歌舞伎見物のおさそい―妹背山

いにしへの 賤のおだまき繰りかへし むかしをいまに なすよしもがな

「伊勢物語」にあるこの古歌が縦糸となり、遠い神代からこの世が繰り返してきた業を横糸に織りなした衣のような、そんな芝居がある。「おだまき」とは糸巻きのこと。糸を巻きかえすように昔を今に巻き戻すことができたなら、と思うのは、昔も今もかわらない。

正しくは「妹背山婦女庭訓―いもせやまおんなていきん」、古代の王朝交代を江戸の戯作者たちは冷徹に見抜き我々に供じていたのである。しかしすっかり鈍くなってしまった日本人はそれを受け取ることがままならなくなってきた。下手をすればこの戯作のもつ意味はこのまま埋もれてゆくだろう、それはあまりに惜しい。
しからば野暮を承知の悪あがき、何卒ご容赦のほど御願い奉りそうろう。

  妹背山婦女庭訓
                               「妹背山婦女庭訓」

背景

蘇我氏は物部氏をおさえ、さらに崇峻天皇を暗殺、姪の推古女帝を立てると朝廷の実権はいよいよ蘇我馬子の手に落ちる。その子の蝦夷、さらにその子の入鹿の代まで専横をつくすもやがて中臣鎌足と中大兄皇子により討たれ(乙巳の変)、時代は律令国家の形成へと動いてゆく。


序段、二段目、

病で失明した帝は臣下の者たちに操られ、腹心であった藤原鎌足は謀反の疑いをかけられて息子の淡海とともに行方知れずとなってしまう。蝦夷は自らの娘・橘姫を皇后に立てようとしていたため、鎌足の娘で帝の愛妾でもあった采女の局も宮中から姿を消してしまった。蘇我入鹿は朝廷から帝を追放し自らが帝位につこうとする父・蝦夷の行状を仏法にかなわぬ非道だとし、父を諌めんがために即身仏となる入定修行にはいる。これに怒る蝦夷は入鹿の妻めどの方に詰め寄り、お前たちは味方ではなかったのか、では謀反の連判状を返せと斬りかかると、めどの方はその連判状を火にくべて燃やしてしまう。が、じつは偽物であり、そこにめどの方の父・安倍行主と大判事(司法官)が勅使として現れ本物の連判状を出して蝦夷を追い詰める。蝦夷はもはやこれまでと腹を切り自害する。大判事が蝦夷の介錯をしようとした瞬間、安倍行主が矢に倒れ息絶える。切腹も介錯も武士の風習であり古代豪族のものではないが、芝居の上では豪族たちを武士として描いている。

矢を放ったは蘇我入鹿、法衣を纏う入鹿が現れ、大判事にむかいこれまでの悪行をいけしゃあしゃあと言い聞かせる。父の器では帝位を奪うことはままならぬと、謀反の罪を父一人に擦り付けて自害させ後から全てを奪おうとのはかりごとであった。三種の神器を盗もうとしたが鏡と勾玉は見つからず、仕方がないのでこの「村雲の宝剣」だけは手に入れたと豪語する入鹿は、白塗りの二枚目から青隈取りの「公家荒れ」にかわり豪胆かつ陰鬱な恐ろしさをかもす。

いつまでも子が授からなかった入鹿の母は「白い牡鹿の血」を飲むことで入鹿を身篭ったのであった。鹿の入りたる蘇我入鹿、大悪党の由縁ここにありき。

入鹿を退治するには「爪黒の鹿の血」が要るという。そしてもうひとつ、「凝着の相のある女の血」が要るという。凝着とは嫉妬のことで、この両方の血を注いだ笛を吹くと入鹿の中の鹿の本能が暴れだし己を失う、そのときにこそ入鹿を倒すことができるという。


入鹿の暴挙は止まるところを知らず宮中に乱れ入り帝位を宣下する。三笠山に造営した御殿を大内裏と称し、その勢いに適わぬと悟った諸国の豪族たちは貢物を手に入鹿の元にに参内し恭順の意を表すのであった。
伊勢の神風吹き止んで天下がいよいよ傾こうとしていたその頃、愛妾の采女の局が池に身を投げて自害したとの噂を信じ、嘆きのあまりその池に行幸していた帝はまだ三笠山でのことを知らずにいた。知らせを受けた鎌足の息子・藤原淡海は帝にそれを気取られまいと猟師の芝六の家に匿うのであった。この芝六、じつは藤原家の家臣であり、主人鎌足の入鹿征伐のために黒爪の鹿を射止めていた。しかし神鹿のいる葛籠山は禁足地、ここで鹿を射ることは死罪に値した。芝六の息子の三作は鹿殺しの罪を被り石子詰めの刑(地面の穴に入れられ石で埋められる)を言い渡されそのための穴が掘られるが奇跡がおこる。掘った穴からは紛失していた三種の神器のうち鏡と勾玉が見つかった。その瞬間に帝の目は治癒し、自害したと見せかけて父親の鎌足のもとに身を寄せていた采女の局とも再会を果たす。三作はご赦免となる。

