日本人の国

原発再稼動に反対する首相官邸前の抗議集会の中継、おなじく大飯町からの中継を見ながら思ったこと、そして脱原発について思うことを書いてみたい。

日本では、反原発を唱えるものは「左翼」の烙印を押されるのが常であった。戦前・戦後を通しての「赤狩り」の恐怖を知るもの、学生運動に加わっることで出世の道が閉ざされる悪夢を知るものには左翼と呼ばれたくない気持ちから「反原発」を遠巻きに見る習慣があった。その時代から遠ざかった今もなおその記憶は消えていないようだ。

いま、日本から原発をなくしたいと真に願う者たちの志しは主義やイデオロギーなどという手製の偶像とは比較にならない。子供たちと、彼らががこの先も生きていくこの国を守らなければならないという必死の思いから湧き出るものだ。
中継画像の横に表示されていたコメントには「革命」「闘争」などの文字で冷かすものが目立った。デモ参加者のなかにも左翼集会と印象づけようとでもしたのかチェ・ゲバラの肖像のブラカードを持ったものが数名放たれていたようだ。何が何でも脱原発をイデオロギー闘争の一種として葬りたいらしい。

しかし「反原発」自体は左翼思想ではない。社会共産主義の元締めだった国は現に原発だらけである。

「右翼」または「保守」の方々は何をおっしゃっているか。相変わらず「放射能ハ愛国者ニ害ナシ」だの「原発ヲ以テ核武装ノ道トス」だのほざいておられる。こういう仕方の無い人たちは別として、残念なのは反TPPの論客であり極めて鋭利な意見の持ち主であるN氏やM氏が原発を肯定的に見ていることである。一方が官僚出身であったり、もう一方がかつて自民党から立候補したという経緯から原発を批判できないのだろうか。

○○主義、○○党、という看板が邪魔をして言いたいことが言えなくなるのか、逆に看板でも背負っていないことには物が言えないのか、どちらにしろまことにお寒い話である。
ではなぜ反原発だと左翼になるのか。何のことは無い、自民党が原発を作ったからだ。

原発の制御は電気仕掛けである。いざ電源が確保できなくなったという時に人力で制御できないのであればもとより制御不能を意味する。
「かわいそうなそう」を思い出してしまった。第二次大戦の戦況が悪化する中、空襲で動物園の檻が壊れて猛獣が逃げ出す危険を防ぐために軍が殺処分を命令、動物園はそれに逆らえるはずも無く動物たちを殺してしまう。東京の真ん中に猛獣を連れてきたという誤り、檻に入れておけば制御できるという理屈の誤り、そして戦争という誤りから生まれた悲しい話である。
しかし今、フクシマで制御に困っているのは象などではない。朽ちかけた檻の中で牙を剝いているのは手負いの核燃料、そしてさらにそれを脅かすのは敵国ではなくいつ起こるかも分からない天災である。
国民の命を守らなければならないはずの政府はこの猛獣を処分する気など毛ほども無く逆にまだまだ増やそうとしている。あろうことかこんな連中に政権を与えてしまったのは国民だった。

今の政権を握る政党は、それ以前の政権政党に嫌気がさしそれを敵視するようになった国民が「敵の敵は味方」の理論に従い捧げた票で政権を獲ったに過ぎない。これは明らかに有権者たちの誤りであるが、その根底には有権者たちがいかに正しい判断をしたところでそれは決して政治に反映されないという枠組みが出来上がっているという現実がある。
政党とは政治に対し同じ志しを持つもの同士が集まり作るものである。しかし、「政権を獲れる政党」に政治家たちが蝿のようにたかるだけの政党にはもとより志しなどあるはずも無い。そのような者たち、そのような政党を寄せ集めた政党政治など所詮お里が知れている。
政治家たちが全身全霊をもって取り組む業務は選挙のみであろう。選挙の資金を集めるために支援者と語らい、企業に便宜を図り、宗教団体にへつらう。そうこうしているうちに解散、また選挙である。大事な取り決めや調整は我々が選んだ覚えの無い官僚たちが行う。「参政権」の名の下に我々が投じている票は政治には掠りもしないところでグルグルと回っているに過ぎない。
では実際に政治に参加している国民はどこかにいるのだろうか。官僚と呼ばれる人間たちがそうなのであろうか。否、官僚とは分類学上、日本国籍を有する人間に属してはいるが、人間として職務に従事しているわけでなく省内で構築された独自の規律に従い機械の如く仕事を処理するのみ、人としての感情、人としての思考はすでに封じ込めてられているため彼らは「国民」の定義の外にある。つまり日本には政治に携わる「人」がどこにもいない。

