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ひ、ふ、み


外国の方々が日本語を学ぼうとするとき、数の数え方で泣きたくなるらしい。
一本、一杯、一脚、一丁、一匹、一人、一日、一月、一枚…
なんでこんなに何種類もあるのか理解できないという。

じつは大きく分けて二種類しかない。数詞の「一」を「イチ」と読むか、「ひ」と読むかの違いである。

「イチ、ニ、サン…」は漢語から、つまり中国語の「イー、アー、サン…」から来ている。中国語のなかの客家(ハッカ)語では「イトゥ ニ、サム、スィ」とさらに現代日本語に近くなる。遠い昔に大陸から日本に渡ってきた人々が漢字による言語をもたらし、名詞とその数え方ももちろん中に含まれていた。
一本、一匹、一枚のように「イチ」の音に続く名詞は通常、音読みされる。

「ひ、ふ、み」は漢語がやってくるより昔に日本の地で育まれた「やまとことば」の数詞である。ひとつき、ふたご、みつあみ、よつば…漢語数詞のあとに音読みの名詞が来るのとは逆に、やまと数詞の後に続くのは訓読みの名詞である。


やまと数詞の基本を書き出すとこうなる。

ひ   一
ふ   二
み   三
よ   四
ゐ   五
む   六
な   七
や   八
こ   九
と、そ 十
も、ほ 百
ち   千
よろ  万


「ひとつ」をさらに分解すると。
まず「ひと」と「つ」にわけられる。「個」または「歳」にあたる「つ」を取り去ると「ひと」が残るがこれは数詞語幹の「ひ=1」に格助詞の「と」がついたものである。所属の意を表す上代の格助詞「つ」(例:沖つ白波=沖の白波)がタ行のなかで変化し「ひつ」「ふつ」「いつ」という数え方がうまれた。

「みつ」は「みつ」とツ音が二つ重なったために促音に変化した。「よつ」「むつ」「やつ」も同様。
「ななつ」と「ここのつ」はさらに紆余曲折がある。「ここつ」の「」も同じく所属を意味する格助詞であるため「ひとつ、ふたつ」と造りは同じであり、さらに「なつ」は「なつ」の変形であるためこれも同じである。つまり「ひとつ」から「ここのつ」までを同じ法則で貫いている。
「とお」はちと別格のようである。

現代語でも「二十歳‐はたち」や「二十日‐はつか」というのは、「二十」に「はた」という音を宛てていたからであるが、これは「二(ふ)十(と)」が変化したものである。
                                                  「はたち」の「ち」は何を意味するのだろうか、これは「ひとつ」「ふたつ」の「つ」と同じく、もの、としを数えるときの「個」と「歳」である。つまり古代語において「はたち」は「二十歳」であると同時に「二十個」でもあった。「みそぢ」「よそぢ」の「ぢ」、「よろづ」の「づ」も同じく「個・歳」である。歳が三十代であることを「三十路」と書いて表すようになるのは後代のことだ。

音便変化や音の脱落が多いことが日本語を豊かで柔らかいものにしていることは疑いない。しかし同時に日本語を複雑にしているといえる。

こんなことを知っていても酒の肴にもならないなどとおっしゃらないでいただきたい。確かに酒の席で三十路がどうのと話したところで煙たがられるのが関の山であるが、どうかもうすこしお付き合い願いたい。

縄文の頃、たとえば「三十八個(歳)」を何といったか。
「みそじ あまり やっつ」といったらしい(数値のみならば「みそや」)。当時はおそらく数量を明確にする場面は少なかったはず、だいじなのは集落の住民の数や人の年齢などでその他はおおらかであったと考えられる。そうでなければこのような厄介な表現では間に合わない。しかしその後稲作が広まり世の中が複雑になってくると物事を数で管理しなければならない機会が増えていった。そしてその数の桁もどんどん大きくなっていったことだろう。そうなると、合理的な漢語数詞が重宝されるようになったと想像できる。

九十九と書いて「つくも」とよむのは「百‐も」に「付く‐つく」ことを表している。

「八百屋」はご存知のとおり沢山の野菜を商うために八百(=たくさん)の名がついている。これもやまと数詞の「八百」つまり「八‐や」+「百‐ほ」から来ている。

さらに大きな数は「万‐よろ」と表現された。戦前までは食品や生活雑貨をごちゃまぜに商う「よろづ屋」という、今で言うスーパーマーケットのような商売があった。

日本人はやほよろずの神々を畏れ、祝い、その怒りに触れぬよう行いを正して生きたが、「八百万‐やほよろづ」とは桁外れに大きな数を表現する数詞であった。これから導かれるように「10000‐よろ」が桁の大台だった。そしてそれは現代にも引き継がれている。
万.億、兆…と四桁ごとに名前が変わるのは漢語数詞の特徴でもある。(100000を十万とは数えず百千と数えるように西欧の言語では三桁ごとに変わるのに対し漢語数詞がそれに連動しないことは日本人観光客が西洋で外貨を計算するときに混乱を招いている。)これは偶然なのか、どちらか一方が他方に影響を与えたのかはもうわからない。今までにもたびたび書いていることだが、やまとことばの草創期は列島と大陸は陸続きも同然であり人の流れがあった。やまとことばと大陸諸語は互いに影響を与えあっていたと考えたほうが自然であり、大陸文化ありきで日本が常に一方的な影響を受けていたとする日本史観には疑問を持たざるを得ない。

しかし「10000‐よろ」が純然たるやまとことばであることは確かである。10000は10の4乗であり「よろ」の「よ」の音が4の意を含んでいたかもしれないなどと考えると気になって仕方がない。


「数‐かず」の語源は動詞「数ふ‐かぞふ」である。それとおそらく源を同じくする言葉は「重ぬ‐かさぬ」である。ものを重ねてゆくと高さが増してゆく。その高さや大きさ、またその量を「嵩‐かさ」という。現代では体積や容積の意で使う言葉である。話は逸れるがトルコ語の「kasa‐カサ」は箱状の入れ物で「1 kasa、2 kasa」と、ものの(特に農産物の)計量につかうということも見逃せない。
「かず」、「かさ」ともに数量を伝えるための概念、そしてことばである。
そして「かず」は何かの基準を満たしているものに対してそれを認めるときにもつかう。「もののかず」にならないものは「かずのほか」といった。




「ひとり、ふたり…」のその次にくるのは何故か「さんにん」と漢語に変わってしまうのが現代の日本語である。いや、現代を待たずに平安時代中ごろからこうなってしまったようである。古代、人数は以下のように言い表した。

