キライなことば―「時間」

長きにわたり更新を休んでおりました。にもかかわらずご来訪を続けていただきましてまことにありがたく存じます。またご心配をおかけした事をお詫び申し上げます。体調を崩したりモサドに暗殺されたわけではなく日々の雑事に忙殺されてどうにも更新できずにおりました。しかしこの頃ようやく字を書くゆとりが見つかるようになりました。
そんな毎日を送るとどうしても「時間」について考えることが多くなります。そのような訳で更新再開にあたり時間についての記事をしたためました。よろしくお願いいたします。




ちくたくと均一に刻まれる「時間」に追い立てられながら生きる我々は、はたしてそれが何かを見切っているのだろうか。雁字搦めに縛られて振り回されていながら時間の正体が見えていないとすれば、これを悲喜劇と呼ばずして何とすべしか。

「時間」、これはかつてこの連作で扱った「自由」「平和」「健康」などと同じく近代以前の日本には存在しなかった語彙、すなわち明治の新語である。明治の新語とは開国と前後して西洋から我が国に流入した文物の対訳として新たに考案された語彙、或いは「詩経」などに代表される漢語文献から借用した漢語熟語に新たに意味を付け加えたものをいう。
日本には古くから「とき-時」という立派なやまとことばがあった。にもかかわらず"time"の対訳になぜ「時間」ということばが新しく必要になったのか、それを少し考えてみたい。

当ブログに初めて来訪された方のために一応申し上げれば、本連作は明治の新語とその背景にある近代主義をを否定的に扱うものである。

明治を迎えるまでの日本の「時」の流れ方は今とは違う。そのせわしなさを光陰矢の如しと喩えることもあれば一日を千秋の思いで待ちあぐねることもあった。
日の出(明六ツ-あけむつ)から日の入り(暮六ツーくれむつ)までを一日と考え、そして夜を一日のうちに数えることなく今日と明日の間の空隙と見なしていた。そのために夏と冬では一日の長さがもちろん違っていた。刻を知らせる寺の鐘も明六ツから暮六ツの間を六分割して打つゆえ鐘と鐘の間隔は季節による伸縮があった。時候の挨拶として日が長くなった、短くなったなどと使われるが、ここでの「日」とは日照時間のことではなく「一日」そのものを指していた。

つまり夏と冬では、また昼と夜では時の流れ方がそもそも違うのである。そして人の体と気も時の流れと呼び合うかの如くその働きを違え、人が果たすべき仕事の量も種類も変わる。陽の光ふりそそぎ草木生い茂る夏は人にも精気がみなぎり、疲れを知らず、迫る危難をものともせず、心の戸を外に大きく開いて長い一日を働きとおすことができる。夏は冬をやり過ごすための糧を蓄えるためにある。やがて来る冬は人に疲れを思い出させる。寒さに萎縮した体は気孔を狭めることで自らに壁を築いて寒気の流入を防ぎ保温を図る。自然と気もふさぎ内を向く。すると何かと億劫になり、重いものを持ち上げる気も起こらず、夏に手荒く扱った体を知らぬまに労わるのである。昼間は道具の手入れなどをしながら過ごし、夜は火のそばで早く床に就く。風邪などをひき熱が出れば古い細胞は壊れて生まれ変わる。冬はまた巡り来る夏にそなえ体と気を養うためにある。
そして冬に相当するのが夜である。日が沈めば家屋の戸を閉ざし、火を囲んでは夜明けとともに働きつめて疲れた体をねぎらい、明日にそなえて眠る。夜を冬、日の出を春、昼は夏、日の入りを秋になぞらえることができる。つまり一日と一年は相似の関係にある。

人の一生や国の興亡、時代、地球、宇宙、すべてはこの相似の輪のなかにあるだろう。生まれ、栄え、熟れ、そして滅ぶのである。凡そこの世に生をうけたものが滅するまでの猶予こそが各々にとっての「時」である。すなわち「時」は個々の存在にとっても流れ方が違い、そして必ずその始めと終りがある。


これに対し「時間」とはなにを指しているのだろうか。

かつて西洋において夜は悪魔の支配する暗黒世界と恐れられていた。民衆の本能的な恐怖心を逆手に取り、魔女や吸血鬼が闇夜に現れると吹聴しては魔女裁判や悪魔祓いの儀式により権威と利益を手にしていたのがカトリック教会であった。古代ギリシアの遺産でもある医術や天文学を神への冒涜と戒め、それを推奨しようものなら捉えられて刑をうけた。神の名を欲しいままに騙る教会の脅威から絶えず身を脅かされていた知識人たちは救いを教会とは別世界に在る科学に求めた。
果たして自然科学はその暗澹たる中世のとばりを破った。ランプの光に夜が隈なく照らし出されると人々は闇を克服し、日没から夜明けまでの空隙も社会生活に加えられることとなった。こうして不確かであった一日を昼夜あわせて二十四時間と定義しそれを六十分、六十秒と等分したものが「時間」である。この「時間」を座標の軸のひとつに見立て、速度・エネルギー・仕事・熱量などを算出するための次元としての役割を与えた。もとより得体の知れぬ流れであるはずの「時」を便宜上等間隔に切り揃え、均質かつあたかも実体を持つ存在のようにみせかけたもの、始点も終点ももたぬそれが「時間」である。わが国にも開国を待たず自然科学の波が押し寄せた。季節ごとに伸びては縮み人と共に歩む「時」は忘れられ、時計の刻む「時間」に管理されるようになる。

