都立工芸高校  ものつくりの学校

東京は水道橋の駅前、そこには筆者の通った高校がある。今から二十年以上むかしの話し…

あまりに近代的な外見に、見た人はまさか高校だとは思うまい。しかしここはれっきとした高校であり、工業高校である。それも伝統工芸を骨子とした工業を学ぶ学校である。

筆者が在学したころはこの新しい建物ではなかった。関東大震災の後に立てられた旧校舎は石造建築を模したコンクリート造といういかにも戦前の香りのするものだった。明治の洋風建築をアールデコ風に再解釈したかのような、ちょいと洒落た建物だった。



「高校」は半端な位置にある。中学までの義務教育と大学という一大事の間に挟まれた緩衝地帯に位置しあまりに主体性がない。「高等学校」なのだから何か高等なことを教えて然るべきなのに大学受験の準備しかしていない。だから高校の選択は将来の大学受験を見越してするものとなり、これが高校の空洞化を加速させている。

(筆者の中学時代の話なので、いまどうなのかは知らない)


「どの高校にいきたいの?」
そんなことを訊かれてもこまる。受験とは名ばかりで、所詮は成績の数字で第一から第三ぐらいの志望校を選ばされ無難なところに着陸するのである。志望などあったものではないことぐらい子供にでもわかる。せめてもの選択基準といえば制服がかわいいとか、部活が充実しているとか、繁華街に近いとか、その程度である。
はっきりいってどうでもよかった。義務教育だからあたりまえに、いわば惰性で中学に通っていたものの、いざその先のことを決めるように言われると決めようのなさにうんざりした。ましてさらにその先の大学のことなどは考えるのも馬鹿馬鹿しい。制服なんてどれも同じようにしか見えなかったし、部活にも熱中するほうではなかった。

将来の夢、漠然とした夢、それだけはあった。絵を書いたり、ものを作ったりして暮らしていきたかった。

先生方と志望校の話になるたびにあーだのうーだの言ってごまかしていたその頃、友人からこの工芸高校のことを聞かされて、飛びついた。

金属工芸科、いくつかある選科のなかでものすごく気になったのはこれだった。(当時の工芸高校には金属工芸かのほかにも機械科、室内工芸(木工)科、印刷科、デザイン科があった。いまはそれぞれ名称がカタカナに変わっている。)金属をいろいろと加工し作品を作ることを学ぶ。主体になる鍛金、彫金、鋳造の工芸技術実習と、ほかに旋盤やフライス盤などの機械工作、溶接、焼入れ、銀めっきなども習うという。しかも都立なので親孝行にもなる。さっそく両親に話し、大事な一人娘をを工業高校になどやれるかとも言われず「あっそう」と許しを得た。出願・入学の手続きも親の手を煩わせることなく全部自分でやったのを覚えている。

そして昭和も終わりに近づいたとある四月に、めでたく工芸高校での学生生活が始まった。

 

工芸高校の前身は明治四十年創立の「東京府立工芸学校」であり、職人を育てるための学校だった。当時の日本の工業は徒弟制度を頑なに守っていたが、急速に変わる国の事情は古臭い制度を捨てさせ近代化に努めることを推した。しかし明治政府がいかに殖産興業を叫ぼうと、どれだけ官営工場を作ろうと、工業界にとってみれば徒弟制度によって技を伝えることは捨てられなかった。工場生産品は短時間でたくさん出荷できるが、そのことは「よいもの」を作ることとは別だった。「よいもの」を作るためには先人から技を受け継がなければならない。徒弟制度はそのためにあった。日本の工業の先行きを憂う職人たちが政府に建白して作られたのがこの学校、親方たちは教師となり、たくさんの徒弟を生徒として抱え、場所は作業小屋から学校にと変わりはしたものの、かつて自らが教え込まれたことを一心に伝えた。創立当初は築地にあった府立工芸学校は関東大震災で全焼、四年後に水道橋(住所は本郷)に移り再開した。
そんなはなしを先生方からきかされた。



先生方はほとんどがこの高校の卒業生である。先生かつ先輩であり、師匠でもある。であるからして、われわれ生徒たちは激しく可愛がられた。教師である前に職人なのである。気難しいので生徒たちも子供ながらいろいろ気を遣ったりもした。