一人  ひとり
二人  ふたり
三人  みたり
四人  よたり
五人  ゐたり
六人  むたり
七人  ななたり
八人  やたり
九人  ここのたり
十人  とたり
八十人 やそたり
八百人 やおたり

こうして見るとあることに気づく。ひ、ふ、み…の数詞のあとに続く「たり(とり)」はどうやら「人‐ひと」を指しているらしい。いや、人そのものというよりはひとをかぞうときの「はかり」のように見える。たとえば水を「一杯」と数えるときの「杯」にあたる。「誰-たれ」が不定の人の代名詞であることからもこれが「たり」の関連語であり「たり」が「人」に関わる言葉であることを後押ししているようである。


「たり」の音をもつやまとことばを捜すとする。
思い当たるのは「足る‐たる」の連用形「足り‐たり」である。これも一筋縄ではいかないことばで、「足」と書いてなぜ「充分」の意になるのかもよく知られていない。

漢字のふるさとの大陸、ここでの「足」にはもとより「脚」と「充分」の両方の意味がある。「足」は膝の象形の「口」と「脚」を意味する「止」の会意文字である。「止」に含まれていた「停止」の意味が「足」に加味された(人は脚の上で停止することからだろうか?)。欲求が満たされることを満足というのは満たされて欲が停止した状態を言うのかもしれない。

漢字を識る以前のわが国では「脚」と「充分」はそれぞれ「あし」と「たる」という無関係のことばだった。器に水のようなものが注がれ、満たされたとき「たる」に至る。そして器から溢れてこぼれゆく水は「垂る‐たる」ことを余儀なくされる。このように、漢字からいったん離れて音を手がかりにやまとことばを追いかけると面白い。
しかし漢字と出会い表意文字である漢字の意味を汲んだために「足」を「あし」と「たる」の両方にあてがってしまう。そんなこんなで、やまとことばは姿が見えにくくなっていった。

人の子としてうまれ、そだち、思い、働き、人としての資質が認められたときはじめて人と呼ぶに「足り‐たり」るとされた。そこでやっと「一人-ひとり、ひたり」と数えられたのであろう。やはり「たり」は人としての条件をさしており、それを満たすこととは成人を意味すると考えられる。


「人‐ひと」ということばの根になるのはこの「ひとり」だったと言えまいか。ひとりの男、あるいはひとりの女として身を立てた者を「ひと」と呼ぶようになったのではないだろうか。
いまだひとの雛形でしかない子供たちを育てながら、つらつらと、思う。

「くし」の構造 ―うつくしきくに

我が国で太古から使われていた言葉、すなわち大陸から列島に漢語の波が押し寄せてくる前のことばをやまとことばという。やまとことばからは、今を生きる我々がとうに忘れてしまった本当の祖国、それを造った先祖たちの生き方を伺い知ることができる。

やまとことばにおいてクシの音をもつものはまず「髪-クシ」、これは頭髪のみを指す。「頭-クシ」は頭部と頭髪の両方を意味する。ちなみに「頭-カシラ」は「クシ」の美称である。髪と頭は「カミ」の音も共有している。「首-クシ」というものもあるが、頸部ではなくそこから上すなわち頭部のことをいい、「頭」とほぼ同意である(すでに身体をはなれてしまった頭部を指すことが多い)。

そして今では完全に忘れ去られた言葉、「奇し-クシ」は、不思議な、霊妙な力をたたえた状態を示す形容詞である。

漢語の「奇-qui」が日本語化したようにも見えるがそうではない。漢語外来語であれば「し」の音はサ変動詞「す」の連用系ということになり「くす」という動詞が存在して然るべきだが、ない。「奇し」の「し」はシク形容詞の終止形でありまぎれもなくやまとことばと言うべきである。ところが奇妙なことに「奇」の漢字源をみればやまとことば「奇し」のもつ意味とは当たらずとも遠からぬ「不安定なものが不思議な力によって支えられている様子」とある。どのような接点があったのだろうか。

大陸と列島がほぼ陸続きであった大昔、日本語の祖語がはぐくまれた頃の大陸人と和人は双方の国を行き来し、そして少なからぬ共通の語彙があったと、筆者は考える。奴国王や倭の五王、ひいては漢字伝来などの遥か昔の話である。

物を言い、音を聞き、姿や香りを捉える窓のある、憶えおもんぱかる処でもある「頭-くし」は人の霊力の源、「奇しきもの」にほかならない。

その「奇し」から派生した語が「櫛」である。
そのむかし、髪をすくことを「くしけづる」といった。切ってもまた伸びる髪は生命力の証であり、異性を虜にする力も持ち合わせている。「クシ」を「梳る-ケヅル」道具である「櫛-クシ」にも霊力を見出していた。「梳る」ことは、筋道をつけ整えて恵みを受け入れる支度といえる。田を「鋤く-スク」ことと髪を「梳く」ことが同じ音で表されるのは偶然ではない。


命を絶たれたイザナミを恋うて黄泉の国にまかったイザナギが暗がりの中で櫛の歯を折って火を灯し、そこで見たものはこの世のものではなくなった妻のあるべき姿であった。身体のいたるところに雷神が纏わりつき蛆の湧いたイザナミに怖れをなしイザナギは黄泉の国を後に逃げ出した。怒るイザナミは追っ手を遣わす。イザナギは髪に挿してあった櫛を取り、その歯を折って投げるとそこから竹の子が生え、追っ手がそれに喰らいつく隙に黄泉から逃げ切った。
イザナミとイザナギの子、スサノオは乱暴狼藉をはたらいた末に高天原を追われて出雲へと降り立つ。その地でスサノオは、ヤマタノオロチに姫たちを全て奪われ最後に残った末の姫までも生贄に差し出さねばならぬと嘆く老いた夫婦に出会う。オロチ退治を買って出たスサノオは、生贄の姫を妻に貰うことを言い交わすがその姫の名こそ「櫛名田比売-クシナダヒメ」である。古事記では「櫛名田」と記されているが「日本書紀」では「奇稲田」とある。「霊妙なる稲田」を意味するであろうクシナダヒメがスサノオと結ばれることは日本人と稲作との出会いを暗喩するとされている。スサノオはクシナダヒメを櫛に変え髪に挿してオロチを退治した。ヒメの「奇しき」力を櫛に変え、それを身に纏い戦いに臨んだのである。
スサノオの子(あるいは六世の子孫)のオオナムチ(大国主命)とスクナヒコナの二神が力を合わせて国つくりをしていたが、スクナヒコナが忽然とオオナムチの元を去る。

