ち のはなし ちち(乳)と つづ(唾)

前号からづづく

人の血液型が今の四種に分かれた経緯とそれが歴史に落とした影、そして食と血液型の間には生死にも関わる問題があることを前号で綴った。さて今号は血液型からは離れ、「血―ち」にひそむ力のあれやこれやを、やまとことばに問いかけながら書いてみたい。

競馬がお好きな方なら「馬は血で走る」という言葉をご存知であろう。瞬発力、持久力、闘争心、駿馬たる技量は親から譲り受けるもので躾よりも血が勝ることを説いている。また人の子が集中力や忍耐力、注意力を親から受け継ぎ生活に生かすことができればそれも「親譲り」である。逆に酒や博打に溺れやすいといった悪い癖までも譲られてしまう。しかし人は大脳の可能性が他の生き物より格段に大きいため生まれた後の経験次第で親から譲られなくても様々な技能と欠点を身に纏うことができ、これを「氏より育ち」などのことばでよく喩える。
しかし「血は争えぬ」ということばもある。この相反する二者はともにわれらが先祖の残したことばであり、その間をどう取り持つべきかはわれわれ子孫たちに残された謎かけなのかもしれない。


ちち(乳)のはなし

獣であれ人であれ乳とはそもそも母親が生まれた我が子に飲ませるためにある。生まれたばかりのかぼそい命をこの世に根付かせる奇しき水、「乳―ち」は血からつくられ正に「血―ち」の雫ともいえる。獣であれ人であれ何も知らないはずの赤子は母の乳に吸い付くことができ、また時が来ればみな乳離れをする。

かつての日本では子が生まれると乳が十分に出るようになるまでの間、家が裕福であれば乳母(うば、めのと)を頼んだ。そうでなければそれこそ必死で「もらい乳」をしたという。他人に頼み込んででもどうしても母乳を与えたのは知識ではなく経験からにちがいない。赤子は人の乳の他はうけつけられないようにできていたのである。しかし人工栄養の登場によりその経験は過去の習慣として葬られた。母乳がいかに優れた栄養であるかをここで書く必要はないのだが、人という種族の子らにとって唯一無二の栄養が人の乳であること、また人の乳が人の子の役にしか立たないことの理由を大まかに書いておく。

我々の口に入る食品は糖質、脂質、たんぱく質に大きく分けられ、それぞれ別の形で分解、消化される。赤子にとっての乳も然り。

乳の糖質を消化する酵素ラクターゼは哺乳類の生き物には生まれつきその小腸に備わるが成長と共に減少する。人の場合も同じくその酵素は乳離れをする二歳前後を以ってほぼ消滅すると言っていい。B型の人は牧畜民族の血が濃く現れているのでこの酵素には比較的恵まれている。が、やはり成長と共に見放される。母乳・獣乳にかかわらず乳の糖質は乳児のみが消化できる。

乳児の胃腸は通常のたんぱく質を消化するだけの酵素を分泌できない。乳児の腸壁は目の粗い網のようなもので、早くから離乳食を始めると消化処理されていない大きなたんぱく質分子が網目からすり抜け血液に取り込まれてしまう。それは目に見えぬ形でアレルギー体質の基礎を築き、数年後に疾患となって姿を現す。しかし母乳中のたんぱく質ラクトフェリンだけは全く違い、乳児の小腸でわずかに分泌される消化酵素によって容易に分解される。免疫力を高め他のミネラルと結びついてその吸収を助ける効果もある。子が乳離れをして胃腸の働きが成人に近づき胃酸が強力になると酸に弱いラクトフェリンは胃に到達した時点で破壊する。また熱にも弱く、牛乳などに少量(母乳の1/10程度)含まれはするが煮沸消毒をした時点で消えてなくなる。乳児がうけつけられるたんぱく質は母乳のみということになる。

乳の脂質はどう消化されるのだろうか。人の母乳の中には人の胆汁と出会ったときに始めて効力を発し母乳の脂質を分解する酵素(胆汁酸刺激リパーゼ)がある。まさに鍵と鍵穴である。

このからくりがあればこそ人の母は乳を我が子に与えることができるのである。もし人の乳を他の獣の子に与えてもその体とはかみあわない。そして逆に、牛乳という鍵が合うのはおそらくは仔牛であり、少なくとも人の子ではない。

これらは母乳と人の子の間の完全無欠な関係をしめすに十分であるが、これだけでは物質面での重要性に過ぎない。本稿の趣旨はただの母乳礼賛ではない。「乳」を「血」、ひいては「霊」と同属と見なした先祖がその中に見出した力とはもっと別のところにありはしないか、それを考えるものである。

乳母(うば、めのと)、それは一昔前まではごく当たり前の「職業」であった。いまは感染症などが問題視されるために皆無となったが、平安、鎌倉時代の貴人や武士の家に子が生まれると特に才長けた女房を乳母に選び、後に冠位や財産を与えていたことが記録に残る。また乳母たちには子が成人した後も家の運営や政治への発言権が認められたことはその地位の高さを物語る。平家物語には前号にも登場した武人・渡辺綱(わたなべのつな)と乳母の遣り取りが次のように描かれている。

都の人々を脅かした羅生門の鬼は渡辺綱に腕を切り落とされる。その噂を聞きつけた綱の乳母は遠く摂津は渡辺の里から都に上り綱の館を訪れた。どうしても腕を見せてほしい、と懇願する乳母だが、腕は七日の間しかと封印するようにと陰陽師・安倍晴明の固い言いつけがあるためにその願いは聞き入れられぬ旨を伝えれば、綱の恩知らずと地に臥して嘆く乳母に耐えかね、とうとう館に招き入れてしまう。そして唐櫃の注連縄を解き、蓋を開るや乳母の形相は変わり、腕を切られた鬼の本性を晒し腕をつかんで飛び去ったという―
                 綱と眞柴
         歌舞伎 「戻り橋」より   渡辺綱と乳母じつは鬼

これは実話とは言いがたいが、綱の実母を登場させるよりも乳母を選ぶと言う演出、さらに鬼の腕を切るほどの武人すら乳母には頭があがらなかった当時の様子が伝わるものである。

これも民族の経験に基づくものである。乳母を頼むことが習慣と化していたのならば、それは直に日本人はこの時代までに優れた乳母を選ぶことの値打ちを見出し共有していたことを示す。ならば資料に乏しいというだけで乳母の歴史はさらに古い時代に遡ることができてもおかしくない。
単に生まれた子の腹を満たすためであれば体の丈夫な若い母親を乳母に迎えさえすれば済む。しかしそうではなかった。

平安時代も終わり頃、朝廷から東国に遣わされた国司の娘が土地の豪族に攫われてそのまま妻にされたという。そして翌年に姫が生まれたとの知らせが届く。嘆けども後の祀りと、国司はせめて生まれた子のためにと優れた乳母を選び娘のもとへまいらせた。年月は流れ、国司の妻はとうとう堪らず東国を訪れて娘と孫娘を見舞うことにした。都の人々からすれば東国はあらくれ者の棲む偏狭であり、未だ見ぬ孫娘はさぞや粗暴に育ったことだろうと重い心持ちで東へと向かうのであった。そうして見るや、そこには雅なことこの上なき姫君があったという。

しきたり、ことばづかい、箸の上げ下ろしは無論のこと、人として集団の中で生きる心構えまでを教え込むのは産みの親ではなく乳母たちの勤めであった。乳母とは教育係でもある。ここで不思議なのは何故に乳母が躾役を兼ねていたのか、である。いや、乳を飲ませる事と子を躾けることがいったいどう絡むと考えられていたのだろうか。

歴史に名を残した人物の乳母にまつわる話をひも解けばまず家柄が問われ、教養と人柄、公家であれば歌に書に通じ、武家であれば兵法や武芸の心得までが求められた。子が成長した後も乳母とその家族は後見としてあらゆる支援を行った。源頼朝の乳母を勤めた比企尼(ひきのあま)はその顕著な例であり、伊豆に流された頼朝を二十年にわたって助けた比企家は鎌倉挙兵の際には一族を上げて加勢、その後も外戚関係を結びつつ有力御家人としての地位を築いた。
他にも乳母が後に政治に強く関わる例が数多く指摘されている。しかしそこで当然、生母の家族との確執や闘争という弊害を予期することができるがそれでもなお乳母を必要とし子の習慣を守り伝えた。その由は庶民の間に存在した「乳付け―ちつけ」なる風習に見ることができる。

