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いわし しめなわ おにはそと ― 節分

さて、まもなく節分がやってくる。節分とは父親が豆をぶつけられる日ではない。

立春、立夏、立秋、立冬は「節」とよばれ、それは新しい季節を迎える日でありその前日が「節分」であった。季節の変わり目に入り込む邪鬼を追い払う儀式である追儺(ついな)の風習が飛鳥時代から奈良時代初期にかけて中国から暦学とともに伝わり宮中行事として定着した。日本では春の始まりである立春が特に大事にされ、その前日には炒り豆を撒いて鬼を追い払う行事が「節分」という名で今も残る。明治の改暦後に正月をはじめとするあらゆる行事が西暦に直された中でこの節分は古い暦に基づいて今も続いている。

明治以前、我が国では新月から新月を一ヶ月と考え、新月が月初め、満月を月中、次の新月の前を晦日として数えた。そして立春に一番ちかい新月が「正月一日」であった。

ここで今では考えにくいことが起こる。その歳によって、節分が正月の前であったり後に来たり或いは同日になったりするのだ。これは一ヶ月を月の満ち欠け(月の公転周期)で勘定しているのに対して「節」が太陽の運行(地球の公転周期)から導き出されているために起こる。我々には不可解だが当時にしてみれば当たり前であった。

炒り豆を鬼に投げつける風習、これは日本にしかない。生の大豆をわざわざ炒り豆にするのは、逃げ出した鬼の怨念がふたたび芽を出さぬようにとの願いがあるという。この念の入れようがまた日本らしい。
この宮中行事は平安時代には庶民にも広がり今に受け継がれている。そして家の門口に「柊鰯(ひいらぎいわし)」を飾った。

柊の小枝に先に焼いた鰯の頭を刺しそれを注連縄につける。豆撒きの影に隠れ忘れられたかのように見えるが、いまでも節分にこれを飾る地域もある。

参考:門守りのサイト―柊鰯 


鰯のにおいに誘われた鬼が門に近づくと柊の葉に目を刺されて退散するというこの柊鰯、最古の記録は平安時代の「土佐日記」に「小家の門の注連縄の鯔の頭と柊」とある。鰯ではなく鯔(なよし=ぼら)であるが同じ役割を果していたと考えていいだろう。
鯔は成長につれて名前が変わる出世魚、目出度いとされたために門にかざられたというが、それが何故いわしに変わったかは解っていない。鰯の古語がなよしという鯔の別名だったという説もある。ただ、この日記の日付けは承平五年(935年)元日となっている。

その昔、元日と節分は別ではありながらも一つの流れの中にある行事であったことが伺われる。またその流れの延長には上弦の月の人日の節句(七草)、満月の小正月が待っている。いま伊勢神宮で売られる正月の注連飾りには蜜柑やウラジロといっしょに柊の枝がついている。柊鰯も注連飾りもその役割はともに春の始まりに穢れが入り込むことを防ぐ「さかひ」であることを思えば繋がりがあって当然なのかもしれない。


「さかひ」(仏教でいう結界)は、人の生きる俗世界のうらみ、わざわい、やまい、くるしみ、なやみという穢れが入ることのできない聖域を作り出し、そこに神を迎え入れる場をしつらえるためにある。動詞「さく(放く、離く、裂く、割く)」に意味を限定する接尾辞がつき「さこふ(境ふ)」となった。さらに名詞に変化したのが「さかひ(境)」である。寺社の「境内」とはそういった場で、鳥居や山門という「さく(柵)」によって俗界と別けられている。

神社仏閣にかぎらず日本の建築にはこの「さかひ」が意識が随所に見られる。例えば茶室は聖域とみなされ、そこに至るまでには露地をぬけ蹲踞(つくばい)で清めをおこない、にじり口をくぐるという段階を踏まなければならない。
また家屋においても玄関を境に床が高くなり、人は履物をぬいでそこを上がる。外の湿気や汚れから家を守るための日本の屋づくりに起因することだが、やはりここでも穢れを防ぐという考え方に通じる。
外から内へ、廊から間へ、間から間へと違った場に入る時には一呼吸おいて意識を変えるのが作法であった。敷居を踏みつけてズカズカと入り込むのはよろしくない。襖や障子が閉まっているときは「隔絶」を意味し、問わずに外から開けてはならぬという不文律があった。几帳やついたて、屏風の向こう側もむやみに覗くものではない。

入るものすべてを跳ね返すものであってはいけない。商売をしていれば福の神にも客にも来てもらわなくては困る。門を硬く閉ざしてしまえば商売にならず逆にあけすけでは何が入り込んでくるか知れたものでないし福も客も散ってしまう。そこで重宝したのが店舗と街路を仕切る「暖簾」であった。店の銘を染め抜き、暖簾がでていれば「商い中」の合図でもある。店の中と外では暖簾に視界を遮られながらもお互いの気配は感じることができる。客は店の賑わいに誘われ、くぐって入ればほんのひと時その領域にとらわれの身となる。

塩は手っ取り早く穢れを祓う便利なものだった。腐敗を防ぐ効果に古くから神性を見出していたからだ。家や店の入り口には普段から盛り塩をし、いまいましい客を追い出したあとにはあてつけがましく塩をまいた。