"time"はもとは詩的な意味合いが強い語彙であったが、より数学的な意味をルネサンスから産業革命期にかけて自ら獲得したといえる。しかしやまとことばの「とき」には数直線としての概念が明らかに欠けていた、いや、少なくとも開国までは必要がなかった。産業革命とその理念を我が国に輸入するにあたって初めてその必要が生まれたのである。歴史の授業では開国後の近代化・西欧化をさも美しく正しいものと教えている。しかし「近代化」の正体は日本を近代西欧の主導する産業経済の鎖に繋ぐための調教でしかなかった。そこで外来の価値基準を語る新しい語彙が多く必要になり、在来のことばはその居場所を失うこととなった。文化人と呼ばれる西洋かぶれたちがあらたな日本語を大量に製造した背景はこういったものである。「時間」も、しかり。

二十世紀以降またたくまに世界を席巻した資本主義経済は「時間」をさらに具現化することに成功した。それは生産という行動を貨幣に換算するための基準軸としてつねに「時間」を利用することによってである。生産に費やす熱量、電力量などのエネルギー(J = kg • m2/s2)は時間概念なしには算出できない。流通のための運賃も燃料のエネルギー消費量であり、また人の労動力は「労働時間」により人件費に換算される。在庫にかかる費用は倉庫の経費でありこれも時間がものを言う。生産品の開発から販売を管理する企業も同様、その人件費も維持費も時間によりはじき出される。市場にとって「時間」が季節や感情により伸び縮みするものであっては非常に都合が悪いのである。
自動車、飛行機、家電その他近代以降に開発された機器はすなわち利便性を追求するものである。利便性とは時間短縮と労働削減に他ならない。我々は生活する上であらゆる利便を獲得したわけだが、結局のところその対価を支払うために人生の時間のほとんどを労働従事に費やすことになる。
一方で生産者は生産効率を上げるため大量生産を図り、これを大量消費につなげるために「流行」なるものを自ら仕組んで消費者の趣向を一律に撫で付ける。流行は消費を煽り、より短時間でより多くの経済効果を生む。そして市場が十分に利益を回収すれば新たな流行に手綱を渡して自らを掻き消す。消費者は目まぐるしく立ち代わる流行に常に奔走させられる。こうなれば夏も冬もあったものではない。人は日も夜も問わずに馬車馬のごとく働くことで「時間」を貢ぎ続けねばならなくなった。



いにしへの、やまとことばの「とき」はいかなるものか。

過去から未来にかけて移りゆく、この不確かな、しかし決して逆に流れることのないものをわが先祖たちは「とき-時」とよんだ。
いや、こうして流れるもののひとつぶ、今の言葉で言う「一瞬」こそが「とき-時」であった。過去から未来にかけて移ろうそれを「とき-解き、溶き」、取り出したものは不変・不朽の「とき-常」である。それは決して変えることのできぬ過去であり、それは色あせぬ記憶でもあり、それは再び訪れることのない今でもある。ある「とき」からしばらく後の「とき」までを「ま―間」と言った。「つかのま」「ひるま」のように、領域を限定した時の流れをさす。「時間」という新語は「とき」と「ま」をあわせて創られた。
花が散らぬよう、緑が枯れぬよう、若きが老いぬよう願えどそれは決して叶わず、必ずや終りが訪れるという掟に従うしかないこの世をば、そのむかしは「うつしよ-現世、顕世」と、時が終りに向かって「うつろい-移ろい、映ろい、顕ろい」ゆくことに諦めをこめてそう呼んだ。そしてこの世での「時」が尽きた魂が逝く「とこよ-常世」は時の移ろわぬ、つまりは終りなき不変不朽の世界である。いま我々が「あの世」と呼ぶ世界のことである。
「とき-時、常」はこのように一瞬を示すことばでありながら実は永劫をも意味する。


「時」のはじまりについて考えてみたい。

ひとり一人の「時」は誕生することにはじまる。魂が「この世」に存在するための媒体つまり「体」に宿り、そこで人としての「時」が発生する。ではその舞台となる「この世」はいつ始まったのであろう。「この世」とは我々が生きるこの領域、またそれを含む宇宙全体、つまり「物質界」である。その始まりとはおそらくビッグバンと呼ばれる瞬間である。
ビッグバン以前は全くの、「時-とき」の流れも「空-うつほ」の広がりも持たぬ途方もない「無」であった。その状態から突如として陰と陽が発生し、「時」と「空」が拡張を始めこの宇宙=「時空」となった。我々は広がり続ける時空の中のつかのまの存在である。


「この世は神による創造物である」という一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム)に共通する考えに基うならば、時は神なるものが「無」からこの世を創造したその瞬間からはじまったとすることができる。宇宙の始まりを説いたビッグバン説は「きわめて神学的」として発表されるなり学会から非難をうけた。神を毛嫌いし現実世界からぜひ切り離したいと願う科学者たちが宇宙に始まりがあることを拒絶したためである。なぜなら仮に宇宙に始まりがあったとした場合その誕生の原因と理由が科学的に実証できねばならず、それができない以上は「神のみわざ」と認めるほかなくなるからである。近代科学の出発点が「神との別居」であった以上それだけは断固拒否せねばならなかった。だからこそ宇宙は始点を持たぬ超然とした存在(絶対空間)でなければならず、同様に「時間」にも始まりがあってはならない(絶対時間)。だからこそ「時間」をあくまで過去から未来へと均一に経過する始点も終点も持たぬものであることを主張した。  




