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メディア 悲劇の媒体

人から人に何らかの情報を伝える、またそのために情報を記録し保管するもの―手紙、新聞やテレビ、書籍やCD、インターネットなどの総称をメディア‐madiaというが、これはmediumの複数形である。
この語は「中央」を意味するラテン語mediusに起源を持つ。原義は「中間にある物」で、そこから「媒体」「手段」といった言葉が生まれている。
今日我々に情報を提供する「メディア」にはこの「媒体」が訳語として充てられている。

しかしこれには別の意味があった。
それは、神と人を媒介する「霊媒」の意味である。

神や霊魂の意思をこの世に生きる人々に伝達できる者は巫女やシャーマンに限られていた。そして彼らの口に上る神託が国を動かす、かつてそんな時代が存在した。



話はギリシア神話のころに遡る。

王位が欲しくば黒海の果ての国から黄金の羊の皮を持て―それがイアソンに父亡きあとに王位を継いだ叔父から課された難題だった。王の息子イアソンをも亡き者にするための計略であった。イアソンは勇者たちを募り黒海の東の果てのコルキス国へと向かう。
一行は行く先々で襲いくる敵を倒しながらようやくコルキスに辿り着き、王アイエテスに黄金の皮を所望する。しかしが容易に渡してもらえるはずもなくイアソンは炎を噴く雄牛を御して土地を耕せとまたしても無理難題を出される。

そんなイアソンに懸想したのが王女メディアであった。

アイエテスの娘メディアは魔術の使い手であった。彼女は自らとの結婚を条件にイアソンを助けると約束する。イアソンの体は炎や剣を以ってしても傷つかないよう魔法をかけられ、難関をくぐり抜けて黄金の羊の皮を奪いとることに成功した。そしてメディアと共に一行はコルキスを抜け出すのだが、そのときメディアは幼い弟を殺し切り刻んで海に撒き後を追う王たちが遺骸を拾い集めるあいだに逃げ切った。
 

コルキスとは現在のグルジア共和国のあたりに前十三世紀ごろから実在した王国であった。前六世紀にギリシアの植民地となり、後にはローマに組み入れられる。王アイエテスは神話に登場するが実際にいたかどうかは判っていない。メディアはこの地に住む人々の信仰した女神だったといわれている。


勇者の名声を得たイアソンは黄金の羊の皮を手に、メディアをつれて故郷に凱旋し民衆を沸かせた。そこで王位を譲るよう王である叔父に迫るが始めからその気などない王はイアソンを相手にしない。イアソンがメディアに助けを求めると、メディアは老婆に姿を変え王の娘たちに近づき、皺だらけの姿の自分を若返らせ、老いた羊の屍骸を大鍋で煮て仔羊に生まれ変わらせるなどして驚かせた。そして王を若返らせて進ぜようと言えば娘たちは喜んで老婆の言うとおりにした。果たして王は娘たちによって切り刻まれ大鍋で茹でられて死んでしまった。

しかしこのあまりに酷い仕打ちは民衆の怒りを買いイアソンは王位につくどころか国を追われることになる。メディアとともにコリントスの地へとむかった。
コリントス王は勇者イアソンを歓待し、娘との結婚を持ちかけた。残忍で激しすぎるメディアにすでに辟易していたイアソンはこの結婚を受け入れメディアを捨ててしまう。


王女メディアが仕掛けた術は今日のメディアの手法に生きている。
イアソンの体にかけた「傷つかない魔法」は権力者が敵の攻撃や世の中傷誹謗を跳ね除けるための理論武装、第三者である弟を殺し追っ手の注意を別の方向に向けさせたのは世論の撹乱と解釈できる。さらに「いつわり」を見せつけられ信じてしまった娘たちは父親を殺すという愚行に走るが、これは言うまでもなく虚構を視覚化して民衆の心理に訴えるテレビや映画と見ることができ、9.11報道やアル・ゴアの「不都合な真実」がその好例である。またメディアに敵対する者が醜聞や冤罪の餌食になるのを見せつけられ、汚れた政争や利権構造を知ることで我々はまともに生きるという気力をなくしつつある。


