アフリカ 受難の大陸

「アラブの春」という言葉、一般に認識されている解釈は、民衆がソーシャルメディアを武器として前時代的かつ非民主的な独裁政権を倒し国政を民主化する、といったところであろうか。なべて見ればアラブの春は世論から賞賛を受けていると言える。しかし地中海地域を中心としたこの動きを春=民主化と歓迎してしまうのは勘違いというものであり、ましてや日本での反原発・脱原発の運動をこれになぞらえて鼓舞するなどあってはならないことである。

日本には縁のない話のようだがそうでもない。これは世界を取り巻くエネルギー問題の根に巣食う妖怪物語である。アルジェリアの石油関連施設(ガス田)がテロ攻撃を受け邦人の技術者たちを含む多くの人質が拉致され救出作戦において双方に死傷者が出た事件、これも同根の問題である。

一部を除くアラブ・アフリカ諸国が貧困にあえいでいることは事実である。その理由は教育がないから、政治が立ち遅れているから、雨が降らないからと我々の思考は何故かそこで停止する。たしかにそこは渇いた砂漠であり教育も政治も遅れているが、その原因や解決には無関心、対岸の火事でしかない。

大航海時代以来、欧州人はアフリカ大陸に住む者を労働力つまり奴隷として売買していた。しかし大陸の沿岸部に総督府がおかれる程度であり欧州の支配が内陸まで及ぶのは産業革命を待つことになる。工業化にともなう燃料の需要がアフリカに対する態度を変えた。アフリカには豊かな地下資源があった。

欧州の列強諸国がアフリカ大陸の鉱物をどう嗅ぎつけたかはよくわからないが、おそらくは内陸では昔から現地人たちが生活必需品の「塩」の確保のために掘削を行っていて、そのついでに金や石炭がざくざくと出てきたのではないか、それらが海産物との交換のために沿岸部に運ばれて欧州人の目に留まり知られるところとなったと考えられる。とにかく近代を迎えて欧州は本格的な地質調査を行い、侵攻そしてアフリカ分割を重ねる。第二次大戦後までにはアフリカ大陸がきれいに塗り分けられることになる。その後植民地政策は終わりを告げ独立国となったとはいえ、アフリカ諸国はいまも欧州列強の都合で引かれた境界線を国境としている。

地中海・紅海沿岸とその周辺に位置するイスラム教国はどうだったか。
一部はかつてのオスマントルコ帝国の領土であったが第一次大戦に帝国が敗戦するとその版図は欧州列強に割譲されその植民地と化した。そして石油の発見が相次ぎ宗主国を潤すが現地民の生活などは誰にも顧みられることはなく、やがて激しい独立戦線の火がつく。そして市民は独立を手にするが、後には旧宗主国の息のかかった傀儡政権がもれなく残された。
アラビア半島の砂漠に位置する数カ国はオスマン帝国の勢力圏外にいたため植民地化は逃れたが、次々と油田が発見されると甘い汁を見逃さないアメリカはすかさず傀儡政権を置き、あふれる石油がもたらす巨万の富は市民に還元されたが国政を牛耳るのはやはりアメリカである。


一羽の鷲が中空を飛び 大きな声でこう言うのを聞いた
「ああ、わざわいだ、わざわいだ、地に住む人々は、わざわいだ。」   ―ヨハネ黙示録より

この国々にとって、地下資源はわざわいでしかなかった。


アルジェリアは地中海に面する北アフリカの国である。去る十六日この国にある石油関連施設をイスラム武装勢力が襲撃し外国人を含む作業員数十名が人質にとられた。この施設は英国のブリティッシュ・ペトロール、ノルウェーのスタトイル、そして現地企業の提携で運営されていたため西洋人の技術者が多く派遣されており、中には施設建設に携わる邦人も十数名含まれていた。
人質の国籍国政府からは慎重な行動が求められていたにも関わらず翌日はアルジェリア軍によるテロ撃退攻撃がはじまり、犯人側と人質側双方に多数の死傷者をもたらしたと伝えられている。
イスラム武装勢力側はこれはフランスのマリ侵攻への報復行動であったと声明を出した。

