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ローマ法王狙撃事件の証人 (7)

  • 2010/02/12 16:16
  • よりわけ: 世界
アージャは供述の中で、
「自分はアフガニスタン解放戦線の戦士だ」と言い、また
「金で雇われた傭兵でしかない」とも言い、
「イペクチを殺したのは自分ではなく、それを演じたに過ぎない」と言う。
さらに
「バチカンから大金と引き換えにカトリック教に改宗することをすすめられた」
「枢機卿にしてくれるそうだ」                  

83年、バチカン市民であるエマヌエラ・オルランディ(当時15歳)が突然姿を消した。
そして家族に対しテロリストを名乗る者からの電話で、獄中のアージャと引き換えに無事に帰す、との連絡があった。
同様の要請が法王庁やマスコミに相次いだが当局がこれを無視したためエマヌエラの消息はいまだ知れない。

最近アージャはエマヌエラの家族に対し、
「彼女はフランスか、スイスで不自由なく暮らしている。彼女を探し出す決め手はあるので協力は惜しまない」そして
「私は自分のために子供が誘拐されて喜ぶ人間ではない」
と言ったという。

妄想、虚偽、そして事実、その割合は当人にしか分からない。
が、自分の意思で話す。




2010aca

彼の顔を見て欲しい。
頭のおかしい国粋主義者の顔というものは果たしてこうなのか、
我が国に侠気という言葉があるが、それを目の当たりにしたことがある人は
この顔に何かを感じるだろうと思う。
彼こそが冷戦時代の生き証人である。

どこかの政府がひっくり返りかねないことを知っている。
満を持して語り出すはずだ。何のために?
脅迫、拷問、薬物、甘言、孤独このすべてに30年間耐え抜いた男、今さら金などを目的とするはずはない。

彼なりの正義を、貫こうとしている。

おわり
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ローマ法王狙撃事件の証人 (6)

  • 2010/02/08 23:42
  • よりわけ: 世界
当人の供述では、ブルガリア入りしたアージャはブルガリア政府の情報組織と接触し、300万ドイツマルクの報酬と引き換えに法王狙撃を請け負ったという。

狙撃当日のバチカン市国、サン・ピエトロ広場には一万人以上の参拝者が法王を見守っていた。
その群集のほとんどが、全く予期せぬ事態を目の当たりにする。
アージャの手にしたブローイング製オートマチック銃から発した9mm弾3発が、神の代理人の手と腹に命中した。

イペクチ狙撃に際してアージャを援護した「第二の狙撃手」は、今度は爆発物を手に狙撃を待っていた。狙撃が遂行された
直後に爆弾を炸裂させアージャをブルガリア大使館に逃げ込ませる役だった。が、操作ミスのため爆発は実現をみなかった。
外国人二人が流れ弾にあたり負傷した。アージャはバチカン憲兵により身柄を拘束された。

1983aca
アージャはイタリアにて服役。犯行から二年後には法王自らがかれの独房に出向き、面会を果たしている。
その時点ではすでに完璧なイタリア語を話したアージャは通訳を介さずに二時間にわたり法王と語り合ったという。
(アージャの弁護士談)

法王は人々に対し「すでに許している兄弟(アージャのこと)のために祈りを」求め、「二人の間で話されたことは二人の間だけで
留めるべき」と言い、面会の際に話した内容は語らなかった。

イタリアの刑務所で服役中にアージャが取られた128にも及ぶ調書はどれをとってもつじつまが合わず、
犯行の動機や背後の組織については今も謎のままである。結果、反共のふところ刀だった法王を排除しポーランドの
民主化を阻止せんとするKGBの陰謀だったという処に落ち着いている。
86年イタリア国内法にのっとって終身刑が言い渡されるが、法王の恩赦によって2000年5月13日放免されトルコ側に引き渡される。事件から19年経っていた。

「赦す」ことこそ法王の仕事なのだ。(赦さんとは言えまいて。)

帰国後すぐにトルコの刑務所に収監、イペクチ狙撃の罪ですでに死刑判決を受けていたアージャの刑は10年の量刑に減刑され、さらに別件で刑が追加されたため36年となったが、長期受刑者に対する特別措置がとられ7年2ヶ月に短縮された。
2006年1月刑期を終え放免となるが、法務省の訴えでそれが取り消され再び入獄した。

今年2010年1月18日、自由の身となる。

ローマ法王狙撃事件の証人 (5)

  • 2010/02/07 05:56
  • よりわけ: 世界
第一次世界大戦が終結をみるころ、冷戦は予言されていたのだ。

ポルトガルはりズボンからもそう遠くない、ファティマという町が舞台となった。
1916年ルチア、サンフランシスコ、ジャシンタという名の子供たちの前に'天使を自称する少年が現れたのにはじまり、
翌年5月13日を最初に聖母マリアを名乗る女性が数回にわたってこの子供たちに予言を託している。

予言はおよそ三つに分けられる。
ひとつめは悪魔と地獄の存在を、そして人々が悪魔に精神を支配されることで地獄へと導かれてゆく構造を説いている。
二つめは、恐るべき破壊兵器が戦争で使用される危機を、つまり核兵器の存在を示唆している。
三つ目は、教皇(ローマ法王)が深い苦痛を受けることを、即ち法王狙撃を予言している。

三つの予言の中に共通して繰り返し語られているのはソ連の脅威であった。
ソ連を改心に導くことで、その貧しい属国、ひいては全世界を救うことができると結論付けられている。
1917年はロシア革命によって帝政ロシアが消え、ソビエト連邦が樹立した年でもある。

