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偽典「バルナバスの福音書」に祝福を与えよ

この世界の価値基準となった「西洋」。その根源に横たわる「キリスト教」。それはある時期に変容をとげ、純粋な「イエスの信仰」からは乖離したものであることを前回前々回の記事に書いた。
とくに前回、トルコ東部の地下都市に眠る信徒の棺の中で発見されたパピルスの束を解読したところそれは「バルナバスの福音書」であり、イエスの母語であるアラム語で書かれており、イエスとともに生きた者の手で記されたかもしれぬものであり、炭素年代測定の結果がその記述を後押しするものであったこと、そして「イエスは人の子」であるとし、現代までキリスト教徒たちの間で守られてきた「イエスは神の子」という教理にまるで反していることとそれが意味することを記した。
「バルナバスの福音書」の発見以来、それに関わる者たちの身に何かが起こり始める。


―我はキプロスのバルナバス、天空暦48年の終わりに、讃えるべき、この世の創造主より、全ての言葉を預けられし精霊と、マリアの子の救世主イエスから伝え聞いたその通りを、第四の写本として此れに記すなり―


天空暦48年とはおそらくイエスの昇天から数えて48年目ではないかと考えられている。西暦でいうと80年頃、ユダヤ戦争によりユダヤ人がローマ帝国にエルサレムを追われ、またユダヤ人であるイエスの使徒たちとその直弟子たちも散りぢりになってからである。
バルナバスの福音書は細々と守られたが325年、ローマ皇帝コンスタンティヌス一世が召集したニカイア公会議の席で採択された「イエスは神の子(あるいは神そのもの)」とする教理に適い「正典」とされたマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書の四書の他は炎に投じられ、バルナバスの福音書も例外ではなかった。禁書とされたこの福音書を携えるものは死刑に処されるほどであった。しかし迫害を逃れて密かに写本・翻訳が行われ生き延びたバルナバスの福音書がヴァチカンの法王直属の特別収蔵庫に眠っていた。16世紀の終わりにそこから盗み出されたとされる福音書が18世紀初頭にオーストリアの軍人プリンツ・オイゲンの手に渡りウィーンの図書館に収められ近代になって発見された。それはイタリア語訳本であった。
その英訳版が1907年にイギリスで「The Gospel of Barnabas」という題で出版された。しかしその発売日に何故か市場から姿を消し世に広まることはなかった。一説によればヴァチカンの修道士たちが一般人を装い書店という書店に列を成して買い占め、そうして集めた本を全て処分したという。大英博物館とアメリカ議会図書館に一冊ずつ残るのみとなった「The Gospel of Barnabas」のマイクロフィルムを入手したパキスタンのイスラム教徒が再版をかなえ初版から72年ぶりに日の目を見ることになった。


「The Gospel of Barnabas」の内容は明らかに新約聖書と相容れないものであった。使徒パウロを「騙された者」と呼び、三位一体を完全否定、イエスは神がアブラハムやモーゼ同様に預言者として遣わした「人の子」であり、磔にされる間際に神が天に引き上げ死なずして天国の住人となり、替わりに十字に架けられたのはイスカリオのユダであり…、いずれもカトリックをはじめいかなるキリスト教社会の認めようのない内容であった。さらにその中では預言者ムハンマドが現れることを予示されていた。
あたかもイスラームの教義に平行しているかのような「The Gospel of Barnabas」を教会はイスラム教徒の作為により書かれた「危険な偽書」と認定している。そして議論に上るたびに強硬にその内容を否定するのであった。


「ハッカリ文書(トルコのハッカリで見つかったバルナバスの福音書)」と「The Gospel of Barnabas」は原本と訳本の関係である。が、厳密にはそうとは言えない。アラム語からおそらく古ギリシア語、ラテン語、そしてイタリア語を経て英語に訳される段階でその意味を大きく変えてしまうほどの致命的な誤訳があって不思議ではない上に、訳者の主観と能力が必ず作用して原点から遠ざかることが余儀なくされる。純粋であることが求められる「福音」の翻訳は実は不可能なのである。であるからこそ、この福音書がよりイエスに近い時代にイエスの母語で書かれていることの意味が大きい。

ハムザ・ホジャギリは発見以来このバルナバスの福音書に関わり続ける数々の古代語の研究家として活躍するトルコ人である。ハムザ師曰く、バルナバスの福音書はその記述、その精神、その韻律どれをとってもイスラームの聖典であるクルアーンに共鳴するという。なぜそのようなことが起こりうるかは明白、ユダヤ教もイエスの信仰もそしてイスラームもそれぞれ矛盾することない同じ教えだからである。

ハッカリ文書の写本がゴラン高原に存在することを解読したハムザ師は旧知であっ
たヴィクトリア・ラビン(暗殺されたイスラエルの首相イツハク・ラビンの孫娘)に協力を求めた。イスラエル占領下のこの地ではラビン首相亡き後もその威光は健在であった。程なくバルナバス福音書の「ゴラン写本」を発見、そして解読する。師が解読文を英語で書き下し、それを読んだヴィクトリアはイスラームに帰依してしまった。

世界のどの古代遺跡の調査状況も諜報機関には常に筒抜けである。ましてやモサドのお膝元ともいえるゴラン高原の調査などはすぐにヴァチカン法王庁の知るところとなっていた。ハムザ師の解読が進む中で法王庁からの接触が始まり意見交換がなされていた。バルナバスの福音書とクルアーンが「同じ泉から流れる川」であるとのハムザ師の主張に対し、法王庁から来た枢機卿マルコはそれを否定するかわりにこう述べた。


「たとえ天からイエスが舞い降りようと、われわれのシステムは変わらない」


法王庁からゴラン写本を買い取りたいとの交渉を受けるヴィクトリアだが高額の提示にも断固として応じることはなく、それが禍したか27歳の彼女はモサドの手の者により殺害されてしまう。こうしてゴラン写本は渦中に陥りギリシアのある出版社に二束三文で買い取られてしまう。枢機卿マルコはその後原因不明の死を遂げている。

アンカラの司法裁判所の証拠品倉庫の中で2008年に奇妙な山羊皮製の本が見つかった。これもアラム語を古シリア文字で綴った文書であることが判るとバルナバスの福音書の原本ではないかという期待が持たれ炭素年代測定が行われたが、結果はおよそ1500年前に書かれたものであると判りバルナバスの時代のものではなかった。ハムザ師にその写真が送られると、曰くこの文書は「全く出来の悪い」聖書の一種で、およそ福音を伝えるために守られた本などではあり得ないという。皮の質が悪く書体も幼稚で、何より本の背面に十字架が描かれているなど福音書としてあるまじき姿という理由であった。皮肉なことにこの山羊皮本の出現によりバルナバスの福音書自体がイスラーム誕生後にイスラム教徒によって書かれた偽書であるとの評価がさらに高まった。この山羊皮本は2000年に摘発された古美術品窃盗団から押収されたがそのまま警察で眠っていたという。バルナバスの生地キプロスにその名を冠した聖バルナバス教会があり(バルナバスの墓所として知られているが信憑性は薄い)、実際に1996年に聖バルナバス教会はキプロス軍(トルコ軍の出先機関)の将校によって荒らされている。そしてこの事件を調査していたキプロスの新聞記者は同年何者かに殺害されている。結果を俯瞰すればこの山羊皮本をめぐる一連の事件はバルナバスの福音書を貶めるための謀りごとと考えられる。(トルコ軍の行動は常に不可解であるがイスラエルとの関係が緊密であることを考えれば理解しやすい。)

ハムザ師はバルナバスの福音書の全文を読んだおそらく唯一の生存者ではないかと思われる。そのハムザ師に対してもモサドをはじめその他正体不明の組織からの脅迫が止むことはなかった。研究を放棄することを要求され、従わなければ生命はおろか地位・学歴・職歴・出生証明・国籍の全てを白紙にすることもできると脅された。解読作業に関わる出版社や新聞社の人間が相次いで不慮の事故に遭い、さらに師は2003年ごろから癌を患い現在も闘病中である。イスタンブールの自宅から一歩も出ることなく暮らしているが訪れる取材には応じている。またテレビにも何度か電話を通して出演している。命などは惜しくないが身近な人々に事が及ぶのは耐えられないとする師は、すでにその全容を知りながらも福音書の訳文を発表することなく関連の執筆も一切行わず、取材を通してその内容の断片を語るのみである。


