ち のはなし ちち(乳)と つづ(唾)

前号からづづく

人の血液型が今の四種に分かれた経緯とそれが歴史に落とした影、そして食と血液型の間には生死にも関わる問題があることを前号で綴った。さて今号は血液型からは離れ、「血―ち」にひそむ力のあれやこれやを、やまとことばに問いかけながら書いてみたい。

競馬がお好きな方なら「馬は血で走る」という言葉をご存知であろう。瞬発力、持久力、闘争心、駿馬たる技量は親から譲り受けるもので躾よりも血が勝ることを説いている。また人の子が集中力や忍耐力、注意力を親から受け継ぎ生活に生かすことができればそれも「親譲り」である。逆に酒や博打に溺れやすいといった悪い癖までも譲られてしまう。しかし人は大脳の可能性が他の生き物より格段に大きいため生まれた後の経験次第で親から譲られなくても様々な技能と欠点を身に纏うことができ、これを「氏より育ち」などのことばでよく喩える。
しかし「血は争えぬ」ということばもある。この相反する二者はともにわれらが先祖の残したことばであり、その間をどう取り持つべきかはわれわれ子孫たちに残された謎かけなのかもしれない。


ちち(乳)のはなし

獣であれ人であれ乳とはそもそも母親が生まれた我が子に飲ませるためにある。生まれたばかりのかぼそい命をこの世に根付かせる奇しき水、「乳―ち」は血からつくられ正に「血―ち」の雫ともいえる。獣であれ人であれ何も知らないはずの赤子は母の乳に吸い付くことができ、また時が来ればみな乳離れをする。

かつての日本では子が生まれると乳が十分に出るようになるまでの間、家が裕福であれば乳母(うば、めのと)を頼んだ。そうでなければそれこそ必死で「もらい乳」をしたという。他人に頼み込んででもどうしても母乳を与えたのは知識ではなく経験からにちがいない。赤子は人の乳の他はうけつけられないようにできていたのである。しかし人工栄養の登場によりその経験は過去の習慣として葬られた。母乳がいかに優れた栄養であるかをここで書く必要はないのだが、人という種族の子らにとって唯一無二の栄養が人の乳であること、また人の乳が人の子の役にしか立たないことの理由を大まかに書いておく。

我々の口に入る食品は糖質、脂質、たんぱく質に大きく分けられ、それぞれ別の形で分解、消化される。赤子にとっての乳も然り。

乳の糖質を消化する酵素ラクターゼは哺乳類の生き物には生まれつきその小腸に備わるが成長と共に減少する。人の場合も同じくその酵素は乳離れをする二歳前後を以ってほぼ消滅すると言っていい。B型の人は牧畜民族の血が濃く現れているのでこの酵素には比較的恵まれている。が、やはり成長と共に見放される。母乳・獣乳にかかわらず乳の糖質は乳児のみが消化できる。

乳児の胃腸は通常のたんぱく質を消化するだけの酵素を分泌できない。乳児の腸壁は目の粗い網のようなもので、早くから離乳食を始めると消化処理されていない大きなたんぱく質分子が網目からすり抜け血液に取り込まれてしまう。それは目に見えぬ形でアレルギー体質の基礎を築き、数年後に疾患となって姿を現す。しかし母乳中のたんぱく質ラクトフェリンだけは全く違い、乳児の小腸でわずかに分泌される消化酵素によって容易に分解される。免疫力を高め他のミネラルと結びついてその吸収を助ける効果もある。子が乳離れをして胃腸の働きが成人に近づき胃酸が強力になると酸に弱いラクトフェリンは胃に到達した時点で破壊する。また熱にも弱く、牛乳などに少量(母乳の1/10程度)含まれはするが煮沸消毒をした時点で消えてなくなる。乳児がうけつけられるたんぱく質は母乳のみということになる。

乳の脂質はどう消化されるのだろうか。人の母乳の中には人の胆汁と出会ったときに始めて効力を発し母乳の脂質を分解する酵素(胆汁酸刺激リパーゼ)がある。まさに鍵と鍵穴である。

このからくりがあればこそ人の母は乳を我が子に与えることができるのである。もし人の乳を他の獣の子に与えてもその体とはかみあわない。そして逆に、牛乳という鍵が合うのはおそらくは仔牛であり、少なくとも人の子ではない。

これらは母乳と人の子の間の完全無欠な関係をしめすに十分であるが、これだけでは物質面での重要性に過ぎない。本稿の趣旨はただの母乳礼賛ではない。「乳」を「血」、ひいては「霊」と同属と見なした先祖がその中に見出した力とはもっと別のところにありはしないか、それを考えるものである。

乳母(うば、めのと)、それは一昔前まではごく当たり前の「職業」であった。いまは感染症などが問題視されるために皆無となったが、平安、鎌倉時代の貴人や武士の家に子が生まれると特に才長けた女房を乳母に選び、後に冠位や財産を与えていたことが記録に残る。また乳母たちには子が成人した後も家の運営や政治への発言権が認められたことはその地位の高さを物語る。平家物語には前号にも登場した武人・渡辺綱(わたなべのつな)と乳母の遣り取りが次のように描かれている。

都の人々を脅かした羅生門の鬼は渡辺綱に腕を切り落とされる。その噂を聞きつけた綱の乳母は遠く摂津は渡辺の里から都に上り綱の館を訪れた。どうしても腕を見せてほしい、と懇願する乳母だが、腕は七日の間しかと封印するようにと陰陽師・安倍晴明の固い言いつけがあるためにその願いは聞き入れられぬ旨を伝えれば、綱の恩知らずと地に臥して嘆く乳母に耐えかね、とうとう館に招き入れてしまう。そして唐櫃の注連縄を解き、蓋を開るや乳母の形相は変わり、腕を切られた鬼の本性を晒し腕をつかんで飛び去ったという―
                 綱と眞柴
         歌舞伎 「戻り橋」より   渡辺綱と乳母じつは鬼

これは実話とは言いがたいが、綱の実母を登場させるよりも乳母を選ぶと言う演出、さらに鬼の腕を切るほどの武人すら乳母には頭があがらなかった当時の様子が伝わるものである。

これも民族の経験に基づくものである。乳母を頼むことが習慣と化していたのならば、それは直に日本人はこの時代までに優れた乳母を選ぶことの値打ちを見出し共有していたことを示す。ならば資料に乏しいというだけで乳母の歴史はさらに古い時代に遡ることができてもおかしくない。
単に生まれた子の腹を満たすためであれば体の丈夫な若い母親を乳母に迎えさえすれば済む。しかしそうではなかった。

平安時代も終わり頃、朝廷から東国に遣わされた国司の娘が土地の豪族に攫われてそのまま妻にされたという。そして翌年に姫が生まれたとの知らせが届く。嘆けども後の祀りと、国司はせめて生まれた子のためにと優れた乳母を選び娘のもとへまいらせた。年月は流れ、国司の妻はとうとう堪らず東国を訪れて娘と孫娘を見舞うことにした。都の人々からすれば東国はあらくれ者の棲む偏狭であり、未だ見ぬ孫娘はさぞや粗暴に育ったことだろうと重い心持ちで東へと向かうのであった。そうして見るや、そこには雅なことこの上なき姫君があったという。

しきたり、ことばづかい、箸の上げ下ろしは無論のこと、人として集団の中で生きる心構えまでを教え込むのは産みの親ではなく乳母たちの勤めであった。乳母とは教育係でもある。ここで不思議なのは何故に乳母が躾役を兼ねていたのか、である。いや、乳を飲ませる事と子を躾けることがいったいどう絡むと考えられていたのだろうか。

歴史に名を残した人物の乳母にまつわる話をひも解けばまず家柄が問われ、教養と人柄、公家であれば歌に書に通じ、武家であれば兵法や武芸の心得までが求められた。子が成長した後も乳母とその家族は後見としてあらゆる支援を行った。源頼朝の乳母を勤めた比企尼(ひきのあま)はその顕著な例であり、伊豆に流された頼朝を二十年にわたって助けた比企家は鎌倉挙兵の際には一族を上げて加勢、その後も外戚関係を結びつつ有力御家人としての地位を築いた。
他にも乳母が後に政治に強く関わる例が数多く指摘されている。しかしそこで当然、生母の家族との確執や闘争という弊害を予期することができるがそれでもなお乳母を必要とし子の習慣を守り伝えた。その由は庶民の間に存在した「乳付け―ちつけ」なる風習に見ることができる。

おそらくは戦前まで生きていたこの風習、子が生まれると最初の授乳を乳の出る別の女性に頼むというものである。その乳付け親は幸せに暮らす心根の良い女性であることが求められたという。乳を媒体として乳付け親の人格、運気などの非物質的要素を子に受け継がせることを目的としていた。

民俗学者などにより乳付けは「呪術」的な意味を持つ儀式との解釈が付け加えられているがそれはあくまで科学で証明できないものはすべて呪術か迷信とする稚拙な近代主義的観点からでしかなく、歴史解釈たるものからは程遠い。庶民の次元でなら「縁起をかついだ」という言い方もあり得るかもしれないが、武士や貴族が政治の土台を揺るがす要因を作ってまで行うまじないなどは早々に廃れてしかるべきである。しかし先祖たちが生まれたわが子のため、家のためにと優れた女房を探し出して乳母としたのはやはり相応の成果が認められていたからこそである。乳母たちは乳を与えるだけに終わらずその後もその子の傍に仕え、教養を背景としたその振る舞いやことばの端にやどる見えざる力により子を教化したのでる。これを可能にしたのは乳に違いないであろう、かつて与えた乳という鍵をして才覚の扉を開けることができた。これは理屈ではなく経験である。いや、民族の記憶である。

「血―ち」が親の能力や人となりを子に伝えるのと似た別の構造を「乳―ち」は持ち合わせている、このことはそれを密かに物語る。


つづ(唾)のはなし

乳のはなしの項でも触れた「酵素」、酵素とは栄養素ではなく栄養を分解し代謝するための触媒である。生鮮食品や発酵食品から摂取するほか体内でも生成される。その原料はやはり血で、前号で書いた血液型と消化の話を裏付けるのはこれである。血液型により生成できる酵素の種類とその量に相違があるために起こった問題が、人間史に思いもよらぬ、そして多大な影響を与えたのである。
人の生命活動に関わる酵素は数千から数万種と言われまだ全ては判明していない。酵素は食物から摂取される他に人体のあらゆる体液中に潜在的に存在する。その中でも注目すべきなのは唾液、これはなくてはならない消化液である。

唾液の和語は「唾―つば」でありこれは古語動詞「唾吐く―つばく」の語尾が脱落し名詞化したものである。唾液自体をさしているのはやまとことばの「唾―つ」。「ちち」もそうだが二音重ねて「つづ」とも言った。
「つ」はタ行子音であり、同様にタ行子音の「ち」とは必ずどこかで繋がっている。さてその唾液は何から作られるのか。それはやはり血からである。