マリはどこにあるのか、なぜフランスはマリにちょっかいを出すのか。

サハラ砂漠の西にあり、アルジェリアとは国境を接するこの国は豊かな地下資源に恵まれた。いや、呪われたというべきか。金の産出量はアフリカ第三位、ダイヤモンド・鉄・リンなど多種の鉱物が産出され今後も増産が見込まれている。燃料は石油の発掘が進められており欧州へのパイプライン構想が打ち立てられるほどの期待がかけられている。そしてウランが大量に埋蔵されている。フランスに限らず欧米の各国は以前からマリの主導権を得るべくそれぞれに好機を伺っていた。フランスはかつてマリの宗主国であり、前大統領が自ら手を汚し率先してリビアを攻撃したのも手伝い軍事行動ではフランスが存在感を見せ付けていたが、王手をかけるために国内紛争の解決と称し今年の初めからマリに侵攻していた。そのころ世界はシリアのあたりを向かされていた。


アルジェリアのガス田を襲った武装勢力は人質の命と引き換えにマリへの脱出を要求している。できるだろう。あるいは仲間と称する武装勢力がマリで同様のテロ活動を開始するだろう。それはフランスにマリ総攻撃の免罪符を授けるだろう。

そもそもこの事件の詳細はアルジェリア政府筋の発表を鵜呑みにするしかない。世界から隔絶された砂漠地帯で起きていることなど誰にもわからない。

だからどんな出鱈目でも「報道」できる。

シリア介入もリビアのそれも同様である。ニュース映像を見れば、銃を構えている男と血を流して倒れている男の二者がいて、そのどちらが政府軍でどちらが反乱軍側だということをいったい何を根拠に語っているのか、そしてなぜそれを丸ごと信じてしまうことが不思議でならない。流血惨事が存在するという事実以外は何一つ証明できないのにである。アラビア語が堪能な方なら分かるかもしれないが、被害者と加害者の双方とも叫んでいるのは「神は偉大なり」「神の加護を」のみである。それに好き勝手な字幕をつければいくらでも脚色できる。

そこに登場するのがソーシャルメディア、情報受信者でしかなかった誰もが発信者として活躍できるというかつてない構造が歓迎されている。流血現場の当事者たちがより事実に漸近した声を発信し、政府や軍の虚偽をくつがえすことも可能になった。なったのだが、「誰もが」発信者になれることが迷路の入り口でもあった。

「フェイスブックがネット上に生まれた翌年のに2005年に二つの暴動があった。イラン反政府デモとフランスの移民暴動事件、これらは暴動を扇動する道具にフェイスブックを試験的に駆使したものである。西欧では、イスラム教国の騒乱を見せつけ、移民の暴動を鎮圧することで現行政権の支持率があがる。(過去記事より)」


ソーシャルメディアを駆使する側を「善」、そして従来の報道を「悪」とする思い込みが明らかに浸透している。世の中がそれほど単純であれば素晴らしいが、メディアを使い我々をだまし続けた政府や軍が今度は一般人になりすまし更なる虚構を築くことなどは容易であり、このソーシャルメディアの存在理由も実はそこにある。

「アラブの春」とは資源権をめぐって欧米列強がかつての植民地に残した傀儡政権を一新し、あるいは不満分子を懐柔または粛清するための一連の暴力行為を指す。ソーシャルメディアは「暴力」を「正義」に塗り替える塗料である。だからして、もっと距離を置くべきである。


