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いにしへ の しほ いま の しほ

塩がそんなに悪いのか、といいたくなる。

過剰な塩分は血液に残留する。血中の塩分濃度を下げようとする機能がはたらき血液のなかに水分を呼び込む。かさが増えた血液を循環させる破目になった心臓は負担をこうむり血管は圧迫に耐えるために厚く硬くなる、すると血圧も上がる。
塩からい味を好むひとはこのような目に遭うという。



太古、狩猟生活をしていた頃は獣の肉から塩分を摂取できていた。が、農耕が始まり食物のなかに植物の割合が増えてくると塩分が足りなくなってきた。そこで人々は塩を作ることをはじめた。

「しほ(塩、潮、汐)」と字の如く、四方を海に囲まれた我が国では塩は海水から作られた。いまも日本では海水を乾燥させたものを塩として使う。
近代までは浜の一部を粘土質の土で覆った「塩浜」に海水を引き入れ天日で乾燥させていた。人力で海水を汲み入れる揚げ浜式、塩の満ち引きを利用する入り浜式があり無論後者の方が効率がよいが土地の高低や地形を選ぶため前者も廃れはしなかった。しかし、この方法は雨が多く日照時間の少ない日本では塩を完全に結晶させることは難しかった。塩浜では鹹水(かんすい・濃い塩水)をつくるに留まり、それを釜で焼き締めることでようやく塩が出来上がった。

いきなり海水から煮詰めていたのでは途方もない時間と燃料を費やしてしまう、そこで発明されたのがこの塩浜だが、そう古いものではない。では古代のひとびとはどのように鹹水を作ったのだろうか。


小倉百人一首のこの歌はご存知のかたも多いであろう。

   来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
       焼くや 藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ                藤原定家

来ぬ人を待つ心持ちを浜でじりじりと焼かれる「藻塩」に例えている。はて「もしほ」とはいかに?
この歌は万葉集にある長歌に対して詠まれた反歌である。そちらを見てみることにする。

  …淡路島  松帆の浦に  朝なぎに 玉藻刈りつつ  
      夕なぎに 藻塩焼きつつ  海人娘女(あまおとめ) …     笠金村(かさのかなむら)『万葉集』巻六 九三五

ここにも「藻塩」があり、さらに「玉藻」なる言葉がでてきた。


藻塩の会の方々はこの長歌を手掛かりに古代の製塩法をつきとめた。驚くばかりである。

代表の松浦宣秀さんが仰るには「玉藻」とは球状の気泡を持つ海藻「ホンダワラ」のことであるという。海から揚げたホンダワラを乾燥させると表面に塩が結晶する。それを甕に湛えた海水で洗い再び天日にさらし、また甕の中で洗う。これを繰り返すことで甕の底に鹹水が残る。ヒジキの仲間でもあるこのホンダワラは他の海藻より乾燥がはやく塩の結晶がまつわりつき易い形をしているのが特徴だ。


「朝なぎに 玉藻刈りつつ 」とある。
朝凪は朝の満潮(潮とはこれを指す)、この刻に海に入り玉藻を刈り取った。
日のあるうちは玉藻のしおを乾かし洗い、甕に溜めた。
「夕なぎに 藻塩焼きつつ」は、夕の満汐(汐のこと)の刻にこの日使った玉藻を焼くということを描いている。
土器の皿の上で玉藻を焼き、その灰を甕の鹹水に加え布で漉した。これを煮詰めることで塩を得た。


現代の食塩、その殆んどは原料こそ海水だがイオン交換によってもたらされる工業製品の「塩(エン)」であり、海の味のする「しお」ではない。

武田信玄の治める甲斐の国は海のない山国であった。駿河の今川方が塩の流通を止めたため瀕死に陥るが上杉謙信の贈った塩で生き返った。人は塩がなければ生きてゆけないのだ。どんなに塩からい味が好きな人でも摂取できる塩の量には限度がある。そして、よけいな塩分は体の外に出て行く仕組みになっている。塩のとりすぎで病気になるほうがおかしい。

イオン交換でつくられた食塩は塩化ナトリウムの純度がたかく、海水にふくまれるカリウムやマグネシウム、カルシウムがほとんど排除されたものである。カリウムには塩分を体外に排出させる力があり、それを棄てるという事は「体に居座る塩」を食べていることになる。