堕落したユダヤ教社会に生まれたイエスが広めたのはユダヤ教の原点に還らんとする教えであり「キリスト教」なるものを広めたというのは間違いである。イエスの昇天の後になって一神教の道から逸れ、ローマ帝国領土内の土着信仰―多神教的偶像崇拝―の鋳型に嵌められたのが「キリスト教」である。その種を撒いた者こそがタルソスのパウロであった。イエスと使徒を激しく迫害したパウロは突然回心し偶像崇拝者たちにイエスの教えを説きはじめる。それまで荘厳な、時には禍々しい姿をした「神々」を信じ、犠牲を捧げてその御心に適えば死後にこの世に生まれ変わると信じていた人々にとり目に見えぬ唯一神というものは想像に及ばぬ存在でしかなく、この世の人生は一度きりで肉体が蘇ることはないとする教えはとても認められるものでなかった。そこでパウロはイエスが「神の子」であるという主張を以って布教を行った。つまりイエスという媒体に神性を憑依させ神を物質化=偶像化したのである。

それによれば、信徒の全ての罪を背負うイエスを十字に架け、父なる神にそれを犠牲として捧げ、イエスの復活は罪が許されたことを意味し、信じるものは同様にこの世に生まれ変わることが出来る―イエスの教えから遠く離れたこのパウロの教えは瞬く間に多くの信徒を得た。論述に長けたパリサイ人であるパウロの影響力は強かった。パウロが使徒たちの中で着実に地位を固める中、それと争おうにも到底敵わぬバルナバスは去ってイエスと過した日々を振り返り「イエスの教え」を書きしたためた。それがバルナバスの福音書であり、逆ににローマ帝国の国教に上り詰めたのがキリスト教という名の「パウロの教え」である。


ヴァチカンのみならず全てのキリスト教会はバルナバスの福音書に光が当たることを望まない。教会の権威に亀裂が走ることは避けられない。亀裂はさらにキリスト教を政治の道具として、社会価値の礎として、イデオロギーの源泉として、非道の方便として利用してきたキリスト教社会つまり「西洋」に及んでその破壊すら招きかねない。二千年来この福音書は西洋の命取りであった。たとえ天からイエスが舞い降りようと変えられないという彼らのシステム、それはヴァチカンの体質などに非ず中世から近代にかけて築いた西洋中心の世界支配体制を指している。そして「西洋」を後ろ盾にするシオニスト、あるいは隠れ蓑に使うユダヤ人がいる。

現代の世界の枠組みの中、イスラームは「仮想敵」として想定されている。文盲、貧困、飢餓、女卑、暴力の先入観を植え付けたこの仮想敵をひたすら批判し攻撃を加えることで自らの正義を貫き、その影で行う搾取により資本主義帝国を築いた西洋としては、炎にくべた素顔のイエスの教えがイスラームに生き写しであり、しかもその預言者の誕生を予示していたことを表沙汰にされては非常にまずい。



さて、「The Gospel of Barnabas」に書かれていた「預言者ムハンマドの予示」は果して「ハッカリ文書」「ゴラン写本」にも存在した。ハムザ師の解読によれば

―我(イエス)の後にもう一人の預言者が続くであろう、それに従う者たちは熟れた麦の穂のごとくになろう―

そう表現されているという。
もとより旧約聖書(申命記)にも新約聖書(マタイ記)にも後に大預言者が現れるであろうということは書かれている。ただしキリスト教側はそれをムハンマドであるとは見ておらず、彼らに言わせれば旧約にあるのはイエスの誕生であり、新約にあるのはイエスの復活がそれに当たるとされている。

「熟れた麦の穂」をどう解することが出来るか、ハムザ師によればそれは繁栄や増殖を示すとされる。しかし僭越ながら筆者が付け加えさせてもらえば、たわわに実り穂をたれて地を覆う熟した麦が一斉に風になびくその様子がイスラム教徒の集団礼拝の光景を暗示していると思えてならない。ハムザ師は文字の世界に生きる人間であるがゆえ視覚からの安易な発想は避けているのかもしれない。凡人である筆者にはわからない。が、イスラーム特有と思われている頭を垂れ額を地につける礼拝の形がユダヤ教の古くからのそれであり、それはイエスと使徒たちに受け継がれ、そして今もアッシリア東方教会やエチオピア・コプト正教会に残ることをここに付け加えておきたい。



日本には縁のない話、と思われる方々も多いはずである。遠い国の昔話に聞こえるかもしれないが、「西洋」に無体を受ける筆頭の国として是非お気に止めていただきたい。神の御心のままに生きていたのでは物質の豊かさの中で歓喜することが許されぬことを知り、神ではなく物質をを礼賛する世界をひそかに築こうと目論んだ西洋は、福音を改竄して偶像つまり手製の神を祀らせたのである。

物質へのその凄ざまじい欲望を原動力に彼らは近代までに世界の大部分を支配下に置く。その後は武力による支配に加えてイデオロギーによる支配がはじまる。
イデオロギーとは疫病である。人はこれに侵されると物質界の価値に盲執し、虐殺が正義に、庇護が差別に、搾取が取引に見えてしまう。そしてよそから借りてきた言葉と脳で主張を始める。別の病人とは意思の疎通が全く出来なくなる。時として胸に涌くいくばくかの疑いも借り物の脳は受け付けない。
何も疑うことなく西洋の価値基準にあわせて自らを作り変えたある国はいま何もかもを吸い尽くされようとしている。それでもまだ西洋の発明したイデオロギーを疑うことができず西洋の政治や制度に規範を見出そうと腐心している。

これもまた西洋がその手で作り上げた神々であり、偶像である。その偶像の御心に沿うため、近づくため、人々は物質と精神を犠牲として捧げ続けている。犠牲の血を吸う土は穢れ、新たな犠牲を生み出す。紀元前から戒められていた偶像は、姿を変えて今も人の世を狂わす。




イスラームはそれまでにこの世に現れた預言者たちをすべて神の使徒であるとし、それぞれに託された預言は対立することはないと、モーゼも、イエスも、ムハンマドも同じ道を歩むものであると断言している。

セルマンは6世紀の終わりにうまれたユダヤ人であり、後にキリスト教に入信しアンティオキア教会で学ぶ。祈りの日々の中、遠い砂漠の国に預言者が現れたという噂を聞き是非会ってみたいと旅に出た。アラビア半島のメディナに至ったセルマンは人買いに囚われ奴隷の身となるが、彼を買い取り解放したのは預言者ムハンマドであった。セルマンはムハンマドの言行に触れ、まさしく神の遣わした預言者であることを認めイスラームの門をくぐる。しかし問わずにはいられなかった。アンティオキアの教会のかつての同胞たちは天国に行けないのだろうか、と。イスラームを知らねば天国も知り得ぬとするムハンマドの答えにセルマンは眠れぬ夜を過ごした。神への感謝と祈りをささげる心優しき同胞たちに救いはないのだろうか、セルマンはふたたび、みたびその問いを投げかけた。するとムハンマドにひとつの預言が降りた。

―疑うなかれイスラームと共にある者、モーゼと、イエスと共にある者、そして偶像を戒めるあらゆる教えと共にある者は、その教えの中で神と審判の日を畏れ、神の名の下に善行に勤しむならば、審判の日に恐怖と悲しみはおとずれぬ(クルアーン 雌牛の章62節)―

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バルナバスの福音書

1981年ハッカリ県ウルデレ村―トルコ東部に位置しシリアと国境に近いこの村であるものが発見された。
狩りの途中に猟犬を見失った村人はその犬を探して洞穴にたどり着く。そこで足の下のほうから―大洞穴に響き渡るような―吠える声を聞いた。その声を頼りに下方に降りてゆくとそこには地下都市が蟻の巣のように広がっていた。
彫刻の施された石棺を見つけると「お宝」の期待に胸を躍らせながら村人はその蓋を開ける。そこに見つけたのは遺骸とその腕に抱かれた書物―見たことのない文字でうめられたパピルスの束―であった。
村人たちはそのパピルスの束を持ち帰る。聖書であろうことは間違いなく、これを換金しようと考えた村人はシリア正教の司祭のもとへとそれを持ち込むのであった。現代はトルコ国境の内側にあるとはいえここではシリア正教徒のシリア系住民が僅かながら生活している。この地域は原初キリスト教徒たちがローマ帝国の迫害を逃れて隠遁生活を営なんだ中心地のひとつであり、その後シリア正教教会の確立とともにその勢力範囲に含まれた。

しかし司祭にもさっぱり読めなかった。このパピルスの価値のわからぬ村人はとにかく売却しようと客を探し回った。そのうちにある国会議員の注意をひき、専門家の鑑定を受ける運びになった。


ハムザ・ホジャギリ(Hamza HOCAGİLİ)は十数種の古代語に長けた、特にアラム語にかけては世界有数の識者であった。ハムザ師はパピルスの最初の二枚を食い入るように見つめると、それは古シリア文字で書かれたアラム語の文書であることがわかった。