最初に触るのは「銅」だった。単元素の純金属である銅はやわらかくて一年生にも扱いやすい。ガスバーナーで焼きなめし、水で急冷し軟化したところを金槌で打って鍛えながら少しずつかたちを作る。これを何度も繰り返して蓋つきの小鉢をつくる。
鍛えると硬さが増すが、脆くなる。それが進むと金属疲労をおこし破断する。しかし加熱をすると膨張し、分子の配列がゆるくなるのでまた元のやわらかい性質(展延性)を取り戻す。これは純金属ならではのことで、たとえば合金のように分子構造が複雑になるほどこの性質は失われてゆく。なにやら人間くさい。

 
つぎは「鋼」。鋼とは鉄と炭素の混合物である。純鉄はやわらかすぎて役に立たないが、大昔の人たちが坩堝の中に砂鉄と木炭をいっしょに放り込んで融解すると硬い鉄が得られることを見出した。炭素は鉄を硬くするだけでなく、酸素との結びつきを鈍らせる。鋼(スチール)が錆びにくいのはこのためである。鋼棒を旋盤で切削加工し、ハンマーをつくった。鋼は焼き入れをするとさらに硬くなる。これも分子構造の変化によるものである。いったん焼入れを施した鋼をもういちど加熱(焼き戻し)し粘り気(靭性)を与える。

それから「黄銅」。真鍮ともいうこの銅と亜鉛の合金は、サクサクとして切りやすいため彫金技法の基礎を学ぶに丁度いい。糸鋸を使った透かし彫り、やすりがけ、ホウの木の炭を使う研磨、銀ろう(銀と亜鉛)を溶かしておこなう溶接、などなど。

ほかにもアルミの砂型鋳造や銀の彫金など、数々の実習をやったが、なによりも手ごたえがあったのが「青銅」の鋳造だった。ブロンズというほうがなじみ易いこの金属は銅と錫の合金であり、いろいろな意味で鋳造に適しているが、やや脆い。世界各地の遺跡から出土する金属器のほとんどはこの青銅製であるのは鉄器に比べると腐食しにくいことと、銅剣のように武器の形はしていても脆いため戦闘用ではなく祭器としてつくられ、畏れ多いので武具や農具のように溶かして再利用されなかったとの予想がある。

原型(雄型)から型(雌型)をとり、そのなかに解けた金属を流し込んで原型と同じ形をしたものを作ることを鋳造という。工程のほとんどが原型作りとそれを雄型に仕舞いこむ(込め)という準備に費やされ金属に触れるのは鋳込みの時と仕上だけと準備にくらべて少ないのが特徴である。雌型が脆ければ鋳物のバリや段差のもとになり、雄型の肉厚が不均衡であれば鋳廻りが悪くなって鋳物に穴が開く。厚すぎても鋳物がその分余計に収縮するので凸凹になる。バリはタガネで切り、穴や亀裂は鋳掛て埋める。その傷跡も自然の鋳肌に近づけるため手作業で仕上げる。雄型と雌型を作るときに誤りが少なければそれだけ仕上げが短くなるということになる。鋳造とは本体になるべく触らないのが真骨頂、という粋な工芸である。

実習だけではなく専門の授業もあった。「銅鐸の作り方」「日本刀の作り方」「奈良の大仏の作り方」、金属工芸史はそのようなことを教わる。同級生たちはみな寝ていたが筆者はよく聴いていた。そんなことを知っていて何の役に立つのか、と考えてはいけない。金属であり、何であり、物の性質や人とのかかわりの歴史をいろんな角度から見る癖をつけておくのは誰にとってもよいことだ。もちろん当時はそんなことを意識していたわけもなくただ興味に導かれてのことだったが。

「機械製図」「材料」「宝飾意匠」、みな必修の専門科目だった。いまではCGやガラス工芸も教わるようだ。国語や数学の普通の授業もあるのに、よくもまあこれだけのことをたった三年で…と今さら思ってしまう。当時、卒業後は製作会社、デザイン会社や宝飾の工房に就職するのが普通だった。大学受験を考える学生はほぼ皆無だったため、普通の授業はえらく気楽だった。科学の時間は金属の化学反応についての実験ばかりしていた。めっき理論もここで詳しく教わった。物理の先生は変わった方で、波動の講義のために愛用のバイオリンでヘタクソなツィゴイネル・ワイゼンを弾いて下さり、波はそっちのけでジプシーの悲哀について延々と話して下さった。高校から大学受験を取り去ればこんな高等な学校になる。



