とき、とこ、ところ

遠い昔の日本人は「時空」というものをどう心得ていたか、やまとことばを道しるべに思いを馳せてみたくなった。


延々と移ろう時は「うつつ―現」といわれ、うつろう時をすらりと切った切り口(断面)が「とき―時」だとされていた。時と時のあいだに仕切られた領域は「ま―間」であった。

幕末以降、近代思想の輸入とともに西欧諸語と対比させやすい合理的な日本語語句の「和製漢語(明治の新語)」がおおく造語された。そして「ま」には「時間」と、そしてそれを刻んだ「とき」には「時刻」という造語を充てられた。「うつつ」を表現できる単語は新語には見当たらないが、強いて言えば「過去現在未来」とせねばならぬ。

「うつ―空、虚、内、移、遷、映、写、現、打…」この「うつ」の音の持つ深くも広い意味は以前の記事で触れている。目には映るが不変ではない、儚いものをさしていう言葉である。人々はその虚ろな器の内に何かを打つ(充填する)ことで姿をとどめようと試みるが、それとてやがては空しくなる。

「うつつ」を「う―つつ」に分けると、「う」は大いなる、という意味の接頭語になる(例・うみ―海―大いなる水)。そして「つつ」にもともとある次のような意味が浮き上がる。
「思ひつつ」「嘆きつつ」がそうであるように、ひとつの動作を継続するときに「つつ」をつける。この解釈は「思いながら」だけでは不十分で、「思っては、また思い」というように動作や現象が絶え間なく「つく―付く」ことでもある。(「つつく―続く」の語源)
「うつつ」、大いなる時の流れである。

中が空洞の「つつ―筒」状の入れ物の中を現象が流れている、時の移ろいをこのように思い描いていたのではないだろうか。その「つつ」をどこかで斬るとその切り口に「つ」が現れる。この「つ」は「いつ―何時」の「つ」、と思われる。

竹を取りつつよろづのことに使いける竹取の翁がいた。その翁がかがやく竹をふしぎに思い切ってみると、そこから現れたのはちいさなちいさな姫だった。この世ならぬどこか別の世からやってきた姫は、竹という筒のその節と節にしきられた「ま―間」にいましたのである。「ふし―節」もまた、季節や人生の変わり目などの時を示す言葉である。この世で限られた「ま―間」を過ごしに来た姫を運ぶ器はやはり「竹」でなければならなかったのだろう。では別の世とは、である。

「ま―間」は時間と空間の両方を表す言葉である。もしかするとその両方の境がなかったのかもしれない。

「ときは―常磐」という古い日本語がある。古語辞典を引けは「トコイハ(常磐)の変形、永久不変」とあり、岩(磐)の不変さのなかに永遠を見出したゆえにこの意を得た言葉であることがわかる。
「とこ―常」はそれ自体が不変を意味するが、上述の「とき―時」の変形でもあり、時間の概念から流れを除いたものと考えられる。そして「いは(わ)」とは古代の日本人たちがその霊性を見出し畏れ敬った「岩、磐、巖」であり、その原義は「いは(わ)ふ―祝、敬、斎ふ」という動詞にある。さらにその語源か、あるいは語源を共にする動詞「いふ―結ふ」にもつながる。

やまとことばは単純な動詞から枝葉のように言葉がうまれ、広がった。

動詞「いは(わ)ふ」からはまた別の名詞「にわ―庭、わ―輪、は―端、ば―場、わ―和」などが生まれた。これらはいずれも「領域」をさす。その周囲から切り取り区別した処のことである。「わ―輪」を描いたり、そのまわりを「まわる―廻、周、回る」ことは領域を決定する原初的な方法で、そこから結界を「いふ―結ふ」などの呪術の手段に発展する。
「不変である」とする「場」を周囲から切り取ったとき、そこが「常磐」となる。神社の境内などがそうであり、三輪山や厳島のような場もそれにあたる。そしてその不変たる場はあの世を垣間見せる。

この世は時のうつろいとともに変わり続ける。不変と見立てられた岩でさえ不変不滅ではなく、万物はその姿を変えやがては塵となる。時のうつろうこの世は「うつしよ―現世」である。そして時のうつろわぬあの世を「とこよ―常世」といった。

「とき」と「うつつ」、「とこよ」と「うつしよ」、これらはそれぞれ相対の関係にある。それでは「ときは―常盤」とその関係にある言葉はあるだろうか、あるとすれば「うつは―器」をそれとするべきである。
体は魂の器である。家は親子兄弟と先祖の器、里も、国もまたそれぞれ器であり、さらにその器である「この世」のその中にあるのは時のうつろいとともに変わり続ける万象である。


やまとことばは子音という「体」に母音という「心」を打ち込むことで命を得る。だから母音が変わればそのことばの振る舞いが変わる。「とこ」と「とき」は母音の違いが用法に微妙な違いをあたえた類義語である。「とこ」はさらに母音が変わると「つき」になり、「たけ」にもなる。ふしぎだ。
鬱蒼と繁る竹薮は常盤の庭、かぐや姫はそこに降り立った。姫が来たとされる別世界とはやはり「とこよ」であった。そして翁のもとで美しい姫となるものの、月をみてはしきりに嘆くようになった。「とこよ」の者である姫にこの「うつしよ」で過ごすことの許された束の間が「つき―尽き」たとき、「つき―月」へと往かねばならなかった。

(「竹取物語」は純粋な伝説ではない。いくつもの伝説を巧みに組み合わせた「物語」であり、全体よりも細部を凝視することでその厚みを知ることになる。これは古事記から脈々と続く、能や歌舞伎にもみられる我が国ならではの表現方法で、あくまで全体評価しようとする西洋式の見方をすると荒唐無稽なものに映る。民話や童話が「子供たちにもわかりやすいように」と書きかえられているが、これは子供たちのためにではなく西洋化してしまった大人たちのためにである。)



前回の記事で触れたように、古代人の生死観は今とはいささか違うようであった。肉体が滅びると魂がそこから離れて別の世界にと旅立ってゆくというものであった。
やまとことばには「死ぬ」に当てはまる語彙がないこともそれを裏打ちしており、その代わりに使われていた言葉として「ゆく―行・逝・往く」「ゐぬ―去ぬ」「うす―失・亡す」「かくる―隠る」「たぶ―旅・渡・度ぶ」などがあった。

もちろんこれらの言葉は死ぬときばかりでなく物事のありきたりの動作をあらわす動詞である。ここを「去に」てそこへ「行く」、月が雲に「隠れ」て光の「失す」ことなどをも語ることができる。そのなかで「たぶ―旅・渡・度ぶ」がやや特別な意味を帯びて見える。

名詞「たび―旅」は動詞が「たぶ」からうまれた。「旅をする」の意であるが、そのもとの意味は「ゆく」にちかい。が、どこが違うか。

「たぶ」の語源は「とふ―訪・問ふ」であった。おとずれる、様子をきく、病を見舞う、などの使われ方をした語で、「つまどひ―妻問ひ」とは男が女の許をたずねることや求婚することをさす。かぐや姫を悩ませたのも男どもの「つまどひ」であった。
それが変化し「たぶ」になった。なにせ昔のはなしである。ちと様子を聞こうにも人づてにでは心もとなく、恋しい相手に手紙をしたためるのはもっと後の時代を待つことになる。心が疼けば野山を越えて行ったのであろう、旅をしたのだろう。