遂に因りて言ノタマはく、今此の国を理ヲサむるは、唯吾一身ヒトリのみなり。

オオナムチが途方にくれていると海原を照らしながら誰かがやってきた。

時に神光アヤシキヒカリ海ウナバラを照テラし、勿然タチマチに浮び来る者有り。曰イはく、如モし吾在アらずば、汝イマシ何イカにぞ能く此の国を平コトムけまし。

そして言うには、吾在ってこそこの国を平らげることができると。オオナムチが誰かを訊ねれば、吾は汝のさきみたま・くしみたまであると答えた。

然らば則スナハち汝は是れ誰タレぞ。対コタへて曰ノタマはく、吾は是れ汝が幸魂サキミタマ奇魂クシミタマなり。(日本書紀 一  神代 上)

神の霊魂にはそれぞれ二つの性質が在り、ひとつは天災や凶事をもって世と人心を荒らし争いへといざなう「荒魂-アラミタマ」、もうひとつは逆にあらゆる恵みをもたらす「和魂-ニギミタマ」であるとされている。そしてニギミタマをさらに二つに分けて解釈がなされている。即ち人に収穫などの幸いを与える「幸魂-サキミタマ」、神秘的な力をもって人に奇跡をもたらす「奇魂-クシミタマ」である。

オオナムチに対し自身の幸魂・奇魂であると明かし、自らを三諸山(大和・三輪山)に祀ることを求めたのはオオモノヌシ(大物主)として知られる三輪山の祭神である。オオモノヌシは蛇神、水神、雷神とさまざまな性質を持ち合わせ、稲作や酒造りの神でもある。


ここでまた、「奇し」から生まれたことばを挙げよう。
「酒-クシ」である。酒の持つ力を考えれば奇しきものにちがいなく、人を良くも悪くも変えてしまう。傷や病を癒す力もある。その効果は特に「薬-クス」と表現されるがこれも悪く使えば毒になる。つる性の植物「葛-クズ」の根から取れる澱粉は食品として、また薬として重用されていた。滋養に優れており胃の働きを整え、体を温めて発汗を促す力がある。いっぽうその激しい繁殖力は時として手に余り作物や樹木の生長を妨げ、現代では害草とも見なされている。この植物を「葛―カタ」とも呼ぶのは水に溶いて加熱すると固(カタ)まる性質をしめしている。そして「仇-カタキ」の語源にもなった。

上代、大和、そして常陸の国に土蜘蛛とよばれる集団があった。朝廷と距離をおき古来(縄文)の風習を保つ彼らは「国巣-クズ」とも呼ばれ恐れられていた。時に激しく抵抗し、時には宮中に参内し土地の産物を献上して楽を奏でることもあった。ヤソタケルと呼ばれる土蜘蛛の一族を騙し討ちにかけたイワレヒコ(後の神武天皇)に手を貸したのは同じ土蜘蛛の国巣の一族であった。さらに大和の土蜘蛛はイワレヒコが葛のツルを編んで仕掛けた網にかかり滅んだ。この故事からその地は葛城山と名づけられ、葛城山の土蜘蛛の霊は朝廷を仇と恨み平安京によみがえった。


もうお気付きの方々もおられるだろう、「うつ」というやまとことばを記事にしたことがあったが今回はそのつづきでもある。

終わりのある「現世-ウツシヨ」、つまりこの世での命をながらえるための「器-ウツワ」である人の、その「空-ウツ」なる「「内-ウチ」側が「うつ」であると書いた。そこに霊妙なる、奇しき力を宿した人はもはや「うつくし-ウツ・クシ」さを隠すことなどできまい。

ひとのうつくしさは言葉や振舞い、そして顔に現れる。その根源はその人の内側にある魂であり、そこにやさしさや強さや厳しさが具われば口をついてよい言葉となり、よい行いとなり、いずれはよい顔をつくる。見た目の整ったうわべの麗しさとはそもそも源を異にする。奇しき力とは向こうから歩いて来はしない。櫛で梳いた髪も如く、鋤で鋤いた田の如く、つとめて整えられた心の内にこそはじめて降り立つ。

人のみにあらず、それは森羅万象すべて同じく空も、海も、草木も雪も月も花も鳥もみなうつくしい。山河はもとより路傍の石とて人がこの地を踏むはるか昔に生まれ悠久の時に形づくられた姿を呈している。裸でこの世に生まれた我々の暮らしを支える道具もまたうつくしい。日々精進し技を磨いた職人の作り出す道具は用に徹し微塵の隙もなきにしてそのうつくしさは時として人の心を奪う。一枚の画は人の目を楽しませるだけの色と形の組み合わせに非ず、画工の魂から溢れるものをその腕によって紙に写したものである。見るものの心がそれに打たれ画工の心と邂逅したときにうつくしいと思うのである。しかしそれを見る側の心が鈍っていればなにも感じることはできない。

いま、大量生産された粗悪品に囲まれる日々は我々の心を鈍らせる。経済に重きを置くあまり、ありもしない需要をひねり出しありあまる供給をなし無茶な消費を迫る。無駄が無駄を呼ぶ。ありもしなかった需要に存在の価値があるはずもなくすぐさまゴミとして彷徨うことになる。うつくしき山河は土に還らぬ骸で埋められようとしている。
音楽や絵画など凡そ芸術と呼ばれるものは全て商品化されたであろう。作家の魂には値札がつけられ見るものの心はその数字にのみ打たれる。目と舌先を喜ばせるだけの華美な食卓は病巣を育てる。いかがわしい原料から作った物の悪臭を隠すために香料を添加し、あるいは見目よく着色する。おなじく見た目の麗しさを追いかけるのみの美容は異性の目を惹きつけるか同性との競いに勝つためのものでしかない。見ばえのする姿態と見ばえのする暮らしを維持したいと願うものは子を産み育てることから逃げたがる。放射能や遺伝子組み換え食品が不妊を招くといくら喚起したところで馬耳東風、このような人たちと次世代の話する術など、どこにあろう。


