禁断の果実

神はアダムを、そしてその妻としてイヴを創造した。二人を楽園にすまわせ木という木のにたわわに実るあらゆる果実を食べることを許したが、その中の「智恵の樹」と「生命の樹」の果実だけは禁じられていた。
しかし二人はその果実を蛇にそそのかされて知恵の樹の実を口にしてしまった。すると裸であったことに「気付き」、体をイチジクの葉で覆って隠した。神は怒り、豊かな楽園の実りは枯れて僅かなものとなった。この後二人は飼い、耕し、寒さに耐えながら働き生きることを余儀なくされた。神はこの二人の子孫が「生命の樹」に近寄ることのないよう、炎の剣-雷を置き守らせた。

旧約聖書によれば二人をそそのかしたのは蛇であるが、イスラームの聖典クルアーンでは異なる。
神は自らの代理人として人間を創造することを天使たちに告げた。天使たちは驚き、人間などを創ってはこの世は争いと血にまみれてしまうと嘆いたが、神は土からアーデム(アダムのアラビア語読み)を創り上げた。そして天使たちに命じアダムに万物の名前と意味を教えさせた。さらにアーデムに平伏すよう命ずるとイブリースを除くすべての天使はそれに従った。
イブリースは火、それも煙の無い炭火のような火から創造された存在であった。天使ではなかったものの神へ対する敬虔さから天使の列に加えられていた。「我々が平伏す相手とは、この泥から創られたものなのか? 火から生まれた我の平伏す相手はこれなのか?」イブリースはさらに続ける。「神よ、審判の日まで我に命を与えるならば、このアーデムとその子孫たちの僅かなるものを除いてすべてを悪の道に誘い込み操るであろう。」
神は「行け」と叫ぶ。「これ(イブリース)に従うものすべてに地獄という見返りが与えられよう。」ここでイブリースは天使から悪魔へと堕ちる。
イブリースは自ら吐いた言葉の通り楽園に暮らす二人を誘い禁断の果実を食べさせた。二人は後悔し許しを請うが、その罪は許されたものの楽園から地に追われてしまう。


学問の世界から教典を「解釈」しようとすれば―― 一神教の世界では神とは絶対なるものでありその言葉に背くものは罰を免れない。神が禁じたものを口にすることこそ禁忌であり、禁断の果実とは一つの象徴である―― とこうなる。

逆に神を畏れる者は創世記も失楽園も大洪水もすべて史実ととらえていえる。そのため、禁断の果実が何であったのか、何を象徴しそれを以って何を教えんとしたのかは大きな問題であった。
この果実が何であったかはいずれの教典にも書かれていない。リンゴやイチジクだといわれるのは西洋の画家たちが失楽園物語を描く際にこれらを用いたせいもあるが、地域の伝承や後世の研究からいろいろな果物があげられている。いずれも薬効、或いは毒性をもつ植物である。

近頃の考察では、この禁断の果実は「火」であったという指摘がある。――人間は火を使うことを知りそこから多くの「文明」が生まれた。それにより暮らしが豊かになる反面、争いが絶えず人が人の命を奪う世界をもたらした――

意味深い考察である。さらにギリシア神話をみれば人と火の出会いはプロメテウスによるものとされている。


プロメテウスは天空たるウラノスと大地たるガイアの間にうまれた子供たち、タイタン神族の子孫である。ゼウスも同じ一族から出ているが父親クロノスに殺されそうになったところを逃れて逆に戦いを挑み、これに勝ってタイタン神族を滅ぼした。プロメテウスはタイタン神族の不利を見抜いてゼウス側に付いていたことから生き永らえながらも一族の復習をその胸に潜めていた。ゼウスは人間から火を奪い(氷河期か?)自らの武器である雷を作らせるため火と鍛冶の神であるヘパイストスに預けるが、プロメテウスはヘパイストスの炉から火種を盗み出し人間に与えてしまった。

