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悪銭 身につかず

悪事や賭け事で儲けたカネなど役に立つどころかあれよという間に消えてゆく、そんなことを諭す諺や格言はそれこそ世界中にある。世の中を見渡せばたしかに悪銭は身につかず泡沫と帰すことは目に見えている。が、人々がこの諺に教訓を得ているかどうかはまた別のようである。



日本はかつて金持ちなどではなかった


兎に角よく働き、怠けることを嫌う。よいものを作ることに喜びを見出し試行錯誤を惜しまない。遠い国から見たことのないものが伝わるとわずか数年でそれ以上のものを自ら作ってしまう「目」と「手」を持っていた。勤勉にして利発、そして器用という日本人の気質は昨日今日のものではなく遠い先祖から受け継いだものである。しかしかつての日本人たちは心豊かな暮らしをしてはいたものの決して「金持ち」などではなく、少なくとも江戸時代までは西欧列強諸国からしてみれば「木と紙と藁の家に棲む」「裸同然の」「貧しき民」でしかなかった。



開国から戦後

幕末以降、海外に留学した者たちは口をそろえて日本の遅れを訴え、日本の国際社会への参入を標榜し技術や思想の輸入と移植に励んだ。それは日清・日露の戦勝をへてついに日本の手に届くものとなった。

しかし第二次大戦によって日本は焦土と化し大東亜共栄圏の盟主という肩書きは敗戦国に取って変わられた。多くの命が奪われ多くの物を失った。それでも日本人たちは日々の糧に事欠きながら皆で働き、そして働いた。日本人の作るものはたちまち世界中で重宝された。敗戦からたったの20年、オリンピックや万博を招致するに至ったことはここに記するまでもない。当時うわ言のように呟いた「西洋に追いつけ」は、その昔に「殖産興業」「富国強兵」などと言ったものの戦後版だろう。

貧しいながらも正直で働き者の夫婦が最後に大判小判を手に入れるという昔話を地で行った、それが日本の経済成長だった。



経済大国

勤勉な国民性が功を奏したか、ついこの間まで焼け野原に佇んでいた日本人はわずか半世紀で世界第二位の経済大国となるにまでに国を成長させた。筆者自身を含む多くの日本人は父母や祖父母が骨身を削って働き今日の繁栄を手にしたことを信じ、誇りに思う。そしてこれは事実でもある。


しかし。

常に世界一の経済大国を誇る某国の国民は我々のように勤勉ではない。どちらかというとその逆でおおむね怠惰、まともな機械部品ひとつ作れない。作ろうとしない。先に述べたように幕末までの日本人はまさに働き者であったが金持ちではなかったことを考え合わせると、どうやら金持ちと働き者とはさして関係のないものということになる。



日本はどうやって金持ちになったか

日本が占領されている頃の世界は「冷戦」の影に覆われていた。軍需産業の甘い蜜を忘れられない戦争屋たちが先進国の国土を焼かずに戦争するための秘策であった。1950年、日本のすぐ対岸で朝鮮戦争が勃発するとそこに国連軍として出兵したのは日本に在留していた占領軍だった。畢竟、占領下にあった日本は占領軍の受注を満たすための工業生産と輸送に勤しむことになる。朝鮮戦争に日本は無関係であったにしろそのことはあまり議論されず、むしろ外貨獲得の好機との受け入れ方が強かった。
特需の内訳は輸送(出兵や民間人の引き揚げ、物資、武器)や建設(国内の基地や滑走路などの軍用施設)、修理(飛行機、自動車)などの事業と、紡績品や鉄鋼資材・機関車等の輸出からなる。
戦後に武器の生産が禁止されたため当初は秘密裏に行われていた武器輸出も52年の法改正を期に制約がなくなり輸出高の多くを占めるようになった。銃器・戦車・船舶などを日本国内で製造し、輸出した。