「ひとたび」「ふたたび」の「たび」もここに語源を持つ。「回、度」を意味するこの言葉はすなわち旅をさしていた。たとえば春が来て去ってゆく、そして年を一回りしてふたたび訪れる。月も日も然り、これも「たび」である。回り周るのはなにも人だけではないことに、また繋がる。


「サファリ」は遠い遠い砂漠の国の民が話すアラビア語だが、その原型の「サファル―سفر」の意味も「旅」そして「回、度」である。彼らにとっての旅とは駱駝に乗っての隊商であり、イスラム化してからは巡礼であり、布教や戦のための遠征でもあり、砂漠の旅を生涯のうちいくたびとなく果たした。風に任せて姿を変え続ける砂丘は人をはぐらかし、彼らの道しるべはその季節の空を回る月と星と日であった。

森と海の民である我々と、砂漠の民たちの遠い先祖のことばの間に繋がりがあったとは考えにくい。しかしこの接点は偶然ではないだろう。ことばがじかにつながるのではなくその作られ方に同じ思いがはたらいたのであろうと思う。アラビア語もまた「体」の子音にが「心」の母音を宿す言語である。このことは別の機会に書いてみたい。
天体は道しるべであり、時しるべでもある。自らの在る時と所を月や星そして日という「しるべ―知る辺」に頼み導き出すのである。天体の位相を読んで処を知り、天体を暦に照らして時を知り、人のさだめをも読むことができた。とき―とこ―ところ、これはもともと切り離しては捉えることはできない。遠く離れた先祖たちは同じ思いで空を眺めていたことだろう。だが西の国ではその後、空が回るか大地が回るかで大騒ぎになったという。どちらも回るというのにご苦労な話である。


空も、時も、人々も、回りまわって会い、別れる。いつか、どこかでまた出会う。月日は百代の過客、いまここにある我にとれば月日こそが旅人であり、それを出迎え見送るのが我である。そしてこのうつし世のだれもがいつの時か、見送られて常世のたびにつく。


不老不死はどこにある

「長生きしたらあかん、いらん恥かくばかりやで。」
筆者がまだ学生の頃、京都の祖父がそういったのを覚えている。

頑固でへそ曲りの祖父だったが、「長生きしたらあかん」のはそれほど特殊な考え方とは思えない。むしろ「長生き」は父母やつれあいという大事な人がいつまでもそばに居てほしいという周囲の願いか、あるいは「はよう死ね」とはまさか言えない相手に対し使うことばなのかとも思う。

わが国の芸能にも長命を寿ぐ出し物は多く、「不老長寿」「千秋万歳」などは決まり文句として知られている。長く生きることは好いことであったに違いないだろう。
寿命の短い昔であればなおのこと、病を得ず、思い煩うことなく、人から謗られず恨みを買うことなく天寿を全うするのであれば目出度きことこの上ない。だがそういう生き方が難しくなった今は逆に医療が進み重い労働からも放たれたために寿命だけは延びた。「長生きしたらあかん」のは人にもよるのか、人をとりまく世の中によるのか。

          高砂
                              能 高砂


秦の始皇帝のころ、「不老不死」の仙薬を探してわが国までやってきた人物がある。

その名は徐福、司馬遷の「史記」にその実在が証されている。
徐福は斉の国、今の山東半島のあたりに紀元前三世紀の後半に生まれた。この地方にもとよりあった神仙術、つまり呪術や祈祷,薬学,占星・天文学の師であり、その職を方士といった。神仙術は道教にも影響を与えたとされている。

方士たちは錬丹術をよく知る。丹とは水銀を原料とした丸薬のことで、この時代は水銀が「不老不死」をもたらすという考えから鉱物として出土する辰砂(硫化水銀)を用いてさまざまな薬が試されていた。錬丹術の手法は錬金術とほぼ同じものであった。神仙術を極めた方士は錬丹術によって得た仙丹を自ら服し不老不死の仙人になれると信じられていた。

絶大なる権力をその手にした始皇帝はこの神仙術にとり憑かれた。この世の全てを欲しいままにしながらも未だ唯一得られないものは「永遠の命」、自ら斉の国に赴き方士を探した。

中国の歴代の歴史家たちはこの方士に対して冷淡である。多くの権力者たちがこの辰砂のために中毒死したという事実がそれを裏付けており、方士とは「調子のよいことを言いつらね皇帝に媚び諂っては大金を巻き上げた」との酷評が残る。それは神仙術が道教に影響を与えていることと、歴史家の多くが儒教の思想を汲んでいることと無関係ではないとの指摘もある。

さて徐福は、「海の東にある方丈山,蓬萊山,瀛洲山の三神山には不老不死の仙人あり」と始皇帝に上奏した。喜んだ始皇帝は、すぐさま赴き仙人から仙薬を譲り受けるように命じ童男童女千人と三年分の食料・衣類・そのほかの支度をととのえた。しかし徐福は大魚に行く手を阻まれたなどと言い訳をし舞い戻る。あるいははなから出立せずにいた。苛立った始皇帝はさらなる船と装備を与えて急き立てた。いかにしても不老不死の薬がほしかった。

かくして童男童女千人、技術者百人、金、鉄、五穀の種、蚕、農具、工具を満載した大船八十五隻を連ねて朝鮮半島を経由し、徐福は我が国にやってきた。


 徐福来日


日本各地に残る徐福伝説は枚挙に厭わず、徐福その名が神として祀られている。その背景には徐福一行の我が国にもたらしたただならぬ恩恵があるのだろう。その恩恵とは、いかに。


その頃の日本ではすでにはじまっていた稲作により各地に定住型の共同体が築かれつつあった。徐福一行はまだ黎明期の稲作に灌漑や農具の製造に関わる技術と暦法を与え、茶の栽培、養蚕そして絹織物を伝えた。なにより得意とする薬学を生かし生薬や鉱物薬を人々に知らしめた。錬丹術に欠かせないのは鉱物であるが、それを探し当てる技術といおうか、嗅覚のようなものが斉人たちには備わっていたのかもしれない。おそらくは水の味や土の色から解るのであろう。鉱脈を見つけるかたわら井戸や温泉をも掘り当てた。


その頃の秦は逆に乱れていた。始皇帝は自らの執政を最高のものと信じるあまり過去の政治の否定を徹底した。古書は焼き払われ、特に先帝たちの先例を重んじる儒家の思想は「焚書坑儒」を以って弾圧された。土木工事に明け暮れそれに使役されただでさえ疲弊した民衆は謀反の疑いをかけられただけで生き埋めにされた。始皇帝自身は不老不死にこだわり方士たちに作らせた水銀入りの薬をあおっていた。その身体は徐々に蝕まれていったのか、四十九歳という若さでこの世を去った。


徐福に従い来日した多くの斉人たちはその後日本で秦(はた)の姓を名乗りそのまま定住したとの説がある。朝廷は彼らにそのころに来日したであろう彼ら以外の大陸人たちとともに「伴造(とものみやつこ)」としての役職を与え職人集団として保護した。
徐福の名は日本の教科書には出ておらず「渡来人」たちが大陸文化を伝えた、とだけある。その但し書きの中で「記紀には西文氏(かわちのふみうじ)、東漢氏(やまとのあやうじ)、秦氏(はたうじ)らの祖先とされる渡来人について伝えられている」とある。
ご存知のように記紀は奈良時代初期の朝廷とその実験を握っていた藤原氏の都合で書かれたものであり日本の正史とは言いがたく、そこに記載されていることはそのまま理解するのではなく「なぜそう書かれたか」という目で読まなければならない。日本書紀によれば秦氏の祖は弓月君であり、百済からの亡命者とある。


史実と伝説と想像をかいくぐり、ちと問答をしてみよう。

徐福はなぜ帰国しなかったのか?