いちどメディアの助けを借り成功したものはその呪縛から逃れることはできない。裏切られたメディアの復讐は夫にではなくその周囲に向けられた。毒を染み込ませた花嫁衣裳を贈り、イアソンとの婚儀でそれを纏った王の娘は炎に包まれる。そして助けようとした王ともども焼け死んだ。さらにはイアソンとの間に儲けた我が子たちの命すら奪う。すべてイアソンを痛めつけ生きる気力さえも奪うためでった。イアソンは我を失い、彷徨い、かつて黒海を凌駕した自らの船の残骸の下敷きになり命を落とした。すべてはメディアの望んだ通りになった。


メディアの行動はすべてイアソンへの恋慕とそれから生じた憎悪からなるのもなのだが、もとよりメディアのこの恋は仕掛けられものだった。ゼウスの妻ヘラがアフロディーテに術を使わせ、そうして恋に狂ったのであった。しかるにこの悲劇の元凶はメディアを操った者たちであり、それによって人々は争いの中に堕ちた。メディアを恐ろしい女、または哀れな女と見ることは文学の中ではあり得るが、やはりただの「媒体」として捉えその裏側を見るべきではないだろうか。
どの国の言葉でもその一語一語の成り立ちには深い意味が潜んでいる。普段なにげなく使っている言葉も語源を辿れば意外な言葉に行き着くことはよくある。しかしそれは言葉が時間とともに古い時代の意味を脱ぎ捨てながら変化し続けることではない。言葉とは人が話すこと、書くこと、残すことによって息をする「いきもの」であり、その根本たる語源が力を失うことは永遠にないと言っていい。現代語や外来語であろうと、それを吐けば語の遺伝子が刺激され脈を打ちはじめる。

今この瞬間も世界中の人々が「メディア」と連呼する。何かに息が吹き込まれる。



メディア‐情報媒体の起源は活版印刷の登場とも羊皮紙やパピルスともいわれている。だが今メディアと呼ばれているものに誰が、いつ頃その名をあてがったかは判らない。それほど古い話ではないだろうが、敢えて「霊媒」の意を持つこの語を選び冠したからにはそれなりの悪意を感じないわけにはいかない。


古代世界の霊媒師や神官は神と人の間に立ち忠実に「媒体」としてのつとめを果していたのだろうか。森羅万象の霊を畏れ、施政者が即ち「巫‐かんなぎ」であった太古の日本や南米は別として多くの場合はその逆、腕力で施政者となった者が自らの思惑をあたかも「神々の声」として民衆に聞かせるために霊媒師という存在を利用してきた。また権力を横から狙う者たちもそうした。互いに矛盾する神々の声がひしめき合う世の中は乱れ腐敗した。


「媒体」という名には中性であり、中立であり、どちらにも偏向してないという性格、そして遠いところで起きている事をありのままに伝達するという役割を期待してしまい勝ちだがどうしたことか、この一年と一ヶ月だけを考えても日本国民が目の当たりにしたものはその正反対であった。安全神話を死守せんがために「安定」「影響はない」を繰り返し、真の知識がある者の声は消され、電力不足の不安を煽り、本当に起こっていることは知らされていない。
日本から「媒体」を通して世界を見れば「崇高なる民主主義」に牙を剝く「未開な有色人種」たちに対して「世界の警察たる大国」と「世界の司法たる国連」が「人道的な戦争」の準備に精を出している。ただしこのようなことを気にしない者たちには賭け事や投資、ポルノや美容などに興ずる権利がいくらでも保障されており、そのための媒体は尽きることがない。


現代のメディアは古代の権力者たちが自らの言葉を霊媒師の口から神々の意思と偽り語らせたのと同質のものである。違うのは「神々」のかわりに「人道」「人権」「経済」「正義」「技術」「自由」「平和」「発展」云々を崇拝の対象に据えている処である。メディアつまり媒体とは権力者側に属する道具であり、それがもたらす情報は特定の人間の利益のために曲げられたもの、あるいは根も葉もない虚言である。逆に言えば平和や自由を高らかに謳う連中の話は聞き流すに越したことはないということだ。
ソーシャルメディアが世界から賞賛を受けている。しかし、メディアの名を背負っている以上はいつ誰に刃を向けるか知れたものではない。この女に深入りは禁物だ。

