脱原発と江戸の明け暮れ考「住の巻」

「脱原発をして江戸時代へ戻ろう」

そんなべらぼうを申し上げるつもりはない。
先人たちの暮らしとあまりにもかけ離れてしまった「今」を考える糸口のとして捉えていただければ幸いである。


住――住居、そして生活具が人の暮らしのすべてを物語る。そのためには日本の気候や建築資材などから書き始めなければならない。退屈かとは存じ上げるが少々お付き合いいただきたい。

かつて生活様式は気候と風土によって左右された。我が国は夏は蒸し暑く冬も厳しい。緑に覆われた山々はたおやかに見えるが実は人を寄せ付けぬほど険しい。一年を通して雨が多く台風の通り道でもあり、北国は豪雪に見舞われ海際は常に高波が押し寄せる。そして、地面がしょっちゅう揺れる。

雨が多いその分、豊かな水資源と森林そして木造文化を持つ。石材も鉄も産出するが我が国の家屋の主要構造は遠い昔から木造であった。
木材同士の接合部分には釘を使わずホゾや欠きこみを施して互いを付き合わせた。釘と木では硬さに違いがありすぎ必ず木のほうが負ける、つまり釘穴が少しずつ広がって緩んでしまう。特に地震や台風の揺れを飲み込み、衝撃を逃がすために家屋が「きしみ」に対し柔軟にできており、木材をいためる釘はもってのほかであった。また、雨水が外壁を濡らさないためには軒を深くする必要があったが風に対して脆くなる(めくれ易い)。そこで考案されたのが瓦、上から重しをかけ風に耐えるとともに火事の折には延焼をふせぐ。また地震の縦揺れを制する役割を果たしうる。もちろん無限にと言うわけには行かないが。

夏の蒸し暑さと冬の寒さを天秤にかければ、日本の場合は夏に重きを置くほかなかった。夏は黄泉の国が近づく季節として恐れられていた。暑気あたり、食あたりなどの原因で命を落とすものが冬より多かったのだ。そのため家屋には風を取り込み湿気を逃がすありとあらゆる工夫がなされている。外(庭、あるいは道)に向かって大きく引き戸が設けられており、その戸自体も紙と木でできていた。また、床を高く上げ床下の通気を確保することで地面からの湿気と縁を切った。この床を上げる工法なければ床に石材を敷くか土間で生活するしかない。しかし木の高床は家の中で履物を使わずに暮らすことを可能にした。寝るとき以外靴を脱がない生活を想像すれば、玄関で履物を脱ぐという日本の習慣がいかに快適であるかは明白である。

素足の生活は畳という繊細な生活具をもたらした。冬は床下の冷気をさえぎる断熱材としての役割を果たす。夏、畳にごろ寝したときのひんやりとした感触は、畳が部屋の湿気を吸い取り自らの温度をさげるからである。
「たたみ」は元来たたむ(折るのではなく、重ねるという意味)ことのできる敷物であった。藁床の上に畳表をつけ座布団のように使うようになったのが奈良時代ごろ、人が横になれる大きさとなり寝具として発達したのが平安時代、部屋に敷き詰めるようになったのが書院造りの普請がなされた鎌倉時代である。

江戸時代も中ごろを過ぎると庶民の間にも畳が浸透した。畳表の材料のイグサが大々的に栽培されるようになり、畳作りを生業とする畳職人が生まれたことが普及を促した。決して贅沢品ではないのだが、カビから守るためしばしば日に干し乾燥させたり数年おきに職人の手で表替えをするなどの手入れが必要だった。当然そのような余裕のない農村に畳が普及したのは近代以降であった。

現代の機密性の高い住宅で畳が干されもせずに敷きっぱなしでもダニがつかずカビも生えないのは化学薬品という魔法のおかげである。人を殺さずダニだけ殺す薬などは魔法でしかない。
前回「食の巻」で畳の大きさについて触れた。「起きて半畳 寝て一畳」という言い回しもあるように、たたみ一畳(六尺×三尺)は成人が寝起きするのに必要な大きさである。その昔たたみが寝具であったということを考えれば至極もっともである。