草木、山海、雪月花、そして人、森羅万象がこの世に姿を留めていられるのは時が流れてこそである。生きとしけるものに血が流れるのも、日の光りをうけて緑が育つのも月の満ち欠けも時のうつろいに拠る。またそれを眼に映し、耳に鼻に聞くことができるのも光と音と香りが時に運ばれてこそである。思い悩んではまた悦ぶことができるのも意識が過去を記憶し未来を想定するからに他ならぬ。人体しかり路傍の石しかり万物を構成する最小単位は原子の粒、その粒こそは原子核の周りをさらに小さい電子が運動(古典力学では回転運動、量子力学では波動)することで成り立つ。運動とは物事が時にともないその位置位相を変えることである。ならば時が運動を、そして運動が物の存在を担保していることになる。

「時がとまる」と聞いて静止画像のような情景を思い描いてはいけない。それは単に流れる時空の瞬間値を記録したにすぎず、それを観測できるのは他でもなく我々が流れる時空に存在するからである。もし時がとまれば電子運動はとまり、原子の結合がほどけ、音も光も届くことなく、惑星の自転も公転も止み、惑星間にはたらく力は消えてこの世のすべてが一瞬を待たずに崩壊する。苦痛と恐怖を伴う壮絶な最後とはまた違う虚しくも悲しい終末である。これは「時」が物質界を成立させていることをうまく説明しているがおそらく原因と結果が逆である。時がとまってこの世が終わるのではなく、物質界が消滅するにあたって「時」が流れなくなるのであろう。ただしこの世の終りがいつ訪れるかは神のみぞ知る。


延々と続く縦糸に横糸をくりかえし渡して織られた一重の衣、この物質界をそのような織物にたとえるならば、その縦糸こそが「時」であり横糸を「空」になぞらえることができる。ここで言う「空」とは何らかの力によって秩序付けられる場である。磁場であったり重力場であったりするが、どのような場であれそれを秩序だてる力が作用するためには時の流れが必要である。「時」と「空」は両者ともに絡み合ってこそ存在することができ、どちらも単独ではただの概念でしかない。「時」とは何かを論ずるためにはば先ず「時空」ありき、「時」はその構成要素として捉えるべきである。


ビッグバン説が通説としての地位をほぼ築いた今日でも一般には時間と空間が別々に語られている。計算上はそれも必要だが、それは計算という架空の世界においてのみ成立するのであり実際はそうはいかない。我々が振りまわされ続ける「時間」の正体は、いわば計算上の必要によって敢えて独立させられた概念、ただの架空の目盛りである。そんなものに何故ふりまわされるかは時間が貨幣の影法師であるからに違いない。だが貨幣もまた実体のない数字の羅列でしかない。同じことである。

誰が言ったか「Time is Money」、この低俗な言葉を日本語に翻すのであれは「時間は金なり」とするべきである。時は金に非ず。


ちと寄り道をば。
やまとことばにおいて「織る(をる)」と同じ音をもち、かつ繋がりのあることばに「折る-おる」と「居る-おる」がある。
横糸を右に左に「折」っては返し衣を「織る」、もとより「折る」とは波が繰り返し寄せては返すさまから生まれた反復・継続を意味することばであり、月日や季節、人の生死が巡るさまをも含む。そして「折る」を「折り」と名詞に直せばまた「時」を意味することばとなるのが興味深い。
「居る-おる」の意は存在する、ある、いる、である。先に述べたようにこの物質界において或いは物質界そのものが存在するためには「時」の裏付けが不可欠である。この世に存在するということは時と空の双方から認知されることである。

「記紀」によれば、高天原の「忌服屋-いみはたや」では「天の服織女-あまのはたおりめ」たちが神に捧げる「神衣-かむみそ」を織るという。また高天原の統治者たるアマテラスは自ら神衣を織る服織女でもあったという。この「神衣―かむみそ」こそが時空つまり人の領域たるこの世を暗示しているのはなかろうか、じつはそんな予感を糸口に本稿をしたためた次第である。







家を越しましたため更新が遅れております。

常々のご来訪まことにありがとうございます。ちかごろ転居いたしましたため更新が遅れに遅れており、読者の皆様にはたいへん申し訳なく思いつつも如何ともしがたい有様です。雑用に追われて記事を書く時間がないのはもとより、まだ新居の電話工事が完了していないため電網に乗ることができない、そんなこんなであります。

私の住むトルコは人件費も材料費も日本に比べれば格段に安く家を建てるのも夢ではない国でした。しかし昨今の経済成長によりそうとも言い切れなくなってまいりました。そこで今が最後の好機と三年ほど前から少しずつ進めていた工事がようやく完了し、今月ようやく転居がかないました。
しかし完了といっても「住める」状態になったというだけで、まだ役所の検査(日本で言う完了検査)を受けられるに至っておりません。こいつを受けないと住所がもらえないため、現在は工事現場に不法滞在している状況です(最近町を歩いているとシリア難民に間違えられるのでシャレになりません)。電気と水道は工事用の設備をそのまま使用しておりガスはプロパンがあるので問題はないのですが、固定電話だけはどうにもなりません。ちなみに私の携帯は象が踏んでも壊れない(かもしれない)硬派(旧型)の電話であるためインターネットが怖がって近寄らないのです。

