やいイスラエル、謝って済みゃ警察はいらねえ

日本ではまったく報道されていないと思うが、このあいだイスラエル政府が生まれて初めて謝った。誰にって、それはトルコ共和国にである。


    


あれはもう三年近く前、滅茶苦茶な事件だった。イスラエルに一方的な攻撃を受け続け食料も医薬品も底をついたパレスチナのガザ地区に救援物資を届けるため地中海を就航中の六隻の民間船(トルコ、アメリカ、ギリシア船籍など)がイスラエル軍に行く手を阻まれ、そのうち一隻が攻撃に遭い死傷者が出た。

過半数がトルコ人、そして周辺のイスラム・非イスラム国32カ国からなる総勢748人が分乗する船団はもちろん非武装であった。乗組員も民間の社会活動家や医師、記者などであった。

2010年5月30日、地中海各地からキプロス島に集まった船がガザに向かって出航した。事件は早くもその日の深夜におこる。午後10時を過ぎた頃、船団に対しイスラエル側から警告が始まった。イ海岸線から50海里以上はなれた公海上である。法律上、公海は全ての国に解放された水域であり、そこではその船の掲げた国旗の示す国の法律によってのみ拘束される。この地点でイスラエルにとやかく言われる筋合いはない。この救済船団の主要船であったマーヴィ・マルマラ号の船長は、航行の目的と積荷の明細をイスラエル側に告げ、また停泊・進路変更の意思も義務もないことを伝えた。数時間におよぶ無線応答のあいだも船団は南下を続けるがイ領海を侵すことはなかった。拿捕の上イスラエルに連行する旨を伝えられるが船団はこれを拒否、なおも南下を続けた。乗組員たちは万一に備え救命胴衣とガスマスクに身を包んで待機した。無線以外の通信手段は妨害電波により絶たれていたためNATOにも国連にも通報できなかった。

    gazze
    緑の破線が船団の航路、赤破線がイスラエル軍、紫の海域は各国の領海域を示す

そして夜明け間近、依然として公海上にありしかも応戦する装備などない船団にヘリと高速船が近づいた。自動小銃をにぎる完全武装の特殊部隊が強行に乗り込むと六隻のうち五隻は無血で拿捕されたが、大型船であったマーヴィ・マルマラ号はそうは行かなかった。

イスラエル兵は無抵抗の乗組員に対しいきなり発砲し、昏倒するまで殴りつけた上に至近距離から頭や胸を撃ち抜いた。普段からガザで働いている暴行と同じ手口、その模様は乗組員たちが撮影している。ましてや各国の報道関係者が撮影機材を積み込んでおり攻撃の詳細が記録されることはイスラエル側もわかっていた筈だ。これが世界中に公開されることも目的の一つであったかのようである。

なぶり殺しにされぬために、甲板にあった角材や金属パイプで乗組員たちは必死に防戦した。しかし死傷者が増え続けることを恐れた船長は降伏し拿捕受け入れを決定、白旗を掲げてその意を示したがその後も攻撃はしばらく続いた。死者9名、重軽傷者54名。死者のうち8人がトルコ人で一人はアメリカ国籍を併せ持つ未成年のトルコ人であった。


イスラエル国防軍の特殊部隊とは何やら強そうだがそのうち三人が武器を奪われて袋叩きにされている。本当は弱いのだろうか?イスラエルの行動などはもとより理解不能なため見失いがちだが、静観すると不自然なところがいろいろ浮かんでくる。船団のなかには20人規模の船もあったというのにわざわざ500人以上も乗船している船を選んで騒ぎを起こすのはおかしい。日本とは違いトルコには兵役があり、成人男子は素手で武装者と戦う訓練を一応受けている。いくら武装しているからとはいえ、大勢に囲まれればそれなりに不利になるし、それを見越した装備であったとも思えない。