ゼウスは怒り、プロメテウスを山の頂上に繋ぎハゲタカに肝臓を食らわせた。尚も静まらぬゼウスの怒りは人間たちにも向けられ、地に禍を与えんと神々に命じて「女」を創らせた。男を苦悩させる美しい姿、ずる賢く卑屈な心をもつ「女」にパンドラと名づけ、決して開けてはならない箱とともに地上に遣わした。人類にとって「女」ほど大きな禍はないという(お互いさまである)。開けてはならないと知りつつ、箱はあけられた。出てきたものはこの世のありとあらゆる災禍、そして思わせぶりな希望。


旧約やクルアーンの預言と世界に残る神話を混同してはいけない。しかし神話や教典に綴られる比喩がともに史実と重なり合うのは認めねばならない。


イザナギとイザナミの夫婦は日本の島々、そしてたくさんの神たちの親である。まず国産みを終え、そして海や山、草などの万物(の神々)を産むが、火の神カグツチを産む段でイザナミは大火傷を負う。ここでも「火」だ。
火傷に苦しむイザナミからまたも神々が生まれ続ける。養蚕の神、水の神、埴(粘土)の神、そして鍛冶と鉱山の神カナヤマヒコ・カナヤマヒメが生まれた。
イザナミがこと切れるとイザナギは嘆き悲しみその涙からまた神が生まれ、怒りにまかせてカグツチを斬り殺すとその返り血からも神々がうまれた。

亡くした妻を忘れられずにイザナギはイザナミを求めて黄泉国(ヨモツクニ)へとまかる。しかしすでに黄泉の国の食べ物(黄泉戸喫‐ヨモツヘグイ)を口にしているから戻れぬというイザナミは、どうしても戻るようにきかない夫にしばらく待つよう、ただし決して覗かぬようにと告げた。
いくら待っても音沙汰なく、とうとうしびれを切らせたイザナギは櫛の歯を折って火を灯しあたりの様子を伺った。すると見たもの、それは蛆が湧き、体のいたるところに雷がささった(雷神たちが纏わりつく)妻の恐ろしい姿だった。


イザナギの黄泉巡りとオルフェウスの冥界下りは互いに酷似する神話として名高い。
竪琴の名手オルフェウスは亡き妻を求めて冥府に入る。冥王ハデス、そして妃のペルセフォネに妻を返してもらえるよう悲しみの程を竪琴の調にのせて懇願した。胸を打たれた妃は王を説き伏せとうとう許されるが、冥府を出るまで決して妻の姿を振り向いてはいけないと言い渡される。そして見てしまう。


「見るな」「食べるな」は引導。


ペルセフォネは収穫の女神デメテルの娘である。ハデスはペルセフォネに懸想し無理やりに冥府へとさらってきたのだ。娘を奪われたデメテルは怒り狂い地上の実りを絶やしてしまう。ハデスはゼウスに諭されやむなくペルセフォネを返すことを受け入れるが、そのとき冥府のザクロの実を与えられたペルセフォネはその幾粒かを口にしてしまうため地上に戻れなくなる。デメテルの抗議の末に、ペルセフォネは冥府で食べたザクロの実の数を月にかぞえ一年のうちその分をハデスの妻として傍に留まり、その間は地上の実りが枯れることとなった。これは季節の始まりと捉えられ暦の起源とされている。


イザナギが黄泉国から葦原中国にもどり最初に行ったのは禊であった。
水に入り、左目を清めるとその水からアマテラスが、右目を清めるとツクヨミが、そして鼻を清めるとスサノオが生まれた。
アマテラス(天照大神)とツクヨミ(月読命)はそれぞれ太陽と月をつかさどり、それは太陽暦と太陰暦をも象徴している。