作家の意識の世界で完結できる芸術を純粋芸術といい、絵画や彫刻、文学などがそれに数えられる。しかし「工芸」にはそれを手にして使う者、見る者の意識も加わる。すなわち工芸は純粋芸術から一線を画す。ましてや見た目の格好良さを追いかけ、または奇をてらうことに囚われて使い勝手を損なうようでは工芸とは呼ばなくなる。材料、道具、工程、技法、使われ方が常に意識されなければならないという大前提からはみ出さぬ限り、どんなに簡素でも、どんなに遊んでもよい。それが作家の持ち味になる。そう教わった。

石器時代の石斧にはじまり、煮炊きをする土器、祭祀のための青銅器や埴輪、織物、農具、馬具、家屋、人の暮らしが工芸を生み、工芸も人の暮らしを変えてきた。書画のための筆、舞の扇や装束、茶器、琴、道具としての工芸はさらにすばらしい世界を生み出す。あの法隆寺の造営に使われた刃物は「槍鉋」とよばれる長い枝つきのかんなだけだったという。庶民のための調度品もすべて職人による手仕事の工芸品だった。江戸時代は江戸中職人だらけ、誰にでも手に入る安値の道具たちは便利で、丈夫で、修理に耐えた。


「ものつくり」として身を立てていくであろう卒業生も、先生方もおなじ悩みを抱えている。工芸の精神を突き詰めてゆくと、ちっとも儲からないのである。よいものをつくることと金儲けは次元があわない。採算を考えた瞬間に作家としての手が鈍る。これはどうしようもないことである。しかし今の異常な消費社会の中にあっては、先生方とてかわいい教え子たちに「清貧に甘んじろ」とはいえないのである。

「どうすれば便利になるか考えなさい。人が喜ぶものを作りなさい。そのためには五感を鍛えなさい。精進しなさい。わからないことは先生や先輩にお願いして聞きなさい。」
そして「世の中いろいろ複雑なので、よいものがよく売れるとは限らないんです。逆に君たちがよく儲かるからといって君たちの作品がよいかどうかも別なんです。作家になったらたまに考えなければいけない。儲けだの、何だのと、面倒なことをかんがえずに作品に没頭したければはやく人間国宝になりなさい(笑)。」その先は自分で考えろ、と先生。



三年の高校生活を終える頃、工芸高校の改築工事が始まった。校庭を掘削して新校舎の基礎工事が始まった。昭和が幕をとじ、平成となった年のこと。日本が昭和を脱ぎ捨てた年であった。

筆者は卒業後、二年の浪人を経て美大にすすみ建築を専攻した。やはりこれも純粋芸術に属さない分野である。建築は工芸の延長線上にある。そのときのことはまたいつか書こうと思うが、いまは何とか設計で食べていけるようになった。(但し筆者が日本で設計で食べられたかどうかは極めて怪しい)
今の仕事で役に立つのは大学で学んだことよりも高校時代に身に付けたことのほうがはるかに大きい。工法、手順を考える癖がついているからだ。職人さんたちとの意思の疎通の道義も先生方からいろいろと聞かされていた。ありがたいことだ。

父との電話でそのことを話したとき、いつものごとく「あっそう」という父だがその声は意外さをともなう嬉しそうなものだった。あのとき工業高校に進学することに反対しなかったことを安心してか、それとも単に喜んでくれているのか、両方か。




おしらせ

今週末、水道橋の都立工芸高校において「工芸祭」が催されます。都内・近郊にお住まいの方でお時間がございましたら是非ともお寄りください。
かわいい後輩たち、いえ明日の工芸家たちの作品が所狭しと展示されています。販売もございます。みなさまのお運びを心よりお待ちいたしております。

都立工芸高校 http://www.kogei-tky.ed.jp/ 

JR総武線水道橋駅より1分、
都営地下鉄三田線水道橋駅より0分
TEL.03-3814-8755 

「工芸祭」平成24年10月27日(土)・28日(日)
https://twitter.com/kogeisai/
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自在非自由 じざいはじゆうにあらず

