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アジアのあさ、ヨーロッパのゆう その二

1453年、コンスタンチノーブルが堕ちた。
東ローマ帝国の王都であり、キリスト教の総本山でもあるコンスタンチノープルはイスラーム勢力・オスマン朝によって陥落した。


古代ギリシア人は世界の中心部の人間という考えから自らをアジア人にもヨーロッパ人にも属させなかった。やがて地中海全域からイングランドまでがローマ帝国の手に収められるが、彼らもまたローマ人という意識の元に生きた。
ローマ帝国はキリスト教を迫害していたが後にこれを認め国教とした。その後帝国は東西に分裂し、西ローマはカトリックを、東ローマはオルトドクスを信仰して激しく敵対した。その立地ゆえ西ローマ帝国はゲルマン人の移動やフン族の侵入に脅かされ続け、五世紀の前半には瓦解しイングランド、フランク、イスパニア、ベネツィアなどの小国に分かれた。

この頃も「ヨーロッパ」という言葉がとくに使われることはなかった。

残った東ローマ帝国は徐々に版図を失ないながらも十五世紀まで持ちこたえ、最後は遊牧民を祖先に持ち後にイスラム教徒となったテュルク(トルコ)人に追われることとなった。そして誕生したのがオスマン帝国である。
それ以前、対立と分裂が絶えなかったキリスト教徒の最大の敵はキリスト教徒でしかなかった。が、イスラームという共通の脅威が形となって現れたのを機に汎キリスト教徒が同盟する必要が生じたのだ。キリスト教内の紛争をかたづける為に宗教的な意味が全く入っていない「ヨーロッパ」の地名を敢えて使い始めた。そして「ヨーロッパ」が一般的に使われる言葉になった。

それに引きかえ「アジア」はキリスト教社会にとって意味をもった言葉であった。高度な文明が存在しながら非キリスト教徒の地である「アジア」への伝道はキリスト教徒たちの使命であり、野望であった。


アジア、ヨーロッパ、この二つの言葉は、単に地域の名前としてではなく勢力地図上で使われていたことが明らかである。大航海時代にヨーロッパが圧倒的な腕力を以って世界を席捲して以来、現代の世界情勢の型枠はおおよそ出来上がってしまった。勝者であるヨーロッパに対しアジアは敗者である。アジアの「弱小」「貧困」といったイメージはここに由来する。

ヨーロッパを地上の王者と認めてアジアをそのしもべと称するのであれば自らを「アジア人」として卑下するのもよかろう。しかし冒頭にも書いたがそれは神様の決めた事などではなく、ヨーロッパ側の勝手な言い分にすぎないのであって鵜呑みにする義務はないのだ。




でも日はまた昇る、東から。神様がそう決めたから。



つづく
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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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