スサノオは乱暴狼藉の咎めを受け高天原を追い出され出雲、つまり葦原中国にゆき、そこでやヤマタノオロチ(八岐大蛇)と渡り合いこれを退治する。出雲が豊かな砂鉄の産地であり、ヤマタノオロチがその鉄を求めてこの地に移り住み先住民を脅かした精鉄集団を象徴したものであることを以前の記事で述べたが、オロチすなわち「蛇」が出てくると繋がりが増す。退治とは必ずしも「排する」意味にはならず、この場合は「征する」ととるほうが正しい。スサノオが蛇を征することで鉄を手に入れたように日本において蛇と製鉄の関わりを探せば枚挙に厭いがない。スサノオの子、オオクニヌシの和魂(ニギミタマ)は蛇神であり雷神であり水神でもあるオオモノヌシである。


オルフェウスの妻は蛇に噛まれて冥府に下った。
イヴそしてアダムをたばかったのも蛇であった。
蛇が冬の眠りから醒めるのは春雷の頃、二十四節季でいう「啓蟄」、間もなくである。


世界で最も古い製鉄は古代ヒッタイトで行われたとされている。鉄鉱石と炭を一緒に炉の中で加熱する製法で、後の時代に日本で始まる「たたら製鉄」も同様に行われる。脆さの原因となる酸素と結合しやすい鉄は裸火、つまり炎を嫌う。炭火は炎を出さず、しかも炭素と鉄が先に結びつくことで酸素の侵入を阻むことが出来ることをヒッタイト人たちは見出していたのである。
彼らは高度な製鉄技術を外に漏らさなかった。製鉄が世界に広がるのはヒッタイト王国の滅亡を待つことになる。

彼らの製鉄路を覗けば鉄と炭が赤黒く光を放っていたであろう、あたかもザクロの実のように。

ペルセフォネが食べてしまった冥府の果実、ザクロ。トルコ語やペルシャ語でザクロをナールというが、これはアラビア語の「火」を語源としている。火と炎は違う。炎ではなく灼熱した鉄のような火、これこそ悪魔イブリースの元素である。ザクロの粒の色に地獄の業火への恐れを重ねたのか。


禁断の果実が比喩するものを「火」とする指摘は重要である。が、決してそこにとどまるものではないはずである。火は製鉄に繋がる。製鉄は農具と武器をもたらす。鉄製農具によって増えた収穫は備蓄され富を産み、国や王が生まれる。鉄製武器は動物を狩るだけではなく、人間にも向けられるようになった。農と武の二つに分かれた製鉄の道は国同士の攻防という形で再び一つになった。剣に対し盾が作られ、鎧で実を固め、馬に蹄鉄を打ち、そして、火薬がうまれる。鉄が火薬を伴い火器となる。

人類と火の出会いを学問の世界では落雷によるものと説いており学会にプロメテウスの出る幕はないのだが、雷を作るヘパイストスの鍛冶床から火種を盗ったのであればそれは落雷を意味しているのだろう。大地と天空の陰陽が引き合い雷が起こる。雨を呼ぶ。闇空を駆けるイカヅチの姿に人々は蛇をみた。


雷と書いてカミナリともイカヅチとも読む。黄泉のイザナミにまとわりついていたのはヤクサノイカヅチ(八の雷)であり、「怒る」の語幹と「チ‐霊」を接続詞「ツ」で繋いだイカヅチは「雷神」を示す。雷神を目の当たりにしたイザナミは恐れをなして逃げ、黄泉国に通じる道「黄泉平坂‐ヨモノヒラサカ」の口を大岩で塞ぎ、それまでなだらかに繋がっていたこの世とあの世に結界が結ばれた。


科学は雷の力の正体を「電気」とし、人はそれを神に頼ることなく自らの手で作る知恵を得た。プロメテウスはまたしても禁をおかしたのか。

電気を作り続けるには絶え間なく燃える火、そのための資源が要るのであった。地から資源を掘り出し足りなくなると力ずくで奪うようになる。その争いは血を流し国を焼き、より力強い武器がつくられた。天使の嘆きはさらに深く、イブリースの笑いのみが聴こえる。

火から生まれたものが人々の暮らしを大きく変えた。日の出から日の入りまで働きづめ、餓えや寒さに苦しみながら短い一生を終えていた人間が命をより長く楽しむようになったという。かつて人々が憧れた「不老不死」が形になりかけているかのようである。禁断の果実が行き着くのはここかもしれない。



