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改暦は御免にて候

年の瀬と呼ばれるものが近づく。
あたらしい年がやってくるという。

いつ、どうやって来るというのだろう。

我々の棲家である、普段「地球」という名で呼んでいるものが息をする「息もの」であるとすれば、その営みが何によって保たれているのかを考えることで解る。

日が昇りまた沈むのが一日、ただしその日の高さは一年を通して変わり続ける。日が、最も高く昇り、長く照るのが夏至、その逆が冬至で、夏至と冬至のちょうど間にあるのが春分と秋分である。春分を中心においた三ヶ月を春といい、真ん中に夏至、秋分、冬至がある三ヶ月をそれぞれ夏、秋、冬となす。

豊かな実りをもたらし疲れて息が枯れる秋

疲れた木々や土を雪と雨が癒し、秋に落ちた葉が腐り土に還る。息をひそめ、静かな眠りの中で力を養う冬から、春の息づかいに変わる時がある。
それが立春――冬至と春分の間にある日である。日の光の差し込む角度が我が国に対し大きくなり光量が増える。東の空が白んで新しい一日のはじまりを感じるが如く、草も、木も、鳥も人も、春が来たことを、つまり新しい年が来たことを知る。

六世紀中頃、欽明天皇の頃に百済から暦が伝わったというのが記録としてはいちばん古いようだが、その遥か昔から水稲耕作をおこなう我が国に暦らしきものがなかったわけがない。稲を携えて大陸からやって来た人々が暦の基礎知識をもたらしたのであろう、そして先祖たちは日本の地での日の動きを読み(日読み‐カヨミ)、経験的な「暦‐コヨミ」に発展させた。そのコヨミを司る者が神託を授かり詔りを出すという形で民を治め、やがては大王となった。

大陸から来た人々を渡来人といい、よそ者、時には侵略者として敵視する傾向が強く朝廷の祖すなわち大陸人すなわち侵略者という議論をよく耳にするが、筆者が思うにそれは極めて狭量で危険なはなしである。日本と大陸は地続き同然であった。最後の寒冷期の終わりを受けて海面が現在の高さに持ち上がり大陸から分かれた後も気持ちの上ではその後も長い間繋がっていたことだろう。この間に日本に集まったすべての人類は我々の祖‐オヤと考えて然るを、渡来人だの流民だの侵入者だのというのは笑止千万である。国家としての体裁が整ったあとの日本に害を為す目的で人々がやってきたのはもっと先のことである。

はなしが逸れてしまった。
コメ作りとともに大陸からもたらされ、日本流に発達したコヨミは初歩的な太陽暦であった。さらにその後になって伝わったのが月齢をもとにして細かい日付などを記することができる太陰暦であった。
朔(新月)から朔までの29~30日間を一月と考えると、一年の365日を満たすためには十日あまり足りないことになる。それでは農事にえらく支障が出てしまうので、閏月を三年に一度折り込みその年は十三ヶ月あるもとして調整を図った。
ちなみにその調整を行わず、暦が毎年11日ずつ前倒しになるのがイスラームの太陰暦である。一神教であるイスラム教は古くからの太陽神信仰を無力化するためにも太陽暦の使用を人々から遠ざけた。

月は人間にとって太陽とともに最も身近な天体である。闇夜を照らすのみならず、潮の満ち引きが起こるのも月の引力によるのである。大海原が月に曳かれて動くのだ、いわんや人をよや、我々はそれに気付かずにいるにすぎない。地磁気や引力のことなど知る由もない古代人たちには何故か、月と日が操る糸が見えていたのだ。
一日は朔、三日には三日月、十五日目は望(十五夜)そして晦日に向かいまた朔となる。新しい月が生まれて満ち(望ち)てゆき、またつき(尽き、月)て行くさまに自然の輪廻を見出したのであろう、同じことは一日の明け暮れにも、一年の季節の移り変わりにも、人の一生にも国の興亡にもなぞえることができる。


農事にとっても、日本の国にとっても、立春の頃が年明けであった。その立春にいちばん近い新月から始まる月を歳の初めの月とした。自明、新年は新月からはじまった。これが我が国の旧暦の正月である。いま旧暦と呼んでいるものは飛鳥時代から明治までのあいだに細かい修正を加えながら使い続けた太陽と月の暦、太陰太陽暦である。

江戸時代が幕を閉じいざ開国をしてみたものの、外つ国の暦は我々のものとは違っていた。西欧に追いつけ追い越せと変えられるものはとにかく変えて、変えようのないものまでも無理強いしてまで西欧の追随に明け暮れたこの時代、従来の天保暦から現代のグレコリオ暦(西暦)に乗り換えることなどいともたやすいことであった。明治五年十一月、「改暦」は突然布告され、同年十二月三日を以って明治六年一月一日とされた。

