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もものはなし

そろそろ桃の花が見ごろであろうか。散ってしまったか。


日本が旧暦に従っていたころは月初めは新月、月中は満月、そして次の新月で月が改まった。すると一年365日には11日ほど足りない計算になる。それが三年たまるとおよそひと月になり、その足りない分を「閏月」として四年目のどこかに挟み込む。今年はその年にあたり次の新月から「閏三月」が始まる。

なにせ三年分のずれが立て込んだ年である。先月末の旧暦の桃の節句でも桃の花盛りにはちと早かったのではないだろうか。ましてや新暦の三月三日に店先に出回る桃の花などは、どこの誰かであろうか。


桃と日本人の関わりは深く、古くは縄文時代の遺跡からも桃の種が見つかっている。大陸から伝わったというのが定説であるが日本在来種があったかなかったかはまだ結論が出ていないという。


遠い神代の昔、イザナギとイザナミの頃から桃の話が残る。
古事記によれば、息絶えたイザナミを忘れることが出来なかったイザナギは恋しい妻を黄泉の国まで追い、姿のみえぬ暗がりの中で会うことができた。そしてどうしても戻れと聞かない夫をイザナミは決して見てはならぬと制しそこに待たせた。しかし待てど暮らせど来ぬ妻にしびれをきらせたイザナギは禁を犯して灯をともし、雷神の纏わり憑く変わり果てた妻の姿を見てしまう。恐れをなして逃げだしたイザナギをイザナミに仕える黄泉醜女(ヨモツシコメ、力士のような女)が追い迫る。髪飾りや櫛を投げると山葡萄や筍に変わり、醜女がそれに喰いついている隙に逃げる。が、イザナミはさらに雷神と黄泉軍(ヨモツイクサ、黄泉の大軍)を遣わして負わせ、イザナギは剣を後ろ手に振りながら猶も逃げる。黄泉比良坂の坂本(登り口、つまり黄泉国は地下ではなく山の上であった)に着いたとき、イザナギがそこにあった桃の木からもいだ実を三つ投げつけると追っ手は退散したという。


「汝、吾を助けしが如く、葦原中国(アシハラノナカツクニ)に有らゆる宇都志伎(ウツシキ)青人草(アヲヒトクサ)の、苦しき瀬に落ちて患ひ愡む時、助くべし。」と告りて、名を賜ひて意富加牟豆美命(オホカムヅミノミコト)と号ひき。

―我を助けたように、葦原中国(日本)にいる此の世の人々が苦しいときや患い悩むときに助けるべし―イザナギはそうのたまい、オホカムヅミノミコト‐大神実命の命と名を与えて呼んだ。


イザナギを助けたものが桃であったと古事記に記されているからには、桃に秘められた力に人々が助けられていたと考えることが出来る。そしてその力とは他の木の実ならぬ桃にのみ見出すことができたのであろう。


苦しいときや患い悩むときに助けになるのは先ず薬。実はもちろんのこと種にも葉にも花にも薬としての効果がある。
整腸のために薬草を食べるなどの本能は動物たちでも持ち合わせている。しかし人間は草木から単に治療や滋養だけではなくより深い何かを求めた。それは病や死などの穢れを遠ざけ、人に生きて命を継ぐ力を与えてくれる霊力であった。

枝も折れんばかりに実をつける桃は豊かさの象徴であった。
桃に限らずマ行の音ではじまる「やまとことば」には「生産」や「増加」の意味が多く見当たり

ス(増す)、ル(丸、円)、ユ(繭)、(実、身、三)、ツ(満つ、蜜、水)、ス(産す)、ツ(持つ、物)、チ(望、餅)、モモ(桃、百)

などをすぐに挙げることができる。また、女を意味する名詞もマ行の音を含むことが多い。

(女、雌、妻、妾)、ヒ(姫)、イ(妹)、オナ(女、嫗)、ノト(乳母)、イザナ

「女」とはあらゆる意味で生産の担い手である。花の色、身のかたち、いずれも「女」を思わせ、そして子供である「実」をたわわにもたらす桃の木に霊力を感じないわけにはいかぬはずである。

