覆すことはできない。だからこそ岩とともにあったこの地の暮らしに背いて生きるより、それを少しでも長く守ることを選びたい。


現場1


筆者が携わるのはこの洞穴住居群の修復・転用の設計、そして進行中の現場の管理である。正式な設計家、いわゆる「御用建築家」なるものが存在するのだが、彼らの図面などはまるきり役に立たないので現場でほとんど変更しなければならない。そして新たに図面を描いて職人たちを指揮し工事を進める。

修復工事には膨大な資金が掛かるため、集客力があり資金の回収ができる施設への転用が必要となる。もちろん世界遺産に指定されるような遺跡であればそうも行かないが幸か不幸かここはそういった指定を受けるほどではなかった。ここに紹介する計画は主体はホテルであるが洞穴の数だけでも二千を超える大規模なもので、工事完了まで十年ぐらいかかると目算されている。

この洞穴がすべてホテルの客室になるというわけではない。それではあまりに能がない。野外劇場や大浴場などの計画もあるが実際の設計はほとんど白紙に近いというか、何をしたらよいかを考えあぐねているようである。とりあえず右端のほうから着工して順次開業し、先のことは稼ぎながら考えよう、と、そんな感じなのである。なんたる気楽さであろう、そう呆れてしまうこともできるが、入札だの利権だのと民官ともにずぶずぶの関係にはまり無駄な建設ばかりに勤しむどこかの国に比べれば、むしろ潔さすら感じる。




洞穴住居は岩の中の洞穴部分と外に向かって増築した石造部分からなる。増築といってもその年代は幅広く30年前のものもあれば数百年前のものもあり、その架構方法はほとんどがアーチである。


現場2


古いアーチを解体し傷んだ石を新しいものに取り替えて再び組み立てる。
崩れそうな洞穴の天井を下から新たに支える。鉄骨や木の梁を渡すか石のアーチを架ける。
大空間を壁で隔て、荷重を分散させることで負荷を小さくすることもある。

これは補強についてであるが、それに加えて増築もおこなう。崩落してしまった石造部分を再現する、あるいは新たに計画し周囲にそぐわせる。


現場3


さらに内部、主に洞穴部分の内部の転用のための設備も整える。給排水、給排気、電気、断熱、防水、暖房など。湿気の少ない国なので冷房はまったく必要ない。
古いものに新しい役を担ってもらうには、それなりの「仕度」がいるのである。

紙に描かれた図面など大して役に立たない。何代も親の職を継いできた職人たちの勘と技が頼りである。「知識」と「技術」などは彼らがかつて十年がかりでしていた仕事を数ヶ月でやり遂げるよう後押ししているに過ぎない。


もぐら


難しいのは「動線」、つまり「道」である。街区、庭、家、部屋、それらを結ぶ人の軌跡の計画である。ここからそこに行くまでの短い時間をどういうものにできるかの尋常勝負である。激しい高低差は眺望をもたらしはするが足を疲れさせる。昇り下りが苦痛になってしまっては台無しになる。そして階段に食わせる面積は馬鹿にできない。坂道は人も下りるが水も下りる。でも水は自分から上に昇ってくれるはずもなく水を逃がす道を常に考えておかなければならない。道の所々にあるのが扉であるが、道すがらに扉を開けたその瞬間、目に「よいもの」が飛び込むようでなければいけない。とくに浴室、よほど用を足したいとき以外は便器は見たくないものである。種類の違う動線が交差するのは危険を伴う。熱い紅茶を運ぶ給仕と母親の元に走る子供が交差するような場所は十分な広さと見通しが必要になる。


階段


補強、復元、増補、設備、動線、これらの計画が現場で毎日討論されながら同時に進められている。建築家先生の設計図はあるが先に述べたように大した役に立ってはいない。なぜならば、既存の洞穴郡を下敷きに設計をするにおいては紙の上(キャド画面)での計画などは絵空事に過ぎないからである。机上の空論―Desktop Fantasy とでもいおうか。

