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脱原発と江戸明け暮れ考―「技の巻」

カネとはあくまで物や事に対して支払われる対価である。
と、考えるのであれば、先ず実態としての「物事」があり、これに日が当たっているとする。
日の高さが変われば影の長さも変わり、濃淡は日の強さに左右される。日がなければ影も消える。
そう、「カネ」とは影のようなものである。

前号の「金の巻」で江戸時代の人々の金への執着のなさとその背景を述べた。
今回「技の巻」はその逆、身分や職に関わらずこの時代の人々がとことん拘ったものについて書くとする。

江戸時代は「奇跡の時代」とも言える。筆者のつたない筆などではとても書きつくすことのできない世界、ただしそれが長い日本史の中に彗星の如く現れたのではなく、戦国の世を、鎌倉を遡り、平安を越え、飛鳥を辿り、そしてそれよりも遥かに遠い神代から続く営みがその後ろに控えていることを今号の冒頭に記しておきたい。


日本人と「技」との出会いは研究が進むにつれて遠い昔へと遡っていくようだ。さらに古い時代のものが次々と発見され続けている。
柄の先に石器をくくりつけた石槍はマンモスなどの大型動物を捕らえ、やがて気候の変化から動物が小型化し俊足になると弓矢で追うようになった。また、小さく鋭い石刃を刃こぼれするたびに付け替えるという高度な細石器も登場した。気候の温暖化を受けて植生が変わると椎や栗を採取して食するようになる。それを煮沸、アク抜きするための土器が発達した。また魚や動物の骨で銛や釣り針をつくった。獣の皮や木を加工した道具も当然あったがこれらは土に還ってしまったであろう。


細石器刃は黒曜石を砕き薄く剥離させて作る。日本の各地で産出される黒曜石だが、道具として発掘された場所と材料である黒曜石の産地が遠く離れていることが多く、このことは大昔の人々がより良い材料を捜し歩いたことを語っている。


銅器、稲作、鉄器、機織り、新しい「技」が次々ともたらされた。


「稲作伝来」と一言で片付けるのは簡単だが、稲作には土地選び、灌漑、耕作、農具、施肥、貯蔵、暦術、祭祀など多くの事柄が含まれており、それら全部を大陸から丸ごと輸入することを「伝来」とは言わないのである。長い試行錯誤を以って日本の地に根付かせた先祖たちがあったからこそ日本史を通じてのコメ文化がある。
戦乱のない江戸時代、農民の生活は飢饉などにに見舞われながらも押しなべて安定しており農業に集中できた。元禄時代に著された「農業全書」が木版で何度も刊行され広く農民たちに読まれた事を見ると農村の識字率も低くはなかったことが伺われる。こうして知識が深まってゆくとともに農具の発達や開墾がおこなわれ生産量が上がっていった。


コメ作りとともに定住生活に入った日本人は機織りや養蚕も習得した。七世紀以降の律令時代、絹織物は税として朝廷に納められた。が、奈良時代から戦国時代までは農村に養蚕をするまでの余裕がなく、織物工業は発達したものの原料の生糸は中国からの輸入に頼りきっていた。これは日本で産出した貴金属の流出の原因にもなった。江戸時代に入ると寒冷地を除けばコメのほかは年貢をかけられず野菜や織物は農家の収入源となった。綿の栽培が各地で本格的に始められ綿織物が盛んに織られる傍ら、幕府は養蚕を軌道に乗せ天領の専売品として保護、その後専売を解いて各地に奨励し、生糸の自給から絹織物生産までを確立、こうして地域ごとにそれぞれ違う豊かな織物の文化が生まれた。


鉄器とともに製鉄法が伝わり、程無く鉄の鉱山も国内に見出された。伝来時の原始的な製鉄法によって農具や武具が作られるようになり、その後材料を吟味しさまざまな工夫が我が国において加えられ、そして末に出来上がったのは悪霊をも切り伏せるであろう「日本刀」である。刀工たちは硬度が低いが粘り気が強い鋼と、硬く切れ味が良いが脆い鋼の二種類を抱き合わせる法を編み出した。前者が刀身の峰側、後者が刃側となる。炎にくべては槌でうち鍛え何度も折り返し、姿が整うと焼(やき)を入れて研(とぎ)をかける。焼き入れの際、金属分子の構造変化による膨張がおこるが、刀の反(そり)は二種の鋼の膨張率の違いにもたらされる。


平安時代、都は讒言、呪詛、流刑、幽閉がまかり通り世の中が酷く荒んだ。度重なる天災と東国の反乱は政争に敗れた者の悪霊の為せる業と懼れ、貴族であろうと僧であろうと雅な暮らしとは裏腹に心は病み、その悪霊から逃れんと寺院建立、加持祈祷に勤しんだ。仏の加護を頼りに国を治める鎮護国家の思想がおこる。これは仏教美術と寺院建築の興隆の契機となり、折りしもこのころ遣唐使廃止を受けて唐に対し鎖国状態にあった我が国は美術・工芸・建築においても独自の様式を模索する道を歩み始めた。
しかし、この文化の土台は寺社や貴族に寄進される地方の土地財産であったため農作物を守護や地頭に吸い上げられたうえ重い労役が課された農民の疲弊は甚だしく、土地を棄て餓えて彷徨うことを選ぶものが絶えなかった。


地から産まれた鋼を身を清めた刀工たちが炎に投じ鍛えた刀には霊力が宿り、それを使い得たのは武士と呼ばれるつわものたちであった。身を鍛え武芸を磨き命を賭して戦うことを本道とする武士が振る刀には魔を破る力があるとされた。御仏は、衆生を生き地獄にさらした貴族たちに光明を与えなかった。悪霊どもは平安の世もろとも斬って棄てられ時代は武士の手にと移っていった。


戦乱から遠ざかった江戸時代、強固な行政と安定した食料の供給に支えられ、それまでに蓄えられた「技」が一気に花開いた。江戸・大阪・京の三都をはじめ各地の地方都市にはあらゆる「職」がひしめきそれを担ったのが士農工商でいう「工」に属する日本人たちであった。