西洋、いや日本以外の殆どの国でベッドが使われるのは家の中で靴を脱ぐ習慣が無いからと言っていいだろう。ありがたいことに土足、しかも家畜小屋に出入りした靴で室内を歩き回り寝るという習慣を我々は持ち合わせていない。
町並みに洋風の、あるいは近代的な家が増えるにつけ室内の造作も外観よろしく日本から遠ざかっていった。ことにベッドは大多数の日本人が飛びついたように思えるがこれは何故か?ハリウッド映画に憧れて、または毎日の布団の上げ下ろしから開放される、というのも当然あるだろうが、いちばんは男と女がもつれ込むのに都合が良い、からではないであろうか。いちいち押入れから布団を引っ張り出して敷いていたのでは気後れしてしまいそうである。前もって布団を敷いておくにはかなりの度胸が要る。年頃の娘さんが下宿先でベッドをお使いのようであれば一応ご心配なされては如何か。

庶民が綿入りの寝具を使い出したのは江戸も幕末の足音が聞こえてきた頃だという。綿の栽培が盛んになったのが思いのほか晩く、収穫された綿のほとんどが糸や織物に加工されたのが大きな理由だが、たたみ自体が寝具という認識も手伝ったのであろう、古布をはぎ藁くずなどを詰めた薄いものを敷き、昼間着ていた着物を上掛けにして眠るのが主流だった。


「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる」

兼好法師は冬はどんなところでも住めるとおっしゃるが、江戸時代はまるごと小氷河期に相当し今の日本の寒さなどは比にならない。隅田川が凍ったという記録もある。ましてや熱のこもらぬ造りの家に素足で暮らしていたのだ。「昔はみな辛抱強かった」と言ってしまえばそれまでだ。しかしそれを物理的に後押しした何かがあるはずだ。

室内を暖房する器具は「囲炉裏」か「火鉢」である。裸火か炭火かという大きな違いがある。囲炉裏は暖房・調理・照明の三役をこなすがどうにも煙たい。天井がなく煙り抜きを設けることができる田舎屋であれば成立するが江戸のような密集地では不可能だった。火鉢では煮炊きをするにはちと心もとなく明かりにもならないが、炭火の発する遠赤外線の熱はからだの内部まで届き活力を与えてくれる。逆に裸火は燃焼するために大量の酸素を必要とするためその分つめたい外気を取り入れなければならないので目に見えるほどは温まらないのだ。

火鉢や熾き火になった囲炉裏の上に櫓をかけ着物や上掛けで覆うと炬燵になる。夜具の中で、あるいは外で商売をするものが使ったのが行火(あんか)、懐に入れる金属性の懐炉(かいろ)、いずれも炭や灰の熱を利用した暖房器具である。

口から入る食べ物もしかり、米の澱粉は体をよく保温する。秋の終わりからは魚に脂が乗りそれを食する側にも脂肪が蓄えられる。のどが渇くと白湯を飲み、冷たい水は敬遠された。炭火や薪の熾き火で沸かした湯で入れた茶の味をご存知の方は賛同して下さることだろう、ただの水でさえ味を良くする、食材のもつ本来の味と効能を引き出すのだ。柘榴色の火でじっくりと調理された食から心と体に英気を蓄えた。乾物の摂取も夏の太陽の力を体に与えてくれる。

寒い冬でも銭湯にせっせと通った。逆に夏は庭先で行水をして済ませることが多かったという。

素足の暮らしも一役買っていた。心の臓からいちばん遠くにある「足」は調温装置でもある。足が感じた温度によって心臓がどれだけの血液を送り出すかを決める。寒いと感じることで自ら体を暖めることができる。今、我々が辛抱と呼ぶもののからくりはこの辺りにある。家の中だけではなく外でも素足で通すのが「意気」であった。寒さという変えがたい事実に対峙したときに縮み上がるか意気がるか、江戸の庶民は後者を選んだ。


すべての調度品にそれぞれ職人の技が生き、先人たちの生き様が見える。この「住の巻」で書くべきことではあるが今は控え今後にとっておく。そしてそろそろ総括せねばなるまい。