テレビのアンテナも面倒くさいのでまだ立てておりません。こうしたテレビもネットもない暮らしというのも悪くはないもので、木々のざわめきのほかは何も聞こえぬ日々を送っております。
ただ更新は近々しようと努力しております。どうかよろしくお願いいたします。

すべての道は日本に続く クルアーンと浦島伝説 後編

「アスハーベル・カーフ(أصحاب الكهف)―洞窟の衆」を再掲し前編から続けたい。

偶像を崇拝する多神教の帝国にありながら唯一神を敬う六人の若者たちは皇帝に囚われて投獄され、唯一神を忘れて多神教の神々の偶像に跪くか死罪かを選べと迫られた。牢獄を破り逃げた若者たちはにべもなく現世を打ち捨て、神の教えを貫くために山へ踏み入るとそこに犬を連れて現れた一人の羊飼いが彼らを洞窟に導いた。その夜、羊飼いを合わせた七人は神の教えを今日まで守り得たことを感謝してさらなる大慈大悲を請い、犬に守られながらそのまま眠りにつく。やがて目を覚ますと彼らの中の一人が銀貨を手に糧を求めて町へと下った。目に映る町の様子も人々の装いも大きく変わっているのを怪訝に思いながらもひとつの店に入り銀貨を渡してパンを求めた。店主にしてみればその若者のほうがよほど怪訝であった。なぜなら古めかしい衣服を纏い、手渡された銀貨には数百年前の皇帝の名と肖像が刻まれていたからである。領主に知らせが走り盗掘の疑いで若者は捕らえられた。よくよく話をしてみれば、若者は洞窟での僅かな眠りから目覚めるまでの間に偶像崇拝の時代が過ぎ去り一神教が栄えたことを知り、そして町の人々は三百年前の偶像崇拝時代に追っ手を振り切り姿を消した一神教徒の若者たちが再来したと知る。町は奇跡に沸き返り、その騒ぎは皇帝の耳に届く。皇帝は奇跡の若者たちを尋ねて洞窟へと向かう。そしてそこに至ればまさしく残る者たちと犬が佇み、皆と言葉をかわし、やがて若者たちは再び、しかし今度は深い眠りについたとも伝わり、忽然とその姿を掻き消したとも伝わる。


伝承「アスハーベル・カーフ」の全体を眺めると、「海幸山幸」と「浦島伝説」に何らかの関連があるとしか思えない。糧を求めて町に下った若者が当惑する様は故郷に戻った浦島太郎に、道案内として描かれた羊飼いは水先案内をした鹽椎神(シホツチノカミ、潮流の神)、連れていた犬は鮫または亀に、七人(犬をあわせれば八)という数は昴星か畢星の童子たち…もちろん物語の起承転結のとおりには符合しない。結婚譚が存在しないのはそれが大和朝廷の征服譚に付随するものであるという見方をすれば当然といえる(前編参照)。


昴星と畢星(プレアデス星団とヒアデス星団)は牡牛座のなかにある。インドから地中海にかけての地域では太古から、牡牛を神々に捧げる犠牲、ときに神の化身たる聖獣、ときに神体そのものと、多神教偶像崇拝の象徴として特別視しており特に地中海世界では牛の頭を持つ神像(偶像)に男児を犠牲として捧げるという忌むべき悪習が存在したことはよく知られている。ここで牡牛座の中に繋がれた星たちは多神教という牢獄に囚われた若者たちと符合する。「アスハーベル・カーフ」の中では若者たちと犬の名前がアラビア語で伝わるがその一人はデベルヌシュ(Debernuş)といい、プレデアス星団に属する二等星のアルデバラン(Al-debaran、Alはアラビア語の定冠詞)を指していると言って間違いない。洞窟の七人が神に祈り助けを求めたように豊玉姫が海神たる父の大綿津見に助けを求めている。海幸と山幸の兄弟の確執は分裂する東西ローマ、そこから発展するオーソドクスとカトリックの陰鬱な反目、ひいては元来おなじ教えであったユダヤ教、キリスト教、そしてイスラームの三つ巴の争いを暗喩しているかのようである(海幸と山幸はホスセリを含めて三兄弟)。

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 アラビア語の文字で表現された舟の舵は七人の若者と犬の名前。山の洞窟に舟というのも興味深い。

この古代伝承を現代にまで知らしめたものの一つはキリスト教の聖人列伝「黄金伝説(Legenda aurea-1267)」第96章に記されている「眠れる七聖人(教会ラテン語)」である。より古いキリスト教系文献(最古のものは古シリア語)も幾つか存在し、細部はそれぞれ異なりつつも凡そ多神教のローマ帝国支配の下にてキリスト教が激しく迫害された時代を背景に描かれている。