ホテルの経営などに興味はない。いったいこのさきどれだけのあいだ観光などと言っていられるか怪しいとさえ思っている。むしろ人々がそんなものから愛想を尽かし、日々のくらしこそを喜ぶ時代が来ることをどこかで願っている。もしそうなればこの岩たちはもういちど住み手を脱ぎ変えてゆくことだろう。それも、一興。


かえりしな


旅の道すがらに訪れた町でこの目にに飛び込んできた光景は、この先もこの瞼から消えることはない。岩との対話は続く。

娘を出迎え家へとゆく道すがら、今年の葡萄を味見する。

葡萄

ラマダーン 断食月

イスラム世界は去る7月20日を以ってラマダーン-断食月を迎えた。星降る新月の夜から30夜数える次の新月までのあいだ、日中の飲食を絶つ。今年の断食月は夏の盛りにやって来た。

イスラム教国はみな、西暦とヒジュラ暦の両方を使っている。行政は西暦に沿って行われ、信仰に関わる行事はヒジュラ暦が用いられる。
日本の旧暦とおなじく太陰暦であるヒジュラ暦は新月から新月をひと月(平均29日半)とするために西暦よりも11日ほど早く一年が終わってしまう。しかし閏月を設けずに数え続けるので季節は次第にずれてゆく。33年で、一巡する。


断食といってもひと月丸ごと飲まず食わずで過ごすわけではない(無理)。教義にもとづいて飲食から遠ざかるのは空が白みはじめる時刻から日の入りまでである。モスクから響くアザーンの声がその時を知らせる。日没とともに飲食の禁は解かれ(イフタール)、一杯の水から食事を始める。そして真夜中にまた食事をとり翌日に備える(サフール)。

夏は日がながいので断食する時間も長くなる。ここトルコでは毎日およそ18時間、真昼は40℃の猛暑、今年を挟んだ数年は最もしんどい断食月を過ごすことになる。逆に南半球の国々では真冬である。こちらで渇ききっている頃にあちらでは寒さの中で空腹に耐えていることになる。そして16年ほど経てばこの季節は逆転する。なぜか公平にできているこの仕組みは地球が丸いことなど知られていなかった時代から守られている。


仏教の世界でも座禅や無言の行などとともに断食は精神修養のひとつにかぞえられており、日本人からしてみればそれほど受け入れがたい習慣ではなく一般人でも専門家の指導の下で体験できる。そして断食は体の働きを整えることもよく知られている。しかし大きな違いは、日本では断食がもともと僧の修行としての色が濃いのに対し、イスラームのそれは教徒すべてに義務として課されていることである。

断食の義務はイスラム教徒としての自覚が持てる年にまで育った男女のうち体と心に病がない者にあるとされる。妊婦や乳飲み子を持つ母親はその限りではなく、母子のどちらかに害が及ぶようであればしなくてもよい。産褥期と月経中の女性は体調に関わらず断食しない。日中も薬の投与を続けなければならない病人、断食することで回復が遅れる病人、怪我人、また虚弱者も断食してはいけない。そして気のふれたものが断食をしても、させてもいけない。

イスラームの断食は、クルアーンに神がそう望んだとのみ記されておりなぜ行うのかは触れられていない。もとより神の望みに勝るものはなくその理由を突き詰めるなど畏れ多いことではあるが、単に飲食から遠ざかるだけの行事と捉えていたのでは意味がない。

日没までの断食をどう感じるかは人それぞれ、しかしどんなに辛かろうが終りがみえている。日が沈めは食べ物にありつけるのだし、なにより断食月は次の新月になれば終わるのだ。いつ終わるか知れぬ飢えに苦しむ者たちがいるこの世、たったひと月の断食で彼らとその苦しみを「分かち合う」ことなどできまいが、しかし少なくともそれに思いを馳せることはできよう。ここが断食の入り口である。

一杯の水に喉が鳴る。これを堪えることができるならば、もはや奪うことから遠ざかることができる。
あと少しで日が沈む。これを待つことができるならば、もはや目先の欲に狂うことはない。
内側にある「欲」が爪を立てる、この獣を飼い慣らすことができれば、人の道を違うまい。

