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すべての道は日本に続く 愛宕イラン起源説

修験道の霊山として名高い愛宕山。この山に祀られている神様はとんでもなく遠い国から来たかもしれないという思いが頭をかすめてはや十数年、研究などというものには程遠いが、はしり書きらしきものをここに置いておく。


現代イランからパキスタンに位置する地帯には古代、メディアとよばれる帝国があった。「メディア」の名はギリシア神話に登場する英雄イーアーソンに懸想し計り知れぬ悲劇を生んだ魔術使いであり、コルキスという黒海東岸の古代王国の王女から取ったものである。現代における情報媒体を意味する「メディア」という言葉もこの魔術を能くする悲劇の王女に由来する。

         medea


メディア帝国に関する記録は非常に限られており正確に書くことは難しいが、インドの北で暮らしていたアーリア人がデカン高原とイラン高原に別れて移動し紀元前10世紀頃までにイラン高原に定住した集団がその源流であることは確かだ。自らをアーリア人と自覚していた彼らが後にメディア人と呼ばれるようになったのは紀元前6世紀ごろにコルキスに入植したギリシア人たちがその南に広がるイラン高原をメディアの地と記したことによる。「崇高な民」という意味を持つ「アーリア人」は現代のイランという国号の語源でもある。アーリア人は太陽や天空をはじめとする様々な自然神を崇める多神教徒であった。中でも太陽神の性格のつよいミトラ神を最高神と拝し聖牛が犠牲として捧げられた。そしてイラン高原への移動後に土着の信仰を吸収しながら再解釈され、また他方ではアッシリアの神々を習合しメディア帝国独自の信仰が形成された。天空崇拝は天文学と占星術の基礎を築き、もともとインドに根強い輪廻転生への願いはメディアの信仰にも受け継がれ、「再生」を実現するための「秘儀」が伝えられた。最高神の象徴である太陽は炎の属性を持つとされる考えからか、炎は神体あるいはそれに近いものとなり、メディア帝国の火炎崇拝は呪術的要素を濃厚にした。

閑話休題。紀元前17世紀ごろに発祥したと伝えられるミトラ信仰はインドからイラン高原にかけて広がりその後もギリシア・ローマ文化圏に拡大しつつ、変化を遂げながらキリスト教がローマ帝国の国教と定められる四世紀までの地中海世界に勢力を誇った。ミトラ信仰がこれだけ長期にして広大な地域に影響を与えたにも関わらずその名が歴史の表層に現れないのには訳がある。もしミトラ信仰の細部に日が当たれば今日のキリスト教の教義・儀式の根底にある構造のなかの多神教ミトラ信仰的要素が表沙汰に、つまりキリスト教がローマ帝国に受け入れられるまでにミトラ教化したことが露見し、一神教の大義名分により異教徒を迫害することで築いたキリスト教主導型国際社会は面目を失いかねない。古代信仰の研究が学会の賞賛を受けないのも、またこの地域の石油資源を目的に繰り広げられていると一般に解される軍事侵攻が調査を妨げ、古代史の生き証人たる遺跡を破壊し続けているのも偶然ではない。

紀元前550年頃にメディア帝国が滅ぶとアケメネス朝ペルシアがエジプト、リディア(小アジア)、カルデア(バビロニア)一帯を統一した。この大帝国で支配的になった信仰はメディア時代にミトラ信仰の中から発生した拝火教のゾロアスター教である。

熱と光を生む「炎」は凍てつく冬から人を守り、灯れば闇夜に迷う人を導く。炎は狩りや農耕に欠かせない金属の加工技術をもたらし人の暮らしを豊かなものとした。同時に炎からは鉄製武器も生まれ王者の後ろ盾となった。しかし怒れば雷とともに空から降り、あるいは山を裂いて噴き上がり、富も栄えも人とともに焼きつくす。人の祖(おや)たちがこの炎の振舞いに「神」を見出したのはごく自然だといえよう。古代、同様に神と見なされていた太陽や月に比べ炎は格段に身近であった。神殿を築き聖火壇を設ければそこに神を招くことができるのである。炎からは手に届かぬ太陽よりも強い繋がりを得ることが出来たはずである。これが世界各地にある火炎崇拝の背景である。
イラン高原のミトラ信仰の呪術や神話、教義を整理し天文や占星の学問を加味したものがゾロアスター教であった。メディア時代からマゴイという名の一族が司祭となり「magi-マギ」と呼ばれ、アケメネス朝帝国下でもメディア人のマギたちがそれを踏襲した。彼らによる呪術と占術は国政に大きな影響を及ぼした。「マギ」は古ギリシア語を経て英語の「magic=魔術、呪術」の語源となった。

ところで、現代トルコ語と現代ペルシア語で「火」のことを「ateş-アテッシュ」と言うのだが、より古いペルシャ語では「Âtar-アタール」と言う。これはメディア人(アーリア人)の崇めた火神の名でもありゾロアスター教にも継承された。ペルシャの生き別れの兄弟のインドでも火そのものあるいはバラモンの火神を意味するサンスクリット語の「अग्नि-アグニ」が存在する。火神アグニは聖火壇に火を点すことで呼び覚まされるという。アグニの伝説のなかに、生まれてすぐに両親である天空神と地母神を焼き殺したというものがあり、これは正にあることを思い出させる。