前回からつづく


「観自在」、それは三蔵法師がサンスクリット語のアヴァローキテーシュヴァラを観自在菩薩(観音様のこと)と意訳したことで生まれた漢語である。三蔵法師とはご存知西遊記にも描かれる玄奘三蔵のことで、天竺への苦しい旅の末に数々の経典を長安に持ち帰り残りの生涯をその翻訳に捧げた実在の人物である。大乗仏教の真髄をたったの三百字足らずで解く「般若心経」は「観自在菩薩」と唱えることから始まる。おそらくは天平の頃にわが国に伝わった般若心経を通して「自在」の言葉は日本語と化した。

万象を「自在」に「観る」ことができるのが観自在菩薩である。それは我々が自在にものを見ていないことを指摘している。


われわれの眼を曇らせているもの、それはいわずと知れた数々の「欲」である。見るものすべてが商売の種にしか見えないのも、あるいは値踏みをしてしまうのも、逆に値札を見てその価値を認識するのも、地位と収入が人生の価値を決めてしまうのも、またそれに沿った学校教育がなされるのも全ては「欲」、いや「強欲」のたまものである。画家が魂を刻み付けた絵画も投機の材料になり、海を命の源と思わずにゴミ捨て場としか見ず、危険極まりない原発も景気回復のためなら見ないふりができる。
物事を「在るがまま」に捉えることができない、「在るがまま」の自分でいられない。この「強欲」に目を塞がれているうちは「自在」な見方も生き方もできはしない。
逆に「欲」を断ち切り「在るがまま」を受け入れることができたのならば、その魂は自在といえよう。





一枚の紙を通して無限に広がる絵画の世界、あるいは舞台という時空を越えた世界、人間の耳に判別できる範囲の音を組み合わせて奏でる曲、文字に韻を抱き合わせた詩歌、そして彫刻、歌、物語、舞踊…われわれが「自由」と信じて疑わなかったものたちである。しかしこのどれもが厳粛な制約の元で成り立つことを忘れている。
絵であれば紙やカンバスという限られた面積の内で、演奏であればその楽器の独自の音域で、演劇であれば舞台、文学であればその言語の枠の中でのみ展開できる。環境芸術といえど地球の表面積を越えることはない。そこに使い得る材料、さらに表現者の「技巧」を掛け合わせるとさらに制限がかかる。恐ろしく窮屈な世界であるが、それを受け入れその中で心を研ぎ澄まして初めて生まれるのが「作品」であるはず、それは「自由「などではなく「自在」のなせる業でなければ何であろう。

ひむがしの のにかぎろひの たつみへて かへりみすれば つきかたぶきぬ

奈良時代の歌人・柿本人麻呂が軽皇子の狩りに同行しそのときに詠んだ歌である。この歌の背景から意味までを語ろうとすると一冊の本にしても足りない。幼少の軽皇子(後の文武帝)を日の出に、崩御した父(草壁皇子)を月の入りにたとえ、東を「生」、西を「死」ととらえ、狩りという通過儀礼によって立身する皇子を歌いつつも、夜明けに月が西に沈もうとしていることは満月あるいは十六夜であることを語りはるかなる天地の見せる一瞬の姿を鮮やかに捉え、今も色あせることがない。
和歌は五七五七七のたったの三十一音で、月も、日も、大地も、四季も色も香りも自在に歌うことができる。和歌には時に恋心をのせ、時にはこの世の別れを託した。和歌にみられる五七調の韻は日本人の祖語ともいえるやまとことばの独自の韻律である。遠い先祖が日本の地で自在に生きた証を、われわれは言語として託されている。

夏草や つわものどもが 夢の跡

江戸の俳人・松尾芭蕉が奥州平泉にて詠んだ句である。
俳句は和歌よりもさらに少ない五七五の十七音しか持たない。夏草の茂る荒れ野原はかつて奥州藤原氏や義経が夢を追いかけて自在に駆け抜けた地、茂れどもたったひと夏で枯れ行く夏草と、つわものどもが散らした儚い命を重ね合わせている。そしてこの句の後ろには大唐の詩人・杜甫による「國破山河在」が控えており、古今東西を問わぬ「無常」を説いている。