神鏡と勾玉の出現で光が戻る、それはアマテラスの天岩戸神話が元になっている。

藤原淡海とは日本古代史の立役者、藤原不比等その男である。中臣氏が壬申の乱で大友皇子の側についたことが仇となり政治の表舞台からは一時遠のいていたが、王族の妻を寝取り間にもうけた娘たちを次々と宮中に送り込み天皇の外戚としての地位を築いた。不比等にはじまり平安時代の終わりまでつづく藤原氏の外戚政治こそが日本史の基礎といっても過言ではなく奈良時代以降の皇室の血は最初の数滴を除けば藤原氏に由来する。さらにはわが国最初の国史書たる日本書紀の「立作者」として不比等から神代に遡る日本の足跡を「編纂」したのも不比等である。それまでに書かれていた「旧辞」「帝記」とよばれる史書は鎌足の入鹿暗殺を知らされた蝦夷が屋敷に火をかけ自害したおりに消失したとされている。が、そのことが記されているのも日本書紀でしかない。

この芝居において、藤原淡海(=不比等)と名付けられた役は史実での不比等と鎌足の両者を兼ねている(仕立ててある)。謀反の疑いで親子ともども政界から姿を隠すとある段は壬申の乱の結果、中臣氏が蟄居状態に陥ったあたりを示唆しているのだろう。ちなみに「淡海」は不比等が死後に諡られた国公(等級の名)である。

「帝」も一応は天智天皇という設定であるが裏がある。見えぬ目で亡き愛妾を求め彷徨う帝の女々しい描かれ方は少なくとも豪傑で知られる天智帝にはそぐわない。
645年の乙巳の変の後に続く改革を「大化の改新」と呼ぶ。この改革は孝徳帝の代で行われたが中心になったのは当時皇太子であった中大兄(後の天智帝)であった。鎌足は最初、入鹿暗殺の共謀者を帝位につく前の孝徳に考えていたが「器ではない」と断念、よって中大兄に持ちかけたとの説がある。
652年には日本初の首都といわれる難波長柄豊宮に遷都、しかし改革を進めるうちに孝徳帝と中大兄の対立が深まり中大兄は飛鳥河辺宮に群臣・皇族・皇后を連れて移ってしまう。皇后まで奪われた失意の孝徳帝は病に憑かれて崩御する。蘇我入鹿が役の上で三笠山に御殿を立て帝位を奪ったのは中大兄の行動を指しているのだ。

すなわち、「妹背山」の帝は天智帝ではない。天智帝に背かれた孝徳帝であり、入鹿の本性こそが天智天皇である。さらに入鹿が共謀していた父・蝦夷を見限る筋書きはどうやら鎌足の仕業をなぞらえたものである。


三段目

美しい仕掛けが有名で「妹背山」の外題の由縁でもある大事な場面であるが西洋のシェイクスなにがしの芝居に似ていて巣晴らしいなどの馬鹿馬鹿しい評価が付きまとう場面であり、胸くそ悪いので思い切って省略したい。しかし役者泣かせの難しい場面である。


四段目、「道行恋苧環」

さて大詰め、舞台は急に江戸風俗を醸し出す。造り酒屋の娘お三輪は店子(長屋の間借人)の烏帽子職人の求女とひそかに恋仲である。しかし長屋の衆とお三輪の母親は、やたらに上品なこの店子が実は行方の知れなくなった藤原淡海ではないかと噂する。

赤糸と白糸を巻きつけた二巻の苧環、恋のまじないだといって赤糸のほうを求女にわたすお三輪であった。

しかしその求女の元に通う姫様がいた。求女はお三輪と姫様の二股をかけていた。 二人の娘が鉢合わせ喧嘩になるが、姫様のほうは何か事情があると見えてその場から逃げてしまう。姫の後を追う求女、またその後を追うお三輪であった。
求女は姫の身分を知らなかった。名乗ってくれれば一緒になろうという求女に対し、名は明かせないけれど一緒になれるのならば死んでもかまわないという姫であった。名乗れないのもそのはず、姫は蝦夷の娘、入鹿の実の妹の橘姫なのである。
嫉妬に駆られた三輪が二人に追いつくとそこでまた言い争いになる。恋に貴賎の隔てはないが、橘姫に比べればお三輪はあまりに賤しい生まれだった。しかし熱い血潮をたぎらせるようなお三輪の恋の仕草が見るものを引き付ける。