乗組員たちの行動は極めて冷静であった。イ兵の銃を奪い取るが使用はせずに海に投げ捨て、負傷し降伏した兵士の手当ても船医が速やかに行っている。仮に奪った銃を発砲して応戦してしまったとすれば海賊行為を働いたとの嫌疑が向けられていただろう。また負傷兵を見殺しにしていたとすれば殺人罪で起訴された可能性もある(生きたまま重しをつけて海に放り込んでやりたいのを必死でこらえたことだろう)。負傷したイ兵の懐中には乗組員の名簿があり、氏名・職業などの詳細が写真とともに詳細に載せられていた。どの船に誰がいるかまで知られていた。

おそらくこの事件の裏には過去のイザコザが関係している。

トルコは新政府樹立から親イスラエルで知られていた。トルコ軍の高官はすべてイスラエルの肝煎りで、軍備はほとんどイスラエルから調達していた。国家の武器庫の内訳をにぎられていたことにもなる。(いや、そんな国がほとんどである筈なのに戦争だの国防だのといっているほうが可笑しい)
しかしこの最後の十年でトルコは進路を変えた。親イスラムの政権が生まれイスラエルとは当然距離を置くことになった。イスラエルに媚びへつらって私腹を肥やしていた軍人や政治家はその勢いをほぼ失った。
2009年のダボス国際フォーラムにおいて、トルコのエルドアン首相はイスラエルのペレス(敬称不要)に対しガザ(パレスチナ)への暴力を面と向かって批判した。ペレスが激昂し反論するには、パレスチナで暴れているのは我々ではなくハマスである、我々は平和を求める民族であり、それに牙を剥くハマスと戦っているに過ぎない、お前は何も分かっていない、と。それを受けたエルドアン首相は頭から湯気を出して怒った。(過去においてハマスは武装集団としての活動が目立ったが近年は代替わりが進み、いまでは国民に支持された与党政党である。しかし国連とアメリカはハマスに対しテロ組織としての指定をまだ解除していない。)

       

この模様は日本語でも紹介されておりご存知の方もあるだろう。しかし英語から日本語に訳したものでは微妙に感触が違うので筆者がトルコ語から日本語に直してみた。首相が伝法に喋るのは皆様の気のせいである。(映像で最初にでてくるのはイスラエルのペレス、エルドアン首相の演説は一分を過ぎたころからはじまる。)

年寄りのくせしてふてえ声を出しやがる。悪党どもの声がでかくなるのは負い目があるからに違えねえ。
やい、てめえらは人殺しにかけちゃあ見上げたもんだ。
こちとらガザの海岸でてめえらが年端もいかねえ子供らをどうやって殺したかはよっく知ってらあ。
そういやイスラエルの昔の首相の中で二人の野郎が面白れぇこと言ってやがったな。戦車に乗ってパレスチナに入ったときの気持ちよさときたら他たぁ一味違うんだとよ。それから戦車に乗ってパレスチナに入ったときゃあ滅法幸せな気持ちになるんだとよ。
てめえらも許せねえが、この極悪非道を手を叩いて囃し立てる連中も許せねえ。子殺し人殺しを誉めそやす奴らも同じ穴のムジナってことよ、てめえらの悪行を洗いざらいぶちまけてやりてえがそれほど暇じゃねえ、たったの二つだけしゃべらしてもらうから神妙に聞きやがれ!


ここまで話すと司会者が邪魔に入る。時間がありませんから、と、一体何様のつもりか知らないが一国の首相の肩を揺すり喋らせまいとする。司会者を睨んで一分待ちやがれすっこんでろと怒る首相、しかし執拗に首相の言葉を遮る司会者に堪忍袋の緒が切れた。

へえへえありがとさんにございやす、あっち(ペレスの持ち時間)が25分でこっちがたった12分たぁどういうことでえ!こんなふざけたダボスなんざ呼ばれたって二度と来るもんか畜生め!