王女メディアの最期はどこにも記されていない。

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まとめteみた.【メディア 悲劇の媒体】 from まとめwoネタ速suru

人から人に何らかの情報を伝える、またそのために情報を記録し保管するもの―手紙、新聞やテレビ、書籍やCD、インターネットなどの総称をメディア‐madiaというが、こラテン語mediusに起源を持つ。原義は「中間にある物」で、そこから「媒体」「手段」といった言葉が生ま?...
  • 2012/04/14 09:12

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Comment

愚樵

・あやみさん、こんにちは。

いつものことながら、あやみさんの博識と語り口には脱帽します。それと古代人の想像力にも。「王女メディア」はまさに現代のメディアそのもの。そして(ベネディクト・アンダーソンによれば)印刷技術によって成立した「想像の共同体」は、王女メディアの僕となってしまっています。

では、その王女の最期は果して?

もしかしたら、ネットの発展はメディアが王女である必要性を奪ってしまうのかもしれません。ネット上では誰もがメディア。民草がメディアです。

また「想像の共同体」が印刷技術の普及によって確立されたとするならば、ネット技術の普及によって出現する共同体があっても不思議ではない。それは「共感の共同体」である――と断言は出来ませんが、そうあって欲しいと願っています。
  • URL
  • 2012/04/14 16:21

あやみ

愚樵さん コメントありがとうございます。

お褒め頂き恐れ入ります。でも博識というよりは「どこかで聞きかじったことをいつまでも忘れない」という変な記憶力の賜物です。私自身があぶないメディアの端くれなのかもしれません(少なくとも主人からは恐れられています)。

>ネット上では誰もがメディア

私もそう願い、それに期待したいのですが気掛かりな事がひとつ。この「電網」には持ち主がいるという事です。
「使い方次第」の一言に尽きるのでしょうが、人がネットに使われてしまった時点で使い方も何もなくなってしまう。あまり好きな例えではありませんが、例えば数と時間の問題。この世で十人が共感の共同体を築くのに成功するあいだに万人の若者が時間あるいは人生を奪われる可能性もあります。
そして一人が膨大な「嘘」の行間を読みひとつの答えを見出すまでの間に無数の「嘘」が無数の人々の間を駆け巡ってしまう。

これはぎりぎりの戦いになるかもしれないという、暗い予感が拭えないのです。心あるイスラム研究者たちはこれを新たなジハート(聖戦)と呼んでいます。

でも、人間たちの持つ「疑問」や「不安」がある量に達した時に内側からガラリと変わり、共感をもとめて無数の触手をのばすように進化する可能性もあるかもしれないという予感もあります。そのときにネットは不可欠なものになると思います。この辺はまだモヤモヤと考えているところで上手く文章にできません。いずれ書いてみたいと思います。
  • URL
  • 2012/04/14 23:23

愚樵

・あやみさん、おはようございます。

>「どこかで聞きかじったことをいつまでも忘れない」という変な記憶力

その賜を人は「博識」と評価すると思うのですが (^o^;

しかし、それにしても上のコメント、迷いはあるものの力強さが感じられます。いや、それはこれまでのあやみさんの記事全般から感じられたものですが、それが色濃く。

>この「電網」には持ち主がいるという事です

はい。それは事実です。これから先、情報は「持ち主」を巡る争いになるのではないかと私は想像しています。

そもそも情報というのは発信者の「もの」なのでしょうか? 情報は専有していては何らの価値をももたらしません。それを受信し評価してくれる者がいて、そこにはじめて「価値」が出現する。そう考えれば「著作権」という考え方は基本的にあやしい。これは情報には予め「価値」があるものと前提されている。

その考え方は「電網」によって突き崩されようとしています。今、進行している事態は、情報の所有権が情報発信者から「電網」へと移りつつあるという事態です。情報を伝播させる「電網」が実質的に情報の所有者であり、発信者は「電網」からおこぼれを頂く。そんな形になりつつあります。

情報が発信者の所有物という考えはおかしいですが、しかし「電網(メディア)」が所有権をもつというのは、もっとおかしい。このまま事態が進めば、情報は電網所有者の所有物になっていくでしょう。