長寿であった垂仁天皇はさらなる命を望み、タヂマモリ(但馬守、多遅麻毛理、田道間守)を常世(黄泉国の意であるがここでは大陸?)に遣わして不老不死の木の実を探させた。タヂマモリが十年かけて探し当てたトキジクノカグノコノミ‐非時香果を持ち帰った時には遅かりし、天皇の崩御の後であった。タヂマモリは悲しみ息絶えてしまう。この実はタチバナ‐橘、火の色を持つ蜜柑の祖である。

カグノコノミの「カグ」に「香」の文字が充てられているため「香ぐ」と錯覚しやすい。「カグ」はかぐや姫の音と同じ「カガヤク」から来る。竹取の翁はかぐや姫の残した不老不死の薬を使わず火に焼いた。そこは「天の香具山」であった。なにより、イザナミの産んだ火の神カグツチは「耀ぐ」つ「霊」であった。ふいご祀りで鍛冶の神々に蜜柑を奉納するのは荒ぶる火を畏れてのことである。


悪魔はなおも誘う。教典も、神話も、我々に警告を繰り返す。が、知恵に塞がれた我々の目と耳はそれを認めない。

そして禁断の果実をほおばる。
スポンサーサイト

放射能は人の思考を止めるのか

ただの気違いを除いて放射能が安全だなど本気で考えてる人はいないと思う。
放射能が体にどのような影響をあたえるかは例え漠然とでも皆しっている。
家族が、自らが癌を患ったり、わが子が障害を抱えて生まれてきたり、病に鞭を打って働いてもその稼ぎがすべて治療に消えたり、そしてそのすべてを背負うことになるのを一体、どこの誰が望むというのだろう。

東日本大震災以来、いや原発事故以来、日本の家族や友人としばしば意見を交換したりネット上で世論を覗いてみたりするようになった。その限りでは、どうやら日本では放射能の話しを敬遠、あるいは拒絶しているかのように見える。
「お耳障りかとは思いますが」などと前置きをして友人達にメールを送り原発や日本のこの後の事を対話しようと試みた。事故当初は「かまって」貰えたが、秋以降はさっぱりである。目にはさやかに見えぬ放射能よりも目前の不景気の方が敵として認識しやすいのだろうか。


放射線について考えてみよう
文部科学省が小学生向けに作成した放射線に関する教材である。地方によってはこれによる授業がすでに始まっている。

小学生を相手に、放射能が恐れるに足りないものであるということを解りやすく強調している。
「こういう指針で教材を作れ」というお達しが政府から文科省官僚に、官僚から下っ端どもに出されるのであろう、その「指針」がたとえどういったものであろうと関係ない。忠実に、忠実に作成されてしまう。省庁とはそういう環境なのか、そこで勤務するためには人としての判断力も良心も売り渡さねばならない。いや、そこに入省するべく幼いころから努力された方々には売り渡す判断力すら備わらなかったと言って差し支えなかろう。


放射線って、何だろう?

放射線は、太陽や蛍光灯から出ている光のようなものです。
薄い花びらを明るいところでかざして見ると、花びらが透けて光が見えます。これは、薄い花びらを光が通り抜けるからです。
光と放射線の違いは、放射線が光より「もの」を通り抜ける働きが強いことです。
放射線は、色々なところから出ています。放射線がどのようなところから出ているか調べてみよう。


                                                   (放射線について考えてみよう より抜粋)

放射線が我々の体を通り抜けると害があることは書かれていない。それに我々は「もの」ではない。放射線が何処から出ているか知りたければ教えてやろう、福島第一原発だ。


放射線は、どのように使われているの?

