このごろ
- 2012/04/20 06:47
- よりわけ: ひとり言
このごろ掃除機を使うのを止めた。我が家の床はタイルと板張りなのでホウキとモップでことが足りる。面倒なのは絨毯で、日本でいう三、四畳ぐらいのものならベランダではたいてもいいのだがそれ以上大きいものはさすがに無理なので室内で裏返しにして静かにはたく。じつは掃除機で吸うより潔いになる。重要なのは絨毯の端を家具が踏んでいないことである。
そのためには家具は少ないに越したことはない。置き家具が少なければ少ないほど掃除が楽になる。静電気が埃を吸い寄せるプラスチック製の収納箱や電気機器も悪玉だ。
子供たちはよく汚してくれる。こうして家の中を掃いて掃除するとホコリをじかに見ることになる。すると、近くの公園の芝、草の実、ポプラの木の皮、サッカー場の砂…子供たちが何処で何をして遊んできたのかわかるので面白い。
遊び場所が割れてしまうのは子供だけではない。
仕事でアンカラに行くよ、と二日ほど家を空けた主人。アンカラはトルコの首都で我が家からは500キロほど西へ行く。帰宅した主人のズボンにアイロンをかけようとポッケットの紙屑をだそうとすると、何やら楽しそうな店の名前が印刷された紙切れが出てくる。しかもイスタンブール(アンカラよりさらに西へと500キロ)と書いてあったりする。
イスタンブールは、ど内陸に首都機能を置いただけのアンカラとは比べ物にならないほど楽しい遊び場である。
「お前さん、イスタンブールはさぞ寒かったろうねえ」
「おう、そりゃあもう海風が吹きっ曝しで寒いのなんの…(汗)」
日本人は些細なことに腹を立てないので怖がる必要はない。ただし道理に適わないことは糾弾する。このアイロンにどうしても納得がいかない。
曲線で裁断して立体的に縫ってあるものを平面的に伸すという実に馬鹿げた作業なのである。それに一回着るとまた皺になる。そもそもなぜ世界中で「洋服」を着ることに決められているのかが問題である。日本には着物があったし、トルコにも昔からの装束がある。が、いまでは民族舞踊の舞台でしか見られなくなった。トルコ人たちも日本人と同じく馬を駆り、弓を引き、海に船を出し、土を耕して生きてきた。豊かな暮らしを築いた装束は何故か不便なものとされ忘れられた。
何よりアイロンはとんでもなく電気を食う。貴重な電気をこのようなことに浪費していいものか。
「大オスマン帝国の子孫のくせして何だってこんな英国人の民族衣装なんかに執着するのさ!ご先祖様になんて言い訳するつもりだい?」
主人は愛国者なのでこう言えば何も言い返せまいとタカをくくっていると
「じゃあシワだらけのまんまで仕事に行ってやるから覚悟しろ!」
といわれてしまった。少しも説得力はないが何となく迫力があったので仕方なくアイロン続行。
筆者のご主人様は威勢がよくて気が短い。ついでに情にもろく、困っている人がいると放っておけない。江戸の町人みたいなのである。こういう人と一緒になるには少しばかり覚悟がいる。
働き者なので世間並みには稼いでくれるが、とにかく気前がよくて宵越しのカネを持ちたがらないので家計が大変なのである。むかし好きだった賭け事はさすがに治まった。でも人助けが好きなのはどうもなおる様子がない。
市場でおじいさんががホウレン草を細々と売っていると全部買い占めてしまう。身寄りのないおばあさんがいると聞くと食料品を買い込んで届けに行き、その家がボロ家だったら強引に修繕をしたりする。
お年寄りのみならず若い衆からも「兄貴~」と言われると弱いらしくつい面倒をみてしまう。まあ綺麗な姐さんに貢いでいるわけで無し、物価の安いこの国にいる限りは何とかなるのでよしとしている。
だから何か欲しいとうっかり口を滑らせると買ってくれてしまうので危険なのである。恋人や愛人であるなら気楽だが女房となるとそうもいかず結局、必要最小限の経済生活をすることになる。
尤もここは田舎なので娯楽といえば映画館があるだけ、商店は住民よりも観光客を相手に商売をしているのであまり誘惑が無い。筆者は女房衆の集まりなどには加わらないので自分にも自宅にもカネをかけて綺麗に飾る必要が無い。じつに心地よい。