―我はキプロスのバルナバス、天空暦48年の終わりに、讃えるべき、この世の創造主より、全ての言葉を預けられし精霊と、マリアの子の救世主イエスから伝え聞いたその通りを、第四の写本として此れに記すなり―

洞穴の石棺に眠る者が胸に抱いていたのは、バルナバスの福音書であった。


炭素による年代測定によればパピルスが紀元前、使用されていたインクは西暦80年頃のものであることがわかった。イエスの生誕を紀元前四年とし、その昇天を西暦27年あたりであるとすれば「天空暦48年」というものを「イエスの昇天から48年目」と解釈することができ年代測定結果とほぼ噛み合う。このパピルスの束がいかに重大な意味を持つものかを知り、そして厳重に保護し記録に残さなければならないことを村人に説くが高額を要求され交渉は難航した。やっと出資者を見つけ出し契約までこぎつけ、いざ村人が師のもとに福音書を手渡すために村を出るとその車は軍警察の検問にかかり盗掘の疑いで身柄を拘束される。福音書は没収されてしまいその後この福音書はトルコ軍司令部の手に渡る。


聖バルナバス、イエスとほぼ同年代にキプロスに生まれた実名をヨセフというユダヤ人。バルナバスとは「慰め(ナバ)の子(バル)」を意味する霊名である。イエスの十二使徒の中には含まれないものの、イエスの傍に身を置きイエス昇天の後も使徒たちの布教に加わった。私財のすべてを手放して「イエスの言葉が少しでも遠くまで伝わるように」と布教のために身を尽くす。新約聖書に含まれる「使徒行伝」のなかに「聖なる魂に満ち溢れる者」と賞賛される。

「福音」とは「よき知らせ」、つまり創造主たる神が預言者に託した言葉である。イエスが神に預言を授かりそれはイエスの言葉、振る舞いを通して人々に伝えられた。そしてその昇天(新約聖書でいう磔刑)の後に弟子たちの口伝により福音として広められた。それをその後に集めて書き表されたものが「福音書」である。
イエスの母語は何であったか、宣教を始めた地ガリラヤでは当時アラム語が使われていた。イエスが使徒たちと交わした言葉は自然に考えればみなアラム語だった筈である。であるならばイエスを直接知る者がその言行を書き残そうとしたときに使われる言語はアラム語であるというのが考えやすい。しかし現存するの福音四書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ伝)の最古のもの(三世紀)はみな古ギリシア語である。ならばそれはアラム語から翻訳したものであるか、あるいははじめから古ギリシア語で書かれたものかのどちらかである。問題はイエスがこの世に在るうちにその言行が文字で綴られなかったことにあるのだが、口伝を繰り返した後に著された福音四書の内容と「イエスに託された天啓」の間には深刻な距離があると言っていい。

もしバルナバスが本当に福音書をアラム語で書き記していたのであれば、「天啓にいと近き書」にちがいない。

1986年、ハムザ師は当時政権にあったトゥルグトゥ・オザル首相に軍部が保管しているバルナバスの福音書の翻訳の重要性を説き口添えを願い出た。さまざまな駆け引きを経て一年後にやっと軍部が首を縦に振り最初の十数枚を撮影、軍司令部の中、いくつもの鉄の扉に隔てられた厳重な警備の元に翻訳が開始された。
ハムザ師によればそこにはまさにモーゼが神から賜りし預言と同じことを、つまりこの世を創造した唯一神のほかを神とするなかれ、人の子が手ずから偶像を作り崇めることなかれ、神の名をみだりに口にするなかれ、安息日に働くことなかれ、父母を蔑ろにするなかれ、殺すなかれ、盗むなかれ、姦淫するなかれ、嘘をつくなかれ、隣人の家を、家人を、奴隷を、家畜を、ひいては全てをよこしまな目で見るなかれ…すなわち「十戒」を説いていたという。そしてソドムの罪への警告やイエスがマリアから生まれた人の子であること、預言者であることがはっきりと書かれていた。


イエスはユダヤ人である。そして使徒たちも含めモーゼの教えを守る敬虔なユダヤ教徒であり、礼拝は会堂(シナゴーグ)にてトーラー(モーゼ五書)に沿ってなされた。キリスト教はユダヤ教徒と寸分の違いなき同じ信仰であるはずであった。が、時とともに解釈を曲げ偽善で塗り固められたユダヤ教はモーゼの言葉を受け入れられないほどに堕落した。
エルサレムのユダヤ教徒たちはイエスを弾圧した。神殿を商業施設として使い私服を肥やし、神を尊ぶふりをして実は物質を拝する、そして論理で武装し堕落を指摘する隙を与えないユダヤ人たちの態度をイエスが激しく叱責したからである。唯一神とその神殿を利用して富を築いたユダヤ教徒にとって純粋な正論を語るイエスは憎々しい存在であった。ユダヤ教徒の中でもサドカイ派とパリサイ派による迫害は苛烈を極めた。

弾圧者の筆頭に在ったパリサイ人(びと)のパウロはローマの市民権をもつユダヤ人であった。ある日、天空にイエスの姿を見てさらにその声―汝を異邦人への伝道者とせん―を聞き改心してイエスの教えに帰依する。当初はかつての迫害の恨みからユダヤ人たちから強く拒絶されはしたが、故郷に近いアンティオキア(現トルコ・アンタクヤ)で多神教徒(古代神を祀る偶像崇拝者)たちに対し熱心な伝道を行った。
イエスがこの世を後にしてからはその兄弟のヤコブ(聖マリアがイエスの後にヨセフとの間に得た子)がエルサレムの信徒たち(エルサレム教団)の指導者となっていた。そのヤコブにアンティオキアの噂が届くと様子を伺うため使者を立てるが、それに選ばれたのがパウロと旧知であったバルナバスである。
バルナバスが見たアンティオキア教会はいまだ多神教の影を纏うおよそ一神教とは言い難い有り様であった。まず割礼を行わなかった。安息日を守らなかった。そして手製の偶像の前で犠牲を屠り、その血と肉を口にした。しかしパウロをエルサレムに連れ帰りヤコブに引き合わせると、新たにモーゼの教えに触れたのであれば直ちに全てを実践するのは難しいであろう、偶像に捧げた犠牲の血肉から遠ざかりさえすれば神は汝らを拒みはしない、と、ヤコブは周囲の反対を押してアンティオキア教会を破門せずに受け入れた。その後パウロとバルナバスは伝道の道を共に歩んだ。
しかし「イエス」の在り方について論争が起こった。バルナバスは「イエスは人の子」であるとし、パウロは「イエスは神の子」であるとし、二人は激しく争った末に袂を別つ。傷心のバルナバスは故郷キプロスに戻りそこで生涯を閉じたとの伝説が残る。

弁論に長けたパリサイ人のパウロはやがて使徒として迎えられ、イエスの言行の解釈を明文化する上で絶大な功績を残したとされる。パウロの名を冠した数々の手紙は「パウロ書簡」として福音四書とともに新約聖書に含まれる。


エルサレムは多神教を奉じるローマ帝国の一属州であった。一神教の立場からローマの古代神を敬わないユダヤ教徒社会のエルサレムは(神へ情熱だけではないが)帝国と反目することになる。西暦70年、ユダヤ戦争でローマ帝国に敗れたユダヤ人はエルサレムから追い出される。ヤコブの率いるエルサレム教会も今のヨルダンへと活動の場を移した。しかし地理的に遠いアンティオキア教会は戦渦を逃れてそのまま存続し布教活動を続け帝国内に膨大な信徒を獲得した。やがてローマ帝国がキリスト教を容認しさらに国教とするに当たって中心に存在したのがアンティオキア教会の流れを汲むものたち、つまり多神教の要素を多分に含むパウロの弟子たちとそれに教化された信徒たちであった。彼らの考えと後に結びつくのは「神」とは「父なる創造主、子なるイエス、父が子に吹き込んだ精霊」の三位を一体とする理論である。

四世紀に入り、無尽蔵に拡大したローマ帝国を一つの共同体として掌握するための決め手に事欠いたコンスタンティヌス一世は信徒の増え続ける「イエスの信仰」を共同体意識として利用することに目をつけた。そのために混乱した教義を整理し正当教義を明示する必要に駆られたのである。口伝により広まったイエスの言行が遠く離れた各地で拾い集められ収められた福音書のその数は数千に及ぶ。どれが正典で、どれが外典で、どれが異端であるかを審理し「キリスト教」を確立するため325年、ニカイア(現トルコ・イズニク)にて初めての公会議が行われる。