放射線を使って、細菌の付いていないきれいなものにすることができることから、病院で使う注射器などに利用されています。
これは、放射線に「細菌を退治する働き」があるからです。
放射線は、色々なことに利用されています。放射線がどのように利用されているか調べてみよう。
                                                                (同ページより抜粋)


われわれは発芽せぬよう放射線で去勢したジャガイモを食べさせられている。体内の細菌も、細胞、組織、臓器、人間、すべて退治できる。その力を利用した最たるものが核兵器である。


日本の政府は徹底的におかしいのだが、そこだけを批判する気になれない。なぜなら政府は国家の縮図であるからだ。(選挙によって国民が選んだのだからという意味ではない。)
電気漬けの生活を求めているのは紛れもなく大多数の国民である。家庭での使用のみではない。電気をはじめとする資源の過剰な使用の上に成り立つような社会を作り上げてしまったのも国民である。人件費を削るための機械化、生産費を下げるための大量生産、流通をうながす過剰広告、過剰包装、画一規格、そのための流行、そのための使い捨て、そのためのゴミの山、そして原発…すべては国民が望んで受け入れたものである。残念ながらこの国民にしてこの政府がある。

「原発」が日本経済の心の臓だという大前提があり、それが事実であるかどうかとは別に大多数がそれを信じる上で、日本人は原発がなくなることによって今日までに築き上げた社会が瓦解することを恐れている。戦後の焼け野原を裸足で歩いていた日本人はものを作り外に売ることをしながら富を得た。石油のない我が国が外に頼らず工業製品をつくり続けるには原発が一番都合がいいと思った。
原発がなくなれば、それを舞台に繰り広げられる今の産業、流通、経済すべてが「幕」になる。困る。生きる指針をすべてここに向けていたのだ。学歴、職業、地位、結婚相手、子供の教育、住まい、投資、老後…人生設計の根幹であるこの価値観を打ち砕かれたのではいまさら何をよすがに生きてゆけばよいのかわからなくなる。                                            


だから、穢い廃棄物が残ろうと酷い事故が起ころうと原発を「必要悪」と思い込もうとしている。
さして原発を推進したいわけではないが脱原発には背を向ける。それが日本の胸の内、違うか。


放射線を出すものって、なんだろう?

「放射線を出すもの」は、放射性物質と呼ばれ、植物や岩石など自然のものに含まれています。
放射性物質を電球に例えると、放射線は光になります。
放射性物質は、放射線を出して別のものに変わる性質をもっています。
元の放射性物質は、時間がたつにつれて減っていき、その減り方は、放射性物質の種類によって違います。
始めに1000個ある放射性物質が4か月で半分の500個になる場合、1年たつと始めにあった放射性物質は何個になるか考えてみよう。
                                                                 (同ページより抜粋)


電気店で売っている電球に家庭で電気を流すと発熱、発光する。一方、天然の放射性物質に中性子を工業的にぶつけた時に核分裂をおこしてこれも発熱、発光する。ただし放射性物質は電気店では間違っても売っていないし家庭で核分裂をおこしたら間違いなく死ぬ。次元の違いすぎる例をあげて子供を騙すのは正しくない。そして半減期が二万年の放射線物質があるという大問題をよそに四ヶ月という例を出している。この教え方はサラ金の利用規約を思い出させる。


放射線を受けると、どうなるの?

放射線の利用が広まる中、たくさんの放射線を受けてやけどを負うなどの事故が起きています。また、1945年8月には広島と長崎に原子爆弾(原爆)が落とされ、多くの方々が放射線の影響を受けています。
                                                                 (同ページより抜粋)


やけどで済むのか、原爆の影響がどういうものか知らないとは言わせない。言わせてはならない。


放射線は、どうやって測るの?

学校内の色々な場所を測定器を使って測ってみると、場所によって放射線の量が違うことが分かります。
例えば、学校の教室や体育館などで測った放射線の量に比べ、石碑の周りで測ると高くなることがあります。これは、石碑の中に放射性物質が多く含まれているからです。                                        
                                                                 (同ページより抜粋)
    
    

例えば原発が爆発を起こし空から放射線を帯びたものが降ってくれば教室や体育館の中より校庭の放射線量が高くなるだろう。わざわざ石碑を指し示して「放射線源はあくまで石碑の御影石に含まれるジルコン」と言い張るのは問題をそちらに追いやろうとしているからである。

