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火と炎

とおい昔に思いを馳せよう。

「炎―ほのお」の語源は「火の穂―ほのほ」であるという。大陸から漢字の伝わるそのずっと昔から火を道具として使っていた我らが祖先たちにとって、炎はあたかも草木の先端にみのるもののようであったらしい。

科学の世界では、炎とはマッチをすったときに生まれる熱と光を放つ玉、火とは炎が消えた後ぼうっと赤く光るマッチの軸をさす。我々が普段「火」と呼んでいる焚火やろうそくの火は本当は「炎」だった。「火」とは炭火や線香の火のようなもののことである。だがこれはあくまで科学の世界の話で、日本語という言語の中では「炎」は「火」のなかに含まれていることが多い。つまり「炎」と表現されたものは「火」と言い換えても差し障りなく、むしろ一音節と三音節という違いを利用し和歌の中で使いわけられてきたと見たほうがよい。しかし逆はそうもいかない。すべての「火」を「炎」に置き換えることはできず「炭火」のようなものは決して「炎」と呼ばないのである。

おのず、「火」と「炎」の間を取り持つのは「炭」ということになる。
「炭―すみ」は燃えそこなった(不完全燃焼した)燃料、おもに木片をさす。その語源は諸説ある中がいちばん明快なものが「済み―火が消えて済んだもの」から来ているという説で、「消し炭」という今も使われる言葉がそれを裏付けている。
火を熾すことを学んだ祖先たちは洞窟や崖下の住まいのなかで暖をとる術を模索したにちがいない。焚火などの炎では煙たくて仕方ないだろう。しかし燃え残った薪にもう一度火をつけてみると、なんと煙を出さずに燃えてくれる。しかも灰の中に埋めておけば眠らせることができる。風にあてると火が強くなる。これが「炭」であり、赤黒い炭火こそが「火」である。その「火」に乾いた小枝や草をおしつけると明るい玉がぽっとみのる。それを「炎―火の穂」と名付けたのであろう。「炭」との出会いが「火」と「炎」の違いを知り、使いこなすきっかけとなった。

 
より高い温度の火が必要になるのは土器をつくるとき、そして金属を加工するときであった。縄文式土器と弥生式土器の製法の大きな違いは焼成の方法で、前者の縄文式土器は焚火の中に直に投じて焼成するのに対し弥生式土器は地面を掘り下げるなどして、それを何か(おそらく葉のついた枝など)で覆って単純な釜をつくり焼いたとされる。
焚火で魚を焼いたことがある方ならお判りであろう、焦げるばかりでさっぱり火がとおらない。「炎」の出す熱の波は気が短いというか、表面ばかりに気を取られて中まで根気よく到達しないのである。縄文式土器の解説に低温で焼成されたとの記述が多い。間違いではないが温度だけの問題ではない。
炭火で焼いた魚は焦げずに中まで焼けていてしかも旨い。これは「火」の出す熱の波の、気長で粘り強い性質に拠るものである。釜の吸気と排気の道を制御すれば温度を上げることも下げることもできる。弥生式土器は高温で焼かれたというだけではく、火を操ることをもってつくられたのだ。その技は金属加工に受け継がれる。鉄器や銅器を鋳造、精錬するには炭火の利用をおいて他に術はなかった。

さて、筆者は日本史の教科書に古代人が竪穴住居の前にすわって弓のような道具で火をおこしている挿絵があったのを記憶している。火をおこすのはかつては大変な作業であった事を教えた訳だがちと疑わしい。煮炊きのたびにいちいち弓を使って火を熾していたのでは、子供が腹を空かせて泣き出しはしまいかと思うのである。ワラを一本、子供に持たせて先に朝餉の支度を始めたお隣さんから火種を頂戴したほうがよろしくはないか?夕べの炭を灰の中から「ほれ、おきろ」と掘り出して使ったかもしれない。「火をおこす」という表現はこのあたりから来ているとも考えられる。そして弓きりとよばれる火道具は村一番の早起きさんが朝一番に火を熾すのに使ったか、おもに狩りや旅の共として使ったと考えるほうがたやすい。

