皆様の中にはトルコのカッパドキア地方を旅行された方もおいでになると思う。
筆者はこんな地域に棲んでいる。ただ残念なことにこの洞窟の中に居るわけではなく、さらに残念なことには新市街の近代住宅に棲まっている。
三つの火山に囲まれたこの地方は噴火によって降り積もった火山灰に覆われ、噴火ごとに成分の違う灰と礫が層を成し、それが雪と風に浸食されて形作られた。
カッパドキアは紀元前から中世までのあいだ地中海地域に興亡したいくつもの帝国に支配をうけた。紀元後のローマ帝国の統治下、初期キリスト教徒たちはその迫害から逃れこの地方に隠遁した。柔らかい堆積岩を穿って部屋を作った。カッパドキアの洞穴教会や地下都市をはじめとする共同施設の跡は彼らの棲み処であった。時代は降り、東ローマ帝国の保護を受けるようになるとメテオラやアトスとともにギリシア正教の聖地として数えられるまでになった。

迫害から開放された人々は洞穴の前方に石造の部屋を増築した
11世紀にイスラム教徒であるセルチューク朝トルコがこの地を掌握、15世紀にはオスマン朝トルコが東ローマ帝国を滅ぼして大帝国を築く。帝国の中の異教徒たちはイスラムに改宗するものもあればそのまま同じ信仰を守り続けるものもあった。カッパドキアのキリスト教徒たちもその共同体を侵されることなくそこに棲みつづけた。

第一次世界大戦に大敗したオスマン朝トルコ帝国は終焉を迎え、その版図の大部分を失った。独立戦争を経てトルコ共和国を建国したものの残されたのは小アジアと呼ばれる半島、そしてその西の対岸の僅かな地域であった。
そのとき、旧領に棲んでいたトルコ人、自らをトルコ人と認識する人々は新生トルコ共和国に引き上げた。逆にそう思わない人々は遠い先祖の地へと還っていった。
人の作り出したものは人の息吹と共にある。それを使う人が、そこで生きる人が去ったその日に血の通わない塊と化す。それを「廃墟」という。中でも偉大で立派なものを特に「遺跡」というのである。廃工場とパルテノン神殿の微妙な違いはここにある。
たとえば日本の古い寺社を遺跡とも遺構とも呼ばないが、それは建立された当初の目的を今も変わらず担い、生きているからだ。そこは今も掃き清められて寺社としての作務が執り行われ、後を担う者が育ち、参拝に訪れる人が絶えない。神社仏閣に限らず民家や町家、市街、もし生きたまま残したいのであれば使い続けるほかに術はない。
遺跡は、膨大な労力をして修復に成功したとしても遺跡に過ぎず、博物館の宝物と似ている。それは過ぎ去りし日の面影を伝えてはくれるが我々をその時代に受け入れてはくれない。
キリスト教徒たちが後にした洞穴集落、その運命は遺跡となることを選ばなかった。ギリシアやマケドニアの地からトルコをめざし還ってきたイスラム教徒たちを受け入れたのだ。教会の祭壇が廃され、メッカを向く南東の壁にミフラーブ(礼拝する方向を示す窪み)がしつらえられモスクに転用された。鐘楼からは鐘がはずされ、そこから礼拝の時刻を告げるアザーンが読まれるようになった。カッパドキアはかくして砂塵に埋もれることを免れた。

十字架はおろされて新月が掲げられた
異文化の住居に下敷きにトルコ民族の生活が綴られた。
彼らは中央アジアの遊牧民を祖に持つ。遠い昔は牧草を求めて羊と共に移動しながら生きていた。自然を神とし、先祖の霊を崇めていた彼らはいつしかイスラームを受け入れ、やがて帝国を築いた。
住居の中で靴を脱ぎ、夜は床に寝具を敷いて眠り、朝は片付ける。それには床に羊毛の厚い絨毯が欠かせない。住居の下階を家畜小屋とすることがおおく、これは冬、地面からの厳しい冷気を絶ち住居部分を暖かく保つのに役立つ。春には羊の毛を刈り絨毯の材料に、あるいは寝具の中身にする。農作業のない冬、女たちは絨毯を織る。先祖代々、羊との付き合いは長い。
(トルコの民家についてはいつか長々と書いてみたい)
そんな暮らしも近年、放棄されつつあるのは言うまでもない。電気や石油製品、という便利なものの普及は人の暮らしを変えてしまった。流通がそれを後押しした。
畑に出て、家畜の世話をして、チーズをつくり、布団をこさえ、絨毯を織る必要がなくなってしまったのだ。「新市街」に移ってゆく人々。

