キライなことば―「時間」

長きにわたり更新を休んでおりました。にもかかわらずご来訪を続けていただきましてまことにありがたく存じます。またご心配をおかけした事をお詫び申し上げます。体調を崩したりモサドに暗殺されたわけではなく日々の雑事に忙殺されてどうにも更新できずにおりました。しかしこの頃ようやく字を書くゆとりが見つかるようになりました。
そんな毎日を送るとどうしても「時間」について考えることが多くなります。そのような訳で更新再開にあたり時間についての記事をしたためました。よろしくお願いいたします。




ちくたくと均一に刻まれる「時間」に追い立てられながら生きる我々は、はたしてそれが何かを見切っているのだろうか。雁字搦めに縛られて振り回されていながら時間の正体が見えていないとすれば、これを悲喜劇と呼ばずして何とすべしか。

「時間」、これはかつてこの連作で扱った「自由」「平和」「健康」などと同じく近代以前の日本には存在しなかった語彙、すなわち明治の新語である。明治の新語とは開国と前後して西洋から我が国に流入した文物の対訳として新たに考案された語彙、或いは「詩経」などに代表される漢語文献から借用した漢語熟語に新たに意味を付け加えたものをいう。
日本には古くから「とき-時」という立派なやまとことばがあった。にもかかわらず"time"の対訳になぜ「時間」ということばが新しく必要になったのか、それを少し考えてみたい。

当ブログに初めて来訪された方のために一応申し上げれば、本連作は明治の新語とその背景にある近代主義をを否定的に扱うものである。

明治を迎えるまでの日本の「時」の流れ方は今とは違う。そのせわしなさを光陰矢の如しと喩えることもあれば一日を千秋の思いで待ちあぐねることもあった。
日の出(明六ツ-あけむつ)から日の入り(暮六ツーくれむつ)までを一日と考え、そして夜を一日のうちに数えることなく今日と明日の間の空隙と見なしていた。そのために夏と冬では一日の長さがもちろん違っていた。刻を知らせる寺の鐘も明六ツから暮六ツの間を六分割して打つゆえ鐘と鐘の間隔は季節による伸縮があった。時候の挨拶として日が長くなった、短くなったなどと使われるが、ここでの「日」とは日照時間のことではなく「一日」そのものを指していた。

つまり夏と冬では、また昼と夜では時の流れ方がそもそも違うのである。そして人の体と気も時の流れと呼び合うかの如くその働きを違え、人が果たすべき仕事の量も種類も変わる。陽の光ふりそそぎ草木生い茂る夏は人にも精気がみなぎり、疲れを知らず、迫る危難をものともせず、心の戸を外に大きく開いて長い一日を働きとおすことができる。夏は冬をやり過ごすための糧を蓄えるためにある。やがて来る冬は人に疲れを思い出させる。寒さに萎縮した体は気孔を狭めることで自らに壁を築いて寒気の流入を防ぎ保温を図る。自然と気もふさぎ内を向く。すると何かと億劫になり、重いものを持ち上げる気も起こらず、夏に手荒く扱った体を知らぬまに労わるのである。昼間は道具の手入れなどをしながら過ごし、夜は火のそばで早く床に就く。風邪などをひき熱が出れば古い細胞は壊れて生まれ変わる。冬はまた巡り来る夏にそなえ体と気を養うためにある。
そして冬に相当するのが夜である。日が沈めば家屋の戸を閉ざし、火を囲んでは夜明けとともに働きつめて疲れた体をねぎらい、明日にそなえて眠る。夜を冬、日の出を春、昼は夏、日の入りを秋になぞらえることができる。つまり一日と一年は相似の関係にある。

人の一生や国の興亡、時代、地球、宇宙、すべてはこの相似の輪のなかにあるだろう。生まれ、栄え、熟れ、そして滅ぶのである。凡そこの世に生をうけたものが滅するまでの猶予こそが各々にとっての「時」である。すなわち「時」は個々の存在にとっても流れ方が違い、そして必ずその始めと終りがある。


これに対し「時間」とはなにを指しているのだろうか。

かつて西洋において夜は悪魔の支配する暗黒世界と恐れられていた。民衆の本能的な恐怖心を逆手に取り、魔女や吸血鬼が闇夜に現れると吹聴しては魔女裁判や悪魔祓いの儀式により権威と利益を手にしていたのがカトリック教会であった。古代ギリシアの遺産でもある医術や天文学を神への冒涜と戒め、それを推奨しようものなら捉えられて刑をうけた。神の名を欲しいままに騙る教会の脅威から絶えず身を脅かされていた知識人たちは救いを教会とは別世界に在る科学に求めた。
果たして自然科学はその暗澹たる中世のとばりを破った。ランプの光に夜が隈なく照らし出されると人々は闇を克服し、日没から夜明けまでの空隙も社会生活に加えられることとなった。こうして不確かであった一日を昼夜あわせて二十四時間と定義しそれを六十分、六十秒と等分したものが「時間」である。この「時間」を座標の軸のひとつに見立て、速度・エネルギー・仕事・熱量などを算出するための次元としての役割を与えた。もとより得体の知れぬ流れであるはずの「時」を便宜上等間隔に切り揃え、均質かつあたかも実体を持つ存在のようにみせかけたもの、始点も終点ももたぬそれが「時間」である。わが国にも開国を待たず自然科学の波が押し寄せた。季節ごとに伸びては縮み人と共に歩む「時」は忘れられ、時計の刻む「時間」に管理されるようになる。

"time"はもとは詩的な意味合いが強い語彙であったが、より数学的な意味をルネサンスから産業革命期にかけて自ら獲得したといえる。しかしやまとことばの「とき」には数直線としての概念が明らかに欠けていた、いや、少なくとも開国までは必要がなかった。産業革命とその理念を我が国に輸入するにあたって初めてその必要が生まれたのである。歴史の授業では開国後の近代化・西欧化をさも美しく正しいものと教えている。しかし「近代化」の正体は日本を近代西欧の主導する産業経済の鎖に繋ぐための調教でしかなかった。そこで外来の価値基準を語る新しい語彙が多く必要になり、在来のことばはその居場所を失うこととなった。文化人と呼ばれる西洋かぶれたちがあらたな日本語を大量に製造した背景はこういったものである。「時間」も、しかり。