穂から種がこぼれて命を継ぎそれを繰り返すことは古代の人々にとってこの上なく大事な出来事で神の恵みそのものであったはず、「火の穂―ほのほ」から「火種―ひたね」を得て火を継ぐ。その作業に自然界の転生を意味する言葉をあてたのである。すでに暮らしから切り離せぬものであってもひとつ間違えば山をも焼き尽くす「火と炎」、それを扱うには、おのずと神の助けを求めただろう。

鍛冶、製陶、凡そ火を扱う職場には必ず神棚があり、職人は身を清めて神に礼を尽くしてから仕事にかかる。家の釜戸にすら神が祀られている。火を扱うことは神事でもあったのだ。火事や事故から身を守ることだけではなく、己の職を全うするための力を分け与えてもらおうと祈願するのである。



現代はどうか。すべてが電気制御で焚火はおろかもはやマッチを擦ることすらない生活をしている。火といえばせいぜい喫煙者が煙草を点けるぐらいだろう。これを「高度な文明」と信じて疑わない。
われわれの見ていないところで炎は燃え続けているのだ。電気の発明以来その需要は止まるところを知らず高まり続けている。しかし電気の供給を担うのは今日も依然「火」と「炎」である。燃料たる石油やガスを巡っては醜い争いが絶えず、不運にも足元から石油が湧いてしまった国々は常に搾取される立場に追いやられた。劣悪な雇用条件に抗議する炭鉱労働者の暴動が絶えなかった先進国は、労力のいらない、しかし危険極まりない燃料である「核」を地球の原動力にすえるために地球温暖化現象をはじめとするあらゆる大嘘を並べて人類を騙した。搾取や嘘の上に成り立つ文明など、行き着くところは地獄と決まっている。地獄の業火がこの世をを焼き尽くす日を人は恐れて然るべきである。

「高度な文明」の正体はもう見えている。いつまでそれを追いかけるのか。心に火を灯して見極めてはどうか。
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みんなのしらないビートルズ

  • 2011/07/16 08:41
  • よりわけ: 世界
学生のころ、いや子供の頃から不思議でならないことがあった。それは時おり不思議を通り越して苦痛にすらなるのであった。

なぜ、あんな退屈極まりない連中が世界の音楽産業の頂点に立てたのか―――
 
音楽性はまず無いといっていい。演奏、歌唱力ともにお粗末、曲調もブルースや民族音楽や賛美歌のごたまぜでどれも中途半端、ライヴもノリが悪くカリスマ性のかけらもない。それに男前と呼べるのが一人もいない。とにかく聴衆を魅了する要素をまったく持ち合わせていないのだ。

筆者がこき下ろしているのは事もあろうにかの有名なビートルズである。

60年代後半、世界の若者が「熱狂」したとされるビートルズ、筆者が大学生だったころの90年代もその人気は耐えてはいなかった。CD店に行けば必ずと言っていいほどビートルズコーナーが設けられていた。学友たちの中にはビートルズにあらためて惚れ込む連中もいて彼ら曰く、「当時にしてみれば優れた音楽性だ」そうな。何のこっちゃ。音楽性に当時もクソもあってたまるか。石器時代のバンドだったというならともかく高々30年まえの話に何を言う、昔のグループは今より劣っていなければならないとでも言いたいのだろうか。

一度聴いたら忘れない、頭の中でグルグルまわる、曲のタイトルとメロディーがきちんと手をつないで記憶から蘇る―――それがビートルズ音楽の特徴である。

印象が強くて明快なタイトルをつけ、曲のサビの部分でそれを連呼する。これは人の記憶力に訴える、CMソングなどでよく使われる手法である(例:ぱっと○イデリア)。ビートルズのその曲に魅力があるか無いかは無関係に人々に記憶されている理由はここにある。

リアルタイムでビートルズを聴いた日本人の意見はいかに。我が家にも一枚だけアルバムがあったのを記憶しているが、母が言っていたには「みんな聴いてるからってお父さんが買ってきたのよ」。まあそんなもんではなかろうか。
若者が、イデオロギー闘争の中で自分を見失うか持て余していた頃だった。行き場の無い思いを抱えた若者の心の隙に刷り込まれたのがビートルズであった。この世代のビートルズ・ファンの殆どは、ビートルズが学生時代(安保闘争のころ)の思い出のなかにすっかり組み込まれているのであろうと思う。