筆者の生業は建築設計である。育児に追われていた頃は休業せざるを得なかった。が、末の子が生まれて一息ついた頃に仕事に恵まれた。廃墟と化した洞穴住居の改修の設計、そして工事管理だ。原型のもつ物語をなるべく壊さずに、給排水、電気設備、断熱防水、そしてなによりも人の動く動線を整える。見た目の美しさを取り繕えたとしても理にかなっていなければ必ず淘汰されてしまうだろう。

昔ながらの家や町並みを再生するのは当時の暮らしを再生させることに繋がる。しかし設計家が人々にそれを強いるわけにはいかない。おのおのが望む生き方があるだろう。が、人々の要望を取り入れるにつれて味気なきものに近づいてゆくのだ。

鄙びた懐古主義と言われそうだが、欲望を刺激し合っては貨幣という幻影を追い続け、無尽蔵に資源を浪費する今の暮らしがそれほど素晴らしいものなのか筆者にとっては甚だ疑問である。
日本の高野山、ここで古民家を改修し住んでおられる方。
大師山 花森 11 DAISHIYAMA / HANAMORI ONZE移り行く季節を優しい目がとらえ、そして次世代を思うブログ。心が洗われる。
カッパドキアは観光地であるからして、今のところはホテルやレストランへの転用が主流だがそれにも疑問がないわけではない。浮ついた観光業などに身を任せていたのでは、揃って足元を掬われる日が来るということを考えねばならない。
洞穴を大学の校舎として再生させる計画もあったが立ち消えになった。今日び学生が集まると街の経済が軽薄になって風紀も風景も結局は壊れ、ろくなことがない。市民も筆者も内心ホッとしている。
部分をみれば一軒の家の改修ではあるが、俯瞰すれば資源、産業、経済、教育、すべてを巻き込んだ国の将来に関わる話である。おそらくは、この世に棲む人間すべてがそれを考えるべき時期にさしかかったのであろう、そう願う。
オスマン朝時代の共同施設、「キュリイェ」を紹介したい。
キュリイェとは、モスクを中心とした信仰・行政・福祉・経済活動のための市民のための施設である。ジャーミ(モスク)、メドレセ(神学校)、ハマム(公衆浴場)、ハン(隊商宿)、イマーレット(救済食堂)、チャルシュ(市場)からなり、大きいものは病院や学生房などもその中に含んだ。音楽による精神病治療までが行われていたが、同じ頃の西欧では精神を患った者たちを「魔女」と呼んで火あぶりにしていたという。
地域の人々が日々の礼拝をし、子弟たちがクルアーンを学ぶ傍ら網の目のようなシルクロードを巡る商人たちの取引の場となった。蓄財は良しとされず、共同体の運営は富める者の喜捨によって為されていた。貧者には皆が手を差し伸べた。オスマン朝時代にはそのような施設が都市という都市につくられた。その恩恵を受けた市民たちはこのキュリイェを取り巻くように棲んでいた。
都市や街の美しさは、そこに棲む人々の築いた共同体の美しさに他ならない。今の日本の雑多な風景は…。
オスマン時代の社会構造を少しは当世流に解釈しなおす必要はある。が、この構造がこの国の共同体の立ちかえるべき処なのだと思えてならない。世界中を土足で踏み荒らした「資本主義」という不条理が淘汰されさえすれば自然と原点に戻るだろう、ただしこの地の人々の心の最大公約数、イスラームが崩れてしまってからでは、晩い。
当然ここまで話が大きくなると一人の設計家にできることなど知れている。だから今できるのは、この美しい棲家がこのまま朽ちて塵芥と化す前にもういちど息を吹き込むこと、悪くなさそうだ。そしてもし「回帰」が思いのほか早くはじまるのなら、そのためにこの骨をうずめても良いと思っている。もちろん神がそれを望むのであれば、だ。

工事現場で育った娘
追記
いつもとは色合いの違う記事を意外に思われた方もおいでになると思います。歴史や社会ばかりに気をとられていると本業の方がおろそかになることが判明しました。失業してしまってはいけませんので、仕事のことはこれまでほとんど記事にせずにいましたが時おりこうして頭を切り替えるつもりで書いてみようと思います。、今年着工する物件をつれづればなにてで最初からお届けする予定です。同じ人間が書いていると思ってお付き合い下さいませ。
- 関連記事
-
スポンサーサイト
愚樵
追記に思わず声をあげて笑ってしまいました。言われてみて初めて気がつきました。そういえばいつもと違うな、と。
でも、文章の中に息づいているものは、まぎれもなくあやみさんです。もっとも私があやみさんをどこまで識っているのかと問われれば甚だ疑問なのですが、少なくともこれまで識っているあやみさんと同じだと思いました。
いや、ちょっと違うか。同じあやみさんだがイメージが増殖した。
この「増殖」は「同じ」で繋がっているから快感になり、娘さんの姿がそこにリアリティを付加する。
とってもいい記事だと思います。