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ゆきにおもへば

雪の中をゆく。西も東も、朝も夕も知れず、ただ真白き雪の中をゆく。
色は消え、あしあとも消え、音も消え、時も消え、我も消えゆく、雪の中。


「雪」の語源を調べれば、決め手はないが諸説ある。筆頭にのぼる説は「ゆきよし(斎-潔し)」から来ているとあり、書いて字のごとく潔斎、斎み潔め(=忌み清め)ることを意味する。醜い穢れはこの世で最も白いものに覆い尽くされる。穢れはもはや目にも耳にも鼻にも届かない。雪に触れれば洗い清められ、その冷たさに肌は凍み穢れを遠ざける。
確かに雪が降らないとおかしなことになる。動物や植物に病気が流行る。作物の収穫が減る。井戸や湧き水が枯れる。水や土の微生物の均衡が崩れたり地下水が減るためだが先祖はこれらを「穢れ」と呼んで恐れ、神とのつながりの中で雪が穢れを祓う存在でありその生物界に与える恩恵を知りえたのだろう。
それに異存はないのだが、「ゆきよし」説はどうも腑に落ちない。まわりくどいというか、やまとことばらしからぬもどかしさを感じるのである。

「雪」は特殊な現象ではなく誰もが知り得るものである。まして、やまとことばの草創期はまだ最後の氷河期の影響下にあり今よりもずっと寒い時代であった筈、日本列島で雪を見ずに生きることはなかったと思われる。それだけ身近なものに「ゆきよし」という四音節の語句の後半を略して「ゆき」の名をあたえるだろうかという疑問、そして「潔し」の接頭語として同じような意味の「斎」を頂くのも疑問である(清められた清きものという意味の妙な日本語になる)。
漢字を知る前の日本語は純朴で明快であった。いや日本語を複雑にしたのは漢字である。大陸式の政治と経済を導入するにあたり生じた、それまでの日本になかった概念をやまとことばだけでは置換しきれなかったという不都合を解消するために漢語を外来語として輸入した。たとえば貨幣のなかった日本に銅銭を輸入することで漢語の「銭-セン」も同時に輸入され、のちに「ぜに」と日本語化して「銭」の訓読みとなったものである。漢語とやまとことばの混用が日本語を一気に複雑にした。もちろんことばたけでなく、まつりごとも人の心も複雑になった。


「雪」という漢字はふたつのやまとことばに充てられた。名詞の「ゆき」、そして動詞「すすぐ、そそぐ」である。冬に空から降る「雪」の字が「辱を雪ぐ」などの意味に使われるのはこの字がもとより両方の意味を持つことに由来する。ならば大陸においても「雪」に清める力があることを大昔から知られていたという事になる。中国語での「雪」は「拭い去る(wipe out)」に近い。しかし日本語の「すすぐ」は口の中や布を「水で洗う(wash)という風合いである。これは信仰と習慣の違いからくるもので、水に恵まれたわが国では穢れを身から離すためには流れる水の力を借りてきた。それを今も「みそぎ(禊、水灌ぎ、身灌ぎ)」という。水に削がれた身の穢れは土に川に注がれ黄泉の国へと流れ行く。