このような無人政府から、人心が離れぬはずがあろうか。

筆者が小学生のころ、我が一家は東大の赤門前に棲んでいた。(赤門前の和菓子屋の裏に借家していたのであって路上生活ではない。)前田藩の江戸上屋敷の旧跡である朱塗りの可憐な門。その前にはいつも「闘争」「決起せよ」とかかれた小汚い立て看板が不似合いに置かれていた。子供心に変に思いながらも「頭のいい人たちのやることだから、いい事なのだろう」ぐらいに考えていた。その周辺の電柱には「北方領土を返還せよ」、「愛国反共」とかかれた紙がベタベタ張られていた。「ああ、赤門の前に看板を立てたひとはこの赤尾っていうおじさんかぁ」と勝手に納得したものだった。

当時から多少変わり者だった筆者は学校などで多数決に場面になるといつも損をしていた。そしてそれが「民主主義」だと教わった。で、あるから、民主主義とは少数意見を踏みにじるための方便だということに早くから気がついていた。民主主義などは数の勝負である。中身はともかく数の大きいほうが物をいう、力の強い物が勝つ。少数派は不良品と見なされる。選挙のみならず学校や企業その他あらゆる組織において人を数字でしか評価できない仕組みになっている。この民主主義を支えているのが双子の兄弟の「資本主義」である。こちらのほうはまさに数字、いやカネでしかない。

資本主義は常に拡大することが要される。十九世紀、資本主義帝国がその版図を広げるうちに日本の国も飲み込まれた。
より拡大、より増強するために必要な道具、それは「敵」である。「共産主義」という敵を自ら創意工夫し作り上げた。資本と共産の敵対は世界を東西に割り長きに渡って多くの争いを引き起こした。この長い争いで生まれたのは莫大な資本である。そして他の負の遺産は書けばきりが無い。優れた研究者、識者の知能がこのふざけた争いに注ぎ込まれたこと、殺戮や搾取に反対する良心を正体の無い正義に摩り替えられたこと、カネにふり回されるだけの人生に慣らされたこと、それらは冷戦が終わったとされる今もなお続けられこの世をどこまでも貶める。

その政治指針同様にコロコロと名前を変えつつ最後に落ち着いた民主党の党名は、数の理論で横車を引きそのために数を膨らませる努力はするものの中身は吟味することの無い「民主主義」から採ったのであれば上出来である。名は体を表す。

国の象徴として政権の座に居てもいい。だが何もするな。



集会の中継につけられたコメントも中傷めいたものだけでは無かった。惜しみない賛辞や共鳴の声も多かった。筆者もおなじく、この行動に参加された方々に大きな敬意とともに感謝を表したい。ただ、中近東に身を置く者として言わせてほしい、「アラブの春」にこれを重ね合わせて評価することだけは忌避してほしい。

欧米の石油乞食どもが過去に作った傀儡政権を一新し立て直すための茶番、それがアラブの春である。それに使われたのがフェイスブックとツイッターだった。我々はこの二つを「ソーシャルメディア」と呼びすでに正体の知れた新聞やテレビなどに対抗する新しい情報媒体として歓迎している。一方的な情報受信者でしかなかった我々が同時に発信者となれるかつて無い新しい構造に期待がかけられている。しかしこの媒体の基盤たる「電網」には持ち主がおり、それは誰なのかといえば我々を騙し続けてきた既存のメディアのそれと変わらないのである。そして民衆を扇動するための新たな道具としてこれらソーシャルメディアをを開発したのは世界を牛耳る大国の軍部であったことを忘れてはならない。「敵の敵は味方」、オセロでもない限りこの幼稚な理論は役に立たない。既存のメディアに嫌気がさしたことを理由に新しいものに迎合しきるのは危険すぎる。便利さに骨を抜かれ手足を縛られたその時に、ソーシャルメディアは仮面を脱ぎ捨て我々に襲いかかる事を予期していなければならない。

日本、そして次世代を守ろうと立ち上がる同胞(はらから)たち、これからどんな日本をつくろうか、舵取りをどう行うのか決めるのはあなた達だ。外の国に押し付けられた安物の主義主張は原子炉の中にでも投げ捨ててほしい。そして外の国と競い合うことを忘れてはどうか。外を眺めて追いかけるのではなく、かつての日本人がそうしてきたように、ただひたすらに内を磨いてはどうか。日本人の国は日本人にしか作れないのだから。
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東電倒産

70年に東京で生まれた筆者はフクシマの原発電気に浸かって育ったことになる。実際に被害に遭うどころか日本にすらいなかった筆者にとって、その居たたまれなさは容易には書ききれない。

「大震災」から、そして「大人災」から一年経ってしまった。亡くなられた方々のご冥福を、残された方々が少しでも早く心安らかな日々を取り戻すことができることを、心からお祈りいたします。


原発は直ちになくさなくてはいけない。そして事故を起こし、対処の機を逃し、隠し、被害を最大級にまで拡大した東電を、なおも責任を認めない東電をこの世からなくさなければならない。