そういい捨てるとエルドアン首相は席を立ってダボスを後にした。(後日、首相は危うくあの司会者をぶん殴るところだったと述懐している)イスラム教国諸国はもとよりパレスチナを援助するキリスト教団体やそのほか人権擁護団体からは首相のこの発言に対し感謝の声が降り注いだ。国内の野党からも一切の批判は出なかった。

誰がどう見ても主催者側の態度はおかしく、イスラエルの嘘もあからさまだった。後でペレスから届いた弁明によれば耳が遠いので何を言われたのかよく理解できなかったため誤解が生じたとか、何やら爺くさい言い訳だがどう聞き間違えればイスラエルが悪くないことになるのかは不明である。いずれにしてもこの騒動はここで幕を閉じた。しかしイスラエル政府やそれと同じ穴のムジナたちはさぞ面白くないことだろう、首相を賞賛する声で沸き返る国内もいつかイスラエルから手の込んだ嫌がらせを受けることは肌で感じていた。

イスラエルによるパレスチナの攻撃は緩急の差はあろうとも止むことはない。飛び地状態のガザ地区は二方をイスラエルと国境を接し一方には海が迫り、残りの一方はパレスチナに対して頑なであったエジプトに面していたため正に陸の孤島、食料も飲み水も燃料もイスラエルの機嫌しだいで皆無になることもあった。市民は国連による雀の涙ほどの援助でようやく命を繋いでいた。

首相が名指しで批判したのはイスラエルだけではない。同じ穴のムジナたち、つまりこの非道を止める気のない国連、まともな救援活動をしないWHO,WFP,勘定奉行のIMF,イスラエルの使い走りのEUと欧州議会、イスラエルの産みの親であり御目付役であるアメリカ合衆国政府、そしてそのアメリカに引導を渡し知らぬ存ぜぬを通す世界中の人々全てに対し啖呵を切ったのであった。

そして起こったのがかのマーヴィ・マルマラ号事件であった。国連に救援物資を委託してはドブに捨てるも同然、そこでトルコの市民団体がわざわざ80万ドルを負担して船を購入しての救援活動だった。積み込まれていたのは食料や薬品のほか、手術や検査のための医療器具、建築資材、工具など、一刻も早く役立てねばならない品々であった。イスラエルに連行された船団と乗組員は二ヶ月以上軟禁されてようやく帰国することができたが、その喜びとは別に言葉にできない悔しさをかみ締めていた。船体に残る銃痕は事件を言葉なく語っていた。
内心どうあれ国連、NATO,EUからはこの事件に関しイスラエルを非難する声明が出されている。船団の届けるはずだった救援物資は国連が責任を持ってガザ市民に分配すると約束した。(そもそもこいつらがまともに仕事をしていれば起きない事件であった。盗っ人猛々しい。)
しかしアメリカは、市民団体の援助はハマスに対し向けられたものでイスラエルの権利を害する行為にあたり、またイ軍の制止を強行に突破しようとしたのは犯罪的である、即ち事件をイスラエルの正当防衛とする意見を出した。繰り返しになるが船団はイスラエルの領海には掠りもしていない。そのままガザに到達しようがイ軍には制止する権限など存在しない。つまりアメリカでは海軍が公海を鮫のようにうろつき、軍人が装備のない民間船に乗り込んで一般人に殴る蹴るの暴行を加えた上に射殺することは正当な防衛なのだそうだ。なるほど、そういえばアメリカの裏路地では警官が同じようなことを市民に行っている。

その「力」を誇示することが存在の目的であるかのように何かしらを絶え間なく攻撃するしか他にやることがないのである。凶暴な上に嫌われるのが好きでたまらないという物理的かつ生理的に迷惑な国、イスラエルとはそんな国だ。
報道陣の撮影を妨害しなかったのは事件後に公開させたかったからである。妨害電波を張り巡らせて救援を呼ばせなかったのはNATOに対する「思いやり」であろう。トルコ人を執拗に挑発し反撃させようと試みた。特殊部隊の中に弱い奴を混ぜて置いたのか、あるいは芝居を打たせたのかはわからないが意図的に武器を奪わせ使わせようとした。そして殺させようとした。そしてその映像を公開し「民間人を使ってハマスのテロに加担するトルコ政府」と銘打ってにっくきトルコの顔を潰そうとしたのである。誰を射殺するかは事前に手に入れた乗船名簿から検討されていた。アメリカも、アメリカ国籍を持つ少年の射殺に対し眉一つ動かさないことでトルコ側に弁解の余地がないとする態度を強調するつもりだった。が、そうは問屋がおろさなかった。乗組員の冷静な行動によりマーヴィ・マルマラ号作戦は失敗に終わった。