「雪」ということばはどこから思い起こされたのだろうか。
春は歳の始まりである。空は晴れ、映える日差しをうけて気は張り、木の芽も腫れ、霜の融けた土も脹れ、草が生える。これが「はる(春、晴る、腫る、脹る、張る、生える、映える、栄える)」である。
夏は熱に抱かれ穂や木の実は熟し、木々は伸びる。長い一日を親のそばで働きながら子らは伸び、熟す。これが「なつ(夏、熟つ、熱(ねつ)、伸(の)つ)」である。
秋に手に取るあめつちの恵みは歳ごとに同じではない。豊作も凶作も人の手に在らず、これでよし、とあきらめるほかない。「諦め」は「飽きらめ」である。そして「飽きらめる」とは辟易ではない。これでよしとすること、己に与えられた物と事に満足することである。手に入らぬと泣き暮らせば闇、手に入れることに盲執しても闇、しかし「開きらめる」ことができれば闇から開き放たれ明かりを見ることができる。これが「あき(秋、飽き、開き、明き)」である。
そして冬は土が、人が、山が、森が疲れを癒すためにある。古い歳は夜に眠りにつくように休む。雪が降り、ゆく歳の穢れを清める。そうして歳が経る。幾歳も、幾歳も。これが「ふゆ(冬、古ゆ、経ゆ、降ゆ)」である。
そう、ゆく歳は二度とはもどらない。だからこそ穢たままではなく禊ぎ清めて送り出す。ゆきはゆく歳のために降る。これが「ゆき(行き、逝き、往き)」なのであろう。
同じ音を持ちながら、あるいは母音を差し替えながら少しずつ異なる意味に枝分かれするのがやまとことばの特徴でもある。「ゆきよし」の「ゆ(斎)」は「ゆむ-いむ(忌む、斎む)」の名詞化したものであり、「ゆく-いく(行く、逝く、往く)」とは互いに近いことばである。「ゆむ」とは「ゆかす」ことを、そして「生かす」ことを意味し、草木の生える春に繋がる。雪は歳の節目に大地を禊ぐとされていたのだろう。



雪のない東京で育ったせいか、雪への憧れはやまない。カッパドキアはそれほど雪深い処ではないにしても筆者には十分満足のゆく雪加減である。妙に明るい曇り空と、湿り気に和らいだ風に雪の訪れを知らされると心が躍る。
外は雪。こうして降るとなぜか落ち着かぬ気持ちになる。この世と己を繋ぐものが雪に掻き消され、何処の誰とも知れず、時が流れているのかも知れず、ただ忽然と雪の中に在るだけの、いやそれすらも知れぬ、ここちよさ、そしてやるせなさ、昔の俳人が「漂白の思ひ」と言ったのはこれだろうか。

故郷を離れて辛くはないかとよく聞かれるが、有難いことに少しも辛くない。親と国を顧みずにいるという棘が時折さして痛むほかはどうということもない。
日本で過ごした日々は帰国しようがいまさら戻りはしないのである。ましてや幼い頃も、自分が生まれる前の日本も、禊とともに明け暮れた先祖の時代も二度と還らない。今この時すらもみな記憶の淵に沈み時として浮かび上がり、また沈む。ならば同じこと、千年昔もつい先ほども自分からは等距離にある。ならば辛く思うことなどない。しかしこの淵からゆくすえが生まれることを思えばそこに何もかも沈めるわけにはいかない。そして身から雪がれた時を追い求めてもいけない。雪はそれを思い出させてくれる。

しろたへの ゆきにおもへば はらからの ゆくすゑのなほ さちおほからむ



はつはるのごあいさつは節分の頃にいたします。まだまだ続く長い冬をどうかご自愛の上おすごしくださいませ。







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英国流「漁夫の利」


「アラブの春」が西欧によって書かれた台本に沿って進行していることをこのブログで再三指摘してきた。民主化から取り残された市民が国家の主権を得るために戦う「聖戦」であるかのようにメディアにより描かれた一連の抗議行動を「春」などと呼ばされているが、それが如何に狡猾に設計されたものであるかを今回、あらためて遠巻きに眺めてみることにする。



大航海時代の覇王であり、産業革命の旗手であり、第一次大戦の連合軍筆頭であり、国際連盟常任理事国であった国、冷たい海に浮かぶろくに資源もない小さな島国でありながら常に世界の頂点にあるのは「英国」である。いったいどういう頭脳をしているのかは知らないが、とにかくこの国の手段は人間業とは思えない。まず他国の内側に墨の如く染み入り人心を惑わして均衡を崩す。その混乱に乗じてその国の体制を作り変える。そのときに恨みと争いの火薬を綿密に仕込んでおくことを忘れず、時が来れば発火させて煽りたて内戦や紛争を起こす。しかもこの火薬は自らの手を汚さずに何度でも激しさを増しながら繰り返し燃え上がらせることができる。もちろん英国の描いた世界設計図に合うように、的確にである。英国が戦争で大暴れをすることはなく、また積極外交もしない。知恵を使って座りしままに漁夫に利を得るのがこの国流である。