日本神話の火神カグツチ(火之迦具土神)は生まれるそのときに母親であるイザナミの女陰を焼いて死に至らしめた。亡き妻を追い慕い黄泉の国(冥界)に渡ったイザナギは、イザナミから決して見るなと制されていたにも関わらず堪えきれずに火を灯し、目にしたのは体中におそるべき雷神が纏わり憑いたイザナミの姿であった。


原始、「火」と人の出会いの契機は落雷であったと言えよう。天空(陽)と大地(陰)の交わるさまが落雷であり、その末に地に生まれたのが火であった。その火は母なる大地を焼き払った。カグツチとアグニのそれぞれの生誕にまつわる物語はそれを今に言い伝えているのだろう。アグニは仏教に取り入れられて「火天」と漢語に訳され日本にも到達している。

インドの古代信仰では天空の神々にささげられた犠牲は火炎を介して煙と化し神々の元に届けられると信じられていた。この解釈があればこそ火葬という風習が生まれたのであろう。火炎信仰はバラモン教を介し、さらに仏教と出会い密教が確立される上で大きな役割を果たすことになる。つまり護摩壇に炎を焚き真言を唱えるという密教の祈祷「護摩=हवन-ホーマ」はアグニ信仰から受け継がれたものである。

              homa
                                 バラモンのホーマ


日本に伝来した当時の仏教は渡来人と貴人たちの私的な信仰というべきものであったが、その後に徐々に伝わった密教(この時点では雑密と分類される密教)はその鎮護国家の性格を朝廷に歓迎され、九世紀の密教正伝(最澄と空海の帰国)を待たずして密教は仏教を国家信教とならしめた。律令国家としての体裁を整えることが急がれる中で、その基盤となる租税と庸兵の重きに民衆が耐えるための心のよすがを掲げる必要があった。それには「祟る」神よりも「救う」仏のほうが朝廷にとり人心をとらえる上で都合がよかった。こうして日本の神々の受難が始まった。

日本には古来から山岳信仰というものがあり、険しく聳え人を寄せ付けない山々は神霊の降り立つ場あるいは神体そのものであるとして畏れられていた。しかし政治に仏教色が強くなるにつけ日本の在来の神々は仏の叡智に教化されるべき存在として格を下げられ、時には世に災いを為す「鬼」とまで見なされた。鬼とされた地神たちが徳の高い僧の唱える経により改心し仏門に入るか、仏法に守られた武者に退治されるなどの物語が多く残されている。謡曲「大江山」では支配地の比叡山を寺だらけにされて棲めなくなった酒呑童子が最澄のことを「大師坊なるえせびと」と罵りるくだりがあり、仏教のおかげで立場を失った自然信仰の素直な心境として興味深い。こうして山は、特に都の貴人たちからは鬼の棲む場と恐れられるまでとなった。

仏教に萎縮させられた山岳信仰をある形で存続させたのが修験道であった。その開祖として伝わる役小角(えんのおづぬ)は七世紀半ばに実在した呪術師、大和は葛城山に臥し荒行に耐えて修験を修め、若くして仏門に入り最澄・空海以前の時代に日本に伝わっていた密教の秘法を身につけたとして知られている。修験道の行にも欠かせないのが護摩である。   

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                                  愛宕山修験

役小角が実際に修験道を始めたのかどうかという事よりも、小角は誰の子孫であり、小角が密教を修めていたことが強調されて伝わることが何を意味するかに焦点をあて、それを書いてみたい。


修験の霊山の中で注目すべきは「愛宕山-あたごやま」である。丹波と山城のくにざかい(京都盆地北西)に位置し火除けの神の「愛宕さん」と親しまれる愛宕山であるが、その登山口のある亀岡市には「元愛宕」といわれる神社がある。開祀は神代にまで遡り「愛宕さん」はここ元愛宕から分霊されたと社伝にみられ、役小角が天狗に神験をうけて神廟を祀ったことが愛宕山の霊山としての発祥とされている。もとは白手山という名前がこうして愛宕山となったとの説もあるがこれは定かではない。
「愛宕さん」、「元愛宕」ともに火神カグツチとその母イザナミを祭神に祀る。が、カグツチとはあくまで記紀に倣った名であるに過ぎず、「あたご(阿当護-阿多古)神」という火神がカグツチと同一視され「元愛宕」に祀られていた。  

     atago


平安京の北東部一帯はかつて「愛宕郷-おたぎのこおり」と呼ばれていた。漢字などは当然後から当てられたものと解すべきであり、音から想起できる意味として適当なのは「お焚き」、つまりこの地名が古くから「火」とかかわりのあることが伺える。
さらにここは古代氏族の賀茂(加茂)氏が支配した土地である。賀茂氏の子孫は上賀茂神社・下鴨神社の祠官家を継いでいるのだが、その祀神はイザナミの体に刺さった雷神を父に持ち、上賀茂神社の北西の神山に降臨した賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)、その母の建玉依姫命(たけたまよりひめのみこと)、さらに姫の父である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)である。伝説といってしまえばそれまでではあるが、やはり雷-火-人の関わりを思わずにはいられない。

