道すがら
家から歩くこと20分、水平に測れば遠くはないが80m近い丘を登ったところに今の仕事場がある。丘よりも岩山と呼ぶほうが似つかわしい。

道すがら、家々の庭の木や花を眺めるのも一興。カッパドキア地方は乾燥地でありながら果樹がおおく、アーモンド、桑、さくらんぼ、杏子、プラム、桃、梨、くるみ、林檎、葡萄、花梨が順々に花をつけ、実る。とくに葡萄は有名でカッパドキアワインは欧州のものに引けをとらない。その欧州からもワインの原料として葡萄を買い付けに来るほどである。
ところで、近所の女房衆をはじめこの辺りの女の人たちの多くは貧血による頭痛や目眩に悩んでいる。風土病なのかと考えていたが、たわわに実る果物を見ながらあることに気がついた。彼女たちはこの果物をあまり口にしない。
理由のひとつは「太る」から。医者は果物の中の果糖を白砂糖や甘味料と同一視してこれを制限するよう諭している。ただでさえ恰幅のよい彼女たちには同時に高血圧や糖尿病の気があり、糖度の高いスイカや葡萄はご法度なのである。当然、人の体を壊しているのは近代以降に使い始めた白砂糖や農薬で、医者の勧める薬の常用がそれに追い討ちをかけた。さらにはお里の怪しい農・畜産物、正体不明の人工甘味料、敵はこやつ等であって果物であるなどとは言掛かりにも程がある。葡萄を食べて血圧が上がるほうがおかしい、と、そう考える医者はおらず、ひたすら降圧剤を売りつける。
収穫の多くは大都市に出荷されるかぶどう酒の原料になる。イスラム教国の農村の女たちがぶどう酒を飲む筈もなく結局ほとんど口にはいらない。血が薄くなったのはこの土地に生まれて生きているにも関わらずその土の恵みを取り逃がしてしまったことが災いしたと、そう思えてならない。

三歳半になる娘と家を出る。以前はこの子を仕事に連れて行っていたが、今の現場は高所で足場も悪く一緒に行くのは諦めた。近所の友人に預けてしばしの別れ。
いざ、岩山へ。

道すがら、頬にあたる風が日ごとに冷えて行くのがわかる。刺すような日差しはもうない。秋が来た。
急な坂道を登り町から外れるともう人の気はなくなる。このあたりはもう誰も住んでいない。ここはその昔、村の中心地であった。足下に広がる新市街はかつては農地だった。人々は風当たりと日当たりの強すぎる平地での暮らしを嫌い、夏は涼しく冬暖かい岩の洞窟の中で暮らすことを好んだ。人々は日の出とともに羊や牛を連れてこの岩山を下り、畑で働き、日の沈む頃にまた岩山を登った。この暮らし近代はとともに消え失せた。人々は岩山を捨て平地に降りた。物言わぬはずの壁が、窓が、釜戸の煤が、かつてのその営みをひそりと語りかける。

カッパドキアは地方全体が世界有数の遺跡である。先史時代から多くの民族が住み、キリスト教徒たちが隠遁し、後にイスラームと共生し、網の目のように這う絹の道をらくだに乗った隊商が行き来した。後からきた異文化が先にあったものを駆逐することなく上にかぶさり融合してゆく。寿命の長い岩と石の建築はそれを許すことができた。その逆の道を歩んだのが日本の建築であった。日本の建材は朽ちて腐りゆく木や紙によるものだからこそ風景も、人の心もまた違うのだろう。その違いは風土と呼ばれるものになる。
世界の遺跡の町の共通の悩み、それは「今」がないことであろう(どれほどの人が悩んでいるかは不明だが)。遺跡が売り物であるということは遺跡に寄生して生きることを意味する。異国人相手の商売が増え小さな子供たちまでがぺらぺらと英語をはなす。人々は過去の歴史を誇るばかりで今を生きようとしない。かつて旅した中でそれをもっとも強く感じたのはアテネであった。行きそびれたがおそらくカイロやアンコールワットもそうではあるまいか。しかしトルコという国は逞しいといおうか、過去に縋りつくこともしなければ切り離してもいない。過去を下敷きにした今を感じることができる。

堆積岩の中をくりぬいた洞穴にかつての暮らしがあった。時とともにその住人はかわり人の息吹が絶えた今、雨と風に削られて崩れようとしている。
大岩とてやがては千々に砕けて塵となる。そのことわりを覆すことはできない。だからこそ岩とともにあったこの地の暮らしに背いて生きるより、それを少しでも長く守ることを選びたい。