日本人が目先にとらわれ心の内側をこれほどまで置き去りにしてしまったのはいつからか。


原発という巨悪に対し立ち上がる動きは日に日に大きくなる。原発を擁護する世論はそれに押され弱まりつつあるかのようにも見える。

しかしここに掻き消せない一抹の不安がある。

それは危険極まりない原発も目に見える表層の現象でしかなく、その内側にははるかに大きな悪が控えていようそのことである。かりに日本から原発がなくなったとして、その後の日本をどう造るのかが如何に語られているのか。いまの生活、いや経済水準を維持するために必要な電力を何かしらの方法でひねり出すことが解決なのだろうか。原発の内側にある本当の問題に気づく者がこの先増えていくのだろうか。

現状、原発の是非の問答は経済にはじまり経済に終わる。ただでさえ不況を抱える今、原発による電気の供給がなければ経済が落ち込むという恐怖が人を捕らえて離さない。それを言い換えれば競争に負ける恐怖である。
周囲から引けをとっていないかに気を揉み、相手を出し抜く方法を教え込まれ、目の前の相手の価値を収入と肩書きで値踏みする。自らと競争相手だけで構成される集団の中で生きている。我々がこの競争に勝つことに生きる意味を求めている以上何も変わりはしないだろう。原発をなくしたところで原発よりもさらに危ういものを作り出すだろう。国とは人の集まりである。人同士の繋がりが競争でしかないのなら、それが集まった国とはいったい何なのか。国同士の繋がりが競争でしかないのなら、この世はいったい何のためにあるのか。

原発はなくすしかない。なくなるしかない。だが本当に戦う相手は原発や原子力村などではない。魔物は我々一人ひとりの内にある。それは見せ掛けの豊かさを手放せない弱さである。他人への妬みと嫉みである。飽くことのない欲である。もとより人に備わる穢れではあるが先祖たちはこれをよく戒め、手懐けて生きていた。それが近代の幕開けとともに競争原理がなだれ込み、勝ちたいがためにこの力を解き放った。鎖を解かれた獣は自由放蕩に暴れ周り我々を競い合いへと駆り立てる。

人々が常に誰かと競い、走り続けるこで経済の車輪が動く。立ち止まることは市場の持ち主たちにとって許しがたい行為である。だから脅して賺して走らせる。脱落するものは踏み潰されそして誰一人として勝者になれない。なぜなら輪を描いて走り続けるだけなのであるから。

外にとらわれ心の内側をこれほどまで置き去りにしてしまったのは、それは無理矢理に外を向かされたそのとき、近代を迎えたときからである。道を誤ったのであれば辻まで戻って行き直すしかない。

心の内側に巣食う魔物をねじ伏せることができさえすれば、原発などはその後ろ盾を失いたちまちに消えて失せる。そして心の内に奇しき力をふたたび呼び戻すことができるだろう。そしてうつくしき人に戻り、うつくしき国を立て直すことができよう。

「うつ」の構造

日本語の奥深いところに踏み込んでみたい。

我々の先祖がとおい昔に話していた言葉、「やまとことば」とは。
とても簡単に言えば大陸から漢語外来語が漢字と共に伝わる以前から我が国で使われていた言語である。
しかしこの説明では不十分、そのむかし最後の氷河期までは日本列島と大陸は陸続き同然であったために大陸の諸言語を祖語とする集団が絶えずこの地をめざしてやって来た事、あるいは南海の諸言語を祖語とする集団が船を巧みに操って日本に到達していたという事をふまえると当然やまとことば草創期は各国語の単語がひしめいていたであろう事になる。

解りやすい例が「ウマ」である。
日本列島には馬がいなかったとされている。この動物は訓読みで「ウマ」というがこれは漢語の「マー」が日本語化したものである。音読み「バ」「マ」も同様、元をたたどればマーになる。つまり大陸から離れる前の日本に大陸人が移動してきたとき傍らに馬を連れていて、それを見て驚いた倭人との間で

倭人 「こは なんぞや?」

漢人 「馬(マー)也。」

倭人 「んま?」

漢人 「是。」

などという会話を交わしたかはあくまで想像であるが、遠い処からやって来た物に和名をつけずそのまま外来語を受け入れたこともあった。
そして「馬‐ウマ」も立派にやまとことばの内にかぞえられる。

今回の話は何処から始めていいかよくわからない「輪廻型」のものなので唐突に馬の話などをしてしまったがお許し願いたい。日本人と馬の話はまた別の機会にとっておくとする。
日本人がいま日本で息苦しく暮らしているのはなぜか。それは日本の社会の現実と日本人の心の構造とがしっくりいかないからに違いない。もちろん無理を強いられているのは現実ではなく心の方だ。
ここで日本の社会についてどうこう言う前に、我々の心の構造はどういうものなのか思いを廻らせて見たい。やまとことばを道しるべに小さな旅をしよう。



「うつ」という音を持つやまとことばを追いかけてみる。

人が生れ落ち生きてゆく世を「うつしよ‐現世」といった。「うつしよ」では時が流れる。ひとは生まれてから死ぬまでという、必ず終わりの来る一定の時をここで過ごす。仏教の「此岸」のことである。その逆の「彼岸」は「とこよ‐常世」といった。「うつしよ」での人生を終えたものが行くところでここでは時が流れない。日本書紀や古事記、風土記などに書かれた「よもつくに‐黄泉の国」「根の国」はそれにあたり、浦島太郎が迷い込んだ竜宮城もこの「とこよ」であった。

「うつしよ」の「うつ」とは「うつ‐現」を意味する。目に見えるさま、いわゆる物質界を指している。

そしてそのさまは人の目に、水や鏡にうつる(映る)。人は五感を通して情景や色や香りを心にうつし(移し)、絵や文としてうつす(写す)。しかしこの目にうつる花の色はやがてあせる。なぜなら、時のうつろひ(移ろひ)がそうさせる。これが「うつしよ」の理である。

お気づきのとおり、「うつる」という何となく似た動詞が違った漢字で書き表されている。しかし我が国に漢字がやってきたのは日本語が出来上がってから後であるということを是非お心にとめていただきたい。古代の日本語は現代にくらべるととても少ない数の動詞が使われていたことになる。だがその中での微妙な違いを皆で共有し、わかりあっていた。漢字を巧みに使いこなし重厚な文章を作り上げるのとはまた違った奥深ささがあると思うのだが、いかがであろうか。


もうひとつの「うつ」、それは「うつ‐空」である。空っぽで空しいさまを指す。二つの漢字「空」と「現」、これをならべると似ても似つかない互いに無関係な言葉と捉えたくなるが、じつは不思議なほど通ずるものがある。