「工」を代表するのが先ず「普請業」。大工、建具屋、左官などをさす。
そして何かを作って売るのが「製造業」、刀屋、桶屋、鍛冶屋、畳屋、指物屋、豆腐屋、下駄屋、漬物屋、筆屋、ものの種類だけ職種があったと言ってよい。
さらに道具の手入れをする「修繕業」、大工が使う鋸の手入れをするだけの目立て屋、刃物を研ぐだけ研ぎ屋、ゆるんだ桶の箍(たが)を交換するだけの箍屋、割れた鍋や釜の修理だけをする鋳掛屋など多くの超専門職が独立して成立していた。成立とは、それなりに需要があって食べていかれるだけの対価が得られ、次世代を同業者として育てるに値したという意味である。


彼らが手にする賃金は微々たるものであった、が、おのれの「技」を極めるという人生の目的に比べれば大きな問題ではなかった。その結果として人に喜ばれ、信頼を得ることを「冥利」とは言ったが本道には非ず、それを得るために世に媚びることはしなかった。


農民や職人たちが作り出したものを流通させて富を築いたのが商人、そして豪商たちの溢れる富はまた世界の違う「技」を育てた。書画工芸、歌舞音曲、そして遊郭である。
我が国の陶器、漆器、染物、織物などの工芸品は遠い昔からすでに調度品の枠を超え書画同様に見る者の魂を奪うまでに昇華していた。その主導者が貴族や僧から武士へと代わり、この時代はとうとう商人のものとなったのだ。商人は競って金を出し職工を育てた。
室町までに大成した「能楽」の鑑賞は庶民にはご法度であった。江戸当初に出雲の阿国がはじめた「かぶきおどり」が大当たりし大衆芸能の走りとなった。安泰な世の中が訪れると娯楽も盛んになるもので、商人たちは芸能の世界においても競い合った。芝居小屋の金元(かねもと)となり戯作者に脚本を書かせ、贔屓の役者の支度一切を引き受けて祝儀までふるまった。作者も役者も資金に心を悩ますことなく「技」の道に没頭することができた。こうして「歌舞伎」が確立していった。
歌舞伎と切り離せないのが「浮世絵」、紙漉きが発達し質のよい和紙の普及も手伝い、一点物の肉筆画が版画へと発展し刷り物となったことで庶民の手に届くようになった。絵師と彫師と刷師のそれぞれ領域の異なる技がその絵ごとに生きていた。

歌舞伎や役者絵を眺めてみれば、その題材となった江戸の庶民や侍、遊女が、鎌倉武士や平安貴族が、悪党が、悪霊が、その原点である古事記や日本書紀に書かれた神々が、役者に扮してこちらを睨んで見得を切る。



「技」が時を越えて運んだものは、こういうものではなかろうか。



日本人たちは何かと対峙したときにそれを見つめ、読み、呼吸を合わせて対話する。相手が一握の種籾であろうと、謡曲であろうと、刀剣であろうと変わらない。先人に習い、それに達したとき「技」として身に纏う。その手をそこで止めることなく磨き続ける。これは日本人が日本人たる所以である。


この「技」と、我々が「技術」と呼んでいるものは、似てるようだがたいそう違う。
技術は引力や熱、つまり自然の成り行きと戦う術であり、鉄のかたまりを飛ばしたり水平方向に加速させたり物の温度を異常に変えたりすることを指す。膨大な生産力を持ち膨大な利益をもたらすが、膨大な資源が必要であり、膨大な資金も費やす。それは膨大な消費者の欲求を煽ることでいくらでも補うことができる。が、後に残った膨大な「穢れ」を土に還す術は無く、今、膨大なツケを子孫に残そうとしている。それが技術である。それに政治の思惑がかぶさり、膨大な情報が操作され戦争が起こされ膨大な殺戮、破壊、征服がなされ、勝者は膨大な利益を得る。その道具も技術である。


かつて「技」の後をついて来るのが「金」であった。しかし今。「技術」は「利益」を生み出すちゃちな道具に成り下がった。よく「技術の恩恵」などという都合のいい言葉を耳にするが、一体どこまでを恩恵と考えるべきか今ここで吟味するべきだ。便利な生活にはそれこそ膨大な対価を支払い続け、知らぬ間に他国の人々の生活をも脅かし、たりないところは次世代に補わせようとしている。江戸の人々は我々にこんな禍根を少しでも微塵たりとも残したであろうか。



わざ(技、事、態、業)は自然のことわりを越えるものではない。越えれば即ち、わざわい(災、禍、厄)に転じる。その線引きができないのであれば技など身に着けるものではない。


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脱原発と江戸明け暮れ考―「金の巻」

あれほどあぶねえ原発なぞに
惚れてかけおち無理心中
とかくこの世は間違いだらけ
馬鹿の考え殺すに似たり

原発の否定は現代生活の否定、そんなに嫌なら勝手に江戸時代にでも行きやがれ、という一部の世論に過剰に反応した筆者はこれまで江戸時代の明け暮れと現代生活を比べようとの試行錯誤からこの連作を書いている。しかし「衣」 「食」 「住」のみでは現代生活のつまらなさも江戸の面白みも云い尽くせまい。よって時おりこうして付け加えてみたい。



「宵越しの金はもたねぇ」これが江戸経済の基本である。

その日に稼いだ日銭が夜にはすっからかん。つまりちっとも金が貯まらないのである。月〆で働く奉公人とて同じことで家賃やツケを払うとその日のうちに給金は消えてなくなる。

とはいえ、いくらなんでも実際は飲んで打って買っておしまいのその日暮しという訳にはいかない。衣食住はもとより商売道具の購入や手入れにも金がかかる。江戸の人口の半分を占めたであろう出稼ぎの者は国許への仕送り、帰省の路銀も必要だった。つまり暮らしを成り立たせるための出費はもちろんあった。

当時の貨幣は我々が使用する「紙幣」ではなく、金・銀・銅という貴金属を材料にした「おかね」である。カネという日本語はもともと金属を意味する。

その昔、日本は金・銀・銅が多く産出された。佐渡金山、石見銀山などの名は興味のない方々でもご存知であろう。カネのなる木とまでは言えなくとも国家の財源が穴を掘ると出てくる、こんなに有難いはなしがあるだろうか。
生産された貴金属はそれぞれ金座、銀座に運ばれ奉行の監督の下で貨幣として鋳造された。