では、どうしたらいいか。

情報発信者の情報所有権を情報を独占物と見なす著作権というものに頼ることをやめればいい。

たとえばあやみさんが、その発する情報はあやみさんが発するだけの理由があると受信者が理解すれば、受信者はその情報の持ち主をあやみさんのものだと認定するでしょう。

ただ、この理由に嘘が混じってはいけない。仮に私が、あやみさんから受け取った情報を再発信したとしましょう。そのとき、これが再発信だということを示さなければ、それは情報の剽窃になる。それが暴かれたとき、私は情報発信者としての資格を周囲から認定されなくなる。

著作や論文を読むと、大抵末尾の報に「引用元」が列挙されています。これは情報が発信者によって(再)創造されたことを示す証拠です。

しかし、このような形で情報発信をできる者は従来は限られていました。それなりの知識人としてのステータスを確保しなければ、情報(再)創造者として認定されなかった。
情報(再)創造者として認定されるということは、その人自身がメディアである、と認定されることでもあります。

ネットが切り拓いたのは、誰もがメディアになれるということです。

しかし、そのメディアとしての権利を既存の著作権に委ねるなら、いずれその情報は「電網」へと吸い上げられ、実質的な権利も奪われるでしょう。

が、それに対抗する方法も、実はネットが開拓している。情報を発信する「私」は何者なのか。そこを示せば、受信者は情報発信の理由を自ずから理解します。人間とはそのような生き物だと私は信じています。

つまりです。私が思うに、これから始まるのは、「そのような生き物」に人間がなることができるかどうかの戦い。あやみさんも、ご自身はどう思っておられるかは知りませんが、既にその戦いに参戦されていると私は思っています。

すみません。長々とした自説展開になってしまいました。

心あるイスラム研究者たちの考えにも触れてみたいところです。また機会があれば、紹介してください。
  • URL
  • 2012/04/15 08:24

あやみ

愚樵さん、長男の学校の保護者会に行ってきたのでお返事遅くなりました。学校は悪霊だらけで参りました。

「そのような生き物」に成熟できるか、じつに大変な事ですね。そして著作権という考え方はそれを逆の方に引っ張る力でしょう。しかし文筆も歌舞音曲も書画もその権利云々を超えたところに境地があるのです。自らを「発信者」と称するならば権利などにしがみついている場合ではないでしょう。愚樵さんの仰ることと多分かぶっていると思いますが、私はそのように感じています。
そういった意味で「芸術」も私のキライなことばの一つです。いずれそのことと絡めて書いてみようと思います。

イスラムの世界では著作権という考え方がないのです。
この世で価値のあるメディアはクルアーンとハディスに限られており、そのほかの何かに重きを置くことが認められていないからです。専門知識や手法は他人に明かし共有する義務があります(ただし悪用すると罰が当たるという大前提あり)。
しかし技は自分で磨くしかないのでそう簡単には共有できません。そこで、知と技がお互いに支えあった場合のみ「作品」になり得るのです。だから盗作などはできないということになります。逆に盗作できるようなものは所詮その程度ということになる、と、なんとも骨太な考え方です。
すこしズレますが、江戸時代までは日本もそうでした。

トルコでは専門家も一般人もみながイスラムを熟知しその「ことわり」の内で共同体を築くことが求められはじめています。もしこれが貫徹できればそれに越したことはないのですが、すると今度は非イスラムの世界との繋がり方がややこしくなるのです。

いくらでも長くなってしまいそうなので今日はこの辺で。またよろしくお願いします。
  • URL
  • 2012/04/16 07:36

彼岸花さん

『メディア』…深い長い歴史を持つ言葉なんですね。
メディア、メディアと口にしていながら、王女メディアとのつながりは
私のこころにありませんでした!迂闊なことですね(笑)