柊鰯や注連飾りは一年のうちの特別な時期、そのときに限って現れる神様を迎え入れ、そのときを狙って入り込もうとする鬼を締め出す装置であった。


はて鬼とは、である。
絵に見る赤鬼・青鬼の姿は仏教の羅刹や夜叉の影響で出来上がった図像であり、物語の鬼は娘にも老婆にも変幻自在、しかしその本質は人の心の中にあった。死者がこの世に残した恨み、生きたものの妬み、嫉み、尽きることのない欲、犯した罪への悔恨、失うことへの恐れが具現化したものであった。幕末まで国を閉ざし外の国から攻められることが殆どなかったともいえる我が国にとって己の敵はまた己の中にあった。鬼退治は未知なる敵に戦いを挑んでいるのではなくあくまで人の世の穢れとの戦いであった。桃太郎に泣いて謝る鬼の大将や豆をぶつけられて逃げ惑う鬼たちの姿に親しみを覚えるのもそのためである。
古代、朝廷にまつろわぬ(恭順しない)存在を「蝦夷」「隼人」「土蜘蛛」などとよび神武天皇やスサノオ、ヤマトタケルらがこれを追討したと記紀に書き記されている。歌舞伎や能、昔話にのこる鬼退治譚の原型はここに求めることができる。そのまつろわぬものたちが棲むところは銅や鉄の採れる山であることが多いのについてはまた別の機会に書いてみたい。


これらの「さかひ」は人と霊の決め事であって実際は吹けば飛ぶようなもの、霊を懼れぬ者の攻撃には抗いようがない。悪意あるものは霊威を懼れず、したがって「さかひ」などは気にならない。踏みつければよい。家々に土足で上がり乱暴狼藉をはたらき火をかけて逃げてゆく。
明治の頃、糠の成分が脚気に効くことを指摘した農学者の鈴木梅太郎を学会は笑った。曰く「鰯の頭も信心からだ、糠で脚気が治るなら小便を飲んでも治る」と揶揄したという。近代思想と科学技術に毒された者からみれば鰯の頭などは取るに足らない迷信でしかなかった。


近代以降、日本は富を得る傍らとてつもない穢れを呼び込んでしまった。やり方が拙かった。外の国に向かい門を開けるときに、何一つ「さかひ」を用いなかったがために百鬼がなだれ込んで来た。近代の思想は資本主義経済と手を組んで我々の欲を煽り、膨れ上がった欲は鬼となって襲い掛かる。人に道を誤らせ、妬みを呼び、この世は嘘と疑いで溢れかえる。科学技術は利便と汚染を同じだけもたらした。もはや今こうなると鰯はおろか鯨の頭を吊るしても足りない。


おにはそと ふくはうち
懼るることを知るうちは
鰯の頭 鬼をも避けん




雑談

筆者の住むトルコ、その北海岸には黒海が広がる。冬の名物ヒシコイワシが今年も豊漁。
日本でイワシといえばマイワシでヒシコイワシは煮干の材料、あまりぱっとしないが黒海のヒシコは驚くほど味がいい。
十年前であれば内陸のトルコ人たちは海の魚など嫌がって見向きもしなかったのだが、一旦流通が始まるとみんなに好かれた。こちらの家庭では粉をはたいて油で揚げるか焼皿にずらーっと並べてオーブン焼きにし、レモンを搾って食卓に。

筆者はあまり和食にこだわらない。こだわりたくても味噌と醤油がここにはない。オランダ製の醤油が売られているが、GMO大国の大豆製品など恐ろしいので是非よけて歩きたい。日本の家族に頼めばいくらでも送ってもらえるのだがそれも往生際が悪い気がしてならない。
食文化の違いは気候や滋味に左右されるもの、それに逆うことで起こる害に悩むより、こちらの食を堪能する事を好むのである。

とはいえ子供たちのことになると話がちがってくる。いつか日本に行ったとき和食の味を知らなかったでは両親とご先祖さまに叱られてしまう。そのため、たまに料理してみる。

               すし
              〆鰯のにぎり


ヒシコイワシの頭、腸をとり、開いて骨をはずす。平たい容器に塩、イワシ、塩…と重ねて数時間つけおき、あがってきた水(ナンプラーとして使える)を切り酢で洗う。もういちど平たい容器に並べてかぶる程に酢をかけ、また数時間つけおく。
鮨飯は砂糖が少し勝つぐらいがいいようだ。塩は岩塩、酢はぶどう酢。酒と味醂は抜き、昆布と醤油は去年の父の手みやげだ。

なつかしい味がする。

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脱原発と江戸明け暮れ考―「技の巻」

カネとはあくまで物や事に対して支払われる対価である。
と、考えるのであれば、先ず実態としての「物事」があり、これに日が当たっているとする。
日の高さが変われば影の長さも変わり、濃淡は日の強さに左右される。日がなければ影も消える。
そう、「カネ」とは影のようなものである。

前号の「金の巻」で江戸時代の人々の金への執着のなさとその背景を述べた。
今回「技の巻」はその逆、身分や職に関わらずこの時代の人々がとことん拘ったものについて書くとする。