頭の中がうつけて(空けて、虚けて)ぼうっとした人間は「うつけもの」といわれた。人はある種の入れ物と捉えられていた。入れ物、すなわち「うつは‐器」であり、「あの人は器が大きい」などと形容する。
ではその「うつは」は何から何を隔てているのであろう。それは外から「うち‐内」を別けている。うつは(器)のうち(内)に湛えた水をうつ(棄つ)とうつろ(空)になる。太鼓や鐘をうつ(打つ)ことで音が鳴るのはうち(内)がうつろ(虚ろ)だからである。おもしろい。
建設現場でコンクリートを型枠に流し込む作業、もちろん近代以降の話だがこれも「コンクリートを打つ」という言い方をする。動詞「打つ」の同じような使い方は「布団を打つ」などに見られる。いずれも器となるものの内側に何かを充填することで物として成り立たせる働きを説く。さらに視野を広げれば「裏打ち」という今あまり聞かれなくなった言葉も見え、これには修理や補強、精進などの意味がある。物を作る、つとめを果すという目的を遂げるため計画的に行動することが「打つ」だろう。「芝居を打つ(人を騙す意ではなく芝居興行のこと)」「墨縄を打つ(大工などが木材に印をつける作業)」はまさにそれである。

人は死ぬとからだという入れ物から霊が抜け出し空っぽになると考えられていた。死ぬという事は霊が「うつしよ」を離れ、別の次元へと旅立つことである。現し世での器たる体は空ろになった。ここで「現」と「空」、ふたつの「うつ」が重なった。偶然ではない筈だ。


ひとのからだはたった数十種類の原子でできているらしい。そのような「物質」が、立って歩いて笑って涙を流す。恋をして、子を為して、裏切り奪い騙しもする。こんな不思議、いや不条理とも言えることが起こるのは人という器の内側に霊が存在するからである。

死んで霊が抜け出たからだは物言わぬ骸となり、あたかも蝉の抜け殻の如くただ塵となるのをまつのみである。うつせみ-空蝉の言葉の意味を辿れば「うつしおみ-現人」すなわち現世に生きる人に行き着く。蝉の抜け殻をそれに重ねあわせたのはいにしえの人々の聡明さであろうか、否、やまとことばと共に暮らしていた先祖たちにしてみれば「現」はもとより「空」であったことなど自然なことであったはず、 今を生きる我々からすれば驚きでしかないが。


さて、からだをはなれた霊はどこへゆくのであろうか。
信心によって言い方はちがう。あの世、彼岸、天国、時には地獄という。
遠い昔の日本では「黄泉つ国」あるいは「根の国」なる処へ行くとされていた。その国では時間の概念がない。死ぬまで、いや死んでも、いやもう死なないので時間が経つということがない。暑からず寒からず、四季の花が枯れずに常に咲き乱れているという。つまり四季もない、終わりもない、時のながれぬ「常世」である。

なぜ「根の国」といったのか、「根」の文字が地の底を思わせるために死後の世界が地下にあると解されがちだが筆者はそうは思わない。
そこに一本の木があるとする。その木には花が咲き、青葉が繁り、鳥や虫たちが棲み、秋にはたわわに実をつける。それも一度きりではなく何年も、何十年も繰り返す。実からこぼれた種からは自らの子が生まれ、うまく根付いてゆけばそこは林になる。
これはみな人の目に映る「現象」である。しかしそれを支える「根」の働きは見ることはない。目に映らない国、それが「根の国」であろう。

時がたてば花も葉も枯れて落ちる。棲み付いていた生き物たちもやがては土に還り溶けて根に迎えられる。先祖たちはそれを知っていたのか、うつしよでの時を終えたひとのからだは土になり、霊は根の国にゆくと信じられていた。

「こんなはずではなかった」
人生を悔やみながら死ぬと歪んだ霊となって根の国にゆくことになる。時代が降るにつれてそんな霊は増えていったことだろう。目に映るものに憧れ、それが手に入らないと知ると苦悩し嫉む、あるいは奪い取ろうとする。そして搾取や戦がおこり命が踏み散らされた。こんなはずではなかったと恨みつらみを抱えて根の国へと旅立った霊、それは根の国をも歪めて穢すことになる。

根が傷つき腐りだすと木には虫が湧き花も実もつけなくなる。それどころか芽を吹かぬようになり、枝を枯らし、なおも根腐れがすすめばすっかり枯れてしまう。目に映らぬところで起こっていることはこうして我々の前に姿を現す。いまの世の中は虫食まれ枯れるのを待つ木立ちによく似ている。


近代思想の「教え」では、現世という物質界こそ全てであり人は死ねば後には何も残らぬと、さらには現世での行いを裁くのは法であって神ではなく、そもそも天国も地獄も迷信であると説いている。目に映らない世界を切り捨てよ、と命じている。それに帰依してしまった人間は行いを正すことを忘れ、法にふれなければ、またその網をくぐりさえすれば何をしてもよいと解した。そして法などはいくらでも都合よく作りかえられることも承知した。弱い者たちから奪おうが、騙そうが、殺そうが裁かれない。あの世を顧みず目に映るものを追えば追うほどそれは酷くなる。しかし近代思想の屁理屈が何をほざこうと霊は間違いなく存在しからだを離れてもなお在り続けるのだ。霊は見えない世界に行って見える世界の根となる。

すべてはうつしよの絵空事、ひとにそう思い切ることができるのであれば苦労はない。容易ではないがしかし、そうと諦めねばならない。「あきらめる‐諦める」は何やら逃避を思わせる物悲しい言葉となってしまったがそうではなかった。もとは「あきらむ‐飽きらむ」、つまりこれで充分と「満足する」ことである。それによって煩いや迷いを打ち消し心の内を「明きらむ」ことができる。いとも不思議なことに「あき」の音は回りまわって「空き」にとどく。



もうひとつ不思議な「うつ」がある。
「鬱」、この漢字は「ウツ」とよむが訓読みではない。したがって普通に考えれば大陸語であってやまとことばではない。しかし「鬱病」はひとが己の「うち」側にのめりこむ病で、字源をみれば、木々の間で酒を醸すときに香草で「うつは‐器」を覆ってその香りを酒に「うつす‐移す」作業を描写したものとある。どうやらやまとことばの「うつ」と無関係ではなさそうなのである。
鬱の訓読みである「しげる」は草木が生い茂ることを意味し、その結果は「鬱蒼」とした森になる。また、日本でウコンとよばれる薬草は中国語で「ウッコン‐鬱金」、沖縄ではウッチンという。鮮やかに輝く黄色を意味するそうだ。鬱にはうちに秘められた力が外に向かってなにかを放つ、そんな語意が感じられてならない。その力がどのようなものであるかによって酒にも森にも病にもなりうるのではないであろうか。
冒頭で述べた「馬」と同様、「鬱」はやまとことばと大陸語の中間に漂うことばではないか、筆者は何となくそう思う。