このように、制限の中にあるはずの「自在」は無限の広がりを内包することもできる。


鎌倉の武士たちはまだ幕府に縛られる前の古い生き方を貫いていた。野に馬を駆り、弓を引き、剣の鍛練に明け暮れていた。すわ戦がおこれば郎党をひき連れて馳せ参じ、運は天に預け、討てば祝着、討たれれば命を落とすまでのことと無我に戦う。これが彼らにとっての「自在」であった。義理に押しつぶされて自在でいられなくなることを嫌うゆえに身に余る褒章からは身を引いたという。

しかし御家人として幕府に抱えられ所領安堵が制度化するにつれ主従のつながりは精神から物質へとその重心を移した。頼朝の死とともに求心力を失った鎌倉幕府の混乱に乗じて実権を握った北条氏には誇りを重んじ自在を求める武士たちをまとめ上げる力はなく、ただ蒙古襲来のときに見せた一瞬の輝きを後に一味散々、その幕を閉じることになる。

この時代に庶民、武士たちを問わず新しい仏教がひろまった。それまでの仏教が貴族の保護下で興隆した祈祷や修験、学問を中心とするものであったに対し、富も学問もない人々をも含む人の内面を深めるものへとの変容である。法然や親鸞は念仏を、日蓮は題目を、道元は禅を衆生に説いた。

いかなる者も仏を信じ縋ることをすれば来世で救われる、学問もなく苦しい暮らしを強いられていた庶民たちの間に「念仏」が広まった。在るがままを求めるまでもなく在るがままでしかいられなかった庶民たちは、生まれた土地や身分に縛られながらも現世で多くを望まずに来世で救われる信じることで己の心を縛らぬ術を心得ていた。

うわべの麗しさ、豊かさに惑わされず、富や名声という時流の中にあってそれに流されず、己と対峙し、己の目で物事の内側を見ることが求められる「禅」の精神世界は常に背中合わせの「死」を見据えていなければならない武士たちにたちまち浸透していった。

大陸から伝わった仏教が年月を経て太古の先祖たちの生き方と邂逅しわが国独自の形を得た。この鎌倉新仏教とよばれる信仰は実は当時の日本人にとって「新しいもの」ではなく「懐かしいもの」であったとは言えまいか。それは誰かが意図して捻じ曲げられたのではなく、あたかも木々が芽吹き花を咲かせ実を結び、それをついばむ鳥たちが種を遠くに運びまた実を結ぶが如く、自然(じねん)の求めによりおのずと道が開けたのであろう。自在が、自在を呼ぶ。


「自由」は自らの外を取り巻く境遇にに抵抗する外向きの精神活動である。
「自在」はいかなる境遇にあろうとみずからで在りづけるための心得であり、目的である。その方向は内側を向いている。


自由経済の名のもとに繰り広げられる競争のみの近代社会には「自由」という名の虚無があるのみ、そうなれば「自在」はない。逆にわれわれが自在であることを捨てさえしなければ競争社会などはもとよりない。ありえない。海や山を畏れ日々の糧に手を合わせ、在るがままを好み身に余る富を嫌うわが先祖たちの自在な気質は近代化、合理化、資本主義化とは反りが合うわけもなく、そのような国であった日本を近代の鋳型にはめるためには「自由」を与えて「自在」を忘れさせる必要があった。そしてあっけなく忘れさせられた。


「自由」とは先行する不自由と戦い、蹴破り、打ち負かして奪い取るものであるがそれを手にしたその瞬間、新たな「不自由」に生まれ変わり我々にまた挑みかかる。我々はさらなる自由を求め心に「欲」の炎をともしてその戦いに臨む。生きることが死ぬことを意味するように自由とは不自由をさす。自明である。


地震や台風のおり、その被災者たちの毅然とした行動はよその国の人々を驚かせる。これは恐怖や絶望にあっても自らを失わないようつとめる「自在」の心得からくる。
そして崩壊間際の原発から漏れる放射能の存在をしりつつも騒然とならずに普段の生活を送ろうとするのもある意味で「自在」を求める気質の顕われであるかもしれない。