二十世紀以降またたくまに世界を席巻した資本主義経済は「時間」をさらに具現化することに成功した。それは生産という行動を貨幣に換算するための基準軸としてつねに「時間」を利用することによってである。生産に費やす熱量、電力量などのエネルギー(J = kg • m2/s2)は時間概念なしには算出できない。流通のための運賃も燃料のエネルギー消費量であり、また人の労動力は「労働時間」により人件費に換算される。在庫にかかる費用は倉庫の経費でありこれも時間がものを言う。生産品の開発から販売を管理する企業も同様、その人件費も維持費も時間によりはじき出される。市場にとって「時間」が季節や感情により伸び縮みするものであっては非常に都合が悪いのである。
自動車、飛行機、家電その他近代以降に開発された機器はすなわち利便性を追求するものである。利便性とは時間短縮と労働削減に他ならない。我々は生活する上であらゆる利便を獲得したわけだが、結局のところその対価を支払うために人生の時間のほとんどを労働従事に費やすことになる。
一方で生産者は生産効率を上げるため大量生産を図り、これを大量消費につなげるために「流行」なるものを自ら仕組んで消費者の趣向を一律に撫で付ける。流行は消費を煽り、より短時間でより多くの経済効果を生む。そして市場が十分に利益を回収すれば新たな流行に手綱を渡して自らを掻き消す。消費者は目まぐるしく立ち代わる流行に常に奔走させられる。こうなれば夏も冬もあったものではない。人は日も夜も問わずに馬車馬のごとく働くことで「時間」を貢ぎ続けねばならなくなった。



いにしへの、やまとことばの「とき」はいかなるものか。

過去から未来にかけて移りゆく、この不確かな、しかし決して逆に流れることのないものをわが先祖たちは「とき-時」とよんだ。
いや、こうして流れるもののひとつぶ、今の言葉で言う「一瞬」こそが「とき-時」であった。過去から未来にかけて移ろうそれを「とき-解き、溶き」、取り出したものは不変・不朽の「とき-常」である。それは決して変えることのできぬ過去であり、それは色あせぬ記憶でもあり、それは再び訪れることのない今でもある。ある「とき」からしばらく後の「とき」までを「ま―間」と言った。「つかのま」「ひるま」のように、領域を限定した時の流れをさす。「時間」という新語は「とき」と「ま」をあわせて創られた。
花が散らぬよう、緑が枯れぬよう、若きが老いぬよう願えどそれは決して叶わず、必ずや終りが訪れるという掟に従うしかないこの世をば、そのむかしは「うつしよ-現世、顕世」と、時が終りに向かって「うつろい-移ろい、映ろい、顕ろい」ゆくことに諦めをこめてそう呼んだ。そしてこの世での「時」が尽きた魂が逝く「とこよ-常世」は時の移ろわぬ、つまりは終りなき不変不朽の世界である。いま我々が「あの世」と呼ぶ世界のことである。
「とき-時、常」はこのように一瞬を示すことばでありながら実は永劫をも意味する。


「時」のはじまりについて考えてみたい。

ひとり一人の「時」は誕生することにはじまる。魂が「この世」に存在するための媒体つまり「体」に宿り、そこで人としての「時」が発生する。ではその舞台となる「この世」はいつ始まったのであろう。「この世」とは我々が生きるこの領域、またそれを含む宇宙全体、つまり「物質界」である。その始まりとはおそらくビッグバンと呼ばれる瞬間である。
ビッグバン以前は全くの、「時-とき」の流れも「空-うつほ」の広がりも持たぬ途方もない「無」であった。その状態から突如として陰と陽が発生し、「時」と「空」が拡張を始めこの宇宙=「時空」となった。我々は広がり続ける時空の中のつかのまの存在である。


「この世は神による創造物である」という一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム)に共通する考えに基うならば、時は神なるものが「無」からこの世を創造したその瞬間からはじまったとすることができる。宇宙の始まりを説いたビッグバン説は「きわめて神学的」として発表されるなり学会から非難をうけた。神を毛嫌いし現実世界からぜひ切り離したいと願う科学者たちが宇宙に始まりがあることを拒絶したためである。なぜなら仮に宇宙に始まりがあったとした場合その誕生の原因と理由が科学的に実証できねばならず、それができない以上は「神のみわざ」と認めるほかなくなるからである。近代科学の出発点が「神との別居」であった以上それだけは断固拒否せねばならなかった。だからこそ宇宙は始点を持たぬ超然とした存在(絶対空間)でなければならず、同様に「時間」にも始まりがあってはならない(絶対時間)。だからこそ「時間」をあくまで過去から未来へと均一に経過する始点も終点も持たぬものであることを主張した。  




草木、山海、雪月花、そして人、森羅万象がこの世に姿を留めていられるのは時が流れてこそである。生きとしけるものに血が流れるのも、日の光りをうけて緑が育つのも月の満ち欠けも時のうつろいに拠る。またそれを眼に映し、耳に鼻に聞くことができるのも光と音と香りが時に運ばれてこそである。思い悩んではまた悦ぶことができるのも意識が過去を記憶し未来を想定するからに他ならぬ。人体しかり路傍の石しかり万物を構成する最小単位は原子の粒、その粒こそは原子核の周りをさらに小さい電子が運動(古典力学では回転運動、量子力学では波動)することで成り立つ。運動とは物事が時にともないその位置位相を変えることである。ならば時が運動を、そして運動が物の存在を担保していることになる。

「時がとまる」と聞いて静止画像のような情景を思い描いてはいけない。それは単に流れる時空の瞬間値を記録したにすぎず、それを観測できるのは他でもなく我々が流れる時空に存在するからである。もし時がとまれば電子運動はとまり、原子の結合がほどけ、音も光も届くことなく、惑星の自転も公転も止み、惑星間にはたらく力は消えてこの世のすべてが一瞬を待たずに崩壊する。苦痛と恐怖を伴う壮絶な最後とはまた違う虚しくも悲しい終末である。これは「時」が物質界を成立させていることをうまく説明しているがおそらく原因と結果が逆である。時がとまってこの世が終わるのではなく、物質界が消滅するにあたって「時」が流れなくなるのであろう。ただしこの世の終りがいつ訪れるかは神のみぞ知る。