もし食事中に水を摂取すると噛まずに飲み下すことができてしまうため咀嚼回数が減り唾液の分泌が激減する。唾液中の消化酵素は胃での消化に大きく寄与するのだが唾液が出ないとなるとその助けを十分に得られない胃はただでさえ苦境に立たされる上、ろくに咀嚼されていない固形食物を水で希釈されてしまった胃液で無理やり消化せざるを得なくなる。消化不良のために便秘や下痢を起こす。咀嚼不足で顎と歯と歯茎が退化する。また脳は咀嚼回数と分泌された唾液の量により満腹を察知するため、唾液が出なければ満腹に気付かず腹の皮が突っ張るまで食べ続けてしまう。消化不良と過食に挟み撃ちにされて肥満する。あるいは胃腸や肝臓を患う。唾液が分泌されなければ口の中の微生物の均衡が崩れ虫歯や口腔疾患を引き起こし噛むことがさらに困難となる。また唾液の分泌に関連した各種ホルモンが覚醒しないため生命活動が滞りもはや体のどこでどのような故障が起こるかは予想もつかなくなる。どうやら食事中に水を飲むと大変な事になるらしい。

唾を吐くのはもちろん、食事中に水を飲むのは行儀が悪いと躾けられた方も少なくないかと思われる。わが国の行儀の躾は他の国々からすれば厳しいほうで、実はこれは体の維持と整備に影で蜜に関わるのであった。唾液を吐いて粗末にするのも水で唾液を堰き止めるのも体を壊すもとであるのを先祖たちはよく知っていた。唾は大事なものである。

ここで冒頭に記した「血は争えぬ」という話に絡め、「世襲」制度なるものに触れてみたい。

世襲などは今では軽視された習慣であり時には非合理とまで批判される。これは「氏より育ち」のほうが近代主義の理念にふさわしいとされるためである。しかしかつては商人が店を継がせる段、跡取りとして選ぶのは当然わが子であった。職人も武士も同様である。しかし男児に恵まれなかったか、あったとしても病弱か技能に欠けている、あるいはとんでもない放蕩者でとても暖簾を譲れないなどの場合は同業者や弟子から養子を迎えた。娘があったならば婿養子として迎えられるので血縁関係は一代先送りでも守られる。しかしそれも叶わぬときは養子縁組が取り持たれた。そこで必ず為されるのが「盃事―さかずきごと」である。 
盃を交わして契りを固めるのは今にも残る古い習慣である。赤の他人どうしを夫婦、親子、兄弟また師弟として結びつけるに不可欠な儀式であり、その目的は両者の関係を血縁に並ぶ強いものとするところにある。今では多少変わってしまったが古くは一つの盃を使い父から子、兄から弟、師から弟子となる者の順、つまり親方が先に口をつけ子方がそのあとを飲み干すのが本来で、また口をつけた箇所を紙で拭いて渡したりもしなかった。ここで焦点となるのはやはり唾液である。

盃の酒はたかだか三くちで飲み干せる量、その盃にたった一度だけつけた口から移る唾液こそほんの微量であるにも関わらず、それが他人を親兄弟の間柄にまで結びつける力があったのか、それともただの呪術まがいの通過儀礼だったのか、精神的な繋がりを持たせるための形式的習慣に過ぎないのか、なのに固めの盃は古くは古事記に著され今日も古典芸能や極道の世界で守られているという事実はまことに興味深い。
                            

      親子盃。どういうわけか兄さん方の映像しか見つけられなかった。

近ごろ注目されている唾液遺伝子検査はこの唾液中の白血球細胞を利用して行われる。唾液には微生物や酵素のほかにも数多くの物質が含まれかなりの量の白血球も存在する。
もしやすると盃を介して白血球の遺伝子を「移植」し、人格や能力を遺伝させることができるのだろうか。
それはここでは検証のしようがないので先に続けるとする。

実は筆者の住むトルコにはこれに似ているとは言い難くも彷彿とさせる習慣がある。生まれたばかりの子を地域や親族の尊敬を集める人物のもとに連れて行きその唾を子の口の中に吐き掛けてもらうという、思わず後ずさりしたくなる習慣だが今もしかと残っている。先述の乳母の乳と同様に、信心や教養の深さと優れた人格の継承を期待しての行為である。

話を日本の世襲制度に戻す。我が子に自分の跡を継がせたいとの願い、また末代まで自分の血を残したいとの願いは自然なものであろう。そのために乳付けを試み、乳母を頼み、そして親として与えられる限りの資質を子に与えた筈である。しかし子にその技量が足らなければ家を継がせても傾いてしまう。江戸以降の武家や商家であれば周囲の助けでその運営が適うやもしれないが、職工や芸能の家にそういった余地は微塵もない。「血」は争えぬとは言えど「血」だけではどうにもならず、時として血族の外に後継者を求める必要に迫られた。血を別けた可愛い我が子をして跡を継がせたいという自我を封印し、盃を交わし義の血縁者として育てた弟子に職能を託したのであった。

職人、絵師、楽師、役者、医者その他これらは高等技能が求められる職である。六歳から元服の頃までに師について修行をはじめるのが常である。親方は実子をみずからに弟子入りさせ他の弟子たちと同等に扱う。また甘えを許さないために親子の縁を切ってから弟子にとる、あるいは初めから同業者のもとに弟子入りさせることも多かった。師弟とは親子同然、あるいはそれ以上のものであるとして差し支えない。この「弟子入り」に際して必ず盃を交わし師弟の契りを固める。
もちろん盃を交わしただけでは何も学んだことにはならないのであり、盃が済むと今度は長い長い修行が待っている。研ぐ、描く、打つ、舞う、ただの物理運動を魂に共鳴させるための修行である。いずれ弟子が技量を認められて師から名前を与えられるとき、その後さらに師の名を継ぐにあたり盃事が度々に取り持たれる。師が弟子に懸命に渡そうとしている何かがある。
ここに乳母や乳付け親の「乳―ち」と類似した鍵、「唾―つ」を見つけることができた。いずれも「血―ち」から作られる「霊―ち」の媒体である。
                            師弟
             鍛冶匠、硝子匠とその弟子たち           

職人に限らず、親の親から受け継ぎ血に刻み込まれた経験と技能がおのれと共に滅びてしまうことが身を切られるよりも辛いことであることは、手に職をお持ちの方であればよくご理解いただけると思う。何としても次世代に、血の中の覚書きを伝えなければ死んでも死に切れぬ、それほど切実であった。唾には本当に遺伝子や記憶を伝達する能力などがあるのだろうか、結果だけ見ればわが国の職工技能の水準は世界一、いや世界に類がない。

今日まで血を介して伝わった技能と魂を遡れば土の器に縄の文様をほどこした先祖たちや日本の土に稲を根付かせた渡来人たちにまで行きつく。あるいは黒曜石を求めて地球を半周し日本に至った熊襲たち、そして弓馬を携え東国のさむらいとなる蝦夷たち、また能狂言に恐ろしくも悲しく謡い描かれた土蜘蛛たちに辿りつく。彼らが国を築いた記憶は我々の血の道に脈打ち今を生きる力となった。「力―ちから」が「血―ち」に、そしてその後ろに控える「霊―ち」に由来することはやまとことばの構造が雄弁に語る。

―「力―ちから」は名詞「血―ち」に原因・理由の所在をあらわす接続助詞「から」が膠着したものである。

「氏より育ち」のほうが近代主義の理念に適うと書いたが、それは一斉教育で均一に生産された若者の甲乙を試験で評価し資本主義社会の各部品として使用するにあたって滅法都合がいいという意味で、それを人権だの機会均等だの小奇麗な言葉でまことしやかに飾り立てわれらの目と耳を欺いているに過ぎないのである。そこで重要なのは生産効率だけで親の血を引く技量などあってもなくてもどうでもいい。つまり、近代とは物質のみに意義を認めるのである。
日本の先祖たちが氏の子であろうと、赤の他人の子であろうと懸命に育てたことはもらい乳や師弟制度という習慣がすでに証を立てている。これこそが「氏より育ち」の示す深い部分であり、世襲制の否定とは無関係である。こうして血は血族だけでなく国という共同体に還元された。され続けた。そして今。

乳母の制度は守られることはなかった。人工栄養の「効率」のほうを重視したためである。さらに近年の「感染症」という脅威は乳母や乳付けの可能性を完全に閉ざしたと言える。親子盃でさえ盃を紙で拭いたり水で濯いだりという馬鹿げたお作法でその意味が枯らされ、先祖たちが交わした盃の意を踏襲しているのは極道の皆さん方のそれのみかと思われる。そもそも乳と唾は感染症から身を守る盾である。さらに言えば感染症の治療法を開発しながら感染症の原因菌を研究室で生産している連中は、ある国に武器を売つつその敵国にも武器を売る者たちの、近代主義の名のもとに日本から全てを奪った者たちの郎党である。日本のこのまま力、「血から」を失い続けていくしかないのだろうか。

やまとことばの音霊に、ほんのひととき身を委ねるだけでよい。それだけで先祖の声を聞くことができる。それだけで、逸れた道をいますこし正すことができよう。
スポンサーサイト

ち のはなし   血液型と食の歴史

 血は体内を流れ、酸素と栄養素を体のすみずみまで運び、その帰り道に老廃物を拾って捨てる。生体が命を閉じるまで昼夜を問わずこれを繰りかえす。血流が鈍ると冷えや凝りがおこり、汚れが溜まって生体は力を失う。また、血の通り道たる血管が狭まるか詰まるかするとその先は補給を絶たれた戦場のようになる。血は流れているからこそ意味がある。

ただでさえ目に見えない血の働きであるが、さらに見えないところにまで旅をしよう。本稿では血にまつわる話を取り上げるものとする。


やまとことばの「ち」

やまとことばは大陸から漢字が伝来する以前、わが国の太古の祖先が意志の伝達そして祭祀にもちいた、また今日の日本語の礎石でもあることばである。表意文字の漢字とはもとより縁がなく語彙の音そのものが意味を持つ。「血―ち」の他に「ち」という音のあらわすやまとことばは幾つかある。

「乳―ち」「父―ち」「風―ち」「茅―ち」「千―ち」「個・箇―ち」「霊―ち」などがある。やまとことばでは、同音の語彙郡はその意味に必ずと言っていいほど共通点がある。では検証してみよう。
「乳―ち」つまり母乳、これは血液から造られる。今では常識だが古代人が乳と血をおなじ「ち」という音で呼んでいたことには驚かざるを得ない。しかし考えてみればわれらが先祖たちが血の濁りや淀みに驚くほど敏感であり、それに因んで乳の出が悪くなることなどは誰でも知っていたのかもしれない。乳とは命の源、そしてそれ以上の存在である。
古語における「父―ち」とは父親ではなく祖先、血筋といった意味で使われていた。血を媒体として受け継がれた系譜をさす。
現代日本語では「風」とかいて「ち」とは決して読ませない。しかし江戸時代までは暴風を「大山風―おほやま」などと呼んで怖れていた。歌には道真により「東風(こ)吹かば 匂ひおこせよ梅の花―」と詠まれている。風とは気の流れである。酸素をはこぶ。また風は雲を集めて大地に滋養の雨をもたらす。時に冷たく、時に暖かく、人に季節の流れをほのめかす。なにやら血の振る舞いによく似ている。
「茅―ち」とは「ちがや」という雑草をさす。萱の一種で恐ろしいまでの繁殖力があり古代からこの植物の穂を乾燥させて強壮剤、つまり血行促進剤として用いていた。「ち」の音の背景に子孫繁栄への思いが伺われる。ちなみに精子も母乳同様に血液から造られる。
数の多いさまを表すことばが「千―ち」である。「個・箇」を意味する助数詞「ち」を伴うと「千箇―ちぢ」になり千個、沢山、様々、となる。「千々」とも書かれる。「月見れば ちぢにものこそ悲しけれ―」など古歌にうたわれる。