話を世界に戻す。「正義無き戦争」、ベトナム戦争に倦む人々の心は政治や社会という現実に失望し、麻薬や東洋哲学に傾倒していった。こうしてヒッピーが生まれた。そのヒッピーたちの教祖さまがビートルズであったことは言うまでもない。彼らに麻薬やカルト宗教というファッションをおしえたのもビートルズだ。


ここまでの記述で指摘したように、ビートルズはその音楽の魅力で有名になった訳ではなく時代背景その他諸々が重なって成功したのだ。しかしこれを偶然と見るほど筆者は寛容ではない。

筋書きのない芝居がないのと同様、構想のない戦争などあり得ない。参戦国、戦場、戦費、勝敗、賠償、戦後政策すべて申し合わせてから開戦するのが流儀である。つまり八百長である。冷戦という30年戦争を維持する骨組みの一つがビートルズであった。冷戦や共産・資本主義の存在に疑問をもった若者がまっとうに批判をはじめる以前に彼らの気を別の方向に逸らしておきたかったのだ。麻薬と乱交の味を覚えさせてヒッピー(ろくでなし)のレッテルを貼り付けてしまえば、彼らがどんな正論を唱えたところでその場で陳腐化できる。ビートルズの成功はアメリカのショウビジネス界がお膳立てしたものだが、それの司令塔は言うまでもなく英米政府である。ビートルズの音楽性を批判する評論家など当然あらわれないのはこのためだ。
冷戦と並行して当時問題になったのが原子力である。そもそも核兵器と原子力発電の間には大した垣根もないのだが、何が何でも原発を推進したい大国はそれに反対する環境保護主義者を世間からヒッピーと同一視させることで無力化させたのだ。
「ビートルズ」と「麻薬」「洗脳」「ダヴィストック研究所」を組み合わせて検索すれば大量に引っかかるので興味のある方はご覧いただきたい。筆者の素朴かつ当たり前の疑問はこともあろうに国際陰謀に行き着くことになる。

筆者の学生時代、製図室でビートルズがしつこく鳴っていた。当時はちょっとしたヒッピーブームだった(安保闘争の頃ではなくバブル末期である、念のため)。ただでさえグルグル音楽なのにそれをひっきりなしに再生させられたので参った。喜んで聴いてる当人たちは平気なのだろうか?彼らはとっくに洗脳されているので大丈夫なのである。

芸とは、人の魂を揺さぶるためにあるのだ。古典芸能、クラシック、ロック、演劇、絵画、たとえ何であろうとその目的は同じである。筆者が製図室で洗脳されなかったのは、魂がなにも感じなかったというそれだけである。

おいでいただきまして まことにありがとうございます

つたない文章をつづったブログですが、お読みいただいている上に拍手なども頂戴するようになりとてもありがたく思っております。今日は記事の更新に変えまして皆様に御礼申し上げます。

私事ではございますが、私こと筆者はもとより建築設計を生業としておりました。結婚、出産を経て今からちょうど十年前に中近東、または小アジアとよばれる地のトルコ共和国に移住いたしました。なぜトルコかと申しますと、ほかならぬ配偶者が此方のひとであったからでありますがそれはさておき、育児に専念することを余儀なくされたため設計業はひとまず棚上げ、子供たちと遊び暮らしておりました。

さて、そこで困ったのが「日本語」でした。はじめの何年かは躍起になって子供たちに日本語を教える努力をしてまいりました。が、正直、もうヤになってしまうというか、例えば日本から送ってもらった絵本を読んであげても絵本の中身は外来語だらけ。息子たちに「○○は日本語でなんていうの?」と訊かれても、テレビ、サンダル、オーブン、プール、コップ…片仮名の雨が降るのであります。トルコの子供たちは人懐っこくて好奇心がつよくとてもかわいいのですが、そんな子達に日本語の数の数え方を教えてくれとせがまれたときにイチ、ニイ、サン…と答えてもう愕然としました。イチ、ニイ、サンは日本語ではなく中国語ではありませんか!