フランス軍はマリの空爆に際してアルジェリアの空軍基地から戦闘機を送り出していた。これはアルジェリア政府がフランスのマリ介入に反対できない立場にあることを意味し、そのマリ介入の正当化の切り札なるであろう今回の事件にアルジェリアが関与していることをも意味する。西欧の多国籍企業のエネルギー施設などは最大限に警備されていなければならず、「警備に問題点があった」などという間抜けな指摘はありえない。あるのはテロの自作自演である。西洋からすれば「イスラム武装勢力」と名がつきさえすればそれだけで悪の象徴であり、西洋人(+日本人)の被害者が多く出ればそれだけ西欧の世論をマリ介入支持へと引き込むことができる。人質の命をまったく顧みない強行な作戦がとられたのも、「テロに屈するわけにはいかない」を無理に納得させようとする報道姿勢もそれを裏付ける。

自由と平等と友愛の生まれたフランス本土では、市民は不景気に苦しみ移民に対する悪感情を顕わにしている。こういう時節は国粋主義が台頭し、国政が右に傾きやすくなる。海外派兵も容認される。若者たちの職を奪う憎らしい移民たちの国を攻める兵士の姿に市民は胸を熱くする。景気対策をすることなく国民の不満を逸らした政府は支持率を上げることに成功する。

シリアの戦火が下火になりつつある。もう用が済んだのだろう、マリという火薬庫に着火が完了したからだ。

紛争地域の成り行きを「管理」するのは国連である。大戦争を回避しながら小競り合いを長期化させることでより多くの武器売買を促し、同時に先進国の覇権を拡大させる。カッダーフィーやアサドを糾弾し欧米の軍事介入を支持し、あるいは国連軍を派遣することがあっても、そこで生まれた難民にたいしては援助と呼べる活動はろくに行いはしない。地域の飢餓や貧困は国連には「あたりまえ」のことである。むしろ先進国の資源庫として、安い労働力の宝庫として今の貧しい状態を維持させることこそが国連の職務なのである。国連はフランスのマリ介入に続くかたちでマリでの紛争解決とテロ撃退を協議する委員会を立ち上げ、マリ周辺諸国の要請により英国軍・独軍の派兵を承認した。日本はまた何らかの支援を要求されるかもしれない。


日本政府はこういった問題には徹底的に無力である。国民がさらわれようと殺されようと「遺憾」としか言えない。政府ならともかく企業から海外に派遣された日本人の皆様は一日も早く帰国されてはどうか。

アフリカからは遠く離れてはいるものの、日本の日本人がすべきこと、少なくとも考えるべきことはあるはずだ。今の消費社会が貧しい国々を踏み台に成立していることに目を向けることである。使い捨てにしているポリ袋から自動車に至るまでその生産に必要な資源はどこでどう調達されているのか、足元を直視する必要がある。
大金を払って輸入したとしてもそれを生産する国に、いや国民に還元されているわけではない。むしろ消費経済社会の最下層に組み込むことで地獄の責めを与えている。石油やガスだけではない。最先端の情報端末機の部品も、日本で使用されている建築資材もそのほとんどが輸入品、ひどい条件のもとで低賃金で働く労働者の、時には未成年である彼らの生産品である。そしてわが国の国土は処分しきれない産業廃棄物で埋め尽くされようとしている。いったい何をしようとしているのか。



因果は必ず輪を描く。使い捨てを繰り返すことで経済を盛り立てることができると信じるならば、いつかは自らが使い捨てにされることを覚悟の上でそうするべきである。砂漠の国で犠牲になった技術者たちのように。
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歌舞伎見物のおさそい ― 助六

畜生だらけの世の中にゃ愛想もくそも尽き果てた
こうなりゃめかして歌舞伎へと しゃれこむのも悪くねえ
かわいい女房と連れ立って、浮世を離れて夢心地
そちらのお兄さん方お姐さん方、ささご一緒に、歌舞伎見物とめえりやしょう

御存じ「助六」は歌舞伎十八番の内に数えられる人気の演目、しかしこの大元の話が「曽我兄弟」という仇討ち物であることは芝居好きでなければ知る由もない。黒羽二重に緋色の襦袢、頭に〆る鉢巻は江戸紫の右結び。江戸の「いき」を具現化した様式美の世界といってしまえばそれまでだが、それだけでは勿体無いのがこの助六。もしもご覧になる機会がございましたらぜひともこの薀蓄をお供にお連れくださいまし。