雇用は増えドルやポンドが舞い込んだ。これを「特需景気」と呼ぶ。日本はこの朝鮮特需によって戦後復興のはじめの一歩を踏んだ。

日本製品がすぐさま歓迎されたわけではなかった。当時の日本人はまだ機械類を工場で大量に生産することに不慣れだったため最初は多くの不良品を出荷してしまった。そんなことをされて困るのは最前線で戦闘中の軍である。製品の水準を上げるために徹底した生産管理の枠組みを占領軍自らがつくり現場で厳しく指導した。
ここで日本は産業革命以来の欧米のお家芸である「大量生産」の運営・管理法を伝授されたことになる。明治維新による西欧化の不完全であった部分をこうして徐々に補填してゆく、その一例である。この秘術にわが国流の創意工夫を加え出来上がったものは今日の日本の工業の土台になった。

その後は我々が父母から聞いて知るところの高度経済成長期へと流れてゆく。



戦争ほど儲かる仕事はござんせん

「特需」という言葉を最初に使ったのは日本経済新聞だった。経済に重きを置く新聞ならではの論調でこの特需景気に期待をかけ歓迎している。他の大手新聞社もこれに追随し、世論は特需を、いや朝鮮での戦争を歓迎した。
戦後の日本をこの目で見た年代ではないが、その酷いありさまは家族たちから聞いて育った。ここにそれを記すのは憚られるため割愛するとして、とにかく一日も早く立ち直りたかったことであろうことは明らかである。しかし戦争の悲惨さを身に浸みて知っているはずの日本人が見出した活路はまた戦争だった。皮肉である。

日本の軍需工場で作られた銃が、戦車が、よその国で暴れまわり町と人を焼く。そのころ戦争の真の当事者たちの国ではそよ風がふいている。この構図に誰かが少しでも疑問を抱いたかどうかはもはや知る由もない。あったとしても新聞の作り出す世論はそれをたやすく掻き消したであろう。どの道、特需や戦争に後ろ指をさすことなどはGHQの検閲が見逃すわけがなかった。
朝鮮戦争のみならず、戦争になどひとかけらの道義も存在しない。国が別たれ人が引き裂かれるが、そんなことは戦争の儲けに比べれば些細なことと見向きもされない。



復興と戦争

この朝鮮特需によって日本は急速に復興の道を切り開いた。
朝鮮戦争は日本にとって偶然でしかないとし仮に起こらなかった場合の復興の遅れを数値によって検証した論文などが存在し、特需なしでの復興はあり得たのかという研究は広くなされている。しかし筆写がこの手の研究に興味を持てないのは、戦争をはじめから天災のような「偶然」に位置づけているという誤りの上で議論されているからだ。

戦争は仕方なく起こるものではなく誰かが意図的に起こすもの、この時期にこの地域で煙が立つことを望む輩がいたのだからそうなったに過ぎない。この日本列島が戦場となり朝鮮半島のような運命をたどっていたかもしれないことはよく知られている。「日本ではなく朝鮮で戦争が始まり」、「日本はその戦争特需によって復興し」、「高度経済成長を成し遂げ」、「占領国にいつまでも貢ぎ続ける」。そんな安手の脚本がハリウッドあたりで書かれていたのだろう。

占領国は非占領国の復興に責任がある。少なくとも20世紀以降は道義上そうである。
しかし「極東の大悪党」たる日本を立ち直らせるため国費を費やすことに占領国の国民が納得するわけもなく、復興させようにもその費用をどこからか捻り出す必要があった。そこでよくある話、占領国は朝鮮戦争の物資・武器弾薬を日本で調達する名目で日本に出資する。雇用の賃金と製品の対価によって潤った日本が自力で復興したということであれば批判は避けられる。

ただし当時の日本政府は敗戦国として膨大な占領経費を支払っていた。これは今の「思いやり予算」に近いもので、占領軍の生活費をふくむ諸経費を負担していた。この額は特需の総売り上げに匹敵、もちろん日本側に監査の権限はなかったので占領軍側の発表であるが、これは朝鮮戦争が日本の負担で行われたことを意味するという見方もできる。