           道行恋苧環
                               お三輪と求女


お三輪から渡されていた苧環の赤い糸を橘姫の着物の裾に仕付けた求女はそれを辿って姫を追いかける。白い糸を求女に付けて追うはお三輪。その糸の続く先は天下の大悪党の棲む三笠山御殿であった。

「お三輪」の名には何が隠れているのか、それは大和三輪山に祀られる三輪明神、つまりオオモノヌシ(大物主命)である。オオモノヌシはスクナヒコナに去られて途方にくれるオオクニヌシのもとに海を輝らしながら現れ、汝の和霊(魂の一部)であると宣い、自らを三輪山に祀るよう望んだ神である。蛇神、水神、そして酒造りの神であり、お三輪が造り酒屋の娘と仕立ててあるのはこのためである。
「古事記」によるとその昔、イクタマヨリヒメ(活玉依比売)の元に容姿端麗な男が突然あらわれ結ばれたが、子を身篭ったヒメの父母が相手は誰かと問うとどこの誰かもわからないという。そこで父母はヒメに教えて曰く、夫の着物の裾に麻糸を結び付けておき、朝にそれを辿れば夫が誰だか判る、と。その糸は戸の鍵穴から外に通じ三輪山の社にまで続いており、かの男はオオモノヌシであったという神話である。
求女が男でお三輪が女というのが神話と逆転しているが、男らしいとはいえない求女と、逆に火のように激しいお三輪の対比がこの逆転を打ち消している。

「橘姫」、古代史上で「たちばな」といえばこの女あり、犬養美千代またの名を橘夫人である。
王族の美怒王の妻でありながら夫の遠征中に藤原不比等に嫁ぎなおしている。離縁して再婚したのか不比等が略奪したのかは判らない。軽皇子(後の文武帝)の乳母をつとめ、不比等との間に生まれた光明子は後に聖武帝の皇后となる。王族以外の娘が皇后となるのはこれが始めてであった。軽皇子の母の元明女帝に与えられた橘姓を以って三千代は橘氏の祖となった。

そして「求女」、いわずと知れた藤原淡海じつは不比等である。求女という名は「綺麗な男」に使われるもので、二人の娘を恋に狂わせた男にはおあつらえというもの、しかも、この役はただの色男ではなく「色悪」とよばれるもので、己の野望のために寝技を使う卑劣な悪役なのであった。
不比等はまず娘の宮子を文武帝に嫁がせ、その二人の間に生まれた皇子が聖武帝となり帝の外祖父となっている。さらに光明子を皇后に立てることに成功したのである。

江戸時代の戯作者たちは、不比等がどんな男だったかようく御存知だった。


四段目、「三笠山御殿」

諸国の大名が入鹿のもとに駆けつけ恭しく挨拶を述べる中、明らかに場違いな粗っぽい男が屋敷に上がりこむ。難波の浦の鱶七(ふかしち)、鎌足と意気投合した漁師だという。鎌足が今までの非礼を詫びて仲良くやりたいという手紙をそえて酒を送ってきたという。当然怪しいこの男、侘びを受け入れないのはやましい事があるからだ、などと言うが入鹿はなぜか苦笑い、鱶七を殺さずに人質にとることにした。

                   鱶七 
                          鱶七  十五代目市村羽左衛門

屋敷に橘姫が戻り官女が着替えさせようとすると裾に付けられた糸の気づく。それを手繰り寄せれば恋焦がれる男が現れ、官女たちは喜んで囃し立てる。野暮は禁物とばかりにいそいそと散る官女たち。


橘姫の正体を知り驚く求女いや淡海、自らも名乗りかくなる上は生かしておけぬと姫を手にかけようとする。が、叶わぬ恋と諦めるのであれば死んだほうがましだという姫の言葉に刀を納め、兄・入鹿の手にある宝剣を盗み出してくれたのならば夫婦になろうなどという取引きを持ち出す。こんな男に惚れてしまうのも女の悲しい性なのか、求女と添い遂げたい一心で兄を裏切り宝剣を盗み出す決心をする橘姫であった。