黄泉の国の軍勢が生産のしるしたる桃の実を嫌がったのも無理はなさそうだ。

さて、気になるのは桃の保存方法である。古代人は我々とは違い収穫したものを腐らせることなどはしなかったはずである。
木の実には栗や椎の実のようにそのままとって置けるものと、干し葡萄や干し柿のように乾燥させるもの、梅のように塩漬けにできるものがある。しかし桃はそのままでは腐ってしまう。日差しが強く乾燥した国でも干し桃というものがないところを見れば日本では尚更むりであろう。塩梅ならともかく、塩桃などはどう考えても美味くない。蜂蜜漬けはできたかもしれないが大量の蜂蜜を使ってしまうことになるので理にかなわない。

おそらく唯一の保存法は果実酒、娘たちが桃の実を噛んでつくる口噛み酒ではなかろうか。
酒造りは神事であり神々のためにつくられる。そして人々は一旦神々に捧げられた酒を下賜されるかたちで口にする。酒は人の心を楽しませ、疲れを癒し、薬でもあり、あるいは我を忘れさせ心を惑わす力もあった。これらは神々の力によるとされていた。

話をわざとそらすと、スサノオがヤマタノオロチに飲ませた「八塩折之酒」は何度も繰り返し醸造させた強い酒であった。日本書紀に「汝、衆(あまた)の菓(このみ)を以ちて…」とあるように、米から搾った酒ではなく「あまたのこのみ‐いろいろな果実」の酒であることが窺える。桃はその中にあったのだろうか。ヤマタノオロチが甘い桃の酒でへべれけになったことを思うのもまた面白い。


桃の節句は大陸から伝わった五節句のひとつ、上巳にあたる。
唐の歴法によれば奇数が揃う三月三日や五月五日などの日は邪が近づくとされ、それを祓い清めるために川にはいり禊をおこなう「避邪」の風習があった。その暦法は風習をも伴って日本へとやってきた。当時の日本での三月三日はちょうど桃の花が咲く頃、上巳は古代日本の桃の霊威への畏れと重なり「桃の節句」と相成った。平安貴族たちは上巳のならわしとして紙を切り抜き自らに見立てた人形に穢れをうつし水に流す「流し雛」をおこなった。まだヒト(人)に満たない小さなものをヒナ(雛)という


やまとことばの「母音が変わる」という特徴を考えればモモ(桃)はミミ(三三)と関わりがあって不思議ではない。そういえばイザナギが投げた桃の数も三である。桃が生産の象徴であるとするならば、その前提には夫婦がなくてはならない。神前で夫婦の契りを結ぶ三々九度の杯も三に三を掛けたもの、偶然なのだろうか。

最初の夫婦神はイザナギ・イザナミではない。古事記によればイザナギ・イザナミよりも前に生まれたウヒジニ(宇比地邇)・スヒジニ(須比地邇)がそうであり、それぞれ泥と砂の神性を持っていた。そして人形の祖は土偶や埴輪であった。紙という貴重品を流し雛として使う以前には泥の人形を流していたのではないだろうか。

これらが複雑に絡み合い、雛祭りの基になったのではなどと思う。

                ひなまつり


本題である。暦とは年や月や日を番号で整理する方法ではない。天体の運行で日々変わり続ける磁力や重力、日の光、潮の動き、草木が目覚め育ち実をつけまた眠る律動を知るための術である。それを読み人々に告げるのはスメラミコトたる天皇の為すことである。

明治六年の「改暦」を以って旧暦は廃されグレコリオ暦(現在の暦)が施行された。同時に五節句も国の行事から外された。そうして日本は目出度くもない日を祝い、咲くはずのない花を供え、穢れを祓うことを忘れた国となった。自然の力に生かされていることを思い出さなくなった。
外国と付き合うための改暦であれば節句や正月という国の大事まであっさり変える必要が何処にあろう。これは偶然ではなく、故意である。日本の国を資本主義帝国に取り込むためには自然との共生を旨とした江戸時代までの日本人の生き方が邪魔だった。それを根底から突き崩すために作られたのが「明六社」である。‘