「ものつくり」

日本は工芸の国でもある。狩猟と採取に明け暮れる太古から道具を作ることに長けていた。よりよい材料を得るために列島中を移動した。名もない職人の作る道具でも使い勝手と美しさを兼ね備えていた。我々はそんな先祖をもっている。日本人が物を作るときは必ずその「ものつくり」の血が騒ぐ。誰かの役に立つように、誰かに喜ばれるように、そう願いながら手を動かす。
そして戦後、明らかに今までと違う方法で物を作らされるようになった。それでも使う者の身になり役に立つよう喜ばれるよう精魂をこめた。
軍需工場で働いた者のなかには戦争で父や夫を失った女たちもあった。人を傷つける道具をその手で組み立てた彼女たちの心中や、いかに。


悪銭身につかず

戦争は悪事である。その悪事に加担して稼いだカネは悪銭である。そう考えるのならば特需でつかんだ好景気とそれを資本に発展した日本経済すべてを悪銭と罵り拒絶しなければならない。しかしその繁栄のなかで安穏に育った世代の人間にそうする資格はなく、さりとて「悪銭だろうがカネに変わりはない」と居直るのではもはやそれまでである。

悪銭で潤うことに呵責がないのであれば初めから騙して脅して奪えばよい。ならば働く必要などは何処にもない。国民に働く気力もなく、薬物中毒と肥満に悩む国が世界一の経済大国でいられるのは大して不思議な話ではないのだ。彼らとてそんな国を築きたかったのではなかった筈、ではなぜそうなったのか。悪銭が、そうさせたのか。

復興とともに家や学校が建てられ、昼夜を問わず皆が働き、病院も役所もできた。憲法が整い占領軍も引き上げた。大量生産技術を習得したため経済は加速し続ける。日本製品は嫌われながらもよく売れた。外交と防衛は「外注」してあるので商売に没頭できた。さらなる需要に追いつくために資源をつぎ込みまた加速、世界中の金融機関に義理を果たし、いつの間にやら原発だらけ、そして気がつけば家庭は冷え、教育の場からは悲鳴が、医療も行政も疑問だらけ、司法は乱れて地に落ちた。我々が築きたかった国はこれなのか、やはりあれは悪銭だったのか。


当時の日本人たちが占領国の書き下ろした脚本どおりに動くほか術がなかったのは仕方がない。忌むべきは当時の、そして今も変わることのない構造そのものである。我々に求められるのはのは、あたらしい生き方だ。

悪銭は身につかぬばかりでなくその身を穢す。悪銭と知っていようが知るまいが人と世を蝕む。増え続けたかと思えば人に穢れを残し忽然と消えうせる。そして人がそれに目を背けている以上、悪銭は回り続ける。

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歌舞伎見物のお誘い―土蜘蛛

最近ではほとんど上演されなくなったというこの「土蜘蛛」、その理由は物語性に欠けるからだと何かで呼んだことがある。素人の意見であれば罪はないが、もしこれが専門家の論評だったとしたらちょいと待った。先生、あんたも土蜘蛛の恨みを買いますぜ。

「土蜘蛛」
                                「土蜘蛛」



時は末法の頃、千筋の糸を放つ妖怪「土蜘蛛」が一族の恨みを晴らさんと源頼光(みなもとのらいこう)を苦しめた。その妖怪退治譚がこの「土蜘蛛」である。見せ場はなんといっても白い蜘蛛の糸を模したなまり玉が美しい軌跡を描いて舞い狂う立会いの場面である。

この物語が歌舞伎として舞台に登場したのは実は明治になってからで、歌舞伎においては古典の中に数えられない。しかし題材とされたのは古典も古典、能の「土蜘蛛」あるいは「土蜘」である。能に取材して作られた歌舞伎芝居の背景は能舞台を模して羽目板に松を描いたものとするという決め事がある。このような芝居を「松羽目物」といい、勧進帳や船弁慶などもそうである。

江戸時代はもとよりそれ以前から能は舞うのも観るのも貴族や武士の特権であり庶民には禁じられていた。彼らに許されていた芸能に「神楽」があるが、「土蜘蛛」はこの神楽にも取り上げられている。さて土蜘蛛とはいかなるものか。