筆者は仕事に行く以外はほとんど町に出ない。仕事といっても行き先は工事現場なので作業ズボンとチョッキ、頭にはターバンという中東テロリストのような姿で家を出る。それで小さな娘の手をひいているのでちょっとした不審者である(公園で煙草を吸う高校生をこの様相で怒鳴りつけると真っ青になって逃げていく)。行きがけはまだしも帰る時は袖や裾にセメントがついていたり耳に鉛筆を挟みっぱなしだったりで、仕事帰りにその姿で主人と待ち合わせをするとやっぱり叱られる。
「この寒いってのに素足でうろつくんじゃねえ!コートはどうした!?」
寒くないのだから仕方ない。雪が降っていなければサンダル履きで通している。よほど寒い日でなければコートも着ない。
主人の唯一江戸っ子らしからぬところはこの「寒がり」である。この国の人たちは寒さに弱く暖房の効いた部屋で丸くなるのが大好きで、ちょっと風に当たるとすぐに熱を出す。縄文人の血をひいている(かもしれない)筆者にはそんな生ぬるい環境は必要ないのである。それに寒いか暑いかは本人が決めるので夫であろうと干渉するべきではない。
「こちとらトルコ人とは体の造りが違うんだからほっといておくれよ」
「知ったことか、ビンボーだと思われるじゃねえか!」
寒さに関してはまるきり話が合わない。
「人目が怖いから着せようってのかい?冗談じゃないよ!」
「るせえ、見てるだけでこっちが寒いんだよ!」
こうして服屋に無理矢理つれて行かれることもある。
「うちのカミさんにいちばん上等の服だしてきな」
そんなことを言われた店主は揉み手をしながら寄ってくる。ため息。
昔はそれこそ着道楽、派手な姿で歩くのが好きだった。そしてずいぶん散財したものだ。それを後悔したり否定したりはしないし、他の誰かの装いに対しても同様である。着るものに限らず人間は飽食や贅沢にいつかは飽きるようにできているのだろうと思う。体の造りがそれを認めないからだ。美食を求めれば体を蝕まれる。それに気付いて粗食に切り替えることができればいいが、そうでなければ遅かれ早かれ食べられない体になる。いくら美しく着こなそうとも芯である身体は老いてゆくき、それに歯止めをかけようと妙な手段に訴えたところで結果は目に見えている。華美や豪勢を競い、羨み、奢ろうと、やがては平家の落ち武者の如く風の前の塵となる。そうなる前にどこかで「相応」という言葉に出会い、和解できるようになっている。
むしろ危ないのは「便利さ」、いちどそれに慣れて弱くなると元に戻るのは難しい。日本のような国に暮らしていれば誰でも手の届く都市住宅や電化生活を贅沢だという人は少ないだろう。しかしその便利さは人をとことん弱くしてしまった。指一本であらゆる仕事を片付けられる。寒々しい家庭にはテレビという灯がともる。終夜営業の店、宅配があれば隣人に頼ることなく暮らすことができる。そして人を助けることも助けを求めることも下手になった。
その便利さの後ろに潜む、しかし必ず潜む矛盾に目を向ける勇気をなくした。
そんな弱者にならぬよう、便利さの恩恵から少し離れて立とうとしているのだ。その恩恵に縛られて自在であることを失いたくない。なるべく家電に頼らないのも、なるべく薄着をするのも、歩ける距離なら歩くのも、家財道具や服をふやさないのもそのためだ。
子供たちは外で手足も服も汚してくる。好きなだけ汚せばいい。砂も、泥も、草の汁も少なくとも今はきれいだ。しかしトルコの周りの旧共産圏の国々では劣悪な管理の元で原子力発電がおこなわれており、この国自体も米軍の核弾頭を山ほど抱えている。おとなりイランは核で揺れている。津波は来ないがテロがある。日本の原発事故は決して対岸の火事ではない。そしてどこの国にも原発が作られていく。こうして世界中が何かに羽交い絞めにされていく。それは何かと訊かれれば、人の弱さとでも言うべきか。
今、掃除に洗濯に食事の支度、子供の世話、そして仕事におわれる暮らしに満足している。そしてその暮らしに相応の装いにも満足している。それに相応しくない服を着ることで均衡を崩すのが煩わしい。平たく言えばめんどくさい。余計なアイロンがけが増えるではないか。