このようなことは「識者」たる方々が考え主張して然るべきであって、れっきとした無識者である筆者が書きたてることなどではない。ところが皇室の行事も神社の神事もみな一向にグレコリオ暦によって為されている。愛国者を名乗る政治家は国歌と国旗を振りかざすが、それだけだ。まったく以って理解しがたい。

                         
                    三日月



新月をついたちとする旧暦では、毎月三日目の月は三日月となる。
三日月は上弦、晴れていれば、日の入りの頃の西の空には地に向かって弓をひく三日月が見えるだろう。そして今年は閏年。来る新月に閏三月がはじまり、今年はもういちど上巳がある。それは新暦四月二十四日である。
その昔、桃の木で作った弓には穢れを祓い幸を呼ぶ力があるとされていた。

願はくば ももの弓もて祓はれむ 霞ヶ関の 痴れものどもを

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いわし しめなわ おにはそと ― 節分

さて、まもなく節分がやってくる。節分とは父親が豆をぶつけられる日ではない。

立春、立夏、立秋、立冬は「節」とよばれ、それは新しい季節を迎える日でありその前日が「節分」であった。季節の変わり目に入り込む邪鬼を追い払う儀式である追儺(ついな)の風習が飛鳥時代から奈良時代初期にかけて中国から暦学とともに伝わり宮中行事として定着した。日本では春の始まりである立春が特に大事にされ、その前日には炒り豆を撒いて鬼を追い払う行事が「節分」という名で今も残る。明治の改暦後に正月をはじめとするあらゆる行事が西暦に直された中でこの節分は古い暦に基づいて今も続いている。

明治以前、我が国では新月から新月を一ヶ月と考え、新月が月初め、満月を月中、次の新月の前を晦日として数えた。そして立春に一番ちかい新月が「正月一日」であった。

ここで今では考えにくいことが起こる。その歳によって、節分が正月の前であったり後に来たり或いは同日になったりするのだ。これは一ヶ月を月の満ち欠け(月の公転周期)で勘定しているのに対して「節」が太陽の運行(地球の公転周期)から導き出されているために起こる。我々には不可解だが当時にしてみれば当たり前であった。

炒り豆を鬼に投げつける風習、これは日本にしかない。生の大豆をわざわざ炒り豆にするのは、逃げ出した鬼の怨念がふたたび芽を出さぬようにとの願いがあるという。この念の入れようがまた日本らしい。
この宮中行事は平安時代には庶民にも広がり今に受け継がれている。そして家の門口に「柊鰯(ひいらぎいわし)」を飾った。

柊の小枝に先に焼いた鰯の頭を刺しそれを注連縄につける。豆撒きの影に隠れ忘れられたかのように見えるが、いまでも節分にこれを飾る地域もある。

参考:門守りのサイト―柊鰯 


鰯のにおいに誘われた鬼が門に近づくと柊の葉に目を刺されて退散するというこの柊鰯、最古の記録は平安時代の「土佐日記」に「小家の門の注連縄の鯔の頭と柊」とある。鰯ではなく鯔(なよし=ぼら)であるが同じ役割を果していたと考えていいだろう。
鯔は成長につれて名前が変わる出世魚、目出度いとされたために門にかざられたというが、それが何故いわしに変わったかは解っていない。鰯の古語がなよしという鯔の別名だったという説もある。ただ、この日記の日付けは承平五年(935年)元日となっている。

その昔、元日と節分は別ではありながらも一つの流れの中にある行事であったことが伺われる。またその流れの延長には上弦の月の人日の節句(七草)、満月の小正月が待っている。いま伊勢神宮で売られる正月の注連飾りには蜜柑やウラジロといっしょに柊の枝がついている。柊鰯も注連飾りもその役割はともに春の始まりに穢れが入り込むことを防ぐ「さかひ」であることを思えば繋がりがあって当然なのかもしれない。