筆者が携わるのはこの洞穴住居群の修復・転用の設計、そして進行中の現場の管理である。正式な設計家、いわゆる「御用建築家」なるものが存在するのだが、彼らの図面などはまるきり役に立たないので現場でほとんど変更しなければならない。そして新たに図面を描いて職人たちを指揮し工事を進める。
修復工事には膨大な資金が掛かるため、集客力があり資金の回収ができる施設への転用が必要となる。もちろん世界遺産に指定されるような遺跡であればそうも行かないが幸か不幸かここはそういった指定を受けるほどではなかった。ここに紹介する計画は主体はホテルであるが洞穴の数だけでも二千を超える大規模なもので、工事完了まで十年ぐらいかかると目算されている。
この洞穴がすべてホテルの客室になるというわけではない。それではあまりに能がない。野外劇場や大浴場などの計画もあるが実際の設計はほとんど白紙に近いというか、何をしたらよいかを考えあぐねているようである。とりあえず右端のほうから着工して順次開業し、先のことは稼ぎながら考えよう、と、そんな感じなのである。なんたる気楽さであろう、そう呆れてしまうこともできるが、入札だの利権だのと民官ともにずぶずぶの関係にはまり無駄な建設ばかりに勤しむどこかの国に比べれば、むしろ潔さすら感じる。
洞穴住居は岩の中の洞穴部分と外に向かって増築した石造部分からなる。増築といってもその年代は幅広く30年前のものもあれば数百年前のものもあり、その架構方法はほとんどがアーチである。

古いアーチを解体し傷んだ石を新しいものに取り替えて再び組み立てる。
崩れそうな洞穴の天井を下から新たに支える。鉄骨や木の梁を渡すか石のアーチを架ける。
大空間を壁で隔て、荷重を分散させることで負荷を小さくすることもある。
これは補強についてであるが、それに加えて増築もおこなう。崩落してしまった石造部分を再現する、あるいは新たに計画し周囲にそぐわせる。

さらに内部、主に洞穴部分の内部の転用のための設備も整える。給排水、給排気、電気、断熱、防水、暖房など。湿気の少ない国なので冷房はまったく必要ない。
古いものに新しい役を担ってもらうには、それなりの「仕度」がいるのである。
紙に描かれた図面など大して役に立たない。何代も親の職を継いできた職人たちの勘と技が頼りである。「知識」と「技術」などは彼らがかつて十年がかりでしていた仕事を数ヶ月でやり遂げるよう後押ししているに過ぎない。

難しいのは「動線」、つまり「道」である。街区、庭、家、部屋、それらを結ぶ人の軌跡の計画である。ここからそこに行くまでの短い時間をどういうものにできるかの尋常勝負である。激しい高低差は眺望をもたらしはするが足を疲れさせる。昇り下りが苦痛になってしまっては台無しになる。そして階段に食わせる面積は馬鹿にできない。坂道は人も下りるが水も下りる。でも水は自分から上に昇ってくれるはずもなく水を逃がす道を常に考えておかなければならない。道の所々にあるのが扉であるが、道すがらに扉を開けたその瞬間、目に「よいもの」が飛び込むようでなければいけない。とくに浴室、よほど用を足したいとき以外は便器は見たくないものである。種類の違う動線が交差するのは危険を伴う。熱い紅茶を運ぶ給仕と母親の元に走る子供が交差するような場所は十分な広さと見通しが必要になる。

補強、復元、増補、設備、動線、これらの計画が現場で毎日討論されながら同時に進められている。建築家先生の設計図はあるが先に述べたように大した役に立ってはいない。なぜならば、既存の洞穴郡を下敷きに設計をするにおいては紙の上(キャド画面)での計画などは絵空事に過ぎないからである。机上の空論―Desktop Fantasy とでもいおうか。
ホテルの経営などに興味はない。いったいこのさきどれだけのあいだ観光などと言っていられるか怪しいとさえ思っている。むしろ人々がそんなものから愛想を尽かし、日々のくらしこそを喜ぶ時代が来ることをどこかで願っている。もしそうなればこの岩たちはもういちど住み手を脱ぎ変えてゆくことだろう。それも、一興。

旅の道すがらに訪れた町でこの目にに飛び込んできた光景は、この先もこの瞼から消えることはない。岩との対話は続く。
娘を出迎え家へとゆく道すがら、今年の葡萄を味見する。