賀茂一族の始祖として祀られている賀茂建角身命は神武天皇を紀伊半島の熊野から大和に導いた八咫烏の化身として伝えられる。これは建角身命が神武東征に協力した大和地方の原日本人(縄文人)であったことを、娘を雷神(記紀ではオオモノヌシ≒オオクニヌシ)に嫁がせたのは火神を祀る立場を確保した(火を祀る製鉄集団と姻戚となり?そして神武に鉄製武器を供与した?)ことを匂わせている。賀茂一族は大和の三輪族、葛城族、秦氏との繋がりが記紀や各国風土記に記される謎めいた氏族であるが、何故かいつの頃か大和を後にして上賀茂・下鴨両社のある一帯(後に愛宕郷と呼ばれるところ)に至りその地を治めた。修験道の開祖の役小角はこの加茂氏の子孫である。


その愛宕郷から西を望めばそこにあるのが愛宕山である。そしてそのさらに延長は北インド、さらに延長すればメディア帝国がかつて存在したイランがある。火除けの神の「愛宕さん」は、火神アタールのことである可能性がある。もちろん想像力を逞しくすればの話であり、証明しようもなければ否定も出来ないことではあるが一考してみる面白さはある。

シルクロードの商人は文物とともに神様も連れてきたことであろう。アケメネス朝ペルシアの支配下にあったオリエントで交易の担い手となりシルクロード経済の重要な役割を果たしていたのはソグド人で、ソグド語はシルクロード商人たちの公用語と言えるほど重視されていた。彼らが信仰したのはゾロアスター教であり、アタールを含むゾロアスターの神々を東に伝播(その信仰への帰依ではなく主に文化面のみの拡散を)したのはソグド人と考えるのがおそらく適当である。また、横道にそれるが前述のミトラ神はソグド語で「Miir-ミール」といい「弥勒-ミロク」信仰の源である。大陸ではそれぞれ異教の神々を習合しつつ互いに影響しあうのが常であり日本の神仏習合だけが特異だと考えるべきではない。多神教とはそういうものである。ただしゾロアスター教自体はあまりに呪術性が強く近親婚などの特殊な教義が儒教の道徳に著しく反れることから大陸全般には広まらなかったのだが、ともあれゾロアスター教の要素は大陸東シナ海沿岸まで到着する。そして大陸から伝わった仏教という信仰の中にはそもそも仏教とは別の多神教的要素が入れ子状に存在したことをここで指摘するものとする。

つまり、加茂氏の祖先は、渡来人とともに来日した「火神アタール」に出会う。火神の祠官たる加茂氏は先祖神とは別にアタールをも氏神としこれを「あたご」神と呼んだ。彼らの土地も「あたご」と呼ばれた。そこからアタールの故郷イランの方角である西を望めば美しい山が在り、その山に神廟を築こうとしたが土着の山の民(土蜘蛛か?)にはばまれ断念、しかたなくその麓に「本愛宕」を開廟する。「国つ神=土着神」を祀る山の民たちはその後も「天つ神=渡来神」の子孫を名乗る朝廷と仏教の共通の敵であり続けるが、時代は降り、仏教(いや密教)が国家権力と結びつくと、朝廷軍を背景にとうとう山の民たちを封じ込め、愛宕神を山の高きに祀るという加茂氏の祖先の思いは遂げられた。それが加茂氏の純粋な信仰か、それとも朝廷の権威の象徴かの議論は別に、とにかくそれが愛宕山であった。
…というのが筆者の「愛宕イラン起源説」である。

役小角が天狗の導きで愛宕山に分霊を行ったとする伝説は、山の民を天狗にたとえ、朝廷の武力行使による制圧ではなくあくまで山の民から支配権を譲渡されたと後から主張したものではないかと予測できる。修験道が役小角によってある日突然始められたと考えるより、土着神の祟りを恐れていた朝廷がそれとの完全な敵対を避けようと仏教と土着信仰の間を取り持たせる何かを必要とし、そこで密教の覚者たちが山に伏して臥して(山で寝起きをして)修験をし時をかけて融和を試みたものと考えるほうが自然である。これが山伏(山臥)、つまり修験者の語源でもある。修験者に引導を授けられた土着神は仏門に入り「権現」の名を与えられ後も人々の信仰を受け、土着神の面目はかろうじて躍如された。奈良時代以降に多くの山々が修験者によって仏教化されたが、武力制圧の見られた山には鬼退治伝説が、土着民との何らかの協力関係が生まれた山には天狗伝説が残ったのではないか、などとも考えられる。

さらにまた、「あたご」一帯に属する今の修学院白河のあたりは古代の火葬地でもあった。

母北の方、同じ煙にのぼりなむと、泣き焦れ給ひて…  源氏物語/桐壺

桐壺の更衣の母が娘の葬儀のために愛宕へと向かうくだり、娘の死に瀕し、共に荼毘の煙になってしまいたいと嘆いている。「煙」の文字がそれは火葬であったことを示している。今のように中東から輸入した燃料ではなく、当時は亡き骸を大量の焚き木で盛大に「焚く」のであった。遅くとも平安時代には愛宕を「おたぎ=お焚き」と読んでいた理由、それはアタゴとオタギの語呂が偶然にも合ったのか、オタギが先で後からアタゴと訛っただけか、それともやまとことばの「焚く」がじつは「アタール」を語源としているかは考え出すと夜も眠れない。