始皇帝の残虐政治を知る徐福はもとより秦を見限り来日したのかもしれない。そのまま秦に残っていたのでは先祖から伝わる術も一族もろとも焚かれ坑められることを見抜いており、始皇帝をあざむいて秦を逐電し、一族を率いて新天地であらたな共同体を築いて先祖の精神をそこに残そうとしたのではないか。


徐福一行と倭人との間に摩擦はおこらなかったのか?

仮に徐福に王国を築く野望があれば起きていたと思われる。が、斉人は戦闘とは縁の遠い人々であったらしく異国で覇王になるという気質があったかは疑わしい。それよりも神仙術を役立て実らせることこそが彼らの理想郷の実現であったというほうが彼らに似つかわしい。実際のところはわからないが、この頃日本にに興った数ある王朝のうちのいくつかは徐福一行かその子孫を王に戴いていたかもしれない。(福岡や福島の地名がその名残とする説あり)しかし大和朝廷がそれであったかという考えには反対である。なぜなら、朝廷の行動形式と神仙思想はどうも似ていないからである。


辰砂(硫化水銀)はからだによいのか?

悪い。ただし毒と薬が紙一重であることは今の新薬も昔の生薬も変わらないのである。何であろうと使い方を誤れば人の命を奪う。水銀には鎮静効果が認められており現代の医薬品にも何らかの形で混入されている。水銀は「赤チン」に使用されていたし乳幼児に摂取するワクチンにすら今も混入されている。
鮮やかな赤色を呈するこの鉱物が主に防腐・防虫効果のある顔料として使われていたのはその毒性の効果を以ってのことである。このようなものを食前食後就寝前に服用していたのでは命取りになることぐらいは方士たちも知っていたに違いない。しかし、敢えて皇帝に献上していたのである。やんごとなき大君におわしますればその御命永々しくあらせられんことを…とかなんとか申し上げつつ内心では「はよう死ね」と思っていたのかもしれない。


徐福は日本を知っていたのだろうか?

最後の氷河期が終わるまでは大陸と列島は陸続き同然であった。当然のごとく、倭と大陸に住む者たちは気候の変動や資源の枯渇などが原因でその両方を移動していたことだろう。どこからが倭人でどこからが大陸人かという線引きは実は難しく、ひとつの共栄圏がある時代までに少しずつ海に阻まれ分断されたと考えるほうが説明がつきやすい。海の向こうに行った、あるいは残してきた同胞たちの記憶が子孫に伝わり、それが仙人の住む蓬莱山伝説に昇華したのではないか。海の東には木々と水に恵まれた、悪王のいないよい国があると語り継がれていたのではないか。


徐福は不老不死の薬を探したのだろうか?

そもそも不老不死をどうとらえていたのだろうか。肉体の存続のみに重きを置く現代医学と徐福のめざした神仙術は「命」への思いも違うはずである。もし仙薬を使って自らを永らえることに執心するならば病気快癒や五穀豊穣、そして子を産み育てるための国をつくることになど価値を置かないだろう。ならば呪術や薬学、農学のどれもが意味をもたなくなる。
その肉体という入れ物が滅びようと、共同体という入れ物を築きその中で、先祖から受け継いだ魂を朽ちることなく永らえることを「不老不死」と解いたのかもしれない。そうとらえたならば徐福たちはまさしくこの日本に不老不死を求めやってきたことになる。始皇帝はやはり欺かれたのであろう。

                  辰砂
                                  辰砂


「日本書紀」や「古事記」はある意味疑わしいかわりに読みようによっていろいろ解釈ができる。
スサノオの子孫は数代にわたり開墾をつづけ国を広げ豊かにしていったが、オオクニヌシの代になると不思議なことが起こったという。

故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內剥鵝皮剥、爲衣服、有歸來神。爾雖問其名不答。且雖問所從之諸神、皆白不知。

オオクニヌシが出雲の海辺に佇んでいると、波の間から天之羅摩船に乗り蛾の皮をすっかり剥いで作った着物を着た神様が現れた。名前を聞いても答えてくれず、そばにいた神々に聞いてもみな知らないといった。天之羅摩船というのはガガイモという強壮成分のあるつる草の実を割って一寸ほどの船にしたものをさしている。小さい神様のようだ。蛾の皮とは繭のこと、それをすっかり剥いで着物を作ることは絹糸と絹布を作ることを暗喩している。また名前を聞いても答えず、ほかの皆も知らないという。どうやら異郷から来たらしい

爾多邇具久白言、此者久延毘古必知之、卽召久延毘古問時、答白此者神產巢日神之御子、少名毘古那神。
多邇具久(ヒキガエル)が言うには久延毘古(かかし)が知っているとのこと、早速かかしを呼び問うた。「こちらにおわすはカミムスビ神の御子のスクナヒコナ神にございます」とこたえた。ヒキガエルは田畑に雨を呼ぶ神の化身であり、かかしは田畑から鳥を追う神の化身である。この二神は土着の神(国津神)を思わせるが、カミムスビは世界の最初に現れた三神のうちの一柱(天津神)である。
スクナヒコナ(少名毘古那)の名にはオオクニヌシの名が「おおじぬし」の意であることへの対比、すなわち日本にまだ土地を持たない外来の神だということをほのめかしている。

故爾白上於神產巢日御祖命者、答告、此者實我子也。於子之中、自我手俣久岐斯子也。故、與汝葦原色許男命、爲兄弟而、作堅其國。故、自爾大穴牟遲與少名毘古那、二柱神相並、作堅此國。然後者、其少名毘古那神者、度于常世國也。

さてそうしてタカムスビノカミに申したところ、「まさに我が子、我が手指の間から滴り落ちた子である。ゆえに汝オオクニヌシと兄弟となり国造りを進めよ」とのたまわれ、このさきオオクニヌシとスクナヒコナの二柱の神は力を合わせてこの国を作り固めた。その後はスクナヒコナは常世の国へと旅立った。

オオクニヌシとスクナヒコナは共に日本各地を旅したらしく諸国風土記にもその名を残している。片方が土を担ぎ、もう片方は糞を我慢してどちらが先に音を上げるかを比べたなどの支離滅裂な説話もあるが、それは灌漑法と施肥術を広めたことと理解できる。素直にそう書けばよかったではないかとも思えるがそうは書残せない事情があったのかもしれない。記紀に徐福の名が出てこないのもそうかもしれない。ちなみに出雲周辺はオオクニヌシの国造り神話の舞台であり徐福伝説の空白地帯である。