近年、自然製法の食塩も市場に出るようになった。喜ばしいことだが価格がいまひとつ喜ばしくない。畢竟、加工食品に使われるの安価なイオン式の食塩である。ましてや海の向うからやってくる食品はどんな食塩を用いているか知れたものでない。
また減塩が叫ばれる中、漬物や佃煮から味噌醤油にいたるまで塩気の強い食品はやむなく塩の量を減らすことになる。すると防腐効果が落ちてしまうため防腐剤を大量に添加する破目になる。いったい何をしようとしているのだろう。


日本の外には甲状腺の働きが壊れる怖い病気がある。バセドウ病や橋本病の仲間だが原因が違う。ヨード(ヨウ素)不足によっておこる深刻な疾患で、甲状腺が異常をきたすと甲状腺肥大、ホルモン異常、高血圧、高コレステロール、心臓病、肥満…さまざまな問題をおこし体を壊す。筆者の住むトルコもこの病気に悩む国の一つであり、我が姑も患者のひとりである。
これは海藻を食べる習慣がない国におこる病気ともいわれている。海藻のなかにヨードが多量に含まれからである。しかしこれを摂取しすぎるとまた同じ病気にかかったしまうから難しい。日本人は世界一海藻をよく食べるのになぜこの病気が少ないか、それは同時に大豆をよく食べるからである。あの小さな豆のなかにあるフコイダンという物質は、ヨウ素が甲状腺に必要以上集まることを防いでくれる。はじめからヨウ素とフコイダンの両方を背負っているモズクは有難い海藻だ。また、海藻はカリウムをも多く含んでいる。


ヨード不足を解消するため世界的に採られているのは食塩にこれを添加する方法である。日本以外の多くの国ではこれが奨励、或いは義務化されている。
また、高血圧などの疾患に配慮しナトリウムの純度をさげるためにカリウム化合物を添加したものも作られている。

WHOに属する国際食品企画委員会(日本も加入)が作成した国際規格をみれば食塩にはヨードのほかにも凝固防止剤や乳化剤が何種類もごてごてと添加されている。これを食品と呼んでいいかどうかはぜひ本人の勝手にさせてもらいたい。こういう機関は足りないヨードやカリウムを食塩に無理やり添加させることはしても海藻を食習慣に取り入れようという発想には決して行き着かない。そのために海を汚さない努力もしない。工業的に添加された栄養素の有効度は強調されていても弊害はきちんと調査されていない。都合が悪くなると「人体に影響がないほど微量」だの「喫煙の害にくらべれば問題にならない」だのと訳のわからないことを言って煙に巻く。(煙草はそのために売られているのだろうか?)
どのみち、人道の名のもとに暴力をふるう国連やWHOの言う事をいちいち鵜呑みにしていたのでは体がいくつあっても足りない。

食の土台でもある塩がこのていたらくなら他の食品の有様は察して余りある。健康や栄養に留意する気持が少しでもあるのなら、栄養価やカロリーなどの数値に誤魔化されるのはそろそろ止めにしては如何だろう。我々や子供たちの口に入るものが何処から生まれたのか、どのような道を、誰の手を経てやってくるのかを先に考えて欲しい。


浜で玉藻を焼きそれを加えて出来た塩には当然、海藻の持つ力が還元されていた。そして勿論そうとは知らずされていたのである。万物に霊の宿ることを信じていた古代の先祖たちの為せる業である。藻塩焼きは、わたつみの霊を塩のなかに呼び入れるための神事であった。


いま、その海の汚染がとどまるところを知らないことはここに記するまでもなく、胸が痛む。天日塩や海藻を摂ろうとしてもそれにどれだけ意味があるかは誰にも解らない。明らかなのは海を汚してはいけなかったことだ。


海に、山に挑みかかり、欲しいものをむしり取る生き方は許されるはずもなくその身を滅ぼす。森羅万象に与えられてこそ人は生きてゆける。それを思い出したい。

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縄文の血の中に

島国日本に生まれ育った者にとって「国境」を意識することは少ない。四方の海が我が国の稜線を描いてくれているからだ。

しかしそれは最後の数千年に限ったはなしで、太古の先祖たちは食料を求めて世界中を移動しながら生きていた。気候が変われば海流も植生もかわり動物と人がそれに続いたのだ。そして気温が下がれば海から陸が現れた。今の地球とて一つの瞬間をとらえた姿を見せているに過ぎない。

更新世と呼ばれる約180~1万年前は氷河期に相当する。海面は低く、日本列島は大陸と地続きかそれに近い形であった。動物を追って大陸から幾度にもわたりやってきた人間が、原日本人となった。