「さかひ」(仏教でいう結界)は、人の生きる俗世界のうらみ、わざわい、やまい、くるしみ、なやみという穢れが入ることのできない聖域を作り出し、そこに神を迎え入れる場をしつらえるためにある。動詞「さく(放く、離く、裂く、割く)」に意味を限定する接尾辞がつき「さこふ(境ふ)」となった。さらに名詞に変化したのが「さかひ(境)」である。寺社の「境内」とはそういった場で、鳥居や山門という「さく(柵)」によって俗界と別けられている。

神社仏閣にかぎらず日本の建築にはこの「さかひ」が意識が随所に見られる。例えば茶室は聖域とみなされ、そこに至るまでには露地をぬけ蹲踞(つくばい)で清めをおこない、にじり口をくぐるという段階を踏まなければならない。
また家屋においても玄関を境に床が高くなり、人は履物をぬいでそこを上がる。外の湿気や汚れから家を守るための日本の屋づくりに起因することだが、やはりここでも穢れを防ぐという考え方に通じる。
外から内へ、廊から間へ、間から間へと違った場に入る時には一呼吸おいて意識を変えるのが作法であった。敷居を踏みつけてズカズカと入り込むのはよろしくない。襖や障子が閉まっているときは「隔絶」を意味し、問わずに外から開けてはならぬという不文律があった。几帳やついたて、屏風の向こう側もむやみに覗くものではない。

入るものすべてを跳ね返すものであってはいけない。商売をしていれば福の神にも客にも来てもらわなくては困る。門を硬く閉ざしてしまえば商売にならず逆にあけすけでは何が入り込んでくるか知れたものでないし福も客も散ってしまう。そこで重宝したのが店舗と街路を仕切る「暖簾」であった。店の銘を染め抜き、暖簾がでていれば「商い中」の合図でもある。店の中と外では暖簾に視界を遮られながらもお互いの気配は感じることができる。客は店の賑わいに誘われ、くぐって入ればほんのひと時その領域にとらわれの身となる。

塩は手っ取り早く穢れを祓う便利なものだった。腐敗を防ぐ効果に古くから神性を見出していたからだ。家や店の入り口には普段から盛り塩をし、いまいましい客を追い出したあとにはあてつけがましく塩をまいた。


柊鰯や注連飾りは一年のうちの特別な時期、そのときに限って現れる神様を迎え入れ、そのときを狙って入り込もうとする鬼を締め出す装置であった。


はて鬼とは、である。
絵に見る赤鬼・青鬼の姿は仏教の羅刹や夜叉の影響で出来上がった図像であり、物語の鬼は娘にも老婆にも変幻自在、しかしその本質は人の心の中にあった。死者がこの世に残した恨み、生きたものの妬み、嫉み、尽きることのない欲、犯した罪への悔恨、失うことへの恐れが具現化したものであった。幕末まで国を閉ざし外の国から攻められることが殆どなかったともいえる我が国にとって己の敵はまた己の中にあった。鬼退治は未知なる敵に戦いを挑んでいるのではなくあくまで人の世の穢れとの戦いであった。桃太郎に泣いて謝る鬼の大将や豆をぶつけられて逃げ惑う鬼たちの姿に親しみを覚えるのもそのためである。
古代、朝廷にまつろわぬ(恭順しない)存在を「蝦夷」「隼人」「土蜘蛛」などとよび神武天皇やスサノオ、ヤマトタケルらがこれを追討したと記紀に書き記されている。歌舞伎や能、昔話にのこる鬼退治譚の原型はここに求めることができる。そのまつろわぬものたちが棲むところは銅や鉄の採れる山であることが多いのについてはまた別の機会に書いてみたい。


これらの「さかひ」は人と霊の決め事であって実際は吹けば飛ぶようなもの、霊を懼れぬ者の攻撃には抗いようがない。悪意あるものは霊威を懼れず、したがって「さかひ」などは気にならない。踏みつければよい。家々に土足で上がり乱暴狼藉をはたらき火をかけて逃げてゆく。
明治の頃、糠の成分が脚気に効くことを指摘した農学者の鈴木梅太郎を学会は笑った。曰く「鰯の頭も信心からだ、糠で脚気が治るなら小便を飲んでも治る」と揶揄したという。近代思想と科学技術に毒された者からみれば鰯の頭などは取るに足らない迷信でしかなかった。