江戸時代は「奇跡の時代」とも言える。筆者のつたない筆などではとても書きつくすことのできない世界、ただしそれが長い日本史の中に彗星の如く現れたのではなく、戦国の世を、鎌倉を遡り、平安を越え、飛鳥を辿り、そしてそれよりも遥かに遠い神代から続く営みがその後ろに控えていることを今号の冒頭に記しておきたい。


日本人と「技」との出会いは研究が進むにつれて遠い昔へと遡っていくようだ。さらに古い時代のものが次々と発見され続けている。
柄の先に石器をくくりつけた石槍はマンモスなどの大型動物を捕らえ、やがて気候の変化から動物が小型化し俊足になると弓矢で追うようになった。また、小さく鋭い石刃を刃こぼれするたびに付け替えるという高度な細石器も登場した。気候の温暖化を受けて植生が変わると椎や栗を採取して食するようになる。それを煮沸、アク抜きするための土器が発達した。また魚や動物の骨で銛や釣り針をつくった。獣の皮や木を加工した道具も当然あったがこれらは土に還ってしまったであろう。


細石器刃は黒曜石を砕き薄く剥離させて作る。日本の各地で産出される黒曜石だが、道具として発掘された場所と材料である黒曜石の産地が遠く離れていることが多く、このことは大昔の人々がより良い材料を捜し歩いたことを語っている。


銅器、稲作、鉄器、機織り、新しい「技」が次々ともたらされた。


「稲作伝来」と一言で片付けるのは簡単だが、稲作には土地選び、灌漑、耕作、農具、施肥、貯蔵、暦術、祭祀など多くの事柄が含まれており、それら全部を大陸から丸ごと輸入することを「伝来」とは言わないのである。長い試行錯誤を以って日本の地に根付かせた先祖たちがあったからこそ日本史を通じてのコメ文化がある。
戦乱のない江戸時代、農民の生活は飢饉などにに見舞われながらも押しなべて安定しており農業に集中できた。元禄時代に著された「農業全書」が木版で何度も刊行され広く農民たちに読まれた事を見ると農村の識字率も低くはなかったことが伺われる。こうして知識が深まってゆくとともに農具の発達や開墾がおこなわれ生産量が上がっていった。


コメ作りとともに定住生活に入った日本人は機織りや養蚕も習得した。七世紀以降の律令時代、絹織物は税として朝廷に納められた。が、奈良時代から戦国時代までは農村に養蚕をするまでの余裕がなく、織物工業は発達したものの原料の生糸は中国からの輸入に頼りきっていた。これは日本で産出した貴金属の流出の原因にもなった。江戸時代に入ると寒冷地を除けばコメのほかは年貢をかけられず野菜や織物は農家の収入源となった。綿の栽培が各地で本格的に始められ綿織物が盛んに織られる傍ら、幕府は養蚕を軌道に乗せ天領の専売品として保護、その後専売を解いて各地に奨励し、生糸の自給から絹織物生産までを確立、こうして地域ごとにそれぞれ違う豊かな織物の文化が生まれた。


鉄器とともに製鉄法が伝わり、程無く鉄の鉱山も国内に見出された。伝来時の原始的な製鉄法によって農具や武具が作られるようになり、その後材料を吟味しさまざまな工夫が我が国において加えられ、そして末に出来上がったのは悪霊をも切り伏せるであろう「日本刀」である。刀工たちは硬度が低いが粘り気が強い鋼と、硬く切れ味が良いが脆い鋼の二種類を抱き合わせる法を編み出した。前者が刀身の峰側、後者が刃側となる。炎にくべては槌でうち鍛え何度も折り返し、姿が整うと焼(やき)を入れて研(とぎ)をかける。焼き入れの際、金属分子の構造変化による膨張がおこるが、刀の反(そり)は二種の鋼の膨張率の違いにもたらされる。


平安時代、都は讒言、呪詛、流刑、幽閉がまかり通り世の中が酷く荒んだ。度重なる天災と東国の反乱は政争に敗れた者の悪霊の為せる業と懼れ、貴族であろうと僧であろうと雅な暮らしとは裏腹に心は病み、その悪霊から逃れんと寺院建立、加持祈祷に勤しんだ。仏の加護を頼りに国を治める鎮護国家の思想がおこる。これは仏教美術と寺院建築の興隆の契機となり、折りしもこのころ遣唐使廃止を受けて唐に対し鎖国状態にあった我が国は美術・工芸・建築においても独自の様式を模索する道を歩み始めた。
しかし、この文化の土台は寺社や貴族に寄進される地方の土地財産であったため農作物を守護や地頭に吸い上げられたうえ重い労役が課された農民の疲弊は甚だしく、土地を棄て餓えて彷徨うことを選ぶものが絶えなかった。


地から産まれた鋼を身を清めた刀工たちが炎に投じ鍛えた刀には霊力が宿り、それを使い得たのは武士と呼ばれるつわものたちであった。身を鍛え武芸を磨き命を賭して戦うことを本道とする武士が振る刀には魔を破る力があるとされた。御仏は、衆生を生き地獄にさらした貴族たちに光明を与えなかった。悪霊どもは平安の世もろとも斬って棄てられ時代は武士の手にと移っていった。