延々と続く縦糸に横糸をくりかえし渡して織られた一重の衣、この物質界をそのような織物にたとえるならば、その縦糸こそが「時」であり横糸を「空」になぞらえることができる。ここで言う「空」とは何らかの力によって秩序付けられる場である。磁場であったり重力場であったりするが、どのような場であれそれを秩序だてる力が作用するためには時の流れが必要である。「時」と「空」は両者ともに絡み合ってこそ存在することができ、どちらも単独ではただの概念でしかない。「時」とは何かを論ずるためにはば先ず「時空」ありき、「時」はその構成要素として捉えるべきである。


ビッグバン説が通説としての地位をほぼ築いた今日でも一般には時間と空間が別々に語られている。計算上はそれも必要だが、それは計算という架空の世界においてのみ成立するのであり実際はそうはいかない。我々が振りまわされ続ける「時間」の正体は、いわば計算上の必要によって敢えて独立させられた概念、ただの架空の目盛りである。そんなものに何故ふりまわされるかは時間が貨幣の影法師であるからに違いない。だが貨幣もまた実体のない数字の羅列でしかない。同じことである。

誰が言ったか「Time is Money」、この低俗な言葉を日本語に翻すのであれは「時間は金なり」とするべきである。時は金に非ず。


ちと寄り道をば。
やまとことばにおいて「織る(をる)」と同じ音をもち、かつ繋がりのあることばに「折る-おる」と「居る-おる」がある。
横糸を右に左に「折」っては返し衣を「織る」、もとより「折る」とは波が繰り返し寄せては返すさまから生まれた反復・継続を意味することばであり、月日や季節、人の生死が巡るさまをも含む。そして「折る」を「折り」と名詞に直せばまた「時」を意味することばとなるのが興味深い。
「居る-おる」の意は存在する、ある、いる、である。先に述べたようにこの物質界において或いは物質界そのものが存在するためには「時」の裏付けが不可欠である。この世に存在するということは時と空の双方から認知されることである。

「記紀」によれば、高天原の「忌服屋-いみはたや」では「天の服織女-あまのはたおりめ」たちが神に捧げる「神衣-かむみそ」を織るという。また高天原の統治者たるアマテラスは自ら神衣を織る服織女でもあったという。この「神衣―かむみそ」こそが時空つまり人の領域たるこの世を暗示しているのはなかろうか、じつはそんな予感を糸口に本稿をしたためた次第である。







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キライなことば―「信じる」  

こういう美々しい言葉には気をつけたほうがいい。
「平和」「正義」「自由」などと同じく、耳にはじつに心地よいが。

「信じる」、なにやら得体の知れない押し付けがましさを感じる言葉、それは今流行りの「絆」にも似たものがある。ただでさえ言論というものが力を持ちすぎたこのご時勢、それに振り回されないためにもこの怪しげな言葉を疑ってみる価値はある。


いま我々が使う日本語は「現代日本語」である。それ以前のものをおおざっぱに「古語」という。「古語」は新しい順に「近世日本語」「中世日本語」「中古日本語」「上代日本語」というように別けられる。言語の様相が変わるからにはそれだけの理由がなければならなく、たとえば「現代日本語」が生まれた契機、それは明治維新にともなう西洋文化の流入つまり「ガラス」「ピアノ」のように外国語を外来日本語として輸入するか、「心理」「哲学」のようにそれまでの日本になかった新しい概念の対訳として新日本語を造語することで語彙がふえたことにある。
それ以前の転換期にも似かよったことが言えるのだが影響したのは西洋ではない。上代においては大陸の文物と渡来人の来日と律令制度、中古は遣唐使廃止と仮名文字発明による内的な熟成、中世は政治の担い手が近畿の公家から関東の侍へと変わったことによる「あずまことば」の開花と禅の影響、そして近世は天下泰平の中で多様化した社会・職業・身分においてそれぞれの言葉が独自に育ったことにある。

では、上代日本語以前のこの国の言語はどうだったのだろう、ということになる。

古代語、仮にそう名づけると、それを指して純粋な日本語というかは難しい。遠い昔は日本列島は大陸とは地続き同然であり、陸伝いに人々が、島伝いに舟々が行き来していたのであるから、大陸の影響を受ける前の時代などというものはもとより存在せずその意味で純粋な日本語というものもありえない。すると議論はなぜか日本が大陸の属州であったか否かに掏り替わり兼ねず喧嘩腰の方々を喜ばせるだけになる。それは本稿の目的ではないためそこは「そうっとして」おくことにする。
我々日本人の古代語は、漢字、かな、いかなる表記文字をも持たぬ「おと」によってのみ言い表すことのできることばである。その「おと」による太古からの一語一語に五世紀以降大陸からやってきた漢字を意味の上で対応させ、そうして日本語が表音・表意の両方に使うことのできる文字を得た。日本語固有の「おと」は「訓読み」として後世まで残ることになり、漢字の持っていた漢語音が日本風に訛ったのが「音読み」である。

漢字以前の時代から日本にあったことばを特に「やまとことば」という。漢字と出会う前であるためやまとことばに「音読み」は存在しない(とも言い切れないのが悩ましいのだがそれ別の機会に)。


そこで「信じる」というこの日本語、辞書では訓読みとされているが、漢語の「信―シン」に「する」という日本語の動詞がくっついた(膠着した)ものだ。つまり漢語外来語からの造語であってやまとことばではない。

この連作では明治以降に採用された「明治の新語」の生む悪影響を主に取り上げてきたが、今回の「信じる」は新語と呼ぶにはいささか古いといえる。
いったいどれくらい古いことばなのだろう、それはわからないが、とにかく「信じる」という行動を我々は古代から外来語に頼ってきた、さらに昔は「無かった」かもしれないというから、えっと驚く。


現代日本語での「信」は大きく分けて二通りの意味を持つようになった。一つは「通信」「音信」「信号」に見られる記号的な使い方である。情報を機械のように無感情に淡々と伝える方策であり、その情報が真実であるか否かはここでは問われない。
もうひとつは「信仰」「信心」「信頼」「信用」「信念」、つまり「本当と思う」こと、悪い言い方をすれば「思い込む」ことであり「信じる」といった方が美しげに聞こえるが意味は同じである。