求女を追いかけて屋敷の庭に迷い込む三輪は豆腐を買いにいく女中から姫様の意中の男との祝言が今宵内々に取り持たれることを聞かされてしまう。あわてるお三輪、なんとか屋敷に入れてもらおうと官女に頼み込むが、事情に聡い女たちから酷い苛めを受けることになる。髪や着物を乱されて泣きながら馬子唄を歌わされるお三輪は自分の生まれの賤しさを思い知ることになる。

ところでわざわざ豆腐を買いに行くこの女中、その名を「おむら」というが、おそらくは後代の桓武帝の皇后になる藤原乙牟漏(おとむろ)であろう。乙牟漏皇后は橘夫人の血筋であり嵯峨帝の生母である。嵯峨といえば豆腐、語呂合わせにしては意味ありげである。なぜなら壬申の乱以後天智系から天武系に移行した朝廷にふたたび天武系から返り咲いたのが桓武帝なのであるからして。

大化の改新と呼ばれる一連の事業の中には朝廷の勢力圏を東北に伸ばす政策があった。当時この地には朝廷に従わぬ民衆があったことが記紀の記述にあり、その征伐は神武天皇自らが始めたとの「先例」を以って記されている(神武東征)。しかし朝廷の組織が実際に東北に設置されたのはこの大化の時代である。

東北のまつろわぬ民、それは「一人で百人に値するつわもの」ともいわれた「えみし」である。

日本史の謎のひとつでもあるのが「蘇我蝦夷」という名、蛮族と賤しみ朝敵と見下していた「蝦夷」の名を蘇我の家はどうして惣領息子につけたのか、である。諸説ある中で興味深いのは、「蝦夷」は日本書紀の編纂者の側が後から意図的に付けた名前であるというものである。つまり蘇我氏が「えみし」同様に朝廷に害をなす一族であったことを後世にまで知らしめ、同じく東北征伐の正当性を引き立てる役を持たせているという説である(入鹿の名に関しても同様の説あり)。
朝廷がどうしても東北を取りたかったのは、肥沃な土地と海産物、名馬と黄金があるからだった。そして文身し弓と馬を自在に操る屈強な男たちが朝廷に靡かぬという事実はそれだけで脅威であった。


それまでの朝廷は天皇と豪族がよく建議し権限を分担する形で政治が行われていた。しかし遣隋使などを通して大陸の情勢が伝わるようになると大陸に対し独立を維持するためにも強固な律令国家を築きそのためには「中央」にさらなる権力の集中が必要という考えが朝廷内に生じた。そこで起こるのが「誰が天皇にたつのか」よりも「誰が天皇をたてるのか」の争いである。大化の改新の前後の日本はこの内紛にあけくれた。そこで生じた悪名・汚名の全てを蘇我親子に擦り付けて最後に日本を我が物にしたのが中大兄と藤原親子だった可能性は十分すぎるほどある。

女を使って出世を遂げた「色悪」不比等は得意の筆で日本書紀を書き下ろし、開闢以来の大悪党、蝦夷と入鹿を生み出して、ばさりと斬って闇の中。

           三笠山御殿
                              鱶七に刺されるお三輪



〽 袖も袂も喰い裂き喰い裂き、乱れ心の乱れ髪、口に喰いしめ、身をふるわせ、

屋敷の中から宴の賑わいがもれ聞こえ、いよいよお三輪は凝着の相もあらわに嫉妬に狂う。そこへ現る鱶七、いきなりお三輪を後ろから刺せば、橘姫の手の者と思い込んだお三輪はますます狂いだす。すると鱶七、「女悦べ」とお三輪を誉めそやす。漁師の衣装を脱ぎきらびやかな侍の姿に早替り、我こそは鎌足の家臣の金輪五郎、求女こそは我が若君の藤原淡海、仇敵・入鹿を退治するには凝着の相の女の血が、おまえの流す血が欠かせない、夫の手柄のために死ぬとはそれでこそ高家(身分の高い)の北の方(正室)、でかしたなあ、とそう言うとすでに爪黒の鹿の血を仕込んである笛にお三輪の血を注ぎかけ、この笛こそは入鹿を滅ぼす火串ならんとふかく拝する。

悦んだのはお三輪であった。恋しい男の妻として、その手柄のために死ねるなど女の冥加につきるもの、それでも最後に一目だけ求女を見たいと願いつつ巻く苧環の糸は切れ、お三輪もそして事切れた。