  助六
                                 「助六」

吉原に出向いては相手構わず喧嘩をふっかける助六、じつは曽我五郎時致という侍である。その助六とは恋仲の、その真夫(まぶ)の所業に悩むのは花も盛りの花魁の三浦屋揚巻、そして二人の仲に割って入ろうとする大尽、髭の意休。いきな男、いきな女、やぼな男、そんな三者の駆け引きが話の大筋、と解されている。しかしその根底にある「曽我兄弟」の物語、そしてその舞台となる源平合戦から頼朝の時代の匂いを知ればそのぶん楽しみが増すことは間違いない。


時は鎌倉の夜明けの頃、曽我五郎とその兄の十郎の父・河津三郎祐泰は、親たちの領地争いに巻き込まれ義従兄にあたる工藤祐経の送った刺客の矢に倒れた。母・満江が再嫁したため幼い二人とまだ乳飲み子の末の男子は曽我の家に入るがいつの日か父の恨みをはらさんことを胸に秘めて成長した。とはいえ義父となった曽我祐信は頼朝の御家人だったが所領は小さく実子に継がせるだけの財産があるだけでさらに三人の男子を立身させるだけの力はなかった。加えて「仇討ち」の気を孕むものを育てていたのでは幕府から睨まれかねぬ状況にあったため、弟の五郎は父の菩提を弔うためにと箱根権現の稚児として仏門をくぐることになる。兄の十郎はそのまま曽我の子として元服したが不服は募るばかりであった。
いっぽう仇の工藤祐経は、もとは平家に仕えて上洛したこともある男であったが頼朝挙兵後に鎌倉に下り源氏の家来となる。朝儀に明るく歌舞音曲にも長けていた祐経は公家との交渉ごとに手を焼いていた頼朝に重用された。幕府の重臣となった祐経の命を狙うことは力ない若い兄弟にとっていよいよ難しくなる。
あるとき箱根権現に頼朝が参拝、そこで稚児を勤める五郎は頼朝に従う工藤祐経を見た。父の仇を討とうと祐経に近づくが、あまたの戦場を駆け抜けてきた武人のまえでは成す術もなく逆に祐経に捕まり説教をされる。そして五郎は祐経の手から赤木柄の短刀を授けられた。間もなく五郎は箱根を出奔、有力者であり叔母の嫁ぎ先でもある北条時政の元に走る。この時政は尼将軍・北条政子の父、野心の男であった。仇討ちの心を打ち明け元服を願い出た五郎に対し、時政は烏帽子親(元服の後見)になることと仇討ちの支援を買って出た。
父の死後十三年目にして仇討ちの好機は訪れた。頼朝を筆頭に主要の鎌倉武士たちがこぞって狩を競う「巻狩り」が富士の裾野で催されることなり、無論そこには憎き工藤祐経もその名を連ねていた。
当時「狩」といえば単なる捕食行為ではなく通過儀礼としての色合いが強かった。ここでは頼朝の嫡子である頼家(当時12歳)を後継者として御家人衆に披露目をする目的があり、十数日間続けられた巻狩りは頼家が大鹿を仕留め奉納されたその日を以って終了となった。宿舎には遊女や白拍子が招かれ盛大な宴が開かれる。その宴もしずまった頃、武人の中にまぎれていた曽我兄弟は工藤祐経の寝所に押し入り名乗りを上げた。そして祐経はその昔に五郎に与えた赤木柄の短刀で仕留められる。遊女の悲鳴を聞いた武人たちが駆けつけ宿舎は修羅場と化す。この日のために武芸を磨いていた兄弟は強く十人余りをその場で撫で斬りにしたという。しかしとうとう兄の十郎は討ち取られ、逃れた五郎は頼朝の寝所に押し込んだところを捕らえられて死罪となった。