ちなみに「焚く-たく」と同属のやまとことばには「高-たか、長け・丈・岳・竹・建-たけ、凧-たこ」などがある。いずれもより高く、より上に至ろうとする意味の語彙であり、「焚く」の場合は炎や煙の姿がそれを表しているといえる。が、結びつきとしては特に強固ではなさそうだ。「焚く」を同属から外し外来語としての可能性を探る余地があるかも知れない。加茂氏の祖とされる賀茂建角身命、建玉依姫命に「建-たけ」の字と音が付いているのも興味が尽きない。

尽きないのだが、そろそろオリエントに戻り話を閉じるとする。
冒頭に掲げたコルキスは、ヘパイストスから雷を盗み人間に火を与えたプロメテウスが罰としてハゲタカに肝臓をついばまれた山のある場所でもあり、ここにも雷-火-人の関係がありそうだ。
ギリシア神話によればコルキスの王女メディアの父王は太陽神ヘーリオスの子でその名をアイエーテースという。ギリシア語「アイエーテース-Αἰήτης」と先述のペルシア語「アテッシュ-ateş(火)」の音は酷似しておりおそらく同源である。そして娘のメディアも触れるものを焼き尽くす火の属性をもつ女であったことはその伝説が雄弁に語る。


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歌舞伎見物のお誘い―勧進帳

唐突だがお許しあれ。

こともあろうに「歌舞伎の筋は荒唐無稽、とても追随できないので深く考えないように」などという歌舞伎解説が多い。そんなこたあない。古典に精通しているはずの識者の皆様がこんなことを言ったんじゃ、嫌でもそういうことになっちまう。

そこで今回あたらしく立ち上げましたる新連作、
歌舞伎がなんでこんなに面白いのか、知らざァ言ってきかせやしょう。


                    勧進

                                 「勧進帳」


初回という事もあるので有名どころから引っ張ってみたい。

時は鎌倉前夜、壇ノ浦の合戦を以って源平の戦いも終わりを迎え、平家を滅ぼした源頼朝は武家の大棟梁たるべくその礎を固める中、どうしても厄介な者がいた。義弟、源義経であった。
鞍馬山での稚児時代、そして奥州平泉での食客時代を通して義経が夢見続けたのは「平家打倒」であった。いまだまみえぬ義兄、頼朝の挙兵を知り「いざ鎌倉」と奥州を駆け出した義経は戦功を重ね頼朝をよく助けた。
二人の想いは何処で行き違ったか、義経は兄の不興を買い追われる身となり自らの原点ともいえる奥州に落ち延びるべく、義経は弁慶そして四天王とよばれた郎党らとともに東をめざした。芝居はここからはじまる。


〽旅の衣はすずかけの 旅の衣はすずかけの 露けき袖やしおるらん

すずかけ(篠懸)の衣とは山伏が着物の上に着る露よけの衣のこと、一行は修験の者に身をやつし、月の都を立ち出でて濡れぬ衣を涙で濡らしつつ加賀安宅の関まで辿り着いた。帯刀した者たちが大勢で移動するとなれば怪しいのは当然で、姿を変えるとすれば山伏が妥当であった。一方頼朝も義経一行が変装し東国へ向かうであろうことは察しており、各地の関所にて山伏を硬く詮議するよう達していた。

歌舞伎「勧進帳」は能の「安宅」を模しており、ほぼ忠実にその筋が再現されている。安宅とは現在の石川県にある地名、そこに新たに設けられた関所には富樫左衛門が義経を討ち取らんと目を光らせていた。


弁慶は義経を強力(ごうりき‐荷物持ち)に仕立てた。
まさか主君が荷物持ちの姿をしていようとは気付かれまいと敵の目を欺くための算段であった。

「所詮みちのく(陸奥)までは思いもよらず」と覚悟を決めている義経は今さら強力などに姿を変えることがあろうかと弁慶に質す。郎党どもも刀に物を言わせて関を踏み破ると息巻くが弁慶は、とにもかくにもこの弁慶にお任せあれとこれを押し留める。

勧進帳では義経役を勤めるのは女形と相場が決まっている。舞台の義経には平家を滅ぼした猛者の姿はなく、まるで姫君のようである。とはいえ決して女々しい訳ではないがあまりにも儚い、義経の行く末を知る聴衆にとっては尚のことそう映るのである。能の「安宅」では子方(子役)が義経を舞うのだが、これは死地を求めて旅をする義経の魂がすでに浄められ菩薩と化し、遮那王と呼ばれた稚児のころの姿でそれを体現したのではないかと思う。それを必死で庇護するのが不動明王のような弁慶であった。

布施を募ることを勧進という。消失した東大寺を再建するための資金を諸国を巡り集めるために遣わされた、と申し開きをする弁慶に、ではその勧進の証である勧進帳のなきことはよもやあるまじと迫る富樫左衛門。

  勧進帳
                                     勧進帳読み上げ

弁慶  なんと、勧進帳を読めと仰せ候な
富樫  いかにも
弁慶  ムム、心得て候

弁慶の手にもとより勧進帳はあるはずもなく、白紙の巻物を天も響けとよみあげる。

富樫はさらに問い詰める。山伏の装束の由来は何ぞや、仏門にあって刀を佩くのは如何に、云々。もとは高野山の修行僧であったためそれに難なく答える弁慶であった。これは山伏問答と呼ばれる場面である。