おしまいに――電化生活と人の平均寿命が正比例していると言われる。確かに電気使用量と平均寿命のグラフを比べると似たような勾配で上昇しているのがわかる。だが、それだけを示して鬼の首でも取ったかのように「生活が電化によって向上した」と喚くのはおかしい。
近代以降、新生児死亡率がさがり、それがグラフを右上がりにしている。出生率が下がり続けているのもそれを助けている。お年寄りが風邪をこじらせて…というのも現代医学のおかげで減った。べつに電気のおかげではない。

「はっくしょ!畜生め、暑くて鼻水がでらぁ!」と意気がったところで寒いものは寒い。実際に江戸の生活で困難だったのは寒さであった筈である。
綿入りの布団や石炭ストーブの普及で冬を楽に過ごすようになってからは体の負担が軽減されさらに長生きをするようになったと考えられる。やっぱり電化とはそれほど縁がなさそうだ。

日頃の家事をみればどうか。飯炊きと洗濯を自分でやらなくて済む、それだけのことだ。自分がもし男であったなら電子レンジで湯をわかすような女とはぜひ一緒になりたくないものである。

遠出をするとき歩かないで済む。毎日何十キロも歩いて通勤できない。しかしこれは職住分離という社会全体の問題だ。

夏は冷房なしでは過ごせない。家の造りようが夏を旨としてないので仕方が無い。アスファルトで覆った地面、排気ガス、クーラーの廃熱、何より電気の使用そのものの廃熱がそれに追い討ちをかけている。そもそも気密住宅はダニとカビの温床だ。「抗菌仕様」と書かれたもののほとんどは「農薬使用」、内装に使われている建材は有害化学物質漬けである。


人はいくらでも強くなるということはないが、いくらでも弱くなれる。知らぬ間に電気という生命維持装置を背負わされているのだ。電化によって便利になった分、自然から力をかりるという能力と知恵を失ってしまった。季節のもの、土地のものを食し夏らしく冬らしく生きていた先人たちの暮らしはもう絶えた。
寿命は延ばせる。粘土を棒状にして転がせばいくらでも伸びるのと同じだ。しかし伸びるほど脆弱になり、やがてフツリとちぎれる。平均寿命のグラフとやらには心臓が動いているか否かのみ反映されることなどここに記するまでも無いであろう。

暖房の効いた部屋で半袖で過ごし冷蔵庫から冷たい水をだして飲む、逆に冷房病対策とやらでひざ掛けが離せない。真冬に夏野菜を食べる。百均で買って、翌日捨てる。この大矛盾に気づかないのであれば原発と心中するしかない。もはやそれに気づいている人をも巻添えにするので無理心中とでも言うべきか。

原発産業界におととい来やがれと啖呵を切るためには先ずは節電のそれしかない。そして電気のみならずあらゆる無駄と矛盾を正視するしかない。
国土を穢し体を壊してまで現代生活を維持す価値など、経済が停滞して不況が来るなどと資本主義にたてる義理などない。



原発ぅ? しゃらくせえ、すっこんでろい!
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脱原発と江戸の明け暮れ考「食の巻」

「原発をなくしてしまっては生活の質が落ちる、江戸時代に戻れとでもいうのか」

こんな声が耳につく。江戸のえの字も知らない輩がどう騒ごうと説得力はない。もとより今の暮らしの尋常でなさに気づかぬ上は過去の考察などおぼつかぬ筈だ。
ともあれ江戸と言う言葉が出たからには、江戸の明け暮れを覗くことで電気仕掛けの今の生活を顧みるいい機会ではないかと思う。前回の「衣の巻」に続き今と江戸時代の「食」を見比べてみたい。


食――途方もなくかけ離れてしまった江戸と今の食生活を、いったいどのように比較していいかたいそう悩んだ。なにしろ中央と地方、また260年間の江戸時代の初めと終わりでは大きな開きがある。さらに身分の差をも勘定に入れると「江戸時代の平均的な食生活」なるものは何の目安にもなりえない。そこで町人、農民、はたまた公方様、この時代に生きたすべての人々に共通して言えることを選んで書いてみたい。