近代以降、日本は富を得る傍らとてつもない穢れを呼び込んでしまった。やり方が拙かった。外の国に向かい門を開けるときに、何一つ「さかひ」を用いなかったがために百鬼がなだれ込んで来た。近代の思想は資本主義経済と手を組んで我々の欲を煽り、膨れ上がった欲は鬼となって襲い掛かる。人に道を誤らせ、妬みを呼び、この世は嘘と疑いで溢れかえる。科学技術は利便と汚染を同じだけもたらした。もはや今こうなると鰯はおろか鯨の頭を吊るしても足りない。


おにはそと ふくはうち
懼るることを知るうちは
鰯の頭 鬼をも避けん




雑談

筆者の住むトルコ、その北海岸には黒海が広がる。冬の名物ヒシコイワシが今年も豊漁。
日本でイワシといえばマイワシでヒシコイワシは煮干の材料、あまりぱっとしないが黒海のヒシコは驚くほど味がいい。
十年前であれば内陸のトルコ人たちは海の魚など嫌がって見向きもしなかったのだが、一旦流通が始まるとみんなに好かれた。こちらの家庭では粉をはたいて油で揚げるか焼皿にずらーっと並べてオーブン焼きにし、レモンを搾って食卓に。

筆者はあまり和食にこだわらない。こだわりたくても味噌と醤油がここにはない。オランダ製の醤油が売られているが、GMO大国の大豆製品など恐ろしいので是非よけて歩きたい。日本の家族に頼めばいくらでも送ってもらえるのだがそれも往生際が悪い気がしてならない。
食文化の違いは気候や滋味に左右されるもの、それに逆うことで起こる害に悩むより、こちらの食を堪能する事を好むのである。

とはいえ子供たちのことになると話がちがってくる。いつか日本に行ったとき和食の味を知らなかったでは両親とご先祖さまに叱られてしまう。そのため、たまに料理してみる。

               すし
              〆鰯のにぎり


ヒシコイワシの頭、腸をとり、開いて骨をはずす。平たい容器に塩、イワシ、塩…と重ねて数時間つけおき、あがってきた水(ナンプラーとして使える)を切り酢で洗う。もういちど平たい容器に並べてかぶる程に酢をかけ、また数時間つけおく。
鮨飯は砂糖が少し勝つぐらいがいいようだ。塩は岩塩、酢はぶどう酢。酒と味醂は抜き、昆布と醤油は去年の父の手みやげだ。

なつかしい味がする。

改暦は御免にて候

年の瀬と呼ばれるものが近づく。
あたらしい年がやってくるという。

いつ、どうやって来るというのだろう。

我々の棲家である、普段「地球」という名で呼んでいるものが息をする「息もの」であるとすれば、その営みが何によって保たれているのかを考えることで解る。

日が昇りまた沈むのが一日、ただしその日の高さは一年を通して変わり続ける。日が、最も高く昇り、長く照るのが夏至、その逆が冬至で、夏至と冬至のちょうど間にあるのが春分と秋分である。春分を中心においた三ヶ月を春といい、真ん中に夏至、秋分、冬至がある三ヶ月をそれぞれ夏、秋、冬となす。

豊かな実りをもたらし疲れて息が枯れる秋

疲れた木々や土を雪と雨が癒し、秋に落ちた葉が腐り土に還る。息をひそめ、静かな眠りの中で力を養う冬から、春の息づかいに変わる時がある。
それが立春――冬至と春分の間にある日である。日の光の差し込む角度が我が国に対し大きくなり光量が増える。東の空が白んで新しい一日のはじまりを感じるが如く、草も、木も、鳥も人も、春が来たことを、つまり新しい年が来たことを知る。

六世紀中頃、欽明天皇の頃に百済から暦が伝わったというのが記録としてはいちばん古いようだが、その遥か昔から水稲耕作をおこなう我が国に暦らしきものがなかったわけがない。稲を携えて大陸からやって来た人々が暦の基礎知識をもたらしたのであろう、そして先祖たちは日本の地での日の動きを読み(日読み‐カヨミ)、経験的な「暦‐コヨミ」に発展させた。そのコヨミを司る者が神託を授かり詔りを出すという形で民を治め、やがては大王となった。