民族の源流を辿る作業はある種の危険を孕んでいる。人間たちが血で血を洗う争いの中で虚構を築き、騙し、覆い隠してきたものを覆すことになり兼ねないからだ。だが、自らを熟知することは行き先を見失った今日の日本人に最も必要なことと確信している。
人類学や考古学のみならず、言語、動植物、鉱物、金属、地質、医、農、遺伝子その他あらゆる分野の学者のたゆまぬ研究があってこそ先史時代への眺望が開かれる。そしてそれに対し敬意を惜しまない。しかし「学会」という大矛盾が研究者たちのえりくびを掴んで離さないのだ。世界中に言えることだが、学会の意向に沿わない研究には研究費がつかない。学会のお墨付きがなければ世に出ない。へたをすると命の保障がない。世の中がそんな体たらくであるからこそ、学者の立場にない素人の我々が審美眼を得るべく心がけては如何だろうか。

今回の記事を書くにあたって以下のサイトを参考にし、そこに筆者の考察を付け加えた。本来なら引用と考察を分けて書くべきところであるが煩雑にならぬようにと敢えて混載したものであることをお断り申し上げる。

「日本人の起源」http://www.geocities.jp/ikoh12/index.html
膨大な資料と多種の学説を比較しながら「日本人論」を展開させたサイト、ぜひご覧いただきたい。



何処からどんな民族がやってきたのだろうか。人類遺伝子学研究の松本秀雄氏によるGm遺伝子の研究成果からろいろなことが解ってきた。
日本に最初に足を踏み入れたのが誰であったのかは諸説あっても定説はない。ここでは前後関係をゆるく解釈して書いてみる。


ロシアのバイカル湖周辺に3~2万年前までに到達した人類は細石器の使用を体得し、そこからアジア各地へと広がった。細石器とは木や骨で作った刀身に溝をつけ、そこに石のへき開性を利用した剃刀のような「石刃」を埋め込むという手法からなるもので、刃こぼれをおこした時に刃を取り替えて手入れが出来るという「進んだ」石器であった。我が日本にもその細石器をたずさえ樺太を経由しやって来た。彼らをバイカル湖系東日本縄文人と呼ぶ。

そのころの関東以北にはそれ以前から半円錐形細石刃石器群をつかう集団が分布していた。原縄文人とする。

そして同じころ、あるいは数万年遅れて黄河流域の文化圏から華北人が南下し、北九州側からやってきた。彼らもまた違う細石器をもたらした。彼らは華北系西日本縄文人である。

バイカル湖系東日本縄文人、原縄文人、そして華北系西日本縄文人みなともに原日本人である。

日本人の先祖や渡来人のことを議論するときに陥りやすいのは日本列島の姿が変化し続けていることを忘れ、大陸と完全に切り離して考えてしまうことだ。1万年前に完新世に入り海面の上昇は日本を大陸ら別けた。この後も大陸とは航海をして行き来の絶ることなく、また長江下流文化圏から稲作と共に江南人がやって来た。
ここで是非強調したい。これらを全て渡来人、或いは大陸文化と呼んでいたのでは日本は渡来人の集まりということになり、それこそ大陸の辺境でしかなくなってしまう。そんな解釈でいいのか。



バイカル湖は、寒い。バイカル人は寒冷地に強い遺伝子を得ていたことに違いない。以前の記事で江戸っ子が寒さに強かったと書いたが、これもバイカル人の血を引いているからかもしれない。彼らは大型動物を追いかけて樺太を越えて来たものの、その動物が減ってゆくに従い不足した食料を木の実やイモ類で補わざるを得なくなった。そうしてアク抜きや調理に必要な土器が現れた。世界で一番早いとされる土器の出現である。またお家芸の細石器の材料も、細石器とするにはこの上ない、大陸では稀な黒曜石という石を見つけ出し加工している。世界一の「モノつくり」である日本人には、この東の祖先の遺伝子が生きているのだろう。