キリスト教の見地から言えばこれは厳粛なる実話であり物語ではない。若者たちが隠れた洞窟の候補地は地中海からウイグル新彊にかけて30箇所以上ある。また迫害者は三世紀終盤にローマ東西分割支配をはじめた皇帝ディオクレティアヌスと副帝マクシミアヌスに比定され、マクシミアヌスが自らの重臣であった六人の若者に偶像崇拝への帰還を強要したとされている。そして五世紀初頭テオドシウス二世の治世に若者たちが目覚めたと一般に考えられているが、しかしこの説だと時の経過が200年に満たず浦島伝説のそれとは合致しない。あろうことか、300年という数字がはっきりと書かれているのはイスラームの聖典クルアーンである。

クルアーン第18章「洞窟の章」での描写はキリスト教由来の伝承に比べればより抽象的になされている。地域も時代も皇帝も、若者たちの名も人数も書かれてはおらず、若者たちがキリスト教徒であったかどうかにも触れられていない。明確なのは一神教に帰依した数人の若者たちが偶像崇拝者たる支配者から逃れて洞窟に隠れ、助けを求める祈りに報いた神が彼らの耳を閉じ(眠りを与え)たこと、そして皆が目覚めひとりが銀貨を手に町へと下ったこと、そして若者が眠る間に現世で流れた時間である。

彼らは洞窟の中に三百年、さらに加えて九年過ごせり。(クルアーン 洞窟の章25節)

イスラム神学においてこの数字は太陽暦で300年、太陰暦で309年と解すべきとされている。他の細部がすべて抽象表現される中でこれだけがはっきりと書かれているのは実に不思議である。

若者たちが眠りについていた洞窟は異界と現世の交錯点である。いや、神に眠りを与えられたことでそこが異界と繋がった。彼らがそこで幾許かの眠りから覚めると現世では三百年が過ぎ、目覚めた後も異界との繋がりは保たれていた。しかし一神教を受け入れた後代の人々が洞窟に足を踏み入れ若者と邂逅したことで僅かに開いた異界への扉は永遠に閉じられた。まさに現世に還った浦島太郎が玉くしげを開けたそのときに異界と現世が遠ざかったのを思わせる。

「玉くしげ-玉匣」をどう理解するべか、くしげとは櫛や鋏(はさみ)をしまう箱をいい、玉は美辞をつくる接頭語であり、魂、霊にも通じる。「くし」の音をもつやまとことばは「櫛、髪、頸、頭、串、酒、奇し…」とあり、こうしてならべるだけでもこの音の持つ「かしこさ-畏さ」が伝わる。霊の降り立つところ、霊力をもつもの、という意味がある。ならば玉くしげとは異界への扉、その中は現世を包む無限の異界、そう考えればよい。明治政府がそれを玉手箱と書き換えたのは、玉くしげの言葉の意味を知るからこそ秘かに恐れおののいたからに違いない。玉くしげを開けた浦島太郎が老人になり悲嘆に暮れたという解釈こそ近世以降のものである。白髯白眉の姿にかわることは神仙界に迎えられるという意味に近く、古くはむしろ寿ぐべきことであった。「不幸な結末」との見方は乙姫との日々を諦める太郎の心情を汲むいささか俗な解釈であるといえる。

そもそも山幸が海幸にお互いの「さち」を取り換えたいと求めたのは何を意味しているのだろう、もし「アスハーベル・カーフ」が中東から日本に伝わり「海幸―」の原型の一角を成したのだとすれば二つほど思い当たる。

まずは山を舞台とした伝承の舞台を海に置き換えるための布石というのがひとつ。こうした手法は日本人が古くから身につけていた演出の一つであり能や歌舞伎に見出すことができる。
そして二つめ、山幸が兄に変えろと迫った「さち」とは実は「信仰」だったのではないかと考えられる。信仰とは人の生きる指針であり、王朝や国の単位に拡大すればそれは政治となる。海幸彦が象徴する土着の氏族あるいは王朝が信仰したのは縄文時代以来の国津神(くにつかみ)、そして山幸彦側は天津神(あまつかみ)でありお互い性格が違う。兄弟が魚も兎も獲れなくなったのは一方がもう一方に(山幸が海幸に)自らの神を強いたことで海の幸と山の幸が遠ざかり「けがれ(気枯れ=枯渇)」を招いたことの表現ととれる。しかも弟は兄の「さち=信仰」を海に打ち捨て自らの剣を鋳なおして作った「五百の鉤、千の鉤=手製の信仰」を押し付けた。が、兄はそれを撥ねつけ戦いとなる。その末に海神の力を借りた山幸が海幸を組み伏せる。天津神は国津神を下に従えた。こうしてみると一般に善玉と慕われる山幸彦の行動は実は酷くローマ的である。ならば山幸彦の拝する天津神はローマの神々に例えることができる。

多神教偶像崇拝を基盤とした軍事・経済・司法により堅牢に築かれたローマ帝国にとり、イエスの説く一神教はそれを根底から覆してしまう戦慄すべき教えであった。ならば力ずくでも捨てさせて人々をかつての多神教に戻らせなければならならず、そうして起こったのがイエスの信徒への迫害であった。しかし膨れ上がるその数をとうとう無視できなくなった帝国は逆に一神教を公認し利用する判断を下す(313年)。皮肉なことに、それまでに使徒たちの地下活動により広まった教義は、純然たるイエスの教えと多神教の土壌で信徒を獲得する過程で徐々に多神教の要素を獲得したものとが共棲し混乱していた。そこで帝国は教義を整えるためとしてあらゆる福音書と書簡を一堂に集めるが、帝国の政策にそぐわない書を異端として焼き捨てた(325年)。それを基盤として後に編纂されたのが新約聖書である。つまりイエスの教えをそのまま受け入れたわけではなく、帝国の運営の利益のために手心を加えてから公認したのである。当時の皇帝コンスタンティヌスが根強い偶像崇拝者であったことはそれを雄弁に語る。そこに見られるキリストを神の子であるとする解釈、そして聖母マリアを神を生む者であるとする定義、これらはすでに一神教からは大きく外れている。。現代のキリスト教はその延長にありイエスの教えとは分けて考えねばならない。それを「海幸―」にのなかに探せば次のくだりに行き着く。

