ローマ法王狙撃事件の証人 (6)

  • 2010/02/08 23:42
  • よりわけ: 世界
当人の供述では、ブルガリア入りしたアージャはブルガリア政府の情報組織と接触し、300万ドイツマルクの報酬と引き換えに法王狙撃を請け負ったという。

狙撃当日のバチカン市国、サン・ピエトロ広場には一万人以上の参拝者が法王を見守っていた。
その群集のほとんどが、全く予期せぬ事態を目の当たりにする。
アージャの手にしたブローイング製オートマチック銃から発した9mm弾3発が、神の代理人の手と腹に命中した。

イペクチ狙撃に際してアージャを援護した「第二の狙撃手」は、今度は爆発物を手に狙撃を待っていた。狙撃が遂行された
直後に爆弾を炸裂させアージャをブルガリア大使館に逃げ込ませる役だった。が、操作ミスのため爆発は実現をみなかった。
外国人二人が流れ弾にあたり負傷した。アージャはバチカン憲兵により身柄を拘束された。

1983aca
アージャはイタリアにて服役。犯行から二年後には法王自らがかれの独房に出向き、面会を果たしている。
その時点ではすでに完璧なイタリア語を話したアージャは通訳を介さずに二時間にわたり法王と語り合ったという。
(アージャの弁護士談)

法王は人々に対し「すでに許している兄弟(アージャのこと)のために祈りを」求め、「二人の間で話されたことは二人の間だけで
留めるべき」と言い、面会の際に話した内容は語らなかった。

イタリアの刑務所で服役中にアージャが取られた128にも及ぶ調書はどれをとってもつじつまが合わず、
犯行の動機や背後の組織については今も謎のままである。結果、反共のふところ刀だった法王を排除しポーランドの
民主化を阻止せんとするKGBの陰謀だったという処に落ち着いている。
86年イタリア国内法にのっとって終身刑が言い渡されるが、法王の恩赦によって2000年5月13日放免されトルコ側に引き渡される。事件から19年経っていた。

「赦す」ことこそ法王の仕事なのだ。(赦さんとは言えまいて。)

帰国後すぐにトルコの刑務所に収監、イペクチ狙撃の罪ですでに死刑判決を受けていたアージャの刑は10年の量刑に減刑され、さらに別件で刑が追加されたため36年となったが、長期受刑者に対する特別措置がとられ7年2ヶ月に短縮された。
2006年1月刑期を終え放免となるが、法務省の訴えでそれが取り消され再び入獄した。

今年2010年1月18日、自由の身となる。
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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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