金との間柄は士、農、工、商、それぞれちがったが、商を除けば基本的にあまり金とは縁がなかった。

唯一カネの臭いのする「商」人はどうであったか。
自らが生産して販売するよりも生産品を取引して儲けを出すことに重きをおいた職業、いわゆる「流通業」である。小間物の行商から廻船問屋まで数えればきりがないが、今日の儲けが明日の元手になるというのが基本、商いが大きくなればなるほど儲けも元手も大きくなる。

「蜜柑舟」、ある江戸商人の一代記である。

時は霜月、所は御江戸、火を扱う職人たちが鍛冶の神様をお祭りする鞴祀り(ふいごまつり)が迫る中、お供物に欠かせない蜜柑がどこにもないときた。海がしけて遠州灘が荒れ狂い、上方から船が出せないという。
火を扱う職人たちはことのほか火事を恐れていた。火事を起こせば死罪を免れなかった。向う一年の破魔除災と商売繁盛を願うこの祀り、鞴を清め、注連縄をはり、酒と蜜柑をお供えしてはそれを来客や近所衆にふるまうもの、屋根から撒かれる蜜柑を子供たちは競って拾った。蜜柑は風邪を退治する薬でもあったので鞴祀りの蜜柑ともなれば霊験はさぞあらたかであったことだろう。
天下一の工業都市であった江戸なればこそ鍛冶屋、鋳物師、刀鍛冶はもとより鋳掛屋も金物屋の数はべらぼうで、蜜柑がないのにはみな大弱り。

「てえへんだ、ことしゃ商売上がったりにちげえねい」
「てやんでえ、てめえの商売なんざ儲かったってたかが知れてらあ」
「それより火事がしんぺえよ」

文左衛門は紀州の生まれ、その年紀州は蜜柑の大豊作に見舞われ、上方では安値が底を割り買い手がつかず哀れ蜜柑は荷の中で腐るのを待つことになったという。
すわ何を思ったか舅に大金を無心しておんぼろ舟を買い叩き、なんとか漕ぎだせる程に修理した。大安売りの蜜柑をつんだその名も「幽霊丸」、意気揚々と江戸を目指して帆を揚げた。

只さへ難所と 聞こゑたる 遠州灘を 乗切って
 品川沖に 現れしは 名にし紀の国 蜜柑船 幽霊丸とぞ 知られける
沖のナァ 暗いのに 白帆が 白帆が見ゆる あれは 紀の國蜜柑船ぢゃえ

これぞ紀伊国屋文左衛門、紀文大尽と長唄にまで唄われた男である。大しけの海を命をかけて蜜柑を積んでやって来た。江戸っ子たちが狂喜して迎える姿が目に浮かぶ。神田の青物市場に卸した蜜柑八萬五千籠は飛ぶようにうれた。握った金は五千両、それを元手にいざ吉原へと参りける。

江戸の大商人が儲けた金は蔵で眠りはしなかった。次の商売に使い、屋敷を造り、職人や絵師や役者を育て、遊郭で豪遊した。身代が傾くほどの金を遊女の身請けにつぎ込んだりした。
紀文は吉原で黄金を蜜柑の如くばら撒いた。それを拾うは苦界の炎に焼かれる遊女たち、これにゃあ鍛冶の神様もたいそうお喜びなすった。


紀文大尽


「くーっ あやかりてえ!男の中の男ってもんだ」
「お前さんも紀文の爪の垢でも煎じて飲んだらどうだい!」

さて、その頃の大阪、大和川と淀川が大阪城の北でぶつかるために堆積した土砂が水の道を妨げ度々水害に悩まされていた。ある年はそれが災いして疫病にも苦しめられたという。そこで紀文が蜜柑で儲けた金をつぎ込んだのは何か。

「疫病には塩鮭でござい」

江戸中の塩鮭を買い占めて上方へ戻った。大阪の人々は我先にと塩鮭を買いまたしても大儲け。今流なものの見方をすれば詐欺まがいのこの商売、現代医学の減塩神話という屁理屈を信じるならば別であるが塩には菌を殺し免疫を高める力がある。塩が穢れを祓うことは当時の人々には常識であった。なによりも病に憑かれて意気消沈した大阪が、命知らずで気前がよくて、江戸中の人気を博した紀文が引っ下げてきた塩鮭を喜ばない筈がなかった。


お上とて、金を吐き出させる技に長けていた。諸藩に課した参勤後代の義務は二年毎に藩主が国表と江戸を行き来し莫大な費用を落とした。幕府に対し謀反を企てるだけの財力を蓄えさせないためである。さらに街道や水路の整備の必要があると諸藩は「自発的に」普請を行わなければならなかった。
また藩も幕府も城下の豪商たちにに公共工事などの負担を命じた。それを「御用」と言ったが隙のない商人たちは袖の下を使ってでも「御用商人」の地位を築きさらなる商売の拡大に努めた。


そして紀文は塩鮭の儲けを元手に材木問屋を始める。明暦の大火の折に木曽の原木を買占め富を得ると今度は幕府の要人に賄(まいない)をつつみ寺院の造営に参画、押しも押されぬ幕府御用の商人となった。 



燃えてなくなりゃ誰かが造る、造りゃ誰かがまた燃やす、金は天下の回り物。
   


諸行は無常、いくら稼いで貯めたところで炎がすべてを焼き尽くす。木と紙でできた家並みは一度火がつけば消しようがなかった。江戸時代に限らず昔の日本人の金に頓着しない気質はここから来る。どうせ灰になるならば粋に使ってしまうに越したことはなかったのだ。

火事で儲けた紀文を襲ったのもまた火事であった。深川一帯が火事に見舞われ紀伊国屋の木場も消失、財産の大半を失う。

鍛冶の神様が気まぐれをなすったか、金山、銀山、どうも覇気がない。採掘量が年ごとに減っていき、江戸の貨幣が足りなくなった。
小判や銀貨が腐るわけでなし何故に通貨が足りなくなったのだろうか、実は大量に海外に流失していた。金銀は地金として輸出されたり清国に生糸の対価として渡っていた。日本の豊富な貴金属の存在は「東方見聞録」などによって世界の知るところとなり西欧は伝道師を通じて接近を図ったが、日本側は経済問題をも見越しバテレン追放令そして鎖国令を出すに至った。しかしそれでは追いつかず、長崎から絶えず取るに足らない御禁制品が流入、金銀が流出しつづけていた。江戸幕府が窮乏していった原因の一つがこれである。それに追い討ちを掛けたのが飢饉と火事だった。
幕府は足りなくなった通貨を「水増し」するため貨幣の改鋳を繰り返した。結局これは何の解決にもならず物価高騰を招くのみであった。