おそらくは戦前まで生きていたこの風習、子が生まれると最初の授乳を乳の出る別の女性に頼むというものである。その乳付け親は幸せに暮らす心根の良い女性であることが求められたという。乳を媒体として乳付け親の人格、運気などの非物質的要素を子に受け継がせることを目的としていた。

民俗学者などにより乳付けは「呪術」的な意味を持つ儀式との解釈が付け加えられているがそれはあくまで科学で証明できないものはすべて呪術か迷信とする稚拙な近代主義的観点からでしかなく、歴史解釈たるものからは程遠い。庶民の次元でなら「縁起をかついだ」という言い方もあり得るかもしれないが、武士や貴族が政治の土台を揺るがす要因を作ってまで行うまじないなどは早々に廃れてしかるべきである。しかし先祖たちが生まれたわが子のため、家のためにと優れた女房を探し出して乳母としたのはやはり相応の成果が認められていたからこそである。乳母たちは乳を与えるだけに終わらずその後もその子の傍に仕え、教養を背景としたその振る舞いやことばの端にやどる見えざる力により子を教化したのでる。これを可能にしたのは乳に違いないであろう、かつて与えた乳という鍵をして才覚の扉を開けることができた。これは理屈ではなく経験である。いや、民族の記憶である。

「血―ち」が親の能力や人となりを子に伝えるのと似た別の構造を「乳―ち」は持ち合わせている、このことはそれを密かに物語る。


つづ(唾)のはなし

乳のはなしの項でも触れた「酵素」、酵素とは栄養素ではなく栄養を分解し代謝するための触媒である。生鮮食品や発酵食品から摂取するほか体内でも生成される。その原料はやはり血で、前号で書いた血液型と消化の話を裏付けるのはこれである。血液型により生成できる酵素の種類とその量に相違があるために起こった問題が、人間史に思いもよらぬ、そして多大な影響を与えたのである。
人の生命活動に関わる酵素は数千から数万種と言われまだ全ては判明していない。酵素は食物から摂取される他に人体のあらゆる体液中に潜在的に存在する。その中でも注目すべきなのは唾液、これはなくてはならない消化液である。

唾液の和語は「唾―つば」でありこれは古語動詞「唾吐く―つばく」の語尾が脱落し名詞化したものである。唾液自体をさしているのはやまとことばの「唾―つ」。「ちち」もそうだが二音重ねて「つづ」とも言った。
「つ」はタ行子音であり、同様にタ行子音の「ち」とは必ずどこかで繋がっている。さてその唾液は何から作られるのか。それはやはり血からである。

もし食事中に水を摂取すると噛まずに飲み下すことができてしまうため咀嚼回数が減り唾液の分泌が激減する。唾液中の消化酵素は胃での消化に大きく寄与するのだが唾液が出ないとなるとその助けを十分に得られない胃はただでさえ苦境に立たされる上、ろくに咀嚼されていない固形食物を水で希釈されてしまった胃液で無理やり消化せざるを得なくなる。消化不良のために便秘や下痢を起こす。咀嚼不足で顎と歯と歯茎が退化する。また脳は咀嚼回数と分泌された唾液の量により満腹を察知するため、唾液が出なければ満腹に気付かず腹の皮が突っ張るまで食べ続けてしまう。消化不良と過食に挟み撃ちにされて肥満する。あるいは胃腸や肝臓を患う。唾液が分泌されなければ口の中の微生物の均衡が崩れ虫歯や口腔疾患を引き起こし噛むことがさらに困難となる。また唾液の分泌に関連した各種ホルモンが覚醒しないため生命活動が滞りもはや体のどこでどのような故障が起こるかは予想もつかなくなる。どうやら食事中に水を飲むと大変な事になるらしい。

唾を吐くのはもちろん、食事中に水を飲むのは行儀が悪いと躾けられた方も少なくないかと思われる。わが国の行儀の躾は他の国々からすれば厳しいほうで、実はこれは体の維持と整備に影で蜜に関わるのであった。唾液を吐いて粗末にするのも水で唾液を堰き止めるのも体を壊すもとであるのを先祖たちはよく知っていた。唾は大事なものである。

ここで冒頭に記した「血は争えぬ」という話に絡め、「世襲」制度なるものに触れてみたい。

世襲などは今では軽視された習慣であり時には非合理とまで批判される。これは「氏より育ち」のほうが近代主義の理念にふさわしいとされるためである。しかしかつては商人が店を継がせる段、跡取りとして選ぶのは当然わが子であった。職人も武士も同様である。しかし男児に恵まれなかったか、あったとしても病弱か技能に欠けている、あるいはとんでもない放蕩者でとても暖簾を譲れないなどの場合は同業者や弟子から養子を迎えた。娘があったならば婿養子として迎えられるので血縁関係は一代先送りでも守られる。しかしそれも叶わぬときは養子縁組が取り持たれた。そこで必ず為されるのが「盃事―さかずきごと」である。 
盃を交わして契りを固めるのは今にも残る古い習慣である。赤の他人どうしを夫婦、親子、兄弟また師弟として結びつけるに不可欠な儀式であり、その目的は両者の関係を血縁に並ぶ強いものとするところにある。今では多少変わってしまったが古くは一つの盃を使い父から子、兄から弟、師から弟子となる者の順、つまり親方が先に口をつけ子方がそのあとを飲み干すのが本来で、また口をつけた箇所を紙で拭いて渡したりもしなかった。ここで焦点となるのはやはり唾液である。

盃の酒はたかだか三くちで飲み干せる量、その盃にたった一度だけつけた口から移る唾液こそほんの微量であるにも関わらず、それが他人を親兄弟の間柄にまで結びつける力があったのか、それともただの呪術まがいの通過儀礼だったのか、精神的な繋がりを持たせるための形式的習慣に過ぎないのか、なのに固めの盃は古くは古事記に著され今日も古典芸能や極道の世界で守られているという事実はまことに興味深い。
                            

      親子盃。どういうわけか兄さん方の映像しか見つけられなかった。

近ごろ注目されている唾液遺伝子検査はこの唾液中の白血球細胞を利用して行われる。唾液には微生物や酵素のほかにも数多くの物質が含まれかなりの量の白血球も存在する。
もしやすると盃を介して白血球の遺伝子を「移植」し、人格や能力を遺伝させることができるのだろうか。
それはここでは検証のしようがないので先に続けるとする。

実は筆者の住むトルコにはこれに似ているとは言い難くも彷彿とさせる習慣がある。生まれたばかりの子を地域や親族の尊敬を集める人物のもとに連れて行きその唾を子の口の中に吐き掛けてもらうという、思わず後ずさりしたくなる習慣だが今もしかと残っている。先述の乳母の乳と同様に、信心や教養の深さと優れた人格の継承を期待しての行為である。

話を日本の世襲制度に戻す。我が子に自分の跡を継がせたいとの願い、また末代まで自分の血を残したいとの願いは自然なものであろう。そのために乳付けを試み、乳母を頼み、そして親として与えられる限りの資質を子に与えた筈である。しかし子にその技量が足らなければ家を継がせても傾いてしまう。江戸以降の武家や商家であれば周囲の助けでその運営が適うやもしれないが、職工や芸能の家にそういった余地は微塵もない。「血」は争えぬとは言えど「血」だけではどうにもならず、時として血族の外に後継者を求める必要に迫られた。血を別けた可愛い我が子をして跡を継がせたいという自我を封印し、盃を交わし義の血縁者として育てた弟子に職能を託したのであった。