人々はそれを試されている。



心のありかの体はどうか。

心にくらべて体のほうはもっと賢くできている。十数時間の断食は最初の数日こそ堪えはするがその後はすんなりと慣れてしまう。消化器も泌尿器も、限られた水分と栄養で一日をどうやりくりするか勝手に考えてくれる。白く乾いてしまった唇も三日もすれば元に戻る。

中が空になると胃は何か溶かすものはないかと盛んに働き出す。このときの違和感が空腹感である。溶かすものが見つからないとやがて停止する。腸も胃が動かなければ仕事をやめる。食べる暇がなくて空腹をやり過ごしてしまうのはこれである。しかし自らを維持するために常に栄養を求める体は胃腸からの栄養補給に見込みがなければ別の行動に出る。

血や臓器の中の脂肪や毒素を分解し栄養として消費し始める。体に停滞し濁った水分を絞り出す。

たとえば日本の子供たちの多くは空腹を知らない。それだけ食べ物が有り余る証拠だが、過剰な栄養を摂り続けた子供たちの体には消費しきれなかった養分が居座り、その子の体のつくりによって肥満や虚弱、あるいは病の種となる。いずれ成長した彼らはすでに物騒なものを体の中に抱えており、その体がいつ襲われようが不思議ではない。さまざまな成人病、あるいは癌がそれである。

ほとんどの病は生活習慣病であって、癌を体質だの遺伝だのとするのは大きな誤解である。遺伝するのは体の特徴であって癌ではない。生まれた後の悪習慣に作られた毒素が親から受け継いだ体の弱いところを選んで虐め、そうして病をつくる。体質などというものは自分の体をよく知ってさえいればいくらでも作りかえられる。
月経中や産褥期の女性が断食を許されないのは穢れた存在として差別しているというのもまた誤解である。この時期に古い血は失われ新しく作られる。すなわち体の浄化が行すでに行われている最中に無用な負担をかけないためである。


「たべる」こと、人にとってこれほど重要なことはない。
しかし今やこの行為と上手く付き合うことのなんと難しいことか。世界を見れば、戦争や旱魃あるいは貧しさからひもじい思いをする者の数と、そして飽食による肥満と病に悩む者の数はほぼ等しい。この世から飢餓をなくすためと銘打たれて世に出た遺伝子組み換え食品はその恐ろしい正体が暴かれつつある。農業から離れた市民は地球の裏側から農薬でまぶした食べ物を買い付ける。食品産業は消費者の味覚と視覚を刺激するために手をつくし、その後は医療産業がいろいろと手をつくしてくれる。そのときにはもう限られたものしか口にできない。
かつては土地のもの、季節のものしか手に入らず、収穫期には冬を越すための保存食を家々で作った。食べられないところは牛にやるか、肥やしにするか、乾かして焚きつけにした。
かつては医者もいなければ、病人もそれほどいなかった。

断食には、身に余るものを使い果たし、血を清め、穢れを体から押し出す力がある。
日没までに幾度か感じる空腹などは、そのときに体の悪が退治されていることを思えば、心地よい。

しかし胃や腸の壁が荒れている人はこの退治がはじまる前に降参してしまう。胃腸が自身を溶かしだすからである。言うまでもなく胃腸の荒れは生活の荒れの現われであり、ここを正さない限りは始まらない。だから酒や煙草、過食、好色、過眠、怠惰、体に害を為すほど働くこと、悪感情を抱くこと、これらはクルアーンに「避くべきこと」として記されている。この世で生きるための体は神からの「預かり物」であり、それを粗略に扱えば病という形で罰が与えられる。それでも悔恨せぬ者はあの世でさらに痛い目をみると、そう記されている。

絶えず何かを飲み食べする、煙草が離せない、そういう癖があると人よりも辛い思いをする。断食の辛さは日ごろの悪癖の裏返しとも言える。そして夜明けの礼拝を欠かさない者は食事のために真夜中に起きることも苦にはならない。