産業界と政界の特殊な関係と、世界の原子力産業界の権力が東電を守っている。だから原発が存在している限りは東電は倒せない。逆も真なり、東電が生きている限り原発は電気を作り続ける。

恐ろしく遠回りになるが、世界中が原子力から足を洗うのが正しい手順だろう。それに先行するのが代替エネルギーの「実用化」「普及」である。それの「開発」はもうだいぶ進んでいるのだろうが、原子力産業界とその息がかかった各国政府が実用化を必死に阻んでいる。脱原子力を旨とする技術研究をしようものなら大変な目に遭うのである。論文はこき下ろされ、大学の研究室には研究費が下りない。「と」と呼ばれ学会から阻害される。それどころか脅迫、誘拐、醜聞、処刑、何をされてもおかしくない。脱原子力のみならず心ある研究者は必ずこうした憂き目に遭う。

この世で「カネが欲しい」と思うのはのは人間だけである。カネを媒体とした社会に住む人間だからこそ喉から手が出るほどカネが欲しい。しかし人間以外にカネなど必要ない。私腹を肥やすために生きているのはせいぜいケチな政治家や官僚までで、上で述べた原発産業界や世界金融の頂上に巣食う面々にとってカネなどはただの印刷物に過ぎず、あってもなくても良い。なくなればいくらでも刷ればいいし、たまに退屈しのぎに騙し取ればいい。


つまり、彼らはとうに人間から脱している。


彼らの目的はこうである。人々を賭け事や投資に溺れさせ、快楽を売り買いさせ、医療はもとより学歴も結婚も育児も老後もすべて商品にされた。美辞麗句で飾り立てられたその商品に刺激された欲望は人を喰う。これだけの産業が、資源が、物質が動いていても誰一人満足できない、そして奪い合う。彼らの目的はカネを道具に人間を狂わせることにある。欲望を追いかけて人と人が、国と国が喰いあうさまを眺めることにある。そして時折その汚い手の内をわざと垣間見せ、気付いて刃向かう者があれば虫けらのように踏み殺すことで悦に入る。それを見せ付けられた人間は無力を感じて諦め口を閉じるか、喰い合いの獣道に戻ってしまう。彼らは我々とは違う生き物であるからして我々の思考の外にあって当然、だから彼らの大義名分が掴みきれないのである。


話を東電にもどせば――
政府の庇護下にある東電を法的に締め上げることは徒労である。何かのはずみで政府が東電を見放し解体されることがあったとしても頭部をすげ替えただけの「第二東電」が現れるのは必定、時間と労力の無駄に終わる。

つまり「東電」は掴みどころのない像のようなもので、消しても消しても幾らでも代わりが現れ実体を潰さない限り終わらないのである。無論ほかの電力会社も同様、さらに言えば、医療の世界、教育の世界、マスコミ、流通、凡そ思い浮かぶもののほとんどが実体を同じくする立体映像だと考えていい。そしてその実態とは「人間を脱した者」と冒頭で記したものである。
これはこの一年で我が国でもよく知られるものとなった「陰謀論」のさわりである。「世界政府」という影の存在が人類を操縦するための申し合わせがもとよりあって、戦争、紛争、イデオロギー、伝染病、ひいては自然災害までもがその筋書きに沿って「起こされて」いるという、世界の人口を減らし自分たちとその「奴隷」だけが生き残るよう仕向けているという普通に暮らしてきた善良な人間にはにわかには受け入れ難い論である。

テレビが世論の舵を握っているがため、この陰謀論が国民の関心をひきつけ大きく議論されることはこの先もないだろう。北野武氏の番組などで取り上げられたりもするがそれは事の陳腐化を狙う「冷やかし」にも見えるし、「仄めかし」ともとれる。どの国でもテレビは世界政府の使い走りである。
逆にネット上では歴史の中に埋もれた事実を結果論的に立証し、西欧社会主導の陰謀を白日の下に曝す作業が高い次元で行われている。
だが、「陰謀論者」の皆様にぜひ申し上げたい。世に言う「陰謀論」とは陰謀を行う者の側に立って陰謀の手法を説きその成功例を列記するところで膠着してしまっている。我々を無力感に陥れる危険な言論の域に入り込んでいる。これでは陰謀の後押しである。世界政府の途方もなく邪悪な陰謀は事実だろう、その上で我々に何が必要なのかを探してゆく議論へと早く昇華させて欲しい。



「東電」、いやその実体たるものに対し無力感に陥る前に、我々のやるべきことはいくらでもある。これ以上彼らを喜ばせぬよう彼らが望む世界の逆をいくのがよい。


まずはむやみに電気を使わないことである。


電気がないとどうなるか。エレベーターがとまる。電車がとまる。会社にいけない、行っても仕事にならない。冷凍食品が解ける。冷房がとまる。回転寿司が回らない。便座が冷たい。パチンコがフィーバーしない。もはやこの世の終わりか?いや、まだある。工場生産は停止する。商店から商品がなくなる。給水所のポンプがとまり水が出ない。冷凍ピザを調理しようにも電子レンジが使えない。仕方がないので宅配ピザをたのもうと思ったが電話の充電が切れた。もう生きてゆけないのだろうか。