四段目、大円団

橘姫は宝剣を盗み出すがまたしても偽物、入鹿の知るところとなり姫は本物の宝剣で斬りつけられる。そこへどこからともなく笛の音が鳴り力萎える入鹿、宝剣は竜となり入鹿の手を離れて池にもぐる。そこへ藤原の軍勢がおしよせ入鹿を囲めばなおも大判事や金輪五郎に刃向かい抵抗するが鎌足がかざした神鏡に眼が眩み、ひるんだ入鹿は鎌足に首を取られてしまう。竜になった宝剣は鎌足の足元に舞い降りるのであった。天皇の象徴である三種の神器の宝剣が、帝というものがありながら何故に鎌足を選んでかしずいたかは、その後の日本での藤原氏の位置をよく語る。


史書にある歴史ををひっくり返さずに話を作るという歌舞伎の不文律を壊さずに本当の悪党が誰であったかを仄めかすという、この妹背山は神業に近い戯作である。
聴衆か観て溜飲を下げたかったのは淡海たちの最後であるが、入鹿が鎌足に討たれるという決まりごとは変えようがない。しかし序段から四段目を通して入鹿の見せた悪事はすべて史実での中大兄と藤原親子の仕業であることを語りきった。そして入鹿が頸を斬られる瞬間はすでに聴衆は心の中で入鹿を淡海たちに摩り替えている。だからこそ入鹿の最後の大見得に拍手と掛け声が集まるのである。


不思議な男の「鱶七」は悪役ではない。筋を貫徹させるために登場する、歌舞伎に付き物の神仙的な役である。「鱶=サメ」の名は古代の国つ神に数えられる海神の遣いであることの現われである。朝廷に抵抗した民衆の神もまたこの国つ神たちであり、入鹿の「鹿」も山の神の遣い、何よりもお三輪こそが国つ大神オオモノヌシの化身である。蝦夷と入鹿、そしてお三輪の荒ぶる魂を鎮め、あの世に還すためには是非とも鱶七にお出まし願うことになったのだろう。


「妹背山」の向こうには日本土着の「国つ神」と高天原の神々として知られる「天つ神」のはげしい戦いが隠れている。それは天智帝に始まり桓武帝に引き継がれる蝦夷征伐の序章でもあり、貴賎に囚われ生きる人の悲しさを描くものでもある。

くりかえし むかしをいまになしたとて むかしがいまに なるばかりなり


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すべての道は日本につづく ―ギリシアからの陸路

一年ほど前に、旧暦のひなまつりのよせて「もものはなし」と題した記事を書いた。その中で「古事記」に記された話を引用した。


イザナギノミコトが黄泉の国へと恋しい妻イザナミノミコトを尋ねていったとき、決して姿を見ないように言われていたというのに見てしまい、その変わ果てた恐ろしい姿におののいて逃げるのを、黄泉醜女(よもつしこめ)という走りっぷりのいい女力士に追いかけられる段、何とか逃げ切ろうとするイザナギは醜女にむかい桃の実を三箇投げつけた。そして醜女がそれに喰いついている隙に石戸を閉めて黄泉の国の入り口を塞いでしまった。

これは単なる「神話」ではなく先祖たちが桃の薬効と豊満な姿に霊力を認めたことをわれわれに語りかけるものであり、古くから桃の花が咲くこの季節に悪霊を祓い清め多産を祈る神事がおこなわれ後に大陸から伝わった暦法と結びついて「桃の節句」に発展した。


さて、まずはこれと何かの繋がりがあるであろう話から書いてみることにする。

ところはギリシア、ときは古代。ここの神様たちは戦と色恋に明け暮れていた。
男児がほしかったという父親から山に捨てられた赤子のアタランテーは雌熊の乳で命をつなぎ、後に狩人に見出されて女狩人として、そして地上で最も俊足をもつ人間として成長した。そのはず、アタランテーに乳を与えたのは狩の女神アルテミスが遣わした雌熊であった。
アタランテーの武功が轟きわたると求婚者が殺到した。しかし彼女はアルテミスがそうであったように処女を通す誓いを立てており誰とも結婚するつもりはなく、男たちの求婚は煩わしいばかりであった。そこで彼女の出した条件は「競走」、武装したアタランテーと競走し彼女に勝ったものと結婚するというものだった。しかし彼女に追い越されたものはその場で射殺されるという約束であった。多くの若者が命を落とすが、愛の女神アフロディーテに祈りを奉げたヒッポメーネスは女神にあるものを授けられていたため競走に勝つことになる。
ヒッポメーネスはその手に三箇の「黄金の林檎」を持っていた。アタランテーに追い越されそうになるたびにそれを投げつけ、彼女がそれを拾いに戻るたびに差をつけることを三度繰り返した。そして勝利を得て見事アタランテーを妻にしたのであった。