「ち」の根底にある意識、それは「霊―ち」をおいては語れまい。

古代、その名に「ち」の音が含まれる語彙には霊力が認められていたといえる。たとえば「蛇―をろ(折曲がった霊)」、「雷―いかづ(怒れる霊)」、これだけでも「ち」の持つ恐ろしげな霊威が感じられる。さらに古事記などをひもとけば「大穴牟遅―おおなむ(多くの名を持つ霊)=大国主命」「火之迦 具土―ひのかぐつち(火の耀く霊)」、「久久能智―くくのち(木々の霊)」と、神々の名の中にも「霊―ち」が伺える。

つまり「血」には霊力があると、あるいは霊と同位のものとされていたのである。ただの物質でしかない躯(むくろ)という入れ物の中を駆け巡りそれに生気を与える。のみならず、思い、喜び、悲しむ魂を繋ぎとめる。精は子を成し、乳は子を育み、子々孫々に至るまで血を介して霊が伝わるのである。やがて魂が離れ血の流れがとどまると人は冷たい骸(むくろ) となる。


血液の進化

最初の人類が地中海一帯に現れた当初、その血液型はすべてO型であった。じつはこのOは「オー」ではなく「ゼロ(原初の意)」である。彼らの生活形態は動物の後を追って移動する狩猟型、つまり肉食を旨とした。それも火の扱いを習得するまでは獣肉を生で食べるのみ、無論それに適した消化機能が彼らには備わっていた。長い氷河期の間、大型動物を集団で狩猟しつつ生きていた。しかし気温が上昇すると大型動物が減る一方で人口は増え、肉に頼らず植物を採取して食料とする必要に迫られた。そしておよそ9千年前に採取が栽培へと移行して農耕がおこり定住化の契機となった。ここで大問題が起こる。この時点の人類の消化器は獣肉しか知らなかったのである。灌漑などの技術革新がもたらした豊かなみのり、つまり豆類や穀類が突然胃に詰め込まれるようになると人体のほうは窮地に立たされた。穀類は肉を消化する強力な胃酸で物理的に溶かされてはいても科学的には全く分解されず未処理のまま血液に取り込まれ、人はかつてない様々な病に悩まされたのである。いよいよ人類の存続が危ぶまれると、追い詰められた血液細胞が突然変異をおこした―A型の誕生である。これは農耕民族の血液型でありA型の血液細胞は穀類澱粉の組織を分解する酵素を生成し栄養とすることができる。農耕が人口の増加をもたらしたのであればそれはA型人口の増加を直接意味している。
その農業がおこるずっと以前にO型狩猟民族の一部の集団は獲物を追って中央アジアの高地に移動しそこで氷河期の終わりを迎えた。ここで見られたのは動物の小型化、羊の原種の発生で、彼らは単なる狩猟ではなくこれらの小形動物を捕獲し繁殖させることに成功する。牧畜の始まりである。すると生活形態は牧草を求めての移動型になるため農耕には向かず、足りない食料は動物の乳を加工したもの、つまり乳製品で賄われた。ここでまた大問題が起こる。O型狩猟民族は乳製品も消化できなかったのである。糖尿病その他の病に悩まされながらここでも突然変異によりB型が生まれた。B型の成立は獣肉と乳製品という準肉食の生活に起因する。AB型は後の世にA型とB型が出会い混血することで誕生する。
RBG

            赤血球から生えた糖の鎖の違いが血液型を決める


日本人の祖

上の説を日本古代史と重ね、やまとことばを手灯りにつらつらと考えてみた。筆者の推測も含まれているため一つの読み物として楽しんでいただければ幸いである。

氷河期、凍てつく海の水位は低かった。大陸と列島は陸続き同然か、小舟を使い島伝いに自由に行き来ができた。この頃に大陸から牧畜を経験せずに東進し日本南西部に到達したのが血液型O型の狩猟集団である。その後に日本の北側からやってきた集団はB型である。この両者こそ倭人、つまり縄文人である。これを単に捕食動物を追っての極東への旅とは考えにくい。その目的の中には当時の狩りに利用された細石器の材料(黒曜石)を求めてのことが考えられる。日本列島全域が硬度と劈開性に富んだ良質の黒曜石の産地である。また穀類以外の食料の確保のためよい漁場を求めて太平洋岸伝いにやってきたとも言える。魚肉は獣肉を主食とする民族にとっても無害であり、O型、B型双方にとって格好の栄養源であった。やがて氷河期は終わり海面が上昇すると海の道は途絶える。彼らは日本列島に腰を据えてのちに縄文時代と呼ばれる独自の時空を築く。

地中海一帯においてA型農耕民族の増え続けた人口は国家と権力者を生む。当然起こる戦乱は民族を四方に分散させた。東へと移動した集団はアジアで稲と出会い、約四千年前、ついにA型農耕民族が稲作と共に日本列島に至る。渡来人たちである。先住の縄文人との出会いと共存はいかなるものなりき。

果たして記紀にあるように稲作は天つ神からの授かり物とするほど有難い文明であったか、たしかに食料は生きるために不可欠であり、米はいろいろな意味で素晴らしい。そして実際に稲作の開始以降は人口も寿命も数字の上では増長した。結論は一言には収められないが、少なくとも縄文人にとっては大惨事だった。

先述のとおりO型とB型にとって穀類はそもそも天敵なのである。食べれば確かに腹は膨れるが滋養が得られずに活力を失い、そして病に陥る。各自が貴重な働き手である上に全体意識が重んじられた当時の社会では一人の病は集団全体に降りかかる災厄であり個人の問題では済まされなかった。
そこへ「旨いから食え」と言われ、「耕作しろ」と迫られ、挙句の果てに「天つ神を祀れ」と強いられた日には武器を取るのみ、しかし大規模な農業を運営するまでの組織力があり、ましてや鉄製農具と共に鉄製武器をも手にする渡来人たちに適うわけもない縄文人には彼らに従うか迫害されるかの道しかなかった。それが弥生時代である。
近畿・中部地方を中心に渡来人は農耕の地盤を築く。その一帯に先住していた縄文人にも耕作を伝え受け入れさせる。しかしそれにはそれなりの時間が必要であった。愛知県の朝日遺跡は農耕を核とした巨大な弥生遺跡として知られており、発見された人骨には結核や貧血などの痕跡が見られると言う。急激な人口過密化による栄養不足がその原因とされているが筆者は肉食から穀類食への転換期に起こった弊害と考える。やがて縄文人にA型農耕民族の血が混ざることで穀物の消化の問題は徐々に解消した。ここでA型とB型の婚姻によりかつて無かったAB型が誕生する。


迫害民の血

あまたの小国家の興亡を経て、やがてヤマト地方を中央に据えた大和朝廷の成立へと時代は向かう。その勢力圏を築くに当たって先住民たちに強いたのはヤマトへの恭順と外来の神々(天つ神=渡来人たちの先祖を神格化したもの)の信仰、そして穀物での納税であった。それに頑として従わぬ者たちは北へ、南へ、または人も通わぬ山奥へと押しやられた。
陸奥、出羽、蝦夷地、北日本に生きた縄文人たちは蝦夷との蔑称で呼ばれた。採取生活を頑なに守り、皮革、鉄製品を製造しながら朝廷と交易を行うまでの独自の生活圏を築くことに成功した。彼らこそ氷河期に日本列島の北側からやってきたB型狩猟民族の子孫たちである。A型の血が混ざらぬ以上はこの集団の血液はB型、そしてB型に内在するO型因子の覚醒により出生するO型から成る。
奈良時代に坂上田村麻呂の東国征伐をうけて朝廷支配に組み入れられた以降は国司が派遣され本格的に開墾がはじまる。しかし岩手県中部がその北限であり、その以北の地には縄文時代の生活形態を踏襲しつつ交易、生活具、装飾品、食、いずれをとっても躍動に満ちた華々しい時代が興った。これの実現にはある程度の寿命の延びが不可欠である。技とその精神を次世代に伝えるにはその共同体のなかに熟練者たちがいなければならない。子供を生んで育てるだけで寿命を迎えていたのでは彼らの技術的円熟は決して見られないのである。また老人たちの経験譚を子供たちが聞いて育つことでそれは民族の記憶として共同体に還元される。およそ文化と名のつくものはそれが具現化したに過ぎないのである。蝦夷たちは比較的長生きだったはずである。これが正しければ農業収穫による食料の安定確保だけが長寿の秘訣ではないことの裏づけとなるが、研究者諸氏の更なる調査が待たれるところである。

ところ遺跡

            北海道北見市 ところ遺跡から出土した副葬品

また、山岳地帯に篭りひたすら朝廷との争いを繰り返した縄文人そしてその子孫たちは土蜘蛛と呼ばれ恐れられた。彼らの血液型は農耕を拒んだ以上はO型かB型であることは確かである。彼らは蝦夷たちとは違って朝廷からの卑劣な迫害に対する恨みゆえに完全に敵対、孤立した。文芸・能・神楽・歌舞伎等の古典芸能に描かれた「酒呑童子」や「茨木童子」、「国栖(くず)」そして「土蜘蛛」とは彼らのことである。桃太郎などの鬼退治譚で悪役に描かれる鬼たちも然り、朝廷側から見た脅威は絶対悪として歴史に焼き付けられる。
      大江山の鬼退治

      大江山の鬼退治   左から渡部綱、酒呑童子、源頼光


A型の現代人が渡来系である、ましてやO型の現代人がすべて土蜘蛛の子孫であるなどという話は論外である。今の我々の血液型は先祖の血を確かに反映してはいるが、その先祖とは単一系統ではありえないのである。例えば大陸からの渡来人はヤマトの地で権力者となると縄文系の豪族の娘たちを次々に妃に迎え、その子孫たちはみな朝廷貴族となった。これは何代にも渡って繰り返される。天皇の家系から源頼光や渡辺綱などの猛き武人たちが現れたのもいにしえの母たちから託された血が甦ったのであろう。さらに近世以降、人の行き来が激しくなると血の邂逅は止まることなく進み今に至った。我々の血液型はいつの時代のどの先祖の血が濃く現れたにより、母の胎内に宿るその時に決まる。