この一年ほど、メディアって何だろう、メディアの役割ってなんだろう、
また自由なネットによる情報発信の役割は今後どうなるか、などということが
考えられた年はありませんでしたね。
情報の世界も、近年大きく変わって行っている…
アメリカでは新聞社の統廃合が進み、これまで地域にあった新聞社が
無くなってしまうケースも増えているらしい。新聞よりはるかに手軽で速いネットがあるし、
新聞の役割も薄くなっていると思われている時代ですね。
昔のアメリカ映画を見ると、町に何かあったとき、それを取り仕切るのは、
保安官、判事、牧師、そして新聞社の人間、(さらに棺桶屋)…
というケースが多いんですね。(日本では、警察、学校の先生、坊主、…で、
新聞記者はあまり入らないなあ。そこらへんも面白いですね。笑)
ところが、そのアメリカの、新聞社の消えた町では犯罪、特に汚職の件数が
増えているというんです。新聞が、『正義』として汚職を見張っていた、
という抑止効果があったんですね。
ネットやテレビがあるから、新聞はいらない、という論調に、私はずうっと
疑問を持っています。今はいわゆる新聞記者魂などというものも弱まって、
取材力が落ちてきていると思うけれど、やはりぐいぐいと社会の深層に
取材をかけていく新聞の役割というものは消えていないのでは、と思う。
ネットには大きな問題点がありますね。一番感じたのは、下手をすると、
情報が均質になってしまうことですね。発信側ではなく、受け手の問題ですが。
一つの例が、『ドイツが脱原発に明確に切り換えたにも関わらず、
去年フランスから電力を買っていた!』というんですね。
『原発大国フランスから電気を買って、脱原発もないだろう!』という皮肉な
記事が出ると、検索しても検索しても、同じ論調のものばかり。
おそらく元の記事を皆が拡散していくからなんでしょうね。
本当にそうなのか???そう思って辛抱強く検索していくと、一つポツンと、
『おかしいな。ドイツは確かに去年フランスから電気輸入しているけれど、
他の国に輸出もしている。』という小さな呟きを見つけました。
それで調べていくと、欧州はお互いに電力のやり取りするルートが
日本などと違って整備されているので、輸出したり輸入したりが、
自由にその時々の価格の問題で行われているんですね。
ドイツは昨年11月末の時点で、わずかではあるけれど、輸出の方が多かった!
つまり、『脱原発のドイツは、原発大国のフランスから大量に輸入!』
ということが恣意的に拡散されていってしまっている…
『菅総理が、原発事故のあと、一国の総理でありながらバッテリのサイズや
重さのような細かいことを電話で自分で確認しているのを見て、側近の一人が
「国としてどうなのかとゾッとした」と言った』、ということが
テレビやネットでばあっと広がりました。大局を見ないで細かいことにうるさい
ケチな総理、という印象をこれで広めました。ところがそれを口にしたのは
当時の内閣審議官下村健一氏。その彼自身が、自分がそう言ったのは
伝えられているような意図ではなく、一国の総理がこんな細かいことにまで
口を出さねばならないほど状況が逼迫してしかも周りの専門家とされる集団が
役に立たず動いていないことにそっとしたんだ、と、ちゃんと言っているんですね。
…ところがこれは前期のように曲解されて伝わり、菅下ろしに大きく繋がって行きました…

こういうことは、つまり、恣意的に情報をカットしたり曲解して
自分の論理に都合の言いように使うということは、原発推進反対の立場に関係なく、
またあらゆるテーマであらゆるところでしているのだろうと思います。
自分自身を反省してもやっています(汗!)
まさに、メディアというものはすさまじきもの…
いや、それを扱う人間の恣意というものがすさまじいと言った方が
正確でしょうか…こころして利用しなければ、と思いますね。

長く書いてすみません!(笑)いつか記事にしたいと思っているテーマです。
  • URL
  • 2012/04/17 10:48
  • Edit

あやみ

彼岸花さんこんにちは。コメントありがとうございます。

たとえば新聞などが「メディア」として公正に機能しているかどうかは、記者たちの「記者魂」にかかってますよ、きっと。魂と呼ばれるものが生きてるか腐っているかは検知器や試験紙では測れない、つまり精神の問題ですから、「公正」かどうかはもはやオカルトなのです(笑)。

嘘をばら撒いてばかりいると信用を失うのは目に見えています。だから、「本当に大切な嘘」を守るために普段は本当のことを書く、それが新聞の姿勢だと思ってます。そう思って横目で読むことが危険回避の鍵ではないでしょうか。

ネットはさらに複雑です。検索エンジンが使用者を思うように撹乱しています。ソーシャルメディアも戦争を起こす道具として開発されたものです。それと付き合う力量が求められます。ムズカシイ。
  • URL
  • 2012/04/17 12:06

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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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