人を殺すにゃ刃物はいらぬ、三日電気をとめりゃいい。こんな世間に誰がした。


「電気使い放題」を前提にこの社会を作り上げてしまったのが失敗なのである。我々は何を根拠にそれを信じているのか、誰がそんなことを言い出して、誰が責任を取ってくれるというのか。

建物を高層にするからエレベーターが要る。家が職場から遠いから毎日電車に乗る。これは都市に無理やり集中しようとするからである。「都市集中は経済効率を良くする」という常識に騙されずに、散ればよい。

なぜなら。「経済」のごくごく僅かを除いた全部は「無駄」なのである。家庭から、都市から出るゴミの山がそれを物語る。すし詰めの電車で通勤し、汗水たらして企画・生産したもののごく近い将来はゴミであり、残飯であり、産業廃棄物であり、使用済み核燃料である。

建設業者たちの推奨する建物を建てなければよい。都市型の住まいは落とし穴が多い。コンクリートの建物は気密性が高すぎるため電気的に空調・換気せずには居られたものではなく、断熱性の低さは化学物質での断熱を余儀なくしている。体に悪いのである。建築基準法にもとづき構造計算された耐震性のあるコンクリート造建築は、建てるのも壊すのも莫大なカネがかかる。そして後に残るのは、産廃の山と業者の笑顔である。そしてフクシマの瓦礫…。

冷たい便座に座りたくなければ「洋式」をもてはやすのを止めればよい。日本人の足腰が弱くなったのはこの「洋式」のせいである。

テレビを見なければよい。この世にありもしない、他人を虐げることで初めて手に入るようなものばかりを欲しがるように食べたがるように見せて誘うからである。そうして誘われた子供たちの要望にこたえ続けるため毎日の食卓を皿で埋め尽くす必要などないのである。親の負担の半分は残飯となるか肥満となる。職を持つ母親は冷凍食品やレトルトの助けを借りたくなる。電子レンジで調理して節約した時間は余暇を楽しむことに回せる、それは明日の活力をもたらすだろう。ただしその活力は電気料金を支払うことで相殺される。子供たちが将来「我が家の味」と思い出すのは冷凍ピザかもしれない。


事は電気に限らない。「電気使い放題」の後ろには資源の押し売りがある。「売る側」が更なる無駄使いを煽るのは当然である。電力の援護により程度の低い石油製品は大量に作られ、買われ、棄てられる。土には還らない。太古の植物や微生物の屍骸が永い眠りを経て石油と変わり、遥か遠く中東から長い旅をしてきたそれは、子供だましの雑貨になり三日と待たずにゴミになる。石油が湧いて出る国の子供たちがその利権争いのために血を流していることを判っていただきたい。爆撃機も戦車も石油で動く。

過剰包装、過剰梱包、時間短縮、便利、使い捨て、これら「使い捨て経済」の上に成り立つ企業は自らの戦士たちをも使い捨てにするようになった。人を都市に集中させる磁力であった「職」にもはやその力はない。ならば人は自力で都市にしがみつかねばならない。できるのか。


電気がする仕事、それはものを持ち上げたり早く動かしたりすること、ものの温度を変えること、文字や音や像を信号として送ることである。人間がやっていたのでは骨が折れる仕事を電力でまかなうのである。

電気を人が作ってみるとどうなるか。
自転車をこいで一時間に発電できる電力量を平均70whとする。
その70whでいったい何が出来るか。60wの電球を一時間と十分点灯できる。
五時間こぎ続けると、一回洗濯ができる。風呂を一回沸かすには84時間こぎ続ける勘定になる。

その程度である。電気とは素晴らしいものなのか、空しいものなのか。

どのみちむやみに使ってはいけない。電気大量使用の前提を覆さなくてはならない。電気を使い出してたかだか百年、使い方が拙かったのである。反省し、道を正す。これも人間にしかできないことだ。冒頭の「陰謀論」の真偽に関わらず我々のとるべき道は変わらないはずだ。



トカゲの尻尾きりであろうと尻尾は尻尾で裁きにかけねばならない。東電が政府の気まぐれで倒産させられた暁には社長を始め重役、そして大株主である東京都の知事も逮捕し刑に処さねばならない。その場合、普通の刑罰では償いきれないので発電刑がよい。それぞれに1万kw程度の実刑を与え、発電しきるまで塀の中で自転車をこぎ続ければよい。