グレコリオ暦とは何ぞや、その原型はローマ時代、カエサルやアウグストゥスのころに制定されたユリウス暦(太陽暦)である。もともと一年のうち農閑期の冬は暦どころか日付けも存在しなかったという。しかし夏の最中にユリウス月(julius-7月)とアウグストゥス月(augustus-8月)を無理やり捻じ込んだために本来は農事の始まる早春にあった新年が真冬にずれたというまことに由緒正しい暦である。

暦が季節からひと月もずれてしまった。改暦は何をもたらしたか。
農事の仕事始めに際しその歳の豊穣を祈る儀式である「正月」が、まだ土も草も眠りの中にある変な時期に行われるようになった。
人日、上巳、端午、七夕、重陽の五節句はそれぞれ季節の節目に身の穢れを薬草にて祓い清める重要な行事であった。が、これらの行事はそのまま西暦に移し変えられ正月同様ひと月もはやく行われるようになった。人日とは七草、上巳とはひな祭りを指す。端午については以前の記事でも記したが、何れも土、草木から力を得るための神事であった。今の一月に春の七草があるかどうか、五月に菖蒲の葉が、七月に星降る夜が、九月に菊の花が咲くかどうか少し考えれば解ることだ。


こうして日本人は土から、先祖から遠ざかってゆく。


明治の改暦を断行したのは当然ながら明治新政府であるが、その援護射撃をした、あるいは首謀者であったのが福澤諭吉であった。布告後まもなく「改暦弁」を著し国際化のための改暦の必要性、グレコリオ暦の解説とそれがいかに優れているかなどを説いた。さらに旧暦を罵倒、こき下ろしている。

「この後は、所謂 晦日に月をみることあるべし。数を知らざる無学の人には一時目を驚かすの不便あらん。ああ、文盲人の不便は気の毒ながら、顧みるに暇いらず、其、便、不便は暫くさしおき、兎に角に日輪は本なり、月は付きものなり。付きものを当てにせずして本に由りて暦を立つるは事柄において、正しき道をいふべし。(中略)故に、日本国中の人民、この改暦を怪しむ人は、必ず、無学文盲の馬鹿者なり。これを怪しまざるものは、必ず、平生、学問の心懸けなる知者なり。されば、この度の一条は、日本国中の知者と馬鹿者とを区別する吟味の問題というも可なり。――福澤諭吉 改暦弁より抜粋 

当時、世論を握っていた人間は悲しいかな、この類の「文化人」であった。えげれす、おらんだに留学し近代思想の洗礼をうけて帰ってきた輩は帰国後もその押し売りに余念がなかった。
月は付きもの、つまり太陽のオマケと言いたいらしく、また「憑き物」という暗喩を以って陰暦を迷信めいたものと貶めている。陰暦の成り立ちや意味の深さを知らない訳ではないであろうにこれをいけしゃあしゃあと「当てにせず」という。自論を通すためならなりふり構わず排他し攻撃するのが西洋流であるのは現代の国際紛争や軍事介入をみても明らかだ。

王様のために特別にしつらえられた衣装は金銀宝石がちりばめられて輝くばかり、ただし馬鹿と怠け者には見えないという代物。「無学文盲の馬鹿者」と区別されるのを恐れたか、「王様は裸だ」と叫ぶものがいなかった。

改暦が施行された明治六年、福澤諭吉は西周、津田真道らと啓蒙結社「明六社」を組織、維新と文明開化の騎手となった。西、津田ともに日本人初のフリーメイソン会員であったことは有名である。福澤に関しては会員であったという記録は見つかっていないがフランス系メイソンに人脈があったとされる。これではっきり解るように「維新」の目的はは近代化や合理化などには非ず、日本人が先祖から受け継いだ魂を「とるに足らない因習」として否定し、霊の緒を絶ち、これまでに築いた共同体、世界にまたとない美しい国を破壊するために仕組まれた卑劣な策であった。

台湾や中国などは西暦を使いながらも旧暦と上手く付き合っている。イスラム諸国も然り、公式行事と宗教行事の暦を使い分けている。イランやアゼルバイジャンのように春分に新年を祝う国も沢山ある。日本だけがそれを出来ないでいるのだ。
明治の呪縛がいまだ解けない、そのせいだ。


周りの皆が新年を祝い春を寿ぐことばを交わす中で、「いえ、新年は立春ですからまだ目出度くありません」などと言って門を閉ざすのはさすがに気が引けるというものである。ここまで西暦を悪く書いた後で大変申し上げにくいのだが仕方なく…。
みなさま、本年はつれづればなにお越しいただきまして誠にありがとうございました。忘れることがないであろう一年が終わりに近づいております。日本はどうかしてしまったのか、と皆が感じた一年でもありました。そしてこの先、日本はどこへ行こうとしているのでしょう。しかし生まれ育った国、共に生きる家族や同胞を思いやる気持ちさえあれば、それはいつか必ず実を結ぶと信じております。来る歳もみなさまの、そしてご家族さまのご健勝、ご活躍を心からお祈りいたしております。どうかよいお歳をお迎えください。
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大国主は大地主