職人、絵師、楽師、役者、医者その他これらは高等技能が求められる職である。六歳から元服の頃までに師について修行をはじめるのが常である。親方は実子をみずからに弟子入りさせ他の弟子たちと同等に扱う。また甘えを許さないために親子の縁を切ってから弟子にとる、あるいは初めから同業者のもとに弟子入りさせることも多かった。師弟とは親子同然、あるいはそれ以上のものであるとして差し支えない。この「弟子入り」に際して必ず盃を交わし師弟の契りを固める。
もちろん盃を交わしただけでは何も学んだことにはならないのであり、盃が済むと今度は長い長い修行が待っている。研ぐ、描く、打つ、舞う、ただの物理運動を魂に共鳴させるための修行である。いずれ弟子が技量を認められて師から名前を与えられるとき、その後さらに師の名を継ぐにあたり盃事が度々に取り持たれる。師が弟子に懸命に渡そうとしている何かがある。
ここに乳母や乳付け親の「乳―ち」と類似した鍵、「唾―つ」を見つけることができた。いずれも「血―ち」から作られる「霊―ち」の媒体である。
                            師弟
             鍛冶匠、硝子匠とその弟子たち           

職人に限らず、親の親から受け継ぎ血に刻み込まれた経験と技能がおのれと共に滅びてしまうことが身を切られるよりも辛いことであることは、手に職をお持ちの方であればよくご理解いただけると思う。何としても次世代に、血の中の覚書きを伝えなければ死んでも死に切れぬ、それほど切実であった。唾には本当に遺伝子や記憶を伝達する能力などがあるのだろうか、結果だけ見ればわが国の職工技能の水準は世界一、いや世界に類がない。

今日まで血を介して伝わった技能と魂を遡れば土の器に縄の文様をほどこした先祖たちや日本の土に稲を根付かせた渡来人たちにまで行きつく。あるいは黒曜石を求めて地球を半周し日本に至った熊襲たち、そして弓馬を携え東国のさむらいとなる蝦夷たち、また能狂言に恐ろしくも悲しく謡い描かれた土蜘蛛たちに辿りつく。彼らが国を築いた記憶は我々の血の道に脈打ち今を生きる力となった。「力―ちから」が「血―ち」に、そしてその後ろに控える「霊―ち」に由来することはやまとことばの構造が雄弁に語る。

―「力―ちから」は名詞「血―ち」に原因・理由の所在をあらわす接続助詞「から」が膠着したものである。

「氏より育ち」のほうが近代主義の理念に適うと書いたが、それは一斉教育で均一に生産された若者の甲乙を試験で評価し資本主義社会の各部品として使用するにあたって滅法都合がいいという意味で、それを人権だの機会均等だの小奇麗な言葉でまことしやかに飾り立てわれらの目と耳を欺いているに過ぎないのである。そこで重要なのは生産効率だけで親の血を引く技量などあってもなくてもどうでもいい。つまり、近代とは物質のみに意義を認めるのである。
日本の先祖たちが氏の子であろうと、赤の他人の子であろうと懸命に育てたことはもらい乳や師弟制度という習慣がすでに証を立てている。これこそが「氏より育ち」の示す深い部分であり、世襲制の否定とは無関係である。こうして血は血族だけでなく国という共同体に還元された。され続けた。そして今。

乳母の制度は守られることはなかった。人工栄養の「効率」のほうを重視したためである。さらに近年の「感染症」という脅威は乳母や乳付けの可能性を完全に閉ざしたと言える。親子盃でさえ盃を紙で拭いたり水で濯いだりという馬鹿げたお作法でその意味が枯らされ、先祖たちが交わした盃の意を踏襲しているのは極道の皆さん方のそれのみかと思われる。そもそも乳と唾は感染症から身を守る盾である。さらに言えば感染症の治療法を開発しながら感染症の原因菌を研究室で生産している連中は、ある国に武器を売つつその敵国にも武器を売る者たちの、近代主義の名のもとに日本から全てを奪った者たちの郎党である。日本のこのまま力、「血から」を失い続けていくしかないのだろうか。

やまとことばの音霊に、ほんのひととき身を委ねるだけでよい。それだけで先祖の声を聞くことができる。それだけで、逸れた道をいますこし正すことができよう。
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ち のはなし   血液型と食の歴史

 血は体内を流れ、酸素と栄養素を体のすみずみまで運び、その帰り道に老廃物を拾って捨てる。生体が命を閉じるまで昼夜を問わずこれを繰りかえす。血流が鈍ると冷えや凝りがおこり、汚れが溜まって生体は力を失う。また、血の通り道たる血管が狭まるか詰まるかするとその先は補給を絶たれた戦場のようになる。血は流れているからこそ意味がある。

ただでさえ目に見えない血の働きであるが、さらに見えないところにまで旅をしよう。本稿では血にまつわる話を取り上げるものとする。


やまとことばの「ち」

やまとことばは大陸から漢字が伝来する以前、わが国の太古の祖先が意志の伝達そして祭祀にもちいた、また今日の日本語の礎石でもあることばである。表意文字の漢字とはもとより縁がなく語彙の音そのものが意味を持つ。「血―ち」の他に「ち」という音のあらわすやまとことばは幾つかある。

「乳―ち」「父―ち」「風―ち」「茅―ち」「千―ち」「個・箇―ち」「霊―ち」などがある。やまとことばでは、同音の語彙郡はその意味に必ずと言っていいほど共通点がある。では検証してみよう。
「乳―ち」つまり母乳、これは血液から造られる。今では常識だが古代人が乳と血をおなじ「ち」という音で呼んでいたことには驚かざるを得ない。しかし考えてみればわれらが先祖たちが血の濁りや淀みに驚くほど敏感であり、それに因んで乳の出が悪くなることなどは誰でも知っていたのかもしれない。乳とは命の源、そしてそれ以上の存在である。
古語における「父―ち」とは父親ではなく祖先、血筋といった意味で使われていた。血を媒体として受け継がれた系譜をさす。
現代日本語では「風」とかいて「ち」とは決して読ませない。しかし江戸時代までは暴風を「大山風―おほやま」などと呼んで怖れていた。歌には道真により「東風(こ)吹かば 匂ひおこせよ梅の花―」と詠まれている。風とは気の流れである。酸素をはこぶ。また風は雲を集めて大地に滋養の雨をもたらす。時に冷たく、時に暖かく、人に季節の流れをほのめかす。なにやら血の振る舞いによく似ている。
「茅―ち」とは「ちがや」という雑草をさす。萱の一種で恐ろしいまでの繁殖力があり古代からこの植物の穂を乾燥させて強壮剤、つまり血行促進剤として用いていた。「ち」の音の背景に子孫繁栄への思いが伺われる。ちなみに精子も母乳同様に血液から造られる。
数の多いさまを表すことばが「千―ち」である。「個・箇」を意味する助数詞「ち」を伴うと「千箇―ちぢ」になり千個、沢山、様々、となる。「千々」とも書かれる。「月見れば ちぢにものこそ悲しけれ―」など古歌にうたわれる。

「ち」の根底にある意識、それは「霊―ち」をおいては語れまい。

古代、その名に「ち」の音が含まれる語彙には霊力が認められていたといえる。たとえば「蛇―をろ(折曲がった霊)」、「雷―いかづ(怒れる霊)」、これだけでも「ち」の持つ恐ろしげな霊威が感じられる。さらに古事記などをひもとけば「大穴牟遅―おおなむ(多くの名を持つ霊)=大国主命」「火之迦 具土―ひのかぐつち(火の耀く霊)」、「久久能智―くくのち(木々の霊)」と、神々の名の中にも「霊―ち」が伺える。

つまり「血」には霊力があると、あるいは霊と同位のものとされていたのである。ただの物質でしかない躯(むくろ)という入れ物の中を駆け巡りそれに生気を与える。のみならず、思い、喜び、悲しむ魂を繋ぎとめる。精は子を成し、乳は子を育み、子々孫々に至るまで血を介して霊が伝わるのである。やがて魂が離れ血の流れがとどまると人は冷たい骸(むくろ) となる。