まずひとつめに、口には旬のものと保存食以外は入らなかったことを挙げよう。なにせ冷蔵庫やビニルハウス栽培、ましてや地球の裏側からの空輸などが当然なかった時代である。

海で水揚げされた魚貝をその日のうちに食べられるのは海に近い地域のみで内陸や山間部に輸送されるのはワタをだして塩漬けにしたものか干物であった。江戸の場合は日本橋に魚河岸が置かれ武家はもとより庶民を相手に活魚を商った。天秤棒を担いだ「棒手振り」が江戸を駆け抜け河岸と台所の間を直に取り持っていた。

数ある魚介類の保存方法の中、もっとも長く保存できるものが煮干のように過熱し乾燥させたものか、鰹節のように加熱後カビにより醗酵させさらに乾燥させたものである。

その次は砂糖と醤油で炒り煮した「佃煮」だ。家康公が江戸に移った後、摂津の国(大阪)は佃(つくだ)から漁民が江戸に呼び寄せられ幕府の台所に江戸前(東京湾)の鮮魚を供し、その後庶民も利用するようになったのが日本橋魚河岸である。隅田川の河口にに新たに島を築いて漁民たちを住まわせ、その島の名は彼らの故郷に因んで「佃島」とされた。網にはかかるが売りにくい小魚を甘辛く煮て保存食に仕立てたものを「佃煮」と呼び、濃い口好みの江戸の味のひとつとなった。

そして、切り身を塩や酢や醤油や味噌、または米や粕に漬けて腐敗を妨げるか醗酵させる方法で短い間保存するもの、または開いてはらわたを取り去って塩をし、天日で干した「ひもの」が挙げられる。これらは固定店舗である「魚屋」によって主に商われていた。

鮪の脂身、いわゆる「トロ」は腐りやすいだけでなく脂が強すぎて「煮ても焼いても食えねえ」と好まれなかった。近郷の農家がハラワタや骨と一緒に肥料として引き取っていたという。勿体ないが、そのころの食糧事情からみてもあまりに濃厚な脂の味は嫌がられて当然かもしれない。


大江戸とよばれたのはほぼ山手線の内側あたりと考えてよい。その外は農村であり、鮮魚以外の生鮮品はすべてこの近郷農家から手に入れていた。採れたての野菜が毎日運ばれてきた。したがって旬のものしか手に入らない。では農閑期の冬から早春にかけては何を食べていたのか。ここでも魚介類同様、漬けるか、干す。
柿、大根、にんじん、かんぴょう、山菜、昆布、椎茸,みかんの皮、芋、栗、豆…収穫したあとも干して保存できるものは何でも干した。冬、乳幼児は日光に当たる機会がおのずと少なくなるが、天日にさらして乾燥させ日光からビタミンDを蓄えた椎茸を子供、あるいは母乳を出す母親か摂ることで日照不足による疾患を防ぐことができる。生野菜のない冬場のビタミンCは干し芋、干し大根、大豆を発芽させたモヤシでじゅうぶん補うことが出来た。

大豆は一旦乾燥させたあとは一年をとおして蛋白質を安定供給できる重要な作物だ。味噌、豆腐、納豆は季節を問わず庶民の口に入る基本の食材である。
ちなみに大豆、小豆、昆布などの乾物や酒、醤油をはじめとする醸造品は全国から大阪に集められてから各地へと取引された。日本中の特産物がくまなく流通していたことになる。

青菜はもちろん根菜や今では捨てている根菜の葉を漬物として保存した。塩水に漬けてもビタミンは破壊されない上、寒ざらしにして萎びさせてから漬けるので栄養は凝縮される。とくに糠漬けの場合は野菜本来の味と栄養だけでなく、糠、海草、魚のアラ、鷹の爪、古釘などの添加物が作用して野菜をまったく別の発酵食品として生まれ変わらせる。江戸では庶民までが白米を食べていたが、結果招いたのが脚気の蔓延であった。「江戸患い」とも呼ばれた脚気の原因は玄米から糠を取り去ることで起こるビタミンB1不足である。糠漬けと味噌などの大豆製品を食することで脚気は防ぐことはできたであろうが、糠漬けを「糠臭え」といい好まなかった裕福層は庶民より脚気に悩まされることが多かった。その後、鈴木梅太郎が糠に注目し脚気の原因を突き止めたのは明治も終わりになる頃である。糠漬けに限らず各地にそれぞれ違う漬物がありその種類の多さは世界一である。今の日本人が漬物を食べなくなったのは食料保存の必要がなくなったことが大きな理由のひとつだが、その損失は計り知れない。