将軍綱吉の治世、金銀の減産に対し銅は増産する傾向にあったのを受けて銅銭の流通量を増やす建議を固めた幕府は従来の一文銭、四文銭(寛永通宝)に加えて十文銭の鋳造に踏み切った。これに起死回生を懸けた男がこれまた紀文、十文銭・永宝通宝鋳造の御用を請け負い残りの財産すべてをこれに注ぎ込んだのであった。
しかしこの十文銭、使い勝手がすこぶる悪かった。額面では一文銭の十倍であっても純銅の目方はたったの二倍半、秤量通貨の原則から大きく外れ金貨銀貨との換算時に混乱を招いた。なんとなく大きいのも「じゃまくせえ」と揶揄された。
あまりの評判の悪さに綱吉の死を以って発行後わずか一年で通用停止となった。

紀伊国屋文左衛門その後は失意のまま没落したとも、八幡神社に大金を奉納したとも、凡庸な二代目がその身代を食いつぶしたとも、あるいははなから架空の人物だったとも云われている。

人は一代 名は末代 
作るも消すも 世の中に
天晴男と 唄はれて

実在していようとしていまいと、ここで肝心なのは紀文の一代記が江戸経済の見事な縮図であるということ、そして作った巨万の富は一代で消えても人には末代まで好かれ続けていることだ。金が世の中の本道ではないということの証かもしれない。いや、少なくともこの頃はそうであったと言っていい。


江戸幕府が改鋳した貨幣、金銀銅の比を下げて質を落としたものを「悪銭」というならば今我々が追い掛け回す紙幣などはただの紙、いくらでも刷って増やせるいわば「極悪銭」である。

開国後に明治政府がおこなった神社合祀政策により、鞴祭りの祭神は稲荷神と改変されたがもとよりこれは鉱山・鍛冶の神であるとされるカナヤマヒコ(金山比古)とカナヤマヒメ(金山比売)である。我が国に豊富なカネをもたらし、外の国からそれを睨まれると今度は隠してしまわれた。それに気付かず悪銭を流通させた幕府は痛い目を見たのではないだろうか、などと考えると興味深い。まだ貧乏だった文左衛門に船を買う金を融通した舅は神官であったという。神様も、鞴祭りのための蜜柑を命がけで運ぶ紀文を守りはしたが、後に神社ではなく寺の造営に関わった途端に厳しくなり、額面に見合わない銅銭の鋳造に手を伸ばすにいたってはとうとう愛想をつかしたか、とも思える。

朝な夕な神棚の変わりに電波映像を垂れ流す箱を拝む現代、あれほどの事故を起こした原発が誰一人罰を受けていない。その危なっかしいものをよその国に売りつけようとしているのを不思議とも思わない。「日本の医療は世界一」「地球温暖化」「原発は安心」なる「神話」を信じ込み、電気をありがたがり、浪費と消費を履き違えた不毛な経済に引きずりまわされる我々。その護符たる紙幣をみれば、福澤諭吉なる西洋かぶれがべたりと張り付いている。



「へっ それじゃあ神様にそっぽ向かれるってもんよ」


次号「技の巻」につづく


脱原発と江戸の明け暮れ考「住の巻」

「脱原発をして江戸時代へ戻ろう」

そんなべらぼうを申し上げるつもりはない。
先人たちの暮らしとあまりにもかけ離れてしまった「今」を考える糸口のとして捉えていただければ幸いである。


住――住居、そして生活具が人の暮らしのすべてを物語る。そのためには日本の気候や建築資材などから書き始めなければならない。退屈かとは存じ上げるが少々お付き合いいただきたい。

かつて生活様式は気候と風土によって左右された。我が国は夏は蒸し暑く冬も厳しい。緑に覆われた山々はたおやかに見えるが実は人を寄せ付けぬほど険しい。一年を通して雨が多く台風の通り道でもあり、北国は豪雪に見舞われ海際は常に高波が押し寄せる。そして、地面がしょっちゅう揺れる。

雨が多いその分、豊かな水資源と森林そして木造文化を持つ。石材も鉄も産出するが我が国の家屋の主要構造は遠い昔から木造であった。
木材同士の接合部分には釘を使わずホゾや欠きこみを施して互いを付き合わせた。釘と木では硬さに違いがありすぎ必ず木のほうが負ける、つまり釘穴が少しずつ広がって緩んでしまう。特に地震や台風の揺れを飲み込み、衝撃を逃がすために家屋が「きしみ」に対し柔軟にできており、木材をいためる釘はもってのほかであった。また、雨水が外壁を濡らさないためには軒を深くする必要があったが風に対して脆くなる(めくれ易い)。そこで考案されたのが瓦、上から重しをかけ風に耐えるとともに火事の折には延焼をふせぐ。また地震の縦揺れを制する役割を果たしうる。もちろん無限にと言うわけには行かないが。

夏の蒸し暑さと冬の寒さを天秤にかければ、日本の場合は夏に重きを置くほかなかった。夏は黄泉の国が近づく季節として恐れられていた。暑気あたり、食あたりなどの原因で命を落とすものが冬より多かったのだ。そのため家屋には風を取り込み湿気を逃がすありとあらゆる工夫がなされている。外(庭、あるいは道)に向かって大きく引き戸が設けられており、その戸自体も紙と木でできていた。また、床を高く上げ床下の通気を確保することで地面からの湿気と縁を切った。この床を上げる工法なければ床に石材を敷くか土間で生活するしかない。しかし木の高床は家の中で履物を使わずに暮らすことを可能にした。寝るとき以外靴を脱がない生活を想像すれば、玄関で履物を脱ぐという日本の習慣がいかに快適であるかは明白である。

素足の生活は畳という繊細な生活具をもたらした。冬は床下の冷気をさえぎる断熱材としての役割を果たす。夏、畳にごろ寝したときのひんやりとした感触は、畳が部屋の湿気を吸い取り自らの温度をさげるからである。
「たたみ」は元来たたむ(折るのではなく、重ねるという意味)ことのできる敷物であった。藁床の上に畳表をつけ座布団のように使うようになったのが奈良時代ごろ、人が横になれる大きさとなり寝具として発達したのが平安時代、部屋に敷き詰めるようになったのが書院造りの普請がなされた鎌倉時代である。