       
                  土蜘蛛の精


「土蜘蛛」が日本の文献にはじめて登場したのは古くも「日本書紀」と「古事記」(それ以前の文献が残っていないので仕方がないのだが)、つづいて諸国「風土記」に記載が見られる。いずれも朝廷の意にそわぬ集団すなわち「まつろわぬ者」たちである。

後の神武天皇カムヤマトイワレヒコがまだ天皇として即位する前、帰属を拒む土着の豪族たちを征伐しつつ覇権を東へと広げていった。これを古代史では神武東征と呼んでいる。土蜘蛛は記紀の東征譚のなかに書かれている。
まず古事記では「尾生土雲八十建―尾の生えた土蜘蛛ヤソタケル」とあり、八十建‐ヤソタケルとは単独の人名ではなく、八十建つまり「猛き者の群集」の意である。尾があるといういかにも未開な集団と表現されたこのヤソタケルをイワレヒコはだまし討ちにした。ヤソタケルに近づき宴を催して豪勢な料理をふるまうが、ある歌を合図に料理人たちがヤソタケルを討ち、倒したという。
そして日本書紀ではイワレヒコの大和地方征圧において新城戸畔(ニヒキトベ)・居勢祝(コセノハフリ)・猪祝(ヰノハフリ)の三者をさして「三ヶ所の土蜘蛛」との記述がある。ハフリとは司祭者または巫女を意味し、呪術性のある首長の存在を物語っている。記紀の後に書かれた諸国の風土記にも登場する土蜘蛛の多くは女性の首長が統治していたという。

それに続いて登場するのが葛城山の土蜘蛛である。

大和・和泉にかけてつらなる和泉山脈と金剛山地に「葛城山」と名のつく山が幾つかあるが、この地には朝廷が興る前から自治をする集団が、あるいは王朝があった。その民は胴が小さくて手足が長く、蜘蛛のようにな姿で歩き、洞穴の中で暮らしていた。彼らがやすやすと神武東征に屈するわけもなく激しく抵抗したという。
イワレヒコ(神武)は葛のつるで編んだ網をしかけてこれを誅殺し、この地が「葛城」とよばれる由来となった。因みに常陸国風土記にも登場する土蜘蛛伝説では茨のつるで編んだ網で土蜘蛛を退治しその地を「茨城」と呼ぶようになったとの記述がある。実に興味深い。

この葛城山の土蜘蛛の恨みが後の世によみがえる。黄泉から、還る。

汝知らずや、我れ昔、葛城山に年を経し、土蜘の精魂なり。
なお君が代に障りをなさんと、頼光に近づき奉れば、却って命を絶たんとや


謡曲「土蜘蛛」より

平安の時の世、権力を争う貴人たちの間では讒言と呪詛が絶えず、一方で都を繰り返し襲う災害や疫病は失脚させられ怨霊と化した者の祟りと恐れた。そのための加持祈禱や寺院建立、荘園の開墾と寄進は凶事とともに庶民たちを疲弊させた。そんな都において貴賎を問わず誰もが頼りにしていた存在、それが源頼光である。武芸を修め心身ともに磨き上げられた武人の握る刀には破魔の力が宿り、末法の世にはびこる悪霊を討ち祓うと信じられていた。

しかしその頼光までもが瘡(マラリア)に倒れた。

病床の人となった頼光を甲斐甲斐しく看る侍女の胡蝶は薬と偽り頼光に毒を盛る土蜘蛛の化身であった。そうとはっきり表現しているのは神楽のみで能と歌舞伎では仄めかすにとどめてある。そして夜更け、頼光のもとに現れた怪しげな法師が自らが蜘蛛であることを明かし千条の糸を放って頼光を責めるが、名刀「膝丸」を抜いて返す頼光に背を斬られ退散する。 

                  智籌
                           怪しげな僧・智籌 じつは土蜘蛛の精魂
  

土蜘蛛の精魂は神武天皇への恨みをその子孫が治める世を乱すことで晴らそうとした。頼光に近づいたのは都の守を揺るがすためとひとまず解釈しておく。

土蜘蛛の精は血痕をたどり追ってきた武者たちと再び渡り合い、そして仕留められる。

「土蜘蛛」のあらすじは上のとおりで能・神楽・歌舞伎ともにほぼ共通している。その出典は平家物語のなかに見られ、さらにそれは日本書紀を拠り所にしている。では、蜘蛛の巣を掻き分けながらその先に入ってみよう。