そのほか日本人と生野菜の話を過去の記事で少し触れているので是非ご一読いただきたい。

ところで、食べれば間違いなく「出る」のだが、その「出物」はどこへ行ったのか。
言わずと知れた汲み取り式の便所、汚物は下肥として農家へと運ばれた。下肥商いをする業者が汚物を思いのほか高額で買い取りさらに農家がそれを買ったのだ。こうして江戸市民の出物は水路や海を汚すことなく見事に農地へと還元された。現代でこの歯車が回らない致命傷は我々が常用する抗生物質だ。新薬は体内の菌を一掃したあとも排泄物の中で生き続けそのあとも忠実に土や海の微生物を攻撃する。残念だが現代人の下肥に下肥としての価値はない。


ふたつめに、副食にたいして主食(米、麦、その他の穀類)の割合が圧倒的に多かったことが挙げられる。

武士の給料である俸禄のひとつに扶持米(ふちまい)というものがある。自らの家族、そして家来とその家族を含む人数に対し米が支給された。そこで計算の基準になったのが男五合、女三合という一日に食べるとされる米の量だった。米五合とは今で考えればかなり食べごたえのある量である。武士、町人に関わらず一汁一菜が基本であったのであれば、また白米に転じたことで急に脚気が流行ったことを考えればおのずと米とその他の比がわかる。
この米飯を体内で無駄なくエネルギーに昇華させたのが大豆製品と漬物に含まれる酵素だ。

日本人と稲の出会いは遠く神代にさかのぼる。日本人は米を作ることで国を築いてきた。

常に飢えにあえぐ農民の姿は西欧的民主主義を礼賛し封建制度を蔑視する教科書が誇張している。農民は我々が思い込んでるよりはもっと米を食していた。飢饉の影響を真っ先に、そして最後まで受けるのが農民だったということだ。麦や雑穀を裏作して食べたのは米を売るため、または飢饉に備えて備蓄する手段であった。米は食料であったと同時に通貨だったと考えてよい。 
次号の「住」と重なるが、たたみ一畳は成人が寝起きするのに必要な広さという基準がある。一畳は六尺かける三尺、すなわち1.82m×0.91m、つまり敷布団がそれくらいということになる。では当時の成人の身長は?というと、大柄の男でもせいぜい1.6mくらいではないだろうか。米飯中心で一汁一菜、獣肉と乳製品をほとんどと摂らない食生活を続けた結果として当然だが、「小さいのはよくない」というのは考え物。人体は肉や卵などの効率の良い動物性蛋白質を摂れば摂るほど速く成長するのはいまや常識といえるが、それがよいことなのかも考え物だ。大きな体を維持するためにはそれだけ余計にエネルギーが必要となる。体がどんなに大きくなろうと五臓六腑の働きはそうは拡大しない。我々の先祖は米が基本の粗食を守り小さい体で日本を築いた。大阪を筆頭とする地方都市との連携、そして農村を含めたすべてが米を中心に機能した上で「江戸」という華が咲いたのだ。


米は連作障害を起こさない特殊な作物である。逆に米作りをやめると稲と共存する土中の微生物が減り田んぼが死んでしまうのだ。米は作り続け、食べ続けてこそ意味がある。しかし今や主食と副食の量が逆転し、人は米飯から離れ終わりなき美食の後追いをはじめた。おのず米をつくる農家は減った。