江戸時代も中ごろを過ぎると庶民の間にも畳が浸透した。畳表の材料のイグサが大々的に栽培されるようになり、畳作りを生業とする畳職人が生まれたことが普及を促した。決して贅沢品ではないのだが、カビから守るためしばしば日に干し乾燥させたり数年おきに職人の手で表替えをするなどの手入れが必要だった。当然そのような余裕のない農村に畳が普及したのは近代以降であった。

現代の機密性の高い住宅で畳が干されもせずに敷きっぱなしでもダニがつかずカビも生えないのは化学薬品という魔法のおかげである。人を殺さずダニだけ殺す薬などは魔法でしかない。
前回「食の巻」で畳の大きさについて触れた。「起きて半畳 寝て一畳」という言い回しもあるように、たたみ一畳(六尺×三尺)は成人が寝起きするのに必要な大きさである。その昔たたみが寝具であったということを考えれば至極もっともである。

西洋、いや日本以外の殆どの国でベッドが使われるのは家の中で靴を脱ぐ習慣が無いからと言っていいだろう。ありがたいことに土足、しかも家畜小屋に出入りした靴で室内を歩き回り寝るという習慣を我々は持ち合わせていない。
町並みに洋風の、あるいは近代的な家が増えるにつけ室内の造作も外観よろしく日本から遠ざかっていった。ことにベッドは大多数の日本人が飛びついたように思えるがこれは何故か?ハリウッド映画に憧れて、または毎日の布団の上げ下ろしから開放される、というのも当然あるだろうが、いちばんは男と女がもつれ込むのに都合が良い、からではないであろうか。いちいち押入れから布団を引っ張り出して敷いていたのでは気後れしてしまいそうである。前もって布団を敷いておくにはかなりの度胸が要る。年頃の娘さんが下宿先でベッドをお使いのようであれば一応ご心配なされては如何か。

庶民が綿入りの寝具を使い出したのは江戸も幕末の足音が聞こえてきた頃だという。綿の栽培が盛んになったのが思いのほか晩く、収穫された綿のほとんどが糸や織物に加工されたのが大きな理由だが、たたみ自体が寝具という認識も手伝ったのであろう、古布をはぎ藁くずなどを詰めた薄いものを敷き、昼間着ていた着物を上掛けにして眠るのが主流だった。


「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる」

兼好法師は冬はどんなところでも住めるとおっしゃるが、江戸時代はまるごと小氷河期に相当し今の日本の寒さなどは比にならない。隅田川が凍ったという記録もある。ましてや熱のこもらぬ造りの家に素足で暮らしていたのだ。「昔はみな辛抱強かった」と言ってしまえばそれまでだ。しかしそれを物理的に後押しした何かがあるはずだ。

室内を暖房する器具は「囲炉裏」か「火鉢」である。裸火か炭火かという大きな違いがある。囲炉裏は暖房・調理・照明の三役をこなすがどうにも煙たい。天井がなく煙り抜きを設けることができる田舎屋であれば成立するが江戸のような密集地では不可能だった。火鉢では煮炊きをするにはちと心もとなく明かりにもならないが、炭火の発する遠赤外線の熱はからだの内部まで届き活力を与えてくれる。逆に裸火は燃焼するために大量の酸素を必要とするためその分つめたい外気を取り入れなければならないので目に見えるほどは温まらないのだ。

火鉢や熾き火になった囲炉裏の上に櫓をかけ着物や上掛けで覆うと炬燵になる。夜具の中で、あるいは外で商売をするものが使ったのが行火(あんか)、懐に入れる金属性の懐炉(かいろ)、いずれも炭や灰の熱を利用した暖房器具である。

口から入る食べ物もしかり、米の澱粉は体をよく保温する。秋の終わりからは魚に脂が乗りそれを食する側にも脂肪が蓄えられる。のどが渇くと白湯を飲み、冷たい水は敬遠された。炭火や薪の熾き火で沸かした湯で入れた茶の味をご存知の方は賛同して下さることだろう、ただの水でさえ味を良くする、食材のもつ本来の味と効能を引き出すのだ。柘榴色の火でじっくりと調理された食から心と体に英気を蓄えた。乾物の摂取も夏の太陽の力を体に与えてくれる。

寒い冬でも銭湯にせっせと通った。逆に夏は庭先で行水をして済ませることが多かったという。

素足の暮らしも一役買っていた。心の臓からいちばん遠くにある「足」は調温装置でもある。足が感じた温度によって心臓がどれだけの血液を送り出すかを決める。寒いと感じることで自ら体を暖めることができる。今、我々が辛抱と呼ぶもののからくりはこの辺りにある。家の中だけではなく外でも素足で通すのが「意気」であった。寒さという変えがたい事実に対峙したときに縮み上がるか意気がるか、江戸の庶民は後者を選んだ。


すべての調度品にそれぞれ職人の技が生き、先人たちの生き様が見える。この「住の巻」で書くべきことではあるが今は控え今後にとっておく。そしてそろそろ総括せねばなるまい。

おしまいに――電化生活と人の平均寿命が正比例していると言われる。確かに電気使用量と平均寿命のグラフを比べると似たような勾配で上昇しているのがわかる。だが、それだけを示して鬼の首でも取ったかのように「生活が電化によって向上した」と喚くのはおかしい。
近代以降、新生児死亡率がさがり、それがグラフを右上がりにしている。出生率が下がり続けているのもそれを助けている。お年寄りが風邪をこじらせて…というのも現代医学のおかげで減った。べつに電気のおかげではない。

「はっくしょ!畜生め、暑くて鼻水がでらぁ!」と意気がったところで寒いものは寒い。実際に江戸の生活で困難だったのは寒さであった筈である。
綿入りの布団や石炭ストーブの普及で冬を楽に過ごすようになってからは体の負担が軽減されさらに長生きをするようになったと考えられる。やっぱり電化とはそれほど縁がなさそうだ。

日頃の家事をみればどうか。飯炊きと洗濯を自分でやらなくて済む、それだけのことだ。自分がもし男であったなら電子レンジで湯をわかすような女とはぜひ一緒になりたくないものである。