審理の争点は「イエスの存在について」「三位一体論」の二つであった。しかしこの時代にはパウロの流れを汲む「イエスは神の子」と「父と子と精霊」という考えがすでに権威を得ており会議の流れはおのずと決められていた。そして採択されたのが「ニカイア信条」であり、膨大に集められた福音書のなかでニカイア信条に適う福音書はたったの四書、聖マタイ、聖マルコ、聖ルカ、聖ヨハネの名を冠するその四書のみである。しかし「冠している」だけで実際に誰がいつ書いたものであるかなどは学説ばかりで実は不明である。ただし共通項として「三位一体と神の子イエス」があることを踏まえればこの四書は「パウロの福音書」と呼ぶことが出来よう。こうしてモーゼの教えと決別して確立したのが「キリスト教」である。「イエスの信仰」とは別のものである。
異端とされたほかの福音書は炎にくべられた。異端として追放されたアリウス派をはじめとする諸派は隠し持った福音書を手に東方へと逃れ、岩窟に地下都市を築き隠遁の時代をすごす。

「三位一体」の構造をなぜ一神教が許さないか、それは正しい説明が広くなされていないのでここに記しておく。
「神」とは「在りて在るもの」である。その存在の原因は存在せず、その存在は何者にも依存しない。誰からも生まれず、そして誰も生まない。そして人の姿はおろかどのような姿をも持ち合わせない「みえぬ存在」、つまり「非物質」である。肉体を持ったイエスを神の子とするのはイエスを媒体として神を物質化することである。物質化された神と神格化されたイエスは「同質」となり人々は目に見えるイエスを直接「神」として見てしまう、ここですでにキリスト教が創造主をおいてほかに神はなしとする一神教の原則から外れたことになる。ユダヤ教、原初キリスト教、後のイスラ―ムにおいても預言者(アダム、ノア、アブラハム、モーゼ、ダヴィデ、イエス、ムハンマド、そのほか大勢)は神の言葉を託されただけであり神そのもの、或いは同質などとはされていない。また、神像やイコンのみならず偶像とはあらゆる物質がそれになり得るのである。肉体とてその内に入る。人の子が何物かに価値を置き固執し、そのために自己や他人を、社会を、国家を犠牲にささげることこそが偶像崇拝である。そして現代、最も身近な偶像は貨幣である。

じつは三位一体の構造は大昔からあった。

太古、地中海沿岸からオリエント、インドに根を伸ばす古代信仰や神話群に三神一体(三相一体)を多く見出すことが出来る。いずれも創造・繁栄・破壊の三相の循環の永遠性を意味する信仰であり、これは天と大地の恵み(創造)による収穫(繁栄)と枯渇(破壊)の営みに対する畏怖の形として農耕に深く関係している。その根にあるのは「再生」への強い願望で、収穫や繁栄を司る神はデーメーテールやキュレベーのような地母神として捉えられていた。ギリシア神話は特にその色が濃く、それをほぼそのまま踏襲したローマ世界にも「三神一体」と「地母信仰」が継承された。
そして信仰が信仰として在りつづけることはなく必ずや政治が影響する。古代国家の政治が神の名を騙ることでなされてきたことがそれを物語る。そこで漏れることなく見られる形が「支配者・神官・信託」、それは支配者の意向を神官の口から信託と偽って吐くことであり、キリスト教の「父・子・精霊」の関係の原型を見ることが出来る。

三位一体というラテン語を最初に使ったのは二世紀後半にカルタゴ(現チュニジア―北アフリカも多神教的地盤にキリスト教が浸透した地域である)で生まれたテルトゥリアヌス、彼はキリスト教徒であり法学者であった。ストア派哲学に基づく法精神をふんだんに盛り込んだラテン語のキリスト教著作が彼によって残され、その中にあった言葉が「三位一体-Trinitas」である。この構造を以って国家を統治することの有効さをよく知っていたローマ人たちがこれを見逃すわけがなかった。地中海の地にもとからあった三神一体構造がこうして三位一体として生まれ変わり、ニカイア公会議を機にキリスト教の礎石となった。

地母神と結び付けられたのが聖母マリアであった。「人を産むもの」か「神を産むもの」の論争が行われ「神の母」との決着がつけられたのは431年のエフェソス(現トルコ・エフェス)公会議であるが、この地はかつてのアルテミスを豊穣女神と崇める地母信仰の中心地でありキリスト教の浸透後はマリア信仰がそれに取って変わった場所でもある。マリアを「神の母」とするに明らかに有効な場所で持たれたこの公会議では「人の母」たる見解を崩さなかったネストリウスが異端とされエジプトに追われた。

一神教での「再生」とはこの世での仮の人生を終えたものは肉体を離れて真の人生を迎えることを指す。しかしキリスト教での「復活」の描かれ方はこの世での肉体の再生の意味が強い。これには古代信仰に脈打つ「再生への願望」が少なからず影響している。


1991年、ハムザ師の翻訳が突然中止された。政権や軍の幕僚が交代しそのほかの政治的な動きが複雑に絡んでのことだがその後ヴァチカン法王庁から買取の打診があろうとカーター本米国大統領が見せろと言おうと軍部は頑として受け付けなかった。バルナバス福音書は軍部の保管庫に閉ざされてしまう。
翻訳が済んでいない残りのパピルスのうち数枚のコピーがハムザ師の手に残るのみとなるも奇跡とはこういうものなのであろう、その中にはこの福音書の兄弟ともいえる写本の在り処が記されていた。

その場所はイスラエルに占領を受けるシリア領ゴラン高原、サウジアラビア北部にあるトゥル山の修道院、北イラクのザホの三箇所、つまり最初の一枚に書かれていたようにこの福音書は全部で四書あるという。

ゴラン高原の文書の位置はダヴィデ王に纏わる遺跡の地図とともに記されていた。シリア領でありながらイスラエルに不当に占領されているゴラン高原でこの文書を探すためにハムザ師が協力を求たのはかつてイスタンブールの大学の研究室に勤務していたころ学生であったヴィクトリア・ラビン、在任中に暗殺されたイスラエルの首相イツハク・ラビンの孫娘であった。彼女が発起人となりドイツ企業の提供をつけ遺跡探索・発掘が進められた。2002年、バルナバス福音書の「ゴラン写本」が見つかった。同じくアラム語の古シリア文字による記述、そして同じ内容、同じ神の言葉…

2007年にサウジアラビアにあるという写本もアラブの軍人によって発見された。北イラクのものはいまだ発見されていないという。


「ゴラン写本」をハムザ師が翻訳し、ユダヤ教徒であったヴィクトリアはそれを読むとイスラム教徒としての道を選ぶ。
そしてエチオピアから来たという何者かの手にかかりヴィクトリア・ラビンは命を絶たれる。

バルナバスの福音書を西洋は歓迎しない。ハムザ・ホジャギリはこの後に多くの死を目の当たりにすることになる。以下次号。



迷える魂に光を、迷わぬ魂に力を、迷わす魂に雷を与えよ―


アシュレ ノアの方舟の炊き出し

預言者ノアとその家族たち、そして動物たちのつがいを乗せた方舟は、長い漂流の末に陸に辿り着いた。ノアたちは神に感謝をささげ、船に残ったありったけの食料を炊き出してともに食し、再び大地を踏みしめることの叶ったその日を祝うのであった。

なにしろノアの方舟のことであるから、積み込んであった食料は麦や木の実、豆類がほとんどであったことだろう。それをまとめて麦粥に似たものを炊いたと伝わっている。そして今もそれにちなんで「大地との再会」を祝うこの日を迎えたイスラム教国の町や村、そして家庭では朝から炊き出しの支度をする。方舟の麦粥を忠実に再現したものではなく誰が食べても美味いと感じるようなものに変わってはいるものの、素朴でやさしい味のする麦粥「アシュレ」について書いてみたい。


「アシュレ」とはアラビア語の数詞「10‐アシュラ」から来ている。預言者ノアとその一行が大地に降り立った日はイスラム暦第一月(ムハッラム月)10日にあたる。太陰暦であり閏月を用いないイスラームの暦の一年は365日に11日ほど足りないため信仰にかかわるすべての行事は毎年11日ずつ早く訪れるのだが、今年は去る11月の24日にその日を迎えた。ムハッラム月の残りの二十日間、つまり次の新月の晩がくるまではこのアシュレを何度か味わうことができる。

さて、いったいどのようなものであるか。
粥といっても塩味はつけない。麦と一緒に豆や果物を煮て最後に砂糖を加える「甘味」である。文字で書いてしまうと日本人には馴染みにくいもののようだが、みつ豆や汁粉の遠い親戚だと申せばお分かりいただけるかもしれない。