全国の休耕田にソーラーパネルを「仮設」しエコ発電をするなどという姦計を以って世の支持を得ようとする輩がいる。農地を他の用途に使えないという法律に対し「仮設」という逃げ道を自ら示しさも名案のように吹聴するが、常設であれ仮設であれ田を殺してしまうことに何のかわりもない。戦後60年をかけてすこしづつ米を忘れさせられた日本人はこの案の狡猾さがもう判らなくなっている。日本は米の自給の道を断たれ外に依存するほかなくなるか、米食と決別することになりかねない。孫正義の電田プロジェクトは「脱原発」のためではなく「脱日本人」が目的である。これが日本人の口から出なかったということだけが救いであるが異論を唱える日本人の少なさが危惧を大きくする。そしてこの後ろにはTPPというさらに危険な国際協定が控えている。

遠く神代のころから日本人は米を作ることで国を築いてきた事を忘れてはならない。

魚の骨をはずし、茶碗に残った最後の米粒までを食べるには箸を使いこなす必要がある。我々は子供の頃からこうして手と脳をきたえて育つ。工芸品から自動車まで何を作っても世界一の所以はここにある。ジャンクフードをかぶりつくか噛む必要のない食品を匙で掻きこんでいたのではたかが知れていよう。
懐石料理にラーメンに宅配ピザに中華フルコースにケーキ食べ放題、本当に味がわかって飽食しているのか甚だ疑疑わしい。結核や先に記した脚気の流行は栄養の「不足」か問題になるが、逆に「過多」が原因の病は挙げだしたらきりがない。今の世の飽食がもたらす不健康は異常とするほかない。が、日本人はこの現状に慣れきっており、その理由も解法もわかりきっているのに誰も後戻りしようとしない。食料、資源を無駄に消費し廃棄物を垂れ流し、体は病気の巣窟、医療と美容と廃棄物処理にさらにカネをつぎ込む。

そうまでして死守しようとしている現代生活とはいったいどれだけありがたいものか、考える時だ。


次号「住の巻」につづく

脱原発と江戸明け暮れ考 「衣の巻」

「原発をなくして江戸時代の生活に戻れとでもいうのか」という脱原発反対派の声をネット上でしばしば見つけることができる。

電気の使用量をへらす事が生活の後退を意味するという、原発産業界の人間が一般市民になりすまして声をあげているかに見えないこともないが、この発言に筆者の眉がピクリとうごいた。

それじゃあ何ですかい?お前さんは江戸のくらしをよっくご存知だと、そう言いてえんでござんすかい?

原発をなくすと東京が江戸になるのかという物理的な問題はさておき少なくともこういった意見は文献をとおして江戸の生活を知る者から出たとは考えられない。おおよそ悪代官が越後屋から小判のはいった菓子箱を受け取って「そのほうも悪い奴じゃのう」とか言ってる時代劇の場面ぐらいしか想像できない連中にちがいないし、じつはそんな付き合いは今でもなんら変わらない。

江戸はどんな都市だったのか、ブログで紹介するにはたかが知れているがちょいとだけ記しておきたい。



―言うまでもなく着物の生活だった。体の動きが激しい農民や職人は股引き、侍は袴をつけるが普通は一枚仕立ての着物を帯で締めるだけである。

洋裁をされる方ならお判りであろう、シャツやズボンは立体裁断といって生地を曲線で切る。立体である身体を立体的に包む洋装の特徴である。しかし直線で切り縫う和裁と比べると恐ろしく複雑であり、生地の無駄もおおい。アイロンも面倒である。また、すこし太ったりすると着れなくなってしまうという屈辱的な欠点がある。

着物の前あわせは男女とも右前と決まっているのは右手を懐に入れやすいからとよく言われているが本当の理由はそうではない。あわせが右前であれば帯も当然右巻きになる(そうでなくては解けてしまう)が、これは「気」の道を整える役に立っている。逆に体を左に巻いてしまうと体内の「気」の巡りを妨げてしまい体調を崩す原因となる。死装束を左前とするのも生きた人間と区別する為だけではなく、細胞の分解という別の生命活動(=気)の道を妨げて腐敗を少し遅らせるためであった。
洋服の場合女性の前合わせはなぜ左前かと言うと、そのほうが男が女の服を脱がせやすいからだそうな。さすがはじぇんとるめんの文化である。