「信」の文字は古くは聖徳太子の「十七条憲法」の中にみられる。

九曰。信是義本。毎事有信。其善悪成敗。要在于信。群臣共信。何事不成。群臣无信。万事悉敗。

九に曰く。信これ義の本。ことごとに信にあるべし。それ善悪の成敗は。かならず信にあるべし。群臣ともに信あれば。何事か成らざらん。群臣ともに信なくば。万事ことごとく敗れる。

「十七条憲法」の原本は見つかっておらず全文が書き記されている最古の書物は「日本書紀」である。今の歴史家の間には十七条憲法は日本書紀の編纂時に改竄されたものであるという説があり、それどころか聖徳太子不在説まで囁かれている。つまり「信」の字の使用を飛鳥時代まで遡ることができるかどうかはいまひとつはっきりしていない。

とにかく、人としてとるべき道の根本、善悪の判別の根拠はことごとく必ず「信」にあるべきだとされている。そして遅くとも日本書紀の書かれた時代には「善悪の判別の根拠」とまで意味づけられるようになる。どうやら大変な文字である。


漢字のふるさとの大陸では「信」の字をどう扱っているのだろう。

「人」と「言」の会意文字、字源は「人が口に出したことを守る」。転じて「口に出したことを守る人」に対する形容になった。

動詞で使う場合はまず日本語同様「信じる」、それから「言を守る」「実証する」「知る」とあり
形容詞では、「真実の」「正直な」「偽りの無い」などである。
名詞になると「盟約」「割符」「標識」「使者」「消息」「書簡」となる。

「信」は儒教の五徳にも数えられる「言明をたがえないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること」である。ここで注意して見れば「信」とは言明をする、真実を告げる、あるいは約束を守るその人間あるいは媒体にかかわる問題であり、告げられる「真実」とは別の存在として考えられていることがわかる。この五徳の「信」は十七条憲法のそれに代入して読んでもとりあえず意味は成す。

何かしらの情報を発する側と受け取る側の存在があってはじめて成立する語彙のようである。つまり「情報の発信と受信」である。

しかし、「十七条憲法」の口語訳では「信」は「まこと」とされている。


日本語のまこと、それは「ま―真」と「こと―事、言」からなるやまとことばである。「ま」さしき「こと」、本当の事、真実といってもいい。ただしこれは「情報の真偽」ではなく「事の真性」を語ることばであるため中国語でいうなれば「信」ではなく「真」に近い。したがって「情報のやりとり」をあらわす「信」の字に「まこと」を対応させることも、「善悪の判別の根拠」としてしまうのにはかなり問題がある。なぜこのような矛盾が起きてしまったかは現代人が「信」という言葉に抱く感情に原因がある。



ところで、「信じる」の影で忘れられていたかのような「信―のぶ」ということばに触れておくことにする。これは辞書によって「信」の訓読みとしているものとしていないものがあるようだが一般には「まこと」とならんで人名漢字の読みとして受け入れられている。しかしこれは、やまとことばの草創期から使われるれっきとした動詞の一つである。

「のぶ―述・陳ぶ」、口をついて出たことばがあたかも泥水を流したように水平に「のび―伸・延び」ひろがる様を現わしている。そして人の上に立つ者、たとえば司祭や大王の「のぶ」ることばは「のる」と美化され「のり―呪・祝・宣・憲・法」となる。
言葉を受け取る側はこれを「のむ―飲・呑む」のである。この語源もまた「のむ―伸・延む」であり、ことばがのび広がる現象の一環であることがわかる。これこそ「情報のやりとり」に近いことばであろう。



「信じる」は他動詞であるため必ず目的語をとる、つまり信じる対象が存在する。たとえば報道や評論などの言論、たとえば科学のもたらす研究結果、人、自分、金銭、権威、社会、未来、そして神、その他諸々をただの情報として受け取ることにとどまらず「まこと」と捉えてしまうことを「信じる」という。
やまとことばを話していた時代は「のぶ」と「まこと」は二つの全く異なる語彙であったが、大陸から輸入した「信」により一つに抱き合わされ、混同されたのである。



今日び、「信じる」ことの大切さや崇高さが高らかに謳われる。これはいわゆる美辞として使われている。しかし重きを置くべきはその対象に「まこと」が在ることの筈であり、そして「まこと」はそうはやたらに転がっているものではない。そこで「信じられる」ことを求める側はそこを突かれることを嫌うため自らに欠けた「まこと」を何かで補い激しく「発信」する。「信じろ」と発信するのである。彼らは「まこと」を装う方策に長けている。それに対し明らかに弱い我々は「信じぬ」ことを躊躇し、迷い、あらぬ「まこと」を見てしまう。それはやがて「妄信」につながる。

実は我々は信じるか否かをそのつど選んでいる。自らにとって喜ばしいことは受け入れ、そうでないこと、受け入れがたいことは拒む。情報と自らの願望の合体、これが「信じる」ことの構造である。

何かを信じることは安心につながる。大多数の意見を信じておけば社会から取り残されずにその恩恵に与れる。銀行を信じて貨幣を預けておけばいつの間にか増えてくれる。医者や薬を信じておけば痛みや病が進む恐れから逃れられる。惚れた相手の言うことを信じていれば傷つかずにいられる。大司教の説く神の言葉を信じていれば地獄に落ちない。信じる者はとりあえず救われるだろう。しかしその中に「まこと」が無ければ少しも報われないことになる。

信じたことが思い通りにならければまた別の何かを信じてみる。が、またしても当てがはずれ、それを繰り返すと経験的に疑うということを覚えるはずなのだが皆にできることではない。なぜなら我々の願望といというものは少しでも擽ればすぐに泡立ちいくらでも膨れ上がる。相手はそれをよく知っている。そして「信じろ」と、発信し続ける。

そうこうするうちに時は過ぎ、人は年をとり世も歳を経て今に至った。過去において信じさせる術をよく知っていた者たちの子孫、あるいは弟子たちが今のこの世で力を持つ者となった。そして今もなお、彼らを信じる我々がいる。