もうすぐクリスマス。と、いうことで大国主について書かねばならない。

大国主にはいくつもの呼び名があり、一説では複数の神話の主を大国主という存在の中に一本化したのではないかという。また、背景が変わるにつれて名前を脱ぎ変えていったという説もありとても興味深い。ただし大国主が活躍していた(もしくは神話の元になる事件がおこった)頃の日本には漢字がもたらされていなかったことを忘れてはならない。我が国の神々の名前似使われた漢字はあくまで奈良時代の当て字でありその神様の個性を正確に表現しているわけではない。漢字の持つ意味が邪魔をしたがため古代史が霧の向こうに隠れてしまった。

「古事記」、「日本書紀」、「出雲国風土記」、「播磨国風土記」などにオオナムチという名前で登場するが、大穴牟遅、大己貴、大汝、と、どれも万葉仮名か音を借りただけの漢字であるが少なくとも「大」は共通している。

まず、オオ‐ナ‐ムチ と分ける。
そしてオオは「大」で間違いない。ムチは「持ち」であろう。
では、ナは?

数ある表記の中にひとつ、「大名持」がみられる。
名前がいっぱいあるから「大名持ち」。そうではない。「名」には別に意味があった。

江戸時代、農村に村の行政を担う「名主‐なぬし」がいて、時代劇や昔話では村人の親代わりだったり逆にあこぎな守銭奴だったりする。その本来の役職は村の租税徴収の請負人であり、発祥は平安時代まで遡る。
平安の世は雅な貴族たちとは裏腹に、農民が田畑を棄てて流浪する過酷な時代だった。
そして律令制の班田製が崩れだし、中央が地方に派遣した国司による税徴収が立ち行かなくなったのを受け、公地を「名-みゃう」という単位で再構成した。その「名」の管理と租税徴収を請け負ったのが田堵、或いは田頭と呼ばれた地域の裕福層で、その後彼らは「名主-みゃうしゅ」と呼ばれるに至った。名をたくさん所有するものは「大名‐だいみゃう」であり、これは鎌倉以降の武人の役職のひとつとなった。

お気づきのように、「名-みゃう」とは土地、いや耕地、それもコメをつくる田をさす言葉であった。


遠い昔の日本の言葉、やまとことばはどのようにして出来たか。
それは単純な動作をあらわす二音節の動詞に接尾辞が次々に膠着して名詞、形容詞、または別の動詞が作られた。ではそのおおもとになった動詞は何処からきたか。
一部の動詞は擬態語擬声語(オノマトペ)から生まれた。

参照 『大和言葉の作り方』

頬を膨らませてフーッと息を吐く。その行動は フク「吹く、噴く」という動詞で表すことができる。獣の皮を剥いで中に息を「吹き」込むと空気を「含む‐フクム」ので「膨む‐フクム」、その皮は「袋‐フクロ」として使う。また外皮で覆うことを「葺く‐フク」という。
「フ」の母音を「ハ」に変えた時もよく似た語彙があらわれる。「吹く‐吐く」、「葺く‐履く」、「膨む‐腫る、張る」というようにである。

ナ行は実に興味深い。ヌルヌル、ネバネバから生まれた言葉がたくさんあるのだ。
「ヌ」はヌルヌルしたものを表す。それが溜まった所が「ヌマ‐沼(ヌ間)」、それを何かに「ヌル‐塗る」と「ヌレル‐濡れる」のだ。
そんな抽象的な「ヌ」が名詞として確立されたのが「ニ‐丹、土」で、粘土や泥、顔料を指している。

土器を作る粘土を「ハニ‐埴」といった。鋳造の型を作る粘土は「マネ‐真土」と今でもいう。

「ニ」を手で掬って地面にたらすとどうなるか、横にだらりと「ノビ‐延び」、これを「ナグ‐薙ぐ、凪ぐ」といった。横になって寝ることは「ヌ‐寝」であった。
「ナル‐平る」は水平を意味する。これを他動詞にすると「ナラス‐平らす」、「ナデル‐撫でる」、そこから「均す、馴らす、慣らす」「ナダメル‐宥める」に発展し、横に「並ぶ‐ナラブ」、右に「ナラフ‐習ふ」に至るまで水平な広がりを意味する言葉が出来ていった。動詞「ナガル‐流る」や「ナガシ‐長し」「ナダラカ‐緩か」という形容詞もうまれた。