放射能は人の思考を止めるのか

ただの気違いを除いて放射能が安全だなど本気で考えてる人はいないと思う。
放射能が体にどのような影響をあたえるかは例え漠然とでも皆しっている。
家族が、自らが癌を患ったり、わが子が障害を抱えて生まれてきたり、病に鞭を打って働いてもその稼ぎがすべて治療に消えたり、そしてそのすべてを背負うことになるのを一体、どこの誰が望むというのだろう。

東日本大震災以来、いや原発事故以来、日本の家族や友人としばしば意見を交換したりネット上で世論を覗いてみたりするようになった。その限りでは、どうやら日本では放射能の話しを敬遠、あるいは拒絶しているかのように見える。
「お耳障りかとは思いますが」などと前置きをして友人達にメールを送り原発や日本のこの後の事を対話しようと試みた。事故当初は「かまって」貰えたが、秋以降はさっぱりである。目にはさやかに見えぬ放射能よりも目前の不景気の方が敵として認識しやすいのだろうか。


放射線について考えてみよう
文部科学省が小学生向けに作成した放射線に関する教材である。地方によってはこれによる授業がすでに始まっている。

小学生を相手に、放射能が恐れるに足りないものであるということを解りやすく強調している。
「こういう指針で教材を作れ」というお達しが政府から文科省官僚に、官僚から下っ端どもに出されるのであろう、その「指針」がたとえどういったものであろうと関係ない。忠実に、忠実に作成されてしまう。省庁とはそういう環境なのか、そこで勤務するためには人としての判断力も良心も売り渡さねばならない。いや、そこに入省するべく幼いころから努力された方々には売り渡す判断力すら備わらなかったと言って差し支えなかろう。


放射線って、何だろう?

放射線は、太陽や蛍光灯から出ている光のようなものです。
薄い花びらを明るいところでかざして見ると、花びらが透けて光が見えます。これは、薄い花びらを光が通り抜けるからです。
光と放射線の違いは、放射線が光より「もの」を通り抜ける働きが強いことです。
放射線は、色々なところから出ています。放射線がどのようなところから出ているか調べてみよう。


                                                   (放射線について考えてみよう より抜粋)

放射線が我々の体を通り抜けると害があることは書かれていない。それに我々は「もの」ではない。放射線が何処から出ているか知りたければ教えてやろう、福島第一原発だ。


放射線は、どのように使われているの?

放射線を使って、細菌の付いていないきれいなものにすることができることから、病院で使う注射器などに利用されています。
これは、放射線に「細菌を退治する働き」があるからです。
放射線は、色々なことに利用されています。放射線がどのように利用されているか調べてみよう。
                                                                (同ページより抜粋)


われわれは発芽せぬよう放射線で去勢したジャガイモを食べさせられている。体内の細菌も、細胞、組織、臓器、人間、すべて退治できる。その力を利用した最たるものが核兵器である。


日本の政府は徹底的におかしいのだが、そこだけを批判する気になれない。なぜなら政府は国家の縮図であるからだ。(選挙によって国民が選んだのだからという意味ではない。)
電気漬けの生活を求めているのは紛れもなく大多数の国民である。家庭での使用のみではない。電気をはじめとする資源の過剰な使用の上に成り立つような社会を作り上げてしまったのも国民である。人件費を削るための機械化、生産費を下げるための大量生産、流通をうながす過剰広告、過剰包装、画一規格、そのための流行、そのための使い捨て、そのためのゴミの山、そして原発…すべては国民が望んで受け入れたものである。残念ながらこの国民にしてこの政府がある。

「原発」が日本経済の心の臓だという大前提があり、それが事実であるかどうかとは別に大多数がそれを信じる上で、日本人は原発がなくなることによって今日までに築き上げた社会が瓦解することを恐れている。戦後の焼け野原を裸足で歩いていた日本人はものを作り外に売ることをしながら富を得た。石油のない我が国が外に頼らず工業製品をつくり続けるには原発が一番都合がいいと思った。
原発がなくなれば、それを舞台に繰り広げられる今の産業、流通、経済すべてが「幕」になる。困る。生きる指針をすべてここに向けていたのだ。学歴、職業、地位、結婚相手、子供の教育、住まい、投資、老後…人生設計の根幹であるこの価値観を打ち砕かれたのではいまさら何をよすがに生きてゆけばよいのかわからなくなる。                                            


だから、穢い廃棄物が残ろうと酷い事故が起ころうと原発を「必要悪」と思い込もうとしている。
さして原発を推進したいわけではないが脱原発には背を向ける。それが日本の胸の内、違うか。


放射線を出すものって、なんだろう?