遠出をするとき歩かないで済む。毎日何十キロも歩いて通勤できない。しかしこれは職住分離という社会全体の問題だ。

夏は冷房なしでは過ごせない。家の造りようが夏を旨としてないので仕方が無い。アスファルトで覆った地面、排気ガス、クーラーの廃熱、何より電気の使用そのものの廃熱がそれに追い討ちをかけている。そもそも気密住宅はダニとカビの温床だ。「抗菌仕様」と書かれたもののほとんどは「農薬使用」、内装に使われている建材は有害化学物質漬けである。


人はいくらでも強くなるということはないが、いくらでも弱くなれる。知らぬ間に電気という生命維持装置を背負わされているのだ。電化によって便利になった分、自然から力をかりるという能力と知恵を失ってしまった。季節のもの、土地のものを食し夏らしく冬らしく生きていた先人たちの暮らしはもう絶えた。
寿命は延ばせる。粘土を棒状にして転がせばいくらでも伸びるのと同じだ。しかし伸びるほど脆弱になり、やがてフツリとちぎれる。平均寿命のグラフとやらには心臓が動いているか否かのみ反映されることなどここに記するまでも無いであろう。

暖房の効いた部屋で半袖で過ごし冷蔵庫から冷たい水をだして飲む、逆に冷房病対策とやらでひざ掛けが離せない。真冬に夏野菜を食べる。百均で買って、翌日捨てる。この大矛盾に気づかないのであれば原発と心中するしかない。もはやそれに気づいている人をも巻添えにするので無理心中とでも言うべきか。

原発産業界におととい来やがれと啖呵を切るためには先ずは節電のそれしかない。そして電気のみならずあらゆる無駄と矛盾を正視するしかない。
国土を穢し体を壊してまで現代生活を維持す価値など、経済が停滞して不況が来るなどと資本主義にたてる義理などない。



原発ぅ? しゃらくせえ、すっこんでろい!

脱原発と江戸の明け暮れ考「食の巻」

「原発をなくしてしまっては生活の質が落ちる、江戸時代に戻れとでもいうのか」

こんな声が耳につく。江戸のえの字も知らない輩がどう騒ごうと説得力はない。もとより今の暮らしの尋常でなさに気づかぬ上は過去の考察などおぼつかぬ筈だ。
ともあれ江戸と言う言葉が出たからには、江戸の明け暮れを覗くことで電気仕掛けの今の生活を顧みるいい機会ではないかと思う。前回の「衣の巻」に続き今と江戸時代の「食」を見比べてみたい。


食――途方もなくかけ離れてしまった江戸と今の食生活を、いったいどのように比較していいかたいそう悩んだ。なにしろ中央と地方、また260年間の江戸時代の初めと終わりでは大きな開きがある。さらに身分の差をも勘定に入れると「江戸時代の平均的な食生活」なるものは何の目安にもなりえない。そこで町人、農民、はたまた公方様、この時代に生きたすべての人々に共通して言えることを選んで書いてみたい。

まずひとつめに、口には旬のものと保存食以外は入らなかったことを挙げよう。なにせ冷蔵庫やビニルハウス栽培、ましてや地球の裏側からの空輸などが当然なかった時代である。

海で水揚げされた魚貝をその日のうちに食べられるのは海に近い地域のみで内陸や山間部に輸送されるのはワタをだして塩漬けにしたものか干物であった。江戸の場合は日本橋に魚河岸が置かれ武家はもとより庶民を相手に活魚を商った。天秤棒を担いだ「棒手振り」が江戸を駆け抜け河岸と台所の間を直に取り持っていた。

数ある魚介類の保存方法の中、もっとも長く保存できるものが煮干のように過熱し乾燥させたものか、鰹節のように加熱後カビにより醗酵させさらに乾燥させたものである。

その次は砂糖と醤油で炒り煮した「佃煮」だ。家康公が江戸に移った後、摂津の国(大阪)は佃(つくだ)から漁民が江戸に呼び寄せられ幕府の台所に江戸前(東京湾)の鮮魚を供し、その後庶民も利用するようになったのが日本橋魚河岸である。隅田川の河口にに新たに島を築いて漁民たちを住まわせ、その島の名は彼らの故郷に因んで「佃島」とされた。網にはかかるが売りにくい小魚を甘辛く煮て保存食に仕立てたものを「佃煮」と呼び、濃い口好みの江戸の味のひとつとなった。

そして、切り身を塩や酢や醤油や味噌、または米や粕に漬けて腐敗を妨げるか醗酵させる方法で短い間保存するもの、または開いてはらわたを取り去って塩をし、天日で干した「ひもの」が挙げられる。これらは固定店舗である「魚屋」によって主に商われていた。

鮪の脂身、いわゆる「トロ」は腐りやすいだけでなく脂が強すぎて「煮ても焼いても食えねえ」と好まれなかった。近郷の農家がハラワタや骨と一緒に肥料として引き取っていたという。勿体ないが、そのころの食糧事情からみてもあまりに濃厚な脂の味は嫌がられて当然かもしれない。


大江戸とよばれたのはほぼ山手線の内側あたりと考えてよい。その外は農村であり、鮮魚以外の生鮮品はすべてこの近郷農家から手に入れていた。採れたての野菜が毎日運ばれてきた。したがって旬のものしか手に入らない。では農閑期の冬から早春にかけては何を食べていたのか。ここでも魚介類同様、漬けるか、干す。
柿、大根、にんじん、かんぴょう、山菜、昆布、椎茸,みかんの皮、芋、栗、豆…収穫したあとも干して保存できるものは何でも干した。冬、乳幼児は日光に当たる機会がおのずと少なくなるが、天日にさらして乾燥させ日光からビタミンDを蓄えた椎茸を子供、あるいは母乳を出す母親か摂ることで日照不足による疾患を防ぐことができる。生野菜のない冬場のビタミンCは干し芋、干し大根、大豆を発芽させたモヤシでじゅうぶん補うことが出来た。

大豆は一旦乾燥させたあとは一年をとおして蛋白質を安定供給できる重要な作物だ。味噌、豆腐、納豆は季節を問わず庶民の口に入る基本の食材である。
ちなみに大豆、小豆、昆布などの乾物や酒、醤油をはじめとする醸造品は全国から大阪に集められてから各地へと取引された。日本中の特産物がくまなく流通していたことになる。