なにかがおかしいと感じ始めたきっかけは、このようなことです。

ある言語の中に外来語が多く含まれるのがよろしくないと申すわけではありません。外の文化に対し寛容で、それを包括するだけのゆとりがあると考えることも出来ます。しかし日本語の問題は外来語が入ってきたその日にもとあった日本語が駆逐されてしまうというところにあると申し上げたいのです。悲しいことですが自らの国の言葉にこれほど不寛容な態度は、この国のゆとりのなさをあらわしています。たとえば若い女性が流行りのサンダルやミュールを履いていて、それがとても似合っているので思わず「素敵な草履ですね」と言っても多分喜んでもらえないでしょう。どなたか試してみてください。

明治維新前までの日本が大事に築き上げた日本語を揺るがした実行犯がいます。福沢諭吉、そして西周(にしのあまね)です。彼らはあくまで実行犯なのでその後ろには確信犯が潜んでいる訳であり、それはこのあとの記事ですこしずつ解きほぐしてみたいと思っております。

日本語文化圏で生きていない限り日本語を母国語とするのはどだい無理な話で、結局わが子たちは完全にトルコ語の中で育てています。元になる言語(母語)が健全であれば後にとのような言葉でも習得できると確信しています。言葉とは自らと事象(こと・もの)の距離をはかる道具ともいうべき存在であり、冴えて揺るぎない道具を手にするかしないかは子供のころの言語環境次第であろうと考えるのであります。

日本語ほど専門用語の多い言葉は少ないでしょう。残念ながら医療や金融は欧米語、法律は漢語外来語に完全支配されてしまっています。しかし大工さんや職人さんの使う専門語のなかには美しいやまとことばがたくさん残っています。階段の垂直なところを蹴上(けあげ)と呼び、水平なほうを踏み面(ふみづら)といい、昇るときにつま先がつっかえないよう踏み面同士をすこしずつ重ねますがその重複部分を蹴込み(けこみ)といいます。いずれも単純明快かつ柔らかい日本語の特徴を顕にしています。またの機会にもっと紹介したいと思いますが、職人さんたちの間で培われた言葉はまだ生きて使われており、そうは簡単に壊せないようです。

去年からやっと設計業を再開することができ、トルコの職人さんたちに現場で指示を出すようになりました。こちらにはこちらでトルコ語の専門用語がありますが、日本ほど細分化されていないので現場は時おり迷走します。とくに段差の数え方があいまいで、二段と指示した段差が出来上がると一段だったり三段になってたり混乱を極めるのですが、それは蹴上げ・踏み面ということばの使い分けがしっかりとしていない所に原因があるようです。

言葉の乱れは国の乱れ、どちらもこのまま腐らせてしまうのはむごい。食い止める術は、あると信じます。


せっかく頂いた拍手のコメントにお礼をつけているのですがうまく表示ができません。ブログの機能がちゃんと理解できるまでまだ時間がかかりそうです、平にご容赦を。また、お気づきかと存じますが、外来語をなるべく使わないよう努めておりますのでその結果とても読みにくいです。それもどうかご辛抱いただき、この先も長くお付き合い下さいますようお願い申し上げます。



尾崎文美

アジアのあさ、ヨーロッパのゆう その三

さて、やっと結びに。

日本語で、きょうの次の日を「あした」と言いう。こうして翌日を意味する言葉として使うようになったのは平安時代以降だそうだ。もとより「あした」は日が昇らんとする頃の時間帯をさす言葉、つまり「あさ」のすこし前である。それに対し、日が傾いて沈むまでの時間を「ゆふべ(夕べ)」という。そのすこし後が「よひ(宵)」だ。上代では清音の「ゆふへ」であったという。お互いに対句となる「あした」と「ゆふべ」を比べながら書こう。



「あした」の語源を調べると夜明けの「アケ(明)」に時を意味する「シダ(節)」がくっついて「アケシダ(明け節)」となり、それが「アシタ」に転じたという説が有力と言うことである。…ちと苦しくはなかろうか?古代語はもっと単純明快であるはず、ましてや一日のはじまりという誰にとっても必要な概念を表す言葉にア・ケ・シ・ダと4音節も使うのはどう考えても多すぎる。
「あした」と「あさ」、この二つの隣接した時間帯を示す言葉は同源と考えて間違いない。共通の語幹、「a-s」が鍵だ。それを除くと「ta」がのこる。