血液の進化

最初の人類が地中海一帯に現れた当初、その血液型はすべてO型であった。じつはこのOは「オー」ではなく「ゼロ(原初の意)」である。彼らの生活形態は動物の後を追って移動する狩猟型、つまり肉食を旨とした。それも火の扱いを習得するまでは獣肉を生で食べるのみ、無論それに適した消化機能が彼らには備わっていた。長い氷河期の間、大型動物を集団で狩猟しつつ生きていた。しかし気温が上昇すると大型動物が減る一方で人口は増え、肉に頼らず植物を採取して食料とする必要に迫られた。そしておよそ9千年前に採取が栽培へと移行して農耕がおこり定住化の契機となった。ここで大問題が起こる。この時点の人類の消化器は獣肉しか知らなかったのである。灌漑などの技術革新がもたらした豊かなみのり、つまり豆類や穀類が突然胃に詰め込まれるようになると人体のほうは窮地に立たされた。穀類は肉を消化する強力な胃酸で物理的に溶かされてはいても科学的には全く分解されず未処理のまま血液に取り込まれ、人はかつてない様々な病に悩まされたのである。いよいよ人類の存続が危ぶまれると、追い詰められた血液細胞が突然変異をおこした―A型の誕生である。これは農耕民族の血液型でありA型の血液細胞は穀類澱粉の組織を分解する酵素を生成し栄養とすることができる。農耕が人口の増加をもたらしたのであればそれはA型人口の増加を直接意味している。
その農業がおこるずっと以前にO型狩猟民族の一部の集団は獲物を追って中央アジアの高地に移動しそこで氷河期の終わりを迎えた。ここで見られたのは動物の小型化、羊の原種の発生で、彼らは単なる狩猟ではなくこれらの小形動物を捕獲し繁殖させることに成功する。牧畜の始まりである。すると生活形態は牧草を求めての移動型になるため農耕には向かず、足りない食料は動物の乳を加工したもの、つまり乳製品で賄われた。ここでまた大問題が起こる。O型狩猟民族は乳製品も消化できなかったのである。糖尿病その他の病に悩まされながらここでも突然変異によりB型が生まれた。B型の成立は獣肉と乳製品という準肉食の生活に起因する。AB型は後の世にA型とB型が出会い混血することで誕生する。
RBG

            赤血球から生えた糖の鎖の違いが血液型を決める


日本人の祖

上の説を日本古代史と重ね、やまとことばを手灯りにつらつらと考えてみた。筆者の推測も含まれているため一つの読み物として楽しんでいただければ幸いである。

氷河期、凍てつく海の水位は低かった。大陸と列島は陸続き同然か、小舟を使い島伝いに自由に行き来ができた。この頃に大陸から牧畜を経験せずに東進し日本南西部に到達したのが血液型O型の狩猟集団である。その後に日本の北側からやってきた集団はB型である。この両者こそ倭人、つまり縄文人である。これを単に捕食動物を追っての極東への旅とは考えにくい。その目的の中には当時の狩りに利用された細石器の材料(黒曜石)を求めてのことが考えられる。日本列島全域が硬度と劈開性に富んだ良質の黒曜石の産地である。また穀類以外の食料の確保のためよい漁場を求めて太平洋岸伝いにやってきたとも言える。魚肉は獣肉を主食とする民族にとっても無害であり、O型、B型双方にとって格好の栄養源であった。やがて氷河期は終わり海面が上昇すると海の道は途絶える。彼らは日本列島に腰を据えてのちに縄文時代と呼ばれる独自の時空を築く。

地中海一帯においてA型農耕民族の増え続けた人口は国家と権力者を生む。当然起こる戦乱は民族を四方に分散させた。東へと移動した集団はアジアで稲と出会い、約四千年前、ついにA型農耕民族が稲作と共に日本列島に至る。渡来人たちである。先住の縄文人との出会いと共存はいかなるものなりき。

果たして記紀にあるように稲作は天つ神からの授かり物とするほど有難い文明であったか、たしかに食料は生きるために不可欠であり、米はいろいろな意味で素晴らしい。そして実際に稲作の開始以降は人口も寿命も数字の上では増長した。結論は一言には収められないが、少なくとも縄文人にとっては大惨事だった。

先述のとおりO型とB型にとって穀類はそもそも天敵なのである。食べれば確かに腹は膨れるが滋養が得られずに活力を失い、そして病に陥る。各自が貴重な働き手である上に全体意識が重んじられた当時の社会では一人の病は集団全体に降りかかる災厄であり個人の問題では済まされなかった。
そこへ「旨いから食え」と言われ、「耕作しろ」と迫られ、挙句の果てに「天つ神を祀れ」と強いられた日には武器を取るのみ、しかし大規模な農業を運営するまでの組織力があり、ましてや鉄製農具と共に鉄製武器をも手にする渡来人たちに適うわけもない縄文人には彼らに従うか迫害されるかの道しかなかった。それが弥生時代である。
近畿・中部地方を中心に渡来人は農耕の地盤を築く。その一帯に先住していた縄文人にも耕作を伝え受け入れさせる。しかしそれにはそれなりの時間が必要であった。愛知県の朝日遺跡は農耕を核とした巨大な弥生遺跡として知られており、発見された人骨には結核や貧血などの痕跡が見られると言う。急激な人口過密化による栄養不足がその原因とされているが筆者は肉食から穀類食への転換期に起こった弊害と考える。やがて縄文人にA型農耕民族の血が混ざることで穀物の消化の問題は徐々に解消した。ここでA型とB型の婚姻によりかつて無かったAB型が誕生する。


迫害民の血

あまたの小国家の興亡を経て、やがてヤマト地方を中央に据えた大和朝廷の成立へと時代は向かう。その勢力圏を築くに当たって先住民たちに強いたのはヤマトへの恭順と外来の神々(天つ神=渡来人たちの先祖を神格化したもの)の信仰、そして穀物での納税であった。それに頑として従わぬ者たちは北へ、南へ、または人も通わぬ山奥へと押しやられた。
陸奥、出羽、蝦夷地、北日本に生きた縄文人たちは蝦夷との蔑称で呼ばれた。採取生活を頑なに守り、皮革、鉄製品を製造しながら朝廷と交易を行うまでの独自の生活圏を築くことに成功した。彼らこそ氷河期に日本列島の北側からやってきたB型狩猟民族の子孫たちである。A型の血が混ざらぬ以上はこの集団の血液はB型、そしてB型に内在するO型因子の覚醒により出生するO型から成る。
奈良時代に坂上田村麻呂の東国征伐をうけて朝廷支配に組み入れられた以降は国司が派遣され本格的に開墾がはじまる。しかし岩手県中部がその北限であり、その以北の地には縄文時代の生活形態を踏襲しつつ交易、生活具、装飾品、食、いずれをとっても躍動に満ちた華々しい時代が興った。これの実現にはある程度の寿命の延びが不可欠である。技とその精神を次世代に伝えるにはその共同体のなかに熟練者たちがいなければならない。子供を生んで育てるだけで寿命を迎えていたのでは彼らの技術的円熟は決して見られないのである。また老人たちの経験譚を子供たちが聞いて育つことでそれは民族の記憶として共同体に還元される。およそ文化と名のつくものはそれが具現化したに過ぎないのである。蝦夷たちは比較的長生きだったはずである。これが正しければ農業収穫による食料の安定確保だけが長寿の秘訣ではないことの裏づけとなるが、研究者諸氏の更なる調査が待たれるところである。

ところ遺跡

            北海道北見市 ところ遺跡から出土した副葬品

また、山岳地帯に篭りひたすら朝廷との争いを繰り返した縄文人そしてその子孫たちは土蜘蛛と呼ばれ恐れられた。彼らの血液型は農耕を拒んだ以上はO型かB型であることは確かである。彼らは蝦夷たちとは違って朝廷からの卑劣な迫害に対する恨みゆえに完全に敵対、孤立した。文芸・能・神楽・歌舞伎等の古典芸能に描かれた「酒呑童子」や「茨木童子」、「国栖(くず)」そして「土蜘蛛」とは彼らのことである。桃太郎などの鬼退治譚で悪役に描かれる鬼たちも然り、朝廷側から見た脅威は絶対悪として歴史に焼き付けられる。
      大江山の鬼退治

      大江山の鬼退治   左から渡部綱、酒呑童子、源頼光


A型の現代人が渡来系である、ましてやO型の現代人がすべて土蜘蛛の子孫であるなどという話は論外である。今の我々の血液型は先祖の血を確かに反映してはいるが、その先祖とは単一系統ではありえないのである。例えば大陸からの渡来人はヤマトの地で権力者となると縄文系の豪族の娘たちを次々に妃に迎え、その子孫たちはみな朝廷貴族となった。これは何代にも渡って繰り返される。天皇の家系から源頼光や渡辺綱などの猛き武人たちが現れたのもいにしえの母たちから託された血が甦ったのであろう。さらに近世以降、人の行き来が激しくなると血の邂逅は止まることなく進み今に至った。我々の血液型はいつの時代のどの先祖の血が濃く現れたにより、母の胎内に宿るその時に決まる。