「勧進帳」ひいては「安宅」は軍記物語の「義経記」に取材したものというのが常識であるがこれは明治以降の常識に過ぎない。義経と弁慶の都落ちは日本にもっと古くからのこる諸伝説が基になっている。

「御伽草紙」に収められた物語は民衆に語り継がれた太古の伝説をおおく含んでいる。その中にある「大江山の鬼退治」はこの「勧進帳」の要素のひとつと指摘したい(過去に指摘はあったであろうが書物となっているかどうかは調べられなかった)。

その昔、丹波の国の大江山のその奥に、京の都を脅かす鬼どもが棲んでいた。女を攫い人を喰い宝を奪うなどして人々を震え上がらせていたという。帝は鬼の棟梁・酒呑童子退治の勅命を源頼光に与えた。この摂津源氏の頼光は義経や頼朝の直系の祖にあたり、轟く武勇は帝のおぼえもめでたく都の警護には欠かせない人物であった。頼光は四天王とよばれる渡辺綱、坂田金時(金太郎)、碓井貞光、卜部季武らの郎党を従え、加えて貴族ではあるが剛の者であった藤原保昌と共に石清水八幡・住吉明神・熊野権現へと詣で鬼退治を祈願、そして鬼たちに怪しまれぬよう山伏にと姿を変え大江山へと向かった。もうここまでで勧進帳の原型となっていようことは明白だが、まだ続く。
一行は途中、三人の翁にであう。聞けば彼らはそれぞれ都のそば、津の国、紀の国から鬼に攫われた妻を捜して来た者という。頼光らが勅命をおびて鬼退治に参じたことを知っており、「神便鬼毒酒」なる、鬼にはしびれる毒となり、神の使いには薬となる酒を差し出した。この翁たちは石清水八幡・住吉明神・熊野権現の使いであった。
鬼の棲家に入り込んだ一行は酒呑童子の前に通され、自らを鬼神に呪文を与えることを修行の旨としていると偽った。一行を怪しむ鬼は頼光に激しい山伏問答を投げかける。尽く答うる頼光を本物の山伏と認めた酒呑童子は心を許して身の上を語る。

  大江山
                               「大江山酒呑童子酒宴之図」

「我が名を酒呑童子と言うことは。明け暮れ酒に好きたる故なり。されば是を見かれを聞くにつけても。酒ほど面白き物はなく候。客僧たちも一つきこし召され候へ」(謡曲 大江山)

こうして客僧をもてなす酒宴の席となり、頼光は土産の神便鬼毒酒を皆に勧めた。

「我比叡山を重代の住家とし」ていたが、「大師坊(伝教大師)というえせ人」が見せた奇跡に仏たちも騙されて「出でよ出でよと責め給えば」仕方なく比叡を立ち退き、あちこちの山を渡り歩いた挙句都に近い大江山に参りしも、今は末法の世、大師坊の如き法力の持ち主は絶え、ときおり都に出向いては好き放題をし楽しんでいるところだが、頼光という強者が邪魔をするようになったとつづける酒呑童子であった。

                          酒吞童子
                                   酒呑童子

しかしふと頼光を睨みつけ、ようよう見ればおぬし頼光に似てはおらぬか、と呻く。そこで頼光はその場を乗り切らんと――頼光とは神を畏れぬ極悪非道の者なればそれに似るとは承服しがたくも、この上は力及ばず、我らが命取らんとあらば好きにされよ――と居直った。非礼を詫びた酒呑童子、ますます酒を重ねては寝入ってしまった。鬼たちはそうして首を切られた。

「勧進帳」の山伏問答の後はこうである。一行は関を通ることを許され出立するが義経扮する強力がこの者は判官殿(義経のこと)に似ていると呼び留められた。もはやこれまでといきおい立つ郎党を押し留め、弁慶は最後の大芝居に出た。

弁慶「判官殿世と怪しめらるるは、おのれが業の拙きゆえなり、思えば憎し、憎し憎し、いでもの見せん。」

〽金剛杖をおっとって さんざんに打擲す

弁慶「御疑念晴らし、打ち殺して見せ申さん」
富樫「早まり給うな、番卒どものよしなき僻目より、判官殿にもなき人を、かく折檻もし給うなれ、今は疑い晴れ候、とくとくいざない通られよ。」

不動明王の「鬼」の側面を見せる弁慶であった。家来が主君を打つなどはもってのほか、しかし何としてでもこの場を切り抜け奥州へと落ち延びなければならぬと心を鬼にして禁を破った。弁慶の機転と忠義心に胸を打たれた富樫は通行を許す。富樫はとおに義経らであることを見抜いていたのだ。武士の情けなれども義経を見逃すことは鎌倉に対する謀反、即ち死罪に値することは承知千万。

富樫は門の内に去る。不忠を泣いて詫びる鬼の弁慶、手をとって許す菩薩の義経。

そこへ暫し暫しと酒を持って現れる富樫、先ほどの面目を雪ぐため一献差し上げたいと酒を勧める。ありがたやと葛桶の蓋に酒を注がせ一気に飲み干した弁慶は請われて舞をさす。