「放射能はいまさら騒いでも仕方ない。なるようにしかなるまいよ」筆者の父は言う。父ばかりでなく多くの日本人の気持ちではないかと思う。そして父たちの目には反原発を叫び、暮らしを守ろうと立ち上がる人々の姿も往生際が悪いとすら映るようだ。

こう思えてしまうのはいくつかの欠落があるためである。

ひとつは、原発というこの醜くも恐ろしい物がわれわれの「欲」に養われる家畜であることに気づいていない。戦中・戦後に生まれ自由経済とその成長を共にした世代となれば特に気づかない。仕方なしと受け入れるべきは天災であり放射能ではない。先の原発事故が百歩譲って天災によるものであったとしても原発が在ること自体が人災である。

次に、次世代に対する思いが歪んでいることを挙げたい。親たちは大変な苦労をして子供たちに教育を受けさせているのだが、それは教育機関に子供たちを丸投げし対価を貨幣で支払ったに過ぎないことに気がついていない。そしてその「教育」そのものも子供たちを自由経済の中で戦う兵士に仕立てるための「調教」でしかない。親たちには子供たちが競争社会から零れ落ちることを考えれば放射能など虫に刺されたほどにしか感じられず、そして学校や塾に遣ることで親としての義務を果たしていると安心してしまうためそこで思考が停止する。次世代を真に考えるのであれはどうするべきかはここに書くまでもない。

豊かに見える国であるが国民の殆どが借金を抱える。これは身の丈を超えた高価な商品でも誰もが手を出せるよう、その日に手に入るよう仕組まれているから起こる。かつて借金というものは親や知り合いに恥をしのんで頭を下げてするものであったのに今は「ご利用ありがとうございます」と向こうが礼を言うので後ろめたさが消えうせた。誰であろうと現金を一銭も持たずに「自由」に買い物ができる。「金融」はこうして人々を「自由」で縛り「負債者」として掌に握る。
需要なき消費に支えられる日本経済は「自在」とは無縁、しかし「自由」に縛られた者たちはそれに気づく筈もなく、原発を不可欠と信じ放射能もよしとする。



身に降りかかる難事に対し戦々恐々とせず、在るがままを受け入れる姿勢は自在であるが、常に長いものに巻かれてしまうことではない。巻かれる前に身をひるがえす術はいくらでもある。その術を心得た者は自在である。

しかしそうもいかないこともある。
国に降りかかる国難、一国民がこれをひるがえし自在であることは難しい。日本が在りし日の姿を失ったのは在りのままでいられなくなったからではあるが、これにはよその国との関わりが働いた。それでも日本という国が今も存続しているところを見れば今日までの国難を幾度も乗り越えてきたともいえる。が、どこまでか。よその国の主義主張を唱え、よその国が作った政府に政治をさせ、外来語なしでは会話さえ難しくなった。この国のどこまでを日本というのだろう。
「国境のない自由な貿易」を求め武力で世界を脅しつけているのはかつて浦賀に艦隊を引き連れて現れ、開国か砲撃かを迫った「自由の国」である。彼らが祀る女神は右手に邪悪な欲望の炎を掲げ、この世のことわりを鎖に喩えて踏みにじり、闊歩する。



「自由自在」とは意味不明な言葉である。
自由の女神と観自在菩薩を並べて拝む、それに似ている。


自由非自在 じゆうはじざいにあらず

わが国において「自由」という言葉が湯水の如く使われているため、その語意について疑いの目が向けられることは少ない。必要さえ見当たらない。
おおよその解釈は、「自らの選択で行動あるいは思考することができる状態、しかしそれは他人に迷惑をかけない範囲でのこと」、または単に「束縛や強制を受けていない状態」である。

これは近代とともにわが国に定着した言葉であるが古来はほとんど使われた形跡がなく、あったにせよ今とはだいぶ違う意味で使われていた。古くは日本書紀に見られ後の徒然草にも現れる「自由」は、「傍若無人」「我儘勝手」といった悪い形容に使われるのみであった。


ひとまず話を近代以降に絞るとする。
「生」に対し「死」があるように、「天」に対し「地」があるように、「自由」の対極には「不自由」がある。つまり自由が存在するためには不自由がなければならない。