そして日没、空になった胃袋は思ったほど食べ物を受け付けられない。まず水を飲み、そして水分の多い食事を少量とる。胃腸を疲れさせないよう獣肉や卵はなるべく避けチーズやヨーグルトなどの発酵食品をえらぶ。野菜と果物は季節のものを摂るとよい。夏、スイカやきゅうりの繊維は腸にとどまり水分を長時間保持してくれる。体を冷やす夏野菜を天日で干すとその効果が 逆になり、冬に体を温める食材になる。そして柑橘類は冬の渇きを潤してくれる。

そのひとくちを噛みしめるたび、日々の糧に感謝を、そして事欠く者たちのために祈りをささげる。



世の中を人の入れ物と考えるとどうなるか。

働いて富を得ることを悪とはしておらず、むしろ奨励するのがイスラームである。ただしひたすら蓄財することは堅く禁じられている。世の中の富とは体にとっての栄養のようなものであり、滞れば脂肪や病巣にしかならないのである。富めるものは喜捨(ザカート)をして弱者を助け、寺院や学校、井戸や道を作らねばならない。そこで雇用がうまれればその富は分配されて世の中が成長する。弱者たちは世の中に守られる。

富める者、力のある者が欲に任せて富を掻き集めれば、弱い者は虐げられ彼らの中にも恨みの火がともる。それは鎖となり世の中は腐れゆくだろう。だからこそ神は富を吐き出すことを命じている。

断食月のあいだ人々は貧者に施しを惜しまない。近所衆や親戚のなかで困っている者はいないか、食べられない者がいないか調べて助け合う。モスクの前の広場には仮設の食堂が設けられ、誰かしらの寄付によって毎晩のように食事が振舞われる。日々の暮らしに事欠かない者たちも勿論この食事に加わることができる。賑わえば、賑わうほど神は喜び、あまたの加護が降り注ぐからである。

常に神の加護を求めて行動することこそがイスラームの根本であり、どうするべきかはクルアーンにすべて記されている。厳しい修行で悟りを開くことは求められておらず、生き方に対する回答を最初から与えられている。どうあるべきかは預言者ムハマンドの生涯がその手本として示されている。

「ラマダーン」は「断食」そのものと解されがちだが元は太陰暦第九月の呼称である。六世紀の終わりにメッカに生まれたムハマンドは毎年ラマダーン月になると山の洞窟で瞑想をするようになっていた。610年、齢40を迎えたムハマンドがこの年も洞窟に篭っていると、ジブリール(大天使ガブリエル)があらわれてムハマンドが神に預言者として選ばれたことを告げ、そして最初の啓示が与えられた。ラマダーン月も終わりに近づいたある日のことである。その後22年にわたりムハマンドを通してこの世にもたらされた神の啓示をまとめたものがクルアーンである。イスラム世界は今もこの日の前夜を「宿命の夜」と呼び深い祈りのなかで朝を迎える。ひと月近い断食が終わろうとする頃、醜い穢れが拭い去られようとする頃である。

クルアーンは決して難解な書ではない。イスラム教国に生まれさえすれば誰でもその文章を理解することができる。しかし文章を解するのと心のなかに刻むことは同じではない。石油太りで身動きのとれない王族も、痩せた体で痩せた土を耕す民衆もいずれもイスラム教徒である。欲に羽交い絞めにされた心は、蝕まれた体に逆らえない心は、富を生み出すためだけにある世に生きる心は乾き萎縮し固く閉ざされる。そこに何かが沁みわたる筈もなく、父の声、母の声さえ届かない。ましてや姿の見えない神の声がどうして聞こえようか。


「人々よ、なぜわからぬのか」「いつになればわかるのか」

預言の書クルアーンは始終そう問いかける形で書かれている。あたかもこの世が神の望まぬ姿に向かって変わりつづけるであろうことを示すかの如く。それがこの世の宿命であるならばそこに生きる人も宿命を共にする他ない。しかし逆らい得ぬ宿命の中にあっても神の加護を求め穢れを断ち切ろうとする者たちは必ずや、あまねく慈悲につつまれるであろう、クルアーンにはそう記されている。