さむらいの血

国際語にもなった「さむらい」とは誰か。一般的な語源は「さぶらふ―侍ふ」とされ、貴人のそばに仕えるという誤った意味で定義されている。そうではない。やまとことば動詞「もる―守る」にはじまる。その未然形に上代の助動詞「ふ(反復・継続をあらわす)」が膠着し「むらふ―守らふ」、常に守り続けるという意味の語彙がつくられ、さらに語意をつよめる接頭語「さ」を冠して「さむらふ」になる。その名詞形が「さむらひ」である。貴族が雅語を使って発音すると「さぶらひ」になる。ではさむらいたちは誰を守り続けたのか。
平安時代中盤、朝廷の貴族や寺が私地を拡大して荘園領主となり、その警護に東国から猛者たちが集められたことを侍(にんべんに寺、大陸から渡る漢語漢字ではなく和製漢字)の始まりと教科書はほざいている。しかし上で述べたように、「さむらひ」という言葉が確立したのは上代以前、遅くとも奈良時代である。朝廷からの武力による干渉から同胞を守るために太刀を佩き、馬に跨り弓を構えた蝦夷たちである。彼らが守ろうとしたのは遠い祖から受け継いだ血、生き方であって貴族どもではない。
血族を核とした武装集団が日本の南に現れる。水先案内や海運を生業とし、または海賊でもあり、有事には朝廷の軍事力として機能していた集団は水軍と呼ばれた。彼らの先祖は南日本海域に点在した縄文人、熊襲である。後に熊襲の出の武士団として活躍する渡辺氏、村上氏などが有名で、また物部氏はかなり早い段階で朝廷に仕え軍事警察部門を受け持った熊襲である。「もののふ(=さむらい)」とは物部の和様の読み方から来ており「もの」とは武器を意味する。荘園領主たちはすでに存在していた武士たちに警護を依頼しただけであり、それを武士の始まりとするのは悪意さえ潜む誤りである。
そして北日本、蝦夷の中から現れた武装集団は地域を護衛しつつ弓と馬術の鍛錬にいそしみ勇猛な戦人として自らを育てた。鎌倉以降、武士の家柄を「弓馬の家」と言うがじつはそれは東国のさむらいたる蝦夷の血筋に由来する。中央から遣わされた役人が東国に土着し、地域の開拓を行いながら蝦夷と共に成長した武士団が奥州藤原氏を筆頭に数多く現れた。であるからして武家の棟梁たちの家系をたどれば大抵は源氏や藤原氏に行き着く。しかし東国に土着した以降は何代にも渡りその地の娘を妻に娶り子孫を残している。西国、南国でも同様の土着により武士団が形成された。父系の家名に拘らず冷静に俯瞰すれば武士たちはB型蝦夷とO型熊襲の血がより優勢であると言える。彼らは後に戦国武士として活躍、わが国の歴史の表舞台に立つことになる。

       弓馬の家

     弓馬の道トルコ流、そして日本流。彼らの先祖は中央アジア高地から東西に別れた。
 

農耕民の血

日本人の血液型で一番多いのはA型である。なぜか。
一昔まえの日本人の食生活だが、一言でいえば米が中心であり、その脇には常に味噌や豆腐や納豆といった豆製品があった。そして野菜の煮物、酢の物、漬物と少量の魚介類、これはA型農耕民にとって最も快適な食生活である。A型の消化機能ははでんぷん質を分解することに長けているが、動物性のたんぱく質を活力に代謝できないだけでなく血液中に病因として残してしまう。奈良時代から江戸時代にかけて時の政権は幾度も獣肉の禁令を出した。それは無類な殺生を戒める仏教に因るとも、働き手たる牛馬を保護するためとも、民衆の血の気を削いで従順にさせるためとも言われるが、結果として国家財政の基礎つまり稲作を担う農民層の胃腸を不向きな肉食から守りその繁栄を助けた。中世まで農村が搾取の対象とされながらもA型農耕民の人口は徐々に増え、そして江戸期に入り幕府の保護政策で豊かになった農村からは余剰した人口が都市に流れて大都市となった。それゆえ大都市の構成員もA型が優勢となり、するとそこでは米を中心に据えた食生活が展開する。今では喜ばれる中トロなどは敬遠されて猫の餌か畑の肥やしにされていたのも脂の強い魚肉が肉と同様にA型の敵であることと無関係ではない筈である。江戸時代に花開いた和食と名のつくわが国の食文化がA型の血になぞらえて構築されていたことは歴史学者からも栄養学者からも気付かれていない。
      米問屋

             米問屋の風景    食料であり貨幣でもあった米

逆に地方の武士、また山間部で生活する樵や猟師その他もろもろの職種の日本人は獣肉をかなり口にしていた。狩と称して野鳥や兎を公然と捕食しており、太鼓や鼓の皮の材料となる皮革を剥いだあとの牛と馬も当然の如く食用にされるなど獣肉の食文化も細々とではあるが継続されていたのである。そうでなければO型とB型の日本人たちは萎えきっていたはずである。いちばん気の毒だったのは粥ばかり啜っていた大都市に暮らす下級武士たちかもしれない。


血液型別の食を

上に書き連ねたことは昔話のようであるが現実に我々に流れる血もおなじ四種類、AとBとO、そしてABであり、各々の血液細胞のかたちと働きは縄文時代から変わっていない。これらの事をあわせ考えてみるといろいろなことに気付く。
例えばある現代人の血液型がO型だとすれば、それは彼が歴代の祖先たちから受け継いだ血の中のO型因子が色濃く現れたことによる。このO型因子は人類が狩猟民族であった頃からの名残である。すると彼の体の組織は胎児の時代からO型の血液細胞によって構築され、生涯その血に見合った栄養補給をつづければより快適に、より健やかに、またより長く生きて行ける。逆も真なり、血が苦手とする食生活は人体を疲弊させ、より早く老化させる。
蝦夷や土蜘蛛たちが頑なにまで農耕を受け入れなかったのは穀物を口にすまいとする血の為せる業でもあった。ならば現代もO型とB型の血は依然として同じ性格を持ち続けていることを思い出すべきである。A型以外にとって和食は体によいとの思い込みは危険極まりない。

A型であれば和食は理想の食生活である。現代の肉と乳製品に偏った食卓は見直すべきである。
B型は穀類以外なら安心して食べられる。乳製品も肉類も消化できるが両方を同時に口にすると負担になり得る。
AB型はAとBの両方の特性、強味も弱味も併せ持つ。何を食べても消化できるがそのぶん上限が低く設定されている。穀類、肉類、乳製品を同時に摂取しないほうがよい。
O型の場合、肉ばかり食べていてもそれで病気になることはない。逆に肉と魚しか食べられないとまでは言わずとも近いものがある。O型とB型が間違ってベジタリアンを目指すと内臓や血管が劣化し死に至りかねない。

これでは何も食べられないではないか、と嘆いてはいけない。まず日本人にとって米だけは別格である。米を食べ続けた我々の体内に米を分解する酵素がいつのころからか住み着いている。我々には麦よも米のほうが消化しやすい。そして葉物と根物の野菜の多くは誰にも害はなく、漬物はとくに優れた食品と言える。
また両親のうちのどちらかが自分と異なる血液型を持つのであればその特性を多少は引き継ぐことができる。たとえばO型の母親をもつA型の子が肉類を食べても血の中のO因子が消化を助けてくれる。血とはやはり争えないものである。

血液型が全てではない。人の生き死にはよろずのことの重なり合いである。しかし食べることなしには誰ひとりとして生きられず、血の助けなしには食べても体に生かせない。血がうけつけぬ物は決して体に還元されないのである。血のことをあまりに知らなさすぎたため我々はいらぬ病に冒されるようになったのである。乳製品は背が伸びる、肉は太らない、日本人なら日本食、どれも嘘ではないが相手構わず薦めたのではひどい間違いになる。少なくとも血というものを知る努力をせねばならない。せねば次の突然変異を待つ間に多くの命が苦しみ喘いで尽きていくであろう、それでもよいのだろうか。