中世も終わる頃、航海技術の進歩から世界の「かたち」が認識されるようになった。農業生産中心の自国経済に限界を見出しアジアや南米・アフリカ大陸からの搾取を前提とする貿易経済に移行した西欧は、さらに国外から安価で仕入れた材料で工業生産を行う形で発展を図った。産業革命である。そのための労働者は国内にいくらでもいた。産業が拡張するに従い徐々に需要が増したのが資源である。

西欧世界の資源庫はまずアフリカが挙げられる。必定、アフリカは次々と西欧列強に征服される運命をたどる。しかし欧州からもっと近いところに石油も石炭もうなるほど隠されていた。イラク、シリア、エジプト、アラビア半島、北アフリカ…どれもオスマントルコ帝国の版図にあった。


第一次世界大戦の場合、「バルカン半島の民族自決の擁護」がこの戦争を正当化する材料であり「サラエボ事件」が大戦の発端となった。言うまでもなくこれは戦争を起こすための名目でしかない。
「ヨーロッパの火薬庫」という20世紀初頭のバルカン半島を形容したこの言葉はあまりに有名である。オスマントルコ帝国の領土であったこの地域に共存していた多様な民族は18世紀の終わりからすこしづつその手を振り切り、「民族自決」を合言葉にそれぞれの国土を主張し第一次大戦前までに小さな王朝がいくつも誕生した。大国の狭間でどれも国家として成立する力のないほどの小国をわざわざ生み出し、その後ろで西欧は民族間の緊張を高めようと画策し、満を持してセルビア青年に武器を与えオーストリア-ハンガリー王国皇太子を手にかけるというサラエボ事件を起こした。自ら仕掛けた火薬庫にこうして火を放った。

(じつはサラエボ事件の前に日本で似たような騒動があった。「大津事件」である。来日していたロシアの皇太子(後のニコライ二世)が日本人巡査に切りつけられ負傷したこの事件だがロシアとの戦争には発展しなかった。不成功におわったとしてもこれが英国の差し金によるロシア挑発だったとすれば、血の日曜日も日露戦争ももっと早く起こっていたかもしれない。)


結果からいえばオスマントルコ帝国は第一次世界大戦に臨みドイツ・オーストリア側にについて敗戦し割譲を受ける。トルコの領土はアナトリア半島と呼ばれる一帯のみを残し、旧オスマントルコ帝国の領土からは20カ国にのぼる大量の独立国が誕生する。「イスラーム」という一つの共同体意識のもと、異人種、異民族、異言語という壁を壁ともせずに栄えていた帝国を内側から焚きつけるための火種、それは「民族自決」の一言であった。


敗戦国は戦後処理の名の下に、戦勝国の監視により国家体制の作り替えを強制される。中世であればただ属州とされる所だが近代の理屈ではそうも行かない。すでに通信が発達したこの時代、露骨な侵略支配を行えば当事国以外にも評価が残り後の時代まで侵略国の汚名を背負うであろうことはすでに理解されていた。ここで国際世論にも、そして後の歴史認識にも有無を言わせないための大義名分を打ち立てることが提案された。そこで1920年に国際秩序の監視役として正式に誕生した組織こそ国際連盟である。表向きは「国際紛争の平和的解決と国際協力のための機関」、その実は西欧中心の新世界秩序を正当化するための国際会議である。

常任理事国は英・仏・伊、そして日本であった。有史以来地中海世界と接触が皆無である日本をわざわざ参入させたのは理事会の中立性を演出する茶番といえる。第一次世界大戦の目的と連盟樹立の意義はこのトルコ割譲であった。

