時計は夜まわる
- 2011/08/21 09:03
- よりわけ: ドリフ
最近は何かと重苦しい記事が多かったので反省してドリフな記事など。
いかりや長介扮する「母ちゃん」と残りのメンバーによる「悪ガキども」、こんなドリフのコントを覚えておられるだろうか。
戦後の東京の家屋を思わせるセットのなかでの母子劇。何度も同じような筋書きのコントを見せられるのだがこれをワンパターンなどと言ってはならない。歌舞伎の「様式美」に通じるものとぜひ理解していただきたい。
子供時代、ドリフのネタとともに明け暮れしたの筆者のお気に入りの一つが、この母ちゃんコントの時計ネタである。
いかりや 「さあもう晩いんだからさっさと寝てちょうだい、ほらほら。」
子供たちは母ちゃんにどやしつけられてしぶしぶと布団に入る。しばらくはあれこれと喋る子供たちだがもう一度叱られてしずかになり、末っ子の志村けんの他はねむってしまう。母ちゃんも就寝。
志村けん 「なんだか寝れねえなあ、こええなあ。」
見るからに手入れされてないあばら家、ユーレイが出てきそうな風情。足音や水音がするがもちろん志村にしか聞こえない。会場が喜ぶ。
志村けん 「母ちゃん、起きてよ。」
いかりや 「なんだよもお、うるっさいねえ。」
志村けん 「なんかがいるよ、おっかねえよ。」
いかりや 「バカ言ってないで寝るんだよ、ほらっ。」
一発はたかれる志村。母ちゃん布団をかぶる。
ボーンボーンと柱時計の鐘が鳴った。志村がびくりとしてそっちを見ると、なんと時計が柱に沿って上下に動いているではないか、志村まっさお。
志村けん 「わあー母ちゃーん!起きてっ!」
いかりや 「あー、もーいいかげんにしとくれっ!なんだよ一体!」
志村けん 「ととと、時計がうごいたっ!」
いかりや 「時計はうごくんだよこの馬鹿っ!」
うける会場。筆者もケタケタと笑ったのを覚えている。
加藤、ほか「るっさいなあもう、寝てらんないよお」
いかりや 「さあほらくだらないこと言ってないでもう寝るんだよ、ったく馬鹿なんだから。」
他のだれにも起きないことが、志村にだけ起こるのだ。「馬鹿」の運命である。
一同また布団に入るが志村だけはどうしても眠れない。
と、またボーンと時計が鳴り出す。何かが起こると察した会場から笑いがもれる。
志村がおそるおそる時計のほうを見やると今度は時計の本体が柱を背にぐるぐると回りだした。
志村けん 「わーっ!!!大変だ!母ちゃん、時計がまわったよーっ!」
いかりや 「時計はまわるんだよこのやろう!」
母ちゃんの格好をしているがすっかり男に戻ってる長さん。もう最高である。
この時計ネタがなんでこんなに面白いのか。
いかりや、志村ともに正しいことを言っているのに話がすれちがい「馬鹿」であるゆえに志村が一方的に殴られるというところが笑いをさそう。
二人とも正しいのに話がすれ違うのは、それは日本語の特徴によるものだ。機会仕掛けのものをやや擬人化してしまう傾向が日本語にはある。
うごく、まわる、この二つとも能動態の自動詞である。あたかも時計は自分からうごいているような表現だが、実際は振子かゼンマイ、あるいは電池によって動かされて、まわされている。そう、時計が自らの意思で動くはずないのだ。その時計が「予期せぬ動き」をしたのを見た志村は恐怖するが、「常識者」のいかりやは時計が「常識的な動き」をしたと思い込んでおり、動くから何だ、と怒り出したのだ。
しかしこの「常識者」はどう贔屓目に見てもおっさんなのに母ちゃんの格好をしており、しかもこのやろう、ばかやろう口調ときている、もう滅茶苦茶である。
視聴者もこの無茶苦茶加減が好きでたまらない。
「口がわるい」などの理由でドリフは教育委員会やPTAに目の敵にされていた。
しかしこのように日本語の特徴を駆使して子供の心を引き付ける能力は学校にはない。味気のない日本語で行われる退屈な授業で子供たちを飽きさせるのが、学校のやってきた、いまでも続けていることだろう。
常識者(いかりや)はしまいには馬鹿なやつ(志村)の被害者になる。普段、常識という箍にはまらずにはいられない視聴者は、もちろん子供たちも含むが、ドリフを楽しむことでこうして常識者たちにひそかに仕返しをしていたのではないだろうか。
最後はもう志村一人がどつかれるだけでは済まない。障子が破けて無数の手が出てきたり、天井からヤカンだのタライだのが落ちてきて阿鼻叫喚、わー、ぎゃーと叫びながら家の中を全員が逃げ回るが最後はその家が倒壊して舞台は回り、アイドル歌手の歌唱に移る。さあ今のうちにトイレ。