戦乱から遠ざかった江戸時代、強固な行政と安定した食料の供給に支えられ、それまでに蓄えられた「技」が一気に花開いた。江戸・大阪・京の三都をはじめ各地の地方都市にはあらゆる「職」がひしめきそれを担ったのが士農工商でいう「工」に属する日本人たちであった。


「工」を代表するのが先ず「普請業」。大工、建具屋、左官などをさす。
そして何かを作って売るのが「製造業」、刀屋、桶屋、鍛冶屋、畳屋、指物屋、豆腐屋、下駄屋、漬物屋、筆屋、ものの種類だけ職種があったと言ってよい。
さらに道具の手入れをする「修繕業」、大工が使う鋸の手入れをするだけの目立て屋、刃物を研ぐだけ研ぎ屋、ゆるんだ桶の箍(たが)を交換するだけの箍屋、割れた鍋や釜の修理だけをする鋳掛屋など多くの超専門職が独立して成立していた。成立とは、それなりに需要があって食べていかれるだけの対価が得られ、次世代を同業者として育てるに値したという意味である。


彼らが手にする賃金は微々たるものであった、が、おのれの「技」を極めるという人生の目的に比べれば大きな問題ではなかった。その結果として人に喜ばれ、信頼を得ることを「冥利」とは言ったが本道には非ず、それを得るために世に媚びることはしなかった。


農民や職人たちが作り出したものを流通させて富を築いたのが商人、そして豪商たちの溢れる富はまた世界の違う「技」を育てた。書画工芸、歌舞音曲、そして遊郭である。
我が国の陶器、漆器、染物、織物などの工芸品は遠い昔からすでに調度品の枠を超え書画同様に見る者の魂を奪うまでに昇華していた。その主導者が貴族や僧から武士へと代わり、この時代はとうとう商人のものとなったのだ。商人は競って金を出し職工を育てた。
室町までに大成した「能楽」の鑑賞は庶民にはご法度であった。江戸当初に出雲の阿国がはじめた「かぶきおどり」が大当たりし大衆芸能の走りとなった。安泰な世の中が訪れると娯楽も盛んになるもので、商人たちは芸能の世界においても競い合った。芝居小屋の金元(かねもと)となり戯作者に脚本を書かせ、贔屓の役者の支度一切を引き受けて祝儀までふるまった。作者も役者も資金に心を悩ますことなく「技」の道に没頭することができた。こうして「歌舞伎」が確立していった。
歌舞伎と切り離せないのが「浮世絵」、紙漉きが発達し質のよい和紙の普及も手伝い、一点物の肉筆画が版画へと発展し刷り物となったことで庶民の手に届くようになった。絵師と彫師と刷師のそれぞれ領域の異なる技がその絵ごとに生きていた。

歌舞伎や役者絵を眺めてみれば、その題材となった江戸の庶民や侍、遊女が、鎌倉武士や平安貴族が、悪党が、悪霊が、その原点である古事記や日本書紀に書かれた神々が、役者に扮してこちらを睨んで見得を切る。



「技」が時を越えて運んだものは、こういうものではなかろうか。



日本人たちは何かと対峙したときにそれを見つめ、読み、呼吸を合わせて対話する。相手が一握の種籾であろうと、謡曲であろうと、刀剣であろうと変わらない。先人に習い、それに達したとき「技」として身に纏う。その手をそこで止めることなく磨き続ける。これは日本人が日本人たる所以である。


この「技」と、我々が「技術」と呼んでいるものは、似てるようだがたいそう違う。
技術は引力や熱、つまり自然の成り行きと戦う術であり、鉄のかたまりを飛ばしたり水平方向に加速させたり物の温度を異常に変えたりすることを指す。膨大な生産力を持ち膨大な利益をもたらすが、膨大な資源が必要であり、膨大な資金も費やす。それは膨大な消費者の欲求を煽ることでいくらでも補うことができる。が、後に残った膨大な「穢れ」を土に還す術は無く、今、膨大なツケを子孫に残そうとしている。それが技術である。それに政治の思惑がかぶさり、膨大な情報が操作され戦争が起こされ膨大な殺戮、破壊、征服がなされ、勝者は膨大な利益を得る。その道具も技術である。


かつて「技」の後をついて来るのが「金」であった。しかし今。「技術」は「利益」を生み出すちゃちな道具に成り下がった。よく「技術の恩恵」などという都合のいい言葉を耳にするが、一体どこまでを恩恵と考えるべきか今ここで吟味するべきだ。便利な生活にはそれこそ膨大な対価を支払い続け、知らぬ間に他国の人々の生活をも脅かし、たりないところは次世代に補わせようとしている。江戸の人々は我々にこんな禍根を少しでも微塵たりとも残したであろうか。



わざ(技、事、態、業)は自然のことわりを越えるものではない。越えれば即ち、わざわい(災、禍、厄)に転じる。その線引きができないのであれば技など身に着けるものではない。