このような文書を教材として作る側の者とはどのような人たちだろうか、それは日本の最高学府、あるいはその亜流で学んだ輩で、そこに辿り着くまでには幼い頃から「調教」を受けて育った。出題者の望む答えを「選択」出来るようになるための訓練を受けたのである。そこでは考える力など必要なく、逆に求められるのは瞬発力のようなもの、つまり出題者の意図を瞬時に汲みその答えを選択する力である。思考の方向性を一方に撫で付けられる。出題者と同じ思考に染まる。それが正解を出す近道だからである。もはやそうなれば出題者の望んだ答えが正しかろうと大嘘であろうと構わない、いや判断できない。冒頭でも述べたがそれを判断する能力が備わらないのは、こういった教育の賜物である。

この出題者とはそれほど特別な人たちかといえばそうでもなく、上で述べたような瞬発力を鍛え、それを得点という数値でより高く評価されたという違いがあるだけである。日本人みなが同じ道を通ってきた。かつて我々も、そして子供達がいま同じ訓練をされている。その中の一握りが官僚や学者に昇りつめ出題する側に立ち、そうでないものたちは自らを「負け組」などと称する。好きにすればよい。


放射線から身を守るには?

放射性物質が決められた量より多く入ったりした水や食べ物をとらないように気を付けたりするなど対策を取ることが大切です。
                                                                (同ページより抜粋)



原発を作り事故を起こしその収拾がつけられないうちに尚も原発を作ろうとする側の人たちによって決められた量など信用してはいけない。いけないが、信じたがる。
信じることで「経済大国日本」を継続できると思いたいからだ。人の思考を止めているのは放射能なのか、何なのか。


脱原発の是非を東京都民投票に問うための署名が行われ、その活動をされた方々は大変なご苦労をされたという。寒さとそれ以上に冷たい都民の態度に耐えて集めた署名は、石原慎太郎(敬称不要)によって積極的に無視されようとしている。

ブログ どくだみ荘日乗 『原発都民投票』

得点が足りず上級職につかなかった者でも思考は同じ方向へと流れるだろう。その流れに逆らう者を気味の悪い存在と捉え、攻撃せずとも無視を決め込む。



たとえば現代国語や英語の試験で自ら考えて解釈し回答すれば得点も成績も素晴らしく下がる。出題者の評価不能な回答は邪魔なだけで、早くねじ伏せておかないと自分の足場が危うくなるからである。理科や数学は一見そうはみえにくいが所詮は同じ、出題者の求める解析法を強いられている。ピラミッドの高さは三角関数などを用いなくても影と実体の長さの比を使うことで測れる。円の中心も角の三等分も紙切れを折ることで求められる。ピタゴラスやアルキメデスにいちいち証明をお願いする義理などない。

「君、数学のセンスはあるけど得点はとれないから安心しろ」
中学生だった筆者が数学の先生に頂いたお言葉。先生が何を仰りたかったかはその時すぐに理解した。先生にはおそらく教育のからくりが見えていたのだろう、現に数学も国語も成績は悪かった。このお言葉を励みに安心して生きていくうち気がつけば日本の社会の外にいた。

だからいま、偶然と当然が重なって我が子たちを日本の学校にやらずにいる。ともあれ支離滅裂な教材で放射能を楽しく明るいものだと思い込まされずに、そして大多数の日本人に望まれる思考を植えつけられずに済んだ。仮に日本にいてこの教材と対峙していたらどうしていただろうか、迷わず仮病で休ませるか、それでもダメなら学校を辞めさせるか。


おそらく出来ない。日本で安穏と暮らすためにはその判断力をかなぐり捨てなければならないからだ。



いにしへ の しほ いま の しほ

塩がそんなに悪いのか、といいたくなる。

過剰な塩分は血液に残留する。血中の塩分濃度を下げようとする機能がはたらき血液のなかに水分を呼び込む。かさが増えた血液を循環させる破目になった心臓は負担をこうむり血管は圧迫に耐えるために厚く硬くなる、すると血圧も上がる。
塩からい味を好むひとはこのような目に遭うという。