さむらいの血

国際語にもなった「さむらい」とは誰か。一般的な語源は「さぶらふ―侍ふ」とされ、貴人のそばに仕えるという誤った意味で定義されている。そうではない。やまとことば動詞「もる―守る」にはじまる。その未然形に上代の助動詞「ふ(反復・継続をあらわす)」が膠着し「むらふ―守らふ」、常に守り続けるという意味の語彙がつくられ、さらに語意をつよめる接頭語「さ」を冠して「さむらふ」になる。その名詞形が「さむらひ」である。貴族が雅語を使って発音すると「さぶらひ」になる。ではさむらいたちは誰を守り続けたのか。
平安時代中盤、朝廷の貴族や寺が私地を拡大して荘園領主となり、その警護に東国から猛者たちが集められたことを侍(にんべんに寺、大陸から渡る漢語漢字ではなく和製漢字)の始まりと教科書はほざいている。しかし上で述べたように、「さむらひ」という言葉が確立したのは上代以前、遅くとも奈良時代である。朝廷からの武力による干渉から同胞を守るために太刀を佩き、馬に跨り弓を構えた蝦夷たちである。彼らが守ろうとしたのは遠い祖から受け継いだ血、生き方であって貴族どもではない。
血族を核とした武装集団が日本の南に現れる。水先案内や海運を生業とし、または海賊でもあり、有事には朝廷の軍事力として機能していた集団は水軍と呼ばれた。彼らの先祖は南日本海域に点在した縄文人、熊襲である。後に熊襲の出の武士団として活躍する渡辺氏、村上氏などが有名で、また物部氏はかなり早い段階で朝廷に仕え軍事警察部門を受け持った熊襲である。「もののふ(=さむらい)」とは物部の和様の読み方から来ており「もの」とは武器を意味する。荘園領主たちはすでに存在していた武士たちに警護を依頼しただけであり、それを武士の始まりとするのは悪意さえ潜む誤りである。
そして北日本、蝦夷の中から現れた武装集団は地域を護衛しつつ弓と馬術の鍛錬にいそしみ勇猛な戦人として自らを育てた。鎌倉以降、武士の家柄を「弓馬の家」と言うがじつはそれは東国のさむらいたる蝦夷の血筋に由来する。中央から遣わされた役人が東国に土着し、地域の開拓を行いながら蝦夷と共に成長した武士団が奥州藤原氏を筆頭に数多く現れた。であるからして武家の棟梁たちの家系をたどれば大抵は源氏や藤原氏に行き着く。しかし東国に土着した以降は何代にも渡りその地の娘を妻に娶り子孫を残している。西国、南国でも同様の土着により武士団が形成された。父系の家名に拘らず冷静に俯瞰すれば武士たちはB型蝦夷とO型熊襲の血がより優勢であると言える。彼らは後に戦国武士として活躍、わが国の歴史の表舞台に立つことになる。

       弓馬の家

     弓馬の道トルコ流、そして日本流。彼らの先祖は中央アジア高地から東西に別れた。
 

農耕民の血

日本人の血液型で一番多いのはA型である。なぜか。
一昔まえの日本人の食生活だが、一言でいえば米が中心であり、その脇には常に味噌や豆腐や納豆といった豆製品があった。そして野菜の煮物、酢の物、漬物と少量の魚介類、これはA型農耕民にとって最も快適な食生活である。A型の消化機能ははでんぷん質を分解することに長けているが、動物性のたんぱく質を活力に代謝できないだけでなく血液中に病因として残してしまう。奈良時代から江戸時代にかけて時の政権は幾度も獣肉の禁令を出した。それは無類な殺生を戒める仏教に因るとも、働き手たる牛馬を保護するためとも、民衆の血の気を削いで従順にさせるためとも言われるが、結果として国家財政の基礎つまり稲作を担う農民層の胃腸を不向きな肉食から守りその繁栄を助けた。中世まで農村が搾取の対象とされながらもA型農耕民の人口は徐々に増え、そして江戸期に入り幕府の保護政策で豊かになった農村からは余剰した人口が都市に流れて大都市となった。それゆえ大都市の構成員もA型が優勢となり、するとそこでは米を中心に据えた食生活が展開する。今では喜ばれる中トロなどは敬遠されて猫の餌か畑の肥やしにされていたのも脂の強い魚肉が肉と同様にA型の敵であることと無関係ではない筈である。江戸時代に花開いた和食と名のつくわが国の食文化がA型の血になぞらえて構築されていたことは歴史学者からも栄養学者からも気付かれていない。
      米問屋

             米問屋の風景    食料であり貨幣でもあった米

逆に地方の武士、また山間部で生活する樵や猟師その他もろもろの職種の日本人は獣肉をかなり口にしていた。狩と称して野鳥や兎を公然と捕食しており、太鼓や鼓の皮の材料となる皮革を剥いだあとの牛と馬も当然の如く食用にされるなど獣肉の食文化も細々とではあるが継続されていたのである。そうでなければO型とB型の日本人たちは萎えきっていたはずである。いちばん気の毒だったのは粥ばかり啜っていた大都市に暮らす下級武士たちかもしれない。


血液型別の食を

上に書き連ねたことは昔話のようであるが現実に我々に流れる血もおなじ四種類、AとBとO、そしてABであり、各々の血液細胞のかたちと働きは縄文時代から変わっていない。これらの事をあわせ考えてみるといろいろなことに気付く。
例えばある現代人の血液型がO型だとすれば、それは彼が歴代の祖先たちから受け継いだ血の中のO型因子が色濃く現れたことによる。このO型因子は人類が狩猟民族であった頃からの名残である。すると彼の体の組織は胎児の時代からO型の血液細胞によって構築され、生涯その血に見合った栄養補給をつづければより快適に、より健やかに、またより長く生きて行ける。逆も真なり、血が苦手とする食生活は人体を疲弊させ、より早く老化させる。
蝦夷や土蜘蛛たちが頑なにまで農耕を受け入れなかったのは穀物を口にすまいとする血の為せる業でもあった。ならば現代もO型とB型の血は依然として同じ性格を持ち続けていることを思い出すべきである。A型以外にとって和食は体によいとの思い込みは危険極まりない。

A型であれば和食は理想の食生活である。現代の肉と乳製品に偏った食卓は見直すべきである。
B型は穀類以外なら安心して食べられる。乳製品も肉類も消化できるが両方を同時に口にすると負担になり得る。
AB型はAとBの両方の特性、強味も弱味も併せ持つ。何を食べても消化できるがそのぶん上限が低く設定されている。穀類、肉類、乳製品を同時に摂取しないほうがよい。
O型の場合、肉ばかり食べていてもそれで病気になることはない。逆に肉と魚しか食べられないとまでは言わずとも近いものがある。O型とB型が間違ってベジタリアンを目指すと内臓や血管が劣化し死に至りかねない。

これでは何も食べられないではないか、と嘆いてはいけない。まず日本人にとって米だけは別格である。米を食べ続けた我々の体内に米を分解する酵素がいつのころからか住み着いている。我々には麦よも米のほうが消化しやすい。そして葉物と根物の野菜の多くは誰にも害はなく、漬物はとくに優れた食品と言える。
また両親のうちのどちらかが自分と異なる血液型を持つのであればその特性を多少は引き継ぐことができる。たとえばO型の母親をもつA型の子が肉類を食べても血の中のO因子が消化を助けてくれる。血とはやはり争えないものである。

血液型が全てではない。人の生き死にはよろずのことの重なり合いである。しかし食べることなしには誰ひとりとして生きられず、血の助けなしには食べても体に生かせない。血がうけつけぬ物は決して体に還元されないのである。血のことをあまりに知らなさすぎたため我々はいらぬ病に冒されるようになったのである。乳製品は背が伸びる、肉は太らない、日本人なら日本食、どれも嘘ではないが相手構わず薦めたのではひどい間違いになる。少なくとも血というものを知る努力をせねばならない。せねば次の突然変異を待つ間に多くの命が苦しみ喘いで尽きていくであろう、それでもよいのだろうか。

血液型と食生活の話は筆者にもこの辺りまでが限界である。あとは専門家の方々に是非とも研究していただきたい。血にまつわるほかのはなしは次号にて。

やまとことばでよむ「古事記」 イザナギ・イザナミ考

日本というものの純粋な部分が我々の中に今やどれだけ残るのか。純日本人でありつづける必要はないと思うが、このままよその世界に迎合しすぎれば脂のように溶け崩れ二度と形を成さなくなる、そう思えてならない。今や日々の会話は外来語なしには成り立たず、かりに西欧からの外来語を取り去ってもやはり漢語外来語と明治の新語だらけである。ことばとはその共同体に生きる上での価値判断と意志伝達を担う重要な媒体である。つまり今の日本は生活も意識も外来の文明にとことん支配されていると言うことになる。それ自体は良いことでも悪いことでもないが現状、日本は甚だしく見苦しい。

これまで「やまとことば」にこだわってきたのはこういった危惧があってこそである。

人とて、国とて、時とともに他と邂逅し変わりゆくのは道理であって不可避でもある。しかし決して他に空け渡してはならない処があるはず、こうも見苦しく息苦しい国ができてしまったのはそれが何なのかをいつの間にか見失ってしまったがためであろう。先祖たちが何を思い、何を守ろうとしたかを見出だすのは今となっては難しい。しかし太古に生まれたやまとことばを辿れば、その答えに行き着くことができるかもしれない。

大陸から漢字が流入するその遥か昔から使われていたやまとことばは音声のみの言語であり表記文字の存在は無かったとされれている。仮に古代文字があったとしてもごく稀に、たとえば司祭のみに使うことが許されていたとも思われるがこれは推測の域を出ない。とにかく音の持つ力(音霊)に支配された言語であることは確かである。

たとえば「おふ-OU」という音の動詞は漢字で書けば「生ふ」「追ふ」「老ふ」「終ふ」などのように意味が別れるが、漢字と出会う前まではただ「おふ」の一言で語られていたことになる。そんな無茶なとも思える。しかし生ずるとは即ち時を追うごとに老いて一生を終えることであり、また「負ふ、覆ふ、帯ぶ」は持つ、身に具えるの意から体という媒体が一生という時を背負うことに通じる。「おふ」の音にはその全てが秘められていたのである。先祖たちは「生いる」と「老いる」の相反する現象が実は不可分であると当然の如く認識していたことが解る。やまとことばはこの例のみならず、ひとつの語彙から複数の意味が枝分かれしつつ音韻を共有する。つまり、それにより成されたひとつの文章からは何通りもの意味を引き出すことができ、ゆえに短い文で壮大な世界を語ることも可能になる。その精神を技法として生かしたものが和歌や俳句などである。
しかし漢字によって視覚化されて意味が細かく分かたれたことばはその流動性を失った。音霊は文字の中に封印され、自在に駆け巡ることはなくなったのである。

さて、先ずそのようなことを踏まえつつ、現存するわが国最古の書物である「古事記」に焦点を当ててみたい。
「古事記」以前から存在した書物は大化の改新の折にすべて焼失したとされておりその内容は定かではない。壬申の乱を経て、天武帝の勅令により凡そ天地開闢からの故事と皇族の系譜が書物としてあらたに書き著された。言語はやまとことばであり表記法は漢字の音を借りた万葉仮名である。
古事記を読み込む場合、この書物の本質が音霊に支配されたやまとことばであることを忘れてはならない。単語を分解し、漢字の持つ意味よりもまずその音を頼りに意味を汲み取らなければならない。国産み物語の主人公として親しまれるイザナギとイザナミも然り、物語に現れる神々や国の名ひとつ一つに遠い昔の出来事が隠されている。

        古事記
               古事記  上巻二 天地初發之時…

夫婦神イザナギとイザナミ、その名はやまとことばの「いさなふ-誘ふ」に由来する。
「をと、ひ、おな(カ・ガ行子音)」、「をと、ひ、おな(マ行子音)」などにみられるように、語尾の「ギ」と「ミ」はそれぞれ男、女を意味する音として捉えれば共有部分「イザナ」が残る。これはすなわち動詞「いさなふ」の語幹である。
「いさなふ」を今の言葉で言えば「さそう」「みちびく」「ともなう」というあたりか。イザナミとイザナギはお互いをいざない合い、そして結ばれた末にこの国が生まれたことを思えば、「いさなふ」とは何かと考えざるをえない。