大麦は研ぎ、ひよこまめ、白いんげんをそれぞれ別に一晩水につけておく。干しぶどう、干し杏、干しプラム、干しりんご、干しいちじく、そのほか家にある乾燥果物がっさいを一緒に茹でる。
台所で作るならばここで圧力鍋のお世話になる。最初に麦を大目の水で七分炊きにする。この時点で炊きすぎると後で溶けてしまうので早めに蓋を開け、大鍋にうつす。水を足し、焦げ付かないように時々かきまぜながら弱火にかける。
次にひよこまめ、づづいて白いんげんも圧力鍋にかけ、それぞれやや硬めに炊いて大鍋に加える。
乾燥果物を茹で汁ともども大鍋に空ける。
さらに生の果物をきざんでくわえる。今は冬なので柑橘類やぶどう、りんごがある。そしてくるみや落花生、杏仁などの木の実も煮る。栗があれば下茹でして加える。それぞれに火がとおった頃に砂糖で甘味をつける。
白玉団子や餅を入れたらさぞ似合うだろうなあ、などと思うほど、日本人の筆者にとって親しみの沸くアシュレである。

          アシュレ



大鍋のアシュレを小鉢に分け、ざくろの粒や胡麻、くるみを砕いてちりばめる。それが冷めぬうちに近所の家々へ「召し上がれ」と配ってあるく。ムハッラム月は毎日のように、どこからともなくアシュレがやってくる。寺院の前や市場に大鍋が設けられて道行く人に振舞われる。振舞う側もそれを受ける側も「神のご加護がありますように」と、お互いの平安を祈り謝意を伝える。万物はそもそも神からの賜りもの、神はそれを隣人と分かち合い世に還元することを望むと聖典クルアーンに繰り返し記されている。イスラームに限らずこの世の多くの信仰で教えられていることである。


ノアも、モーゼも、アーダムも、一神教の信者たちにとっては実在の人物であり伝説などではない。楽園を追われたアーダムとエヴァから生まれた子供たちが世界に散らばり今の世の中をつくったと認識している。ヒトの祖先が猿であったなどと言えば笑われるか、下手をすると叱られてしまう。

旧約聖書に記された「創世記」によれば、アダムの死後その子孫たちは時とともに堕落し世の中は業に満ちあふれ、神に跪き天命に従う者は絶えようとしていた。怒れる神は大洪水を呼び起こし生きとしけるものすべてを滅ぼすであろうことを預言者ノアに告知し、しかしノアとその家族だけはこの世に踏みとどまりその子孫たちが人の営みを続けることを許した。方舟をつくり動物という動物の全てのつがいを運び込み、大洪水に備えよとノアに命じた。

クルアーンにも預言者ノアはいくつかの章にわたって記されているが洪水と方舟については旧約の記述とはいささか違いがある。神は堕落の民「ノア族」に対し預言者ノアを遣わして(民族の中のひとりであるノアに預言を与えて)神を畏れ行いを正すよう命じた。しかし聞く耳を持たないノア族を神は見限り、大洪水を起こしこの救いようのない民を滅ぼすとノアに伝えるが、ノアの家族そして最後の日までに改心した者たちには救いを差し延べるとした。そして方舟の作り方、食料の保存のしかたは神がノアに預言という形で与えたとある。
方舟を作るノアは周りからそしりを受け続けた。
「預言者を名乗るノアよ、どうしたことか、今は船大工に身を落としたか」と笑った。
大洪水が近づいた頃に方舟は完成した。食料と動物たちの餌が運び込まれる。

旧約では動物たちを確保するよう神が命じているが、クルアーンでは動物たちが自ら方舟に集まってくるとある。また旧約にある「動物」とは哺乳類、鳥類、爬虫類、昆虫その他全ての動物種であると明記されているのに対しクルアーンにはそのことは触れられていない。

風雲はいよいよ急を告げ天から滝のごとく降る雨の中でノアは人々に改心を求め呼びかけ続けた。しかしそれに耳を貸す者は少なく、八十人がようやくノアに続いたという。ノアの息子たちのひとりケナンも頑として方舟に乗らぬ者の中にあった。高い山にのぼり洪水をやり過ごすのだといい、方舟に乗ること、つまり神にひれ伏すことを拒み現世を選んだのである。ノアは深く嘆き神にケナンを救うことを哀願したがそれは赦されず、水が大地を呑み込むと方舟は溺れるものたちを後にすべり出した。
救いがたいノア族の中からでさえ神とともにあろうとする預言者ノアが現れ神の道を説き続けたことも、その預言者の息子たるケナンでさえその声を聞き入れずに背徳者として沈んでいったことも共に深い何かを訴えている。ケナンが逃げた高い山とてもとより神の創造物であり、神の怒りをかわす力は持ち得ない。


この洪水が何を意味しているかは議論が絶えない。最後の氷河期がおわり海水が急激に上昇したことを指すとするものもあれば中東の一部地域の川の氾濫という考えもある。旧約にあるようにノアがこの世の全ての人間の中でただ一人神の目に適った者とするならば、そのほかの全てを滅ぼすための洪水はそれこそ世界規模でなければならない。しかしクルアーンによれば神が見限ったのはノアの属するノア民族であるとされる。そしてこのノア族の拠点はメソポタミア高原一帯であったとの記録があり、となれば大洪水が指すのはチグリス・ユーフラテスの大氾濫という予測も可能になる。

さらに、ノアの方舟が到着した土地も食い違いがある。旧約ではアララト山、クルアーンではジュディ山となっている。いずれもトルコ東部に実在する山であるが400km以上の隔たりがる。学会で勢力を持つのは当然西欧の学者であり、そうなればキリスト教・ユダヤ教の見地から旧約聖書に記されるようにアララト山をノアの方舟が行き着いたところとする意見が定説となった。(繰り返しになるが、中東でも西欧でも洪水や預言者たちの存在は史実とする考えが強く学会の中にも深く根付いている。近代合理主義とは本来水と油の間柄にある旧約の世界だが、西欧・中東の研究者のあいだでは両者の関連付けを試みる斬新な動きすらある。日本はこういう点では甚だしく遅れているといえる。)

19世紀後半からアララト山一帯の調査がたびたびおこなわれている。方舟と思わしき木造の遺構がオスマントルコ帝国政府により発見されたがなぜか調査を断念、しかしそれにより方舟の存在が世界に知られることになる。その後帝政ロシアが没する直前にロシア軍による大規模な調査が行われたが革命の混乱で資料は散逸、そして二度の世界大戦を経て冷戦時代を迎える。東西の緊張が高まるとアメリカの同盟国となったトルコと旧ソビエトの国境付近に位置するアララト山に調査団が近づくことは不可能となった。その中で唯一調査を進めることができたのはトルコに駐留するアメリカ軍であった。そして今日、ノアの方舟についての議論の材料はほとんど米軍の作成した資料によるもので、また一番の発言権もこの国にある。

きな臭い。

一方でクルアーンに登場するジュディ山はといえば、80年代以降はPKKと呼ばれるクルド人のテロリストの潜伏地帯となり調査隊はおろか軍隊さえも近づけない。いや、近づかないのである。なぜならPKK問題は世に知られるところの民族紛争などではなく、トルコ軍部が深く関わる麻薬と武器の密売組織の隠れ蓑だからである。トルコ東部の、かつては絹の道と呼ばれた交通網をくぐるのは駱駝に積まれた絹や香辛料ではなく、イラン・アフガニスタン方面の麻薬と欧州製の武器弾薬に変わった。加えて国内に軍の権威を誇示するためには暴れるテロリストの鎮圧という茶番が欠かせない。武器を売って麻薬を買う国の肝煎りでトルコ軍が周到に用意したでく人形、それがPKKである。だから間違ってもジュディ山にノアの方舟の聖地などがあっては困る。世界中から注目され、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教すべての信徒たちの巡礼地となり、都市が出来上がり、それでは密売どころではない。この地が本当に新天地であったかどうかは別としてそのような厄介は是非とも避けたいところであろう。

人の思いがいかにあろうと方舟は、どこかに眠る。



アシュレの中身は、木に生る実、育てた実、そしてそのいずれかを蓄えた実、といくつかに分けて考えることができる。

木に生る実は天から「たまわる」ものと素直にとらえることができる。秋には木々が枝も折れんが如く実をつけるとわれわれはその恩恵にじかに触れることができる。

育てた実とは土を耕し、種を蒔き、水を引き、春から秋までを身を粉にして働き手に入れる実りである。土や雨や日の光という天の恵みに「そだてる」という人為が加わる。

冬から春にかけて大地は風雪に閉ざされ木々も土も眠りにつく。が、我々は森の獣のように冬を眠りとおすことができない。海を越え南を目指して飛ぶ翼もない。実りのない冬も食べ続けなければ生きられない。そうして、天から「たまわる」もの、そして人が「そだてる」ことで得たものを、「たくわえる」という知恵をもって冬をしのぐようになった。