「黄泉醜女」は醜い女という意味ではない。力士のように強い女、「しこ」とは強さをあらわす語彙である。大国主命にも「あしはらのしこを―葦原色許男」という別名があり相撲の力士が踏むシコは神事でもある。しかし奈良時代になって漢字を充てるときに醜の字が使われていることから、どうやらこの手の女はわが国ではあまり美しいほうに分類されなかったようだ。しかしアタランテーはあまたの男に求婚されたというからよくわからない。

ともあれイザナギが読み黄泉醜女に桃の実を投げつけ逃げ切った話と、ヒッポメーノスがアタランテーに林檎の実を投げつけ逃げ切ったというこの話、両者が無関係であると考えるほうが難しい。じつはギリシア神話で語られている要素は日本の古典に時折り見出すことができる。イザナギが妻を慕って黄泉の国へと追いかけていった話はオルフェウスの冥界渡りとほぼ重なる。またイザナギとイザナミの間に最初に生まれた神は蛭子(ひるこ、奇形のこと)であったことから海に流されたのもクローノスとレアーの子ゼウスが疎まれて海に流された話に似ている。スサノオはヤマタノオロチの生贄にされかけていたクシナダヒメを助け、ペルセーウスはヒドラに捧げられ鎖で繋がれたアンドロメダーを助けてそれぞれ夫婦となっている。こういった現象が起こった背景は日本の皇族がギリシア人だったからだとか、稗田阿礼や藤原不比等がホメーロスを愛読していたとかそういうわけではないだろう。ではなぜか、それを考えながらつらつらと書き進めたい。


アタランテーの気を引いた「黄金の林檎」とはギリシア神話ではおなじみの小道具である。トロイア戦争の原因をつくったものこれであった。

ペーレウスと海の女神テティスとの婚儀に招かれなかったエリスはそれを面白く思うはずもなく、婚礼の宴にとんだ災いの種を投じた。「最も美しい者のために」と書かれた黄金の林檎を投げ込んだのであった。招かれていた女神たちの中のアフロディーテ、知恵と軍事の女神アテーナー、ゼウスの妻ヘーラーの三者はそれぞれに黄金の林檎は自分のものだと争いだし、それを見てほくそ笑むエリスは不和の女神である。
この争いの裁定をゼウスはトロイアの王子であり公正な若者と知られたパリスに委ねると宣言した。女神たちはパリスを懐柔するためそれぞれに、自分を選べばヘーラーは「アシアの王の座」を、アテーナーは「あらゆる戦の勝利」を、アフロディテは「永遠の愛」を与えることを約束する。パリスが選んだのは「永遠の愛」、アフロディテはすでに人の妻となっていたヘレネーを奪い取るようパリスを焚きつけた。

ヘレネーはかつてゼウスがスパルタ王の妻レーダーに横恋慕して生ませた娘である。白鳥に化けたゼウスと交わり身篭ったレーダーの生んだ卵から孵ったといういわば半神であり、長じて絶世の美女と謳われるようになると求婚者が殺到した。妻の不貞の相手がゼウスであったためもありヘレネーを不義の子であると知りつつも大事に育てた父王テュンダレオスだが、これでは争いが起こると悩んだ末にヘレネーが誰を夫にしても残りの全ての求婚者はヘレネーと夫を守り戦うことを約束させた上で婿を選び、その男メネラーオスをスパルタの後継者とした。

アフロディテにそそのかれるままにスパルタを訪れたパリスとそれを迎えたヘレネーは為す術もなく恋に落ちた。ヘレネーを財宝とともに略奪したパリスはトロイアの地へと戻る。ヘレネーを還すよう要求したスパルタ側だがそれを拒否されたため、かつてヘレネーに恋し求婚した諸侯、勇者、神の落し子たちを束ね、ヘレネーの夫の母国であるミュケーナイと連合してギリシア軍となりトロイアに宣戦布告をした。オリュンポスの神々も二つに割れての大戦争が始まった。しかしこの戦争をはじめ全ての混乱はもとより神の知るところのもの、つまり神が自ら引き起こしたものである。


「ギリシア神話」は単にこの地方の伝説をつなぎ合わせたものではない。ここで「神」と呼ばれたものたちはすなわち「権力者」であり「人」とは「市民」とその下層にあった「奴隷」たちである。神話に登場する「勇者」や「絶世の美女」たちは「神」の血を引く者つまり権力者たちの落とし子にあたる。戦争や災害などの史実に神話を添わせ、権力者たちに土着の自然神の性格を纏わせてその出自をより強固で神性豊かなものに作り上げていったというのが今の一般的な解釈である。「古事記」や「日本書紀」についても似たような認識がもたれている。