まあ、たまには女房にきれいな格好をさせたいという気持ちは嬉しいのでここはありがたく受け取っておいた。「よっく似合うぜ」とお世辞のひとつも言ってほしいと思うのは贅沢だろうか。
そのためには家具は少ないに越したことはない。置き家具が少なければ少ないほど掃除が楽になる。静電気が埃を吸い寄せるプラスチック製の収納箱や電気機器も悪玉だ。
子供たちはよく汚してくれる。こうして家の中を掃いて掃除するとホコリをじかに見ることになる。すると、近くの公園の芝、草の実、ポプラの木の皮、サッカー場の砂…子供たちが何処で何をして遊んできたのかわかるので面白い。
遊び場所が割れてしまうのは子供だけではない。
仕事でアンカラに行くよ、と二日ほど家を空けた主人。アンカラはトルコの首都で我が家からは500キロほど西へ行く。帰宅した主人のズボンにアイロンをかけようとポッケットの紙屑をだそうとすると、何やら楽しそうな店の名前が印刷された紙切れが出てくる。しかもイスタンブール(アンカラよりさらに西へと500キロ)と書いてあったりする。
イスタンブールは、ど内陸に首都機能を置いただけのアンカラとは比べ物にならないほど楽しい遊び場である。
「お前さん、イスタンブールはさぞ寒かったろうねえ」
「おう、そりゃあもう海風が吹きっ曝しで寒いのなんの…(汗)」
日本人は些細なことに腹を立てないので怖がる必要はない。ただし道理に適わないことは糾弾する。このアイロンにどうしても納得がいかない。
曲線で裁断して立体的に縫ってあるものを平面的に伸すという実に馬鹿げた作業なのである。それに一回着るとまた皺になる。そもそもなぜ世界中で「洋服」を着ることに決められているのかが問題である。日本には着物があったし、トルコにも昔からの装束がある。が、いまでは民族舞踊の舞台でしか見られなくなった。トルコ人たちも日本人と同じく馬を駆り、弓を引き、海に船を出し、土を耕して生きてきた。豊かな暮らしを築いた装束は何故か不便なものとされ忘れられた。
何よりアイロンはとんでもなく電気を食う。貴重な電気をこのようなことに浪費していいものか。
「大オスマン帝国の子孫のくせして何だってこんな英国人の民族衣装なんかに執着するのさ!ご先祖様になんて言い訳するつもりだい?」
主人は愛国者なのでこう言えば何も言い返せまいとタカをくくっていると
「じゃあシワだらけのまんまで仕事に行ってやるから覚悟しろ!」
といわれてしまった。少しも説得力はないが何となく迫力があったので仕方なくアイロン続行。
筆者のご主人様は威勢がよくて気が短い。ついでに情にもろく、困っている人がいると放っておけない。江戸の町人みたいなのである。こういう人と一緒になるには少しばかり覚悟がいる。
働き者なので世間並みには稼いでくれるが、とにかく気前がよくて宵越しのカネを持ちたがらないので家計が大変なのである。むかし好きだった賭け事はさすがに治まった。でも人助けが好きなのはどうもなおる様子がない。
市場でおじいさんががホウレン草を細々と売っていると全部買い占めてしまう。身寄りのないおばあさんがいると聞くと食料品を買い込んで届けに行き、その家がボロ家だったら強引に修繕をしたりする。
お年寄りのみならず若い衆からも「兄貴~」と言われると弱いらしくつい面倒をみてしまう。まあ綺麗な姐さんに貢いでいるわけで無し、物価の安いこの国にいる限りは何とかなるのでよしとしている。
だから何か欲しいとうっかり口を滑らせると買ってくれてしまうので危険なのである。恋人や愛人であるなら気楽だが女房となるとそうもいかず結局、必要最小限の経済生活をすることになる。
尤もここは田舎なので娯楽といえば映画館があるだけ、商店は住民よりも観光客を相手に商売をしているのであまり誘惑が無い。筆者は女房衆の集まりなどには加わらないので自分にも自宅にもカネをかけて綺麗に飾る必要が無い。じつに心地よい。
筆者は仕事に行く以外はほとんど町に出ない。仕事といっても行き先は工事現場なので作業ズボンとチョッキ、頭にはターバンという中東テロリストのような姿で家を出る。それで小さな娘の手をひいているのでちょっとした不審者である(公園で煙草を吸う高校生をこの様相で怒鳴りつけると真っ青になって逃げていく)。行きがけはまだしも帰る時は袖や裾にセメントがついていたり耳に鉛筆を挟みっぱなしだったりで、仕事帰りにその姿で主人と待ち合わせをするとやっぱり叱られる。