夏から秋にかけての豊かな実りを乾かし干して冬の糧とし、正しく保存すれば何年でも蓄えておける。このおかげで飢饉をもやり過ごすことができた。この世に生をうけた者たちはより多く、より長く命を繋ぐことができるようになった。


だが、それは両刃の剣でもあった。たくわえは貧者と富者を生み、弱者と強者を分け、物欲に駆られたもの同士を争わせた。業は業を生む。人々は神の名を騙って争いを仕掛けるまでにのぼせ上った。

万物は神からの賜りものであることを承知しながらも、働いて麦を育てる力、それを乾かし、雨露から守り、蓄える知恵とてそもそもは賜りものであることが次第に忘れられた。そして「そだて」「たくわえ」たものを人の手による「私物」と錯覚した。神の手を振り払った。この断絶は人をいばらの道に引き込んだ。



ノアの故事であるアシュレがならわしとして今に伝わるのは、己に与えられた力と知恵を隣人と分かち合い世に還元せよとの暗示である。その逆を行く我々は、知恵も、力も、恐ろしい仕業のために使い続けている。それは廻り回って我が身に、我が子たちに降りかかるであろう。


人の思いがいかにあろうと方舟は、沈みゆくものを後にする。
我々は新天地に立てるのであろうか

ラマダーン 断食月

イスラム世界は去る7月20日を以ってラマダーン-断食月を迎えた。星降る新月の夜から30夜数える次の新月までのあいだ、日中の飲食を絶つ。今年の断食月は夏の盛りにやって来た。

イスラム教国はみな、西暦とヒジュラ暦の両方を使っている。行政は西暦に沿って行われ、信仰に関わる行事はヒジュラ暦が用いられる。
日本の旧暦とおなじく太陰暦であるヒジュラ暦は新月から新月をひと月(平均29日半)とするために西暦よりも11日ほど早く一年が終わってしまう。しかし閏月を設けずに数え続けるので季節は次第にずれてゆく。33年で、一巡する。


断食といってもひと月丸ごと飲まず食わずで過ごすわけではない(無理)。教義にもとづいて飲食から遠ざかるのは空が白みはじめる時刻から日の入りまでである。モスクから響くアザーンの声がその時を知らせる。日没とともに飲食の禁は解かれ(イフタール)、一杯の水から食事を始める。そして真夜中にまた食事をとり翌日に備える(サフール)。

夏は日がながいので断食する時間も長くなる。ここトルコでは毎日およそ18時間、真昼は40℃の猛暑、今年を挟んだ数年は最もしんどい断食月を過ごすことになる。逆に南半球の国々では真冬である。こちらで渇ききっている頃にあちらでは寒さの中で空腹に耐えていることになる。そして16年ほど経てばこの季節は逆転する。なぜか公平にできているこの仕組みは地球が丸いことなど知られていなかった時代から守られている。


仏教の世界でも座禅や無言の行などとともに断食は精神修養のひとつにかぞえられており、日本人からしてみればそれほど受け入れがたい習慣ではなく一般人でも専門家の指導の下で体験できる。そして断食は体の働きを整えることもよく知られている。しかし大きな違いは、日本では断食がもともと僧の修行としての色が濃いのに対し、イスラームのそれは教徒すべてに義務として課されていることである。

断食の義務はイスラム教徒としての自覚が持てる年にまで育った男女のうち体と心に病がない者にあるとされる。妊婦や乳飲み子を持つ母親はその限りではなく、母子のどちらかに害が及ぶようであればしなくてもよい。産褥期と月経中の女性は体調に関わらず断食しない。日中も薬の投与を続けなければならない病人、断食することで回復が遅れる病人、怪我人、また虚弱者も断食してはいけない。そして気のふれたものが断食をしても、させてもいけない。

イスラームの断食は、クルアーンに神がそう望んだとのみ記されておりなぜ行うのかは触れられていない。もとより神の望みに勝るものはなくその理由を突き詰めるなど畏れ多いことではあるが、単に飲食から遠ざかるだけの行事と捉えていたのでは意味がない。

日没までの断食をどう感じるかは人それぞれ、しかしどんなに辛かろうが終りがみえている。日が沈めは食べ物にありつけるのだし、なにより断食月は次の新月になれば終わるのだ。いつ終わるか知れぬ飢えに苦しむ者たちがいるこの世、たったひと月の断食で彼らとその苦しみを「分かち合う」ことなどできまいが、しかし少なくともそれに思いを馳せることはできよう。ここが断食の入り口である。

一杯の水に喉が鳴る。これを堪えることができるならば、もはや奪うことから遠ざかることができる。
あと少しで日が沈む。これを待つことができるならば、もはや目先の欲に狂うことはない。
内側にある「欲」が爪を立てる、この獣を飼い慣らすことができれば、人の道を違うまい。

人々はそれを試されている。



心のありかの体はどうか。

心にくらべて体のほうはもっと賢くできている。十数時間の断食は最初の数日こそ堪えはするがその後はすんなりと慣れてしまう。消化器も泌尿器も、限られた水分と栄養で一日をどうやりくりするか勝手に考えてくれる。白く乾いてしまった唇も三日もすれば元に戻る。

中が空になると胃は何か溶かすものはないかと盛んに働き出す。このときの違和感が空腹感である。溶かすものが見つからないとやがて停止する。腸も胃が動かなければ仕事をやめる。食べる暇がなくて空腹をやり過ごしてしまうのはこれである。しかし自らを維持するために常に栄養を求める体は胃腸からの栄養補給に見込みがなければ別の行動に出る。

血や臓器の中の脂肪や毒素を分解し栄養として消費し始める。体に停滞し濁った水分を絞り出す。

たとえば日本の子供たちの多くは空腹を知らない。それだけ食べ物が有り余る証拠だが、過剰な栄養を摂り続けた子供たちの体には消費しきれなかった養分が居座り、その子の体のつくりによって肥満や虚弱、あるいは病の種となる。いずれ成長した彼らはすでに物騒なものを体の中に抱えており、その体がいつ襲われようが不思議ではない。さまざまな成人病、あるいは癌がそれである。

ほとんどの病は生活習慣病であって、癌を体質だの遺伝だのとするのは大きな誤解である。遺伝するのは体の特徴であって癌ではない。生まれた後の悪習慣に作られた毒素が親から受け継いだ体の弱いところを選んで虐め、そうして病をつくる。体質などというものは自分の体をよく知ってさえいればいくらでも作りかえられる。
月経中や産褥期の女性が断食を許されないのは穢れた存在として差別しているというのもまた誤解である。この時期に古い血は失われ新しく作られる。すなわち体の浄化が行すでに行われている最中に無用な負担をかけないためである。


「たべる」こと、人にとってこれほど重要なことはない。
しかし今やこの行為と上手く付き合うことのなんと難しいことか。世界を見れば、戦争や旱魃あるいは貧しさからひもじい思いをする者の数と、そして飽食による肥満と病に悩む者の数はほぼ等しい。この世から飢餓をなくすためと銘打たれて世に出た遺伝子組み換え食品はその恐ろしい正体が暴かれつつある。農業から離れた市民は地球の裏側から農薬でまぶした食べ物を買い付ける。食品産業は消費者の味覚と視覚を刺激するために手をつくし、その後は医療産業がいろいろと手をつくしてくれる。そのときにはもう限られたものしか口にできない。
かつては土地のもの、季節のものしか手に入らず、収穫期には冬を越すための保存食を家々で作った。食べられないところは牛にやるか、肥やしにするか、乾かして焚きつけにした。
かつては医者もいなければ、病人もそれほどいなかった。

断食には、身に余るものを使い果たし、血を清め、穢れを体から押し出す力がある。
日没までに幾度か感じる空腹などは、そのときに体の悪が退治されていることを思えば、心地よい。

しかし胃や腸の壁が荒れている人はこの退治がはじまる前に降参してしまう。胃腸が自身を溶かしだすからである。言うまでもなく胃腸の荒れは生活の荒れの現われであり、ここを正さない限りは始まらない。だから酒や煙草、過食、好色、過眠、怠惰、体に害を為すほど働くこと、悪感情を抱くこと、これらはクルアーンに「避くべきこと」として記されている。この世で生きるための体は神からの「預かり物」であり、それを粗略に扱えば病という形で罰が与えられる。それでも悔恨せぬ者はあの世でさらに痛い目をみると、そう記されている。