トルコが連合軍に突きつけられた新国家体制とは、

1. 帝国という旧態依然とした枠組みを廃止して周辺の資源地帯を手放し
2. 政治からイスラームを払拭し旧領の独立国との結束を捨て
3. 西欧寄りの世俗国家としての道を行き西欧の政治・経済・軍事に寄与する

これが大筋である。これに背けば連盟から非難を受け、将来にわたり国際条約を締結する折に何もかも不利にはたらく。連盟も、その後の連合もただの巨大な権威組織であり国際平和などは夢にも思わない。


イスラームとは信仰という枠の中にはとどまらず、生活と社会の規範としての重要な役割があった。イスラム帝国であるオスマントルコの領内の政治経済その他全ての規約はクルアーンに基づくイスラム法によるものであり、それぞれ異なる言語と歴史を持つ多様な民族を抱えながらも帝国の内部の均衡はイスラームの屋根の下にしかと保たれていた。異教徒は人頭税を納めることで帝国市民権を得られ兵役は免除されていた。
英国は19世紀初頭からしきりに民族自決を囁き資源地帯の属州をトルコから精神的に遠ざけようと画策していた。それが功を奏してアラビア半島、北アフリカ一帯の造反があいついで帝国はほころび始め、大戦勃発までに混乱は明らかなものとなった。帝国から独立を果たした資源地帯の国々は以下のとおり、モロッコ、アルジェリア、リビア、チュニジア、エジプト、パレスチナ、サウジアラビア、アラブ首長国、イエメン、バーレーン、クウェート、カタール、イラク、シリア、レバノン、ヨルダン、西欧の手口が巧妙と言わざる得ないのは、見事なほどちりじりばらばらに独立させたところにある。この国々は現代も近隣国と協力関係を築くことより目先の利益から欧米の指人形として働くことを選ぶ。エジプトでは英国委任統治時代にオスマントルコへの帰属か英国の統治を継続するかを巡り市民投票が行われたが、西欧化を求めるだろうと踏んでいた英国の算段を裏切りエジプト市民の大多数はトルコ帰属を選択した。こうした想定外の事件には「市民に教育が足りないので選挙無効」という処理法も持ち合わせていた。2012年のエジプトでの大統領選挙を無効にしたあの事件は実は英国のお家芸であった。


さらに、帝国の解体後に新生国家郡が再びイスラム連合として結束することを危惧した英国はイスラームの最高指導者であるカリフを廃して国外に追放した。カリフとは預言者の代理人、言うなればカトリック世界のローマ法王にあたる聖職であり、帝国誕生以来首都のイスタンブールに座し世界のスンニ派イスラム教社会の信仰生活と政治の指針を担っていた。イスラム世界はこうして求心力を失うことで迷走し、それが今日のイスラム社会の諸問題の原因となった。

いかに敗戦国といえど西欧にここまでの無体を受けてなおトルコは西欧化と世俗化を受け入れるのだろうか、それが受け入れたのである。巧妙な仕掛けは尽きない。

(オスマントルコ帝国と日本とは少しも関わりがない。しかし少なからず西欧というものに疑いの目を持つ方々には、これまでの話しが開国と敗戦という日本の被った二度の痛手と妙に共通するところがあることは感じていただけると存じる。)

歴史の授業では「セーブル条約」なるものも習う。1920年に連合国とオスマントルコとの間で交わされた戦後処理条約であるが、それによればトルコはアンカラ周辺の狭小な地域のみの領有を認められたとある。トルコ人が嘆き、怒り、失望に陥る中で一人の軍人が彗星の如く現れ、ギリシア駐屯軍を蹴散らしてイズミルを奪還し一気に共和政府を樹立し初代大統領を名乗った。そしてセーブル条約からたった三年でトルコは旧態依然とした帝国から見事民主化を果たしたと連盟に評価され「ローザンヌ条約」を締結、それにより現在の国境線まで国土を回復したとある。その軍人とは建国の父と謳われるケマル・アタテュルクである。