道すがら、家々の庭の木や花を眺めるのも一興。カッパドキア地方は乾燥地でありながら果樹がおおく、アーモンド、桑、さくらんぼ、杏子、プラム、桃、梨、くるみ、林檎、葡萄、花梨が順々に花をつけ、実る。とくに葡萄は有名でカッパドキアワインは欧州のものに引けをとらない。その欧州からもワインの原料として葡萄を買い付けに来るほどである。
ところで、近所の女房衆をはじめこの辺りの女の人たちの多くは貧血による頭痛や目眩に悩んでいる。風土病なのかと考えていたが、たわわに実る果物を見ながらあることに気がついた。彼女たちはこの果物をあまり口にしない。
理由のひとつは「太る」から。医者は果物の中の果糖を白砂糖や甘味料と同一視してこれを制限するよう諭している。ただでさえ恰幅のよい彼女たちには同時に高血圧や糖尿病の気があり、糖度の高いスイカや葡萄はご法度なのである。当然、人の体を壊しているのは近代以降に使い始めた白砂糖や農薬で、医者の勧める薬の常用がそれに追い討ちをかけた。さらにはお里の怪しい農・畜産物、正体不明の人工甘味料、敵はこやつ等であって果物であるなどとは言掛かりにも程がある。葡萄を食べて血圧が上がるほうがおかしい、と、そう考える医者はおらず、ひたすら降圧剤を売りつける。
収穫の多くは大都市に出荷されるかぶどう酒の原料になる。イスラム教国の農村の女たちがぶどう酒を飲む筈もなく結局ほとんど口にはいらない。血が薄くなったのはこの土地に生まれて生きているにも関わらずその土の恵みを取り逃がしてしまったことが災いしたと、そう思えてならない。

三歳半になる娘と家を出る。以前はこの子を仕事に連れて行っていたが、今の現場は高所で足場も悪く一緒に行くのは諦めた。近所の友人に預けてしばしの別れ。
いざ、岩山へ。

道すがら、頬にあたる風が日ごとに冷えて行くのがわかる。刺すような日差しはもうない。秋が来た。
急な坂道を登り町から外れるともう人の気はなくなる。このあたりはもう誰も住んでいない。ここはその昔、村の中心地であった。足下に広がる新市街はかつては農地だった。人々は風当たりと日当たりの強すぎる平地での暮らしを嫌い、夏は涼しく冬暖かい岩の洞窟の中で暮らすことを好んだ。人々は日の出とともに羊や牛を連れてこの岩山を下り、畑で働き、日の沈む頃にまた岩山を登った。この暮らし近代はとともに消え失せた。人々は岩山を捨て平地に降りた。物言わぬはずの壁が、窓が、釜戸の煤が、かつてのその営みをひそりと語りかける。

カッパドキアは地方全体が世界有数の遺跡である。先史時代から多くの民族が住み、キリスト教徒たちが隠遁し、後にイスラームと共生し、網の目のように這う絹の道をらくだに乗った隊商が行き来した。後からきた異文化が先にあったものを駆逐することなく上にかぶさり融合してゆく。寿命の長い岩と石の建築はそれを許すことができた。その逆の道を歩んだのが日本の建築であった。日本の建材は朽ちて腐りゆく木や紙によるものだからこそ風景も、人の心もまた違うのだろう。その違いは風土と呼ばれるものになる。
世界の遺跡の町の共通の悩み、それは「今」がないことであろう(どれほどの人が悩んでいるかは不明だが)。遺跡が売り物であるということは遺跡に寄生して生きることを意味する。異国人相手の商売が増え小さな子供たちまでがぺらぺらと英語をはなす。人々は過去の歴史を誇るばかりで今を生きようとしない。かつて旅した中でそれをもっとも強く感じたのはアテネであった。行きそびれたがおそらくカイロやアンコールワットもそうではあるまいか。しかしトルコという国は逞しいといおうか、過去に縋りつくこともしなければ切り離してもいない。過去を下敷きにした今を感じることができる。

堆積岩の中をくりぬいた洞穴にかつての暮らしがあった。時とともにその住人はかわり人の息吹が絶えた今、雨と風に削られて崩れようとしている。
大岩とてやがては千々に砕けて塵となる。そのことわりを覆すことはできない。だからこそ岩とともにあったこの地の暮らしに背いて生きるより、それを少しでも長く守ることを選びたい。