1930年にこの予言は法王庁によって聖母マリアによるものと公認され、5月13日はファティマの聖母の出現記念日とされた。すでに第二次大戦が迫り、核兵器使用の可能性も真実味をおびた頃の話だ。
さらには、この予言の内容は2000年になるまで法王庁の極秘文書として扱われ公開されていなかった。と、言われている。

でき過ぎを通り越してはいないだろうか。マギー司郎氏の芸を思い出す。

法王庁が公認すればすべて事実である、などということは、ない。
神が人に言葉を託したのであれば「預言」と書くべきところをあえて「予言」と書いたのは酔狂ではない。「予言」とは
人間同士の伝達手段のひとつであって神様はちいとも関わっていないのである。


冷戦はすでに終結をみている2000年、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世によってファティマの予言の内容が公表され、
81年の5月13日、そう、ファティマの聖母の出現記念日にその予言どおり法王狙撃事件が起きたことを掘り返した。
この予言の役割はもとから、共産主義を諸悪の根源とする風潮に拍車をかけ世界に再び冷戦体制、またはそれに変る緊急事態を誘発することにあったのだ。

ただしこの手の暗殺の背景は複雑で法王が狙撃された理由は反ソのプロパガンダのみではない。いずれ書こうと思う。

サンフランシスコとジャシンタは予言のすぐ後に流行ったスペイン風邪で命を落としている。
ルチアはその後修道女となり2005年まで生きた。この世と「予言」を静にみまもったことだろう。
その胸中たるや、神のみぞ知り給う。

ローマ法王狙撃事件の証人 (4)

  • 2010/02/04 00:30
  • よりわけ: 世界
そもそも背景に何があったのか。一言で言ってしまえばそれは「冷戦」だ。
世界を東と西に、いや左と右に二分して争わせることに血道をあげた輩が、その混沌(カオス)を持続するために
絶え間なく繰り広げたテロ行為の数々は列記すればキリがない。この法王狙撃事件もそのひとつだ。

二つの勢力の抗争を長続きさせるためには「力のバランス」に留意せねばなるまい。
将棋にしてもチェスにしても互角の者同士の勝負は時間がかかる。
が、どちらかが過分に優勢になればそこで決着がついてしまう。それは是非とも避けたいところであった。

経済的にある程度の成功を遂げている国に対しあらゆる娯楽文化と麻薬をばら撒くことで国の内側を腐らせ、
さらには受験戦争や不倫。伝染病などを煽って国民の関心を政治から遠ざける。そうでない国に対しては、
先ず十分に虐げておいてから武器を握らせて「革命家」という名のテロリストを養成する。
テロを起し、その報復をさせ、双方を仇敵とする認識は益々強まる。和平を叫ぶものは消す。
これが冷戦の仕掛け人たちの常套手段である。人の風上にも置けたものではない。

アージャの供述では、イペクチに向かって放った銃弾は4ないし5発ということだ。だが現場には
9発の銃弾が残されていた。これはアージャが仕損じることを想定した第二の狙撃手の存在を示すものである。
イペクチの口を確実にふさぐこと、そしてアージャを実行犯として入獄させることが第一幕の筋書きだ。

イペクチ狙撃を仕組んだ軍部はアージャを逮捕させ、アージャの素性を「精神疾患のある右翼系のヤクザ者」と公表さた。
その男が左派のジャーナリストに天誅を加えたという形で事件を済ませるはずであったのか
ほとぼりの冷めた頃にアージャの口をも封じるつもりであったのかは分からないが、
ある時アージャのさらなる利用価値を見出し、もう一度銃を握らせる手筈を整えたことは確かである。

1979.11.23、アージャを脱獄させたのは先の「第二の狙撃手」であった。すべては軍部の茶番である。
メフメット・アリ・アージャはトルコを後にし陸路ブルガリアへ入った。

続く

ローマ法王狙撃事件の証人 (3)

  • 2010/02/03 05:14
  • よりわけ: 世界
フリーメーソンに属するトルコ軍部高官は少なくない。彼らは左派と呼ばれ、宗教心は極めて薄く、
民族意識もおざなりである。少なくとも祖国の先行きを本気で考えるタイプの人種ではない。
アージャに撃たれ失命した記者アブディ・イペクチ、かれはトルコ軍部の関わる武器および麻薬の密輸の事実を
すっぱ抜く準備をすすめていた。

トルコ南東部はシリア・イラン・イラク・アゼルバイジャン(当時ソ連)に国境を接している。
歴史上の東西交通の血管、シルクロードが網の目をなすこの国境地帯はテロ対策の名のもとにトルコ軍が統治・管理しており、中央の覇権が行き届きかねた地域であった。70年代後半、その絹の道を通るのはラクダならぬ軍用トラックとなった。
そのトラックでトルコ側から流出するのは爆発物、銃器の類であり、逆に流入したのはヘロインを筆頭とする覚醒剤だった。
覚醒剤の産地で銃の需要が、銃をもてあましている国で覚醒剤の市場があったわけだが、トルコはそのどちらの国でもない。
トルコ軍がルートを保障することでこの密輸が成立し、皆が儲けたというわけだ。

軍と軍人はあらゆる特権をもつので3日やったらやめれられない。死地に赴き命を落とすのは
徴兵された若者と相場がきまっている。軍など、そんなものだ。
当然、イペクチは消されるしかなかった。
「ごろつき」だったアージャは国粋主義テロ組織の一員としてきな臭い仕事に携わっていた。
1979.2.1.、組織の命をうけたアージャはイペクチを狙撃し逃走、五ヵ月後に逮捕され獄中の人となり終身刑を宣告される。
アージャが服役していたのは最も警備の厳しい軍管轄の刑務所であったが、逮捕から六ヵ月後に逃走した。いや、
計画的に奪取された、と言うべきか。

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Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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