「いさなふ」は「いさ」と「なふ」からなる合成語である。

「いざ行かん(さあ行こう)」などと、人を誘うために発する感動詞として知られる「いざ」はその語源を「いさむ」に求めることができる。単純そうだが実は深いことばである。奮い立つ、いきり立つ、励む、と言う意味の「いさむ-勇む」、また戒める、引き戻す、差し止めるという意味の「いさむ-諫む、禁む」、このように「いさむ」は相反する二つの性質を持つ。ひとつのことばの中のこの矛盾は俄かには理解しがたい。しかし人はただ後先なしに勇み立つだけでは傷つき絶え果てるのみである。ひとは常にこの蛮勇を諫め、逸れた勢いを本道にひきもどさなければならない。それでこそ潔く(諫清く)生きることができる。つまり「いざ」とはやみくもに人を駆り立てる掛け声ではない。ひとをよき道に導きながら鼓舞するという祈りにも似たことばである。

「なふ」の解釈にはものごとを合わせなじませる「なふー合ふ、和ふ」、拠りをかけて多くのすじを混ぜ合わす「綯ふ」がふさわしい。「なわ-縄」はそれが名詞化したものである。
日本では縄は単なる生活用具ではなかった。縄を張り巡らすことで「結界」を築いたことからそれは呪術や意志伝達の上で重要な意味を持っていたことが解る。「結界」の役割は二つに別けられる。ひとつは清浄なる神の領域に人の世の穢れを持ち込まないため(ハイルナ)、そしてもうひとつは荒ぶる神、悪霊や鬼またその力をある領域の中に封じ込めるため(デルナ)である。神社と呼ばれるものはこの二面的な結界に分け隔てられた領域であり、ここでの縄は「注連縄」という形に象徴され今も残る。かしこき「縄」を「なふ」業は神事のひとつとして捉えられていたはずである。

我々の先祖が始めて出会った「縄」は何であったか、それは「へそのお」ではなかろうか。この不思議なナワが母親と胎児の命を繋いでいたことは科学などに触れなくとも、ましてや言語を持たない原始の昔でも容易に知れたであろう。そしてそれをよく見れば何やら二本の道が拠り合わさっているではないか。へそのお=臍帯は栄養と酸素を供給する道(陽の道)と老廃物を回収する道(陰の道)の二本が二重螺旋を描いている。この姿に霊性を覚えぬはずがあろうか、後の時代に縄を神聖視したことの根源はこの辺りにあるのではないかと充分に考えられる。ちなみに遺伝子の構造も二重螺旋であるが、これは先祖たちの知る由も無いことではある。

              へそのお
                      へそのお
                    
ふ」の語源は「-土」であろうと考えられる。練-る、塗-る、均-らす、伸-す、滑-めるなど、ナ行動詞には泥、土、土地に関わる多くの語彙があり、さらに名詞の「-泥」「-丹」「は-埴」「ま-沼」はまさに泥そのものである。このように一音節かつ複数の動詞の語幹の音であることばはかなり古いやまとことばの一つと言える。しかし縄を綯うという語彙がなぜ植物ではなく土や泥から想起されたのだろうか、不可解ではあるがここには「土器」が関わっていそうだ。

藁縄が作られるようになったのはもちろん稲作が行われる以降である。それまでは葛のつるを煮て繊維を取り出したものなどが縄の材料に使わたとの記録があるが、ここで何かを「煮る」ためには土器が無くてはならない。植物の繊維から縄を綯う技術に先行して縄文土器の使用が始まっていたことになる。

   土器


ろくろの無かった縄文時代に土器の壷や甕はどのように作られたかといえば、まず粘土を縄状にのばし、それを輪にして一段ずつ積み重ねるか、蛇のとぐろのように螺旋を描いて円筒の容器をつくる。この粘土の縄を作る作業こそが「ふ」であったと考えられる。
日本史における縄文土器の持つ意味はあまりに過小に評価されている。木の実の灰汁抜きをしただけではなく、獣の肉か魚を直火で炙るだけの食生活から飛躍的な変化をもたらしたであろう物が縄文土器である。肉・魚介類を木の実や芋類、海藻とあわせて煮込み、煮汁とともに摂取するようになった。塩造り酒造り、また夏に乾燥させた食材を冬に水戻しすることも、草や根を煎じて薬とすることも可能になった。このように滋養、殺菌、投薬などの様々な面から日本人の暮しを豊かにしたことは間違いない。しかし食の変化という視点からは稲作伝来以上の意味があるはずの縄文式土器は、弥生式土器と比較して品質が低い、装飾的であるが実用的ではないなどの無意味な評価ばかりを受けており、理不尽とはこのことである。
縄文土器のその名の由来となったいわゆる縄目は焼成前に意図的に付けられたものである。粘土の縄は生地の厚さを均す際に消えてしまう。土器のその肌にあらためて縄目を付けたのはやはり神の恵みたる糧を穢れから守らねばという意識が働いたに違いない。縄目の文様はただの装飾ではなくやはり「結界」であったと思われる。

そろそろイザナギとイザナミに戻ろう。

「古事記」の国産みの段はイザナギとイザナミのあけすけな濡れ場だけがむやみに注目されているが、古事記が男女のそれになぞらえて語らんとするのは「陰と陽の誘い合い」である。生物の繁殖はもちろん大地に雷が落ちるのも、月の満ち欠けも、原子構造も、そのほかの全ての物理現象は陰陽(±)に拠るとし、更にこの世の起源をも陰陽に求めているからである。
男神のイザナギは陽の力、女神のイザナミは陰の力を象徴した存在であり、その使命とは縄を綯う如く陽と陰を拠り合せ何かを生み出すことである。ただし「な-土」という重要な媒体を通す。イザナギ以前の世界にはその名に泥土を暗示させる神々が複数現れており、またイザナミとともに「アメノボコ-天矛」を以って形なき流れる大地を掻き回したとされている。天地は「な-土」に始まる。

        こおろこおろ
             天沼矛をとるイザナギ、そしてイザナミ

即ち「いざかしこみて陰陽を交え土より産み為さん」、そう誘い合うのがイザナギとイザナミの名の解釈となる。産み成さんとするのは国産みと神産みにほかならない。

こうした考え方は大陸の陰陽思想に影響を受けたとするのは狭い見方といえる。なぜなら陰と陽の両極支配は日本の先祖たちが自然の摂理の中にすでに見出しており、上述の「老ふ-生ふ」「諫む-勇む」の例にもそれは明確に現れている。稲作をはじめとする大陸文化が伝わるそのずっと昔に、やまとことばは陰陽を基本構造のひとつとしてすでに組み立てられていた。後に大陸から伝わった陰陽思想を抵抗なく受け入れたのは日本にそうした土壌があったからこそであり、陰陽への理解がすべて大陸文化の影響であった訳ではない。
                              
この世の起源、わが国においてそれは天地開闢という神話に語られ今日に伝えられている。しかし現代ではこの神話というものを古代人の空想による説話と割り切り歴史そのものからは切り離して考えるのが普通である。時代が降るにつれ人も文明も進化し現代は古代より優位にあるという根拠なき思い込みが常に働くことがその原因であろう、しかし実際は、時代とともに人も社会もただ怠惰に、強欲に、淫蕩に、脆弱に、臆病かつ残虐になったことだけは確かでも優れているかは実に疑わしい。いにしえの祖たちは子々孫々たる我々に何かを託そうとしたことは疑いなく、それを空想と括って非現実と扱うことが果たしてどれだけ罪深いか、思うにつけ畏怖の念に駆られざるを得ない。それならば神話とは史実とでも言うのか、とお叱りを受けそうだがそうではない。では何なのか。

その前に「な-土」について、もうすこし書かねばなるまい。

奈良時代後期に開墾地(稲田)の私有が認められ出すと、多くの場合は所有者が自らの名を墾田に冠していた。この田は田(みょうでん)と呼ばれ徴税の単位とされた。また多くの名田を支配し納税を請け負った有力農民を主(みょうしゅ)と呼んだ。平安時代に武士が発生すると、彼らは一族の生活基盤(つまり稲田)のある土地の地名を姓として名乗るようにもなる。後に勢力範囲を広げた武士は大(だいみょう)となり、やがては日本全土を掌握するに至る。このように古代から近世にかけて「な-土」と「な-名」の間にはただの同音異句というだけではない構造的な関係が保たれていた。しかしこの関係は実はさらに古くに始まっていた。

「国作り神話」で知られるオオクニヌシはスサノオの六世の孫とされており、またの名をオオナムチ(大穴牟遅)という。ほかにも多くの名を持つことがオオムチ=大持と呼ばれる由来とされ、また名前が多いのはスサノオの血を引く複数の神々を総称したのがオオナムチであるからとする説もある。高天原を追われ出雲の地に降り立つスサノオはクシナダヒメ(奇稲田姫=霊妙なる稲田の女神)と結ばれる。これは縄文人(スサノオ)の稲作との出会いであり、広大にして豊かな出雲の国を築いたスサノオの子孫はオオクニヌシ(大主)と呼ばれるまでになった。つまりオオクニヌシとは出雲地方に実在したであろう出雲王朝の歴代の王たちを指している。ただし、「な-土」というやまとことばがある限りオオムチの意を「多くの(土地)を持つ者」と解するべきであり、そうでなければ「大国主」という呼称との繋がりが希薄になる。海の向こうから現れオオクニヌシの国作りを手助けたスクナヒコ(少彦)という神の名は、渡来神(渡来人)であるために「日本国内に名=土が少ない」と意味を引き出すことができる。「土」とは生活基盤であり、出自を担保するものでもあり、つまり母胎である。また「名」とは出自そのものであり、「名は体を現す」とのことばの通りその特性の現れであり、特性とはその母胎で育まれるものである。やはり「名」と「土」は縁続きなのである。神により最初の人間として「土」から創造された預言者アダムは先ず天使をして万物の「名」を教えられたという「クルアーン」の教えともどこかで繋がりがあるのかもしれない。

稲作は、端的に言えばカミに帰属するはずの土地に資産価値を与えてしまったのである。木や土の中に生るもの、海から山から獲れるもの、それをカミの恵みと拝して共食していた時代は去り、自らの力で切り開いた土に糧を実らせさらには庫に蓄えるようになった。森羅万象はおしなべてカミの持ち物であるという考えはここで破綻した。糧のある処を求めて、つまりカミの意のままに移動していた先祖たちは土に縛られた。冒頭で音霊が文字の中に封印されたと述べたが、それに実によく似ている。そして土を争い、名を競い、血を流した。弱者は強者に使われるようになり、強者の先祖神を氏神と祀ることを余儀なくされたのである。氏神は土地の神として君臨し、農耕を基盤とする土地と人民支配はこの氏神の名の下に行われた。土は氏神の物となり、その総帥である高天原の神の物になり、ひいてはその子孫たる天皇家の物となる。律令制が布かれ土が完全に支配されるようになる時代を迎えると、「古事記」や「日本書紀」が文字によってかかれた。「文字」の古語もまた「な-名」であることは偶然だろうか。

(これは筆者の独り言に過ぎないが、古代文字は存在した筈である。凄まじい開発力を持つ日本民族が文字だけを編み出さなかったというのはどうしても解せない。ではなぜ残らなかったかである。おそらくは、音霊を文字に縛り付けることを畏れたのではないだろうか。一度は文字を成立させたものの、音霊の苦しげな叫びを聞いたのか、またどのような嘘でも書けば後の世に残せることに気づいた先祖はその恐るべき文字の力を邪悪なものとみなし、それまでに粘土などに刻み付けた文字という文字を全て破壊したのではなかろうか。)