青菜はもちろん根菜や今では捨てている根菜の葉を漬物として保存した。塩水に漬けてもビタミンは破壊されない上、寒ざらしにして萎びさせてから漬けるので栄養は凝縮される。とくに糠漬けの場合は野菜本来の味と栄養だけでなく、糠、海草、魚のアラ、鷹の爪、古釘などの添加物が作用して野菜をまったく別の発酵食品として生まれ変わらせる。江戸では庶民までが白米を食べていたが、結果招いたのが脚気の蔓延であった。「江戸患い」とも呼ばれた脚気の原因は玄米から糠を取り去ることで起こるビタミンB1不足である。糠漬けと味噌などの大豆製品を食することで脚気は防ぐことはできたであろうが、糠漬けを「糠臭え」といい好まなかった裕福層は庶民より脚気に悩まされることが多かった。その後、鈴木梅太郎が糠に注目し脚気の原因を突き止めたのは明治も終わりになる頃である。糠漬けに限らず各地にそれぞれ違う漬物がありその種類の多さは世界一である。今の日本人が漬物を食べなくなったのは食料保存の必要がなくなったことが大きな理由のひとつだが、その損失は計り知れない。

そのほか日本人と生野菜の話を過去の記事で少し触れているので是非ご一読いただきたい。

ところで、食べれば間違いなく「出る」のだが、その「出物」はどこへ行ったのか。
言わずと知れた汲み取り式の便所、汚物は下肥として農家へと運ばれた。下肥商いをする業者が汚物を思いのほか高額で買い取りさらに農家がそれを買ったのだ。こうして江戸市民の出物は水路や海を汚すことなく見事に農地へと還元された。現代でこの歯車が回らない致命傷は我々が常用する抗生物質だ。新薬は体内の菌を一掃したあとも排泄物の中で生き続けそのあとも忠実に土や海の微生物を攻撃する。残念だが現代人の下肥に下肥としての価値はない。


ふたつめに、副食にたいして主食(米、麦、その他の穀類)の割合が圧倒的に多かったことが挙げられる。

武士の給料である俸禄のひとつに扶持米(ふちまい)というものがある。自らの家族、そして家来とその家族を含む人数に対し米が支給された。そこで計算の基準になったのが男五合、女三合という一日に食べるとされる米の量だった。米五合とは今で考えればかなり食べごたえのある量である。武士、町人に関わらず一汁一菜が基本であったのであれば、また白米に転じたことで急に脚気が流行ったことを考えればおのずと米とその他の比がわかる。
この米飯を体内で無駄なくエネルギーに昇華させたのが大豆製品と漬物に含まれる酵素だ。

日本人と稲の出会いは遠く神代にさかのぼる。日本人は米を作ることで国を築いてきた。

常に飢えにあえぐ農民の姿は西欧的民主主義を礼賛し封建制度を蔑視する教科書が誇張している。農民は我々が思い込んでるよりはもっと米を食していた。飢饉の影響を真っ先に、そして最後まで受けるのが農民だったということだ。麦や雑穀を裏作して食べたのは米を売るため、または飢饉に備えて備蓄する手段であった。米は食料であったと同時に通貨だったと考えてよい。 
次号の「住」と重なるが、たたみ一畳は成人が寝起きするのに必要な広さという基準がある。一畳は六尺かける三尺、すなわち1.82m×0.91m、つまり敷布団がそれくらいということになる。では当時の成人の身長は?というと、大柄の男でもせいぜい1.6mくらいではないだろうか。米飯中心で一汁一菜、獣肉と乳製品をほとんどと摂らない食生活を続けた結果として当然だが、「小さいのはよくない」というのは考え物。人体は肉や卵などの効率の良い動物性蛋白質を摂れば摂るほど速く成長するのはいまや常識といえるが、それがよいことなのかも考え物だ。大きな体を維持するためにはそれだけ余計にエネルギーが必要となる。体がどんなに大きくなろうと五臓六腑の働きはそうは拡大しない。我々の先祖は米が基本の粗食を守り小さい体で日本を築いた。大阪を筆頭とする地方都市との連携、そして農村を含めたすべてが米を中心に機能した上で「江戸」という華が咲いたのだ。


米は連作障害を起こさない特殊な作物である。逆に米作りをやめると稲と共存する土中の微生物が減り田んぼが死んでしまうのだ。米は作り続け、食べ続けてこそ意味がある。しかし今や主食と副食の量が逆転し、人は米飯から離れ終わりなき美食の後追いをはじめた。おのず米をつくる農家は減った。

全国の休耕田にソーラーパネルを「仮設」しエコ発電をするなどという姦計を以って世の支持を得ようとする輩がいる。農地を他の用途に使えないという法律に対し「仮設」という逃げ道を自ら示しさも名案のように吹聴するが、常設であれ仮設であれ田を殺してしまうことに何のかわりもない。戦後60年をかけてすこしづつ米を忘れさせられた日本人はこの案の狡猾さがもう判らなくなっている。日本は米の自給の道を断たれ外に依存するほかなくなるか、米食と決別することになりかねない。孫正義の電田プロジェクトは「脱原発」のためではなく「脱日本人」が目的である。これが日本人の口から出なかったということだけが救いであるが異論を唱える日本人の少なさが危惧を大きくする。そしてこの後ろにはTPPというさらに危険な国際協定が控えている。

遠く神代のころから日本人は米を作ることで国を築いてきた事を忘れてはならない。

魚の骨をはずし、茶碗に残った最後の米粒までを食べるには箸を使いこなす必要がある。我々は子供の頃からこうして手と脳をきたえて育つ。工芸品から自動車まで何を作っても世界一の所以はここにある。ジャンクフードをかぶりつくか噛む必要のない食品を匙で掻きこんでいたのではたかが知れていよう。
懐石料理にラーメンに宅配ピザに中華フルコースにケーキ食べ放題、本当に味がわかって飽食しているのか甚だ疑疑わしい。結核や先に記した脚気の流行は栄養の「不足」か問題になるが、逆に「過多」が原因の病は挙げだしたらきりがない。今の世の飽食がもたらす不健康は異常とするほかない。が、日本人はこの現状に慣れきっており、その理由も解法もわかりきっているのに誰も後戻りしようとしない。食料、資源を無駄に消費し廃棄物を垂れ流し、体は病気の巣窟、医療と美容と廃棄物処理にさらにカネをつぎ込む。

そうまでして死守しようとしている現代生活とはいったいどれだけありがたいものか、考える時だ。


次号「住の巻」につづく

脱原発と江戸明け暮れ考 「衣の巻」

「原発をなくして江戸時代の生活に戻れとでもいうのか」という脱原発反対派の声をネット上でしばしば見つけることができる。

電気の使用量をへらす事が生活の後退を意味するという、原発産業界の人間が一般市民になりすまして声をあげているかに見えないこともないが、この発言に筆者の眉がピクリとうごいた。

それじゃあ何ですかい?お前さんは江戸のくらしをよっくご存知だと、そう言いてえんでござんすかい?