ここに酒盛の場面があることは大江山鬼退治の騙し討ちという原点を見事に構築しなおしている。酒で尻尾を出させる謀りごとかとちらり疑う弁慶、ともかく請われるままに舞をさし、関守たちが見惚れる隙に義経以下郎党どもを出立させる。

〽とくとく立てや手束弓の、心許すな関守の人々、暇申してさらばとて 笈をおっとり肩にうちかけ

「鬼」と呼ばれた酒呑童子は太古、民衆の信仰の対象であった。が、仏教が朝廷により広められるにつれ居場所を失っていった。童子が伝教大師を「えせびと」と呼び、仏たちがそれに騙されたと語っているところが鬼の心情を表している。童子の生い立ちを語る説のなかで注目すべきは伊吹山の鍛冶師の息子として生まれたというものである。父の伊吹弥三郎と呼ばれた者は八岐大蛇を祀る一族の子孫、かのスサノオに退治されたオロチ族の一派が出雲を逃れて伊吹山に棲むようになったという。そして伊吹山も大江山もかつては鉄を産出した山である。
鬼たちの根城は「鬼の岩屋」とも「鉄の御所」とも伝えられている。これを鉄鉱山と解することで古代の製鉄集団が鬼と呼ばれて恐れられ、朝廷に背き、いずれは征服されたという、史書にはさやかに書かれていない歴史に触れることが出来る。朝廷に背くことが必ずしも「悪」であったという解釈は愚かしい。
八岐大蛇も八塩折之酒‐ヤシオオリノサケという強い酒で酔ったところを成敗されている。子孫の酒呑童子もまったく同じ手を喰らうのだが、この卑怯な騙し討ちは日本の支配者たちが「特定の敵」に対してたびたび行ってきた。

義経らが目指した「みちのく」とは「道の奥」、律令国家となってもなお天皇の威光が届かぬ東北が道なき未開の地と思われていた頃の名である。都からは遠く離れ雪深い、縄文の血の色濃いみちのくの人々は平安時代を迎えてもなお征し難く反乱が絶えなかった。陰陽道に照らし合わせれば東北は丑寅の方角、即ち都からは鬼門にあたり、鬼やもののけの棲む「穢れ」の地と括られた。人が人を支配しようとしたときに必ず生まれる都合とでも言うのか、特定の敵とは「穢れ」と想定された者たちを指す。
このみちのくに生きた人々を「えみし‐蝦夷、毛人」と呼んだ。朝廷との争いの中で少しずつ帰服がすすみ大和化した蝦夷たち(俘囚)こそ、武士の祖である。学校日本史は武士の起源を荘園警護の土豪としか教えない。

武家のことを「弓馬の家」という。馬を駆り弓を使いこなす技はこの弓馬の家に生まれ育つことで得られる。遠い先祖の昔から馬と弓と供に暮らしてきた彼らを朝廷が追い落とせなかった道理はここにある。蝦夷を祖とする優れた武芸者たちは次第に都の戦闘貴族たちの郎党に組み入れられ平氏や源氏という巨大な武士集団が形作られた。彼らに求められたのはむき出しの武力ではない。卓越した武芸に裏打ちされた死をも恐れぬ強き魂があってこそ手にできる「辟邪の武」である。人の手に負えない疫病や天災の元凶となる悪霊を退治するにはこの辟邪の武をおいてほかはなかった。これが源頼光が鬼退治の大役を仰せつかる所以であるが、武士も鬼も互いに朝廷から恐れられ疎まれたものの中から生まれたことは皮肉であり、皮肉こそが人の世の常である。


義経を育てた奥州藤原氏も源氏に忠誠を誓うみちのくの武家の一つであった。源氏の子として生まれ生粋の武人たちの下で弓馬を修めた義経は「辟邪の武」の継承者としてふさわしく、それは合戦で華々しく証明された。しかし人々か義経に酔いしれるのとは逆に頼朝は苛立っていた。腹黒い貴族と血の気の多い武士たちの間を取り繋ぎ新たな政権を立ち上げる政治の「建て前」が、義経から匂い立つ武士の「本音」とまるで噛み合わなかったのだ。結末は悲劇、義経追討という鬼退治になった。

酒呑童子が酔い潰されて首を切られるその断末魔、「鬼に横道はなきものを」と恨みをこめて言い放つ。まつろわぬが故に征される者の声であろう、征することこそ横道なるや。義経はこうして鬼の胎内へと戻るがその二年後、頼朝にもはや逆らえない奥州武士たちに攻められ自害、さらに頼朝が奥州を平定し、夢の跡には夏草が生い茂る。

弁慶は酒呑童子であり、不動明王でもあり、頼光でも渡辺綱でもある。
富樫は鉄の御所で頼光を待ち受ける鬼の棟梁であり、鬼退治の役目を負う頼光でもある。
義経は穢れとして追われる身であり、聖として守られる身であった。

このような交錯を受け入れられるのは近代以前の日本人の豊かさであった。
神と仏と鬼が入れ替わる。聖と俗が立ち変わる。日本の足跡そのものである。

明治以降、演劇に対する批評の目はシェイクスピアという色眼鏡をかけられてしまい、よりよい芝居には起承転結と善悪が整然と表現されることが求められ、町人の子供でも飲み込めた歌舞伎の筋書きは「荒唐無稽」と罵られるようになった。庶民から三度の飯より好きな歌舞伎を取り上げて高嶺の花の伝統芸能と奉ったのはGHQであった。そして見向かれなくなった。歴史書にない日本史の語り部であった歌舞伎はこうして封印されたも同然、いまさら「識者」などにそれは解せない。
歌舞伎を見れば先祖たちの息づかいは我々に、技に裏打ちされた役者たちから必ずや伝わるだろう。それを感じたならば知識などはあとから幾らでもついてくる。