先祖たちにしてみればまるで与り知らぬ「信」の言葉は律令制とともに行き渡ることとなった。ではそれまでは何も信じることなく生きていたのだろうか。



「信じる」必要などなかった。巨石や巨木、地に山に海に宿る霊を、そして先祖の霊を「おそれ」「うやまひ」生きていたのである。こぼれた種から芽が出て親と同じ木となり、秋に落ちた木の葉は春になると再び芽吹く。これは他でもない「まこと」である。生まれた子には親の面影があり、その子にも、またその子にも受け継がれてゆく。ちから溢れていたからだも霊が抜け出てしまうと物言わぬ骸となり朽ち果てる。そこには木の葉のように再び霊が芽吹くことはない。先祖たちはこの厳粛な「まこと」を見つめ、それに抗うことなく自らの願望を何かに結びつけることもなく、「まこと」をつかさどる霊たちをただただ畏れ敬い生きたのである。

疑う、それはなにやら後ろめたさの滲む言葉である。信じることを美化した故におこる反作用なのであろう、信じる者には光が当たり疑う者には影が落ちるような気がする。これは動詞「たがふ―違ふ」に「う」がついたものである。心に生じた違う理解同士が対立することをいう。似たような意味の動詞「うたぐる」も「たぐる―手繰る」に「う」がついて、事象を手繰り吟味することをいう。そこに「まこと」が在るかをつぶさに見つめる方法のことであり後ろめたさなどは元々は無い。
動詞に「う」を頂くと別の新しい動詞が生まれることがある。「う」は「得」すなわち「知る」を意味する可能性があるが、今のところ確証は無い。「うながす」「うがつ」などもそうである。

ことばとは時とともに姿かたちをかえて永らえる生き物である。人がことばを作る傍らことばは人をも国をも作る。言語の構造が国民性に反映することは明白である。現代日本語は明治維新から数えてたった150年の歴史を持つにすぎない。近世日本語はいまから400年前、中世のそれは800年前、中古は1100年前、上代日本語はおよそ2000年前からのものである。それより昔の古代語であるやまとことばは少なくとも2万年以上の間話されていたことばであるからには日本の国と日本人の心の礎を築いたのは実はどの時代のことばであるかは明白である。しかしその後に外来の言葉を喜んで受け入れ、それが我々の暮しに入り込んだことで急速な変化を強要された日本人はさまざまな副作用に苦しんでいる。
新語と呼ぶには古い言葉ではあるが、古語辞典を開いても「信」の文字は仏教用語と僧の名前を含めたところでそれほど多くは見られず、むしろ明治以降におびただしい量の「信」が熟語として頻出するようななったといえる。やはり明治以前は「信」を外来語に近いものとして扱っていたと考えられる。そして開国とともに我が国に押し寄せた科学・近代思想への「信頼」じつは「盲信」を煽るあざとさが「信」に感じられてならないのである。



「アナタハ神ヲシンジマスカ?」
青い目の神父さんにそう訊かれれば、「信じない」という他ない。
「まこと」をつかさどる存在を神と呼ぶのであれば、ひたすらそれを畏れそして敬うだろう。
近代や科学などと同じように信じていい筈はない。

キライなことば――「自由」、とある女神の名前

かつて日本の国になかった物事が外の国から入り込んでくると、あたらしい言葉をつくらねばならなくなる。明治の世に西欧の思想を輸入するにあたり、新政府は多くの新語を登用した。

この「キライなことば」の連作で綴った「正義」「平和」「健康」などは全てこの新語にあたる。これらの言葉は我が国にはなかった。そのようなものがなくとも充分生きてゆけたのだから必要すらなかった。。病でない者に薬などいらぬのと同じだ。ところが故意に病原菌を撒き散らされた挙句に特効薬を押し付けられたのだ。この妙薬は口には素晴らしく甘いが知らぬ間に体中を蝕む。そして使い出すと止められない。

この新語を世に広めた、あるいは自ら造語したのは森有礼、福沢諭吉、西周(にし あまね)ら、すなわち啓蒙家と呼ばれた知識人たちの結社「明六社」である。彼らの目的は「国民に教育を広め先進国にふさわしく育てる」ことだが、言い換えれば祖先から受け継いだ心を否定し、国民を西欧の鋳型にはめて「改鋳」することだった。西は漢字廃止論者であったし、森に至っては英語を国語とすることを主張していた。
このような結社が新たに造語した言葉は軽妙浮薄であるに留まらず人心をたぶらかす「まやかし」をしたたかに秘めており、日本を呪う怨言であっても日本語などではない。

おりしも我が国に土足で踏み込もうとしているTPPを称して「自由貿易」とよろこぶ世論をみれば、明治の「呪い」がいよいよ身を結ぼうとしているかに思える。


日本で「自由」と訳されたのは共に異なる起源を持ち、今はほぼ同じ意味で使われている liberty と freedom の二語である。Libertyが拘束や恐怖などからの開放を謳う「~からの自由」の意味合いが強いのに対しfreedom のほうは信仰や言論、恋愛など即ち「~への自由」に近い。ただし手続き上は両者とも地続きである。
「西洋哲学においての自由」の議論は書籍でもネット上でも腐るほど為されているため本稿では割愛するとして、freedomの語源に注目すればそれは「我儘放蕩」に辿り着く。異教徒の国を侵略し、宝物は持ち帰り放題。近代以前の暴君の姿そのものである。Libertyの語源は「制限されない」で、民衆や奴隷として生まれなかったことの自由をいう。フランス革命以前の西欧社会では自由とは貴族や裕福層にのみ許された「特権」であった。そもそも全ての人が享受し得る言葉などではないのである。すなわち搾取される側が「自由」を手に入れた場合、それはすでに「特権」としての価値から逸脱したことになる。

「自由」のための革命の顛末はいかに。色と欲とにまみれて異臭を放つ特権階級の「自由」を一時的に破壊したのみに留まり、時代が変われば新たな階層が新たな搾取をはじめたではないか。ウォール街のデモを眺めて溜め息がでるのは筆者だけではないはずである。



さて、幕末より昔のわが国に「自由」はあったのだろうか。

現存する最古の書物「日本書紀」にすでに「自由」の文字がある。おそらくは「後漢書」をとおして漢語から輸入したであろうそれによると、神武天皇の子であった手研耳命(たぎしのみみのみこと)が父の崩御をうけその腹違いの兄弟たちを手にかけようとしたが、異母弟の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)が手研耳を成敗し天皇に即位した(綏靖天皇)。
ここで、手研耳命の性格の記述が「威自由―いきおひほしきまま」とあり、それは明らかに傍若無人を意味している。