大陸から来た人々を渡来人といい、よそ者、時には侵略者として敵視する傾向が強く朝廷の祖すなわち大陸人すなわち侵略者という議論をよく耳にするが、筆者が思うにそれは極めて狭量で危険なはなしである。日本と大陸は地続き同然であった。最後の寒冷期の終わりを受けて海面が現在の高さに持ち上がり大陸から分かれた後も気持ちの上ではその後も長い間繋がっていたことだろう。この間に日本に集まったすべての人類は我々の祖‐オヤと考えて然るを、渡来人だの流民だの侵入者だのというのは笑止千万である。国家としての体裁が整ったあとの日本に害を為す目的で人々がやってきたのはもっと先のことである。

はなしが逸れてしまった。
コメ作りとともに大陸からもたらされ、日本流に発達したコヨミは初歩的な太陽暦であった。さらにその後になって伝わったのが月齢をもとにして細かい日付などを記することができる太陰暦であった。
朔(新月)から朔までの29~30日間を一月と考えると、一年の365日を満たすためには十日あまり足りないことになる。それでは農事にえらく支障が出てしまうので、閏月を三年に一度折り込みその年は十三ヶ月あるもとして調整を図った。
ちなみにその調整を行わず、暦が毎年11日ずつ前倒しになるのがイスラームの太陰暦である。一神教であるイスラム教は古くからの太陽神信仰を無力化するためにも太陽暦の使用を人々から遠ざけた。

月は人間にとって太陽とともに最も身近な天体である。闇夜を照らすのみならず、潮の満ち引きが起こるのも月の引力によるのである。大海原が月に曳かれて動くのだ、いわんや人をよや、我々はそれに気付かずにいるにすぎない。地磁気や引力のことなど知る由もない古代人たちには何故か、月と日が操る糸が見えていたのだ。
一日は朔、三日には三日月、十五日目は望(十五夜)そして晦日に向かいまた朔となる。新しい月が生まれて満ち(望ち)てゆき、またつき(尽き、月)て行くさまに自然の輪廻を見出したのであろう、同じことは一日の明け暮れにも、一年の季節の移り変わりにも、人の一生にも国の興亡にもなぞえることができる。


農事にとっても、日本の国にとっても、立春の頃が年明けであった。その立春にいちばん近い新月から始まる月を歳の初めの月とした。自明、新年は新月からはじまった。これが我が国の旧暦の正月である。いま旧暦と呼んでいるものは飛鳥時代から明治までのあいだに細かい修正を加えながら使い続けた太陽と月の暦、太陰太陽暦である。

江戸時代が幕を閉じいざ開国をしてみたものの、外つ国の暦は我々のものとは違っていた。西欧に追いつけ追い越せと変えられるものはとにかく変えて、変えようのないものまでも無理強いしてまで西欧の追随に明け暮れたこの時代、従来の天保暦から現代のグレコリオ暦(西暦)に乗り換えることなどいともたやすいことであった。明治五年十一月、「改暦」は突然布告され、同年十二月三日を以って明治六年一月一日とされた。

グレコリオ暦とは何ぞや、その原型はローマ時代、カエサルやアウグストゥスのころに制定されたユリウス暦(太陽暦)である。もともと一年のうち農閑期の冬は暦どころか日付けも存在しなかったという。しかし夏の最中にユリウス月(julius-7月)とアウグストゥス月(augustus-8月)を無理やり捻じ込んだために本来は農事の始まる早春にあった新年が真冬にずれたというまことに由緒正しい暦である。

暦が季節からひと月もずれてしまった。改暦は何をもたらしたか。
農事の仕事始めに際しその歳の豊穣を祈る儀式である「正月」が、まだ土も草も眠りの中にある変な時期に行われるようになった。
人日、上巳、端午、七夕、重陽の五節句はそれぞれ季節の節目に身の穢れを薬草にて祓い清める重要な行事であった。が、これらの行事はそのまま西暦に移し変えられ正月同様ひと月もはやく行われるようになった。人日とは七草、上巳とはひな祭りを指す。端午については以前の記事でも記したが、何れも土、草木から力を得るための神事であった。今の一月に春の七草があるかどうか、五月に菖蒲の葉が、七月に星降る夜が、九月に菊の花が咲くかどうか少し考えれば解ることだ。