                   富樫
                   弁慶


舞台で見送る富樫、花道に立つ弁慶、互いに想いを共にする同士、見交わし、幕。
富樫に心を残し、弁慶は飛び六法にて花道を入る。


〽虎の尾を踏み 毒蛇の口をのがれたる心地して 陸奥の国へぞ くだりける

いわし しめなわ おにはそと ― 節分

さて、まもなく節分がやってくる。節分とは父親が豆をぶつけられる日ではない。

立春、立夏、立秋、立冬は「節」とよばれ、それは新しい季節を迎える日でありその前日が「節分」であった。季節の変わり目に入り込む邪鬼を追い払う儀式である追儺(ついな)の風習が飛鳥時代から奈良時代初期にかけて中国から暦学とともに伝わり宮中行事として定着した。日本では春の始まりである立春が特に大事にされ、その前日には炒り豆を撒いて鬼を追い払う行事が「節分」という名で今も残る。明治の改暦後に正月をはじめとするあらゆる行事が西暦に直された中でこの節分は古い暦に基づいて今も続いている。

明治以前、我が国では新月から新月を一ヶ月と考え、新月が月初め、満月を月中、次の新月の前を晦日として数えた。そして立春に一番ちかい新月が「正月一日」であった。

ここで今では考えにくいことが起こる。その歳によって、節分が正月の前であったり後に来たり或いは同日になったりするのだ。これは一ヶ月を月の満ち欠け(月の公転周期)で勘定しているのに対して「節」が太陽の運行(地球の公転周期)から導き出されているために起こる。我々には不可解だが当時にしてみれば当たり前であった。

炒り豆を鬼に投げつける風習、これは日本にしかない。生の大豆をわざわざ炒り豆にするのは、逃げ出した鬼の怨念がふたたび芽を出さぬようにとの願いがあるという。この念の入れようがまた日本らしい。
この宮中行事は平安時代には庶民にも広がり今に受け継がれている。そして家の門口に「柊鰯(ひいらぎいわし)」を飾った。

柊の小枝に先に焼いた鰯の頭を刺しそれを注連縄につける。豆撒きの影に隠れ忘れられたかのように見えるが、いまでも節分にこれを飾る地域もある。

参考:門守りのサイト―柊鰯 


鰯のにおいに誘われた鬼が門に近づくと柊の葉に目を刺されて退散するというこの柊鰯、最古の記録は平安時代の「土佐日記」に「小家の門の注連縄の鯔の頭と柊」とある。鰯ではなく鯔(なよし=ぼら)であるが同じ役割を果していたと考えていいだろう。
鯔は成長につれて名前が変わる出世魚、目出度いとされたために門にかざられたというが、それが何故いわしに変わったかは解っていない。鰯の古語がなよしという鯔の別名だったという説もある。ただ、この日記の日付けは承平五年(935年)元日となっている。

その昔、元日と節分は別ではありながらも一つの流れの中にある行事であったことが伺われる。またその流れの延長には上弦の月の人日の節句(七草)、満月の小正月が待っている。いま伊勢神宮で売られる正月の注連飾りには蜜柑やウラジロといっしょに柊の枝がついている。柊鰯も注連飾りもその役割はともに春の始まりに穢れが入り込むことを防ぐ「さかひ」であることを思えば繋がりがあって当然なのかもしれない。


「さかひ」(仏教でいう結界)は、人の生きる俗世界のうらみ、わざわい、やまい、くるしみ、なやみという穢れが入ることのできない聖域を作り出し、そこに神を迎え入れる場をしつらえるためにある。動詞「さく(放く、離く、裂く、割く)」に意味を限定する接尾辞がつき「さこふ(境ふ)」となった。さらに名詞に変化したのが「さかひ(境)」である。寺社の「境内」とはそういった場で、鳥居や山門という「さく(柵)」によって俗界と別けられている。

神社仏閣にかぎらず日本の建築にはこの「さかひ」が意識が随所に見られる。例えば茶室は聖域とみなされ、そこに至るまでには露地をぬけ蹲踞(つくばい)で清めをおこない、にじり口をくぐるという段階を踏まなければならない。
また家屋においても玄関を境に床が高くなり、人は履物をぬいでそこを上がる。外の湿気や汚れから家を守るための日本の屋づくりに起因することだが、やはりここでも穢れを防ぐという考え方に通じる。
外から内へ、廊から間へ、間から間へと違った場に入る時には一呼吸おいて意識を変えるのが作法であった。敷居を踏みつけてズカズカと入り込むのはよろしくない。襖や障子が閉まっているときは「隔絶」を意味し、問わずに外から開けてはならぬという不文律があった。几帳やついたて、屏風の向こう側もむやみに覗くものではない。