平家物語によれば手負いの土蜘蛛は北野天満宮へと退いていった。特筆すべきは、北野天満宮に祀られているのが菅原道真であることだ。
当時、菅原道真の怨霊に対する人々の怖れは大きかった。文官としての最高位にあった道真を失脚・配流に追い込んだのは政敵の藤原時平、しかし時平はその後若くして世を去り、その後も時平を外戚とする皇族たちの病死、雨乞いの祈禱をする最中の内裏が落雷をうけ火事となり多くの死者が出たほかそれを目の当たりにした帝までもが病死する。重なる凶事を人々は道真の怨霊と結びつけ、それを鎮めんと北野天満宮を造営し道真の霊を祀ったのである。

    雷神
                               
                               北野天神縁起絵巻


「祀る」とは表向きはその霊をなぐさめるためであるが本来は霊力をそこに封じ込めるためと言える。道真の霊を是非とも封じ込めておきたかったのは言うまでもなく藤原摂関家である。

藤原氏は飛鳥時代以来、政敵を陥れて官職を奪いながら地位を固めた一族であり、古代史の政変に藤原氏がかかわらなかったことはほぼないといってよい。その傍らで女子を天皇家に嫁がせて外戚となり朝廷を意のままに操った。飛鳥・奈良・平安を通して藤原氏の謀った政変の最後に位置するのが安和の変(あんなのへん‐969年)である。
醍醐天皇の皇子として生まれるが源氏の家に降下した源高明はその高貴な身分にあわせ朝儀や学問に通じており、冷泉天皇の即位とともに左大臣に上り詰めた。しかしこのとき、冷泉帝の皇太子を選ぶにあたって争いが起きた。関白を務める藤原実頼と右大臣の藤原師尹が源高明のさらなる躍進(外戚となること)を阻まんと共謀し、源高明に謀反の疑いをかけこれを失脚させた。高明は菅原道真とおなじく大宰府に左遷、藤原師尹は右大臣から左大臣に昇格した。

しかし、安和の変の裏には実際に藤原氏に反逆する動きがあったという指摘がある。それに絡むのが頼光の父、源満仲である。

朝廷の支配の行き届かない山の奥で周囲とかかわりを持たずに生きる土着の民がおり、彼らはやはり土蜘蛛と呼ばれ蔑まれていた。源満仲は安和の変に乗じて藤原氏を倒すためこの土蜘蛛一族を謀反に抱きこみ武装させたという。しかし満仲は挙兵を断念、そればかりか保身のために謀反の存在を朝廷に密告したとある。朝廷を憎悪する土蜘蛛たちは今こそと決起したが密告を受けた朝廷に殲滅されてしまう。

頼光が土蜘蛛の精に呪われたのは父・満仲の所業への報いであったと囁かれもしたという。

源高明への疑いは濡れ衣であったとの見方が強いが、「源平盛衰記」には高明は東国に下り、先の皇太子争いに敗れた為平親王を奉じて挙兵しようとしていたとある。もしこれが本当であればかつて東国の受領を歴任しこの地の土豪たちとも縁が深かったであろう源満仲の存在がさらに重要になる。そして満仲が手を結ぼうとした土蜘蛛とは、先に記した常陸の国は茨城の土蜘蛛一族の末裔ではあるまいか。