「放射線を出すもの」は、放射性物質と呼ばれ、植物や岩石など自然のものに含まれています。
放射性物質を電球に例えると、放射線は光になります。
放射性物質は、放射線を出して別のものに変わる性質をもっています。
元の放射性物質は、時間がたつにつれて減っていき、その減り方は、放射性物質の種類によって違います。
始めに1000個ある放射性物質が4か月で半分の500個になる場合、1年たつと始めにあった放射性物質は何個になるか考えてみよう。
                                                                 (同ページより抜粋)


電気店で売っている電球に家庭で電気を流すと発熱、発光する。一方、天然の放射性物質に中性子を工業的にぶつけた時に核分裂をおこしてこれも発熱、発光する。ただし放射性物質は電気店では間違っても売っていないし家庭で核分裂をおこしたら間違いなく死ぬ。次元の違いすぎる例をあげて子供を騙すのは正しくない。そして半減期が二万年の放射線物質があるという大問題をよそに四ヶ月という例を出している。この教え方はサラ金の利用規約を思い出させる。


放射線を受けると、どうなるの?

放射線の利用が広まる中、たくさんの放射線を受けてやけどを負うなどの事故が起きています。また、1945年8月には広島と長崎に原子爆弾(原爆)が落とされ、多くの方々が放射線の影響を受けています。
                                                                 (同ページより抜粋)


やけどで済むのか、原爆の影響がどういうものか知らないとは言わせない。言わせてはならない。


放射線は、どうやって測るの?

学校内の色々な場所を測定器を使って測ってみると、場所によって放射線の量が違うことが分かります。
例えば、学校の教室や体育館などで測った放射線の量に比べ、石碑の周りで測ると高くなることがあります。これは、石碑の中に放射性物質が多く含まれているからです。                                        
                                                                 (同ページより抜粋)
    
    

例えば原発が爆発を起こし空から放射線を帯びたものが降ってくれば教室や体育館の中より校庭の放射線量が高くなるだろう。わざわざ石碑を指し示して「放射線源はあくまで石碑の御影石に含まれるジルコン」と言い張るのは問題をそちらに追いやろうとしているからである。

このような文書を教材として作る側の者とはどのような人たちだろうか、それは日本の最高学府、あるいはその亜流で学んだ輩で、そこに辿り着くまでには幼い頃から「調教」を受けて育った。出題者の望む答えを「選択」出来るようになるための訓練を受けたのである。そこでは考える力など必要なく、逆に求められるのは瞬発力のようなもの、つまり出題者の意図を瞬時に汲みその答えを選択する力である。思考の方向性を一方に撫で付けられる。出題者と同じ思考に染まる。それが正解を出す近道だからである。もはやそうなれば出題者の望んだ答えが正しかろうと大嘘であろうと構わない、いや判断できない。冒頭でも述べたがそれを判断する能力が備わらないのは、こういった教育の賜物である。

この出題者とはそれほど特別な人たちかといえばそうでもなく、上で述べたような瞬発力を鍛え、それを得点という数値でより高く評価されたという違いがあるだけである。日本人みなが同じ道を通ってきた。かつて我々も、そして子供達がいま同じ訓練をされている。その中の一握りが官僚や学者に昇りつめ出題する側に立ち、そうでないものたちは自らを「負け組」などと称する。好きにすればよい。


放射線から身を守るには?

放射性物質が決められた量より多く入ったりした水や食べ物をとらないように気を付けたりするなど対策を取ることが大切です。
                                                                (同ページより抜粋)



原発を作り事故を起こしその収拾がつけられないうちに尚も原発を作ろうとする側の人たちによって決められた量など信用してはいけない。いけないが、信じたがる。
信じることで「経済大国日本」を継続できると思いたいからだ。人の思考を止めているのは放射能なのか、何なのか。


脱原発の是非を東京都民投票に問うための署名が行われ、その活動をされた方々は大変なご苦労をされたという。寒さとそれ以上に冷たい都民の態度に耐えて集めた署名は、石原慎太郎(敬称不要)によって積極的に無視されようとしている。

ブログ どくだみ荘日乗 『原発都民投票』

得点が足りず上級職につかなかった者でも思考は同じ方向へと流れるだろう。その流れに逆らう者を気味の悪い存在と捉え、攻撃せずとも無視を決め込む。



たとえば現代国語や英語の試験で自ら考えて解釈し回答すれば得点も成績も素晴らしく下がる。出題者の評価不能な回答は邪魔なだけで、早くねじ伏せておかないと自分の足場が危うくなるからである。理科や数学は一見そうはみえにくいが所詮は同じ、出題者の求める解析法を強いられている。ピラミッドの高さは三角関数などを用いなくても影と実体の長さの比を使うことで測れる。円の中心も角の三等分も紙切れを折ることで求められる。ピタゴラスやアルキメデスにいちいち証明をお願いする義理などない。

「君、数学のセンスはあるけど得点はとれないから安心しろ」
中学生だった筆者が数学の先生に頂いたお言葉。先生が何を仰りたかったかはその時すぐに理解した。先生にはおそらく教育のからくりが見えていたのだろう、現に数学も国語も成績は悪かった。このお言葉を励みに安心して生きていくうち気がつけば日本の社会の外にいた。