かりそめの、うつしよでの時を終えた霊はいよいよ本当の世界へとうつる。その時によき霊となるか、悪しき霊となるかが今ここで生きているうちに試されていると思うことができれば、この世も少しはましになるだろう。

大国主は大地主

もうすぐクリスマス。と、いうことで大国主について書かねばならない。

大国主にはいくつもの呼び名があり、一説では複数の神話の主を大国主という存在の中に一本化したのではないかという。また、背景が変わるにつれて名前を脱ぎ変えていったという説もありとても興味深い。ただし大国主が活躍していた(もしくは神話の元になる事件がおこった)頃の日本には漢字がもたらされていなかったことを忘れてはならない。我が国の神々の名前似使われた漢字はあくまで奈良時代の当て字でありその神様の個性を正確に表現しているわけではない。漢字の持つ意味が邪魔をしたがため古代史が霧の向こうに隠れてしまった。

「古事記」、「日本書紀」、「出雲国風土記」、「播磨国風土記」などにオオナムチという名前で登場するが、大穴牟遅、大己貴、大汝、と、どれも万葉仮名か音を借りただけの漢字であるが少なくとも「大」は共通している。

まず、オオ‐ナ‐ムチ と分ける。
そしてオオは「大」で間違いない。ムチは「持ち」であろう。
では、ナは?

数ある表記の中にひとつ、「大名持」がみられる。
名前がいっぱいあるから「大名持ち」。そうではない。「名」には別に意味があった。

江戸時代、農村に村の行政を担う「名主‐なぬし」がいて、時代劇や昔話では村人の親代わりだったり逆にあこぎな守銭奴だったりする。その本来の役職は村の租税徴収の請負人であり、発祥は平安時代まで遡る。
平安の世は雅な貴族たちとは裏腹に、農民が田畑を棄てて流浪する過酷な時代だった。
そして律令制の班田製が崩れだし、中央が地方に派遣した国司による税徴収が立ち行かなくなったのを受け、公地を「名-みゃう」という単位で再構成した。その「名」の管理と租税徴収を請け負ったのが田堵、或いは田頭と呼ばれた地域の裕福層で、その後彼らは「名主-みゃうしゅ」と呼ばれるに至った。名をたくさん所有するものは「大名‐だいみゃう」であり、これは鎌倉以降の武人の役職のひとつとなった。

お気づきのように、「名-みゃう」とは土地、いや耕地、それもコメをつくる田をさす言葉であった。


遠い昔の日本の言葉、やまとことばはどのようにして出来たか。
それは単純な動作をあらわす二音節の動詞に接尾辞が次々に膠着して名詞、形容詞、または別の動詞が作られた。ではそのおおもとになった動詞は何処からきたか。
一部の動詞は擬態語擬声語(オノマトペ)から生まれた。

参照 『大和言葉の作り方』

頬を膨らませてフーッと息を吐く。その行動は フク「吹く、噴く」という動詞で表すことができる。獣の皮を剥いで中に息を「吹き」込むと空気を「含む‐フクム」ので「膨む‐フクム」、その皮は「袋‐フクロ」として使う。また外皮で覆うことを「葺く‐フク」という。
「フ」の母音を「ハ」に変えた時もよく似た語彙があらわれる。「吹く‐吐く」、「葺く‐履く」、「膨む‐腫る、張る」というようにである。

ナ行は実に興味深い。ヌルヌル、ネバネバから生まれた言葉がたくさんあるのだ。
「ヌ」はヌルヌルしたものを表す。それが溜まった所が「ヌマ‐沼(ヌ間)」、それを何かに「ヌル‐塗る」と「ヌレル‐濡れる」のだ。
そんな抽象的な「ヌ」が名詞として確立されたのが「ニ‐丹、土」で、粘土や泥、顔料を指している。

土器を作る粘土を「ハニ‐埴」といった。鋳造の型を作る粘土は「マネ‐真土」と今でもいう。

「ニ」を手で掬って地面にたらすとどうなるか、横にだらりと「ノビ‐延び」、これを「ナグ‐薙ぐ、凪ぐ」といった。横になって寝ることは「ヌ‐寝」であった。
「ナル‐平る」は水平を意味する。これを他動詞にすると「ナラス‐平らす」、「ナデル‐撫でる」、そこから「均す、馴らす、慣らす」「ナダメル‐宥める」に発展し、横に「並ぶ‐ナラブ」、右に「ナラフ‐習ふ」に至るまで水平な広がりを意味する言葉が出来ていった。動詞「ナガル‐流る」や「ナガシ‐長し」「ナダラカ‐緩か」という形容詞もうまれた。

土地を平らに均し、泥を湛えた水耕田を「ナ」と呼ぶようになった。秋には黄金色の穂が風に凪ぎ、それが日本中にと広がった。

水田を作るというのは大変な仕事である。土地の高低を読み、石を拾って平らにならして遠くから水を引く。自らが開墾した水田をほかと識別するにはその一族か族長の呼び名をつけたであろう、それが行くゆく地名となったことは想像にたやすい。人名と地名のあいだの線引きは本々はっきりしていなかった筈である。
飛鳥時代の中頃から、我が国の中央は中国の文物に凌駕された。日本の森羅万象が表意文字である漢字によって表記されるようになった。「ナ」なるものは「名」または「字」という漢字が宛がわれた。そして朝廷で使われていた大陸調の言葉では「みゃう」と発音されたのだ。


スサノオはオオナムチの父親とも六代を遡る祖とも云われており、どうやら同じ一族と考えてよさそうだ。乱暴狼藉を働いたかと思えば子供のように泣き喚くというスサノオはアマテルを怒らせ高天原を追い出された。そして出雲の国にやって来たが、ここから先はまるで「別人」になってしまうスサノオであった。ヤマタノオロチに七人の姫を攫われ、そして最後にのこったクシナダヒメまでも狙われていることに嘆く夫婦に出会い、勇ましくも大蛇退治を買って出る。もちろんあとで姫様を貰う約束も取り付けた。
強い強い酒を特別に搾らせ、それをしこたま飲まされた大蛇はスサノオの手に掛かり息絶える。
オオナムチが大地主になったのだから、スサノオが出雲に根付いて開墾に勤しんだであろう。それ以前の出雲を考えてみたい。クシナダヒメの属する集団と、それをを脅かすヤマタノオロチに象徴された別の集団があったはず、そして先住者は前者であろう。後から来た者たちは姫たちに悪さをしたかどうかは別として一体どのような害を為したのであろう、そして誰だったのか。