そして三年ちかく経ったつい先日、イスラエルは事件の非を認め謝罪してきた。遺族および被害者に対する補償も要求どおり行うとも言ってきた。トルコ政府は謝罪を受け入れる方針を示したが実のところは謝罪ということを建国以来一度もしなかった国からこういわれたので薄気味悪くて困っている。ぎりぎりの外交努力で掴んだ謝罪には違いないが素直に喜ぶわけには行かない。

たしかに三年前の勢いはイスラエルにない。欧米とてみな自国の経済難を何とかすることに忙しくイスラエルのすることにかまっていられるほどの余裕はない。また中東でのトルコの発言力は増す一方で欧米はもはやこれを無視できなくなっている。欧米は中東・アフリカ地域の管理・搾取をトルコを利用することでより潤滑に行いたいため、うわべだけでもトルコに仁義を切ろうとする。だから仕方なく謝罪してきたのかと思えば、それだけでもないだろう。

国際社会におけるトルコの地位を必要以上に引き上げ中東の「君主」として舞い上がらせることで石油成金諸国(サウジ、クウェート、バーレーン、ヨルダンその他)との仲たがいをさせたがっている。小さなことですぐに関係が壊れるのがこの地域の危ういところである。アラブ人たちが国家間紛争を部族同士の小競り合いと同じ次元でしか考えていないからである。エルドアン首相は周辺諸国に対し協和の大切さを強調し、欲からは欲が、憎しみからは憎しみしか生まれないこと、欧米の庇護を受けずに自立した上で自国民のための政治を行うべきだと説いて回っている。石油漬けで頭が働かなくなった王族たちの理解を得るのは至難の業だがエルドアン首相は決して怯まない。
そんなことをされては商売上がったり、欧米にしてみれば迷惑千万である。イスラム社会の覚醒ほど彼らが嫌うものはない。長年かけて築き上げてきた西欧中心の唯物主義社会が音を立てて崩れ去るかもしれないからである。だから彼らは今、イスラムの弱点を探し漁りそれを突くことに血道をあげている。

これに対抗できるのは法的手段でも復讐や憎悪でもない。人の手による法律などは人がいかようにでも利用することができる。懲罰は神に委ねるべきものであり、憎しみに任せて手を振り上げることは許されない。仲間の額を打ち抜いた兵士を捕まえても血祭りに上げなかったのは神への畏れがそうさせたのである。イスラエルの兵士とて人の子、神の創造物である。その罪を問うのは神であって人ではない。憎しみは悪魔の糧、復讐は悪魔の余興、これを悪魔に貢いではいけない。一人が武器を捨てれば100人の血が救われる。皆が憎しみを捨てれば、この世の傷は明日にでも癒える。





日本人が仮に国の外で拘束され、酷い目に合わされたとしても日本政府は救出はおろか補償に関しても一切の外交努力をしないだろう。その気もなければ能力もないときてるから恐れ入る。どなたさんもお気をつけなすって。
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とき、とこ、ところ

遠い昔の日本人は「時空」というものをどう心得ていたか、やまとことばを道しるべに思いを馳せてみたくなった。


延々と移ろう時は「うつつ―現」といわれ、うつろう時をすらりと切った切り口(断面)が「とき―時」だとされていた。時と時のあいだに仕切られた領域は「ま―間」であった。

幕末以降、近代思想の輸入とともに西欧諸語と対比させやすい合理的な日本語語句の「和製漢語(明治の新語)」がおおく造語された。そして「ま」には「時間」と、そしてそれを刻んだ「とき」には「時刻」という造語を充てられた。「うつつ」を表現できる単語は新語には見当たらないが、強いて言えば「過去現在未来」とせねばならぬ。

「うつ―空、虚、内、移、遷、映、写、現、打…」この「うつ」の音の持つ深くも広い意味は以前の記事で触れている。目には映るが不変ではない、儚いものをさしていう言葉である。人々はその虚ろな器の内に何かを打つ(充填する)ことで姿をとどめようと試みるが、それとてやがては空しくなる。