血液型と食生活の話は筆者にもこの辺りまでが限界である。あとは専門家の方々に是非とも研究していただきたい。血にまつわるほかのはなしは次号にて。

冬のごあいさつ

2013年もあとわずかとなりました。みなさま如何お過ごしでしょうか。この季節になると時のたつ早さをつくづくと思い知らされます。
月を見れば十五夜、冷えきる冬空はますます蒼く冴え渡り、春の足音は未だ遠く…

新年とはいうまでもなく年が新しくなる節目をさしております。新春と呼ぶのは年を春から順に数えるためで、冬の眠りから覚めて春を迎えるその門出を祝い新たな年の五穀豊穣と息災を願うのが、わが国の新年でした。

春は。

日の高さ、そして長さが、草木を目覚めさせるに至った頃にはじまります。つまり立春です。立春にいちばん近い朔(新月)の日を新しい年のはじまりとしていました。それは朔からはじまり次の朔までをひと月と数えていたことから来ています。闇から生まれて満ち輝きまた闇に還り行くという人の生死という侵すことのできない律動をを月の満ち欠けに重ねてのことです。

一年の十二ヶ月のはじめの月の初めの日、それは立春を迎える頃の朔日でありました。

私はこのブログで毎年この時期になると同じようなことを書いており、昔からの読者のみなさまはもう呆れておられるだろうと申し訳なく思っておりますが、今年も例のごとく書かせていただいております。
明治の「改暦」により本来の新年は祝うことがなくなりました。代わって目出度いとされるようになったのは西洋のグレコリオ暦の新年です。その昔の西洋では一年は十ヶ月のみ、農事の営まれない真冬の二ヶ月は暦も日付もありませんでした。その後にユリウスとアウグストスが自分の名前を残すため真夏にユリウス月とアウグストス月を捻じ込みました。そうして春のはじまりにあった第一月は後ろにはじき出されてしまい、真冬に一年をはじめることになったのです。目出度いでしょうか。

春の気配をいち早く知る梅の花は立春が近づくとほころび始めます。手折ればそこから枝が分かれ、ますます栄える梅は初春の知らせであるとともに目出度いものとして喜ばれました。毒にも薬にもなる梅の実の霊力もひろく認められていました。それが正月に梅を門扉に飾る由縁であります。

あと三日、梅の花がほころぶことはありません。町の正月飾りの梅の花は紙か樹脂製の造花、そうでなければ特殊な環境で育てられた花でしょう。温室でぬくぬくと育ち、ようやく花をつけた梅はとつぜん真冬の空の下に放り出されます。梅の花に情をうつしてものを言うのもおかしな話ですが、私たちは同じ仕打ちを人に、世の中にしてはいないでしょうか。



新年を祝う習慣のない国に来てからは年末の慌しさも正月気分からもすっかり縁遠くなりました。だからこそでもありますが、やはり今の時期に年末年始のご挨拶をこのブログから申し上げるのは憚られます。
しかし皆様がこの先も健やかに、心やすくお過ごしになることを願って止まぬ気持ちは変わらず、日本の国が少しでも良くなることを祈る気持ちは皆様とともに在ります。

2012年の更新はこれまで、次号は2013年を迎えてからになります。またのお越しを心からお待ちいたします。

あやみ

都立工芸高校  ものつくりの学校

東京は水道橋の駅前、そこには筆者の通った高校がある。今から二十年以上むかしの話し…

あまりに近代的な外見に、見た人はまさか高校だとは思うまい。しかしここはれっきとした高校であり、工業高校である。それも伝統工芸を骨子とした工業を学ぶ学校である。

筆者が在学したころはこの新しい建物ではなかった。関東大震災の後に立てられた旧校舎は石造建築を模したコンクリート造といういかにも戦前の香りのするものだった。明治の洋風建築をアールデコ風に再解釈したかのような、ちょいと洒落た建物だった。



「高校」は半端な位置にある。中学までの義務教育と大学という一大事の間に挟まれた緩衝地帯に位置しあまりに主体性がない。「高等学校」なのだから何か高等なことを教えて然るべきなのに大学受験の準備しかしていない。だから高校の選択は将来の大学受験を見越してするものとなり、これが高校の空洞化を加速させている。

(筆者の中学時代の話なので、いまどうなのかは知らない)


「どの高校にいきたいの?」
そんなことを訊かれてもこまる。受験とは名ばかりで、所詮は成績の数字で第一から第三ぐらいの志望校を選ばされ無難なところに着陸するのである。志望などあったものではないことぐらい子供にでもわかる。せめてもの選択基準といえば制服がかわいいとか、部活が充実しているとか、繁華街に近いとか、その程度である。
はっきりいってどうでもよかった。義務教育だからあたりまえに、いわば惰性で中学に通っていたものの、いざその先のことを決めるように言われると決めようのなさにうんざりした。ましてさらにその先の大学のことなどは考えるのも馬鹿馬鹿しい。制服なんてどれも同じようにしか見えなかったし、部活にも熱中するほうではなかった。

将来の夢、漠然とした夢、それだけはあった。絵を書いたり、ものを作ったりして暮らしていきたかった。

先生方と志望校の話になるたびにあーだのうーだの言ってごまかしていたその頃、友人からこの工芸高校のことを聞かされて、飛びついた。

金属工芸科、いくつかある選科のなかでものすごく気になったのはこれだった。(当時の工芸高校には金属工芸かのほかにも機械科、室内工芸(木工)科、印刷科、デザイン科があった。いまはそれぞれ名称がカタカナに変わっている。)金属をいろいろと加工し作品を作ることを学ぶ。主体になる鍛金、彫金、鋳造の工芸技術実習と、ほかに旋盤やフライス盤などの機械工作、溶接、焼入れ、銀めっきなども習うという。しかも都立なので親孝行にもなる。さっそく両親に話し、大事な一人娘をを工業高校になどやれるかとも言われず「あっそう」と許しを得た。出願・入学の手続きも親の手を煩わせることなく全部自分でやったのを覚えている。

そして昭和も終わりに近づいたとある四月に、めでたく工芸高校での学生生活が始まった。

 

工芸高校の前身は明治四十年創立の「東京府立工芸学校」であり、職人を育てるための学校だった。当時の日本の工業は徒弟制度を頑なに守っていたが、急速に変わる国の事情は古臭い制度を捨てさせ近代化に努めることを推した。しかし明治政府がいかに殖産興業を叫ぼうと、どれだけ官営工場を作ろうと、工業界にとってみれば徒弟制度によって技を伝えることは捨てられなかった。工場生産品は短時間でたくさん出荷できるが、そのことは「よいもの」を作ることとは別だった。「よいもの」を作るためには先人から技を受け継がなければならない。徒弟制度はそのためにあった。日本の工業の先行きを憂う職人たちが政府に建白して作られたのがこの学校、親方たちは教師となり、たくさんの徒弟を生徒として抱え、場所は作業小屋から学校にと変わりはしたものの、かつて自らが教え込まれたことを一心に伝えた。創立当初は築地にあった府立工芸学校は関東大震災で全焼、四年後に水道橋(住所は本郷)に移り再開した。
そんなはなしを先生方からきかされた。



先生方はほとんどがこの高校の卒業生である。先生かつ先輩であり、師匠でもある。であるからして、われわれ生徒たちは激しく可愛がられた。教師である前に職人なのである。気難しいので生徒たちも子供ながらいろいろ気を遣ったりもした。

最初に触るのは「銅」だった。単元素の純金属である銅はやわらかくて一年生にも扱いやすい。ガスバーナーで焼きなめし、水で急冷し軟化したところを金槌で打って鍛えながら少しずつかたちを作る。これを何度も繰り返して蓋つきの小鉢をつくる。
鍛えると硬さが増すが、脆くなる。それが進むと金属疲労をおこし破断する。しかし加熱をすると膨張し、分子の配列がゆるくなるのでまた元のやわらかい性質(展延性)を取り戻す。これは純金属ならではのことで、たとえば合金のように分子構造が複雑になるほどこの性質は失われてゆく。なにやら人間くさい。

