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ローマ法王狙撃事件の証人(2)

  • 2010/01/27 04:48
  • よりわけ: 世界
メフメット・アリ・アージャという男。
法王狙撃からさかのぼること二年、トルコ国内で別の狙撃事件の実行犯として検挙されている。
その検挙から六ヵ月後、服役中の刑務所から(外部の協力で)脱出しブルガリアに逃走した。

ローマ法王の狙撃はKGB(ソ連国家保安委員会)の画策で、その出先機関でしかないブルガリア政府が
陰謀の舞台となったのはその後明らかになった。では、メフメット・アリ・アージャ(以下アージャ)は
鉄砲玉に過ぎなかったのか。

ポーランドの民主化に影響力をもった法王、ヨハネ・パウロ二世は旧ソ連にとって脅威であった。
共産圏諸国の民主化(資本主義化)を阻む必要に駆られたソ連は陰謀の限りをつくす。
「宗教は麻薬」という名のもとに、「神の代理人」にすら刃を向けても「まかり通る」のがソ連だった。
KGBは終身刑で服役中の精神疾患を持った男、しかも共産主義者でないアージャに目をつけ
奪取して狙撃手として教育し計画を実行に移す。
ここまでが世間にしられた筋書きである。

アージャが関わったトルコ国内の狙撃事件に焦点をあてる。
標的は記者であり、フリーメーソンの会員でもあった。
メソニストの記者というだけで撃たれてしまうのであればフリーメーソンも商売ができない。
彼には撃たれるだけの事情があった。
知ってしまい、書いてしまったのだ。
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ローマ法王狙撃事件の証人(1)

  • 2010/01/26 06:58
  • よりわけ: 世界
1981年5月13日、ローマ法王が凶弾に倒れた。
騒ぎの程はそのころ小学校高学年だった私にも事の重大性を知るに十分だった。ただ法王が何故撃たれなければ
ならなかったかは考えが及ばなかった。有名な人間はとかく危険が付きまとう、ぐらいの認識であったのを記憶している。

四度の手術によって一命を取り留めたというニュースに世界中が安堵し喜んだ。
そんな中で私の母はこともあろうに、腸を摘出して短くなったから絶対に太らない、うらやましいわ、などと評価していた。

子供ごころに中年の女性の社会性の無さというか、世の中の懸念にまるで無関係なところに感心したものだ。

法王狙撃事件の記憶はそこで蓋をされる。「ローマ法王」や「バチカン」という言葉のあとに「狙撃」という合言葉が
浮かぶ日本人もじつは多いと思う。なぜならバチカンの業務も存在理由も我が国では関心外、
そこの法王がどういう役割を担っているか漠然としか知れないが、とにかく撃たれて大変な事になったのは
子供でも理解できた唯一の事件であった。バチカンに無関心なのはなにも中年女性だけではない。

papa

今年。その蓋が俄かに開けられた。
実行犯のトルコ人、メフメット・アリ・アージャが30年の懲役を経て放免された。

続く

ことはじめのまとめ

まわりくどく書いて重ねるまでもなく、春の始まりをもって新年とするのが本来なのであろう。
いまだに立春のころを新年(春節)として祝賀する中国文化圏の人々は、単に残された風習に拘り続けているのではない。
祖先を敬うが故と大雑把にくくることもできようが、その中を吟味する価値はある。
儒教の精神を尊ぶ彼らは当然先祖を敬い祀るのであるが、それは霊廟を掃き清め祈りを捧げることだけに止まらない。
習慣という祖先から伝わる行為を、その表層だけでなく意味をも含めて後代に残すことを忘れなかったのである。

清朝の滅亡とともに西欧に習うべくグレコリオ暦が採用され今日でいう一月一日を新年としてはいるが、彼らの
精神は春節にこそ新年を迎えるのである。

さて日本。
いまさら我が国の新年にケチをつける気はないので先にことわっておくとする。
維新の際、改暦のみならず総てにおいて西欧に迎合するほか本当に道がなかったのかどうかは知る由もなく、
改暦することで福沢諭吉がボロ儲けしたのもこの目で見たわけではないのだが、
その評価はともかく維新の時点で旧暦を旧暦たらしめ西欧と同じ暦を使い始めたという、それに尽きる。
凡そ日本人ほど新しいものを歓迎する民族はいない。外から来る文物にはめっぽう弱いのだ。
クリスマスやヴァレンタインに大騒ぎをするのは多分に市場経済が関わっているのでそれはどうでもいいとして、
西欧のしきたりに合わせるため新年がまる一ヶ月もずれたことに誰も何とも思わないのか、
そこが不思議といおうか、歯がゆいといおうか、へんに日本らしさを感じてならない部分なのである。

年に一度、方々に散った家族が顔をあわせる。鐘のおとに耳を澄ます。
祖先たちが豊穣を願ったのと同じように、始まろうとする一年が実りあるものであることを祈る。
国中で祈る、それこそが新年の心臓ではなかろうかと思う。いや、願う。
千差万別の思いを正月という言葉で分かち合うのにキリがいいのが一月一日だというのなら、それでよいではないか。

玄関の正月飾りには梅の花をあしらう。作り物であったり単に紙に描かれたものであったりする。
あるいは特別に栽培されたものなのか。いずれにせよこの時期に咲くはずのない花である。
もし子供にそのことを指摘されたら、
むかしはこの花のほころぶ頃に新年をお祝いしていたんだよ、と
頭を撫でながら教えてあげたい。