建久四年にこの討ち入りが実際にあったことは「吾妻鏡」にも記され史実と認められている。しかし大事件である割には扱いが小さいため鎌倉幕府側が事件を隠蔽しようと画策したとの憶測もある。歴史の中に埋もれかねなかったこの仇討ちを世に知らしめたのは兄・十郎祐成と恋仲にあった大磯の遊女・虎御前である。「助六」の舞台が廓であることへとここから繋がってゆく。

仇討ちを控えた兄弟は妻帯せぬと決め、十郎には虎御前、五郎には化粧坂の少将とよばれる遊女がそれぞれ妾として寄り添った。当時の鎌倉周辺の遊里には公家や武家出身の遊女たちが鎌倉武士たちを客としていたため遊女といえども教養も気位も高かった。もっとも遊女や遊里そのものが今の夜の町とはまるで違う風情のものであった。この気質は江戸吉原にも引き継がれていき、金では客に靡かない「花魁の意気地」なるものの根源になった。

兄弟の死後、虎御前は二人の菩提を弔うため比丘尼となる。仇討ちから四十年後に没するまで諸国を行脚し二人の忠孝と武功を口伝して歩いた。それをまとめたものが「曾我物語」として後世に伝わり浄瑠璃や歌舞伎の狂言へと昇華したのである。この曾我兄弟を題材にした狂言を特に「曾我もの」と呼び、義経の登場する「判官もの」と並んで大入りの人気を常に博してきた。

歌舞伎の曾我ものには「寿曾我対面」「外郎売」「矢の根」「雨の五郎」など沢山ある。多くは「廓」という設定がなされている。曾我兄弟の仇討ちを物語と成らしめたのが遊女であったことへの思い入れが見られはしまいか。「助六」はやや特異で、はじめは上方で興った心中ものの芝居であったが吉宗の頃に江戸に伝わったとたん曾我ものに鞍替えしたという経緯がある。

皆に共通する描かれ方はこうである。いつも弟の五郎が血の気の多い主人公として登場し、超然と構える敵役の工藤(助六では意休)に対し五郎は何かにつけては刀を抜こうとする。冷静な兄の十郎がそれを引き止める。あるいは遊女たちがやんわりとはぐらかしながら廓の匂いを醸す。
気が短く喧嘩っ早くて勝負に強い、これは身分を問わず江戸の人々に心底好かれた性格である。渡辺綱や義経などはその代表格で、死後何百年も錦絵や舞台を飾り続けた。しかも親の敵を追い続けいずれは若い命を散らすという五郎の生き様は人々を陶酔させた。 

そうして確立されていったのが「五郎」すなわち「助六」の男っぷりである。十郎はそんな五郎の引き立て役に徹して描かれ、和事(やさおとこ)を勤める立役者か女形がその役を勤める。助六では白酒売りに身をやつして登場し助六から喧嘩の仕方を習ったりする。


「助六」は季節に関係なく上演されるが、舞台は満開の桜で演出されている。これは「暮れることなき廓の春」を隠喩している。花魁道中が花道を踏み三浦屋揚巻の登場、酒に酔った揚巻の色気に桜の花も霞む。喧嘩ばかりしている息子を案じる助六、いや五郎の母・満江からとどいた手紙を読み胸を痛める揚巻、そこへ髭の意休が子分たちを連れて現れる。
さてこの意休、もてない野暮天の代表などではない。礼も作法もわきまえた、吉原にしてみれば大変な上客でむしろ迷惑な客とは助六のほうである。だが助六は遊女たちの人気の的、その助六をつかまえて盗人と言うため意休は嫌われた。なぜ悪く言うかといえば助六は意休の仇、仇は仇でも恋仇であるからだ。意休は揚巻に横恋慕をしている。
目の前で助六をこき下ろす意休に腹を立てた揚巻は、おまえと助六さんじゃおなじ男でも大違い、と悪態をつき、さぁお斬りなんせと居直る。命を張った花魁の見得に意休もふてくされる。揚巻がぷいと店に上がってしまうと、いよいよ助六が河東節の調べにのって花道から現れる。ああ、いい男だねぇ