いや、スクナヒコナを徐福と見なすのはちと乱暴なので控えておくが、少なくともこの説話は稲作が広まりつつある時代に大陸からの渡来人が多くの技をもたらした事実を示したものに違いなかろう。事実スクナヒコナは医術、呪術、農耕、酒造り、温泉、石、機織りの神に祀られており、どれも大陸の影響なしには語れないことばかりである。
そして、身の丈の大きい神であったなら威圧する力を感じるところを敢えて小さいと記されているのを見れば、それは此の国に圧力をかけた存在ではなかったと伝えたかったのだろう。
日本の神様たちはまともな場所から産まれることがあまりないので指の股から滴り落ちたというのも侮蔑には当たらない。しかしカミムスビが後であわてて認知したという印象はとうにもぬぐえない。のちに朝廷が渡来人たちに「「伴造(とものみやつこ)」という地位を与えたことに由来するのだろうか、「伴」の字にこめられたのは、オオクニヌシのときから伴に国を作り固めてきたことへの恩義かもしれない。

そしてスクナヒコナは忽然と姿を消し、「常世の国」へと渡りけむ。

                        徐福
                               徐福

日本の先祖たちは「不老不死」を願ったのだろうか?

「不死」は漢語、つまり大陸からきた外来語である。日本語の「死ぬ・死す」も漢語の「死―シ」から作られたものでさはど古くない。では昔は何と言っていたかといえば、じつは漢字とともに漢語が流入するまでに我が国で使われていたやまとことばには「死」に相当する語彙はなかった。
「ゐぬ―去ぬ」「うす―失・亡す」「かくる―隠る」「ゆく―逝・行・往く」「たぶ―渡・度ぶ」などが「死」に近い言葉であった。
先祖たちにとって「からだ」とは「たましい」をいれる袋のようなものであったという。その袋は脆いもので永らえることはできない、そしてあるとき「たましい」がそこから去り、どこかに往き、目に見えぬ処に隠れてしまう。すると袋は朽ちて土になる。これを死とは呼ばず、ただ体を離れた魂がどこかにわたりゆくと考えられていた。そのゆきつく処を「とこよ―常世」と呼んでいた。

常世、それはあの世をさす。四季の花々が枯れることなく咲き乱れ、それは時がながれぬ故であり、時の流れぬ国ゆえに常世という。故に老いることも、死ぬこともない。ここに至ることが我々の先祖にとっての「不老不死」であった。
倭人に出会い、そのたましいに触れた徐福は何を思っただろうか。「嗚呼 是也不老不死、此在蓬莱之国!」と喜んだか、あるいは逆に落胆したか、それはもう想像から出ることはない。どのみち始皇帝が暴政をふるう秦への帰国はありえなかった。日本の土になることを選んだ徐福であった。

やがて漢字と漢語が伝来し、そのなかの「死」の文字と概念が倭人のなかに染みわたり、また仏の教えは「彼岸」を説いた。そしてそれを「常世」と同じことと捉えた先祖たちはそのあとも、不老長寿を求めこそすれ不老不死は請わなかった。


「長生きしたらあかん」と言った祖父はスクナヒコナがやってきたという出雲の生まれであった。里子にだされ幼い頃に里親とともに台湾に渡り、そこで終戦をむかえて京都に引き上げた。京都で生き、そして十年前に常世の人となった。筆者の頑固でへそ曲がりなところは祖父譲りである。不思議な縁である。


ひ、ふ、み


外国の方々が日本語を学ぼうとするとき、数の数え方で泣きたくなるらしい。
一本、一杯、一脚、一丁、一匹、一人、一日、一月、一枚…
なんでこんなに何種類もあるのか理解できないという。

じつは大きく分けて二種類しかない。数詞の「一」を「イチ」と読むか、「ひ」と読むかの違いである。

「イチ、ニ、サン…」は漢語から、つまり中国語の「イー、アー、サン…」から来ている。中国語のなかの客家(ハッカ)語では「イトゥ ニ、サム、スィ」とさらに現代日本語に近くなる。遠い昔に大陸から日本に渡ってきた人々が漢字による言語をもたらし、名詞とその数え方ももちろん中に含まれていた。
一本、一匹、一枚のように「イチ」の音に続く名詞は通常、音読みされる。

「ひ、ふ、み」は漢語がやってくるより昔に日本の地で育まれた「やまとことば」の数詞である。ひとつき、ふたご、みつあみ、よつば…漢語数詞のあとに音読みの名詞が来るのとは逆に、やまと数詞の後に続くのは訓読みの名詞である。


やまと数詞の基本を書き出すとこうなる。

ひ   一
ふ   二
み   三
よ   四
ゐ   五
む   六
な   七
や   八
こ   九
と、そ 十
も、ほ 百
ち   千
よろ  万


「ひとつ」をさらに分解すると。
まず「ひと」と「つ」にわけられる。「個」または「歳」にあたる「つ」を取り去ると「ひと」が残るがこれは数詞語幹の「ひ=1」に格助詞の「と」がついたものである。所属の意を表す上代の格助詞「つ」(例:沖つ白波=沖の白波)がタ行のなかで変化し「ひつ」「ふつ」「いつ」という数え方がうまれた。

「みつ」は「みつ」とツ音が二つ重なったために促音に変化した。「よつ」「むつ」「やつ」も同様。
「ななつ」と「ここのつ」はさらに紆余曲折がある。「ここつ」の「」も同じく所属を意味する格助詞であるため「ひとつ、ふたつ」と造りは同じであり、さらに「なつ」は「なつ」の変形であるためこれも同じである。つまり「ひとつ」から「ここのつ」までを同じ法則で貫いている。
「とお」はちと別格のようである。

現代語でも「二十歳‐はたち」や「二十日‐はつか」というのは、「二十」に「はた」という音を宛てていたからであるが、これは「二(ふ)十(と)」が変化したものである。
                                                  「はたち」の「ち」は何を意味するのだろうか、これは「ひとつ」「ふたつ」の「つ」と同じく、もの、としを数えるときの「個」と「歳」である。つまり古代語において「はたち」は「二十歳」であると同時に「二十個」でもあった。「みそぢ」「よそぢ」の「ぢ」、「よろづ」の「づ」も同じく「個・歳」である。歳が三十代であることを「三十路」と書いて表すようになるのは後代のことだ。

音便変化や音の脱落が多いことが日本語を豊かで柔らかいものにしていることは疑いない。しかし同時に日本語を複雑にしているといえる。

こんなことを知っていても酒の肴にもならないなどとおっしゃらないでいただきたい。確かに酒の席で三十路がどうのと話したところで煙たがられるのが関の山であるが、どうかもうすこしお付き合い願いたい。

縄文の頃、たとえば「三十八個(歳)」を何といったか。
「みそじ あまり やっつ」といったらしい(数値のみならば「みそや」)。当時はおそらく数量を明確にする場面は少なかったはず、だいじなのは集落の住民の数や人の年齢などでその他はおおらかであったと考えられる。そうでなければこのような厄介な表現では間に合わない。しかしその後稲作が広まり世の中が複雑になってくると物事を数で管理しなければならない機会が増えていった。そしてその数の桁もどんどん大きくなっていったことだろう。そうなると、合理的な漢語数詞が重宝されるようになったと想像できる。