しかしこの解釈によってしまえばギリシア神話は権力者たちの血統書という性格から抜け出さないことになる。実際はどうなのだろうか。


われわれ現代人が「神」という言葉に期待するものはこのギリシアの神々は持ち合わせていない。絶えず禍根をばら撒いては戦を起こし血を流す。それは血を好むというよりも血に価値を置いていないと言うにふさわしい。なぜならこのギリシアの神々はいくらでも人と交わり容易に子を産み増やすことができる。殺そうが殺そうが代わりはいくらでも作ることができる。むしろ儲けた子どもたちに難題を与え、互いに争わせ、競わせ、落伍者たちをふるい落とすことに心血を傾けていたようにも見える。勇者たちはより高く、より速く、より強くあることを競い、勝者は世界を築くが敗者はライオンの餌食となった、そんな秩序を後押ししていたのがギリシア神話だろう。

神話は彼らの思い描いた残忍とも言える世界秩序を極めて詩的に語った。加えて完璧な神の姿を彫刻という視覚芸術で表現した。やがてローマ人たちがギリシアを飲み込み彼らの帝国を築くにあたっても下に敷いたのはこのギリシア神話的秩序だったといえる。ローマ人はギリシアの神々にラテン語の名前を与えて踏襲し、美術の世界もギリシアの理想「完璧な美」の更なる追求を推し進めた。

嫉妬に狂い愛人を喰い殺すような女神が豊満でたおやかな身をくねらせ、髪に花をかざして微笑を湛えている。侵略と姦通を繰り返す男神は鍛え上げられた身体と威厳に満ちた顔を持つ。彫刻を通して神々を見るものは魅入られ、その行いを崇め、人間たち自らの強欲をも神になぞらえて肯定する。
そうした価値は実は現代まで生きている。キリスト教が広まるにつれてギリシア神話そのものは否定され埋もれていった、しかし、ギリシア神話の根底にあった権力者のための世界秩序はキリスト教社会が見事に継承していたのである。
(キリストの説く慈愛に満ちた教えと「キリスト教」および「キリスト教会」はさして関連がないと断言できる。教会は営利団体でありその教義は彼らの都合で常に変わる。)
14世紀になりルネサンスを迎えた欧州では、絵画、彫刻、建築を通し「ギリシア」の再来が実現した。遠近法の開発は絵画により写実的な奥行きを与えることに成功し「神々の世界」をあたかも現実のように、そしてこの上なく甘美に描き出した。無表情かつ直立型であったギリシア・ローマ時代の彫刻に怒り・苦しみ・喜び・嘆きの表情とともに躍動感が加わえられ、あたかも神々が人と感情を共有しているかという如き期待がもたらされた。建造物にはギリシアの神殿建築の様式・装飾を取り入れ、地中海地域の深層に横たわる「神性」を憑依させ新たな権威の象徴とした。


そして現代、子供たちに無理難題を与え、互いに争わせ、競わせ、ふるいにかけて落ちこぼれを作り出し、勝ち負けを押し付け勝ち残っていった者たちがまたしても争う、そんな現代は古代ギリシアの神々も恐れ入るのではなかろうか。

              横浜正金銀行
                  旧横浜正金銀行  ギリシアは日本まで到達していた



古代ギリシア人は遠征した先々の土着の信仰をも吸収し、ギリシア語の名をつけて神話の中に加えてしまう癖があった。われわれがギリシアの神々と知るものの一部はギリシアを取り巻く地域の神や王族である。

ケンタウロスの名で登場する民族もそのひとつで、半人半馬のその姿はスキュタイの騎馬民族の勇猛な戦いぶり、特に馬を駆りながら弓を打つ戦法を見せ付けられたギリシア人がその恐怖から想像したものであるという説がある。ケンタウロスは葡萄酒に悪酔いしたという描写がなされている。スキュタイも葡萄酒を知らなかった、つまり葡萄の生えない東方の乾燥帯に拠点を持っていたところは面白い一致である。

騎馬民族は身軽で機動性がよいため言語や伝説などを驚くべき速さで伝達する可能性がある。古代、地中海地域と東アジアの間を縦横に行き来しながらお互いの伝説を運び伝えることができる者たちがいたとすればまず騎馬民族が挙げられ、それは大まかには先述のスキュタイをはじめソグドや匈奴、月氏をさす。経由の軌跡は追いきれないが、最後には大陸から列島に伝わり日本神話の要素となった。日本の神話とギリシア神話の類似性、それは「類似」ではなく、神話の伝達者が存在したことによる「共有」といえる(この説は吉田敦彦氏の研究によるものである)。ただし神話として完成したものが伝達されることはまれで、むしろ神話の原型となった伝説や史実が伝達され、それがそれぞれの地で別の神話として出来上がった例のほうが多いように見受けられる。