だがセーブル条約などはどこにも存在しない。英国はロシアで確立しつつあった共産圏に対する緩衝地帯としてトルコを温存したかった。しかし西欧へのトルコの国民感情は最悪でありその反動からロシアに靡くことを懸念したため、黒海沿岸と東部トルコをロシアに与えて残りの海岸線地帯を英・仏・伊が割拠するという戦後処理案をちらつかせたのみであった。つまり「脅し」をかけトルコが西欧への仲間入りを泣いて懇願するように仕向けたのである。現代のトルコの領土は最初から英国の描いた国境線の中にある。架空セーブル条約は将来トルコ軍部が国内向けにおおいに利用した。
「セーブル条約」を信じたトルコ国民は死刑宣告に近い悪夢を見た。それを西洋人の目の前で破り捨てたとされるアタテュルクに対し国民はこの世が終わる日まで感謝を捧げ続けなければならないような錯覚に囚われた。アタテュルクは死後にいわば神格化され、彼のその遺志を継いだとされる「ケマリスト」たちの専横がはじまった。西欧の属国として「民主主義世俗国家トルコ」を作る傍ら国内の民族間の不協和音を指揮した。クルド民族のテロ問題は民族問題などではない。テロさえあれば失業しない軍部と、民族問題さえあれば民族主義の風を吹かせて国を牛耳ることができるケマリストと、ケマリストさえいればトルコを属国として扱える英国の共有財産である。


はたしてその火薬とは、ただの民族意識を敵対の道具に仕立て上げた「民族主義」である。


人種とは肌の色に代表される生物学的な括りである。さらにそれを言語、信仰、国境、記憶などの細かい括りで別けたものを「民族」と呼んでいる。
人間の遺伝子情報を俯瞰すれば民族間の差異などはじつに僅かなもの、いや皆無といえる場合もある。しかし人種と民族の違いに由来する争いは絶えることがない。人種による差別はやや前時代的なものになったとしても「民族」の問題は逆に加速をみせている。そうさせているのはその僅かな違いではない。



幼い頃、子供たちの間には罪のない差別と支配がそこらじゅうにあった。好きな歌手が違うから、着ている服が変わっているから、大人びているから、特技があるから、とにかく虫が好かないから、と、言い出せばきりがないが自分たちとは何かどこかが違う少数派を差別し、多少なりとも攻撃した経験が誰にでもある。あるいは逆の記憶もあるだろう。子供たちの社会で起こる現象は自然にちかい。ならば人の中には差別という自然が備わっていると言ってもいい。
ではなぜ差別をしてしまうか、それはひとえに保身のためである。自分たちにない特徴を持つものと行動を共にすると厄介なことになる、あるいは損をする。その日までに築いた自分らなりの規律や価値観を壊される、だから異分子を受け入れたくない。これこそ「虫が好かない」の構造である。生存圏を維持するための本能のようなものであり、差別そのものに罪はない。

幼い兄弟がいるとする。兄は弟のおやつをよこせと言い、弟が作りかけた積み木の塔を横取りして作り変え、一緒に遊ぶときもどう遊ぶかを指示して従わせる。これは強い方が弱い方に対して抱く支配欲求である。親(特に母親)と子、夫婦、友人、教師と生徒、どちらが強者であるかはその都度かわりえるが、支配欲というものは人が出くわすあらゆる関係のなかで必ず頭をもたげる。これもまた人の中の自然である。人が生存圏の拡大と充実を無意識に求めるために起こる。

しかし差別心も支配欲も相手の存在を認めることで鎖につなぐことができる。相手の持つ自分との違いを魅力と認識できるようになれば状況は大きく変わる。
そのためにはお互いが人として成長するか、または心ある大人に諭されるかを待たなければならない。

差別も支配も源とするのは利己である。人が生まれながらにして利己であることは昔も今もかわらない。しかし人がみな利己を貫いたのでは草生えぬ土地となり子や孫たちが生きる場所を失うことを、時代とともに学びあらゆる形で戒めてきた。それが人である。利己と戦い、躾け、他者との共存を模索してきた。ときに成功し、ときには不毛の荒野に墓標すら残らない。それが人の世である。