絶えず何かを飲み食べする、煙草が離せない、そういう癖があると人よりも辛い思いをする。断食の辛さは日ごろの悪癖の裏返しとも言える。そして夜明けの礼拝を欠かさない者は食事のために真夜中に起きることも苦にはならない。

そして日没、空になった胃袋は思ったほど食べ物を受け付けられない。まず水を飲み、そして水分の多い食事を少量とる。胃腸を疲れさせないよう獣肉や卵はなるべく避けチーズやヨーグルトなどの発酵食品をえらぶ。野菜と果物は季節のものを摂るとよい。夏、スイカやきゅうりの繊維は腸にとどまり水分を長時間保持してくれる。体を冷やす夏野菜を天日で干すとその効果が 逆になり、冬に体を温める食材になる。そして柑橘類は冬の渇きを潤してくれる。

そのひとくちを噛みしめるたび、日々の糧に感謝を、そして事欠く者たちのために祈りをささげる。



世の中を人の入れ物と考えるとどうなるか。

働いて富を得ることを悪とはしておらず、むしろ奨励するのがイスラームである。ただしひたすら蓄財することは堅く禁じられている。世の中の富とは体にとっての栄養のようなものであり、滞れば脂肪や病巣にしかならないのである。富めるものは喜捨(ザカート)をして弱者を助け、寺院や学校、井戸や道を作らねばならない。そこで雇用がうまれればその富は分配されて世の中が成長する。弱者たちは世の中に守られる。

富める者、力のある者が欲に任せて富を掻き集めれば、弱い者は虐げられ彼らの中にも恨みの火がともる。それは鎖となり世の中は腐れゆくだろう。だからこそ神は富を吐き出すことを命じている。

断食月のあいだ人々は貧者に施しを惜しまない。近所衆や親戚のなかで困っている者はいないか、食べられない者がいないか調べて助け合う。モスクの前の広場には仮設の食堂が設けられ、誰かしらの寄付によって毎晩のように食事が振舞われる。日々の暮らしに事欠かない者たちも勿論この食事に加わることができる。賑わえば、賑わうほど神は喜び、あまたの加護が降り注ぐからである。

常に神の加護を求めて行動することこそがイスラームの根本であり、どうするべきかはクルアーンにすべて記されている。厳しい修行で悟りを開くことは求められておらず、生き方に対する回答を最初から与えられている。どうあるべきかは預言者ムハマンドの生涯がその手本として示されている。

「ラマダーン」は「断食」そのものと解されがちだが元は太陰暦第九月の呼称である。六世紀の終わりにメッカに生まれたムハマンドは毎年ラマダーン月になると山の洞窟で瞑想をするようになっていた。610年、齢40を迎えたムハマンドがこの年も洞窟に篭っていると、ジブリール(大天使ガブリエル)があらわれてムハマンドが神に預言者として選ばれたことを告げ、そして最初の啓示が与えられた。ラマダーン月も終わりに近づいたある日のことである。その後22年にわたりムハマンドを通してこの世にもたらされた神の啓示をまとめたものがクルアーンである。イスラム世界は今もこの日の前夜を「宿命の夜」と呼び深い祈りのなかで朝を迎える。ひと月近い断食が終わろうとする頃、醜い穢れが拭い去られようとする頃である。

クルアーンは決して難解な書ではない。イスラム教国に生まれさえすれば誰でもその文章を理解することができる。しかし文章を解するのと心のなかに刻むことは同じではない。石油太りで身動きのとれない王族も、痩せた体で痩せた土を耕す民衆もいずれもイスラム教徒である。欲に羽交い絞めにされた心は、蝕まれた体に逆らえない心は、富を生み出すためだけにある世に生きる心は乾き萎縮し固く閉ざされる。そこに何かが沁みわたる筈もなく、父の声、母の声さえ届かない。ましてや姿の見えない神の声がどうして聞こえようか。


「人々よ、なぜわからぬのか」「いつになればわかるのか」

預言の書クルアーンは始終そう問いかける形で書かれている。あたかもこの世が神の望まぬ姿に向かって変わりつづけるであろうことを示すかの如く。それがこの世の宿命であるならばそこに生きる人も宿命を共にする他ない。しかし逆らい得ぬ宿命の中にあっても神の加護を求め穢れを断ち切ろうとする者たちは必ずや、あまねく慈悲につつまれるであろう、クルアーンにはそう記されている。


禁断の果実

神はアダムを、そしてその妻としてイヴを創造した。二人を楽園にすまわせ木という木のにたわわに実るあらゆる果実を食べることを許したが、その中の「智恵の樹」と「生命の樹」の果実だけは禁じられていた。
しかし二人はその果実を蛇にそそのかされて知恵の樹の実を口にしてしまった。すると裸であったことに「気付き」、体をイチジクの葉で覆って隠した。神は怒り、豊かな楽園の実りは枯れて僅かなものとなった。この後二人は飼い、耕し、寒さに耐えながら働き生きることを余儀なくされた。神はこの二人の子孫が「生命の樹」に近寄ることのないよう、炎の剣-雷を置き守らせた。

旧約聖書によれば二人をそそのかしたのは蛇であるが、イスラームの聖典クルアーンでは異なる。
神は自らの代理人として人間を創造することを天使たちに告げた。天使たちは驚き、人間などを創ってはこの世は争いと血にまみれてしまうと嘆いたが、神は土からアーデム(アダムのアラビア語読み)を創り上げた。そして天使たちに命じアダムに万物の名前と意味を教えさせた。さらにアーデムに平伏すよう命ずるとイブリースを除くすべての天使はそれに従った。
イブリースは火、それも煙の無い炭火のような火から創造された存在であった。天使ではなかったものの神へ対する敬虔さから天使の列に加えられていた。「我々が平伏す相手とは、この泥から創られたものなのか? 火から生まれた我の平伏す相手はこれなのか?」イブリースはさらに続ける。「神よ、審判の日まで我に命を与えるならば、このアーデムとその子孫たちの僅かなるものを除いてすべてを悪の道に誘い込み操るであろう。」
神は「行け」と叫ぶ。「これ(イブリース)に従うものすべてに地獄という見返りが与えられよう。」ここでイブリースは天使から悪魔へと堕ちる。
イブリースは自ら吐いた言葉の通り楽園に暮らす二人を誘い禁断の果実を食べさせた。二人は後悔し許しを請うが、その罪は許されたものの楽園から地に追われてしまう。


学問の世界から教典を「解釈」しようとすれば―― 一神教の世界では神とは絶対なるものでありその言葉に背くものは罰を免れない。神が禁じたものを口にすることこそ禁忌であり、禁断の果実とは一つの象徴である―― とこうなる。

逆に神を畏れる者は創世記も失楽園も大洪水もすべて史実ととらえていえる。そのため、禁断の果実が何であったのか、何を象徴しそれを以って何を教えんとしたのかは大きな問題であった。
この果実が何であったかはいずれの教典にも書かれていない。リンゴやイチジクだといわれるのは西洋の画家たちが失楽園物語を描く際にこれらを用いたせいもあるが、地域の伝承や後世の研究からいろいろな果物があげられている。いずれも薬効、或いは毒性をもつ植物である。

近頃の考察では、この禁断の果実は「火」であったという指摘がある。――人間は火を使うことを知りそこから多くの「文明」が生まれた。それにより暮らしが豊かになる反面、争いが絶えず人が人の命を奪う世界をもたらした――

意味深い考察である。さらにギリシア神話をみれば人と火の出会いはプロメテウスによるものとされている。


プロメテウスは天空たるウラノスと大地たるガイアの間にうまれた子供たち、タイタン神族の子孫である。ゼウスも同じ一族から出ているが父親クロノスに殺されそうになったところを逃れて逆に戦いを挑み、これに勝ってタイタン神族を滅ぼした。プロメテウスはタイタン神族の不利を見抜いてゼウス側に付いていたことから生き永らえながらも一族の復習をその胸に潜めていた。ゼウスは人間から火を奪い(氷河期か?)自らの武器である雷を作らせるため火と鍛冶の神であるヘパイストスに預けるが、プロメテウスはヘパイストスの炉から火種を盗み出し人間に与えてしまった。

ゼウスは怒り、プロメテウスを山の頂上に繋ぎハゲタカに肝臓を食らわせた。尚も静まらぬゼウスの怒りは人間たちにも向けられ、地に禍を与えんと神々に命じて「女」を創らせた。男を苦悩させる美しい姿、ずる賢く卑屈な心をもつ「女」にパンドラと名づけ、決して開けてはならない箱とともに地上に遣わした。人類にとって「女」ほど大きな禍はないという(お互いさまである)。開けてはならないと知りつつ、箱はあけられた。出てきたものはこの世のありとあらゆる災禍、そして思わせぶりな希望。