現実の不自由が支配や拘束や虐待などの形でまず存在し、そこからの脱却によってもたらされるのが自由である。

これとは別に他者に現実におこった「不自由」を見てしまうか、話に聞くか、学校で教わるか、テレビのCGに吸い込まれるかして疑似体験した「「不自由」に恐怖、戦慄し、それから逃れることを「非・不自由」すなわち「自由」と定義してしまっている。
たとえば非民主主義国である某国には人権など存在せず非道が横行しているが民主国家である某某国国民は自由に生きている、結婚して子供ができると家庭生活に全てを注ぎ込むことになるが独身でいれば自由に生きられる、あるいは原発がなくなると景気が落ち込み身動きができなくなるが原発さえあればバブルの頃のような自由な暮らしがもう一度やってくる…

さまざまな権利が確立した(はずの)今日の日本では前者(不自由からの脱却)はもはや当然、いまさら「自由」などとは呼ばないほど軽んじられているかのように思える。むしろ日本を闊歩する「自由」とは後者(具現化された不自由から逃避)のほうではないか。


明治までの日本は封建制度と後に呼ばれる枠組みがあり人々はその枠組みの中で生きていた。武家に生まれたものは武士となり、職人の子は親の職を継ぎ、農村に生まれれば百姓となるのが普通だった。百姓の数が減ることは国の衰退につながる一大事、そのため公儀の許しなく農村を離れることは罪とされた。逆に武士として生まれた者がその身分を捨てることも武家社会の体面を傷つけるものとして制限されていた。身分の自由と呼べるものはなかった。
もちろん例外はある。江戸や大阪で労働力が必要になると農村の男たちが駆り出されそのまま人足や職人として都市に居つくこともあり、商才があれば商売をはじめることも稀ではなく中には豪商にのし上がる者まであった。貧農に生まれた河村瑞賢は江戸で人足をしながら商売を覚え材木商となり財を成した。そして後に幕府の公共工事に関わるようになるとさらにその才覚をあらわし多くの御用を預かった。淀川の治水工事、航路開拓など、その功績を以って晩年にはその名を旗本に列ねるまでとなった。吉原での豪遊ぶりも紀伊国屋文左衛門とともに今に語られている。
しかしこれは例外中の例外、多くの人にとって生まれを越えることなど夢にも勝る絵空事、それを受け入れて生きていた。

同じ頃の西洋。航海航路の開拓から通商がおこり流通業と金融業が発達した。当然生まれる摩擦により武器の需要も跳ね上がり、喉から手が出るほど兵器が欲しい王侯貴族たちにカネを貸付る金融業者は資本を確立し、現代に至るまで世界を支配する資本主義経済がここに芽生える。

キリスト教社会では金融につきものの「利息」はもともと禁忌でありカネを扱う金融業を忌み嫌う風潮が強かった。そのため銀行も両替商も「ベニスの商人」のシャイロックのような特殊な人種に任されていた。専横されていたとも言える。教会や王侯貴族たちは富をいつのまにか金融業者たちに吸い上げられやがて衰退していった。
しかし世の実権を誰が握ろうと民衆の暮らしは変わらずに困窮を極め、とうとう18世紀の終わりには革命の火がつき、炎となって専制制度を焼き落とした。虐げられる民衆が「自由」を手に入れつつあった。

われわれ日本人が学校で習う「自由」のお手本はフランス革命である。専制主君から政治を奪い取り議会を立ち上げ、憲法を作り、周辺諸国ともども産業革命の波に乗って近代社会を築いてゆく流れを自由と呼ばせている。ただし民衆からむしりとったものが王侯貴族を経由してどこに行ったのか、または欧州の奴隷や農奴を開放する傍らで新航路の果てにある国の肌の色の違う人々を捕まえ苦しめたことからは意図的に目を逸らし、産業革命がもたらしたのは軍事産業ではなく豊かで便利な暮らしと教えている。いずれも中世から近代に移行する折に浮き出た錆を覆い隠すに便利な言葉、それが「自由」であった。