入るものすべてを跳ね返すものであってはいけない。商売をしていれば福の神にも客にも来てもらわなくては困る。門を硬く閉ざしてしまえば商売にならず逆にあけすけでは何が入り込んでくるか知れたものでないし福も客も散ってしまう。そこで重宝したのが店舗と街路を仕切る「暖簾」であった。店の銘を染め抜き、暖簾がでていれば「商い中」の合図でもある。店の中と外では暖簾に視界を遮られながらもお互いの気配は感じることができる。客は店の賑わいに誘われ、くぐって入ればほんのひと時その領域にとらわれの身となる。

塩は手っ取り早く穢れを祓う便利なものだった。腐敗を防ぐ効果に古くから神性を見出していたからだ。家や店の入り口には普段から盛り塩をし、いまいましい客を追い出したあとにはあてつけがましく塩をまいた。


柊鰯や注連飾りは一年のうちの特別な時期、そのときに限って現れる神様を迎え入れ、そのときを狙って入り込もうとする鬼を締め出す装置であった。


はて鬼とは、である。
絵に見る赤鬼・青鬼の姿は仏教の羅刹や夜叉の影響で出来上がった図像であり、物語の鬼は娘にも老婆にも変幻自在、しかしその本質は人の心の中にあった。死者がこの世に残した恨み、生きたものの妬み、嫉み、尽きることのない欲、犯した罪への悔恨、失うことへの恐れが具現化したものであった。幕末まで国を閉ざし外の国から攻められることが殆どなかったともいえる我が国にとって己の敵はまた己の中にあった。鬼退治は未知なる敵に戦いを挑んでいるのではなくあくまで人の世の穢れとの戦いであった。桃太郎に泣いて謝る鬼の大将や豆をぶつけられて逃げ惑う鬼たちの姿に親しみを覚えるのもそのためである。
古代、朝廷にまつろわぬ(恭順しない)存在を「蝦夷」「隼人」「土蜘蛛」などとよび神武天皇やスサノオ、ヤマトタケルらがこれを追討したと記紀に書き記されている。歌舞伎や能、昔話にのこる鬼退治譚の原型はここに求めることができる。そのまつろわぬものたちが棲むところは銅や鉄の採れる山であることが多いのについてはまた別の機会に書いてみたい。


これらの「さかひ」は人と霊の決め事であって実際は吹けば飛ぶようなもの、霊を懼れぬ者の攻撃には抗いようがない。悪意あるものは霊威を懼れず、したがって「さかひ」などは気にならない。踏みつければよい。家々に土足で上がり乱暴狼藉をはたらき火をかけて逃げてゆく。
明治の頃、糠の成分が脚気に効くことを指摘した農学者の鈴木梅太郎を学会は笑った。曰く「鰯の頭も信心からだ、糠で脚気が治るなら小便を飲んでも治る」と揶揄したという。近代思想と科学技術に毒された者からみれば鰯の頭などは取るに足らない迷信でしかなかった。


近代以降、日本は富を得る傍らとてつもない穢れを呼び込んでしまった。やり方が拙かった。外の国に向かい門を開けるときに、何一つ「さかひ」を用いなかったがために百鬼がなだれ込んで来た。近代の思想は資本主義経済と手を組んで我々の欲を煽り、膨れ上がった欲は鬼となって襲い掛かる。人に道を誤らせ、妬みを呼び、この世は嘘と疑いで溢れかえる。科学技術は利便と汚染を同じだけもたらした。もはや今こうなると鰯はおろか鯨の頭を吊るしても足りない。


おにはそと ふくはうち
懼るることを知るうちは
鰯の頭 鬼をも避けん




雑談

筆者の住むトルコ、その北海岸には黒海が広がる。冬の名物ヒシコイワシが今年も豊漁。
日本でイワシといえばマイワシでヒシコイワシは煮干の材料、あまりぱっとしないが黒海のヒシコは驚くほど味がいい。
十年前であれば内陸のトルコ人たちは海の魚など嫌がって見向きもしなかったのだが、一旦流通が始まるとみんなに好かれた。こちらの家庭では粉をはたいて油で揚げるか焼皿にずらーっと並べてオーブン焼きにし、レモンを搾って食卓に。

筆者はあまり和食にこだわらない。こだわりたくても味噌と醤油がここにはない。オランダ製の醤油が売られているが、GMO大国の大豆製品など恐ろしいので是非よけて歩きたい。日本の家族に頼めばいくらでも送ってもらえるのだがそれも往生際が悪い気がしてならない。
食文化の違いは気候や滋味に左右されるもの、それに逆うことで起こる害に悩むより、こちらの食を堪能する事を好むのである。

とはいえ子供たちのことになると話がちがってくる。いつか日本に行ったとき和食の味を知らなかったでは両親とご先祖さまに叱られてしまう。そのため、たまに料理してみる。

               すし
              〆鰯のにぎり


ヒシコイワシの頭、腸をとり、開いて骨をはずす。平たい容器に塩、イワシ、塩…と重ねて数時間つけおき、あがってきた水(ナンプラーとして使える)を切り酢で洗う。もういちど平たい容器に並べてかぶる程に酢をかけ、また数時間つけおく。
鮨飯は砂糖が少し勝つぐらいがいいようだ。塩は岩塩、酢はぶどう酢。酒と味醂は抜き、昆布と醤油は去年の父の手みやげだ。

なつかしい味がする。

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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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