福沢らの啓蒙のお題目は日本を西欧と肩を並べ得る国にすることであったが、その手段に選んだのは西欧化そのもの、つまり西洋の思想、価値観をそのまま受け入れることであった。そのためには古代から幕末までの日本人が培ったすべてのものを過去の遺物かのように見せる必用があった。そこで何が何でも引き合いに出したかったのが絶対王政を打ち壊したfreedomとribarty であり、これを封建的な旧幕府体制の否定の道具に使う算段をした。そして古書をひっくり返して見つけたのが、この「自由」のふた文字だった。

「他人の妨を為すと為さゞるとの間にあり」
「学問のすゝめ」では「自由」と「我儘放蕩」の境目をこう記してある。

ところが「天の道理に基き人の情に従ひ他人の妨をなさずして達するべき」などというサラ金の広告まがいの注意書きが付いている。まことしやかに謳ってはいるが、人にそんなことが出来るなら警察も軍隊も法律も必要ないではないか、べらぼうを抜かすにも程がある。詭弁である。福沢らに続く改革派はだからこそ、「自由」をあたかも翼を手に入れたかのような輝く瞬間、それを共に享受する者たちと賛歌をうたい、恐怖や拘束から開放された喜びと安らぎを抱きしめる…と、学校教育と娯楽映画、そしてメディアを駆使して薔薇色に塗りたくったのだ。
しかしその実はどうだ、権力者の自由から解放され自由を勝ち取った民衆は自由の名のもとに富と力を手に入れた。障壁のない自由な世の中は流動する富と力をさらに加速させ、その激流に耐えうるものは増長し、そうでないものはかえりみられることもなく波間に漂う。そして叫ぶ。「我らに自由を!」
古代中国においての「自由」とて同様、漢字の成り立ちで一目瞭然である。「自」らが「由―よりどころ、わけ」を作り出してしまうのだから、今の世にはびこる自由などお里が知れている。



人は天の道理に常に拘束されている。水と空気のないところでは生きられず、子は親を選べない。そしてこうべを垂れて死を迎え入れるしかないのである。人とはもとより一時も自由などではないのだ。日本人は遠い昔からそれを知っていた。それに抗うことなく生きていた。浦島太郎は竜宮城を去り、竹取の翁は不老不死の薬を焼いた。



世に天の道理にそむき人の情を踏みにじり他国に妨げを為し続ける国がある。その国の御本尊は「自由の女神」と呼ばれている。

キライな日本語――養生なき「健康」

「健康」というこの言葉には日本語になじまない何かがある。日本語が日本の暮らしを綴る言葉であるという考えを以ってすれば、「健康」と日本人の間にそぐわぬ何かがありそうだ。
健康茶、健康蕎麦、健康味噌、何でもいいがおよそ食品に「健康」の文字がくっついただけでマズそうになる。食べ物に限らず「健康ランド」「健康ビジネス」「健康ショップ」と、健康の次にカタカナ語がつづくとチャチになる。まことに不可解なことばだ。


まずは語原。
易経に出典をもつ「健体康心」、健やかな体と康らかな心を意味する。もちろん、やまとことばに縁もゆかりもない外来語、いや、外国語だ。
今から三千年以上も前、孔子以前から存在した「易経」が明確に現れたのは漢の武帝のころであった。後の後漢の時代に詩、書、礼、春秋、など並び「五経」と呼ばれ儒教の基本経典となった。

我が日本には531年(継体帝)に百済の五経博士がそれを伝えたとされる。しかし「健体康心」の一節はとくに目を注がれることもなく、日本語として息を吹き返すまで千年以上待つこととなる。

「健康」にあたる古語はない。一番近いのが「まめ」だが、かなり新しい。遠い先祖たちは病気や禍のないことを「つつがなし」といったが健康とは違う。「健康」は日本でまだ日が浅いのだろうか。


古語「むくろ」は「ム(霊、身)」と 「クロ(殻)」からなり、「からだ」を意味する。
やまとことば(古代日本語)の語彙はすべて二音節の単純な動詞からはじまる。その動詞に語尾が一つ、時には複数くっついて別の動詞に、または形容詞に、名詞に変わって語彙が増えてゆく。この特徴は「膠着語」と分類され、朝鮮語、フィンランド語、テュルク(トルコ)語などが仲間だ。

「クル(繰る)」から「クルム(包む)」が生まれ、胡桃、栗、そして殻、蔵、倉がさらに生まれた。殻も蔵も何かを包み込む容器として考えられる。では「ムクロ(躯)」は何を包んでいたか、それは「タマ(霊)」に違いない。

「玉の緒よ 絶えなば絶えね 永らえば 忍ぶることのよはりもぞする」

霊(玉)をむくろに繋ぎとめているものを「玉の緒」といい、それが絶たれると霊がスルリと抜けてしまう。死を意味する。霊の抜けた体を「ナキガラ(亡骸)」といった。日本の祖先は人の体を霊の入れ物と捉えていたことが判る。

死は「穢れ」と恐れられた。病や事故、天変地異そして犯罪も「穢れ」に含まれる。「汚れ」との違いは「洗い」流せないところにあり、「忌み(祓い)」を行うことが求められた。夏のはじめに菖蒲の葉で屋根を葺いた小屋に大事な働き手である女たちを集め、日本人の恐れた季節、夏にそなえる「五月忌み」を行った。(この風習は紆余曲折あって「こどもの日」となった。)菖蒲の葉の持つ薬効を穢れを祓うものと解していたのだ。

わが国の医療の原点はここだった。

「穢れ」は「ケ(褻)」が「カレ(枯れ)」た状態である。ケとはハレを祝祭などの非日常としたときそれに対する日常をいう。つまり日常が枯れ豊かさを失ったさまをさす。病人や怪我人、災難を被った者、飢えた者、家族を失った者は日常を欠き心を乱し、躯が傷み、「穢れ」が進み死に至る。心と体をそれぞれ別のものと捉えながらも互いに強く影響を及ぼしていることをよく知っていた。。外的あるいは内的な要因が体調を崩す、そしてそれが進行し命を落とすことはかなり昔から認められていたことになる。しかしそれは今ではとうに忘れられ「穢れ」は差別を仄めかす言葉と化した。

そして人と国の間にも同じ絆を見出していた。薬効のある植物、塩や酒で患部を清め、罪人を咎め、地神海神を祀って赦しを請い、死者を墓に葬り「穢れ」を遠ざけた。政治を意味する「まつりごと」は「祀りごと」であった。