土地を平らに均し、泥を湛えた水耕田を「ナ」と呼ぶようになった。秋には黄金色の穂が風に凪ぎ、それが日本中にと広がった。

水田を作るというのは大変な仕事である。土地の高低を読み、石を拾って平らにならして遠くから水を引く。自らが開墾した水田をほかと識別するにはその一族か族長の呼び名をつけたであろう、それが行くゆく地名となったことは想像にたやすい。人名と地名のあいだの線引きは本々はっきりしていなかった筈である。
飛鳥時代の中頃から、我が国の中央は中国の文物に凌駕された。日本の森羅万象が表意文字である漢字によって表記されるようになった。「ナ」なるものは「名」または「字」という漢字が宛がわれた。そして朝廷で使われていた大陸調の言葉では「みゃう」と発音されたのだ。


スサノオはオオナムチの父親とも六代を遡る祖とも云われており、どうやら同じ一族と考えてよさそうだ。乱暴狼藉を働いたかと思えば子供のように泣き喚くというスサノオはアマテルを怒らせ高天原を追い出された。そして出雲の国にやって来たが、ここから先はまるで「別人」になってしまうスサノオであった。ヤマタノオロチに七人の姫を攫われ、そして最後にのこったクシナダヒメまでも狙われていることに嘆く夫婦に出会い、勇ましくも大蛇退治を買って出る。もちろんあとで姫様を貰う約束も取り付けた。
強い強い酒を特別に搾らせ、それをしこたま飲まされた大蛇はスサノオの手に掛かり息絶える。
オオナムチが大地主になったのだから、スサノオが出雲に根付いて開墾に勤しんだであろう。それ以前の出雲を考えてみたい。クシナダヒメの属する集団と、それをを脅かすヤマタノオロチに象徴された別の集団があったはず、そして先住者は前者であろう。後から来た者たちは姫たちに悪さをしたかどうかは別として一体どのような害を為したのであろう、そして誰だったのか。

出雲は日本有数の砂鉄の産地、その品質は燐や硫黄、銅などの有害不純物が極めて少ない最高のものである。鉄の加工を心得た集団が岩肌の色や水の味をたよりに出雲のそれを探し当ててやってきた、そして居ついたのではなかろうか。鉄―日本ではクロガネといった―それは融点が高く酸化しやすいという扱いにくい金属で、溶かすために熱すると酸化鉄になってしまい脆くなる。坩堝で銅を溶かすのとは勝手が違う。そのため、砂鉄は地面に穿った穴の中で木炭と一緒に燃やされた。タタラと呼ばれるふいごで風を送った。木炭の炭素が鉄と結びつこうとする酸素をより早く捕まえて鉄の酸化を妨いだのだ。木炭は燃え尽き、灰は比重が小さいので不純物として表層に浮かび上がり除去される。こうしてハガネ‐鋼が出来る。鋼とは粘り強い鉄と硬い炭素の混合物である。

そこで問題になるのが燃料の入手、大量の木炭、そのための森林伐採である。鋼を得るためには目方にしてその十倍以上の木炭が必要なのだ。娘たちにも当然のように手出しをしたかも知れないが、無尽蔵に木を切り倒しては焼き尽くし、森を荒らしまくるという山の霊を恐れぬ行為はこの上なく邪悪なものと映ったのであろう、これは縄文の血をひく先住民にとっての脅威となった。

膨大な試行錯誤が必要な製鉄は先駆者である大陸から職人集団とともにやってきたと考えるのが普通である。彼らが自発的に来たのか或いは神功皇后の三韓征伐の末に連れてこられたのかは不明である。が、新羅には豊富な鉄と製鉄基地があった。
筆者は学生時代に韓国を旅したことがある。その記憶の中の風景の一つ、剥げて土を露出した山々があるが、それは大戦で日本軍の爆弾が焼いたという説明をうけた。戦争責任の議論はともかく五十年も植林しないで放っておく方がよほどおかしいではないか。この土地の人々の山や森に対する感情はそもそも我々とは相容れなさそうだ。あくまで想像だが、半島人は鉄鉱石も製鉄技術も持ち合わせているというのに土地の木を切りつくしたがため行き詰まった、それゆえ燃料の豊富な我が国にやって来たということもあり得る。


退治されたオロチのその尾から一振りの剣、後にヤマトタケルがその身に佩く「草薙の剣」が現れるのであった。そうなれば、スサノオはオロチ党?の持っていた剣を奪った、つまり神器を簒奪し恭順させたということだ。そして彼らの製鉄の技術を農具の製造に生かしたとしたらどうだろう。湿気が多く海が近い日本の土壌からは酸化しやすい鉄器が発掘されることは少ないので立証は難しいが、そうであれば鉄製の鍬や鋤は灌漑や開墾に大いに役立ったであろう。