                     十一代目市川団十郎
                       十一代目市川団十郎の「助六」


助六は、ある刀を探している。源氏の宝刀「友切丸」を紛失した咎を兄弟の養父・曾我祐信が負わされていたのであった。この宝刀を見つけ出さないうちは仇討ちは叶わない。そこで助六、いや五郎は人の集まる吉原でわざと騒ぎをおこし、人々に刀を抜かせてはその銘を確かめ友切丸を探していた。ちなみにこの友切丸、古くは渡辺綱が一条戻り橋の鬼(茨木童子)の腕を切り落としたという伝説の刀であり、次々と持ち主を乗り換えては名を変え、一時は頼朝の手に渡るが平治の乱で平清盛に奪われている。鎌倉幕府の成立後にふたたび頼朝に還るがその後紛失、元寇のころに見つかったという数奇な運命を持つ刀である。意休が助六を盗人呼ばわりするのは助六がいつも相手の腰の辺りを探るような喧嘩の仕方をするためだからだという。

                 綱
                       茨木童子の腕を切る渡辺綱 

やんやと囃して助六を迎える遊女たち。「煙草のまんせ」と右から左から吸い付け煙草が渡されいささか迷惑そうな助六は「火の用心が悪ふごんせうぞへ」などと言う。面白くないのは意休、「君達の吸付たばこをいつぷく給べたい」といえば遊女たちには「お安いことでござんすが。きせるがござんせぬ」と知らん顔されてしまう。ここで名ぜりふ「煙管の雨が降るような」をのたまう助六だが、この「雨」は助六がさして現れる傘にかけてある。曽我兄弟が工藤の寝所に討ち入るときに傘に火をつけそれを松明とした故事があり、傘をさして現れる助六の姿は五郎の魂が江戸の町に蘇ったことを仄めかしている。斬り殺され、あるいは自害を許されずに処刑された兄弟は悪霊となって流行り病をおこすと恐れられた。それはいつしか御霊信仰に結びついた。しかしもとより死は覚悟の上の仇討ちであり見事本懐も遂げている。なぜこの世に恨みをのこし悪霊になろうことがあるのか。


曾我兄弟は、二人の支援者であった北条時政に利用されていたとの見方がある。北条氏は桓武平家を祖とする氏族であり源氏に家臣として仕えることなどは本意ではない。しかし頼朝の圧倒的な政治力の前には屈するしか道はなかった。兄弟の父親が殺されたのは領地争いの顛末であるはずなのに、殺した工藤は一切咎めがないとしながら殺された側の無念は捨ておき子女のみが不遇な人生を強いられたのは頼朝の裁定に悪意があってのこと、その頼朝を討つことこそが真の忠孝なるぞ云々、そう兄弟を諭して頼朝の暗殺をも実行させようとの企みは、時政ならば有り得ることだ。じっさい、父の仇をみごと討ち取った兄弟がその場で捕らえられることを拒み激しく抵抗しているのは不可解である。その答えは五郎が最後に頼朝の寝所に踏み込んだということが十分明らかにしてはいまいか。ほかにも兄弟が陰謀に巻き込まれたとする諸説は存在するが、そこに当事者たちの罪悪感があったことには違いなさそうだ。