出雲王朝は後に大和朝廷の傘下に降る。これはオオクニヌシが出雲の国を高天原の神々に譲るという「国譲り神話」として描かれているが、もちろん出雲王朝が朝廷の武力に屈したと考えられている。その恨みゆえにオオクニヌシが悪霊と化し世に災いをなすことをた畏れた朝廷は出雲大社にその霊魂を祀った、言い換えれば結界の中に封じ込めたのであった。出雲大社は怨霊を祀る神社であるなどとまことしやかに囁かれるが、神社とはもとよりそういうものである。

日本の神話はギリシア神話ゾロアスター教、インド世界の神話と類似性がある。いや直接関連がある。それは古代人の血の中に宿った民族の記憶が移動や通商にともない東西に拡散したからであり、遠く離れた地中海神話の片鱗が日本神話の中に現れていてもさほど驚くべきことではない。神話とはいずれも太陽神を筆頭とする擬人化された神々が人と交わり子を産んで王族の祖となっている。しかし日本の太古の先祖たちが本当に畏れ敬ったものは手足や目鼻のある神々などではない。溢れる恵みを人の世にもたらし、或いはすべてを奪い去る、自然の摂理の内に秘められた目には見えない存在である。それをカミと名づけて冒さぬよう、穢さぬように気を配り、ひたすら祀ることで怒りを鎮めようとした。擬人化した神々に名前を付け、親子関係を持たせ、また遠い国の物語を織り込んで神話を綴ったのは実は時代がだいぶ降ってから、つまり稲作による豪族や王朝の支配が生まれた以後のことである。わが国に限った話ではなく、権力者は後世にまでその血統の正当性を認めさせるため出自を必ず神に求め、「氏族の系譜」を「神の系譜」へとすり替える。そうして書かれて世界中に残ったものがいわゆる神話である。ここでこの「神話」をそのまま「神の話」と認識してしまうと途端に荒唐無稽な説話と成り変わり、ひいては本来の「カミ」なる存在を陳腐化するという誤りに至る。

神話は史実ではないが史実を反映したものである。権力者の都合で書き作られた神話の行間から史実をよみとる努力をするべきである。こうした神話の評価は「カミ」の否定には決して繋がらない。神話の中の偶像をふるいにかけてこそ先祖たちが真に畏れた「カミ」に漸近することができよう。

天地開闢、国産み、神産みの段も今後の記事にてよむとしたい。

「まなぶ」を問う



現代では意味が違うことば同士が実はある頃に枝分かれした同じことばであることはよくある。とくに日本語の祖語やまとことばの成り立ちを見つめるとそれによく出会う。日本語はおもしろい。

最近日本人の学力が下がったとよく耳にする。教育の制度や政策が槍玉に挙げられるが本当のところは如何なるものか。
学力の学の字の訓読み「まなぶ」の一語を吟味したい。まず「まなぶ」とは何ぞ哉。

1.「学ぶ」の古くからの意味を下から選択せよ。

い)教育をうけること
ろ)思考すること
は)真似すること
に)記憶すること



「まなぶ」は古い日本語、大陸から漢語と漢字がやってくる前の日本で使われていたやまとことばである。名詞の「まな(合・真・正・似)」に助動詞「ふ」が膠着して(くっついて)まねをする、近づく、匹敵させる、などを意味する動詞となった。つまり「まなぶ」と「まねる」は今ではずいぶん意味が違ってしまったが元は同じ言葉であった。他動詞であるため目的語を取る。つまり何をまね、何に近づくかが問われる。そしてそれは「真-まこと-真事」を以って他にはない。「まなぶ」とは「まこと」に近づこうと尽すことである。時を経て平安時代ごろに「まねぶ」が「まなぶ」から分かれた。

記憶も思考も、学ぶという大きな目的を遂げるための行動の一つに過ぎない。たとえ教育を受けようが受けまいが「まなぶ」ことはでき、あるいはできない。ひとえに当人と「まこと」との間の問題である。「まね」が模倣や盗作という後ろめたい意味を持つようになったのはおそらく雅語として分かれた「まねぶ」のなかに「虚飾」らしき意味が芽生えたからであろう。    
正解  は)


2.「まこと」の説明として適当なものを下から選択せよ。

い)科学的に証明・立証が可能なもの
ろ)文献や資料に裏付けられた歴史的事実
は)教育者の一言一句
に)自然の摂理のなかにあるもの



まず根底にこの世をこの世たらしめる「摂理」、やまとことばで言うなれば「ことわり-理、事割り」が存在する。事を割る、筋道をたてる、混沌とした事象の中から核心を割り出す。潮の満ち引きと月の満ち欠けの間の「ことわり」、木から落ちた実とそこから芽生え育つ分身のあいだの「ことわり」、それらを謙虚に見つめて導き出せば、ことわりをつかさどる目に見ぬ力の存在に触れることができる。「ことわり」こそが「まこと」の在り処である。科学とはそれをを数式、あるいは図を以って体系付ける作業に過ぎない。が、どういうわけか世間ではこの科学ばかりに権威が集まった。すると人々は物事を科学の窓からしか見ぬようになり科学で証明できないことは議論から落ちこぼれる。そこであたかも科学こそが真理であるという考えが罷り通るようになった。
もちろん、「まこと」の在り処は物理・科学の庭だけではない。先人たちの歩んだ道や我々が日々使う言葉のなかにも「まこと」は必ずや在る。歴史・文学はその上に何とかと立っているだの分野、まして文献や資料はさらにその所産でしかない。教育とは図式化・言語化された端末情報を教えるただの手段・制度であることは言うまでもない。   

正解  に)


科学の権威を「安置」するため場所、それは学会や大学である。子供たちはただ大学というものに属するためだけの教育を十年以上も受け、競争をし、秤にかけられ
る。そして大学に受け入れられるとその後は出身校の名を肩書きに職業生活を送る。だから大学に権威があればそれだけ有難い。一般人だけでなく専門家にとってもそれは同様である。



3. 大学(university)を世界中に創設した機関を下から選択せよ。

い)創価学会
ろ)国連安保理事会
は)日本船舶振興会
に)イエズス会


古代のメソポタミアやギリシアにて展開された数学、天文学、医学、哲学などの学問はローマ帝国が東西に分裂した時点で東ローマにとどまり欧州の根源である西ローマには波及しなかった。理由はギリシア語で残された文献がラテン語を公用語とした西ローマでは価値が理解されなかったことにある。科学などは神の御業に干渉する呪わしき行為として糾弾され書物は炎にくべられた。そして何よりこの地の権力者たちは学問よりも腕力が好きだった。
そのまま中世を迎えた欧州だが、人々は神を讃える傍らでその心は悪魔や吸血鬼への恐怖に病んでいた。疫病、飢饉、天変地異、この世の全ての凶事は悪魔が目論み手先の魔女たちが引き起こすと説かれ、それを退治できるのは高潔な僧侶の祈り、あるいは銀の十字架などととされていた。しかしそれは教会が神の出先機関としてさらなる尊敬と信頼と寄付を集めるために作り上げたいわば虚構、人々の心を支配し教会に縛るものでしかなかった。
逆に東ローマでは学問が好まれ過去の文献も温存された。そしてイスラム教徒に圧される形で東ローマ帝国は領土を徐々に失いやがて消滅するが、この地に残った古代の学問はイスラム教徒たちによってペルシア語やアラビア語に訳され解釈が深められながら注釈がつけられた。さらにウマイヤ朝のあったイベリア半島ではそれらがラテン語に翻訳され徐々に西欧にもたらされる様になった。置き去りにしてきた古代の学問「科学」に欧州はそうして出会ってしまう。そして虚構が傾いた。

数学や天文学や医学という技術の土台となる分野だけをとっても「科学」の魅力を思い知り、そして錬金術に至ってはもう神への冒涜などとは言っていられなくなった。そこで教会は科学と信仰の融合を急いだ。「科学」とは「神の御業」つまり「自然」を神から与えられた理性で「理解」する行為だとする立場を築き、聖書の窓から科学を説くことを試みた。与えられた命題をとことん討論し、論理により真理を導き出すという、教会で培われたこの学問の形式を指してスコラ学という。

欧州各地に大学を開設したのも、スコラ学者を育てたのも修道会のイエズス会であった。神学とともに科学全般を教育した大学では同時に論理学教育にも重きを置き、論理により真理を導き出すという姿勢は教育の中に定着する。そしてそれは大航海時代、イエズス会がキリスト教の布教とともに世界中に大学を創ることで世界基準としてひろまる。    

正解  に)



やがて実験や観察による証拠を論理の根拠とする自然科学の台頭を受け、根拠を信仰にもとめたスコラ学は机上の空論として批判の対象となる。しかし役目を終えたあとで批判されようとそれは大きな問題ではない。重要なのは、信仰に支配されていた中世欧州において科学がスコラ学を通して見事に消化吸収されたという事実、その後の科学と信仰の別居、そして論理によって解き明かされないものは価値がないとする考えが教育を凌駕しその支配が今も続いているという惨劇である。



4. 日本と科学の出会いはいかなるものであったか。(複数回答可)

い)イザナギとイザナミの二神が諸物を生み出した。
ろ)大陸からの渡来人が、暦学、稲作、養蚕、機織、鋳金、薬学など多くの技術をもたらした。
は)戦国時代に望遠鏡、地球儀などがキリスト教と一緒にイエズス会の宣教師によって持ち込まれた。
に)開国後に近代の科学や思想が海外から流入し、福沢諭吉らがそれを啓蒙した。


キリスト教社会からの科学の流入は宣教師によるものである。聖書と鉄砲を餌に日本を西欧の軍事経済網に組み入れようとするイエズス会の魂胆を見通した豊臣秀吉は禁教令を出し伴天連どもを追放したが、ここで西洋の科学と縁が切れたわけではなかった。鎖国と言われるほどには閉鎖的ではなかった江戸時代、オランダとの貿易を介して西洋の知識は日本に届き「蘭学」と呼ばれ、軍事知識とキリスト教思想が侵入して日本の体制を揺るがさない限り幕府は蘭学を認めた。果たして日本でこの時代に浸透した「科学」は医学、暦学などであり、先祖から伝わる「暮らし」を毒することなく在来の知との摺り合わせを繰り返しながら学ばれた。おそらく西洋からすれば軍事知識を欠いた科学などは肉のない料理のように見えたであろう。
しかし黒船が日本の門戸を蹴破り近代の科学と思想が怒涛のごとく流れ込んだ。蘭学は洋学と名を変え、それまで欠けていた武器、軍制、法制の知識、資本主義、近代思想は肩で風を斬りながら「在来の知」の居場所を奪う。古きものを守ろうする者に対し福沢諭吉は「ばかもの」呼ばわりをした(「改暦弁」)。

太古、この世のすべてのものごとは互いに離れた陽と陰が「あふ(合ふ、逢ふ、和ふ、会ふ)」ことで生まれ起こると考えられていた。世界の古代文明を掘り下げればみなここに行き着く。陽陰とは「天と地」「日と月」「男と女」「魂と躯」…、原子も宇宙も引力も繁殖もこれに尽きる。そして「あふ」ことは別れることの始まりである。生と死は互いに呼び合い、永代に繰り返す。イザナギとイザナミの出会いと別れはそれを神話として饒舌に語るものである。   