 
つぎは「鋼」。鋼とは鉄と炭素の混合物である。純鉄はやわらかすぎて役に立たないが、大昔の人たちが坩堝の中に砂鉄と木炭をいっしょに放り込んで融解すると硬い鉄が得られることを見出した。炭素は鉄を硬くするだけでなく、酸素との結びつきを鈍らせる。鋼(スチール)が錆びにくいのはこのためである。鋼棒を旋盤で切削加工し、ハンマーをつくった。鋼は焼き入れをするとさらに硬くなる。これも分子構造の変化によるものである。いったん焼入れを施した鋼をもういちど加熱(焼き戻し)し粘り気(靭性)を与える。

それから「黄銅」。真鍮ともいうこの銅と亜鉛の合金は、サクサクとして切りやすいため彫金技法の基礎を学ぶに丁度いい。糸鋸を使った透かし彫り、やすりがけ、ホウの木の炭を使う研磨、銀ろう(銀と亜鉛)を溶かしておこなう溶接、などなど。

ほかにもアルミの砂型鋳造や銀の彫金など、数々の実習をやったが、なによりも手ごたえがあったのが「青銅」の鋳造だった。ブロンズというほうがなじみ易いこの金属は銅と錫の合金であり、いろいろな意味で鋳造に適しているが、やや脆い。世界各地の遺跡から出土する金属器のほとんどはこの青銅製であるのは鉄器に比べると腐食しにくいことと、銅剣のように武器の形はしていても脆いため戦闘用ではなく祭器としてつくられ、畏れ多いので武具や農具のように溶かして再利用されなかったとの予想がある。

原型(雄型)から型(雌型)をとり、そのなかに解けた金属を流し込んで原型と同じ形をしたものを作ることを鋳造という。工程のほとんどが原型作りとそれを雄型に仕舞いこむ(込め)という準備に費やされ金属に触れるのは鋳込みの時と仕上だけと準備にくらべて少ないのが特徴である。雌型が脆ければ鋳物のバリや段差のもとになり、雄型の肉厚が不均衡であれば鋳廻りが悪くなって鋳物に穴が開く。厚すぎても鋳物がその分余計に収縮するので凸凹になる。バリはタガネで切り、穴や亀裂は鋳掛て埋める。その傷跡も自然の鋳肌に近づけるため手作業で仕上げる。雄型と雌型を作るときに誤りが少なければそれだけ仕上げが短くなるということになる。鋳造とは本体になるべく触らないのが真骨頂、という粋な工芸である。

実習だけではなく専門の授業もあった。「銅鐸の作り方」「日本刀の作り方」「奈良の大仏の作り方」、金属工芸史はそのようなことを教わる。同級生たちはみな寝ていたが筆者はよく聴いていた。そんなことを知っていて何の役に立つのか、と考えてはいけない。金属であり、何であり、物の性質や人とのかかわりの歴史をいろんな角度から見る癖をつけておくのは誰にとってもよいことだ。もちろん当時はそんなことを意識していたわけもなくただ興味に導かれてのことだったが。

「機械製図」「材料」「宝飾意匠」、みな必修の専門科目だった。いまではCGやガラス工芸も教わるようだ。国語や数学の普通の授業もあるのに、よくもまあこれだけのことをたった三年で…と今さら思ってしまう。当時、卒業後は製作会社、デザイン会社や宝飾の工房に就職するのが普通だった。大学受験を考える学生はほぼ皆無だったため、普通の授業はえらく気楽だった。科学の時間は金属の化学反応についての実験ばかりしていた。めっき理論もここで詳しく教わった。物理の先生は変わった方で、波動の講義のために愛用のバイオリンでヘタクソなツィゴイネル・ワイゼンを弾いて下さり、波はそっちのけでジプシーの悲哀について延々と話して下さった。高校から大学受験を取り去ればこんな高等な学校になる。



作家の意識の世界で完結できる芸術を純粋芸術といい、絵画や彫刻、文学などがそれに数えられる。しかし「工芸」にはそれを手にして使う者、見る者の意識も加わる。すなわち工芸は純粋芸術から一線を画す。ましてや見た目の格好良さを追いかけ、または奇をてらうことに囚われて使い勝手を損なうようでは工芸とは呼ばなくなる。材料、道具、工程、技法、使われ方が常に意識されなければならないという大前提からはみ出さぬ限り、どんなに簡素でも、どんなに遊んでもよい。それが作家の持ち味になる。そう教わった。

石器時代の石斧にはじまり、煮炊きをする土器、祭祀のための青銅器や埴輪、織物、農具、馬具、家屋、人の暮らしが工芸を生み、工芸も人の暮らしを変えてきた。書画のための筆、舞の扇や装束、茶器、琴、道具としての工芸はさらにすばらしい世界を生み出す。あの法隆寺の造営に使われた刃物は「槍鉋」とよばれる長い枝つきのかんなだけだったという。庶民のための調度品もすべて職人による手仕事の工芸品だった。江戸時代は江戸中職人だらけ、誰にでも手に入る安値の道具たちは便利で、丈夫で、修理に耐えた。


「ものつくり」として身を立てていくであろう卒業生も、先生方もおなじ悩みを抱えている。工芸の精神を突き詰めてゆくと、ちっとも儲からないのである。よいものをつくることと金儲けは次元があわない。採算を考えた瞬間に作家としての手が鈍る。これはどうしようもないことである。しかし今の異常な消費社会の中にあっては、先生方とてかわいい教え子たちに「清貧に甘んじろ」とはいえないのである。

「どうすれば便利になるか考えなさい。人が喜ぶものを作りなさい。そのためには五感を鍛えなさい。精進しなさい。わからないことは先生や先輩にお願いして聞きなさい。」
そして「世の中いろいろ複雑なので、よいものがよく売れるとは限らないんです。逆に君たちがよく儲かるからといって君たちの作品がよいかどうかも別なんです。作家になったらたまに考えなければいけない。儲けだの、何だのと、面倒なことをかんがえずに作品に没頭したければはやく人間国宝になりなさい(笑)。」その先は自分で考えろ、と先生。



三年の高校生活を終える頃、工芸高校の改築工事が始まった。校庭を掘削して新校舎の基礎工事が始まった。昭和が幕をとじ、平成となった年のこと。日本が昭和を脱ぎ捨てた年であった。

筆者は卒業後、二年の浪人を経て美大にすすみ建築を専攻した。やはりこれも純粋芸術に属さない分野である。建築は工芸の延長線上にある。そのときのことはまたいつか書こうと思うが、いまは何とか設計で食べていけるようになった。(但し筆者が日本で設計で食べられたかどうかは極めて怪しい)
今の仕事で役に立つのは大学で学んだことよりも高校時代に身に付けたことのほうがはるかに大きい。工法、手順を考える癖がついているからだ。職人さんたちとの意思の疎通の道義も先生方からいろいろと聞かされていた。ありがたいことだ。

父との電話でそのことを話したとき、いつものごとく「あっそう」という父だがその声は意外さをともなう嬉しそうなものだった。あのとき工業高校に進学することに反対しなかったことを安心してか、それとも単に喜んでくれているのか、両方か。




おしらせ

今週末、水道橋の都立工芸高校において「工芸祭」が催されます。都内・近郊にお住まいの方でお時間がございましたら是非ともお寄りください。
かわいい後輩たち、いえ明日の工芸家たちの作品が所狭しと展示されています。販売もございます。みなさまのお運びを心よりお待ちいたしております。

都立工芸高校 http://www.kogei-tky.ed.jp/ 

JR総武線水道橋駅より1分、
都営地下鉄三田線水道橋駅より0分
TEL.03-3814-8755 

「工芸祭」平成24年10月27日(土)・28日(日)
https://twitter.com/kogeisai/

道すがら

家から歩くこと20分、水平に測れば遠くはないが80m近い丘を登ったところに今の仕事場がある。丘よりも岩山と呼ぶほうが似つかわしい。

全景


道すがら、家々の庭の木や花を眺めるのも一興。カッパドキア地方は乾燥地でありながら果樹がおおく、アーモンド、桑、さくらんぼ、杏子、プラム、桃、梨、くるみ、林檎、葡萄、花梨が順々に花をつけ、実る。とくに葡萄は有名でカッパドキアワインは欧州のものに引けをとらない。その欧州からもワインの原料として葡萄を買い付けに来るほどである。
ところで、近所の女房衆をはじめこの辺りの女の人たちの多くは貧血による頭痛や目眩に悩んでいる。風土病なのかと考えていたが、たわわに実る果物を見ながらあることに気がついた。彼女たちはこの果物をあまり口にしない。
理由のひとつは「太る」から。医者は果物の中の果糖を白砂糖や甘味料と同一視してこれを制限するよう諭している。ただでさえ恰幅のよい彼女たちには同時に高血圧や糖尿病の気があり、糖度の高いスイカや葡萄はご法度なのである。当然、人の体を壊しているのは近代以降に使い始めた白砂糖や農薬で、医者の勧める薬の常用がそれに追い討ちをかけた。さらにはお里の怪しい農・畜産物、正体不明の人工甘味料、敵はこやつ等であって果物であるなどとは言掛かりにも程がある。葡萄を食べて血圧が上がるほうがおかしい、と、そう考える医者はおらず、ひたすら降圧剤を売りつける。