九十九と書いて「つくも」とよむのは「百‐も」に「付く‐つく」ことを表している。

「八百屋」はご存知のとおり沢山の野菜を商うために八百(=たくさん)の名がついている。これもやまと数詞の「八百」つまり「八‐や」+「百‐ほ」から来ている。

さらに大きな数は「万‐よろ」と表現された。戦前までは食品や生活雑貨をごちゃまぜに商う「よろづ屋」という、今で言うスーパーマーケットのような商売があった。

日本人はやほよろずの神々を畏れ、祝い、その怒りに触れぬよう行いを正して生きたが、「八百万‐やほよろづ」とは桁外れに大きな数を表現する数詞であった。これから導かれるように「10000‐よろ」が桁の大台だった。そしてそれは現代にも引き継がれている。
万.億、兆…と四桁ごとに名前が変わるのは漢語数詞の特徴でもある。(100000を十万とは数えず百千と数えるように西欧の言語では三桁ごとに変わるのに対し漢語数詞がそれに連動しないことは日本人観光客が西洋で外貨を計算するときに混乱を招いている。)これは偶然なのか、どちらか一方が他方に影響を与えたのかはもうわからない。今までにもたびたび書いていることだが、やまとことばの草創期は列島と大陸は陸続きも同然であり人の流れがあった。やまとことばと大陸諸語は互いに影響を与えあっていたと考えたほうが自然であり、大陸文化ありきで日本が常に一方的な影響を受けていたとする日本史観には疑問を持たざるを得ない。

しかし「10000‐よろ」が純然たるやまとことばであることは確かである。10000は10の4乗であり「よろ」の「よ」の音が4の意を含んでいたかもしれないなどと考えると気になって仕方がない。


「数‐かず」の語源は動詞「数ふ‐かぞふ」である。それとおそらく源を同じくする言葉は「重ぬ‐かさぬ」である。ものを重ねてゆくと高さが増してゆく。その高さや大きさ、またその量を「嵩‐かさ」という。現代では体積や容積の意で使う言葉である。話は逸れるがトルコ語の「kasa‐カサ」は箱状の入れ物で「1 kasa、2 kasa」と、ものの(特に農産物の)計量につかうということも見逃せない。
「かず」、「かさ」ともに数量を伝えるための概念、そしてことばである。
そして「かず」は何かの基準を満たしているものに対してそれを認めるときにもつかう。「もののかず」にならないものは「かずのほか」といった。




「ひとり、ふたり…」のその次にくるのは何故か「さんにん」と漢語に変わってしまうのが現代の日本語である。いや、現代を待たずに平安時代中ごろからこうなってしまったようである。古代、人数は以下のように言い表した。

一人  ひとり
二人  ふたり
三人  みたり
四人  よたり
五人  ゐたり
六人  むたり
七人  ななたり
八人  やたり
九人  ここのたり
十人  とたり
八十人 やそたり
八百人 やおたり

こうして見るとあることに気づく。ひ、ふ、み…の数詞のあとに続く「たり(とり)」はどうやら「人‐ひと」を指しているらしい。いや、人そのものというよりはひとをかぞうときの「はかり」のように見える。たとえば水を「一杯」と数えるときの「杯」にあたる。「誰-たれ」が不定の人の代名詞であることからもこれが「たり」の関連語であり「たり」が「人」に関わる言葉であることを後押ししているようである。


「たり」の音をもつやまとことばを捜すとする。
思い当たるのは「足る‐たる」の連用形「足り‐たり」である。これも一筋縄ではいかないことばで、「足」と書いてなぜ「充分」の意になるのかもよく知られていない。

漢字のふるさとの大陸、ここでの「足」にはもとより「脚」と「充分」の両方の意味がある。「足」は膝の象形の「口」と「脚」を意味する「止」の会意文字である。「止」に含まれていた「停止」の意味が「足」に加味された(人は脚の上で停止することからだろうか?)。欲求が満たされることを満足というのは満たされて欲が停止した状態を言うのかもしれない。

漢字を識る以前のわが国では「脚」と「充分」はそれぞれ「あし」と「たる」という無関係のことばだった。器に水のようなものが注がれ、満たされたとき「たる」に至る。そして器から溢れてこぼれゆく水は「垂る‐たる」ことを余儀なくされる。このように、漢字からいったん離れて音を手がかりにやまとことばを追いかけると面白い。
しかし漢字と出会い表意文字である漢字の意味を汲んだために「足」を「あし」と「たる」の両方にあてがってしまう。そんなこんなで、やまとことばは姿が見えにくくなっていった。

人の子としてうまれ、そだち、思い、働き、人としての資質が認められたときはじめて人と呼ぶに「足り‐たり」るとされた。そこでやっと「一人-ひとり、ひたり」と数えられたのであろう。やはり「たり」は人としての条件をさしており、それを満たすこととは成人を意味すると考えられる。


「人‐ひと」ということばの根になるのはこの「ひとり」だったと言えまいか。ひとりの男、あるいはひとりの女として身を立てた者を「ひと」と呼ぶようになったのではないだろうか。
いまだひとの雛形でしかない子供たちを育てながら、つらつらと、思う。

「くし」の構造 ―うつくしきくに

我が国で太古から使われていた言葉、すなわち大陸から列島に漢語の波が押し寄せてくる前のことばをやまとことばという。やまとことばからは、今を生きる我々がとうに忘れてしまった本当の祖国、それを造った先祖たちの生き方を伺い知ることができる。

やまとことばにおいてクシの音をもつものはまず「髪-クシ」、これは頭髪のみを指す。「頭-クシ」は頭部と頭髪の両方を意味する。ちなみに「頭-カシラ」は「クシ」の美称である。髪と頭は「カミ」の音も共有している。「首-クシ」というものもあるが、頸部ではなくそこから上すなわち頭部のことをいい、「頭」とほぼ同意である(すでに身体をはなれてしまった頭部を指すことが多い)。

そして今では完全に忘れ去られた言葉、「奇し-クシ」は、不思議な、霊妙な力をたたえた状態を示す形容詞である。

漢語の「奇-qui」が日本語化したようにも見えるがそうではない。漢語外来語であれば「し」の音はサ変動詞「す」の連用系ということになり「くす」という動詞が存在して然るべきだが、ない。「奇し」の「し」はシク形容詞の終止形でありまぎれもなくやまとことばと言うべきである。ところが奇妙なことに「奇」の漢字源をみればやまとことば「奇し」のもつ意味とは当たらずとも遠からぬ「不安定なものが不思議な力によって支えられている様子」とある。どのような接点があったのだろうか。

大陸と列島がほぼ陸続きであった大昔、日本語の祖語がはぐくまれた頃の大陸人と和人は双方の国を行き来し、そして少なからぬ共通の語彙があったと、筆者は考える。奴国王や倭の五王、ひいては漢字伝来などの遥か昔の話である。

物を言い、音を聞き、姿や香りを捉える窓のある、憶えおもんぱかる処でもある「頭-くし」は人の霊力の源、「奇しきもの」にほかならない。

その「奇し」から派生した語が「櫛」である。
そのむかし、髪をすくことを「くしけづる」といった。切ってもまた伸びる髪は生命力の証であり、異性を虜にする力も持ち合わせている。「クシ」を「梳る-ケヅル」道具である「櫛-クシ」にも霊力を見出していた。「梳る」ことは、筋道をつけ整えて恵みを受け入れる支度といえる。田を「鋤く-スク」ことと髪を「梳く」ことが同じ音で表されるのは偶然ではない。