妻に迎えたクシナダヒメの、その父母の名はテナヅチ、アシナヅチと書紀にある。そこで三人が共有するナダ、またはナヅの音は「ナヅ‐撫づ」から来ているのだが、これも「ニ‐泥、土」を祖とする動詞である。「クシ」で髪をすくことを古語では「クシケヅル‐梳る」というのだが、スクは「鋤く」ことでもあり農具の鋤にも繋がる。鉄器の使用が始まる前は「クシ‐櫛」のような木製の道具を鋤のように使っていたのかもしれない。この一族はコメを作っていた、それも水耕をおこなっていたのではないかと思いを馳せることができる。

東日本にいたバイカル湖周辺に祖を持つ縄文人が寒冷化に伴い西日本に移動したことを前回の記事で書いた。スサノオやオオナムチはその東日本縄文人のある一族を指しているのではないだろうか――彼らは出雲の地で水田を持つ先住者に出会い、脅威となる者共をねじ伏せ、通婚して融和した。そして「鉄」を手に入れさらなる開墾に成功、子孫たちが「おおじぬし」となるに至らしめた――そう考えるとじつに興味深い。なにより、スサノオの描かれ方はどうしても東国を駆けた武者たちをほうふっとさせるのだ。

土地だけでなく、オオナムチは名前もたくさん持っていた。
おそらくはスサノオの子、それから数代あとの子孫までを同一神としたのであろう。
さまざまな神話を残しつつ最後は天孫たる大和の勢力に屈することになる。

赤裸にされた白兎を助ける優しい大国主(オオナムチ)は、ヤガミヒメに求婚にゆく意地悪な兄たちの荷物を大きな袋に入れて背負わされていたのだ。助けられた兎が謂うには、「八十神(兄たち)はヤガミヒメを得られない、袋を背負ってあとから追いついたとしても大国主を選ぶ」と。この袋の中にはどんなお宝が詰められていたのだろうか。


この季節、大きな袋を担いだ笑顔の翁が日本中にあらわれる。じつは日本を見守る大国主かもしれない。


縄文の血の中に

島国日本に生まれ育った者にとって「国境」を意識することは少ない。四方の海が我が国の稜線を描いてくれているからだ。

しかしそれは最後の数千年に限ったはなしで、太古の先祖たちは食料を求めて世界中を移動しながら生きていた。気候が変われば海流も植生もかわり動物と人がそれに続いたのだ。そして気温が下がれば海から陸が現れた。今の地球とて一つの瞬間をとらえた姿を見せているに過ぎない。

更新世と呼ばれる約180~1万年前は氷河期に相当する。海面は低く、日本列島は大陸と地続きかそれに近い形であった。動物を追って大陸から幾度にもわたりやってきた人間が、原日本人となった。

民族の源流を辿る作業はある種の危険を孕んでいる。人間たちが血で血を洗う争いの中で虚構を築き、騙し、覆い隠してきたものを覆すことになり兼ねないからだ。だが、自らを熟知することは行き先を見失った今日の日本人に最も必要なことと確信している。
人類学や考古学のみならず、言語、動植物、鉱物、金属、地質、医、農、遺伝子その他あらゆる分野の学者のたゆまぬ研究があってこそ先史時代への眺望が開かれる。そしてそれに対し敬意を惜しまない。しかし「学会」という大矛盾が研究者たちのえりくびを掴んで離さないのだ。世界中に言えることだが、学会の意向に沿わない研究には研究費がつかない。学会のお墨付きがなければ世に出ない。へたをすると命の保障がない。世の中がそんな体たらくであるからこそ、学者の立場にない素人の我々が審美眼を得るべく心がけては如何だろうか。

今回の記事を書くにあたって以下のサイトを参考にし、そこに筆者の考察を付け加えた。本来なら引用と考察を分けて書くべきところであるが煩雑にならぬようにと敢えて混載したものであることをお断り申し上げる。

「日本人の起源」http://www.geocities.jp/ikoh12/index.html
膨大な資料と多種の学説を比較しながら「日本人論」を展開させたサイト、ぜひご覧いただきたい。



何処からどんな民族がやってきたのだろうか。人類遺伝子学研究の松本秀雄氏によるGm遺伝子の研究成果からろいろなことが解ってきた。
日本に最初に足を踏み入れたのが誰であったのかは諸説あっても定説はない。ここでは前後関係をゆるく解釈して書いてみる。


ロシアのバイカル湖周辺に3~2万年前までに到達した人類は細石器の使用を体得し、そこからアジア各地へと広がった。細石器とは木や骨で作った刀身に溝をつけ、そこに石のへき開性を利用した剃刀のような「石刃」を埋め込むという手法からなるもので、刃こぼれをおこした時に刃を取り替えて手入れが出来るという「進んだ」石器であった。我が日本にもその細石器をたずさえ樺太を経由しやって来た。彼らをバイカル湖系東日本縄文人と呼ぶ。