「うつつ」を「う―つつ」に分けると、「う」は大いなる、という意味の接頭語になる(例・うみ―海―大いなる水)。そして「つつ」にもともとある次のような意味が浮き上がる。
「思ひつつ」「嘆きつつ」がそうであるように、ひとつの動作を継続するときに「つつ」をつける。この解釈は「思いながら」だけでは不十分で、「思っては、また思い」というように動作や現象が絶え間なく「つく―付く」ことでもある。(「つつく―続く」の語源)
「うつつ」、大いなる時の流れである。

中が空洞の「つつ―筒」状の入れ物の中を現象が流れている、時の移ろいをこのように思い描いていたのではないだろうか。その「つつ」をどこかで斬るとその切り口に「つ」が現れる。この「つ」は「いつ―何時」の「つ」、と思われる。

竹を取りつつよろづのことに使いける竹取の翁がいた。その翁がかがやく竹をふしぎに思い切ってみると、そこから現れたのはちいさなちいさな姫だった。この世ならぬどこか別の世からやってきた姫は、竹という筒のその節と節にしきられた「ま―間」にいましたのである。「ふし―節」もまた、季節や人生の変わり目などの時を示す言葉である。この世で限られた「ま―間」を過ごしに来た姫を運ぶ器はやはり「竹」でなければならなかったのだろう。では別の世とは、である。

「ま―間」は時間と空間の両方を表す言葉である。もしかするとその両方の境がなかったのかもしれない。

「ときは―常磐」という古い日本語がある。古語辞典を引けは「トコイハ(常磐)の変形、永久不変」とあり、岩(磐)の不変さのなかに永遠を見出したゆえにこの意を得た言葉であることがわかる。
「とこ―常」はそれ自体が不変を意味するが、上述の「とき―時」の変形でもあり、時間の概念から流れを除いたものと考えられる。そして「いは(わ)」とは古代の日本人たちがその霊性を見出し畏れ敬った「岩、磐、巖」であり、その原義は「いは(わ)ふ―祝、敬、斎ふ」という動詞にある。さらにその語源か、あるいは語源を共にする動詞「いふ―結ふ」にもつながる。

やまとことばは単純な動詞から枝葉のように言葉がうまれ、広がった。

動詞「いは(わ)ふ」からはまた別の名詞「にわ―庭、わ―輪、は―端、ば―場、わ―和」などが生まれた。これらはいずれも「領域」をさす。その周囲から切り取り区別した処のことである。「わ―輪」を描いたり、そのまわりを「まわる―廻、周、回る」ことは領域を決定する原初的な方法で、そこから結界を「いふ―結ふ」などの呪術の手段に発展する。
「不変である」とする「場」を周囲から切り取ったとき、そこが「常磐」となる。神社の境内などがそうであり、三輪山や厳島のような場もそれにあたる。そしてその不変たる場はあの世を垣間見せる。

この世は時のうつろいとともに変わり続ける。不変と見立てられた岩でさえ不変不滅ではなく、万物はその姿を変えやがては塵となる。時のうつろうこの世は「うつしよ―現世」である。そして時のうつろわぬあの世を「とこよ―常世」といった。

「とき」と「うつつ」、「とこよ」と「うつしよ」、これらはそれぞれ相対の関係にある。それでは「ときは―常盤」とその関係にある言葉はあるだろうか、あるとすれば「うつは―器」をそれとするべきである。
体は魂の器である。家は親子兄弟と先祖の器、里も、国もまたそれぞれ器であり、さらにその器である「この世」のその中にあるのは時のうつろいとともに変わり続ける万象である。


やまとことばは子音という「体」に母音という「心」を打ち込むことで命を得る。だから母音が変わればそのことばの振る舞いが変わる。「とこ」と「とき」は母音の違いが用法に微妙な違いをあたえた類義語である。「とこ」はさらに母音が変わると「つき」になり、「たけ」にもなる。ふしぎだ。
鬱蒼と繁る竹薮は常盤の庭、かぐや姫はそこに降り立った。姫が来たとされる別世界とはやはり「とこよ」であった。そして翁のもとで美しい姫となるものの、月をみてはしきりに嘆くようになった。「とこよ」の者である姫にこの「うつしよ」で過ごすことの許された束の間が「つき―尽き」たとき、「つき―月」へと往かねばならなかった。