脱原発と江戸明け暮れ考―「金の巻」

あれほどあぶねえ原発なぞに
惚れてかけおち無理心中
とかくこの世は間違いだらけ
馬鹿の考え殺すに似たり

原発の否定は現代生活の否定、そんなに嫌なら勝手に江戸時代にでも行きやがれ、という一部の世論に過剰に反応した筆者はこれまで江戸時代の明け暮れと現代生活を比べようとの試行錯誤からこの連作を書いている。しかし「衣」 「食」 「住」のみでは現代生活のつまらなさも江戸の面白みも云い尽くせまい。よって時おりこうして付け加えてみたい。



「宵越しの金はもたねぇ」これが江戸経済の基本である。

その日に稼いだ日銭が夜にはすっからかん。つまりちっとも金が貯まらないのである。月〆で働く奉公人とて同じことで家賃やツケを払うとその日のうちに給金は消えてなくなる。

とはいえ、いくらなんでも実際は飲んで打って買っておしまいのその日暮しという訳にはいかない。衣食住はもとより商売道具の購入や手入れにも金がかかる。江戸の人口の半分を占めたであろう出稼ぎの者は国許への仕送り、帰省の路銀も必要だった。つまり暮らしを成り立たせるための出費はもちろんあった。

当時の貨幣は我々が使用する「紙幣」ではなく、金・銀・銅という貴金属を材料にした「おかね」である。カネという日本語はもともと金属を意味する。

その昔、日本は金・銀・銅が多く産出された。佐渡金山、石見銀山などの名は興味のない方々でもご存知であろう。カネのなる木とまでは言えなくとも国家の財源が穴を掘ると出てくる、こんなに有難いはなしがあるだろうか。
生産された貴金属はそれぞれ金座、銀座に運ばれ奉行の監督の下で貨幣として鋳造された。

金との間柄は士、農、工、商、それぞれちがったが、商を除けば基本的にあまり金とは縁がなかった。

唯一カネの臭いのする「商」人はどうであったか。
自らが生産して販売するよりも生産品を取引して儲けを出すことに重きをおいた職業、いわゆる「流通業」である。小間物の行商から廻船問屋まで数えればきりがないが、今日の儲けが明日の元手になるというのが基本、商いが大きくなればなるほど儲けも元手も大きくなる。

「蜜柑舟」、ある江戸商人の一代記である。

時は霜月、所は御江戸、火を扱う職人たちが鍛冶の神様をお祭りする鞴祀り(ふいごまつり)が迫る中、お供物に欠かせない蜜柑がどこにもないときた。海がしけて遠州灘が荒れ狂い、上方から船が出せないという。
火を扱う職人たちはことのほか火事を恐れていた。火事を起こせば死罪を免れなかった。向う一年の破魔除災と商売繁盛を願うこの祀り、鞴を清め、注連縄をはり、酒と蜜柑をお供えしてはそれを来客や近所衆にふるまうもの、屋根から撒かれる蜜柑を子供たちは競って拾った。蜜柑は風邪を退治する薬でもあったので鞴祀りの蜜柑ともなれば霊験はさぞあらたかであったことだろう。
天下一の工業都市であった江戸なればこそ鍛冶屋、鋳物師、刀鍛冶はもとより鋳掛屋も金物屋の数はべらぼうで、蜜柑がないのにはみな大弱り。

「てえへんだ、ことしゃ商売上がったりにちげえねい」
「てやんでえ、てめえの商売なんざ儲かったってたかが知れてらあ」
「それより火事がしんぺえよ」

文左衛門は紀州の生まれ、その年紀州は蜜柑の大豊作に見舞われ、上方では安値が底を割り買い手がつかず哀れ蜜柑は荷の中で腐るのを待つことになったという。
すわ何を思ったか舅に大金を無心しておんぼろ舟を買い叩き、なんとか漕ぎだせる程に修理した。大安売りの蜜柑をつんだその名も「幽霊丸」、意気揚々と江戸を目指して帆を揚げた。

只さへ難所と 聞こゑたる 遠州灘を 乗切って
 品川沖に 現れしは 名にし紀の国 蜜柑船 幽霊丸とぞ 知られける
沖のナァ 暗いのに 白帆が 白帆が見ゆる あれは 紀の國蜜柑船ぢゃえ

これぞ紀伊国屋文左衛門、紀文大尽と長唄にまで唄われた男である。大しけの海を命をかけて蜜柑を積んでやって来た。江戸っ子たちが狂喜して迎える姿が目に浮かぶ。神田の青物市場に卸した蜜柑八萬五千籠は飛ぶようにうれた。握った金は五千両、それを元手にいざ吉原へと参りける。

江戸の大商人が儲けた金は蔵で眠りはしなかった。次の商売に使い、屋敷を造り、職人や絵師や役者を育て、遊郭で豪遊した。身代が傾くほどの金を遊女の身請けにつぎ込んだりした。
紀文は吉原で黄金を蜜柑の如くばら撒いた。それを拾うは苦界の炎に焼かれる遊女たち、これにゃあ鍛冶の神様もたいそうお喜びなすった。


紀文大尽


「くーっ あやかりてえ!男の中の男ってもんだ」
「お前さんも紀文の爪の垢でも煎じて飲んだらどうだい!」

さて、その頃の大阪、大和川と淀川が大阪城の北でぶつかるために堆積した土砂が水の道を妨げ度々水害に悩まされていた。ある年はそれが災いして疫病にも苦しめられたという。そこで紀文が蜜柑で儲けた金をつぎ込んだのは何か。