出雲は日本有数の砂鉄の産地、その品質は燐や硫黄、銅などの有害不純物が極めて少ない最高のものである。鉄の加工を心得た集団が岩肌の色や水の味をたよりに出雲のそれを探し当ててやってきた、そして居ついたのではなかろうか。鉄―日本ではクロガネといった―それは融点が高く酸化しやすいという扱いにくい金属で、溶かすために熱すると酸化鉄になってしまい脆くなる。坩堝で銅を溶かすのとは勝手が違う。そのため、砂鉄は地面に穿った穴の中で木炭と一緒に燃やされた。タタラと呼ばれるふいごで風を送った。木炭の炭素が鉄と結びつこうとする酸素をより早く捕まえて鉄の酸化を妨いだのだ。木炭は燃え尽き、灰は比重が小さいので不純物として表層に浮かび上がり除去される。こうしてハガネ‐鋼が出来る。鋼とは粘り強い鉄と硬い炭素の混合物である。

そこで問題になるのが燃料の入手、大量の木炭、そのための森林伐採である。鋼を得るためには目方にしてその十倍以上の木炭が必要なのだ。娘たちにも当然のように手出しをしたかも知れないが、無尽蔵に木を切り倒しては焼き尽くし、森を荒らしまくるという山の霊を恐れぬ行為はこの上なく邪悪なものと映ったのであろう、これは縄文の血をひく先住民にとっての脅威となった。

膨大な試行錯誤が必要な製鉄は先駆者である大陸から職人集団とともにやってきたと考えるのが普通である。彼らが自発的に来たのか或いは神功皇后の三韓征伐の末に連れてこられたのかは不明である。が、新羅には豊富な鉄と製鉄基地があった。
筆者は学生時代に韓国を旅したことがある。その記憶の中の風景の一つ、剥げて土を露出した山々があるが、それは大戦で日本軍の爆弾が焼いたという説明をうけた。戦争責任の議論はともかく五十年も植林しないで放っておく方がよほどおかしいではないか。この土地の人々の山や森に対する感情はそもそも我々とは相容れなさそうだ。あくまで想像だが、半島人は鉄鉱石も製鉄技術も持ち合わせているというのに土地の木を切りつくしたがため行き詰まった、それゆえ燃料の豊富な我が国にやって来たということもあり得る。


退治されたオロチのその尾から一振りの剣、後にヤマトタケルがその身に佩く「草薙の剣」が現れるのであった。そうなれば、スサノオはオロチ党?の持っていた剣を奪った、つまり神器を簒奪し恭順させたということだ。そして彼らの製鉄の技術を農具の製造に生かしたとしたらどうだろう。湿気が多く海が近い日本の土壌からは酸化しやすい鉄器が発掘されることは少ないので立証は難しいが、そうであれば鉄製の鍬や鋤は灌漑や開墾に大いに役立ったであろう。

妻に迎えたクシナダヒメの、その父母の名はテナヅチ、アシナヅチと書紀にある。そこで三人が共有するナダ、またはナヅの音は「ナヅ‐撫づ」から来ているのだが、これも「ニ‐泥、土」を祖とする動詞である。「クシ」で髪をすくことを古語では「クシケヅル‐梳る」というのだが、スクは「鋤く」ことでもあり農具の鋤にも繋がる。鉄器の使用が始まる前は「クシ‐櫛」のような木製の道具を鋤のように使っていたのかもしれない。この一族はコメを作っていた、それも水耕をおこなっていたのではないかと思いを馳せることができる。

東日本にいたバイカル湖周辺に祖を持つ縄文人が寒冷化に伴い西日本に移動したことを前回の記事で書いた。スサノオやオオナムチはその東日本縄文人のある一族を指しているのではないだろうか――彼らは出雲の地で水田を持つ先住者に出会い、脅威となる者共をねじ伏せ、通婚して融和した。そして「鉄」を手に入れさらなる開墾に成功、子孫たちが「おおじぬし」となるに至らしめた――そう考えるとじつに興味深い。なにより、スサノオの描かれ方はどうしても東国を駆けた武者たちをほうふっとさせるのだ。

土地だけでなく、オオナムチは名前もたくさん持っていた。
おそらくはスサノオの子、それから数代あとの子孫までを同一神としたのであろう。
さまざまな神話を残しつつ最後は天孫たる大和の勢力に屈することになる。

赤裸にされた白兎を助ける優しい大国主(オオナムチ)は、ヤガミヒメに求婚にゆく意地悪な兄たちの荷物を大きな袋に入れて背負わされていたのだ。助けられた兎が謂うには、「八十神(兄たち)はヤガミヒメを得られない、袋を背負ってあとから追いついたとしても大国主を選ぶ」と。この袋の中にはどんなお宝が詰められていたのだろうか。


この季節、大きな袋を担いだ笑顔の翁が日本中にあらわれる。じつは日本を見守る大国主かもしれない。


ことのは いまむかし

大陸から漢字が伝わる前、わが国には表記文字がなかったと「されて」おり、学校の日本史でもそう習う。そしてそれを疑う余地はあまり残されていない。
現在、漢字以前からの「日本固有の古代文字」に関する研究が数多くなされ書物も出回っているがどれもトンデモ扱いを受けている。国費を投じての調査・研究どころかケンモホロロの門前払いだ。自国の古代史にここまで薄情な国も珍しい。
まるで古代文字があっては迷惑する連中がいるかのようであるが、しょせん行き着くところはその辺りではなかろうかと思う。



遠い昔、今の日本の地で交わされた言葉を「やまとことば」という。

表記文字が「なかった」以上は古代語がどのようなものであったかを予測し、検証するしかない。
今日つかう日本語の中で、漢字で書いたときに訓読みをする語彙すなわち「やまとことば」であればその語源を単純な動詞に見出すことができる。おもしろいので是非ためしていただきたい。

たとえば「恋」、もとは(恋ふ)という動詞であり(請ふ、乞ふ)さらに(媚ぶ)などと同源の語彙である。「愛」などは外来語で、「愛す」は(愛)に動詞(す)をくっつけた漢語動詞でしかない。わが国で「愛してる」などと言われると鳥肌が立つのは先祖の血が拒否しているにちがいない。外国人男性が日本女性をたぶらかす際には「アイシテル」はやめて「スキ」と言うのをお勧めしたい(あくまでも日本語を正しく使ってもらうために)。