だからいま、偶然と当然が重なって我が子たちを日本の学校にやらずにいる。ともあれ支離滅裂な教材で放射能を楽しく明るいものだと思い込まされずに、そして大多数の日本人に望まれる思考を植えつけられずに済んだ。仮に日本にいてこの教材と対峙していたらどうしていただろうか、迷わず仮病で休ませるか、それでもダメなら学校を辞めさせるか。


おそらく出来ない。日本で安穏と暮らすためにはその判断力をかなぐり捨てなければならないからだ。



三度目の鎖国

TPP加入が平成の開国と言ったのは何処のどいつだったか。
過去の人、菅直人氏による施政方針演説だった。

その演説で「平成の開国」に先立つ「明治の開国」「戦後の開国」はなにを意味していたか。


まずは「明治の開国」。

江戸幕府が開国して明治になったのだから「明治の開国」というのは明らかな誤用だ。それはそうと、黒船が突然やってきて開国したのではなかった。1700年代の終わりからロシアの商船や米仏探検隊の船がちらほらと日本近海に現れるようになった。最初に日本との通商を求めてきたのは女帝エカテリーナ二世のころのロシアであった。漂流の末にロシアに辿り着いた日本の商人・大黒屋光太夫を日本に送り届けたラクスマンによって通商希望の親書がもたらされたのが最初である。日本は十一代将軍家斉のころ、欧州ではフランス革命が起こった直後である。
その後もロシアとの通商はのらりくらりと断り続けた。それとは別に、国交のあったオランダという国がフランスに倒され消えててしまった。主を失った長崎のオランダ商館は存続の道をアメリカ商船に求めた。そしてアメリカ船が地図上から消えた国・オランダの国旗を掲げ長崎に入港し臆面もなく日本と取引をしたのだ。その後何故かイギリスまでもがオランダ船を装い長崎に入港するようになった。ほかにも難破をよそおい日本側に保護を求めたりなど列強はあらゆるインチキを画策し日本に食入ろうとした。北の海ではロシア船との小競り合いが絶えず、幕府はついに異国船打ち払い令を出して頑なに鎖国を通そうとした。

1842年に清国がアヘン戦争によって凌駕されると幕府も世界に対する意識を変えざるを得なくなる。このころから開国せねば武力行使も辞さぬという恫喝が浮き彫りになりだし、そしておよそ十年の後に、黒船はやってきた。

日本にとっての超大国、清を打ちのめした列強が艦隊を従えて「開国しろ」と詰め寄ったのだ。開国とは即ち欧米主導の国際枠組みに羽交い絞めにされ不平等条約を受け入れることを意味し、拒否をすれば国も民も焼かれ、残ったものは捕虜として生きることを強いられたであろう。

ここに締結された日米通商修好条約の改正は日清・日露戦争にすべての国力をつぎ込むことでとやっと実現した。教科書では外交努力などと書いている。この間にも世界は大戦へと歩み続け、欧米が描いた国際枠組みどおりに日本はその主役にすえられる。国際連盟を離脱、世界から孤立した。


「戦後の開国」とは。

ここでくどくどと書くまでもなく、二つもの原爆を落とされたあとでは降伏するほかなかった。原爆によって戦争が終結したのは人類史上これが最初で最後だ。戦後日本は完全にアメリカの傘下にはいり現在に至る。GHQは日本の産業・法制・教育すべてに介入し日本を「育て」なおした。核の脅威に守られ平和な社会のなかで経済成長を遂げる傍らこの小さな列島は原発だらけにされた。今も駐留する米軍には国家予算級の手当てを出し、紙屑同然の米国債をひきとり、石油、食料、その他何を何処から輸入するにもご機嫌伺いをせねばならない。日本が安くて良いものを作ると買うくせに怒る。いったいどうしろと言うのだ。

機械部品ひとつまともに作れない、しかもろくに働く気がないし何より満足することをを知らない連中は日常的に何をするか、横取り以外に思いつくことはない。屁理屈をこねくりまわしていたかと思うと突然攻撃しだす迷惑千万な蛮族である。一族郎党さっさと荷物をまとめて火星にでも行っていただけると誠にありがたい。

その蛮族の長がTPP・環太平洋パートナーシップなるものを引っさげてまた我々に詰め寄ってきている。日本ではその内容すら明らかにされないまま次元の高いとはいえない議論が展開されている。それも、ごく一部で。これは日本がのTPP加入が不可避であることの裏返しである。過去の二度の開国のように、拒否をすれば何をされるかわかったものではない。国難より自分の首が心配な政治家と財界人がTPP打ち払いなどを一瞬たりとも考えるはずがないのだ。フセインの最後、病床のムバラク、暴行をうけるカダフィ、世界を駆け抜けたこれらの画像は、ハリウッド映画に慣らされた市民の目にはその延長としか映らなかったであろう。が、各国の首脳とそのとり巻きたちは明日は我が身と青くなったに違いない。