本稿は「ほんとうの自由とは」などを熱く語るものではない。むしろそのようなものはどこにもないことを申し上げたい。


人は生まれながら自由などではない。空気と水がなければ一刻とて生きて入られない。生まれる国を、家を、親を選べない。男は男として、女は女として生きることを余儀なくされている。あめつちとわたつみの恵みに養われ、そしてあるひ必ず死ぬ。生まれたそのときに死の宣告をうける。これを覆そうとすれば必ず恐ろしい罪を犯すに至るであろうことは、われわれ日本人であればなぜが、教わらずとも知っている。それを忘れさせるために外からに押し付けられているのが「自由」なる言葉である。


日本人に「自由」をもたらしたのが明治維新、それに先行する「不自由」を因習ずくめの悪しき時代である江戸時代と見立ててのことである。しかし江戸時代がそんなに悪い時代だったかは評価が分かれる。そして明治から今に至る近現代がそんなに薔薇色の時代であるかどうかも然り。

黒い船に乗ってやってきた西洋人が我々に「自由」もたらしたのは親切心からではなくあくまで経済戦略である。日本の黄金、生産力と労働力、蒸気船を稼動するための豊富な森林資源を狙うもので、日本は世界の経済を牛耳るための重要な足がかりであった。特に日本人の器用な手指と勤勉さは工業生産の担い手として好都合と考えられ、また航海術にも武術にも秀でた日本人は武力で殲滅するより仲間として懐に抱えるべきと判断された。ともあれ日本には選択肢などなかった。黒船以前から日本に外国船が近寄っては通称を求められていがその都度やんわり拒んできた幕府であるが、とうとう江戸前に陣取る艦隊に大砲を構えられ、アヘン戦争後の清国の惨状を知ったうえでは「降伏」するしかなかった。

貿易の障害になるものを取り払い自由に取り引きできるようにすれば当然力の強いものが上に立つことになる。この場合の力とは競争力のことを指すのであろうが結局は腕力につながる。つまり武力を笠にきていくらでも弱いものいじめをすることができる。それを自由経済という。「鎖国」という障壁を取りはらわされた後、露骨な不平等条約を呑まされながらも勤勉に働き続けた日本人は条約改正にまで漕ぎ着けるが、そのころには完全な軍国となり常に欧米の切り込み役を買っていた。気がつけば極東の大悪党にされていた。

やや遅れて日本と似たような道を歩んだのがオスマントルコ帝国である。内から病み、外から攻められて崩壊しつつあった国を救ったとされるケマル・アタテュルクは「自由」の象徴として、逆に旧帝国は暗黒時代の象徴として定義された。第二次大戦後、欧州は足りなくなった労働力をトルコからの移民で補った。欧州の復興に大きな役割を果たしたトルコ人労働者が祖国に持ち帰ったのは外貨、そして欧州至上主義であった。「悪い皇帝を追っ払ったアタテュルク、自由をくれたアタテュルクばんざい」ほんの数年前まで子供たちはこんな歌を音楽の授業で歌わされていた。西欧列強は自らに都合のよい傀儡を送り込み古い政権を悪者に仕立て上げることでこの国の人心を改造した。

市井の人々を含む国民の識字率と書物の量、ともにずば抜けて高かったのが江戸時代の日本とオスマン帝国時代のトルコである。人々の闊達で明るい暮らしぶりは文学や絵画から知ることができフランス革命のころの欧州とは比較の余地はない。欧州で相次いだ革命の背景に似たものは日本にもトルコにもなかった。だがそれでも近代は、甘く芳しい「自由」という言葉をつれて訪れた。世界の中心を作り出すために。


いわば「自由」とは軍事・経済用語のひとつである。それを芸術や思想や教育の世界に持ち込んでしまったのはこの言葉に幻想を抱いた我々の勝手な思い違いからである。


心の内側から迸るものを形や色彩で、旋律や調べ、時には文字をちりばめて外に訴える、それは何者からも制限を受けることのない思いのままの世界である。それを自由と言はずしてなんと言う、そう問われるだろう。あるいは世のしがらみから自らを解き放ち、裸足で波と戯れ、ひとり風に身を任せることができたのならばそれを自由と呼ばずして、いったい何と呼ぶべきか。

「自在」という日本語があったことを思い出そうではないか。辞書にある言葉の意味こそは「自由」とかわらぬものの本来はまるで別のことばである。


つづく

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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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