動詞「ミル」は、見る、観る、視る、診る、看る、…といくつもの漢字を当てることができるが、すべて(目)のする仕事を表している。ながメル、こころミル、かへりミルなどは「ミル」からさらに生まれた動詞だ。メ(目)は映像を取り入れる器官、そして、家の中に戸外の眺望をもたらすマド(窓)はマ(目)のためのト(戸)と考えられた。

このように、やまとことばは決して難解ではなく、むしろ小さな子供がはじめて言葉をおぼえていく時の驚きや感動に似たものを与えてくれる。



それでは、わが国の古典がなぜにあれだけややこしいのか。好きでなければ古典などに誰も近づこうともしないだろう。

飛鳥、奈良時代を通して大陸からひっきりなしに文物が渡ってきた。詔勅や律令をはじめとする朝廷の公文書はすべて漢文で作られ、それどころか官職・法令すべてが大陸の制度に基づいて整えられた。万葉仮名をつかい日本語として書かれたものは和歌とその注釈が残るのみである。

これは何を意味するか。朝廷の貴族たちはみな漢語に長けてなければならなかったということになるが、逆にいえば日本語などできなくてよかった。日本語を知らない大陸人が朝廷の官職に就いても差障りなく、わがもの顔でいられたことにもなる。
万葉の時代、朝廷に「歌人」という職能者がいたことを思えば、漢詩はつくれても和歌のよめない貴人が多かったのではないだろうか。

ある時代を境に国家の中央での言語が大陸の言葉に席捲されてしまった。それが日本語の古典を複雑なものにしたのだ。

庶民たちはどうであったか。
おそらくは大陸の言葉などとは縁がなかったのではないかと考えられる。日本史に庶民の暮らしが見えてくるのはずっと後の時代である。武士がおこり、貴族たちから国の主権を奪う時代が来るまで古代のやまとことばを使い続けていたかと思われるが、やはり筆者の推察の域をでない。




このよをば わがよとぞおもう もちづきの かけたることの なしとおもへば

藤原道長は己が世の栄華をみずからこう詠った。はたしてこの歌が日本人の心情に合うかどうか、筆者にはとてもそうは思えない。散りゆく花を、山の端からいづる月をめでた我々の先祖よりも、酒池肉林を好んだかと思えば嘆きのあまり白髪が三千丈も伸びる国の人々にふさわしくないだろうか。日本人であれは欠けぬ満月などを恐れこそすれありがたがりはしない。

道長から遡ることおよそ百年、藤原氏の増長に釘を刺し、さらに遣唐使の廃止を建白した菅原道真を失脚させたのは藤原時平であった。

さらに昔、道長や時平の直系の祖である藤原不比等は文武天皇に娘・宮子を嫁がせ聖武天皇を産ませている。文武天皇の乳母を勤めた橘三千代を妻にし、その\口添えもあって朝廷内で頭角を現した。漢語や唐の律令制に明るい不比等は大宝律令の編纂に大きく関与している。さらにその三千代との娘の光明子を聖武天皇に嫁がせた。藤原家と天皇家との強固な外戚関係はここに始まった。

そして不比等の父親は、蘇我入鹿を倒した鎌足である。
息子の最後を知った蘇我蝦夷は自害、屋敷は焼き討ちに遭い、日本書紀・古事記よりも古い「国記」と「天皇記」は焼失してしまった。また、その時代の生き証人たるそのほかの書簡、宝物も灰となった。

学校日本史は大化の改新を評価して曰く蘇我氏の専横を粛清したとあるが、その評価のよりどころは藤原氏の都合で書かれた日本書紀にほかならない。蘇我馬子は遣隋使を通して大陸の不穏な情勢を察知し大陸外交に慎重になるよう聖徳太子とともに天皇に上奏していた。「国記」「天皇記」は聖徳太子と馬子によって編纂されたがその内容は全く不明である。ただ、藤原氏はその起源に陰をおとすようなことが書かれたものを残しはしなかったであろう。だからこそこの世に姿をとどめていない。
 
こうして日本の古代史や古代言語は深い闇の中に隠されてしまった。 
また、もしかすれば古代文字も時の権力者によって同じくその跡を消されたのかもしれない。


平安時代の遣唐使廃止によって事実上の鎖国をした日本には国風文化の花が咲いた。外国語である漢文も女房たちの手でひらがなに書き下され、漢語と融和した日本語として生まれ変わった。やまとことばの単純明快さはすでに失われたとしても日本人の心を描くに足る美しいことばが出来上がった。

また、徳川幕府が鎖国を布いた日本には江戸時代という奇跡の時代がやってくる。この国が政治、暮らし、そして言語のすべてにおいて最も成熟した時代である。

明治以降、モダンな外来語が流入し、また日本になかった西欧の価値観を輸入するために漢語由来の新語が次々と作られた。そして戦後はもはやどっちを向いてもカタカナだらけ、外来語抜きでは生活もままらなくってしまった。

日本語の変遷が日本の外交政策と深く関わっていたことはすでに書いたとおりである。外から常に負の影響を受けながらもそれを克服し昇華することに成功してきた。二度の鎖国のあとに日本語が独自の発達を遂げたことがそれを証明している。しかし三度目の鎖国はどう考えても無理であることから、日本語のこれ以上よくなることも無理だ、とつい悲観してしまうのは筆者だけであろうか。

たかがコトバと思わないでいただきたい。コトバとは「言の葉」であり「事の端」でもある。やまとことばの世界では(言と事)、(葉と端)はそれぞれ源を同じくする。つまり我々の口から出る事の葉は、我々が生み出す事象の写し絵であり、それは昔も今もこれからも決して変わらない。いまの日本語の味気なさと醜さは日本の味気なさと醜さである。



王族の陵墓か、三輪山の奥深くかは判らぬが、どこかに古代の日本の姿を伝えるものが息をひそめて待っているのかもしれない。それを目の当たりにした時、日本人はどう受け入れるか、それに微かな望みをかけたい。



追記  先日23日にトルコで大きな地震(M7.2)がありました。山の険しい地域であるため被害状況がまだ把握されていませんが、私の在所からはかなり遠いため無事にしております。ご心配いただきありがとうございます。また、救援を申し出てくださった日本の方々にこの場を借りまして深くお礼申し上げます。

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Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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