「疫病には塩鮭でござい」

江戸中の塩鮭を買い占めて上方へ戻った。大阪の人々は我先にと塩鮭を買いまたしても大儲け。今流なものの見方をすれば詐欺まがいのこの商売、現代医学の減塩神話という屁理屈を信じるならば別であるが塩には菌を殺し免疫を高める力がある。塩が穢れを祓うことは当時の人々には常識であった。なによりも病に憑かれて意気消沈した大阪が、命知らずで気前がよくて、江戸中の人気を博した紀文が引っ下げてきた塩鮭を喜ばない筈がなかった。


お上とて、金を吐き出させる技に長けていた。諸藩に課した参勤後代の義務は二年毎に藩主が国表と江戸を行き来し莫大な費用を落とした。幕府に対し謀反を企てるだけの財力を蓄えさせないためである。さらに街道や水路の整備の必要があると諸藩は「自発的に」普請を行わなければならなかった。
また藩も幕府も城下の豪商たちにに公共工事などの負担を命じた。それを「御用」と言ったが隙のない商人たちは袖の下を使ってでも「御用商人」の地位を築きさらなる商売の拡大に努めた。


そして紀文は塩鮭の儲けを元手に材木問屋を始める。明暦の大火の折に木曽の原木を買占め富を得ると今度は幕府の要人に賄(まいない)をつつみ寺院の造営に参画、押しも押されぬ幕府御用の商人となった。 



燃えてなくなりゃ誰かが造る、造りゃ誰かがまた燃やす、金は天下の回り物。
   


諸行は無常、いくら稼いで貯めたところで炎がすべてを焼き尽くす。木と紙でできた家並みは一度火がつけば消しようがなかった。江戸時代に限らず昔の日本人の金に頓着しない気質はここから来る。どうせ灰になるならば粋に使ってしまうに越したことはなかったのだ。

火事で儲けた紀文を襲ったのもまた火事であった。深川一帯が火事に見舞われ紀伊国屋の木場も消失、財産の大半を失う。

鍛冶の神様が気まぐれをなすったか、金山、銀山、どうも覇気がない。採掘量が年ごとに減っていき、江戸の貨幣が足りなくなった。
小判や銀貨が腐るわけでなし何故に通貨が足りなくなったのだろうか、実は大量に海外に流失していた。金銀は地金として輸出されたり清国に生糸の対価として渡っていた。日本の豊富な貴金属の存在は「東方見聞録」などによって世界の知るところとなり西欧は伝道師を通じて接近を図ったが、日本側は経済問題をも見越しバテレン追放令そして鎖国令を出すに至った。しかしそれでは追いつかず、長崎から絶えず取るに足らない御禁制品が流入、金銀が流出しつづけていた。江戸幕府が窮乏していった原因の一つがこれである。それに追い討ちを掛けたのが飢饉と火事だった。
幕府は足りなくなった通貨を「水増し」するため貨幣の改鋳を繰り返した。結局これは何の解決にもならず物価高騰を招くのみであった。


将軍綱吉の治世、金銀の減産に対し銅は増産する傾向にあったのを受けて銅銭の流通量を増やす建議を固めた幕府は従来の一文銭、四文銭(寛永通宝)に加えて十文銭の鋳造に踏み切った。これに起死回生を懸けた男がこれまた紀文、十文銭・永宝通宝鋳造の御用を請け負い残りの財産すべてをこれに注ぎ込んだのであった。
しかしこの十文銭、使い勝手がすこぶる悪かった。額面では一文銭の十倍であっても純銅の目方はたったの二倍半、秤量通貨の原則から大きく外れ金貨銀貨との換算時に混乱を招いた。なんとなく大きいのも「じゃまくせえ」と揶揄された。
あまりの評判の悪さに綱吉の死を以って発行後わずか一年で通用停止となった。

紀伊国屋文左衛門その後は失意のまま没落したとも、八幡神社に大金を奉納したとも、凡庸な二代目がその身代を食いつぶしたとも、あるいははなから架空の人物だったとも云われている。

人は一代 名は末代 
作るも消すも 世の中に
天晴男と 唄はれて

実在していようとしていまいと、ここで肝心なのは紀文の一代記が江戸経済の見事な縮図であるということ、そして作った巨万の富は一代で消えても人には末代まで好かれ続けていることだ。金が世の中の本道ではないということの証かもしれない。いや、少なくともこの頃はそうであったと言っていい。


江戸幕府が改鋳した貨幣、金銀銅の比を下げて質を落としたものを「悪銭」というならば今我々が追い掛け回す紙幣などはただの紙、いくらでも刷って増やせるいわば「極悪銭」である。