もともと利己な人々が集団で生きるために従わなければならない規範、古代においてそれは信仰であった。神の怒りを恐れることで自らを律し、神の報いを期待して善行をおこない、神との繋がりのなかで集団の価値世界を築いた。その世界を共有したものが「民族」の始まりである。
民族は分裂と融合を繰り返し、移動し、互いに価値を認め合えない異民族を蹴散らし、あるいは圧力をけ、反抗する者を抹殺した。恭順する者を支配した。支配を逃れて新天地を目指した。民族の生存圏を維持し拡大するための行動の軌跡が歴史である。
時代は降り、神に代わり或いは神の名において人を従えたのが国である。法に書かれた罪と罰の規範の中で人は否が応でも利己を抑えて国を共有した。軍事・経済・政治の面から強大な帝国に多民族が専制的に統括されることで戦争の起こりにくい時代を築いたこともあった。それがローマであり清であり、オスマントルコであった。規模は異なるがムガール帝国も江戸時代の日本もそうであった。

こうして眺めれば「人」と「民族」は相似の関係にあることがよくわかる。すなわち民族間の差別や支配も「利己」を源としている。一つの民族の中の個々が所属する共同体の価値と利益のために他の民族を疎外し、嫌悪し、あるいは利用して支配する。その構造の利用法を「民族主義」として開発したのが英国、それを煽り立て起きない戦争を起こしてきた。ローマは古いのでともかくとして、清もオスマントルコもインドも江戸幕府も英国にしてやられたではないか。

英国は外交の表舞台から姿を隠した。かわりに饒舌になったのが米国とイスラエルだが同じこと、鵜にくくりつけた縄を引くのは未だに英国である。

民族自決という美辞により独立建国を果たした国をみれば今、スンニ派が大多数をしめる国にシーア派の支配者がいる。シリアがそうである。その逆はバーレーンである。それぞれ他民族の住む複数の地域を無理に国としてまとめられたのはイラクである。虐殺の記憶の中で民族同士が敵視しあう国がある。ソマリア、ウガンダ、旧ユーゴ、パレスチナである。遠隔操作の爆弾を抱えさせられ主権も主張もできない国に自決も何もあったものではない。

政教分離という麗句は民族問題の解決策のひとつかのように聞こえるがどうだろう。特定の信仰・宗派が優遇されないためとされるこの政策は非キリスト教国の悪夢であった。これにより教育と風習から信仰心が叩き出された。結果として英国を背後に持つ世俗主義者の手に政治を受け渡すことになった。エジプトが、シリアが、チュニジアが、湾岸諸国が、その他西欧に支配を受けた全ての地域がそうである。

このような国々では日々、西欧の資金と入れ知恵で抗議集会や暴動が起こされ西欧から好かれない分子は現地の軍部に一掃される。時に起こる大虐殺をには自決権のある独立国に対し外から干渉することはできないと目をつぶり、そうかと思えば別の国には人道人道と叫びながら空軍がミサイルを撒き火事場泥棒を働く。
民族自決を謳った当事者はいま「グローバル化」と称して世界を均一に扱うことを標榜している。グローバルな世界には民族も信仰も言語も記憶も何もない。人はただの労働者と消費者であり、人と人との間には貨幣と物質の交換の他の何もない。こんな連中のいうことを鵜呑みにしていては明日はない。

さて日本、近隣国との中がこじれた経緯は近代史にきざまれている。どの悲劇も遡れば英国に行き着く。

恨みの記憶、言葉と思想の違い、人がみな生まれつき背負うもの、それを火薬たらしめる者たちから死守しなければならない。手を変え品を変え近づく卑怯者どもに隙を与えてはならない、そのためには近代から戦後にかけ英国とその弟子たちから教えられた全てのことをいまいちど吟味すべきである。わが子たちに火薬を背負わせ火の中に歩ませてはいけない。

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Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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