収穫の多くは大都市に出荷されるかぶどう酒の原料になる。イスラム教国の農村の女たちがぶどう酒を飲む筈もなく結局ほとんど口にはいらない。血が薄くなったのはこの土地に生まれて生きているにも関わらずその土の恵みを取り逃がしてしまったことが災いしたと、そう思えてならない。

梨

三歳半になる娘と家を出る。以前はこの子を仕事に連れて行っていたが、今の現場は高所で足場も悪く一緒に行くのは諦めた。近所の友人に預けてしばしの別れ。
いざ、岩山へ。

いきしな


道すがら、頬にあたる風が日ごとに冷えて行くのがわかる。刺すような日差しはもうない。秋が来た。
急な坂道を登り町から外れるともう人の気はなくなる。このあたりはもう誰も住んでいない。ここはその昔、村の中心地であった。足下に広がる新市街はかつては農地だった。人々は風当たりと日当たりの強すぎる平地での暮らしを嫌い、夏は涼しく冬暖かい岩の洞窟の中で暮らすことを好んだ。人々は日の出とともに羊や牛を連れてこの岩山を下り、畑で働き、日の沈む頃にまた岩山を登った。この暮らし近代はとともに消え失せた。人々は岩山を捨て平地に降りた。物言わぬはずの壁が、窓が、釜戸の煤が、かつてのその営みをひそりと語りかける。

門


カッパドキアは地方全体が世界有数の遺跡である。先史時代から多くの民族が住み、キリスト教徒たちが隠遁し、後にイスラームと共生し、網の目のように這う絹の道をらくだに乗った隊商が行き来した。後からきた異文化が先にあったものを駆逐することなく上にかぶさり融合してゆく。寿命の長い岩と石の建築はそれを許すことができた。その逆の道を歩んだのが日本の建築であった。日本の建材は朽ちて腐りゆく木や紙によるものだからこそ風景も、人の心もまた違うのだろう。その違いは風土と呼ばれるものになる。



世界の遺跡の町の共通の悩み、それは「今」がないことであろう(どれほどの人が悩んでいるかは不明だが)。遺跡が売り物であるということは遺跡に寄生して生きることを意味する。異国人相手の商売が増え小さな子供たちまでがぺらぺらと英語をはなす。人々は過去の歴史を誇るばかりで今を生きようとしない。かつて旅した中でそれをもっとも強く感じたのはアテネであった。行きそびれたがおそらくカイロやアンコールワットもそうではあるまいか。しかしトルコという国は逞しいといおうか、過去に縋りつくこともしなければ切り離してもいない。過去を下敷きにした今を感じることができる。


洞穴


堆積岩の中をくりぬいた洞穴にかつての暮らしがあった。時とともにその住人はかわり人の息吹が絶えた今、雨と風に削られて崩れようとしている。
大岩とてやがては千々に砕けて塵となる。そのことわりを覆すことはできない。だからこそ岩とともにあったこの地の暮らしに背いて生きるより、それを少しでも長く守ることを選びたい。


現場1


筆者が携わるのはこの洞穴住居群の修復・転用の設計、そして進行中の現場の管理である。正式な設計家、いわゆる「御用建築家」なるものが存在するのだが、彼らの図面などはまるきり役に立たないので現場でほとんど変更しなければならない。そして新たに図面を描いて職人たちを指揮し工事を進める。

修復工事には膨大な資金が掛かるため、集客力があり資金の回収ができる施設への転用が必要となる。もちろん世界遺産に指定されるような遺跡であればそうも行かないが幸か不幸かここはそういった指定を受けるほどではなかった。ここに紹介する計画は主体はホテルであるが洞穴の数だけでも二千を超える大規模なもので、工事完了まで十年ぐらいかかると目算されている。

この洞穴がすべてホテルの客室になるというわけではない。それではあまりに能がない。野外劇場や大浴場などの計画もあるが実際の設計はほとんど白紙に近いというか、何をしたらよいかを考えあぐねているようである。とりあえず右端のほうから着工して順次開業し、先のことは稼ぎながら考えよう、と、そんな感じなのである。なんたる気楽さであろう、そう呆れてしまうこともできるが、入札だの利権だのと民官ともにずぶずぶの関係にはまり無駄な建設ばかりに勤しむどこかの国に比べれば、むしろ潔さすら感じる。




洞穴住居は岩の中の洞穴部分と外に向かって増築した石造部分からなる。増築といってもその年代は幅広く30年前のものもあれば数百年前のものもあり、その架構方法はほとんどがアーチである。


現場2


古いアーチを解体し傷んだ石を新しいものに取り替えて再び組み立てる。
崩れそうな洞穴の天井を下から新たに支える。鉄骨や木の梁を渡すか石のアーチを架ける。
大空間を壁で隔て、荷重を分散させることで負荷を小さくすることもある。

これは補強についてであるが、それに加えて増築もおこなう。崩落してしまった石造部分を再現する、あるいは新たに計画し周囲にそぐわせる。


現場3


さらに内部、主に洞穴部分の内部の転用のための設備も整える。給排水、給排気、電気、断熱、防水、暖房など。湿気の少ない国なので冷房はまったく必要ない。
古いものに新しい役を担ってもらうには、それなりの「仕度」がいるのである。

紙に描かれた図面など大して役に立たない。何代も親の職を継いできた職人たちの勘と技が頼りである。「知識」と「技術」などは彼らがかつて十年がかりでしていた仕事を数ヶ月でやり遂げるよう後押ししているに過ぎない。


もぐら


難しいのは「動線」、つまり「道」である。街区、庭、家、部屋、それらを結ぶ人の軌跡の計画である。ここからそこに行くまでの短い時間をどういうものにできるかの尋常勝負である。激しい高低差は眺望をもたらしはするが足を疲れさせる。昇り下りが苦痛になってしまっては台無しになる。そして階段に食わせる面積は馬鹿にできない。坂道は人も下りるが水も下りる。でも水は自分から上に昇ってくれるはずもなく水を逃がす道を常に考えておかなければならない。道の所々にあるのが扉であるが、道すがらに扉を開けたその瞬間、目に「よいもの」が飛び込むようでなければいけない。とくに浴室、よほど用を足したいとき以外は便器は見たくないものである。種類の違う動線が交差するのは危険を伴う。熱い紅茶を運ぶ給仕と母親の元に走る子供が交差するような場所は十分な広さと見通しが必要になる。


階段


補強、復元、増補、設備、動線、これらの計画が現場で毎日討論されながら同時に進められている。建築家先生の設計図はあるが先に述べたように大した役に立ってはいない。なぜならば、既存の洞穴郡を下敷きに設計をするにおいては紙の上(キャド画面)での計画などは絵空事に過ぎないからである。机上の空論―Desktop Fantasy とでもいおうか。

ホテルの経営などに興味はない。いったいこのさきどれだけのあいだ観光などと言っていられるか怪しいとさえ思っている。むしろ人々がそんなものから愛想を尽かし、日々のくらしこそを喜ぶ時代が来ることをどこかで願っている。もしそうなればこの岩たちはもういちど住み手を脱ぎ変えてゆくことだろう。それも、一興。


かえりしな


旅の道すがらに訪れた町でこの目にに飛び込んできた光景は、この先もこの瞼から消えることはない。岩との対話は続く。

娘を出迎え家へとゆく道すがら、今年の葡萄を味見する。

葡萄

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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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