スパルタからみればヘレネーが去っていったトロイアは東方に当たる。これについても興味深いことが日本神話のなかに隠れている。
「赤い玉」から生まれた美しい娘はアメノヒボコ(天日槍)の妻となった。娘はヒボコに日ごと豊かな食事を用意し尽したが、それに奢ったヒボコに罵られたのに腹を立てた娘は祖(おや)の国に行くといって姿を消してしまったという。ヒボコは後悔し妻を追って「東の国」へとやってきた。このアメノヒボコという男、じつは新羅の王族である。
「古事記」ではこの娘の名は阿加流比売神(アカルヒメノカミ)とあり、ヒボコとアカルヒメが夫婦喧嘩をしたのが新羅、アカルヒメが祖の国と呼び帰りついたのは日本の難波の津である。しかしヒボコは海の神に遮られて難波津に近寄れなかったために仕方なく但馬へと向かいそこで現地の娘と結ばれることになるという。
「播磨国風土記」によれば船団を従えたアメノヒボコが至ったのは播磨の海、それを迎え撃つは伊和大神またの名をオオクニヌシノミコト、製鉄集団であったヒボコの一族は良質の砂鉄のある播磨を目指しやってきたが、出雲についでこの地を平定しつつあったオオクニヌシの抵抗にあい激しく争った。折れたヒボコは但馬の国へと行きそこに定着したとある。このあたりも鉄資源に恵まれた土地である。

「日ごとの豊かな食事を供じて夫に尽くす」であるが、古事記の原文では「常設種種之珍味、恒食其夫。」とある。これはアカルヒメが豊穣の女神であったとも解釈できる。豊かな糧に驕ったヒボコすなわち新羅の王族は女神をないがしろにし、畏れることなく木を切り倒したために精鉄の燃料に欠かせない森林資源が尽きてしまったと考えると、どういうわけか瀬戸内海が地中海に繋がる。

ヘレネーはギリシア神話に取り込まれる以前はスパルタの地の土着の女神であった。樹木の女神であり、結婚と豊穣を司るとされていたのである。つまりヘレネーとアカルヒメをめぐる神話は同一のものかも知れないのである。ギリシア神話の中ではトロイア戦争が神々のいざこざとしか描かれていないが、ヘレネー簒奪劇の原型は多分に呪術の要素があったと思われる。
アカルヒメもヘレネーのように「玉」から生まれておりこの手の伝説は東シナ海を取り巻く地域によく見受けられる。またアカルヒメの母親は日光によって身篭った。これにも同じような伝説が中央アジア諸地域に見られる。


ヘレネーの故郷スパルタは今のギリシア・ペロポネソス半島、ミュケナイ文化の栄えた地である。ここに住んだ者たちは自らをアカイア人とよんでいた。アカルヒメの名の由来がアカイアだったとすれば、面白きことこの上ない。


古事記、日本書紀は日本の正史を伝えるものではない。時の権力者がその出自に神格を裏付けるために書かれた部分があまりに多く信憑性に疎い。しかしこれらをただの偽書とは言い難いのは、読み方によっては奥深く、史実の上を行く何かを見出すことができる書物であるからである。同じ題材がギリシアでは血みどろの戦いに描かれているのに対し記紀での扱いはは夫婦喧嘩だったりする。海の向こうから来た神様に言葉が通じなかったため途方にくれたオオクニヌシが蛙に助けを求めるところなどは可愛さすら込み上げる(これは蛙つまり雨を降らす神がオオクニヌシよりも昔からこの地にいたことを暗喩する)。もちろんギリシア神話に劣らぬ残忍な話も中にはあるが、概しては山と海に抱かれて生きてきた日本人たちの姿を豊かに描写し先祖の国づくりへの思いを今日に伝えている。大陸各地から集まった渡来人たちにたいしても「気づかい」のようなものが見え隠れしている。ただし国内の外縁にある人々に対して明らかに配慮がかけているのは現代に通じるものがある。



ギリシアの神々の血を引く西洋人は、かれらの先祖の思い描く世界秩序を全うさせようとしている。それを今我々は鼻先に突きつけられている。国境が取り払われた混沌の中で人々は競い合いに明け暮れることを余儀なくされ、敗者が勝者に身を奉げる様相がさらにあからさまになるだろう。多くの人の目にそれが地獄絵とは見えず、あたかもルネサンスの光溢れる油彩画のように映っているところが恐ろしい。

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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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