命を絶たれたイザナミを恋うて黄泉の国にまかったイザナギが暗がりの中で櫛の歯を折って火を灯し、そこで見たものはこの世のものではなくなった妻のあるべき姿であった。身体のいたるところに雷神が纏わりつき蛆の湧いたイザナミに怖れをなしイザナギは黄泉の国を後に逃げ出した。怒るイザナミは追っ手を遣わす。イザナギは髪に挿してあった櫛を取り、その歯を折って投げるとそこから竹の子が生え、追っ手がそれに喰らいつく隙に黄泉から逃げ切った。
イザナミとイザナギの子、スサノオは乱暴狼藉をはたらいた末に高天原を追われて出雲へと降り立つ。その地でスサノオは、ヤマタノオロチに姫たちを全て奪われ最後に残った末の姫までも生贄に差し出さねばならぬと嘆く老いた夫婦に出会う。オロチ退治を買って出たスサノオは、生贄の姫を妻に貰うことを言い交わすがその姫の名こそ「櫛名田比売-クシナダヒメ」である。古事記では「櫛名田」と記されているが「日本書紀」では「奇稲田」とある。「霊妙なる稲田」を意味するであろうクシナダヒメがスサノオと結ばれることは日本人と稲作との出会いを暗喩するとされている。スサノオはクシナダヒメを櫛に変え髪に挿してオロチを退治した。ヒメの「奇しき」力を櫛に変え、それを身に纏い戦いに臨んだのである。
スサノオの子(あるいは六世の子孫)のオオナムチ(大国主命)とスクナヒコナの二神が力を合わせて国つくりをしていたが、スクナヒコナが忽然とオオナムチの元を去る。

遂に因りて言ノタマはく、今此の国を理ヲサむるは、唯吾一身ヒトリのみなり。

オオナムチが途方にくれていると海原を照らしながら誰かがやってきた。

時に神光アヤシキヒカリ海ウナバラを照テラし、勿然タチマチに浮び来る者有り。曰イはく、如モし吾在アらずば、汝イマシ何イカにぞ能く此の国を平コトムけまし。

そして言うには、吾在ってこそこの国を平らげることができると。オオナムチが誰かを訊ねれば、吾は汝のさきみたま・くしみたまであると答えた。

然らば則スナハち汝は是れ誰タレぞ。対コタへて曰ノタマはく、吾は是れ汝が幸魂サキミタマ奇魂クシミタマなり。(日本書紀 一  神代 上)

神の霊魂にはそれぞれ二つの性質が在り、ひとつは天災や凶事をもって世と人心を荒らし争いへといざなう「荒魂-アラミタマ」、もうひとつは逆にあらゆる恵みをもたらす「和魂-ニギミタマ」であるとされている。そしてニギミタマをさらに二つに分けて解釈がなされている。即ち人に収穫などの幸いを与える「幸魂-サキミタマ」、神秘的な力をもって人に奇跡をもたらす「奇魂-クシミタマ」である。

オオナムチに対し自身の幸魂・奇魂であると明かし、自らを三諸山(大和・三輪山)に祀ることを求めたのはオオモノヌシ(大物主)として知られる三輪山の祭神である。オオモノヌシは蛇神、水神、雷神とさまざまな性質を持ち合わせ、稲作や酒造りの神でもある。


ここでまた、「奇し」から生まれたことばを挙げよう。
「酒-クシ」である。酒の持つ力を考えれば奇しきものにちがいなく、人を良くも悪くも変えてしまう。傷や病を癒す力もある。その効果は特に「薬-クス」と表現されるがこれも悪く使えば毒になる。つる性の植物「葛-クズ」の根から取れる澱粉は食品として、また薬として重用されていた。滋養に優れており胃の働きを整え、体を温めて発汗を促す力がある。いっぽうその激しい繁殖力は時として手に余り作物や樹木の生長を妨げ、現代では害草とも見なされている。この植物を「葛―カタ」とも呼ぶのは水に溶いて加熱すると固(カタ)まる性質をしめしている。そして「仇-カタキ」の語源にもなった。

上代、大和、そして常陸の国に土蜘蛛とよばれる集団があった。朝廷と距離をおき古来(縄文)の風習を保つ彼らは「国巣-クズ」とも呼ばれ恐れられていた。時に激しく抵抗し、時には宮中に参内し土地の産物を献上して楽を奏でることもあった。ヤソタケルと呼ばれる土蜘蛛の一族を騙し討ちにかけたイワレヒコ(後の神武天皇)に手を貸したのは同じ土蜘蛛の国巣の一族であった。さらに大和の土蜘蛛はイワレヒコが葛のツルを編んで仕掛けた網にかかり滅んだ。この故事からその地は葛城山と名づけられ、葛城山の土蜘蛛の霊は朝廷を仇と恨み平安京によみがえった。


もうお気付きの方々もおられるだろう、「うつ」というやまとことばを記事にしたことがあったが今回はそのつづきでもある。

終わりのある「現世-ウツシヨ」、つまりこの世での命をながらえるための「器-ウツワ」である人の、その「空-ウツ」なる「「内-ウチ」側が「うつ」であると書いた。そこに霊妙なる、奇しき力を宿した人はもはや「うつくし-ウツ・クシ」さを隠すことなどできまい。

ひとのうつくしさは言葉や振舞い、そして顔に現れる。その根源はその人の内側にある魂であり、そこにやさしさや強さや厳しさが具われば口をついてよい言葉となり、よい行いとなり、いずれはよい顔をつくる。見た目の整ったうわべの麗しさとはそもそも源を異にする。奇しき力とは向こうから歩いて来はしない。櫛で梳いた髪も如く、鋤で鋤いた田の如く、つとめて整えられた心の内にこそはじめて降り立つ。

人のみにあらず、それは森羅万象すべて同じく空も、海も、草木も雪も月も花も鳥もみなうつくしい。山河はもとより路傍の石とて人がこの地を踏むはるか昔に生まれ悠久の時に形づくられた姿を呈している。裸でこの世に生まれた我々の暮らしを支える道具もまたうつくしい。日々精進し技を磨いた職人の作り出す道具は用に徹し微塵の隙もなきにしてそのうつくしさは時として人の心を奪う。一枚の画は人の目を楽しませるだけの色と形の組み合わせに非ず、画工の魂から溢れるものをその腕によって紙に写したものである。見るものの心がそれに打たれ画工の心と邂逅したときにうつくしいと思うのである。しかしそれを見る側の心が鈍っていればなにも感じることはできない。

