ことはじめのまとめ

まわりくどく書いて重ねるまでもなく、春の始まりをもって新年とするのが本来なのであろう。
いまだに立春のころを新年(春節)として祝賀する中国文化圏の人々は、単に残された風習に拘り続けているのではない。
祖先を敬うが故と大雑把にくくることもできようが、その中を吟味する価値はある。
儒教の精神を尊ぶ彼らは当然先祖を敬い祀るのであるが、それは霊廟を掃き清め祈りを捧げることだけに止まらない。
習慣という祖先から伝わる行為を、その表層だけでなく意味をも含めて後代に残すことを忘れなかったのである。

清朝の滅亡とともに西欧に習うべくグレコリオ暦が採用され今日でいう一月一日を新年としてはいるが、彼らの
精神は春節にこそ新年を迎えるのである。

さて日本。
いまさら我が国の新年にケチをつける気はないので先にことわっておくとする。
維新の際、改暦のみならず総てにおいて西欧に迎合するほか本当に道がなかったのかどうかは知る由もなく、
改暦することで福沢諭吉がボロ儲けしたのもこの目で見たわけではないのだが、
その評価はともかく維新の時点で旧暦を旧暦たらしめ西欧と同じ暦を使い始めたという、それに尽きる。
凡そ日本人ほど新しいものを歓迎する民族はいない。外から来る文物にはめっぽう弱いのだ。
クリスマスやヴァレンタインに大騒ぎをするのは多分に市場経済が関わっているのでそれはどうでもいいとして、
西欧のしきたりに合わせるため新年がまる一ヶ月もずれたことに誰も何とも思わないのか、
そこが不思議といおうか、歯がゆいといおうか、へんに日本らしさを感じてならない部分なのである。

年に一度、方々に散った家族が顔をあわせる。鐘のおとに耳を澄ます。
祖先たちが豊穣を願ったのと同じように、始まろうとする一年が実りあるものであることを祈る。
国中で祈る、それこそが新年の心臓ではなかろうかと思う。いや、願う。
千差万別の思いを正月という言葉で分かち合うのにキリがいいのが一月一日だというのなら、それでよいではないか。

玄関の正月飾りには梅の花をあしらう。作り物であったり単に紙に描かれたものであったりする。
あるいは特別に栽培されたものなのか。いずれにせよこの時期に咲くはずのない花である。
もし子供にそのことを指摘されたら、
むかしはこの花のほころぶ頃に新年をお祝いしていたんだよ、と
頭を撫でながら教えてあげたい。
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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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