いにしへ の しほ いま の しほ

塩がそんなに悪いのか、といいたくなる。

過剰な塩分は血液に残留する。血中の塩分濃度を下げようとする機能がはたらき血液のなかに水分を呼び込む。かさが増えた血液を循環させる破目になった心臓は負担をこうむり血管は圧迫に耐えるために厚く硬くなる、すると血圧も上がる。
塩からい味を好むひとはこのような目に遭うという。



太古、狩猟生活をしていた頃は獣の肉から塩分を摂取できていた。が、農耕が始まり食物のなかに植物の割合が増えてくると塩分が足りなくなってきた。そこで人々は塩を作ることをはじめた。

「しほ(塩、潮、汐)」と字の如く、四方を海に囲まれた我が国では塩は海水から作られた。いまも日本では海水を乾燥させたものを塩として使う。
近代までは浜の一部を粘土質の土で覆った「塩浜」に海水を引き入れ天日で乾燥させていた。人力で海水を汲み入れる揚げ浜式、塩の満ち引きを利用する入り浜式があり無論後者の方が効率がよいが土地の高低や地形を選ぶため前者も廃れはしなかった。しかし、この方法は雨が多く日照時間の少ない日本では塩を完全に結晶させることは難しかった。塩浜では鹹水(かんすい・濃い塩水)をつくるに留まり、それを釜で焼き締めることでようやく塩が出来上がった。

いきなり海水から煮詰めていたのでは途方もない時間と燃料を費やしてしまう、そこで発明されたのがこの塩浜だが、そう古いものではない。では古代のひとびとはどのように鹹水を作ったのだろうか。


小倉百人一首のこの歌はご存知のかたも多いであろう。

   来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
       焼くや 藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ                藤原定家

来ぬ人を待つ心持ちを浜でじりじりと焼かれる「藻塩」に例えている。はて「もしほ」とはいかに?
この歌は万葉集にある長歌に対して詠まれた反歌である。そちらを見てみることにする。

  …淡路島  松帆の浦に  朝なぎに 玉藻刈りつつ  
      夕なぎに 藻塩焼きつつ  海人娘女(あまおとめ) …     笠金村(かさのかなむら)『万葉集』巻六 九三五

ここにも「藻塩」があり、さらに「玉藻」なる言葉がでてきた。


藻塩の会の方々はこの長歌を手掛かりに古代の製塩法をつきとめた。驚くばかりである。

代表の松浦宣秀さんが仰るには「玉藻」とは球状の気泡を持つ海藻「ホンダワラ」のことであるという。海から揚げたホンダワラを乾燥させると表面に塩が結晶する。それを甕に湛えた海水で洗い再び天日にさらし、また甕の中で洗う。これを繰り返すことで甕の底に鹹水が残る。ヒジキの仲間でもあるこのホンダワラは他の海藻より乾燥がはやく塩の結晶がまつわりつき易い形をしているのが特徴だ。


「朝なぎに 玉藻刈りつつ 」とある。
朝凪は朝の満潮(潮とはこれを指す)、この刻に海に入り玉藻を刈り取った。
日のあるうちは玉藻のしおを乾かし洗い、甕に溜めた。
「夕なぎに 藻塩焼きつつ」は、夕の満汐(汐のこと)の刻にこの日使った玉藻を焼くということを描いている。
土器の皿の上で玉藻を焼き、その灰を甕の鹹水に加え布で漉した。これを煮詰めることで塩を得た。


現代の食塩、その殆んどは原料こそ海水だがイオン交換によってもたらされる工業製品の「塩(エン)」であり、海の味のする「しお」ではない。

武田信玄の治める甲斐の国は海のない山国であった。駿河の今川方が塩の流通を止めたため瀕死に陥るが上杉謙信の贈った塩で生き返った。人は塩がなければ生きてゆけないのだ。どんなに塩からい味が好きな人でも摂取できる塩の量には限度がある。そして、よけいな塩分は体の外に出て行く仕組みになっている。塩のとりすぎで病気になるほうがおかしい。

イオン交換でつくられた食塩は塩化ナトリウムの純度がたかく、海水にふくまれるカリウムやマグネシウム、カルシウムがほとんど排除されたものである。カリウムには塩分を体外に排出させる力があり、それを棄てるという事は「体に居座る塩」を食べていることになる。