万にひとつ日本政府がTPP加入を拒んだとしたら、それは「江戸幕府の鎖国」「国際連盟脱退」に次ぐ「三度目の鎖国」といえる。事態はそれだけ深刻なのだ。一蹴にしてしかるべき不平等協定をやむなく受け入れようとしているのだ。時間がかかっているのは震災があったのと、何か真剣に考えている振りをしているからだ。



しかしである。
TPPを抜きにして考えても「経済」には問題がありすぎる。資本主義はどだい人を幸せになどできないのだ。需要も利便性もとっくに飽和しているというのに新たな付加価値をこじつけて市場に出す。そうして生まれた「あぶく銭」はその字の如く泡沫となって消え去ったではないか、資本主義の限界と破綻がとうにやってきている証拠だ。こんな危ういものを追いかけていても先はない。

満足を知らない蛮族と先に述べたが、このままでは日本人もそうなりかねない。TPP加入は日本の国の内側の綻びに指を突っ込んで広げる行為と言える。もっと足元を見るべきである。TPP反対派が農・工業の危機を説こうと国内の農・工業従事者が減り続けている現状のほうがもっと重要ではないのか。

「経済」という浮気であやふやな目先の問題にとらわれていると大事なことを見落とす。TPPに加入すると非関税障壁の撤廃に因んでさまざまな要求を呑むことになる。遺伝子組み換え食品の表示撤廃、日本で禁止されている薬品や添加物の許可などがそうだ。これらこそが日本人の暮らしをじかに脅かすものだ。
そのなかに我々の言語たる日本語が含まれているとの予測がある。TPPに関しての明確な内容を政府が公表していないので予測でしかないのだがつまりは欧米人にとって日本語は極めて難解であり貿易の障壁と見なされ、そのために日本国内の公文書はすべて英語で作成されることになりかねない、のだ。こうなると、国語は日本語でも公用語が英語ということになる。

日本に生まれ育った我々が先祖から受け継いだもののひとつ、そして受け継いだすべての財産を理解するための道具が日本語である。この地に生きた先祖たち、そして森羅万象の霊が日本語の中に在る。日本語を切り捨てることは霊との決別にひとしい。



守るべきは命、そしてその根拠である霊だ。資本主義経済に毒された者には事の重大さがわからないのだろう、嘆かわしい。

とつくに の はらから に こふ 国政参加のお願い

内閣不信任決議案はやはり否決された。
こうして茶番を繰り返し人の心を「国」から遠ざける。

一体なにが変わるというのさ。誰を選んでも同じこと、気を揉んだ分だけ後で白けるのが関の山だよ。
世の中。そんなに捨てたもんじゃない、ようく見てごらん。もっと大事なことがいっぱいあるから。

政治なんかに気をとられていると子供たちの夏期講習の申し込みに遅れちまうよ。受験は夏休みが正念場だからね。有名中学に合格すれば、その後の受験も勢いで何とかなる。
え?もう大学生?それなら海外留学を進めるよ。なんたって就職難はまだ続く。暑い夏にスーツきてあちこち就職活動するよりアメリカかヨーロッパに留学をしゃれ込むってのはどうだろう。言葉なんてわからなくても大丈夫、やつらは日本円さえ落としてくれりゃそれで文句は言わないさ。
資金がないなら株や為替に手をだしてごらん。あるよ、資産を確実に増やす方法。このさき成長しそうな商品は健康産業とエコ産業、伝染病が流行ると製薬会社の株が上がる。自然災害がおこればエコブームが起こる、簡単だろ?
とはいえ健康第一というのには反論できないね。どんなに金持ちになったって死んじまったら仕方ない。自然農法の健康食は今じゃ一番の贅沢かもしれない。健康器具にウォーキング、サプリメント…足りないかな?もう健康のためなら死んでもいい!
でも環境破壊がすすんでるからそれも絵に描いた餅かもな…。そう、我々現代人の一番大切な使命、それは地球を守ること。殺すな、クジラを! 奪うな、シロクマの住処を! 許すな、環境破壊者を!!


ほらね、もう政治どころじゃないだろう?


「国」は「人々」に「自由」というゆりかごを与えた。そこは心地よく、お受験、地球温暖化問題、芸能スキャンダルからポルノにいたるまで山ほど玩具があって退屈しない。腹もへらない。いい子にしていればぶたれない。ぶたれても謝ればゆるされる。

ただひとつ許されないのは、ゆりかごの外に出ること。


外つ国の同胞に請う、外から日本を見て欲しい、穴が空くほど。


おわり



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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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