日本人が遠いとおい先祖から受け継いだ知とは「生き方」である。それは「死に方」とも言い代えることが出来る。どのように生き、どのようにそれを終え、それをどのように子孫に伝えるかである。新しい何かを学ぶときも「ことわり」の中の「まこと」に真摯に問いかけその答えを待った。「ことわり」に叛けば子孫に害が及ぶことをよく知っていた。大陸から来た新しいものごとも時をかけて日本に馴染ませた。しかし宣教師や黒船が持ち込んだのは「殺し方」であった。    

正解 い)ろ)は)に)


5. 琉球大学遺伝子研究チームが福島で大量に見つかった蝶の奇形は放射性物質に遺伝子を破壊されたことが原因となったという発表を行ったが、根拠の一つとして突然変異促進剤を投与したときに起こる変異と同様の異常が見られることを挙げている。これの意味するものとして不適当なものを下から選択せよ。

い)福島の蝶に突然変異促進剤投与の事実がある
ろ)福島の蝶に放射性物質による汚染の疑いがある
は)突然変異促進剤とは放射性物質を指す場合がある
に)放射性物質を使って遺伝子を組み替えてまで生体に干渉することが当然になった


放射能が遺伝子を傷つけることはもう常識となっているが、「突然変異促進剤」というものは一般には聞き慣れない。これは抗生物質や農作物などの研究開発に利用されており、多くは放射性物質によって遺伝子に損傷を与えて突然変異を促して「強い」種を発見することが目的である。突然変異は人類が今日まで長い時のあいだに自然に体験してきたことではあるが、人の手によって、人の利益のために行われてきたわけではない。自然環境を構成する膨大な要素が同時に影響し合いその淘汰の中で生き残りをかけてごく微小な変異が生まれるのである。今しかし遺伝子研究の現場ではこのような実験が繰り返され社会にとって有益と判断された「異変」は時を移さず市場に放たれる。こうして開発された薬品や食品は日々我々の口に入る。その害の有無を判断するのもまた学者であって我々ではない。そして学者が無害を証明すれば誰も口を挟むことは出来なくなる。だが「ことわり」に手出しをすれば、その咎めがどのような道をたどりどのような形で与えられるかは学者には証明しきれまい。

正解 い)


6. 2011年から続くシリア内戦に対する世論が緩慢なものからに急激に厳しくなった理由として適当なものを下から選択せよ

い)反政府組織の中にアルカイダの活動が認められたため
ろ)サウジアラビアが子飼いのチェチェン人テロ集団をロシアにけしかけたため
は)シリア北部で国際法に違反する化学兵器が使用され多くの死者が出たため
に)トルコ軍がシリア国境にパトリオットミサイルを配備したため


二年以上続くこの内戦ではすでに何百万という死者、そして孤児、そして手足を失い、故郷を後にすることを余儀なくされた人々がいる。しかし世論はそれを直視せず中東は戦火があって当然という見方すらされていた。だがある日、化学兵器使用という一線を越えたそのとたん、世界は態度を変え一斉にシリアの子供たちのために泣き出した。   

正解 は)


化学兵器の使用を擁護するつもりはない。あってはならない事である。なら、ふつうの爆弾でなら市民の命を奪ってもよいというのだろうか。どちらも同じ殺人ではないか。国際法に触れさえしなければどのような非道も合法なのか。国際法とは誰が何を基準に作るのか。

人の子であれば、子の親であれば誰にでも浮かぶ疑念であろう、しかしそれが世論に声となって響くことはなかった。疑念よりも論理が先に立つからである。疑念が湧いて出る場所は「魂」である。逆に論理は「魂」を切り離し状況証拠あるいは経験からの共通項で組み立てるものである。我々が学校で学ばされてきたのは後者である。―化学兵器は残忍だ、残忍な化学兵器がシリアで使われた、だからシリアの内戦を終わらせて子供たちの人権を守らなければならない― あまりに、あまりに不毛なな思考。


学力が落ちた云々ではない。「学-まなぶ」対象のほうにに問題がある。学校という所で教えられていることは「まこと」を根とする枝葉のようなものである。世のことわりを体系付けた学問の表層だけを知識と呼ばされただやみくもにそれを拾い集めるが、評価されるのは集めた枝葉の量であり、そのために葉の色や姿を見つめる暇は与えられない。根から離れた知識は遠からず枯れて朽ちる。気づけば何一つ学ぶことなく人生を終えることになる。その空虚さ、不毛さが露わになることを恐れた個人も社会もただ「まねる」ことで殻を築く。他人から借りてきた思想と知識で武装する。そうしておけば世の中から嘲笑を買うことも抹殺されることもなさそうだから、である。

科学こそが真理であるという錯覚がここにある。それが科学そして科学を拠り所として生まれた思想、法律、経済に過度の権威を与えてしまったこと、そして権威を得たものがこの錯覚の発信源であることは畢竟、中世欧州の教会と神の関係を考えれば現代がその焼き直しに過ぎないことはよく分かる。科学は真理に築かれた「ことわり」を視覚化・具現化して我々に見せただけであり真理そのものではない。「まこと」をつかさどる世界は凡そ不可視である。


錯覚を捨てねば「まねる」ことはできても「まなぶ」ことはできない。この世の霧が晴れるまで、ひたすらまなぶことにつとめてはどうか。

境界論

なにやら仰々しい題だが小難しい話をしようというわけではないのでどうか敬遠なさらないでほしい。

「境界」、それは二つの領域が接するところである。
海や山河に隔てられた両側で互いに接触がなかった結果それぞれ違う領域ができあがる。古代の国や村の周縁を例に挙げることができるこれを「自然の境界」と呼ぶことができる。それに対し元々ひとつの領域であったものをある目的を持って隔てる場合、その境目は「意図のある境界」と呼んで前者と分ける必要がある。

今日この「意図のある境界」の弊害に世界は正気を失いかけている。境界論などという聞きなれないものを持ち出したのはそのことについての思考の機会をわずかでも持っていただきたいという願いからである。やや回りくどい話ではあるが、どうかご辛抱の上お付き合いいただきたい。



家屋の外壁や屋根は「そと」と「うち」を隔てる境界である。その目的は風雨、寒気、夏の日差し、盗賊、害虫、害獣そして人の視線から住人を守ることにある。木の国である日本の家屋は太古の昔から木造であった。木は暑さ寒さを遮る断熱材であり、湿度にあわせて呼吸をする生きた素材でもある。ただし火には弱い。平安の都は寺院や邸宅が密集した都市であったため一度火災が起こると都じゅうに燃え広がりかねなかった。そこで土と瓦を突き固めてつくる築地塀を敷地の境界にめぐらせ延焼を防いだ。また近世、住宅密集地となった江戸では家の塀や外壁に焼杉(裸火で表面を焦がし炭化皮膜をつくると着火しにくい特性を利用したもの)を用いるようになり、ほかにも「うだつ」と呼ばれる防火壁をあげて大火の備えとした。

 火除け
            築地塀                うだつ              焼杉


「聖域」を穢れから守る目的の境界も存在する。神社の鳥居や注連縄、寺院の山門がそれにあたる。ギリシアの聖山アトスやメテオラなどの修道院は下界との接触を絶つがごとく断崖絶壁の頂上に築かれた。石垣や壁のように外敵を物理的に遮断するのとは違い霊的・精神的な境界である。「聖」から隔てられるのは「俗」である。

 結界
           伊勢 夫婦岩                    メテオラ ルサヌ修道院 

この精神的な境界がいたる処に見受けられるのがわが国である。商店の軒にかけられた暖簾は物理的にはほとんど意味を成さないが立派な境界である。店のうちとそとを隔てつつも道行く人々を店の中に誘い、そして中にいる客の気持ちを外に逃がさないための装置である。
壁と扉の用を兼ねているのが障子や襖などの建具である。木の枠に紙や布を張った構造は軽くて開け閉めがしやすい。祝言や葬儀の席ではこの境界を取り払い大空間を設けることができる。逆に閉じられているときは個別の小空間に区切られて伺い立てなしに外から開けてはならないという不文律によりその空間の独立が担保されている。湿気の多い日本の気候にとり開閉のできるこの境界はその吸湿性のある材料とともに最適であるといえる。

 暖簾と襖
              暖簾                       障子と襖


古来から日本の村落の入り口には道祖神や地神を祀るなどして悪霊邪鬼が入り込むのを防ぎ、同じように都や江戸のような都市の周縁にも寺社を建立した。こういった境界は上述の注連縄や鳥居も含め特別に「結界」と呼ばれている。
木造の構造上、そして雨が多く湿度が高いという気候から家屋の床は地面よりも高く作られる。すると屋内には土埃が入らず、おのずと外と内の清潔さの違いが顕著になる。履物を脱いで「家に上がる」という風習はここに起因する。ここでは「高さの違い」が浄と不浄を隔てる境界を生んだことになる。
日本人の精神が育んだ境界は茶室に集約される。茶会にのぞむ者は露地、つくばい、にじり口を一つひとつ体験することで段階的な境界を越えていく。そして現世と隔てられた茶室へと迎えられ、そこには時と場から切り離された「一期一会」の宇宙がある。

 茶室
         つくばい            露地                  にじり口



敵意のある集団からの防衛という目的を課されたのは城壁や市壁、石垣、堀、である。襖のように吹けば飛ぶような境界とは違い水にも火にも強い素材を用いた堅牢な造りであるため太古の遺跡として今に残ることも珍しくない。
西洋においては日本と違い建築構造は石造が主であり、寺院、城砦、民家を問わず外壁は石造りが普通である。西洋の国々に古い町並みが残り、今もそれが生活の場として生きているのは素材の寿命の長さに起因する部分もある。敵意などない「自然」すら人間と敵対する脅威として捉えていた西洋人は自らの周りに防護壁としての強固な境界を築くことに積極的であった。あまりに強固な境界を持ち合わせたことの結果、西洋では日本人が深く意識した繊細な境界は顧みられることがなかったのはではないかと思えてならない。


都市の境界
      コンスタンチノポリスを囲む市壁              江戸城を守る寺院の結界



境界とは本来繊細なものである。建物の外壁同様にたとえば野菜の皮なども境界であるが、これは外からの刺激から野菜の組織をしっかりと守る反面、組織にとって必要な酸素や日光を吸収することができ、内包される組織の成長とともに皮も伸張する。これだけの繊細さがあってこそ境界として成り立つ。人間の皮膚も同じように繊細な境界であるが野菜と人間がお互いの皮を交換したところで何の役にも立たない。そして西洋と日本がそれぞれの家屋を交換した場合、どちらの居住性も最悪というほかないだろう。