いま、大量生産された粗悪品に囲まれる日々は我々の心を鈍らせる。経済に重きを置くあまり、ありもしない需要をひねり出しありあまる供給をなし無茶な消費を迫る。無駄が無駄を呼ぶ。ありもしなかった需要に存在の価値があるはずもなくすぐさまゴミとして彷徨うことになる。うつくしき山河は土に還らぬ骸で埋められようとしている。
音楽や絵画など凡そ芸術と呼ばれるものは全て商品化されたであろう。作家の魂には値札がつけられ見るものの心はその数字にのみ打たれる。目と舌先を喜ばせるだけの華美な食卓は病巣を育てる。いかがわしい原料から作った物の悪臭を隠すために香料を添加し、あるいは見目よく着色する。おなじく見た目の麗しさを追いかけるのみの美容は異性の目を惹きつけるか同性との競いに勝つためのものでしかない。見ばえのする姿態と見ばえのする暮らしを維持したいと願うものは子を産み育てることから逃げたがる。放射能や遺伝子組み換え食品が不妊を招くといくら喚起したところで馬耳東風、このような人たちと次世代の話する術など、どこにあろう。


日本人が目先にとらわれ心の内側をこれほどまで置き去りにしてしまったのはいつからか。


原発という巨悪に対し立ち上がる動きは日に日に大きくなる。原発を擁護する世論はそれに押され弱まりつつあるかのようにも見える。

しかしここに掻き消せない一抹の不安がある。

それは危険極まりない原発も目に見える表層の現象でしかなく、その内側にははるかに大きな悪が控えていようそのことである。かりに日本から原発がなくなったとして、その後の日本をどう造るのかが如何に語られているのか。いまの生活、いや経済水準を維持するために必要な電力を何かしらの方法でひねり出すことが解決なのだろうか。原発の内側にある本当の問題に気づく者がこの先増えていくのだろうか。

現状、原発の是非の問答は経済にはじまり経済に終わる。ただでさえ不況を抱える今、原発による電気の供給がなければ経済が落ち込むという恐怖が人を捕らえて離さない。それを言い換えれば競争に負ける恐怖である。
周囲から引けをとっていないかに気を揉み、相手を出し抜く方法を教え込まれ、目の前の相手の価値を収入と肩書きで値踏みする。自らと競争相手だけで構成される集団の中で生きている。我々がこの競争に勝つことに生きる意味を求めている以上何も変わりはしないだろう。原発をなくしたところで原発よりもさらに危ういものを作り出すだろう。国とは人の集まりである。人同士の繋がりが競争でしかないのなら、それが集まった国とはいったい何なのか。国同士の繋がりが競争でしかないのなら、この世はいったい何のためにあるのか。

原発はなくすしかない。なくなるしかない。だが本当に戦う相手は原発や原子力村などではない。魔物は我々一人ひとりの内にある。それは見せ掛けの豊かさを手放せない弱さである。他人への妬みと嫉みである。飽くことのない欲である。もとより人に備わる穢れではあるが先祖たちはこれをよく戒め、手懐けて生きていた。それが近代の幕開けとともに競争原理がなだれ込み、勝ちたいがためにこの力を解き放った。鎖を解かれた獣は自由放蕩に暴れ周り我々を競い合いへと駆り立てる。

人々が常に誰かと競い、走り続けるこで経済の車輪が動く。立ち止まることは市場の持ち主たちにとって許しがたい行為である。だから脅して賺して走らせる。脱落するものは踏み潰されそして誰一人として勝者になれない。なぜなら輪を描いて走り続けるだけなのであるから。

外にとらわれ心の内側をこれほどまで置き去りにしてしまったのは、それは無理矢理に外を向かされたそのとき、近代を迎えたときからである。道を誤ったのであれば辻まで戻って行き直すしかない。

心の内側に巣食う魔物をねじ伏せることができさえすれば、原発などはその後ろ盾を失いたちまちに消えて失せる。そして心の内に奇しき力をふたたび呼び戻すことができるだろう。そしてうつくしき人に戻り、うつくしき国を立て直すことができよう。

「うつ」の構造

日本語の奥深いところに踏み込んでみたい。

我々の先祖がとおい昔に話していた言葉、「やまとことば」とは。
とても簡単に言えば大陸から漢語外来語が漢字と共に伝わる以前から我が国で使われていた言語である。
しかしこの説明では不十分、そのむかし最後の氷河期までは日本列島と大陸は陸続き同然であったために大陸の諸言語を祖語とする集団が絶えずこの地をめざしてやって来た事、あるいは南海の諸言語を祖語とする集団が船を巧みに操って日本に到達していたという事をふまえると当然やまとことば草創期は各国語の単語がひしめいていたであろう事になる。

解りやすい例が「ウマ」である。
日本列島には馬がいなかったとされている。この動物は訓読みで「ウマ」というがこれは漢語の「マー」が日本語化したものである。音読み「バ」「マ」も同様、元をたたどればマーになる。つまり大陸から離れる前の日本に大陸人が移動してきたとき傍らに馬を連れていて、それを見て驚いた倭人との間で

倭人 「こは なんぞや?」

漢人 「馬(マー)也。」

倭人 「んま?」

漢人 「是。」

などという会話を交わしたかはあくまで想像であるが、遠い処からやって来た物に和名をつけずそのまま外来語を受け入れたこともあった。
そして「馬‐ウマ」も立派にやまとことばの内にかぞえられる。

今回の話は何処から始めていいかよくわからない「輪廻型」のものなので唐突に馬の話などをしてしまったがお許し願いたい。日本人と馬の話はまた別の機会にとっておくとする。
日本人がいま日本で息苦しく暮らしているのはなぜか。それは日本の社会の現実と日本人の心の構造とがしっくりいかないからに違いない。もちろん無理を強いられているのは現実ではなく心の方だ。
ここで日本の社会についてどうこう言う前に、我々の心の構造はどういうものなのか思いを廻らせて見たい。やまとことばを道しるべに小さな旅をしよう。



「うつ」という音を持つやまとことばを追いかけてみる。

人が生れ落ち生きてゆく世を「うつしよ‐現世」といった。「うつしよ」では時が流れる。ひとは生まれてから死ぬまでという、必ず終わりの来る一定の時をここで過ごす。仏教の「此岸」のことである。その逆の「彼岸」は「とこよ‐常世」といった。「うつしよ」での人生を終えたものが行くところでここでは時が流れない。日本書紀や古事記、風土記などに書かれた「よもつくに‐黄泉の国」「根の国」はそれにあたり、浦島太郎が迷い込んだ竜宮城もこの「とこよ」であった。

「うつしよ」の「うつ」とは「うつ‐現」を意味する。目に見えるさま、いわゆる物質界を指している。

そしてそのさまは人の目に、水や鏡にうつる(映る)。人は五感を通して情景や色や香りを心にうつし(移し)、絵や文としてうつす(写す)。しかしこの目にうつる花の色はやがてあせる。なぜなら、時のうつろひ(移ろひ)がそうさせる。これが「うつしよ」の理である。

お気づきのとおり、「うつる」という何となく似た動詞が違った漢字で書き表されている。しかし我が国に漢字がやってきたのは日本語が出来上がってから後であるということを是非お心にとめていただきたい。古代の日本語は現代にくらべるととても少ない数の動詞が使われていたことになる。だがその中での微妙な違いを皆で共有し、わかりあっていた。漢字を巧みに使いこなし重厚な文章を作り上げるのとはまた違った奥深ささがあると思うのだが、いかがであろうか。


もうひとつの「うつ」、それは「うつ‐空」である。空っぽで空しいさまを指す。二つの漢字「空」と「現」、これをならべると似ても似つかない互いに無関係な言葉と捉えたくなるが、じつは不思議なほど通ずるものがある。