「ゆうべ」の語源は、「ユフ(夕)」に「~へ向かう」の助詞「~へ」がついて「ゆふへ(夕ヘ)」になったという説、または「夕」+「辺」=夕の辺り、夕の頃=「ゆふべ」という説がある。しかしこれでは対句である「あした」の成立と何の関連性も見出せないではないか、古代の美的感覚からかけ離れている。
「ゆふへ」「よひ」も同源であろう。母音が変化してしまっているが、共通語幹「yu-hu/yo-hi」を取り去ると「he」が残る。


ここで「うへ」「した」という対句を引っ張り出したい。この二語はおもに上下関係を示す一方で前後の時間関係も作り出すことのできる言葉である。こういった語群は単純かつ明快な上代日本語の重要な構成要素として数えたい。「うへ(u-he)」が前で、「した(si-ta)」が後を示す。するとどうであろう、「a-s」と「si-ta」がつながり重複した子音sがこぼれ落ちると「あした(assita」に、同じく「yu-u」と「u-he」がつながりuが短縮されると「ゆふべ(yuhuuhe)」になるではないか。このほうが明け節だの夕辺だのいうよりよほどスッキリしているし、日の動きとともに生きた祖先の心を自然に映し出してはいまいか。

「あさ/よい」はいずれも日が昇りきった、または沈みきった明快な時間をさしているのに対し、「あした/ゆうべ」はそれ以前のあいまいな頃を表現している。

では、「うえ/した」の接尾辞を得るその前、「a-s」と「yu-u」はどこからやってきたのだろう、それは本稿の「その一」に記したとおり、遠くも遠き地中海からである。農耕が始まる前の日本、日本語の創成期に。「a-s」は「a-su/日の出」、「yu-hu」は「ere-bu/日の入り」だ。ere-buからyu-huの変化は一見キツそうだが、e音で始まるやまとことば(漢語を含む外来語をすべて除いた日本古来から使われることば)は極めて少なくeが脱落するかY音のような子音をともなう傾向が強い。r音も日本人の苦手な音で脱落しやすく、b音とh音も互換性がある。それを踏まえて考えると、本説に多少なりとも光明がさしこむ。



ユダヤ教が生まれる前の世界、人々は太陽を畏怖し、その太陽が生まれる東方は神聖視されたと考えるのが自然だ。その東方に何かを求めて人々が移動したと考えられはしまいか。それを示す遺跡も遺構も存在しないが、それは「侵略」しながら移動したのではなく周囲と「融和」しつつ時間をかけて日本まで到達したからではないであろうか。もしそうであれば、日本を「ひいづるところ」と呼んだのは聖徳太子よりもずっと昔の人ではないかとも思えてきて面白い。

三世紀おわりの応神天皇のころ、大陸から日本へ渡来した人々が詔により大和の国は桧隈の地を賜った。桧隈は後に「飛鳥(あすか)」といわれるようになり推古帝の即位から元明帝の平城遷都までのあいだの飛鳥時代の都として栄えた。現在は奈良県明日香村である。「あすか」の語源は今のところはっきりしていないというが、ここにも「a-s」が出てきた。じつに面白い。

だが面白いと言っていられるところで止めたほうが賢明なのだ。言葉の語源、とりわけ国号に関する話は人が傷つくもとになる。こういった論争を利用して民族間の対立を煽る輩があまりに多い。民族意識や愛国心を逆撫ですれば戦争など好きなだけ起こせるのだ。
民族の誇りを守るとはどういうことなのか、もう一度考えてもらいたいのだ。筆者は強く言いたい。この世にまたとない美しい国、そして言葉を作り上げた祖先に恥じぬ生き方をすることがその誇りを守ることなのだと。たとえよその国に歪んだ歴史を押し付けられようと、たとえ宝物を持ち去られようと、法規や教育、経済すべてをかき回されようと、我々は超然としていればいい。それだけでいいと思う。



本説の真偽はともかく、あさ、あした、あす、あすか、あじあ、そのどれをとっても美しい言葉だ。
空が藍み、やがて赤紫色に染まった雲がちぎれて赤々と日がのぼる。夜陰に冷やされた大気と日の光がまだらに交じり合い、溶ける。一日が始まる。それにふさわしい響きをもつ。人がどんな間違いを犯そうが、国が生まれて消えようが、泣こうが、笑おうが、日の出は遠い昔から超然と繰り返されてきた。



そしてこの先もそうであってほしいと願う。


おわり


   



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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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