北九州でも、先にいた華北人と後から現れた江南人とは争った形跡、つまり槍の刺さった人骨などが見られないという。通婚し、融和していったのだろう。近年、縄文時代の地層から籾の痕跡が多く見つかっている。稲作は思いのほか早く始まっていたらしい。
まだ陸稲が主流だったにちがいないであろうが、縄文中期以前の水田跡も発見が相次いでいる。ある時点で水稲がもたらされたのだ。
水稲耕作は恐ろしく手間のかかる農法である。それに加えて灌漑や備蓄のための労力も必要になる。水田でコメを作るためには、狩猟・採取の縄文生活を半ば棄てることになるだろう。それを覚悟で水稲に転ずるには縄文人たちのそれなりの理由が必要だ。人口が増え耕作を可能とするだけの労働力ができ同時に食料が必要になったのか、あるいは気候の変化が採取に依る食糧事情を変えたものと推測される。いずれにしても大陸人が突然大量に押し寄せて水田を作ったという類のはなしではなさそうだ。
海の民にとって、北九州と大陸はお互いの庭のようなものだったであろう、絶えず行き来するうちに、その目で見た水稲の技術に驚き日本に持ち帰り根付かせた縄文人がいた。そんな西の先祖の遺伝子は、世界中にトンネルや橋梁をつくった土木の棟梁たちに受け継がれているのだと強く思う。


そして言語。
大陸の北、南、或いは半島から民族たちがそれぞれの母語を携えてこの島に集まったのだから、日本語の源流を一つに絞ることはできない。日本語は異言語が出会い、融和したことで生まれた言語といえる。道具を作り、使い、集団で狩猟生活をしていた彼らはすでに高等な言語を以って意思の疎通をし合っていたに違いない。

アルタイ語族の中に数えられるツングース語というものがある。膠着語であること、母音調和をすること、語順が主語→目的語→述語であること、これが日本語の特徴に通じていることから我らの祖語の一つと考えられる。このツングース語この流れを汲む言語は日本語のほかに満州語、朝鮮語、モンゴル語、テュルク諸語などがある。この分布は先に記したバイカル人の足跡を辿っている。アイヌ語やエスキモー諸語、北米祖語にもその片鱗がみられる。

南太平洋を囲む地域に見られる言語群をオーストロネシア諸語という。遠くは南インド発祥のタミル語やオーストラリアのアボリジニ語、インドネシア、ポリネシア諸語などを指すのだが、日本語は語彙の面でこの南方の言葉に大きく影響されている。特に稲作を巡る語彙群に多く見られる。

この二つが日本語の原型をかたどる大きな要素であろう。文法はツングース語に拠り、語彙の一部はオーストロネシア諸語から来た。そして列島の中で生まれた語彙とともに暖められた原日本語「やまとことば」に、中国語が漢字とともに流入し奈良時代までに出来上がったのが「上代日本語」である。


ツングース語の担い手たちが散った先々に共通して見られるのはシャーマニズムである。人間界と自然界の仲立ちをするシャーマンがおり、両者の調和を保つことで霊の守護を受けるという古代からの信仰をいう。
オーストロネシア諸語のある地域には、あまりいい言葉ではないがアニミズムが存在する。人、動物、山、海、森、石、この世の森羅万象すべてに霊が宿ることを信じ崇拝の対象とした信仰であるが、西洋人が侮蔑をこめてつけた名前がアニミズムである。
日本の島はこの二つの自然信仰が出会うべき約束の地であった。


この島に引き寄せられるように集まった我々の先祖は海というゆるやかな国境に守られながら共同体を育て、そうして日本ができた。霊を畏れ、お互いを助け、侵し奪うことを戒める社会ができた。いま我々が日本史として捉えている最後の二千年余りの土台にはその千倍はあるであろうこの長い営みがあった。


「遺伝子」という言葉など知られぬころ、子が親の素質を受け継ぐのは「血―チ」のなせるわざと解釈していた。血は争えないと知っていた。筆者にも、読者の皆様にも、遠いバイカルの地、そして黄河、長江、あるいは南海の島々からこの島を目指して旅をしてきた先祖の血が流れている。ただの酸素を運ぶための体液でしかなかったはずの「血」が世代を越え時を越え今に伝えたものは何か、それは「霊―チ」であった。血を忘れ霊を軽んじた末がいまの日本の姿であろう。



関東より南には意地でも動かなかった東日本縄文人たちも食料の事情があったのであろう、観念して南下を始め、水稲耕作の生活へやっと移行した。生き方を大きく変えることが自らを取り巻く霊たちの怒りを買う、それを恐れたのであろうか。やはり東の縄文人たちの危惧のとおり、時代は弥生へと移るのであった。



ここで思い出されるのが、スサノオノミコトとオオナムチ(大国主)だ。
いずれ書いてみようと思う。

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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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