心が痛むと体が病む。その心を痛めるものとは禍々しい出来事すなわち「穢れ」である。そして、その穢れの中には「病」も存在する。「病」のみならず悪いことは輪を描いて立ち戻る。すべては循環する。


古代から中世へと時代が降るにつけ、世の中を握る貴人と呼ばれた人々の心は権力欲にとり憑かれ人を欺き陥れることに明け暮れた。その罪悪感にと末法の世に対する恐れが重なって生まれたものが「悪霊」である。天災や疫病、国の乱れの原因を「たたり」によるものとした。有名なのは菅原道真、讒言のすえ大宰府に配流され失意のうちに世を去るが、都の人々は寄せ来る災禍を道真の祟りと恐れ、神として祀ることでこれを鎮めんとした。そのほかにも仏教界は「鎮護国家」を名目にここぞとばかり寄進を募り寺院建立と勢力の拡大を図った。相次ぐ遷都、造営、戦乱に国は疲弊し、病み、さらなる国の乱れを引き起こした。

鎌倉時代以降、世は貴族から侍の手に移った。

「やあやあ遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、 我こそは…」

名乗りを上げて真っ向から戦うことを潔しとし、自ら太刀を振り、常に死と背中合わせに生きる武士が国の実権を握るようになると人心はようやく悪霊から開放された。また、家、国、民を守るために命をかけた武士たちは相次ぐ戦いに臨む強さを得るために粗食を旨とし体と心の鍛錬を怠らなかった。このような世の中でも百姓衆の間で猿楽や田楽が興りそれが能楽の礎となった事は、この国の底辺にいた人々でさえ食うや食わず以上の暮らしをしていたのを物語る。

そして戦乱は鎮まり、泰平の世が訪れた。執政者のみならず市井の人々までもが歴史の表舞台に立つ時代、江戸時代が幕を開けた。

江戸の中頃、朱子学者の貝原益軒によって体と心を養う術を綴った「養生訓」が著された。これは儒教の精神に基づいてはいるが漢文の書きくだしのような難解なものではない。庶民にもわかり実践できるようにと易しい文体で書かれていた。
「天寿というものは本来長く、人は気を損なうことで自ら命を縮める」
「内敵(欲と感情)、外敵(風・寒・暑・湿)を畏るべし」
「およそ人の楽しむべきこと三あり、善き行いを楽しみ、病なきを楽しみ、長寿を楽しむべし、富貴などはその内にあらず」

欲と感情の虜になって「気」をすり減らすと風・寒・暑・湿という外的要因によって体の機能が破られる。これを病という。「やまいは気から」の本当の意味はこれである。もともと「気」とは中国気孔術でいう血や体液、内分泌の通り道、さらには天地との関係を意味する。今の日本語の「気のせい」「気にするな」などにみられる「気」は漢語外来語を日本流に柔らかく解釈したものであるが、本来の意味を失ったわけではなく我々が見落としてもはや気づかなくなっているだけである。
時間のゆるす方はこの「養生訓」をぜひ読んでいただきたい。原文でもじゅうぶん理解できる傑著である。

幕末、蘭学者たちの間では「強壮」「壮健」「康健」などの言葉が使われだした。そして「健康」が日本語としてはじめて使われたのは高野長英の著した「漢洋内景説」(1836年)、続いて緒方洪庵による「病学通論」(1849年)であるという。洪庵のほうがより積極的にこの語を使用したことが著書から伺われることから「健康」の親は洪庵であろうという見方がある(北澤一利『「健康」の日本史』 平凡社新書)。
緒方洪庵は漢学をも修め、造語にも秀でた才をもっていた。。易経などにも通じていたと想像できる。

一般の日本人に「健康」なるものを広く知らしめたのは洪庵の門人、福沢諭吉であった。英語healthの対訳に「健康」を適用、「学問のすゝめ」をはじめとする著書のなかでたびたび使用し、国民に「健康」を啓蒙した。
しかし健体康心を語原にもつ割にはあくまで生理的、物理的な正常さを説くにとどまり「心」の方はあまりにもおろそかにされた。日本人の体格を西洋人のそれと比較し遅れていると見なし、追いつき追い越さんと強壮を謳い、一方では兵力と労働力を強化するために子供を生み増やす事を奨励した。 

北澤氏は福沢の「健康」に対する理念が富国強兵政策の道具にされ残念だ、と嘆いているが、逆である。たしかに国民を鼓舞して世論を新政府の意向にそぐわせたのは明六社、そして福沢諭吉らであった。が、新政府の政策を西欧列強に追随せしめたのもまた明六社を筆頭とする啓蒙家たちであったことを忘れてはならない。この売国行為の末、先祖の教えを軽んじ、あめつちとの関わりを絶った日本は内側から綻び、病んでいった。

いま、戦力はあまつさえ労働力もあまり必要でなくなった。機械が働くか、輸入する。すると「健康」は政府の手を離れ市場の道具と化した。不要で過剰な医療によって大金が動きそのぶん体は痛めつけられ、抗菌・滅菌商法はさらなる疾患の元となった。そして「健康商品」「健康食品」にすがるが如く投資する。わざわざ「心の健康」なる言い回しをせねばならないのは「健康」がそもそも物質であることを意味している。



「健康」などはまさにカネで売買するものでしかない。国をも売り買いする輩が生み出した言葉にふさわしい。



「健康」は商売になっても養生ビジネスなどは成立しないのだ。養生とともに本当に必要な医療とは、感染症から弱者を守り、難産から母子を救い、怪我人に迅速な手当てを施すことだ。みなが「養生訓」を実践したのでは今の医療の殆んどは要らなくなってしまう。そして医者の多くが路頭に迷うことになる。そんな世の中が来ることを願う。

人ひとりがつつがなく楽しく生きるためには、その入れ物である国が病んでいてはならない。同じく、けがれなき国をつくるにはそのあるじたる一人ひとりが善い生き方をせねばならない。つつがない、けがれない暮らしを喜び、そうあるために努めるのが国をつくることに繋がる。殆どの病は備えを怠り欲に負けた自らが引き起こす。国難もしかり、国民が行いを正すことで救うことができる。