原発をなくすと東京が江戸になるのかという物理的な問題はさておき少なくともこういった意見は文献をとおして江戸の生活を知る者から出たとは考えられない。おおよそ悪代官が越後屋から小判のはいった菓子箱を受け取って「そのほうも悪い奴じゃのう」とか言ってる時代劇の場面ぐらいしか想像できない連中にちがいないし、じつはそんな付き合いは今でもなんら変わらない。

江戸はどんな都市だったのか、ブログで紹介するにはたかが知れているがちょいとだけ記しておきたい。



―言うまでもなく着物の生活だった。体の動きが激しい農民や職人は股引き、侍は袴をつけるが普通は一枚仕立ての着物を帯で締めるだけである。

洋裁をされる方ならお判りであろう、シャツやズボンは立体裁断といって生地を曲線で切る。立体である身体を立体的に包む洋装の特徴である。しかし直線で切り縫う和裁と比べると恐ろしく複雑であり、生地の無駄もおおい。アイロンも面倒である。また、すこし太ったりすると着れなくなってしまうという屈辱的な欠点がある。

着物の前あわせは男女とも右前と決まっているのは右手を懐に入れやすいからとよく言われているが本当の理由はそうではない。あわせが右前であれば帯も当然右巻きになる(そうでなくては解けてしまう)が、これは「気」の道を整える役に立っている。逆に体を左に巻いてしまうと体内の「気」の巡りを妨げてしまい体調を崩す原因となる。死装束を左前とするのも生きた人間と区別する為だけではなく、細胞の分解という別の生命活動(=気)の道を妨げて腐敗を少し遅らせるためであった。
洋服の場合女性の前合わせはなぜ左前かと言うと、そのほうが男が女の服を脱がせやすいからだそうな。さすがはじぇんとるめんの文化である。

衣料の流通はさまざまであった。一番の贅沢は新品の反物を買ってあつらえるというもの、その次は新品でも「つるし」という仕立て上がりを買うこと、それ以降は「古着」だが、これが流通の殆どを占めていた。一枚の着物が何度でも市場に出るのだ。糸を抜いてばらし別々に洗いまた縫い直す(洗い張り)、傷みやすい襟はたびたびかけ代えられ、裏地も打ちなおせる。裾や袖の丈を調節し、むやみに切ったりしないのは古着として売買するためである。当時は縫い物のできない女房などいなかったことと、我が国の織物が堅牢であったからこそ成立したのだが。着れないほど傷んだ着物は小さく切り分けられて袋物や子供の玩具、おしめ、鼻緒、針山と、何度でも姿を変えて生き続けた。

家々を回って古着を集めそれを店に卸す業者がいた。彼らは幕府が抱えるの隠密組織のひとつであり、市井の情報収集を行っていた。

鋳鉄製の柄杓におき炭をいれて使う「火伸し」という道具で衣服の皺を伸ばしていた。絹の織物には炭ではなく熱湯を使ったのではないかと思う。

下駄、草履、わらじ、どれも鼻緒を足指ではさんで履く。現代人が気にもしないことだが、実は足の裏や指は実は手とさほど変わらないほど感覚が鋭く、例えば何かを踏んづけたときもそれが何だかは見なくでも判るし、少し練習すれば字を書くのも難しくないほど器用だ。ちっともうれしくないが筆者の足で書いた文字は手で書いたよりも上手いとよくいわれる。日本の履物は足を自在に操りながら歩きこなすためにあるのだ。引き換え西洋の靴は足に鎧を着せているようなものだ。靴に自由を奪われた足はおのずと痛み、それがさまざまな病の源となるのは言うまでもない。


日本人が着物から離れていった理由は幾つもある。まず着物で会社に行けない。学校も。これは仕方ないが何よりもべらぼうに高い。この責任は着物業者にある。「日本の伝統」だの「文化遺産」だの余計なな付加価値をうそぶいて自らの首を絞めたのだ。伝統だろうが遺産だろうが着物など生活具のひとつに他ならない。そんなに文化遺産が売りたければツタンカーメンのフンドシでも売ればいい。

「着物姿の女は美しい」という幻想もいけない。女は着物を着ると淑やかに振舞うべき、という思い込みがいつの頃から男女ともに浸み込んでおり、それが女から動くことを奪ってしまった。かつて女たちは着物姿で田畑を耕し、野菜を売り歩いたではないか。裾をからげて蜆をとり、襷をかけて薪を割り、胸をはだけて赤子に乳をやったではないか。着物が今のように不便な装束であったならば女たちは働けず、江戸の経済などまるで成り立たなかったことになる。見た目の美しさを追いかけるあまり働くことを拒否した挙句に着物は拘禁服でしかなくなってしまったのだ。

明治新政府の欧化政策によって華族などの裕福な人々に洋装は取り入れられたものの巷に浸透するには至らなかった。日本に洋服がなだれ込み着物が駆逐されるのは第二次大戦後である。敗戦によって破壊された製造業と市場をGHQが一から組み立てなおす折に衣料部門は洋装一色に塗り替えられた。よその国の習慣を不合理だの野蛮だの揶揄するのが西洋人のお家芸だから仕方がないが、市場も生活も叩き壊した上で別のものを押し付ける遣り方は穢すぎる。そして世論を操作して西欧化がいかに素晴らしいかを人々の意識に刷り込むという彼らの常套手段にいまだに気づかない日本人も救いがたいところがある。豊かさを取り戻した日本人は着物のよさを見直すように努めたが「高級品」として復活させたのが失敗だったのは先に書いたとおりである。


今、人の体は、ベルトに、ネクタイに、ジーンズに、ブラジャーに、ストッキングに、ガードルに、ハイヒールに、ブーツに締め付けられている。裸になって鏡を見れば身体じゅう痕だらけ、色気などあったものではない。体に毒で、気の毒だ。


次号「食の巻」に続く

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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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