もう一点、気になって仕方のないことがある。
能「土蜘蛛」の謡いのなかでの、もはや最後が迫ったと気を落とす頼光とそれを励ます胡蝶のやり取りが何やら妙に色っぽい。


〽色を尽して夜昼の。色を尽して夜昼の。境も知らぬ有様の。時の移るをも。覚えぬほどの心かな。


謡曲の解説書を見れば「色を尽くす」は「色々と手を尽くす」という野暮な対訳しかついていない。しかしわざわざ「色」ということばを使っているからには「色事」の意が係っていると採るべきであろう。さらに続く「夜昼の境も知らぬ有様」がそれをうけ強調している。夜昼を問わず色事に耽った末に病になったといってしまうのはやや下世話だが、頼光といえば鬼の首を切るほどの豪傑、それが蜘蛛の色仕掛けで骨抜きにされそうだとあれば聴衆もさぞや気を揉むことだろう。
数ある風土記に記された土蜘蛛の集団には、おそらくは巫女の役割をはたした女性の首領の存在が多く見受けられるが、これを土蜘蛛の精が美しい女の姿で頼光に近づいたことの原点とみてよい。歌舞伎では怪僧(じつは土蜘蛛の精魂)の役をつとめるのは女形というのが普通(そのときの興行によって胡蝶が出なかったり僧が出なかったり、胡蝶と僧と土蜘蛛の三者を早代わりで演出したりと色々)である。

土蜘蛛が歌舞伎になったのは近代になってからと先に述べたが能と神楽のそれが作られたのは古い時代にまで遡り作者も判っていない。当時の人々にとって土蜘蛛とはまだ伝説と化す前の記憶に新しい存在だったであろう。そして朝廷への帰属を拒み抵抗するもいずれは消え行く運命にあったことへの哀れみをひそかに覚えていたのかもしれない。その記憶が芸を通して受け継がれたからこそ、舞台で見得を切る土蜘蛛に惜しげない喝采が集まる。
 
明治以降、世が西欧化を推し進めるにつれ歌舞伎の世界も変革をせまられた。それまでの歌舞伎の筋を「非合理」「荒唐無稽」とし、近代国家にふさわしい「起承転結」が理路整然と表現されなおかつ不明瞭な時代考証が正されることを求められ「西洋人にも解るように」しようというのである。すなわち西洋人に解らないものは価値がないと言っている。この馬鹿げた発想は西洋から流れ込んだ新しい価値観を重視するあまりそれに合致しないものを完全否定した当時の風潮、いや政策に由来する。

その昔、遣唐使のもたらした大陸文化は日本を大陸色に塗り替えてしまった。これは後に明治維新をもっていまいちど繰り返される。遣唐使廃止を建白した菅原道真は讒言により失脚、その首謀者の藤原氏の祖をだどれば日本の律令化に貢献し日本書紀の「著者」でもある藤原不比等に行き着く。日本書紀以前の史書は不比等の父(中臣)鎌足によって蘇我氏とともにすでに闇に葬られていた。
藤原氏の策謀や朝廷の弾圧により生まれた怨霊・鬼を退治するはずの武士たちは、却って貴族たちから政権を取り上げ武士たちの治める国を作った。いま、日本の古典芸能とよばれるものが大成されたのは貴族の世ではなく武士の世であった。

歌舞伎のみならず日本の芸能は決してそのひとつの話では始終せず、それぞれに遠い太古から続くこの国の足跡が刻まれこれからの行く末をも映している。それを縦糸とすれば、横糸は話と話の間の切りようのない繋がりであろう。縦と横、限りなく広がる世界のたった一部を画のように切り取って楽しむことを、日本人は好んだ。それはみる側とみせる側の双方の魂が豊かであったからに違いない。長屋の子倅たちまでもが頼光と四天王に扮して遊ぶ、日本人たちはそのむかし、そんな国に生きていた。

そして明治、藤原氏の子孫たちは公爵として政界に舞い戻り西欧文化の輸入にいそしんだ。明治維新はそれまでの時代とのあいだに亀裂をつくった。土蜘蛛の精魂は時代の裂け目から這い出し、この時代を生きた天才戯作者・河竹黙阿弥の筆をつたってふたたび世を呪った。

          土蜘蛛



我を知らずや其の昔、葛城山に年経りし、土蜘の精魂なり。
此の日の本に天照らす、伊勢の神風吹かざらば、我が眷族の蜘蛛群がり、六十余州へ巣を張りて、疾くに魔界となさんもの


歌舞伎「土蜘蛛」より

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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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