こうして日本人は土から、先祖から遠ざかってゆく。


明治の改暦を断行したのは当然ながら明治新政府であるが、その援護射撃をした、あるいは首謀者であったのが福澤諭吉であった。布告後まもなく「改暦弁」を著し国際化のための改暦の必要性、グレコリオ暦の解説とそれがいかに優れているかなどを説いた。さらに旧暦を罵倒、こき下ろしている。

「この後は、所謂 晦日に月をみることあるべし。数を知らざる無学の人には一時目を驚かすの不便あらん。ああ、文盲人の不便は気の毒ながら、顧みるに暇いらず、其、便、不便は暫くさしおき、兎に角に日輪は本なり、月は付きものなり。付きものを当てにせずして本に由りて暦を立つるは事柄において、正しき道をいふべし。(中略)故に、日本国中の人民、この改暦を怪しむ人は、必ず、無学文盲の馬鹿者なり。これを怪しまざるものは、必ず、平生、学問の心懸けなる知者なり。されば、この度の一条は、日本国中の知者と馬鹿者とを区別する吟味の問題というも可なり。――福澤諭吉 改暦弁より抜粋 

当時、世論を握っていた人間は悲しいかな、この類の「文化人」であった。えげれす、おらんだに留学し近代思想の洗礼をうけて帰ってきた輩は帰国後もその押し売りに余念がなかった。
月は付きもの、つまり太陽のオマケと言いたいらしく、また「憑き物」という暗喩を以って陰暦を迷信めいたものと貶めている。陰暦の成り立ちや意味の深さを知らない訳ではないであろうにこれをいけしゃあしゃあと「当てにせず」という。自論を通すためならなりふり構わず排他し攻撃するのが西洋流であるのは現代の国際紛争や軍事介入をみても明らかだ。

王様のために特別にしつらえられた衣装は金銀宝石がちりばめられて輝くばかり、ただし馬鹿と怠け者には見えないという代物。「無学文盲の馬鹿者」と区別されるのを恐れたか、「王様は裸だ」と叫ぶものがいなかった。

改暦が施行された明治六年、福澤諭吉は西周、津田真道らと啓蒙結社「明六社」を組織、維新と文明開化の騎手となった。西、津田ともに日本人初のフリーメイソン会員であったことは有名である。福澤に関しては会員であったという記録は見つかっていないがフランス系メイソンに人脈があったとされる。これではっきり解るように「維新」の目的はは近代化や合理化などには非ず、日本人が先祖から受け継いだ魂を「とるに足らない因習」として否定し、霊の緒を絶ち、これまでに築いた共同体、世界にまたとない美しい国を破壊するために仕組まれた卑劣な策であった。

台湾や中国などは西暦を使いながらも旧暦と上手く付き合っている。イスラム諸国も然り、公式行事と宗教行事の暦を使い分けている。イランやアゼルバイジャンのように春分に新年を祝う国も沢山ある。日本だけがそれを出来ないでいるのだ。
明治の呪縛がいまだ解けない、そのせいだ。


周りの皆が新年を祝い春を寿ぐことばを交わす中で、「いえ、新年は立春ですからまだ目出度くありません」などと言って門を閉ざすのはさすがに気が引けるというものである。ここまで西暦を悪く書いた後で大変申し上げにくいのだが仕方なく…。
みなさま、本年はつれづればなにお越しいただきまして誠にありがとうございました。忘れることがないであろう一年が終わりに近づいております。日本はどうかしてしまったのか、と皆が感じた一年でもありました。そしてこの先、日本はどこへ行こうとしているのでしょう。しかし生まれ育った国、共に生きる家族や同胞を思いやる気持ちさえあれば、それはいつか必ず実を結ぶと信じております。来る歳もみなさまの、そしてご家族さまのご健勝、ご活躍を心からお祈りいたしております。どうかよいお歳をお迎えください。