是以海神、悉召集海之大小魚問曰、若有取此鉤魚乎。…於是探赤海鯽魚之喉者、有鉤。卽取出而淸洗、奉火遠理命之時、其綿津見大神誨曰之、以此鉤給其兄時、言狀者、此鉤者、淤煩鉤、須須鉤、貧鉤、宇流鉤、云而、於後手賜。(古事記 上巻 7)

大小の魚を悉く集め鉤を知るものは有るかと海神(綿津見大神)が問えば…鯛の喉に鉤はみつかる。即ち取り出して洗い清めて山幸彦に授ける時に海神は教えて曰く、この鉤を兄に与える時は「この鉤は、おぼち、すすち、まずち、うるち」といって後手(しりえで)にあたえよ、と。

大小の魚を悉く集め…皇帝の呼びかけでニカイア公会議が開かれた。そこにはイエスの教えを弟子や孫弟子たちが書き記した福音・書簡数千書が全て集められた。
取り出して洗い清め…「神は産まず、神は生まれず」とする一神教の大基本たる教義を綴る書を選り分け、偽典として火にくべた。残ったマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ伝の四書を正典とした。

「後手に」とは「後ろ手に」と解されているが定かではない。いずれにしろ物の渡し方として尋常でないため先立つ「おぼち、すすち、まずち、うるち」の四つの文言とともに呪いの仕草であると考えられている。海幸に対するこの山幸の仕打ちは、イエスの教えの解禁を神に祈り待ち続けていた教徒たちに手製の信仰を天啓と偽りつつ手渡す行為に、まさに呪いといえる業に重ね合わせることができる。

妻の産屋を覗いてしまった山幸彦、玉くしげを開けてしまった浦島太郎は「アスハーベル・カーフ」の誰に該当するかといえば、それは主人公の若者たちではない。300年後に奇跡の若者たちを洞窟に尋ねた一神教徒たちである。ここが日本の伝承と大きく違う点である。「見てしまった」ことで何が起こったか、キリスト教会によるその評価は、奇跡を目の当たりにした民衆が神の力の偉大さにあらためて触れ信仰をより強固なものに高めたとある。しかしキリスト教は若者たちが目覚めたとされる時代にはすでに変質し暗黒の中世に向かい突き進んでいた。

ここで、クルアーンにおいて迫害する者、される者そしてその時代が限定されていないことに着目したい。同章の中で伝承の細部や史実との関連にこだわることは教えの本道から外れるとしてそれを戒めている。なぜか、それは一神教の迫害はどの時代にも起こることであり、実に起きてきたことであり、しかし教えを貫きひたすら神に救いを求める者は必ずや神の庇護を受けられるという教義に人々を至らしめるためである。また悲しいかな人は同じ過ちを幾度も繰り返しながら歴史を刻むであろうことを、ローマ時代に起こった迫害もその一つに過ぎないことを囁いている。七世紀のはじめにはアラビア半島にイスラム教が芽生える。それは今日もなお止まぬ新たな迫害と弾圧の幕開けでもある。クルアーンはメッカに生まれたムハンマドに預言が降りるたびに弟子たちが書きとめたものであり、そしてその時代は迫害者ディオクレアヌス帝の治世のおよそ300年後にあたる。
伝承がある時代のある昔話として凍結されると人々は詳細に囚われ伝承に中に隠された異界からの声がきこえなくなる、クルアーンはそれを避けよと説いている。

山幸と海幸の争いは神武東征に、山幸と鹽椎神の出会いは大国主命と少彦名命のそれに、妻にした姉妹の片方との別れはニニギや允恭天皇のそれに、一夜を共にしただけで身篭った妻を疑う話は雄略記に、記紀や諸國風土記を見渡せば「海幸―」「浦島―」の片鱗がいくつも見つかる。浦島伝に限らずおよそ日本の古代伝承というものはこのように同じ話が時代と主人公を着替えながら幾重にも絡まり伝えられている。複数の人物が同一視される諸説は記紀神話のこの性格に拠るものである。もとは時代も人物も限定されない普遍的な伝承を幹として多くの説話が枝分かれしたようにも思えるこの話法が、クルアーンのそれとは正反対というのが非常に興味深い。

誘惑に負けて禁を破った男が不幸な結果に見舞われる…「見るなの禁」に対してはこうした見方が強い。ここで言う不幸とは妻との別れや老人になることであるが、禁を破ったイザナギはアマテラスやスサノオを生み、山幸彦は大和朝廷の祖となり、浦島太郎は神仙となった。こうしてそれぞれ新しい境地へと歩を進めており不幸と一言で片づけるのは僭越である。つまり近現代の我々が浦島太郎らの境遇をあくまで現世的な価値観から眺めて不幸と断定し、それを指して仏教的な因果応報の教訓に無理やり結びつけているに過ぎず実は的外れも甚だしい。では「見るなの禁」とは何か、いったい誰が何故にこの制止をおこなうのか。