筆者が携わるのはこの洞穴住居群の修復・転用の設計、そして進行中の現場の管理である。正式な設計家、いわゆる「御用建築家」なるものが存在するのだが、彼らの図面などはまるきり役に立たないので現場でほとんど変更しなければならない。そして新たに図面を描いて職人たちを指揮し工事を進める。
修復工事には膨大な資金が掛かるため、集客力があり資金の回収ができる施設への転用が必要となる。もちろん世界遺産に指定されるような遺跡であればそうも行かないが幸か不幸かここはそういった指定を受けるほどではなかった。ここに紹介する計画は主体はホテルであるが洞穴の数だけでも二千を超える大規模なもので、工事完了まで十年ぐらいかかると目算されている。
この洞穴がすべてホテルの客室になるというわけではない。それではあまりに能がない。野外劇場や大浴場などの計画もあるが実際の設計はほとんど白紙に近いというか、何をしたらよいかを考えあぐねているようである。とりあえず右端のほうから着工して順次開業し、先のことは稼ぎながら考えよう、と、そんな感じなのである。なんたる気楽さであろう、そう呆れてしまうこともできるが、入札だの利権だのと民官ともにずぶずぶの関係にはまり無駄な建設ばかりに勤しむどこかの国に比べれば、むしろ潔さすら感じる。
洞穴住居は岩の中の洞穴部分と外に向かって増築した石造部分からなる。増築といってもその年代は幅広く30年前のものもあれば数百年前のものもあり、その架構方法はほとんどがアーチである。

古いアーチを解体し傷んだ石を新しいものに取り替えて再び組み立てる。
崩れそうな洞穴の天井を下から新たに支える。鉄骨や木の梁を渡すか石のアーチを架ける。
大空間を壁で隔て、荷重を分散させることで負荷を小さくすることもある。
これは補強についてであるが、それに加えて増築もおこなう。崩落してしまった石造部分を再現する、あるいは新たに計画し周囲にそぐわせる。

さらに内部、主に洞穴部分の内部の転用のための設備も整える。給排水、給排気、電気、断熱、防水、暖房など。湿気の少ない国なので冷房はまったく必要ない。
古いものに新しい役を担ってもらうには、それなりの「仕度」がいるのである。
紙に描かれた図面など大して役に立たない。何代も親の職を継いできた職人たちの勘と技が頼りである。「知識」と「技術」などは彼らがかつて十年がかりでしていた仕事を数ヶ月でやり遂げるよう後押ししているに過ぎない。

難しいのは「動線」、つまり「道」である。街区、庭、家、部屋、それらを結ぶ人の軌跡の計画である。ここからそこに行くまでの短い時間をどういうものにできるかの尋常勝負である。激しい高低差は眺望をもたらしはするが足を疲れさせる。昇り下りが苦痛になってしまっては台無しになる。そして階段に食わせる面積は馬鹿にできない。坂道は人も下りるが水も下りる。でも水は自分から上に昇ってくれるはずもなく水を逃がす道を常に考えておかなければならない。道の所々にあるのが扉であるが、道すがらに扉を開けたその瞬間、目に「よいもの」が飛び込むようでなければいけない。とくに浴室、よほど用を足したいとき以外は便器は見たくないものである。種類の違う動線が交差するのは危険を伴う。熱い紅茶を運ぶ給仕と母親の元に走る子供が交差するような場所は十分な広さと見通しが必要になる。

補強、復元、増補、設備、動線、これらの計画が現場で毎日討論されながら同時に進められている。建築家先生の設計図はあるが先に述べたように大した役に立ってはいない。なぜならば、既存の洞穴郡を下敷きに設計をするにおいては紙の上(キャド画面)での計画などは絵空事に過ぎないからである。机上の空論―Desktop Fantasy とでもいおうか。
ホテルの経営などに興味はない。いったいこのさきどれだけのあいだ観光などと言っていられるか怪しいとさえ思っている。むしろ人々がそんなものから愛想を尽かし、日々のくらしこそを喜ぶ時代が来ることをどこかで願っている。もしそうなればこの岩たちはもういちど住み手を脱ぎ変えてゆくことだろう。それも、一興。

旅の道すがらに訪れた町でこの目にに飛び込んできた光景は、この先もこの瞼から消えることはない。岩との対話は続く。
娘を出迎え家へとゆく道すがら、今年の葡萄を味見する。

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