太古、狩猟生活をしていた頃は獣の肉から塩分を摂取できていた。が、農耕が始まり食物のなかに植物の割合が増えてくると塩分が足りなくなってきた。そこで人々は塩を作ることをはじめた。

「しほ(塩、潮、汐)」と字の如く、四方を海に囲まれた我が国では塩は海水から作られた。いまも日本では海水を乾燥させたものを塩として使う。
近代までは浜の一部を粘土質の土で覆った「塩浜」に海水を引き入れ天日で乾燥させていた。人力で海水を汲み入れる揚げ浜式、塩の満ち引きを利用する入り浜式があり無論後者の方が効率がよいが土地の高低や地形を選ぶため前者も廃れはしなかった。しかし、この方法は雨が多く日照時間の少ない日本では塩を完全に結晶させることは難しかった。塩浜では鹹水(かんすい・濃い塩水)をつくるに留まり、それを釜で焼き締めることでようやく塩が出来上がった。

いきなり海水から煮詰めていたのでは途方もない時間と燃料を費やしてしまう、そこで発明されたのがこの塩浜だが、そう古いものではない。では古代のひとびとはどのように鹹水を作ったのだろうか。


小倉百人一首のこの歌はご存知のかたも多いであろう。

   来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
       焼くや 藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ                藤原定家

来ぬ人を待つ心持ちを浜でじりじりと焼かれる「藻塩」に例えている。はて「もしほ」とはいかに?
この歌は万葉集にある長歌に対して詠まれた反歌である。そちらを見てみることにする。

  …淡路島  松帆の浦に  朝なぎに 玉藻刈りつつ  
      夕なぎに 藻塩焼きつつ  海人娘女(あまおとめ) …     笠金村(かさのかなむら)『万葉集』巻六 九三五

ここにも「藻塩」があり、さらに「玉藻」なる言葉がでてきた。


藻塩の会の方々はこの長歌を手掛かりに古代の製塩法をつきとめた。驚くばかりである。

代表の松浦宣秀さんが仰るには「玉藻」とは球状の気泡を持つ海藻「ホンダワラ」のことであるという。海から揚げたホンダワラを乾燥させると表面に塩が結晶する。それを甕に湛えた海水で洗い再び天日にさらし、また甕の中で洗う。これを繰り返すことで甕の底に鹹水が残る。ヒジキの仲間でもあるこのホンダワラは他の海藻より乾燥がはやく塩の結晶がまつわりつき易い形をしているのが特徴だ。


「朝なぎに 玉藻刈りつつ 」とある。
朝凪は朝の満潮(潮とはこれを指す)、この刻に海に入り玉藻を刈り取った。
日のあるうちは玉藻のしおを乾かし洗い、甕に溜めた。
「夕なぎに 藻塩焼きつつ」は、夕の満汐(汐のこと)の刻にこの日使った玉藻を焼くということを描いている。
土器の皿の上で玉藻を焼き、その灰を甕の鹹水に加え布で漉した。これを煮詰めることで塩を得た。


現代の食塩、その殆んどは原料こそ海水だがイオン交換によってもたらされる工業製品の「塩(エン)」であり、海の味のする「しお」ではない。

武田信玄の治める甲斐の国は海のない山国であった。駿河の今川方が塩の流通を止めたため瀕死に陥るが上杉謙信の贈った塩で生き返った。人は塩がなければ生きてゆけないのだ。どんなに塩からい味が好きな人でも摂取できる塩の量には限度がある。そして、よけいな塩分は体の外に出て行く仕組みになっている。塩のとりすぎで病気になるほうがおかしい。

イオン交換でつくられた食塩は塩化ナトリウムの純度がたかく、海水にふくまれるカリウムやマグネシウム、カルシウムがほとんど排除されたものである。カリウムには塩分を体外に排出させる力があり、それを棄てるという事は「体に居座る塩」を食べていることになる。