そのころの関東以北にはそれ以前から半円錐形細石刃石器群をつかう集団が分布していた。原縄文人とする。

そして同じころ、あるいは数万年遅れて黄河流域の文化圏から華北人が南下し、北九州側からやってきた。彼らもまた違う細石器をもたらした。彼らは華北系西日本縄文人である。

バイカル湖系東日本縄文人、原縄文人、そして華北系西日本縄文人みなともに原日本人である。

日本人の先祖や渡来人のことを議論するときに陥りやすいのは日本列島の姿が変化し続けていることを忘れ、大陸と完全に切り離して考えてしまうことだ。1万年前に完新世に入り海面の上昇は日本を大陸ら別けた。この後も大陸とは航海をして行き来の絶ることなく、また長江下流文化圏から稲作と共に江南人がやって来た。
ここで是非強調したい。これらを全て渡来人、或いは大陸文化と呼んでいたのでは日本は渡来人の集まりということになり、それこそ大陸の辺境でしかなくなってしまう。そんな解釈でいいのか。



バイカル湖は、寒い。バイカル人は寒冷地に強い遺伝子を得ていたことに違いない。以前の記事で江戸っ子が寒さに強かったと書いたが、これもバイカル人の血を引いているからかもしれない。彼らは大型動物を追いかけて樺太を越えて来たものの、その動物が減ってゆくに従い不足した食料を木の実やイモ類で補わざるを得なくなった。そうしてアク抜きや調理に必要な土器が現れた。世界で一番早いとされる土器の出現である。またお家芸の細石器の材料も、細石器とするにはこの上ない、大陸では稀な黒曜石という石を見つけ出し加工している。世界一の「モノつくり」である日本人には、この東の祖先の遺伝子が生きているのだろう。

北九州でも、先にいた華北人と後から現れた江南人とは争った形跡、つまり槍の刺さった人骨などが見られないという。通婚し、融和していったのだろう。近年、縄文時代の地層から籾の痕跡が多く見つかっている。稲作は思いのほか早く始まっていたらしい。
まだ陸稲が主流だったにちがいないであろうが、縄文中期以前の水田跡も発見が相次いでいる。ある時点で水稲がもたらされたのだ。
水稲耕作は恐ろしく手間のかかる農法である。それに加えて灌漑や備蓄のための労力も必要になる。水田でコメを作るためには、狩猟・採取の縄文生活を半ば棄てることになるだろう。それを覚悟で水稲に転ずるには縄文人たちのそれなりの理由が必要だ。人口が増え耕作を可能とするだけの労働力ができ同時に食料が必要になったのか、あるいは気候の変化が採取に依る食糧事情を変えたものと推測される。いずれにしても大陸人が突然大量に押し寄せて水田を作ったという類のはなしではなさそうだ。
海の民にとって、北九州と大陸はお互いの庭のようなものだったであろう、絶えず行き来するうちに、その目で見た水稲の技術に驚き日本に持ち帰り根付かせた縄文人がいた。そんな西の先祖の遺伝子は、世界中にトンネルや橋梁をつくった土木の棟梁たちに受け継がれているのだと強く思う。


そして言語。
大陸の北、南、或いは半島から民族たちがそれぞれの母語を携えてこの島に集まったのだから、日本語の源流を一つに絞ることはできない。日本語は異言語が出会い、融和したことで生まれた言語といえる。道具を作り、使い、集団で狩猟生活をしていた彼らはすでに高等な言語を以って意思の疎通をし合っていたに違いない。

アルタイ語族の中に数えられるツングース語というものがある。膠着語であること、母音調和をすること、語順が主語→目的語→述語であること、これが日本語の特徴に通じていることから我らの祖語の一つと考えられる。このツングース語この流れを汲む言語は日本語のほかに満州語、朝鮮語、モンゴル語、テュルク諸語などがある。この分布は先に記したバイカル人の足跡を辿っている。アイヌ語やエスキモー諸語、北米祖語にもその片鱗がみられる。

南太平洋を囲む地域に見られる言語群をオーストロネシア諸語という。遠くは南インド発祥のタミル語やオーストラリアのアボリジニ語、インドネシア、ポリネシア諸語などを指すのだが、日本語は語彙の面でこの南方の言葉に大きく影響されている。特に稲作を巡る語彙群に多く見られる。

この二つが日本語の原型をかたどる大きな要素であろう。文法はツングース語に拠り、語彙の一部はオーストロネシア諸語から来た。そして列島の中で生まれた語彙とともに暖められた原日本語「やまとことば」に、中国語が漢字とともに流入し奈良時代までに出来上がったのが「上代日本語」である。


ツングース語の担い手たちが散った先々に共通して見られるのはシャーマニズムである。人間界と自然界の仲立ちをするシャーマンがおり、両者の調和を保つことで霊の守護を受けるという古代からの信仰をいう。
オーストロネシア諸語のある地域には、あまりいい言葉ではないがアニミズムが存在する。人、動物、山、海、森、石、この世の森羅万象すべてに霊が宿ることを信じ崇拝の対象とした信仰であるが、西洋人が侮蔑をこめてつけた名前がアニミズムである。
日本の島はこの二つの自然信仰が出会うべき約束の地であった。