ことはじめのつづき

世界各地で年の始まりをどこに見出したのかを比較してきたのだが、
このままでは今の元日は祝っても仕方がない日のように思えてしまう。
それでは不毛なので切り口を変えてみたいと思う。

雪が解け、雨が大地を潤し発芽する。その時期を見計らって農作業を始めなければならない。
立春を一年の初めとしたのは至って道理にかなったものだ。

イラン高原や中央アジアの冬は長く、厳しい。即ち農作業に従事できる季節がそのしわ寄せで
短い事になる。収穫神を祀るミフラガーン祭が秋分に行われることから、この地域の農業は
春分から秋分まの六ヶ月、その始まりの春分はこの地に生きた人々にとってまさしく新年であったであろう。

補足になるが、古代エジプトで用いられたコプト暦でいう新年とはナイル河の氾濫がある月を第一月としている。
これは秋分のころに重なり、コプト暦はナイル河の氾濫を起点にした農事暦であることが分かる。

古代ローマの暦も本来は農事暦である。農事の始まりではなく農閑期のはじまりを新年としているのが大きな違いで
これが意味するのは国家事業の根本である農業よりも収穫後からはじまる「政治」を神聖化した表れではないだろうかと考えられる。

ひとつだけ、イスラムのヒジュラ暦だけが確実に他と異なっているのでそれに触れておきたい。
前回、ヒジュラ暦は少なくとも農事暦でないことを書いたのだが、それはアラビア半島は殆どが砂漠であるため
農業がないからなどという理由ではないので、ハンパな中東解説本などの言うことは信じないでいただきたい。
太陰暦とは新月から次の新月までの29ないし30日を一ヶ月とし、一年は354日間である。
閏月を持たないためカレンダーは毎年11日づつ前にずれてゆくので、年中行事も冬から秋、夏から春へと
毎年移動する。これはヒジュラ暦が、ひいてはイスラムが太陽の運行を重視していない事を示している。
太陽神、農耕神、あるいは太陽や炎そのものを崇拝することはイスラム教の最大の禁忌とされている。
それは教義の根幹に「アッラーの他に神はなし」という大前提があるため。
このことを踏まえれば、人々が春分や秋分などの現象に神性を感じることを回避するためにも
ヒジュラ暦が大きな役割を担っていることが分かる。

冬とは「眠」であり、「死」であろう。そこから覚醒し、或いは息を吹き返す点を、
その瞬間を古代の人々は見つけ出し新年と定義した。季節の周期の始点とした。
そしてその周期をつかさどる見えない存在を畏れ「祀り」をした。これが「新年」の本当のゆらいであろう。

昔は(旧暦の)一月が春の始まりだったという中学国語古典授業を思い出す。
さらに一月・二月・三月を初春・中春・晩春と習った。

初春は、「はつはる」ともよむ。(つづく)

ことはじめのつぎ

イランを中心とする地域がイスラム教を受け入れる以前はゾロアスター教とその文化が
人心を支配していた。
ネヴルーズまたはノウルーズと呼ばれる新年を祝う祭が太陽の春分点を通過する日に行われていた。
これは当然今の春分と一致する。

イスラム教の世界では陰暦に属するヒジュラ暦を使用する。
これは365日に11日足りない354日を一年と数えて閏月を設けないため毎年十一日づつずれてゆく。
不便なようでこれには大変な美学があるのでいずれ機会があったらそのことも書いてみたい。
ヒジュラ暦の第一月、、ムハラム月自体が争いごとを避けるべき月であるとされている以外は
その第一日も特別扱いはされていない。
特筆すべきは、ヒジュラ暦のみが太陽の運行に縛られていないということだ。
少なくとも農事暦でないことが理解できる。

中国および多くのアジア諸国は旧正月として知られる「春節」を祝う。文字通り、祝うのだ。
これは如何なる日か、一言で言えば「立春」である。ただしその年によって多少前後するので
言い切ってしまうには語弊があるが。
雪が溶け出し雨水となる月を一年の初めとするという思想は、明らかに農事を念頭においたものだ。

そしてわが国にっぽん。
西欧化よろしく明治の改暦を以って天保暦(旧暦)から西暦(グレコリオ暦)に切り替わる。
それまでは大陸と同じ、というか大陸から取り入れた暦を使用していたのは言うまでもないが、
ではその始まりは?となると定かではないらしい。
欽明天皇の時代に暦博士の来朝を百済に要請したとの記録があるために少なくとも六世紀には
暦が導入されていたとされる。が。どうであろう。
稲作がわが国にもたらされたのは弥生時代、その時点で暦と呼べるものが共に伝わったと考える方が
自然ではないか。なぜなら暦をみることなしにはクニを運営するだけの収穫は期待できないはずだからである。

シャーマンは祈祷を捧げて神託を請いつつ、暦法の叡智をして太陽の運行を読み、タミに種蒔の触れを出す。
このシャーマンをミコといい、ヒミコとは日の巫女、日巫女であると、筆者は考える。

話がそれたので元に戻す。
維新前の日本の新年は立春のころであった。維新後はは古代ローマのお役所の仕事始めの日が新年になった。
ご先祖様に叱られないか不安でならない。(明日に続く)

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書き手

ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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