いかりや長介扮する「母ちゃん」と残りのメンバーによる「悪ガキども」、こんなドリフのコントを覚えておられるだろうか。
戦後の東京の家屋を思わせるセットのなかでの母子劇。何度も同じような筋書きのコントを見せられるのだがこれをワンパターンなどと言ってはならない。歌舞伎の「様式美」に通じるものとぜひ理解していただきたい。
子供時代、ドリフのネタとともに明け暮れしたの筆者のお気に入りの一つが、この母ちゃんコントの時計ネタである。
いかりや 「さあもう晩いんだからさっさと寝てちょうだい、ほらほら。」
子供たちは母ちゃんにどやしつけられてしぶしぶと布団に入る。しばらくはあれこれと喋る子供たちだがもう一度叱られてしずかになり、末っ子の志村けんの他はねむってしまう。母ちゃんも就寝。
志村けん 「なんだか寝れねえなあ、こええなあ。」
見るからに手入れされてないあばら家、ユーレイが出てきそうな風情。足音や水音がするがもちろん志村にしか聞こえない。会場が喜ぶ。
志村けん 「母ちゃん、起きてよ。」
いかりや 「なんだよもお、うるっさいねえ。」
志村けん 「なんかがいるよ、おっかねえよ。」
いかりや 「バカ言ってないで寝るんだよ、ほらっ。」
一発はたかれる志村。母ちゃん布団をかぶる。
ボーンボーンと柱時計の鐘が鳴った。志村がびくりとしてそっちを見ると、なんと時計が柱に沿って上下に動いているではないか、志村まっさお。
志村けん 「わあー母ちゃーん!起きてっ!」
いかりや 「あー、もーいいかげんにしとくれっ!なんだよ一体!」
志村けん 「ととと、時計がうごいたっ!」
いかりや 「時計はうごくんだよこの馬鹿っ!」
うける会場。筆者もケタケタと笑ったのを覚えている。
加藤、ほか「るっさいなあもう、寝てらんないよお」
いかりや 「さあほらくだらないこと言ってないでもう寝るんだよ、ったく馬鹿なんだから。」
他のだれにも起きないことが、志村にだけ起こるのだ。「馬鹿」の運命である。
一同また布団に入るが志村だけはどうしても眠れない。
と、またボーンと時計が鳴り出す。何かが起こると察した会場から笑いがもれる。
志村がおそるおそる時計のほうを見やると今度は時計の本体が柱を背にぐるぐると回りだした。
志村けん 「わーっ!!!大変だ!母ちゃん、時計がまわったよーっ!」
いかりや 「時計はまわるんだよこのやろう!」
母ちゃんの格好をしているがすっかり男に戻ってる長さん。もう最高である。
この時計ネタがなんでこんなに面白いのか。
いかりや、志村ともに正しいことを言っているのに話がすれちがい「馬鹿」であるゆえに志村が一方的に殴られるというところが笑いをさそう。
二人とも正しいのに話がすれ違うのは、それは日本語の特徴によるものだ。機会仕掛けのものをやや擬人化してしまう傾向が日本語にはある。
うごく、まわる、この二つとも能動態の自動詞である。あたかも時計は自分からうごいているような表現だが、実際は振子かゼンマイ、あるいは電池によって動かされて、まわされている。そう、時計が自らの意思で動くはずないのだ。その時計が「予期せぬ動き」をしたのを見た志村は恐怖するが、「常識者」のいかりやは時計が「常識的な動き」をしたと思い込んでおり、動くから何だ、と怒り出したのだ。
しかしこの「常識者」はどう贔屓目に見てもおっさんなのに母ちゃんの格好をしており、しかもこのやろう、ばかやろう口調ときている、もう滅茶苦茶である。
視聴者もこの無茶苦茶加減が好きでたまらない。
「口がわるい」などの理由でドリフは教育委員会やPTAに目の敵にされていた。
しかしこのように日本語の特徴を駆使して子供の心を引き付ける能力は学校にはない。味気のない日本語で行われる退屈な授業で子供たちを飽きさせるのが、学校のやってきた、いまでも続けていることだろう。
常識者(いかりや)はしまいには馬鹿なやつ(志村)の被害者になる。普段、常識という箍にはまらずにはいられない視聴者は、もちろん子供たちも含むが、ドリフを楽しむことでこうして常識者たちにひそかに仕返しをしていたのではないだろうか。
最後はもう志村一人がどつかれるだけでは済まない。障子が破けて無数の手が出てきたり、天井からヤカンだのタライだのが落ちてきて阿鼻叫喚、わー、ぎゃーと叫びながら家の中を全員が逃げ回るが最後はその家が倒壊して舞台は回り、アイドル歌手の歌唱に移る。さあ今のうちにトイレ。
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