この島に引き寄せられるように集まった我々の先祖は海というゆるやかな国境に守られながら共同体を育て、そうして日本ができた。霊を畏れ、お互いを助け、侵し奪うことを戒める社会ができた。いま我々が日本史として捉えている最後の二千年余りの土台にはその千倍はあるであろうこの長い営みがあった。


「遺伝子」という言葉など知られぬころ、子が親の素質を受け継ぐのは「血―チ」のなせるわざと解釈していた。血は争えないと知っていた。筆者にも、読者の皆様にも、遠いバイカルの地、そして黄河、長江、あるいは南海の島々からこの島を目指して旅をしてきた先祖の血が流れている。ただの酸素を運ぶための体液でしかなかったはずの「血」が世代を越え時を越え今に伝えたものは何か、それは「霊―チ」であった。血を忘れ霊を軽んじた末がいまの日本の姿であろう。



関東より南には意地でも動かなかった東日本縄文人たちも食料の事情があったのであろう、観念して南下を始め、水稲耕作の生活へやっと移行した。生き方を大きく変えることが自らを取り巻く霊たちの怒りを買う、それを恐れたのであろうか。やはり東の縄文人たちの危惧のとおり、時代は弥生へと移るのであった。



ここで思い出されるのが、スサノオノミコトとオオナムチ(大国主)だ。
いずれ書いてみようと思う。

ねんねんころりよ つづき

「妖怪」かと思った。

アメリカでの膨大な借金を踏み倒し日本に帰ってきた祖父母。筆者の家族にこの二人が加わったことは「波乱」そのものであった。

祖父と言っても再婚なので筆者には義理に祖父になるその人はまるで働く気がないというか、どこかで調理の仕事に就いたと思えば一週間と待たずにやめてしまう。シベリア抑留時代に飢えと寒さと重労働に苦しめられたせいで心も体も萎えてしまっていたのだろう、くわえて祖母のような女房を貰ったのだから、仕方がない。すでに酒と煙草で肺を患っていた。布団に包まり朝から晩まで安酒を煽っていた。それから一年ほどで入院し、半年後に他界した。

祖母のほうは給仕や家事手伝いなどでそれなりに稼ぎがあった。が、それもすべて遊興と買い物に費やしてしまうのだった。タクシーで明治座に乗りつけ一等席で芝居見物、ホテルで食事、温泉旅行、三越で服をあつらえ、アメリカでの夢の続きを楽しんだ。また筆者にたいする執着は激しく、事あるごとに連れまわしては着るものを購った。わが子を手放した空ろな心をを埋めようとでもしたのか。


足りない「おあし」は母に無心したか、サラ金か、質屋でまかなった。質草は母の着物や帯、かんざしだった。父の実母から譲り受けたものもあった。もともと脆くできていた母の心は病んでいき、母の泣声で夜中に目を覚ますことも多かった。そして横をみると、天井をじっと見つめる祖祖母が居た。
父は祖母の借金を黙って返し続けた。母は居たたまれずに何度も別れて欲しいと言ったそうだ。が、もっと居たたまれなかったのは同居していた祖祖母だった。

「あれは性悪です。どうかここから追い出してください。わたしも一緒にゆきます」

そう言う祖祖母に父はひとこと、「そんなわけにはいきません」そう答えた。

このやり取りを後で知り激昂した祖母は怒鳴り散らしながら老いた母親に手をあげた。素手ではなく、こともあろうに教科書がいっぱい詰まったランドセルを振り回して何度も打ったのだ。あまりの形相にランドセルの持ち主は思考が凍りつき止めに入ることさえ出来なかった。おそらく母も。父は家にいなかった。祖母は気が済んだか、疲れたか、どかりと座り込んで煙草に火をつけた。祖祖母を介抱する横目に見た、髪を逆立てて居直り煙を吐くその姿は、大悪党・石川五右衛門のようだった。

これ以上迷惑は掛けられないと祖祖母は我が家を出る決心をした。長い間会っていなかった息子の家に入った。当然、肩身がせまかったであろう、かかってくる電話はいつも公衆電話だった。一度だけ会えたが、あっというまに体調を崩し、旅立った。やはり孤高の人だった。

こうなることは分かっていたのだとおもう。我が家から出てゆく最後の夜に聞かされた。
「いいかい、もしもお父さんとお母さんが離婚することがあったら必ずお父さんについておいき。お父さんにもしものことがあったら京都のおうち(父の実家)にいきなさい。天の神様がいつかどうにかしてくれるから、泣くんじゃないよ」