近年、自然製法の食塩も市場に出るようになった。喜ばしいことだが価格がいまひとつ喜ばしくない。畢竟、加工食品に使われるの安価なイオン式の食塩である。ましてや海の向うからやってくる食品はどんな食塩を用いているか知れたものでない。
また減塩が叫ばれる中、漬物や佃煮から味噌醤油にいたるまで塩気の強い食品はやむなく塩の量を減らすことになる。すると防腐効果が落ちてしまうため防腐剤を大量に添加する破目になる。いったい何をしようとしているのだろう。


日本の外には甲状腺の働きが壊れる怖い病気がある。バセドウ病や橋本病の仲間だが原因が違う。ヨード(ヨウ素)不足によっておこる深刻な疾患で、甲状腺が異常をきたすと甲状腺肥大、ホルモン異常、高血圧、高コレステロール、心臓病、肥満…さまざまな問題をおこし体を壊す。筆者の住むトルコもこの病気に悩む国の一つであり、我が姑も患者のひとりである。
これは海藻を食べる習慣がない国におこる病気ともいわれている。海藻のなかにヨードが多量に含まれからである。しかしこれを摂取しすぎるとまた同じ病気にかかったしまうから難しい。日本人は世界一海藻をよく食べるのになぜこの病気が少ないか、それは同時に大豆をよく食べるからである。あの小さな豆のなかにあるフコイダンという物質は、ヨウ素が甲状腺に必要以上集まることを防いでくれる。はじめからヨウ素とフコイダンの両方を背負っているモズクは有難い海藻だ。また、海藻はカリウムをも多く含んでいる。


ヨード不足を解消するため世界的に採られているのは食塩にこれを添加する方法である。日本以外の多くの国ではこれが奨励、或いは義務化されている。
また、高血圧などの疾患に配慮しナトリウムの純度をさげるためにカリウム化合物を添加したものも作られている。

WHOに属する国際食品企画委員会(日本も加入)が作成した国際規格をみれば食塩にはヨードのほかにも凝固防止剤や乳化剤が何種類もごてごてと添加されている。これを食品と呼んでいいかどうかはぜひ本人の勝手にさせてもらいたい。こういう機関は足りないヨードやカリウムを食塩に無理やり添加させることはしても海藻を食習慣に取り入れようという発想には決して行き着かない。そのために海を汚さない努力もしない。工業的に添加された栄養素の有効度は強調されていても弊害はきちんと調査されていない。都合が悪くなると「人体に影響がないほど微量」だの「喫煙の害にくらべれば問題にならない」だのと訳のわからないことを言って煙に巻く。(煙草はそのために売られているのだろうか?)
どのみち、人道の名のもとに暴力をふるう国連やWHOの言う事をいちいち鵜呑みにしていたのでは体がいくつあっても足りない。

食の土台でもある塩がこのていたらくなら他の食品の有様は察して余りある。健康や栄養に留意する気持が少しでもあるのなら、栄養価やカロリーなどの数値に誤魔化されるのはそろそろ止めにしては如何だろう。我々や子供たちの口に入るものが何処から生まれたのか、どのような道を、誰の手を経てやってくるのかを先に考えて欲しい。


浜で玉藻を焼きそれを加えて出来た塩には当然、海藻の持つ力が還元されていた。そして勿論そうとは知らずされていたのである。万物に霊の宿ることを信じていた古代の先祖たちの為せる業である。藻塩焼きは、わたつみの霊を塩のなかに呼び入れるための神事であった。


いま、その海の汚染がとどまるところを知らないことはここに記するまでもなく、胸が痛む。天日塩や海藻を摂ろうとしてもそれにどれだけ意味があるかは誰にも解らない。明らかなのは海を汚してはいけなかったことだ。


海に、山に挑みかかり、欲しいものをむしり取る生き方は許されるはずもなくその身を滅ぼす。森羅万象に与えられてこそ人は生きてゆける。それを思い出したい。

Pagination

Utility

書き手

ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

つれづれのかきこみ

さがしもの

こよひのつき

CURRENT MOON
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。