見るな、開けるなの禁、それは権力者たちの常套手段であると断言してよい。多神教世界では権力者とは神の子孫であり神そのものであるという主張が罷り通る。その権力者の後ろ盾であり、隠れ蓑であったのが多神教偶像崇拝である。そして多神教の対極にあるのが神は子をなさずして親を持たぬとする一神教である。だからこそ古代の王者たちは民衆に唯一神の教えを直視することを制止した。見るなの禁を以って封印し、呪うぞ祟るぞ不幸になるぞと脅しをかけてきた。多神教時代の王者、多神教化したキリスト教会は代わりに目にも鮮やかな手製の神像や偶像を掲げ、人心をひきつけてモーゼ、イエス、ムハンマドといった預言者たちを介して説かれた天啓から遠ざけた。遠ざからぬ者たちには迫害と弾圧を施した。中東に限らず預言者は人類の誕生以来それこそ世界中に数え切れないほど降り立ったという。もちろん日本も例外ではない筈だが、残念なことにそれを語るに足りる文献は日本に存在しない。

文字のない時代のわが国にも天啓が降り注いでいたであろう、しかし万葉仮名や漢文で書かれる前の、やまとことばにより口伝されていた伝承にはもはや触れることはかなわない。ただこうして記紀神話を開いて目を凝らしたとき、「海幸―」「浦島―」がそうであるように旧約やクルアーンの世界につながる道がうっすらと見えることがある。記紀はあくまで朝廷の勅令で編纂されたものである。いにしえの伝承をそのまま記述したのでは大和朝廷の大義名分を裏付けるという責務を果たせるわけもなく、当然様々な思惑が織り込まれている。「アスハーベル・カーフ」の若者たちが洞窟で「眠った(クルアーンには現世に対して耳を閉じるとも書かれており隠遁生活を送っていたとの解釈もある)」とされるくだりが記紀では結婚譚に変わった事情はこのあたりであろう。
ローマの臭いを醸す大和朝廷の神々、天津神は多神教のそれであり、それと相容れない国津神として描かれたのは唯一神を畏れ敬う諸王たちだったのかもしれないとふと思うことがある。海の神と山の神が同一神であったというのもそれなら頷ける。いや記紀神話を追うまでもなく、多くを望まずに、世を汚すことなきよう行いを正し、口を戒め、海と山の幸を与える神をひたすら畏れて生きたであろう我らが遠い先祖たちの面影は一神教徒たちの横顔に垣間見える。

神が迷信と位置づけられた今なお「見るなの禁」は健在である。
この世という帝国と学界政界財界の神官たち、かれらが築いた権力の神殿、そこに鎮座する偶像神の数々に跪く民衆、その偶像神の正体を見ようとすれば必ず不幸の翼が触れる。それは醜聞、困窮、投獄、死、即ち現世的不幸である。そうでなくとも地位、財産、自由、快楽という現世での幸福を逃す不安から人はこの禁を破ることができない。その必要すら感じ得ない。アスハーベル・カーフ―洞窟の衆はそれを破った勇者たちである。

人には救いが必要である。ただし人が何かに救いを求めるのであれば、それは人の手による作りもの即ち偶像であってはならない。たとえば貨幣、たとえば思想、たとえば権力、それは人が足元に跪いたとき偶像神として目覚め人の世を呪う。一神教が禁じた偶像崇拝とはこのことであり、黄金の神像のみにあらず。

たまくしげ 開けてぞ進め洞窟へ 見るなと呪う 魔に背を向けて

すべての道は日本に続く クルアーンと浦島伝説 前編

我々の知る「浦島太郎」は明治時代、尋常小学校の教科書用に修正し書き直された新しいものである。それ以前の浦島伝説が文章で残るのは古い順に「日本書紀」「丹後國風土記」「万葉集」「お伽草子」などであるが、そこで綴られる浦島太郎は親孝行な働き者ではなく男前の風雅者であった。乙姫とは浦島が釣り上げた海亀が変化(へんげ)して現れた女人であり、そして二人は夫婦の契りを交わしそのまま享楽の三年を過ごす。が、明治の新政府からしてみれば青少年の健全な育成にふさわしからぬけしからん内容であるため野暮な忠孝者の話に改められた。

しかし日本書紀の浦島太郎にもその前世というか、前身がある。

日本の昔話の特徴として、それが単体の物語であることが無いに等しいほど少ないことをまず挙げたい。土着の「はなし」と遠い国から伝わる「はなし」が出会う。混ざり、重なり、それが時を経るごとに時代に染まり、風俗を着こなしその姿を変え続ける。遠い昔のはなしをそのまま伝えるものと思われがちな昔話は、実は日本という島であたかも人の如く育ったものである。これというのも流動的に文物の伝播がなされる大陸に対し、我が日本列島がいわば袋小路のような位置にあることに大きく由来する。日本の昔話の代表たる「浦島伝説」もその例に漏れずそれぞれ別の伝説から構成された物語といえる。