もし、息子たちが医者になりたいなどと言い出したら、
「食べていかれないから よせ」
と諭すつもりである。

キライなことば――「平和」という生簀

「平和」がキライなどと書くと誤解を生みやすい。しかしあくまで言葉の響きに欺かれないよう勤めているだけでテロや戦争に加担しているわけではない。

「平和ボケ」をはじめて耳にしたのはたしか浪人時代に別れを告げた頃だったと思う。ちと怪しげな記憶だが、当時「マルコポーロ」という国際政治を扱った雑誌が創刊され――平和ボケした日本に喝をいれる――と、その宣伝文句に謳われていたのが最初だったのではなかろうか。
成人してはいたがまだ頭が子供だった筆者はこの文句に怒りを覚えたものだ。確かに平和な世の中だった。戦争を放棄し治安もよく国民の権利もしっかりと保障された国に住んでいた。が、この平和な国は無償で築かれたのではない。先人たちの血の滲む貢献によって成されたもの、そうして手に入れた「平和」に「ボケ」をくっつけて軽んずるとは何事か、この雑誌は人々の攻撃心を煽って平和を享受できる有難みを忘れさせようとする愚かなものに見えたのだ。

しかしである。

平和と言えない世界の中で日本はなぜか戦火に曝されることなく安穏としていられた。国民すべてが衣食足りて余暇を楽しむことができた。有難い事には違いないが、そのからくりまで考えが及ばなかったのだ。

戦後の日本は荒波に揉まれることなく生簀で泳ぐ魚の如く丸々と太っていった。いや、太らされたというべきだ。日本人の努力が工業製品の水準を世界一に押し上げた。地下資源に乏しい我が国は原料を外から買い入れ製品類を生産しそれを売るという加工貿易によって富を築いた。
しかしこの世は努力だけでは動かない。むしろそうでないことのほうが多いのだ。この成功は仮にアメリカの保護がなければ有り得なかった。日本を敢えて「生簀の魚」と比喩したのにはその背景を踏まえたからこそである。言いたくもないが、生簀の魚は食われるために在るのだ。では、誰が食うのか。言うまでもないが、飼い主が食い散らかすのだ。

「核の傘」の下、「貿易摩擦」という有名無実な問題をよそに、アメリカという上得意を得た日本の経済はぬくぬくと成長を続けた。懐が暖かくなるにつれ作るよりも外から買うことに慣れていった。野菜や食肉にとどまらず米をも輸入するようになり人々は農地を後にした。都市は人で溢れかえり地価の高騰をまねいた。そしてそれは「職」と「住」を完全に切り離し、父親を家から奪った。親たち以上の生活を求めるがため子供たちは受験という制度の奴隷にされた。受験から解放されたとたんに若者は遊興に溺れ流行に振り回される。
どの家庭にも必ずある、流行、世論、時事のすべてを発信する四角い箱がある。人々は朝起きると、外から帰ると、夜寝る前にまずこの箱にご機嫌を伺う。ひと昔まえの日本人が朝な夕な神棚に一礼していたのとまさに同じ感覚だ。この箱の宣ふ有難き言葉は疑うべきもなく、疑うような罰当たりは相手にしてはいけない。
人々はこのテレビという名の四角い箱の言を信じるがあまり自らの頭で考えることを控えるようになった。己れの心で思うことを避けるようになった。その肌で感じる事を忘れた。もう世の中でどんな歪みが生じても、欺かれても気づきさえしなくなった。

これが、我々の得た「平和」の正体だった。


「平和」は、明治新政府がラテン語のPax(英語のPeace)の対訳に適当な日本語として採用した、古くからある漢語「和平(平らげて和やかにする)」を倒置し「平らげられて和やかな状態」という意味を持たせた造語である。世界史でPax Romanaを「ローマの平和」と習うが、ちゃんと書けば「ローマ帝政の支配にもとづく平和」であり、冷戦期のPax Americanaなどは「アメリカの覇権(脅威)による平和」だ。
ならば「平和」には必ず支配者が要るということになる。これで「平和」が急に嫌なことばに見えてくるのは筆者だけではないはずだ。
耳障りな「支配」ということばを「統治」「制御」「執政」「管理」などと言い換えたところで何も変わりはしない。平和を保つには支配者が必要である。しかし支配される側の人間は支配者を選べないのである。歪みの根はこれなり。

「平和」にあたる語句を日本の祖先が話した「やまとことば」のなかに見出す。
同意とは言い難いが「やす」がそれを包括するだろう。休む、癒す、治す、などの動詞の原型が「やす」である。
漢字をあてると、安、泰、康、保、易、寧、靖、恭、などがある。それぞれ少しずつ違いをもつが大意はおなじくして「争いや病や波風のないさま」である。
「やす」は、天と人と地の間で保たれる均衡とでもいうべき崇高な言葉で、戦火で焼き尽くし軍靴で平らげた「平和」とはそもそも格が違う。

話を平和ボケに戻す。まず「平和」にたいする幻想を捨てなければならない。戦争よりはマシだがそれ程きれいなものではない。平和を誰がどう設計したか見極めないうちは真に良い国は築けないのだ。
そとの海で生きる術など知る必要もない、飼い主のくれる餌をほおばり、外敵の存在もしらない、まな板の上でさばかれていてもまだ気がつかない、生簀の魚のような生きざまを平和ボケという。

魚ならず人であれば若いうちにもっと外を見て歩くべきだ。テレビを消して、新聞や雑誌も捨ててはどうか。遊びのための小遣いを旅にあててはどうか。そしてその目で確かめて欲しい。

共産主義国に貧富の差はないのか
殖民支配を受けた国に水路や学校や病院があるのか
韓国併合は西欧の入植とどんな違いがあったのか
紙幣は何のために作られたのか
隣の国の市民を白リン弾で殺戮しても国連から「遺憾です」と言われただけの国の人の血は何色をしているのか
東京タワーはなぜ333mなのか
寿司が回転しなければ地球は回らないのか
紳士の国の博物館は盗品だらけなのになぜ木戸銭をとるのか
機械部品一つまともに作れない、ろくに働く気もない国の経済がなんで世界第一位なのか
世界の警察を気取る国の裏路地はなぜゴミと死体だらけなのか

ロケット弾をぶっ放しながら「平和」を叫ぶ気違い国家の若者の目はどんな色をしているか

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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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