旧約やクルアーンの預言と世界に残る神話を混同してはいけない。しかし神話や教典に綴られる比喩がともに史実と重なり合うのは認めねばならない。


イザナギとイザナミの夫婦は日本の島々、そしてたくさんの神たちの親である。まず国産みを終え、そして海や山、草などの万物(の神々)を産むが、火の神カグツチを産む段でイザナミは大火傷を負う。ここでも「火」だ。
火傷に苦しむイザナミからまたも神々が生まれ続ける。養蚕の神、水の神、埴(粘土)の神、そして鍛冶と鉱山の神カナヤマヒコ・カナヤマヒメが生まれた。
イザナミがこと切れるとイザナギは嘆き悲しみその涙からまた神が生まれ、怒りにまかせてカグツチを斬り殺すとその返り血からも神々がうまれた。

亡くした妻を忘れられずにイザナギはイザナミを求めて黄泉国(ヨモツクニ)へとまかる。しかしすでに黄泉の国の食べ物(黄泉戸喫‐ヨモツヘグイ)を口にしているから戻れぬというイザナミは、どうしても戻るようにきかない夫にしばらく待つよう、ただし決して覗かぬようにと告げた。
いくら待っても音沙汰なく、とうとうしびれを切らせたイザナギは櫛の歯を折って火を灯しあたりの様子を伺った。すると見たもの、それは蛆が湧き、体のいたるところに雷がささった(雷神たちが纏わりつく)妻の恐ろしい姿だった。


イザナギの黄泉巡りとオルフェウスの冥界下りは互いに酷似する神話として名高い。
竪琴の名手オルフェウスは亡き妻を求めて冥府に入る。冥王ハデス、そして妃のペルセフォネに妻を返してもらえるよう悲しみの程を竪琴の調にのせて懇願した。胸を打たれた妃は王を説き伏せとうとう許されるが、冥府を出るまで決して妻の姿を振り向いてはいけないと言い渡される。そして見てしまう。


「見るな」「食べるな」は引導。


ペルセフォネは収穫の女神デメテルの娘である。ハデスはペルセフォネに懸想し無理やりに冥府へとさらってきたのだ。娘を奪われたデメテルは怒り狂い地上の実りを絶やしてしまう。ハデスはゼウスに諭されやむなくペルセフォネを返すことを受け入れるが、そのとき冥府のザクロの実を与えられたペルセフォネはその幾粒かを口にしてしまうため地上に戻れなくなる。デメテルの抗議の末に、ペルセフォネは冥府で食べたザクロの実の数を月にかぞえ一年のうちその分をハデスの妻として傍に留まり、その間は地上の実りが枯れることとなった。これは季節の始まりと捉えられ暦の起源とされている。


イザナギが黄泉国から葦原中国にもどり最初に行ったのは禊であった。
水に入り、左目を清めるとその水からアマテラスが、右目を清めるとツクヨミが、そして鼻を清めるとスサノオが生まれた。
アマテラス(天照大神)とツクヨミ(月読命)はそれぞれ太陽と月をつかさどり、それは太陽暦と太陰暦をも象徴している。

スサノオは乱暴狼藉の咎めを受け高天原を追い出され出雲、つまり葦原中国にゆき、そこでやヤマタノオロチ(八岐大蛇)と渡り合いこれを退治する。出雲が豊かな砂鉄の産地であり、ヤマタノオロチがその鉄を求めてこの地に移り住み先住民を脅かした精鉄集団を象徴したものであることを以前の記事で述べたが、オロチすなわち「蛇」が出てくると繋がりが増す。退治とは必ずしも「排する」意味にはならず、この場合は「征する」ととるほうが正しい。スサノオが蛇を征することで鉄を手に入れたように日本において蛇と製鉄の関わりを探せば枚挙に厭いがない。スサノオの子、オオクニヌシの和魂(ニギミタマ)は蛇神であり雷神であり水神でもあるオオモノヌシである。


オルフェウスの妻は蛇に噛まれて冥府に下った。
イヴそしてアダムをたばかったのも蛇であった。
蛇が冬の眠りから醒めるのは春雷の頃、二十四節季でいう「啓蟄」、間もなくである。


世界で最も古い製鉄は古代ヒッタイトで行われたとされている。鉄鉱石と炭を一緒に炉の中で加熱する製法で、後の時代に日本で始まる「たたら製鉄」も同様に行われる。脆さの原因となる酸素と結合しやすい鉄は裸火、つまり炎を嫌う。炭火は炎を出さず、しかも炭素と鉄が先に結びつくことで酸素の侵入を阻むことが出来ることをヒッタイト人たちは見出していたのである。
彼らは高度な製鉄技術を外に漏らさなかった。製鉄が世界に広がるのはヒッタイト王国の滅亡を待つことになる。

彼らの製鉄路を覗けば鉄と炭が赤黒く光を放っていたであろう、あたかもザクロの実のように。

ペルセフォネが食べてしまった冥府の果実、ザクロ。トルコ語やペルシャ語でザクロをナールというが、これはアラビア語の「火」を語源としている。火と炎は違う。炎ではなく灼熱した鉄のような火、これこそ悪魔イブリースの元素である。ザクロの粒の色に地獄の業火への恐れを重ねたのか。


禁断の果実が比喩するものを「火」とする指摘は重要である。が、決してそこにとどまるものではないはずである。火は製鉄に繋がる。製鉄は農具と武器をもたらす。鉄製農具によって増えた収穫は備蓄され富を産み、国や王が生まれる。鉄製武器は動物を狩るだけではなく、人間にも向けられるようになった。農と武の二つに分かれた製鉄の道は国同士の攻防という形で再び一つになった。剣に対し盾が作られ、鎧で実を固め、馬に蹄鉄を打ち、そして、火薬がうまれる。鉄が火薬を伴い火器となる。

人類と火の出会いを学問の世界では落雷によるものと説いており学会にプロメテウスの出る幕はないのだが、雷を作るヘパイストスの鍛冶床から火種を盗ったのであればそれは落雷を意味しているのだろう。大地と天空の陰陽が引き合い雷が起こる。雨を呼ぶ。闇空を駆けるイカヅチの姿に人々は蛇をみた。


雷と書いてカミナリともイカヅチとも読む。黄泉のイザナミにまとわりついていたのはヤクサノイカヅチ(八の雷)であり、「怒る」の語幹と「チ‐霊」を接続詞「ツ」で繋いだイカヅチは「雷神」を示す。雷神を目の当たりにしたイザナミは恐れをなして逃げ、黄泉国に通じる道「黄泉平坂‐ヨモノヒラサカ」の口を大岩で塞ぎ、それまでなだらかに繋がっていたこの世とあの世に結界が結ばれた。


科学は雷の力の正体を「電気」とし、人はそれを神に頼ることなく自らの手で作る知恵を得た。プロメテウスはまたしても禁をおかしたのか。

電気を作り続けるには絶え間なく燃える火、そのための資源が要るのであった。地から資源を掘り出し足りなくなると力ずくで奪うようになる。その争いは血を流し国を焼き、より力強い武器がつくられた。天使の嘆きはさらに深く、イブリースの笑いのみが聴こえる。

火から生まれたものが人々の暮らしを大きく変えた。日の出から日の入りまで働きづめ、餓えや寒さに苦しみながら短い一生を終えていた人間が命をより長く楽しむようになったという。かつて人々が憧れた「不老不死」が形になりかけているかのようである。禁断の果実が行き着くのはここかもしれない。



長寿であった垂仁天皇はさらなる命を望み、タヂマモリ(但馬守、多遅麻毛理、田道間守)を常世(黄泉国の意であるがここでは大陸?)に遣わして不老不死の木の実を探させた。タヂマモリが十年かけて探し当てたトキジクノカグノコノミ‐非時香果を持ち帰った時には遅かりし、天皇の崩御の後であった。タヂマモリは悲しみ息絶えてしまう。この実はタチバナ‐橘、火の色を持つ蜜柑の祖である。

カグノコノミの「カグ」に「香」の文字が充てられているため「香ぐ」と錯覚しやすい。「カグ」はかぐや姫の音と同じ「カガヤク」から来る。竹取の翁はかぐや姫の残した不老不死の薬を使わず火に焼いた。そこは「天の香具山」であった。なにより、イザナミの産んだ火の神カグツチは「耀ぐ」つ「霊」であった。ふいご祀りで鍛冶の神々に蜜柑を奉納するのは荒ぶる火を畏れてのことである。


悪魔はなおも誘う。教典も、神話も、我々に警告を繰り返す。が、知恵に塞がれた我々の目と耳はそれを認めない。

そして禁断の果実をほおばる。

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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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