助六は意休にも刀を抜かせようと挑発する。しかし貫禄の意休は動じない。

芝居が進む中で、意休の子分どもや兄の十郎、吉原詣での田舎侍やらが出てきては江戸風俗を楽しませてくれる。中でも通人(遊びなれた旦那)の股くぐりは見せ場で有名どころが至芸を披露する。そしてとうとう母の満江までもが登場してくれる。喧嘩ばかりしている我が子が情けなく、暴れるとすぐに破れてしまう紙子の衣装を助六に着せ、この紙子は母との約束と思い決して破いてはなりませぬぞと言い渡して去ってゆく。しかたなく喧嘩をじっと我慢する助六。曾我ものは忠孝の心が大前提、その主人公であるからには母との約束を破るわけにはいかないのである。
いよいよ静かなる山場を迎える。店に上がっていた意休が再び現れると助六は揚巻の内掛けの裾の内に(喧嘩ができないので)隠れる。揚巻を口説く意休。くやしい助六は意休のすねをつねって嫌がらせをする。しかしはじめから全てを見通している意休は助六に喝をとばす。

「時致の腰抜けめが」

曽我五郎の諱(本名)の「時致」を発することは助六が曽我五郎時致その男であるのを知っていたことであり、意休その男もこの世の者ではないことを意味する。

そう、意休は実は伊賀内左衛門家長、またの名を平家長、源平最後の合戦壇ノ浦の戦いで平家方の総大将・平知盛とともに入水した武将の再来であった。二位の尼に抱かれた安徳天皇と三種の神器が海に沈んでゆくさまを見届け自らも命を絶った内左衛門はその後に神器なき帝を後ろ盾として将軍となる源頼朝、頼朝が礎となる武家政権とその集大成となる江戸の世を、冥土で歯噛みをしながら見ていたのであろう、泰平の江戸の浮世に迷い出て五郎時致にまみえる。意休はその場にある三本足の香炉台を引き合いに出しながらのたまう。兄弟三人が心合体なすば千斤の鼎を置くとも倒れず崩れず、また離ればなれになるときはこのとおり…そして刀を抜いて香炉台をばったと切り倒す。その刀こそ探しあぐねた友切丸であることを助六はしかと見た。かつて工藤祐経が幼い五郎を説教し短刀を授けて引導を渡したように、意休は廓で恋に耽る助六を叱咤し友切丸をわざと見せ付けて助六に大望成就の火をつけた。平家の武将の亡霊ともいえる内左衛門が五郎を鼓舞するからには、言うまでもなく頼朝を討てと告げているのである。  
  
           幕
                     勇み立つ助六、止める揚巻、友切丸を掲げる意休

今では大抵はぶかれるが、この後に助六は意休を斬り友切丸を手に入れる。追っ手から身を隠すため助六は水を湛えた大桶に飛び込み(水入り)気を失う。おそらくは、壇ノ浦で自害したように内左衛門は助六の体を借りてまた入水しあの世へと還っていったのではないか。内左衛門の霊が体を通り抜けていったために昏倒した助六は揚巻に抱きしめられて蘇生する。虎御前によって曽我兄弟の物語がこの世に蘇ったことへの追憶か。



曽我兄弟を取り巻く陰謀も鎌倉幕府の内紛も今でこそ書籍や論文などに書かれるようになった。しかし驚くべきは、そんなことは江戸の庶民の間では常識だったということである。
頼朝の目の黒いうちは東国の武士たちを心の糸で繋ぎとめることができたが、彼の死後は鎌倉幕府は音を立てて崩れ北条氏の手に落ちる。本領安堵という物質的な約束ではつわものたちを縛ることは叶わず、安堵する領土が足りなくなれば主従の大義名分が立たなくなった。争いは争いを呼び、元寇の後三百年をこえる混迷の時代を経てやっと江戸時代を迎えることができたのである。この混迷期の出来事は芝居や芸能に刻まれ天下泰平の江戸の町衆に広められたのである。残念だが今の歌舞伎はその型を踏襲はしているものの、その上澄みだけを楽しむものに過ぎない。



ところで「友切丸」の行方はいかに。本物かどうかは確かめる術はないのだが、いまは大阪の北野天満宮に収められているという。北野天満宮といえば寺社の中でも悪霊鎮護専門店として知られている。それなら…本物?
 



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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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