開国後に明治政府がおこなった神社合祀政策により、鞴祭りの祭神は稲荷神と改変されたがもとよりこれは鉱山・鍛冶の神であるとされるカナヤマヒコ(金山比古)とカナヤマヒメ(金山比売)である。我が国に豊富なカネをもたらし、外の国からそれを睨まれると今度は隠してしまわれた。それに気付かず悪銭を流通させた幕府は痛い目を見たのではないだろうか、などと考えると興味深い。まだ貧乏だった文左衛門に船を買う金を融通した舅は神官であったという。神様も、鞴祭りのための蜜柑を命がけで運ぶ紀文を守りはしたが、後に神社ではなく寺の造営に関わった途端に厳しくなり、額面に見合わない銅銭の鋳造に手を伸ばすにいたってはとうとう愛想をつかしたか、とも思える。

朝な夕な神棚の変わりに電波映像を垂れ流す箱を拝む現代、あれほどの事故を起こした原発が誰一人罰を受けていない。その危なっかしいものをよその国に売りつけようとしているのを不思議とも思わない。「日本の医療は世界一」「地球温暖化」「原発は安心」なる「神話」を信じ込み、電気をありがたがり、浪費と消費を履き違えた不毛な経済に引きずりまわされる我々。その護符たる紙幣をみれば、福澤諭吉なる西洋かぶれがべたりと張り付いている。



「へっ それじゃあ神様にそっぽ向かれるってもんよ」


次号「技の巻」につづく


すみか

皆様の中にはトルコのカッパドキア地方を旅行された方もおいでになると思う。

              ギョレメ城砦

               
筆者はこんな地域に棲んでいる。ただ残念なことにこの洞窟の中に居るわけではなく、さらに残念なことには新市街の近代住宅に棲まっている。

三つの火山に囲まれたこの地方は噴火によって降り積もった火山灰に覆われ、噴火ごとに成分の違う灰と礫が層を成し、それが雪と風に浸食されて形作られた。

カッパドキアは紀元前から中世までのあいだ地中海地域に興亡したいくつもの帝国に支配をうけた。紀元後のローマ帝国の統治下、初期キリスト教徒たちはその迫害から逃れこの地方に隠遁した。柔らかい堆積岩を穿って部屋を作った。カッパドキアの洞穴教会や地下都市をはじめとする共同施設の跡は彼らの棲み処であった。時代は降り、東ローマ帝国の保護を受けるようになるとメテオラやアトスとともにギリシア正教の聖地として数えられるまでになった。

              チャウシン
                迫害から開放された人々は洞穴の前方に石造の部屋を増築した



11世紀にイスラム教徒であるセルチューク朝トルコがこの地を掌握、15世紀にはオスマン朝トルコが東ローマ帝国を滅ぼして大帝国を築く。帝国の中の異教徒たちはイスラムに改宗するものもあればそのまま同じ信仰を守り続けるものもあった。カッパドキアのキリスト教徒たちもその共同体を侵されることなくそこに棲みつづけた。 

               カランデレ



第一次世界大戦に大敗したオスマン朝トルコ帝国は終焉を迎え、その版図の大部分を失った。独立戦争を経てトルコ共和国を建国したものの残されたのは小アジアと呼ばれる半島、そしてその西の対岸の僅かな地域であった。

そのとき、旧領に棲んでいたトルコ人、自らをトルコ人と認識する人々は新生トルコ共和国に引き上げた。逆にそう思わない人々は遠い先祖の地へと還っていった。

人の作り出したものは人の息吹と共にある。それを使う人が、そこで生きる人が去ったその日に血の通わない塊と化す。それを「廃墟」という。中でも偉大で立派なものを特に「遺跡」というのである。廃工場とパルテノン神殿の微妙な違いはここにある。 
 
               チャウシン アーチ

                

たとえば日本の古い寺社を遺跡とも遺構とも呼ばないが、それは建立された当初の目的を今も変わらず担い、生きているからだ。そこは今も掃き清められて寺社としての作務が執り行われ、後を担う者が育ち、参拝に訪れる人が絶えない。神社仏閣に限らず民家や町家、市街、もし生きたまま残したいのであれば使い続けるほかに術はない。

遺跡は、膨大な労力をして修復に成功したとしても遺跡に過ぎず、博物館の宝物と似ている。それは過ぎ去りし日の面影を伝えてはくれるが我々をその時代に受け入れてはくれない。


キリスト教徒たちが後にした洞穴集落、その運命は遺跡となることを選ばなかった。ギリシアやマケドニアの地からトルコをめざし還ってきたイスラム教徒たちを受け入れたのだ。教会の祭壇が廃され、メッカを向く南東の壁にミフラーブ(礼拝する方向を示す窪み)がしつらえられモスクに転用された。鐘楼からは鐘がはずされ、そこから礼拝の時刻を告げるアザーンが読まれるようになった。カッパドキアはかくして砂塵に埋もれることを免れた。

                      チャウシンのモスク
                        十字架はおろされて新月が掲げられた

              

異文化の住居に下敷きにトルコ民族の生活が綴られた。
彼らは中央アジアの遊牧民を祖に持つ。遠い昔は牧草を求めて羊と共に移動しながら生きていた。自然を神とし、先祖の霊を崇めていた彼らはいつしかイスラームを受け入れ、やがて帝国を築いた。
住居の中で靴を脱ぎ、夜は床に寝具を敷いて眠り、朝は片付ける。それには床に羊毛の厚い絨毯が欠かせない。住居の下階を家畜小屋とすることがおおく、これは冬、地面からの厳しい冷気を絶ち住居部分を暖かく保つのに役立つ。春には羊の毛を刈り絨毯の材料に、あるいは寝具の中身にする。農作業のない冬、女たちは絨毯を織る。先祖代々、羊との付き合いは長い。
                   