日本の河川敷、その風景はコンクリートの堤防に覆われたものである。堤防もまた河川と陸地の境界である。増水による水害から街区を守るという目的がある。かつての考え方では川は必ず増水するものであり、そのそばに家を作るのは愚の骨頂であった。河川の両側は増水時の緩衝地帯として「河原」が設けられ、また火災の折に延焼を食い止めるための「火よけ地」として機能していたため建物の普請が禁じられていた。そこには大道芸人や物売りが集まり、市中とは違った趣の賑わいがあった。
現代、流通の便から河川の河口付近は開発が率先され人口が密集したことから住宅街が川に漸近してしまった。行政は当然のごとく堤防を築く。が、そこに使われるコンクリートは水と陸の境界に適した素材とはいえなかった。水辺に棲む生き物は生活の場を奪われて姿を消し代りに起きたのはヘドロや悪臭、そして河口付近の藻類の大量発生である。水と陸の出会う処に巣食う生き物たちには彼らの使命があった。そこで生き食いつ食われつする傍らで水と泥を清めてきた。その営みを分断したのがコンクリート製の境界だった。
水辺のみならず地面も地と空の境界である。アスファルトで覆われた地面、おかげで履物に泥がつかなくなったのは確かで建物の中も掃除がしやすくなっただろう。しかし夏の日差しが恨めしくなったに違いない。土中に吸収されることのなくなった熱は逃げ場を失い気温を上げ続け、そして日没後に空に向かって放熱する。人は冷房に頼らざるを得ず、また室外機からの放熱も気温を上げる。
土に命の営みがあればその死骸は微生物が分解し、雨水に触れて溶け土に還る。風が酸素を吹き込み新しい土になる。しかし草も虫もほかの多くの生き物も生活圏を奪われ、さらにアスファルトの下にある土は雨や雪に清められることはなく、水際のコンクリートによる生態系の変化が地中でも起きているといえる。土は穢れ、病巣をはぐくみ病院での治療が不可能な疾患を生む。

微生物や魚介類よりも人間の暮らしを考えるのが行政の義務である。しかしどのような些細なことも巡りめぐって人の世に跳ね返るのをもはや認めないわけには行かない。
老朽化し産廃となったコンクリートの瓦礫を狭すぎる国土のどこに持っていくかとつねに議論すると同時にコンクリートの材料である砂とセメントの両方を大量輸入しているのが日本、まことにもって不思議な国である。


世界地図をみればあまたの国々が網目のように走る境界を接して大陸を共有している。それは「国境」と呼ばれるが、わが国には海岸線が広がるだけで壁も鉄条網も見当たらない。兵士たちが銃を構えて海の向こうを睨んでいるわけでもない。
しかし日本の他のほとんどの国は他国と地続きであるために「国境」を接している。

地面に線を引いただけではない。この国境の一方と他方では法制度が異なりそれぞれにその執行者である政府がある。政府は国益を守るという目的でこの国境という境界をかたくなに守り外からの侵害を許さない。ただし双方に利益を生む場合は接点を設ける。それは交易であり、運輸である。海のない国は輸出入を陸路に頼るほかなく、国境を接する国々と仲が悪ければ難儀する。商品を通過させる側の国に関税やら規制やらをかける権利があるからだ。北極海に面したロシアは通年使える不凍港がないことに大昔も今も悩まされている。こういう国にとっての外交とは海に活路を開くための戦いでもある。地下資源に恵まれているならば強気な外交に打って出ることもできる。しかしそれがない場合は大国の傘下に下ることを余儀なくされる。有り余る地下資源を持ちながらそれを活用する機会を去勢されてしまった国も大国の言いなりになしかない。


山脈の峰をそのまま国境とした地域もあれば遠い昔の国境を今も保持している地域もあるが、アフリカ大陸は第一次大戦後に欧州の列強がアフリカの国土と資源を談合の上で山分けにしたため不自然な直線で国境が描かれている。また38度線やかつてのベルリンの壁はひとつの国をイデオロギーの力で分断した境界である。境界は戦争のたびに消えたり、増えたり、移動したりする。逆に言えばこの「意図的な境界」の塗り替えのために戦争が絶えない。大国同士の力関係が微妙に変化するたびその都合で境界が設定されてしまうからである。

つまり「意図」の在処は大国である。世界の各地でおこる対立、紛争、そして戦争は大国の意図により起こされる。民族や宗教の問題はその材料でしかない。

ぼやけた境界もまた対立を生む。国の輪郭を海によって描かれ、時として「島国」とよばれる日本は世界でも稀な境界を持つ国といえるが本島から離れた小さな島々は幅広い境界線上にあるためその所属が明確でない。だから対立の要素になる、いや、される。
近代日本はこれに翻弄された。日本が北の国と協調することを喜ばない西の国々が先の大戦の終わりに残した禍根が北の島々の帰属問題である。西欧は北の国の産業が発展し国力を伸ばすことを妨げるために運輸に障害を来たすことを意図し欧州に境界をもうけた。それは「反共の壁」とよばれるイデオロギーを大義名分に国々を対立させ物理的かつ精神的に分断するぶ厚い壁だった。ベルリンの壁などはそれを象徴するものである。
そして極東である。仮に日本がソ連と協調し、太平洋に向かって開かれた凍てつくことのない日本の海岸を共有し、その見返りに大陸の資源を安価で輸入することができたとすれば西欧はさぞ気を悪くしただろう。それを阻むため西欧は北方四島をソ連のものとし、日本とソ連がお互いに門戸を開こうとするそのたびに足かせとなることを、日本が欧米に忠誠を誓い反共の壁となることを、その見返りに与えられた経済発展に溺れることを目論み、悲しいかな今日まさにその目論見どおりになった。
日本の南の島には基地がおかれその問題をめぐる紛糾は国が分断されるほどである。反米感情と対米依存という矛盾した二つの感情に引き裂かれ憲法の議論すらまともにできない。迷走する世論は米国にさらなる政治介入を許してしまう。
そして誰も棲まない猫の額ほどの島々をめぐってはありもしない開戦論が繰り広げられている。なぜそこまで血を流したいのか。

資源を無駄にたれ流し、子供に魚を食べさせず、墓参りはおろか先祖に思いを馳せることもなくなった国の政府が漁業権や資源権、先祖が生きていた土地の話をするなど片腹痛い。では聞こう、その北や南の島々の先祖たちに日本の中央がしてきた仕打ちはどう説明するつもりか。その魂に報いるために子孫の暮らしをまたしても踏みにじるつもりなのか。

遠い昔。日本がひとつの国になる前のこと、朝廷は中央に恭順せぬ辺境の民を鬼になぞらえて異端視し、東北の民を蝦夷(えみし)、西南の民を熊襲(くまそ)、隼人(はやと)と名付けて軽んじた。日本書紀をひもとけば神武天皇東征をはじめとする数々の辺境民族征伐譚が記されるが朝廷軍や神々が「騙まし討ち」を仕掛けて勝利したことが臆面もなく書かれている。茨を編んで作った罠に陥れたこと、強い酒を飲ませて酔いつぶしたこと、美しい娘に化けて近づいたこと、宴に招いて皆殺しにしたことなどが敢えて記されたことの背景には日本書紀が編纂された当時にはじまる朝廷の東国征伐を正当化するためにその前例を神々に求めたからである。そして時代は降り江戸のころ、蝦夷地松前藩の横暴に対し蜂起したアイヌの民の首長は藩主から和睦の酒宴に招かれ、酔い潰されて殺された。これは非道である。中央ではできない非道でも境界の外の辺境でなら行えるとする人目を憚りはしても神を畏れぬ理論である。今の日本政府の東北への仕打ちも同様、「安全だからそこにいろ」という学者の言葉に裏付けられた見えない境界で人々をそこに縛り付けている。


律令時代に中央と辺境の境界には「柵」と呼ばれる最前線基地が置かれた。そこは朝廷の覇権が及ぶ限界線を示す。「さく―柵」とは、やまとことばの動詞「さく―裂く、割く、避く、離く」がそのまま名詞になったものである。この動詞から「さかふ―境ふ、界ふ」が派生しさらにそこから生まれた言葉が「さかひ―境、界」、つまり境界である。

境界、それは衣服であり、家である。固く厚い壁を築くだけではなく風土と季節によりその材料を変えて、また窓や門扉、門戸を設けて境界の外と繋がることができる。ときに緩め、ときに堅く閉ざす。
また皮膚であり、細胞膜、細胞壁でもある。外界から内部を守りつつも生体の代謝を妨げぬだけの仕組みがある。
そして民族と宗教である。これは人々の間に見えない境界を築く。先祖から受け継いだ生き方を子孫に伝えるための意識を民族意識といい、それを振りかざして他民族に対する差別と抗争を煽るものを民族主義という。この前者と後者をとりちがえたままでは禍根としての境界でしかない。宗教も同様である。     
知識と経験は人に見識を与え、人はこの見識越しに目の前の事象を捉えてその内側で思考する。したがってこの見識というものは自己と外界の間の境界である。人の見識を育てるのは親であり地域であった。次世代を思う親たちの心があってこそ与えることができた。しかし今、社会の価値基準は経済に乗っ取られ、人々と外界の間にできたのは経済の忠犬であるメディアによって築かれた「意図的な境界」である。人は事象の捉え方をそれに押し付けられている。それがどのようなものかは物質主義経済が大国に奉仕するものであることを考えれば察しがつく。

生態系を無視した土木工事、季節も風土も考慮されない新建材や化学繊維は自然という大きな全体の中からその部分であるはずの人の暮らしを粗末な壁で遮蔽したに過ぎず却って人を痛めつけた。人々がそれに気づいていながらにして抜け出せないのは「意図的な境界」に囚われており、この境界内の掟である「経済」の呪縛を解くことができないからである。需要なき供給そして消費のための消費、経済速度を上げることが目的の経済において数字に換算できないものは無視される。水辺の生き物も人の命の平安も経済の前にあっては価値がない。ましてや第三国の国境などは地面に書いた線に過ぎず経済政策の都合にあ合わせ書いて消してまた書けばよい、民族と宗教そしてイデオロギーを道具に使い、武器を取らせて血を流させて、その赤い血で書けばよい、そんな仕組みを呪わずしてこの世の明日があろうか。


やまとことばは我々に説く。
境界の語源である「さく―裂く、割く、避く、離く」と同列のことばの「さく―咲く」、これは固い蕾が割れて花がほころぶことを意味しており、そこから「さかう―盛う、栄う」が派生する。「さかひ―境」と「さかえ―栄」は縁がある。

ある領域の周りに境界を築き守りを固めるのはその内側が栄えることを求めてである。しかし一方のみの繁栄のために他方を拒絶しても虐げてもならない。道理なき境界であればその内も外も栄えることはなく、ただ水を澱ませ血を穢す。そして人の心に鬼を棲まわせ非道をさせる。

質の違う二者が対峙すれば必ず境界が生まれる。水と油の間には界面ができ、夜と朝の間には夜明けが横たわる。民族が違えば言語も風習も相容れない。人は自然の中にありながらそれとは一線を画して生きなければならない。だから裸では歩けない、雨露をしのぐ家がいる、そして誰もがそれぞれの生まれに誇りを持って生きなければならない。だからこそ外界に対し何らかの境界を持たないわけにはいかない。この世の全ての境界を取り払い「自由」を求めるなどという考えはあまりに幼稚、そして不可能である。語るべきはその境界が道理に従って置かれたかどうかであってその有無ではない。


そこに境界があればその意図を、誰が何のために築いたのかを読まなければならない。あるべきはずの境界が見当たらないときはそれを取り払ったのは誰か、何故かを探さなければならない。悪い意図がはたらいているかを見抜かなければならない。そうすれば、おのずと道理が浮き上がる。




逆ふ、逆らふ、諍ふ、下ぐ、これらもすべて「さく―裂く、割く、避く、離く」から枝分かれした動詞である。抗争、反目、侮蔑を意味する。これはまさに国境をはさんで起きている現象である。「さかふ―逆ふ」が名詞化した「さかひ―逆ひ」は「さかえ―栄」の対極にある。境界が両刃の剣であることを、太古の先祖たちは知っていた。

Pagination

Utility

書き手

ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

つれづれのかきこみ

さがしもの

こよひのつき

CURRENT MOON