月と地震

太陽の表面の爆発(フレア)が地球の火山や地殻活動に大きく関わるという説が紹介されている。爆発によって大量の宇宙線が地球にふりそそぐ。太陽からの距離を宇宙線の速度で割ると、爆発から31時間で地球に到達するという。


太陽はつねに爆発している。その炎が太陽の明るい所以である。しかし八月九日に太陽での数年に一度のみられるかという大規模な爆発が観測された。
地震というのは気まぐれでは起こらない。地球が大宇宙の一部であることを考えれは、森羅万象が外の天体に影響を受けていることは当然とするべきであろう。

筆者の危惧はこのフレアに満月が重なっていることだ。
以前から、満月や月食のあった日の前後にはどこかで地震か火山の活動がみられることが多かった。このことを指摘する学者先生があまりおられないのが不思議なのだが。
なぜか?満月の夜は月・地球・太陽がほぼ一本の線の上に並ぶ。皆既月食(日食)ならば完全に一直線を成す。地球が二つの巨大な天体に引っ張られることになるからだ。満月の前後に潮の満ち引きが最大(大潮)になるのは月に引っ張られているせいである。潮の動きだけで相殺されない力が地震の引き金の一つになっているのではないか、と思うのだ。


今月の十五日は満月。十四日から十六日までが大潮。フレアによる宇宙線の到達が十一日、何も起こらぬことを祈るばかりだが、注意だけは怠らぬようにしたい。

ことはじめのまとめ

まわりくどく書いて重ねるまでもなく、春の始まりをもって新年とするのが本来なのであろう。
いまだに立春のころを新年(春節)として祝賀する中国文化圏の人々は、単に残された風習に拘り続けているのではない。
祖先を敬うが故と大雑把にくくることもできようが、その中を吟味する価値はある。
儒教の精神を尊ぶ彼らは当然先祖を敬い祀るのであるが、それは霊廟を掃き清め祈りを捧げることだけに止まらない。
習慣という祖先から伝わる行為を、その表層だけでなく意味をも含めて後代に残すことを忘れなかったのである。

清朝の滅亡とともに西欧に習うべくグレコリオ暦が採用され今日でいう一月一日を新年としてはいるが、彼らの
精神は春節にこそ新年を迎えるのである。

さて日本。
いまさら我が国の新年にケチをつける気はないので先にことわっておくとする。
維新の際、改暦のみならず総てにおいて西欧に迎合するほか本当に道がなかったのかどうかは知る由もなく、
改暦することで福沢諭吉がボロ儲けしたのもこの目で見たわけではないのだが、
その評価はともかく維新の時点で旧暦を旧暦たらしめ西欧と同じ暦を使い始めたという、それに尽きる。
凡そ日本人ほど新しいものを歓迎する民族はいない。外から来る文物にはめっぽう弱いのだ。
クリスマスやヴァレンタインに大騒ぎをするのは多分に市場経済が関わっているのでそれはどうでもいいとして、
西欧のしきたりに合わせるため新年がまる一ヶ月もずれたことに誰も何とも思わないのか、
そこが不思議といおうか、歯がゆいといおうか、へんに日本らしさを感じてならない部分なのである。

年に一度、方々に散った家族が顔をあわせる。鐘のおとに耳を澄ます。
祖先たちが豊穣を願ったのと同じように、始まろうとする一年が実りあるものであることを祈る。
国中で祈る、それこそが新年の心臓ではなかろうかと思う。いや、願う。
千差万別の思いを正月という言葉で分かち合うのにキリがいいのが一月一日だというのなら、それでよいではないか。

玄関の正月飾りには梅の花をあしらう。作り物であったり単に紙に描かれたものであったりする。
あるいは特別に栽培されたものなのか。いずれにせよこの時期に咲くはずのない花である。
もし子供にそのことを指摘されたら、
むかしはこの花のほころぶ頃に新年をお祝いしていたんだよ、と
頭を撫でながら教えてあげたい。

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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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