               ウルギュップ住居
               

(トルコの民家についてはいつか長々と書いてみたい)


そんな暮らしも近年、放棄されつつあるのは言うまでもない。電気や石油製品、という便利なものの普及は人の暮らしを変えてしまった。流通がそれを後押しした。
畑に出て、家畜の世話をして、チーズをつくり、布団をこさえ、絨毯を織る必要がなくなってしまったのだ。「新市街」に移ってゆく人々。
   
                     交通渋滞


筆者の生業は建築設計である。育児に追われていた頃は休業せざるを得なかった。が、末の子が生まれて一息ついた頃に仕事に恵まれた。廃墟と化した洞穴住居の改修の設計、そして工事管理だ。原型のもつ物語をなるべく壊さずに、給排水、電気設備、断熱防水、そしてなによりも人の動く動線を整える。見た目の美しさを取り繕えたとしても理にかなっていなければ必ず淘汰されてしまうだろう。

                     工事前


昔ながらの家や町並みを再生するのは当時の暮らしを再生させることに繋がる。しかし設計家が人々にそれを強いるわけにはいかない。おのおのが望む生き方があるだろう。が、人々の要望を取り入れるにつれて味気なきものに近づいてゆくのだ。   

               工事後


鄙びた懐古主義と言われそうだが、欲望を刺激し合っては貨幣という幻影を追い続け、無尽蔵に資源を浪費する今の暮らしがそれほど素晴らしいものなのか筆者にとっては甚だ疑問である。


日本の高野山、ここで古民家を改修し住んでおられる方。

大師山 花森 11  DAISHIYAMA / HANAMORI ONZE

移り行く季節を優しい目がとらえ、そして次世代を思うブログ。心が洗われる。



カッパドキアは観光地であるからして、今のところはホテルやレストランへの転用が主流だがそれにも疑問がないわけではない。浮ついた観光業などに身を任せていたのでは、揃って足元を掬われる日が来るということを考えねばならない。
洞穴を大学の校舎として再生させる計画もあったが立ち消えになった。今日び学生が集まると街の経済が軽薄になって風紀も風景も結局は壊れ、ろくなことがない。市民も筆者も内心ホッとしている。

部分をみれば一軒の家の改修ではあるが、俯瞰すれば資源、産業、経済、教育、すべてを巻き込んだ国の将来に関わる話である。おそらくは、この世に棲む人間すべてがそれを考えるべき時期にさしかかったのであろう、そう願う。

オスマン朝時代の共同施設、「キュリイェ」を紹介したい。
キュリイェとは、モスクを中心とした信仰・行政・福祉・経済活動のための市民のための施設である。ジャーミ(モスク)、メドレセ(神学校)、ハマム(公衆浴場)、ハン(隊商宿)、イマーレット(救済食堂)、チャルシュ(市場)からなり、大きいものは病院や学生房などもその中に含んだ。音楽による精神病治療までが行われていたが、同じ頃の西欧では精神を患った者たちを「魔女」と呼んで火あぶりにしていたという。
地域の人々が日々の礼拝をし、子弟たちがクルアーンを学ぶ傍ら網の目のようなシルクロードを巡る商人たちの取引の場となった。蓄財は良しとされず、共同体の運営は富める者の喜捨によって為されていた。貧者には皆が手を差し伸べた。オスマン朝時代にはそのような施設が都市という都市につくられた。その恩恵を受けた市民たちはこのキュリイェを取り巻くように棲んでいた。

都市や街の美しさは、そこに棲む人々の築いた共同体の美しさに他ならない。今の日本の雑多な風景は…。

オスマン時代の社会構造を少しは当世流に解釈しなおす必要はある。が、この構造がこの国の共同体の立ちかえるべき処なのだと思えてならない。世界中を土足で踏み荒らした「資本主義」という不条理が淘汰されさえすれば自然と原点に戻るだろう、ただしこの地の人々の心の最大公約数、イスラームが崩れてしまってからでは、晩い。

当然ここまで話が大きくなると一人の設計家にできることなど知れている。だから今できるのは、この美しい棲家がこのまま朽ちて塵芥と化す前にもういちど息を吹き込むこと、悪くなさそうだ。そしてもし「回帰」が思いのほか早くはじまるのなら、そのためにこの骨をうずめても良いと思っている。もちろん神がそれを望むのであれば、だ。

                     asya
                       工事現場で育った娘

追記  

いつもとは色合いの違う記事を意外に思われた方もおいでになると思います。歴史や社会ばかりに気をとられていると本業の方がおろそかになることが判明しました。失業してしまってはいけませんので、仕事のことはこれまでほとんど記事にせずにいましたが時おりこうして頭を切り替えるつもりで書いてみようと思います。、今年着工する物件をつれづればなにてで最初からお届けする予定です。同じ人間が書いていると思ってお付き合い下さいませ。

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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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