「この寒いってのに素足でうろつくんじゃねえ!コートはどうした!?」
寒くないのだから仕方ない。雪が降っていなければサンダル履きで通している。よほど寒い日でなければコートも着ない。
主人の唯一江戸っ子らしからぬところはこの「寒がり」である。この国の人たちは寒さに弱く暖房の効いた部屋で丸くなるのが大好きで、ちょっと風に当たるとすぐに熱を出す。縄文人の血をひいている(かもしれない)筆者にはそんな生ぬるい環境は必要ないのである。それに寒いか暑いかは本人が決めるので夫であろうと干渉するべきではない。
「こちとらトルコ人とは体の造りが違うんだからほっといておくれよ」
「知ったことか、ビンボーだと思われるじゃねえか!」
寒さに関してはまるきり話が合わない。
「人目が怖いから着せようってのかい?冗談じゃないよ!」
「るせえ、見てるだけでこっちが寒いんだよ!」
こうして服屋に無理矢理つれて行かれることもある。
「うちのカミさんにいちばん上等の服だしてきな」
そんなことを言われた店主は揉み手をしながら寄ってくる。ため息。
昔はそれこそ着道楽、派手な姿で歩くのが好きだった。そしてずいぶん散財したものだ。それを後悔したり否定したりはしないし、他の誰かの装いに対しても同様である。着るものに限らず人間は飽食や贅沢にいつかは飽きるようにできているのだろうと思う。体の造りがそれを認めないからだ。美食を求めれば体を蝕まれる。それに気付いて粗食に切り替えることができればいいが、そうでなければ遅かれ早かれ食べられない体になる。いくら美しく着こなそうとも芯である身体は老いてゆくき、それに歯止めをかけようと妙な手段に訴えたところで結果は目に見えている。華美や豪勢を競い、羨み、奢ろうと、やがては平家の落ち武者の如く風の前の塵となる。そうなる前にどこかで「相応」という言葉に出会い、和解できるようになっている。
むしろ危ないのは「便利さ」、いちどそれに慣れて弱くなると元に戻るのは難しい。日本のような国に暮らしていれば誰でも手の届く都市住宅や電化生活を贅沢だという人は少ないだろう。しかしその便利さは人をとことん弱くしてしまった。指一本であらゆる仕事を片付けられる。寒々しい家庭にはテレビという灯がともる。終夜営業の店、宅配があれば隣人に頼ることなく暮らすことができる。そして人を助けることも助けを求めることも下手になった。
その便利さの後ろに潜む、しかし必ず潜む矛盾に目を向ける勇気をなくした。
そんな弱者にならぬよう、便利さの恩恵から少し離れて立とうとしているのだ。その恩恵に縛られて自在であることを失いたくない。なるべく家電に頼らないのも、なるべく薄着をするのも、歩ける距離なら歩くのも、家財道具や服をふやさないのもそのためだ。
子供たちは外で手足も服も汚してくる。好きなだけ汚せばいい。砂も、泥も、草の汁も少なくとも今はきれいだ。しかしトルコの周りの旧共産圏の国々では劣悪な管理の元で原子力発電がおこなわれており、この国自体も米軍の核弾頭を山ほど抱えている。おとなりイランは核で揺れている。津波は来ないがテロがある。日本の原発事故は決して対岸の火事ではない。そしてどこの国にも原発が作られていく。こうして世界中が何かに羽交い絞めにされていく。それは何かと訊かれれば、人の弱さとでも言うべきか。
今、掃除に洗濯に食事の支度、子供の世話、そして仕事におわれる暮らしに満足している。そしてその暮らしに相応の装いにも満足している。それに相応しくない服を着ることで均衡を崩すのが煩わしい。平たく言えばめんどくさい。余計なアイロンがけが増えるではないか。
まあ、たまには女房にきれいな格好をさせたいという気持ちは嬉しいのでここはありがたく受け取っておいた。「よっく似合うぜ」とお世辞のひとつも言ってほしいと思うのは贅沢だろうか。
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