近年、自然製法の食塩も市場に出るようになった。喜ばしいことだが価格がいまひとつ喜ばしくない。畢竟、加工食品に使われるの安価なイオン式の食塩である。ましてや海の向うからやってくる食品はどんな食塩を用いているか知れたものでない。
また減塩が叫ばれる中、漬物や佃煮から味噌醤油にいたるまで塩気の強い食品はやむなく塩の量を減らすことになる。すると防腐効果が落ちてしまうため防腐剤を大量に添加する破目になる。いったい何をしようとしているのだろう。


日本の外には甲状腺の働きが壊れる怖い病気がある。バセドウ病や橋本病の仲間だが原因が違う。ヨード(ヨウ素)不足によっておこる深刻な疾患で、甲状腺が異常をきたすと甲状腺肥大、ホルモン異常、高血圧、高コレステロール、心臓病、肥満…さまざまな問題をおこし体を壊す。筆者の住むトルコもこの病気に悩む国の一つであり、我が姑も患者のひとりである。
これは海藻を食べる習慣がない国におこる病気ともいわれている。海藻のなかにヨードが多量に含まれからである。しかしこれを摂取しすぎるとまた同じ病気にかかったしまうから難しい。日本人は世界一海藻をよく食べるのになぜこの病気が少ないか、それは同時に大豆をよく食べるからである。あの小さな豆のなかにあるフコイダンという物質は、ヨウ素が甲状腺に必要以上集まることを防いでくれる。はじめからヨウ素とフコイダンの両方を背負っているモズクは有難い海藻だ。また、海藻はカリウムをも多く含んでいる。


ヨード不足を解消するため世界的に採られているのは食塩にこれを添加する方法である。日本以外の多くの国ではこれが奨励、或いは義務化されている。
また、高血圧などの疾患に配慮しナトリウムの純度をさげるためにカリウム化合物を添加したものも作られている。

WHOに属する国際食品企画委員会(日本も加入)が作成した国際規格をみれば食塩にはヨードのほかにも凝固防止剤や乳化剤が何種類もごてごてと添加されている。これを食品と呼んでいいかどうかはぜひ本人の勝手にさせてもらいたい。こういう機関は足りないヨードやカリウムを食塩に無理やり添加させることはしても海藻を食習慣に取り入れようという発想には決して行き着かない。そのために海を汚さない努力もしない。工業的に添加された栄養素の有効度は強調されていても弊害はきちんと調査されていない。都合が悪くなると「人体に影響がないほど微量」だの「喫煙の害にくらべれば問題にならない」だのと訳のわからないことを言って煙に巻く。(煙草はそのために売られているのだろうか?)
どのみち、人道の名のもとに暴力をふるう国連やWHOの言う事をいちいち鵜呑みにしていたのでは体がいくつあっても足りない。

食の土台でもある塩がこのていたらくなら他の食品の有様は察して余りある。健康や栄養に留意する気持が少しでもあるのなら、栄養価やカロリーなどの数値に誤魔化されるのはそろそろ止めにしては如何だろう。我々や子供たちの口に入るものが何処から生まれたのか、どのような道を、誰の手を経てやってくるのかを先に考えて欲しい。


浜で玉藻を焼きそれを加えて出来た塩には当然、海藻の持つ力が還元されていた。そして勿論そうとは知らずされていたのである。万物に霊の宿ることを信じていた古代の先祖たちの為せる業である。藻塩焼きは、わたつみの霊を塩のなかに呼び入れるための神事であった。


いま、その海の汚染がとどまるところを知らないことはここに記するまでもなく、胸が痛む。天日塩や海藻を摂ろうとしてもそれにどれだけ意味があるかは誰にも解らない。明らかなのは海を汚してはいけなかったことだ。


海に、山に挑みかかり、欲しいものをむしり取る生き方は許されるはずもなくその身を滅ぼす。森羅万象に与えられてこそ人は生きてゆける。それを思い出したい。

Pagination

Utility

書き手

ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

つれづれのかきこみ

さがしもの

こよひのつき

CURRENT MOON