衣料の流通はさまざまであった。一番の贅沢は新品の反物を買ってあつらえるというもの、その次は新品でも「つるし」という仕立て上がりを買うこと、それ以降は「古着」だが、これが流通の殆どを占めていた。一枚の着物が何度でも市場に出るのだ。糸を抜いてばらし別々に洗いまた縫い直す(洗い張り)、傷みやすい襟はたびたびかけ代えられ、裏地も打ちなおせる。裾や袖の丈を調節し、むやみに切ったりしないのは古着として売買するためである。当時は縫い物のできない女房などいなかったことと、我が国の織物が堅牢であったからこそ成立したのだが。着れないほど傷んだ着物は小さく切り分けられて袋物や子供の玩具、おしめ、鼻緒、針山と、何度でも姿を変えて生き続けた。

家々を回って古着を集めそれを店に卸す業者がいた。彼らは幕府が抱えるの隠密組織のひとつであり、市井の情報収集を行っていた。

鋳鉄製の柄杓におき炭をいれて使う「火伸し」という道具で衣服の皺を伸ばしていた。絹の織物には炭ではなく熱湯を使ったのではないかと思う。

下駄、草履、わらじ、どれも鼻緒を足指ではさんで履く。現代人が気にもしないことだが、実は足の裏や指は実は手とさほど変わらないほど感覚が鋭く、例えば何かを踏んづけたときもそれが何だかは見なくでも判るし、少し練習すれば字を書くのも難しくないほど器用だ。ちっともうれしくないが筆者の足で書いた文字は手で書いたよりも上手いとよくいわれる。日本の履物は足を自在に操りながら歩きこなすためにあるのだ。引き換え西洋の靴は足に鎧を着せているようなものだ。靴に自由を奪われた足はおのずと痛み、それがさまざまな病の源となるのは言うまでもない。


日本人が着物から離れていった理由は幾つもある。まず着物で会社に行けない。学校も。これは仕方ないが何よりもべらぼうに高い。この責任は着物業者にある。「日本の伝統」だの「文化遺産」だの余計なな付加価値をうそぶいて自らの首を絞めたのだ。伝統だろうが遺産だろうが着物など生活具のひとつに他ならない。そんなに文化遺産が売りたければツタンカーメンのフンドシでも売ればいい。

「着物姿の女は美しい」という幻想もいけない。女は着物を着ると淑やかに振舞うべき、という思い込みがいつの頃から男女ともに浸み込んでおり、それが女から動くことを奪ってしまった。かつて女たちは着物姿で田畑を耕し、野菜を売り歩いたではないか。裾をからげて蜆をとり、襷をかけて薪を割り、胸をはだけて赤子に乳をやったではないか。着物が今のように不便な装束であったならば女たちは働けず、江戸の経済などまるで成り立たなかったことになる。見た目の美しさを追いかけるあまり働くことを拒否した挙句に着物は拘禁服でしかなくなってしまったのだ。

明治新政府の欧化政策によって華族などの裕福な人々に洋装は取り入れられたものの巷に浸透するには至らなかった。日本に洋服がなだれ込み着物が駆逐されるのは第二次大戦後である。敗戦によって破壊された製造業と市場をGHQが一から組み立てなおす折に衣料部門は洋装一色に塗り替えられた。よその国の習慣を不合理だの野蛮だの揶揄するのが西洋人のお家芸だから仕方がないが、市場も生活も叩き壊した上で別のものを押し付ける遣り方は穢すぎる。そして世論を操作して西欧化がいかに素晴らしいかを人々の意識に刷り込むという彼らの常套手段にいまだに気づかない日本人も救いがたいところがある。豊かさを取り戻した日本人は着物のよさを見直すように努めたが「高級品」として復活させたのが失敗だったのは先に書いたとおりである。


今、人の体は、ベルトに、ネクタイに、ジーンズに、ブラジャーに、ストッキングに、ガードルに、ハイヒールに、ブーツに締め付けられている。裸になって鏡を見れば身体じゅう痕だらけ、色気などあったものではない。体に毒で、気の毒だ。


次号「食の巻」に続く

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Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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