(「竹取物語」は純粋な伝説ではない。いくつもの伝説を巧みに組み合わせた「物語」であり、全体よりも細部を凝視することでその厚みを知ることになる。これは古事記から脈々と続く、能や歌舞伎にもみられる我が国ならではの表現方法で、あくまで全体評価しようとする西洋式の見方をすると荒唐無稽なものに映る。民話や童話が「子供たちにもわかりやすいように」と書きかえられているが、これは子供たちのためにではなく西洋化してしまった大人たちのためにである。)



前回の記事で触れたように、古代人の生死観は今とはいささか違うようであった。肉体が滅びると魂がそこから離れて別の世界にと旅立ってゆくというものであった。
やまとことばには「死ぬ」に当てはまる語彙がないこともそれを裏打ちしており、その代わりに使われていた言葉として「ゆく―行・逝・往く」「ゐぬ―去ぬ」「うす―失・亡す」「かくる―隠る」「たぶ―旅・渡・度ぶ」などがあった。

もちろんこれらの言葉は死ぬときばかりでなく物事のありきたりの動作をあらわす動詞である。ここを「去に」てそこへ「行く」、月が雲に「隠れ」て光の「失す」ことなどをも語ることができる。そのなかで「たぶ―旅・渡・度ぶ」がやや特別な意味を帯びて見える。

名詞「たび―旅」は動詞が「たぶ」からうまれた。「旅をする」の意であるが、そのもとの意味は「ゆく」にちかい。が、どこが違うか。

「たぶ」の語源は「とふ―訪・問ふ」であった。おとずれる、様子をきく、病を見舞う、などの使われ方をした語で、「つまどひ―妻問ひ」とは男が女の許をたずねることや求婚することをさす。かぐや姫を悩ませたのも男どもの「つまどひ」であった。
それが変化し「たぶ」になった。なにせ昔のはなしである。ちと様子を聞こうにも人づてにでは心もとなく、恋しい相手に手紙をしたためるのはもっと後の時代を待つことになる。心が疼けば野山を越えて行ったのであろう、旅をしたのだろう。

「ひとたび」「ふたたび」の「たび」もここに語源を持つ。「回、度」を意味するこの言葉はすなわち旅をさしていた。たとえば春が来て去ってゆく、そして年を一回りしてふたたび訪れる。月も日も然り、これも「たび」である。回り周るのはなにも人だけではないことに、また繋がる。


「サファリ」は遠い遠い砂漠の国の民が話すアラビア語だが、その原型の「サファル―سفر」の意味も「旅」そして「回、度」である。彼らにとっての旅とは駱駝に乗っての隊商であり、イスラム化してからは巡礼であり、布教や戦のための遠征でもあり、砂漠の旅を生涯のうちいくたびとなく果たした。風に任せて姿を変え続ける砂丘は人をはぐらかし、彼らの道しるべはその季節の空を回る月と星と日であった。

森と海の民である我々と、砂漠の民たちの遠い先祖のことばの間に繋がりがあったとは考えにくい。しかしこの接点は偶然ではないだろう。ことばがじかにつながるのではなくその作られ方に同じ思いがはたらいたのであろうと思う。アラビア語もまた「体」の子音にが「心」の母音を宿す言語である。このことは別の機会に書いてみたい。
天体は道しるべであり、時しるべでもある。自らの在る時と所を月や星そして日という「しるべ―知る辺」に頼み導き出すのである。天体の位相を読んで処を知り、天体を暦に照らして時を知り、人のさだめをも読むことができた。とき―とこ―ところ、これはもともと切り離しては捉えることはできない。遠く離れた先祖たちは同じ思いで空を眺めていたことだろう。だが西の国ではその後、空が回るか大地が回るかで大騒ぎになったという。どちらも回るというのにご苦労な話である。


空も、時も、人々も、回りまわって会い、別れる。いつか、どこかでまた出会う。月日は百代の過客、いまここにある我にとれば月日こそが旅人であり、それを出迎え見送るのが我である。そしてこのうつし世のだれもがいつの時か、見送られて常世のたびにつく。


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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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