頭の中がうつけて(空けて、虚けて)ぼうっとした人間は「うつけもの」といわれた。人はある種の入れ物と捉えられていた。入れ物、すなわち「うつは‐器」であり、「あの人は器が大きい」などと形容する。
ではその「うつは」は何から何を隔てているのであろう。それは外から「うち‐内」を別けている。うつは(器)のうち(内)に湛えた水をうつ(棄つ)とうつろ(空)になる。太鼓や鐘をうつ(打つ)ことで音が鳴るのはうち(内)がうつろ(虚ろ)だからである。おもしろい。
建設現場でコンクリートを型枠に流し込む作業、もちろん近代以降の話だがこれも「コンクリートを打つ」という言い方をする。動詞「打つ」の同じような使い方は「布団を打つ」などに見られる。いずれも器となるものの内側に何かを充填することで物として成り立たせる働きを説く。さらに視野を広げれば「裏打ち」という今あまり聞かれなくなった言葉も見え、これには修理や補強、精進などの意味がある。物を作る、つとめを果すという目的を遂げるため計画的に行動することが「打つ」だろう。「芝居を打つ(人を騙す意ではなく芝居興行のこと)」「墨縄を打つ(大工などが木材に印をつける作業)」はまさにそれである。

人は死ぬとからだという入れ物から霊が抜け出し空っぽになると考えられていた。死ぬという事は霊が「うつしよ」を離れ、別の次元へと旅立つことである。現し世での器たる体は空ろになった。ここで「現」と「空」、ふたつの「うつ」が重なった。偶然ではない筈だ。


ひとのからだはたった数十種類の原子でできているらしい。そのような「物質」が、立って歩いて笑って涙を流す。恋をして、子を為して、裏切り奪い騙しもする。こんな不思議、いや不条理とも言えることが起こるのは人という器の内側に霊が存在するからである。

死んで霊が抜け出たからだは物言わぬ骸となり、あたかも蝉の抜け殻の如くただ塵となるのをまつのみである。うつせみ-空蝉の言葉の意味を辿れば「うつしおみ-現人」すなわち現世に生きる人に行き着く。蝉の抜け殻をそれに重ねあわせたのはいにしえの人々の聡明さであろうか、否、やまとことばと共に暮らしていた先祖たちにしてみれば「現」はもとより「空」であったことなど自然なことであったはず、 今を生きる我々からすれば驚きでしかないが。


さて、からだをはなれた霊はどこへゆくのであろうか。
信心によって言い方はちがう。あの世、彼岸、天国、時には地獄という。
遠い昔の日本では「黄泉つ国」あるいは「根の国」なる処へ行くとされていた。その国では時間の概念がない。死ぬまで、いや死んでも、いやもう死なないので時間が経つということがない。暑からず寒からず、四季の花が枯れずに常に咲き乱れているという。つまり四季もない、終わりもない、時のながれぬ「常世」である。

なぜ「根の国」といったのか、「根」の文字が地の底を思わせるために死後の世界が地下にあると解されがちだが筆者はそうは思わない。
そこに一本の木があるとする。その木には花が咲き、青葉が繁り、鳥や虫たちが棲み、秋にはたわわに実をつける。それも一度きりではなく何年も、何十年も繰り返す。実からこぼれた種からは自らの子が生まれ、うまく根付いてゆけばそこは林になる。
これはみな人の目に映る「現象」である。しかしそれを支える「根」の働きは見ることはない。目に映らない国、それが「根の国」であろう。

時がたてば花も葉も枯れて落ちる。棲み付いていた生き物たちもやがては土に還り溶けて根に迎えられる。先祖たちはそれを知っていたのか、うつしよでの時を終えたひとのからだは土になり、霊は根の国にゆくと信じられていた。

「こんなはずではなかった」
人生を悔やみながら死ぬと歪んだ霊となって根の国にゆくことになる。時代が降るにつれてそんな霊は増えていったことだろう。目に映るものに憧れ、それが手に入らないと知ると苦悩し嫉む、あるいは奪い取ろうとする。そして搾取や戦がおこり命が踏み散らされた。こんなはずではなかったと恨みつらみを抱えて根の国へと旅立った霊、それは根の国をも歪めて穢すことになる。

根が傷つき腐りだすと木には虫が湧き花も実もつけなくなる。それどころか芽を吹かぬようになり、枝を枯らし、なおも根腐れがすすめばすっかり枯れてしまう。目に映らぬところで起こっていることはこうして我々の前に姿を現す。いまの世の中は虫食まれ枯れるのを待つ木立ちによく似ている。


近代思想の「教え」では、現世という物質界こそ全てであり人は死ねば後には何も残らぬと、さらには現世での行いを裁くのは法であって神ではなく、そもそも天国も地獄も迷信であると説いている。目に映らない世界を切り捨てよ、と命じている。それに帰依してしまった人間は行いを正すことを忘れ、法にふれなければ、またその網をくぐりさえすれば何をしてもよいと解した。そして法などはいくらでも都合よく作りかえられることも承知した。弱い者たちから奪おうが、騙そうが、殺そうが裁かれない。あの世を顧みず目に映るものを追えば追うほどそれは酷くなる。しかし近代思想の屁理屈が何をほざこうと霊は間違いなく存在しからだを離れてもなお在り続けるのだ。霊は見えない世界に行って見える世界の根となる。

すべてはうつしよの絵空事、ひとにそう思い切ることができるのであれば苦労はない。容易ではないがしかし、そうと諦めねばならない。「あきらめる‐諦める」は何やら逃避を思わせる物悲しい言葉となってしまったがそうではなかった。もとは「あきらむ‐飽きらむ」、つまりこれで充分と「満足する」ことである。それによって煩いや迷いを打ち消し心の内を「明きらむ」ことができる。いとも不思議なことに「あき」の音は回りまわって「空き」にとどく。



もうひとつ不思議な「うつ」がある。
「鬱」、この漢字は「ウツ」とよむが訓読みではない。したがって普通に考えれば大陸語であってやまとことばではない。しかし「鬱病」はひとが己の「うち」側にのめりこむ病で、字源をみれば、木々の間で酒を醸すときに香草で「うつは‐器」を覆ってその香りを酒に「うつす‐移す」作業を描写したものとある。どうやらやまとことばの「うつ」と無関係ではなさそうなのである。
鬱の訓読みである「しげる」は草木が生い茂ることを意味し、その結果は「鬱蒼」とした森になる。また、日本でウコンとよばれる薬草は中国語で「ウッコン‐鬱金」、沖縄ではウッチンという。鮮やかに輝く黄色を意味するそうだ。鬱にはうちに秘められた力が外に向かってなにかを放つ、そんな語意が感じられてならない。その力がどのようなものであるかによって酒にも森にも病にもなりうるのではないであろうか。
冒頭で述べた「馬」と同様、「鬱」はやまとことばと大陸語の中間に漂うことばではないか、筆者は何となくそう思う。



かりそめの、うつしよでの時を終えた霊はいよいよ本当の世界へとうつる。その時によき霊となるか、悪しき霊となるかが今ここで生きているうちに試されていると思うことができれば、この世も少しはましになるだろう。

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Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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