キライなことば――マイケル・サンデルの唱える「正義」 

底が浅くて薄っぺらな日本語が大手を振って歩いている。数えれば星の数ほどになるだろう、その中でも筆者の拙筆にて薄っぺらたるそのわけを書けるものを選んで記しておきたい。


「正義」という言葉、それは「人が利を追求するにあたり、その野蛮な行為を肯定するために必要に応じて姿を変える不実なもの」、という意味が一番あっているのではないかと常に思う。

西 周(にし あまね)、文政12年~明治30年(1829- 1892)石見の国は津和野藩の御殿医に家に生まれ、藩校にて蘭学を学び後にオランダへ留学。帰国後は幕末の幕臣として勤め、大政奉還の後は新政府の官僚となる。文明開化にともなう日本の西欧化に力を注いだとされる。福沢諭吉らとともに明六社を結成。

西はそれまでの日本に存在しなかった多くの西欧的概念を日本に輸入すべく多くの新語を作った。我々にも身近な「芸術」「心理」「技術」などがそうだ。「正義」もその中にある。
では、西がわざわざ「正義」を造語したからには維新前の我が国には「正義」なるものがなかったのだろうか?

似て非なる言葉に「義」がある。儒教の根本である「五倫五常」のうち、人として常に守るべきとされる五常「仁」「義」「礼」「智」「信」に掲げられ、。「正しい道」を意味し「義理」、「仁義」などの言葉の構成要素となった。
聖徳太子が十七条憲法の中、第九条にて記すには、
「信是義本――信はこれ義の本(もと)なり」つまり真心は正道の根本であるという意味だが、日本にも古代から「義」の概念があったことを証明している。
儒教の精神はそのまま日本に根ざし、鎌倉時代以降の武家の世の中の土台骨となった。
西による造語の「正義」は「義」とはもともと同じ意味であるが、まとう空気が違うのだ。「正義」には武士の魂も儒教の心もない。ましてやその根本たるべき真心など微塵も感じられない。ここには、西を含む「文明屋」たちの意図、日本人の心を日本という国から切り離すための悪意があったことが明白である。


さて、本稿の題にも掲げたマイケル・サンデルという学者先生だが、ハーバードだか何だか知らないがめっぽう偉そうな大学で教鞭をとっているということで。お題目は「正義」だそうな。 けっ
日本でも某国営放送でその授業が公開されたり、震災後にわざわざ来日し公開講義を中継している。信望者は多いとのことだが、何故だろうか。

サンデル氏は、ヘタな例え話を肴に「正義とは何か」を学生と討論しそれで人気を博している。人にとっての正しい道についてなど考えたこともない学生諸君にとってはさぞや眩しい先生であろう。サンデル氏の著書は一部がPDF化されているので是非にとは申し上げぬがどうせならビタ一文払わずに見ていただきたい。

例を挙げると、

イギリス兵が四人、救命ボートで漂流している。食料も水も底をつき飢えと渇きに苛まれながら大海原を漂っている。そのうちの一人が耐え切れずに海水を飲み衰弱する。のこる三人のうち二人が共謀し、神に祈りをささげてから生死をさまよう友を刺殺、その肉を喰らう。まさにその時、通りかかった船に発見され救助されるがその場で逮捕され二人は死刑判決をうける。が、女王陛下の口添えで禁固六ヶ月にて放免、というもの。これは実話らしいが、こういった事例をもとに学生に意見をもとめ討論するという。「さあ、君なら人として、この兵士の処遇をどする?」

人を喰らったその時点で人ではなくなる。「義」は人にとっての道であり、どんな苦しい思いをしたとしても人としての最後の判断を誤った以上もう「義」の話はできない。その国の司法が淡々と裁けばよいだけの話だ。
しかし「正義」となると話は別だ。そもそもこの兵士たちは「戦争」という業務中に船が難破し遭難した。雇い主であった女王陛下にも責任があってしかるべきである。なぜなら、自らの腹を満たすための殺人行為を「戦争」という名のもとに正義化している張本人であるからだ。「正義」は「義」にあらず。

ついでにもう一つ。

列車のブレーキが効かない。暴走列車は分岐にさしかかり、一方の行く手には五人の作業員がおりもう一方には一人いる。警笛も壊れて鳴らない。機関士は五人を犠牲にするよりは、とひとりが作業するほうへと突っ込む。また別の話として、暴走列車が前方の五人の作業員に向かっているのを橋の上から見た傍観者が、自分の隣の太った男を橋下の線路に突き落とせば列車を止められることに気づき、実行する。(支離滅裂だがそうと仮定するらしい、あほくさ。)「どちらも話も一人の犠牲でより多くの命を救ったというはなしだが、前者より後者のほうが間違ってみえるのはなぜか」

と学生に問う。サンデル氏の答えは、
「太った男を意図に反して利用したから間違って見える。しかし意に反して列車にはねられるのは作業員も同じことであり、その意味では作業員も太った男も同等である」んだそうな。

詭弁である。意図するしないに関わらず線路上の作業員たちは差し迫る危機に対峙している当事者である。しかし太った男はまるで無関係な位置にいるのに傍観者の行動によって命を落とす羽目になる。作業員と太った男は少しも同等ではない。「一人より五人」という死者の数量を基準に正義の度合いをはじき出そうとしているのが空恐ろしい。
太った男一人を犠牲にすれば五人の作業員の命を助けられるという仮定が成り立つとしても、そう判断し実行する権限がこの傍観者にあるのかどうか考えればサンデル氏の主張が屁理屈であることがはっきりする。が、「正義」の衣が眩しいあまりにそれが見抜けないのだ。

サンデル氏は、「正義」を振りかざして傍若無人にふるまう国連、NATO,そしてアメリカを擁護するために語るのか、あるいは擁護する社会をつくるためにはたらいているのか。いずれにしてもばかばかしい学問である。「正義」という怪しい言葉に似つかわしい。

Pagination

Utility

書き手

ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

つれづれのかきこみ

さがしもの

こよひのつき

CURRENT MOON