泣きじゃくって頷くことしかできなかった。


その後も祖母は我が家に居座り続けた。英語が出来たので欧米人の実業家宅に住み込んで家事手伝いをしたり、自分でアパートを借りたりしてはまた舞い戻るといった調子だ。カネにけじめがないのは相変わらずで督促状や電話が絶えなかった。母は酒に逃げるようになり、筆者との母娘の間柄がよじれてしまった。ひたすらに三味線をかき鳴らし唄っているか、酔っているかのどちらかだった母とはまるで意思の疎通ができなくなってしまったのだ。

美人だがまるで色気のない母は心中物や恋がたりを唄わせてもまるでダメで聴いていられなかった。しかし軍記物と怪鬼談は本当に上手かった。子供を失くして気が狂い、鬼となった女を物語る「安達ヶ原」という曲、それに壮絶な思いを重ねる母の声は、絶品だった。これが母にとっての子守唄だったのかもしれない。


鼻を突き合わせて暮らしていたというのに、母子四代一緒に座って食事をしたのはたった一度だけだった。祖祖母、祖母、母、そして筆者。今思い出しても不思議な光景だ。同じ国に同じ女として生まれながらあまりに違う人生を生きた、あるいはこれから生きるであろう四人であった。
明治生まれ、震災と大戦を知る祖祖母は昭和の世を明治人として生き、そのまま生涯をとじた。
少女時代を大戦と共に生きた祖母、戦争が終わって進駐軍が撤退したあとも祖母の心は占領され続けたのだった。そして同様に呪縛を掛けられた日本人は決して少なくないであろう、戦争に負けるというのはこういうことだ。領土を奪われ加害者扱いされるだけが敗戦ではない。
戦後の日本と同じ足並みで育った母、成長し続ける世の中とは裏腹に母の心のは幼な子のようだった。無心に唄い、酔って泣く。
昭和元禄の落とし子として何一つ不足を知らずに育った筆者は他人に対してもわが身に対しても傲慢だった。母親と反目しつつ、母国たる日本をも冷ややかな目で見るようになっていった。

演奏旅行でよく海外にいった父の話は筆者の心を外へ、外へといざなった。とくに中近東や共産圏の話は夢中で聞いた。いつか行ってみたいと思い続け、大学に入ってからはバイトと海外旅行に明け暮れた。言葉は解らなくても話が出来た。地図さえあれば(なくても)何処にでも行った。ヒッチハイクも野宿も厭わなかった。傲慢さの表れである。そのころ、主人と出合った。

遠い国の人のもとに嫁ぐことは不思議と反対されず、むしろみな慶んでくれた。京都の(父方の)祖父もその一人だった。

「あのな、おじいちゃん、うれしいで。好いた人といっしょになったらええ、だいじにな。」

そういって送り出してくれた。むかし父を勘当したのも「好いた人といっしょになったらええ」と、この世のしがらみから父を逃してやったのだと思う。

ただ一人反対していた。

「この年寄りから曾孫を可愛がる幸せをうばうつもりかい!」言うまでもなく、祖母。

お言葉はごもっともであるが、お言葉のあるじが正しくない。
祖母に悪態をつかれながら日本を出た。


そんな祖母も三年前に他界した。筆者はもう日本に何年も戻っていなかった。
部屋から出てこないのをいぶかった父が戸をあけて目にしたのは、恐ろしい形相で息絶えた祖母の姿だったという。
「ね、お父さん、救急車呼ぶの、少しだけ待ちましょうよ、もっとちゃんと死んでから、ね。」
二人はしばらくの間、迷い戻ることのないよう必死で手を合わせていたそうだ。

それを境に母の心は落ち着きだし、筆者との仲も氷解した。

やはり祖母は妖怪だったのだろうか。もしあの妖怪が我が家にやってくることがなかったら今どうなっていたか、考え出せばきりがないが、良くも悪くもどうにかなった。祖祖母が最後に言ったことばはやはり正しかった。

ねんねんころりよ おころりよ
ぼうやはよいこだ ねんねしな

言葉が「ことだま」を背負っているように、唄にもそれ自身に霊が宿っているはずだ。娘を泣かせたのも子守唄に宿る、かつて親と離れた子、子と別れた親の霊のしわざだと思うのだが、どうだろう。

ぼうやのおもりは どこいった
あのやまこへて  里へいった

祖母の亡くなったあとに誕生した娘は今、すやすやと眠っている。その寝顔を見ながらあることを思いついた。次に母と再会したとき、この子に子守唄をうたってもらおう。また泣くだろうか、親子の情に手のとどかなかった母の、祖母、祖祖母、父、祖父、その親、またその親たちの思いを乗せた一世一代の花舞台だ。

ぼうやのおみやに なにこうた
でんでんだいこに しょうのふえ


そしてその声を、こんどこそ胸に刻みつけておこう。

おわり


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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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