九州は日向地方に伝わる伝承で記紀にも収められた「海幸山幸」は「浦島伝説」の原型として知られる。

山で獣を狩る山幸彦と海で魚を獲る海幸彦は天孫の子である。弟の山幸彦は兄にお互いの「さち(幸、刺ち)」、すなわち獲物を獲る道具を取り替えてみたいと三度も乞い、ようやく許されて兄から借りた鉤(つりばり)で漁に出るが、一匹の魚を獲ることも叶わず挙句にその鉤を海の中に失くしてしまう。一方、弟のさち(紀:弓矢)にて狩りに出たが何も獲れずに帰った海幸彦は弟から大事な鉤を失くしたことを告げられると大いに怒り、如何にしても返せと迫る。山幸彦は腰に佩いた剣から五百の鉤を作るも兄はそれを取らず、千の鉤を作るも受け入れなかった。
海辺で泣き患う山幸彦のもとに現れた鹽椎神(しほつちのかみ、潮流の神)は、事情を聞くと山幸に小船(紀:目の詰まった籠)を作り与えて載せ、潮を押して綿津見(わたつみ-海つ神)の神の宮に送り届けた。
そこで大綿津見神(海神)の娘の豊玉毘売命(とよたまひめ)と結ばれた山幸彦は綿津見神宮で三年を過ごすが何故ここに来たかを思えば嘆かずにはいられず、その夫を見かねた豊玉姫は大綿津見神にそれを告げて助けを求めた。海の魚という魚を呼び集めて失せた鉤を聞き質し見つけ出した大綿津見の神は、潮盈珠(しおみつたま)と潮乾珠(しおふるたま)を山幸彦に鉤とともに与え、その珠をして海幸彦を従わせる術を授けた。山幸彦は一尋和邇(ひとひろわに、=鮫)の背に乗り陸に戻り、大綿津見神に教えられた通りに兄を懲らしめた。
身篭っていた豊玉姫は海原で天つ神の子を産むわけに行かぬと陸に上がる。子を産む時は決して産屋の中を覗かぬようにと念を押された山幸彦だが、気掛かりに負けてつい産屋の中をみてしまう。すると、もとより八尋和邇(やひろわに、=大鮫)の化身であった姫が本当の姿にもどって子を産む姿がそこにあった。豊玉姫は辱しめを受けたと怒り、子を残して海の中に帰ってしまう。後に神武天皇の父となる、その子の乳母として豊玉姫の妹の姫が山幸彦のもとに送られ、やがて妻として迎えられる。



本稿は「浦島伝説」の原典をどれだけ遠くにまで求められるかを考察するものである。まず「海幸山幸」とともに分解して要素を整理し、一般史観と筆者の偏見による解釈を羅列したものを前編、そして中東の伝承を加えて再解釈したものを後編として書き記したい。そんな考察をしなくても地球は回るのだが、味気ない現世を放れて束の間の心の旅をするのも悪くはない、と、そんな思いにお付き合いいただけるならば恐悦至極。さればさっそく分解してみる。


     「浦島伝説」

     い) 亀(じつは乙姫)との遭遇
     ろ) 異界(竜宮城あるいは蓬莱山)への旅
     は) 乙姫との三年(現世での三百年)の蜜月
     に) 両親への思いに駆られ暇を乞う
     ほ) 乙姫から玉くしげ(=大事な物の箱の意)を授かり陸に戻る
     へ) 三百年経っていた
     と) 玉手箱を「開けてはならぬ」約束
     ち) 約束を破ることで乙姫との離別が確定する。

     「海幸山幸」
 
     イ) 兄から借りた鉤を失い責められる
     ロ) 異界(綿津見神の宮)への旅
     ハ) 豊玉姫との三年の蜜月
     ニ) 兄との決着をつけるために暇を乞う
     ホ) 大綿津見神から宝珠と兄を征伐する方法を授かり陸に戻る
     ヘ) 兄を懲らしめ、恭順させる。
     ト) 豊玉姫の出産を「見てはならぬ」約束
     チ) 約束を破ることで豊玉姫との離別が確定する。


異界の者が人の女に姿を変えこの世の男の妻となって幸せな日々を送るも(は)(ハ)、男が「見て(開けては)はならぬ」の禁を破ることでそれが崩壊するという筋書き(と)(ト)は「つるにょうぼう」「くわずにょうぼう」「羽衣天女」などに共通するおなじみのものであり古くはイザナミとイザナギの別れに、さらには遠いギリシアのオルフェウスやパンドラの神話の中にも見ることができる。男と女はそもそも生きる世界が違うことの現われなのか。だからして、ここは古代伝承における普遍的要素の一つと解釈してやや遠巻きに見るべきである。本題をここに求めてしまうと道に迷いかねない。

「海幸山幸」にあって「浦島伝説」にない要素のひとつに「兄弟の争い」が挙げられる。この「海幸―」の根幹ともいえる顛末は海幸彦の子孫とされる隼人族が山幸彦の流れを汲む朝廷と敵対しつつもやがて恭順してゆく経緯であり、発端(イ)からして「浦島―」には描かれていない。稲作に向かない九州地方に住む隼人族は朝廷の米による徴税に酷く苦しめられて反乱が絶えず、朝廷も手を焼いたが王朝としての力が蓄えられる過程でこれも制圧されたことを物語る。
「海幸―」における姫の父親の大綿津見神は日本土着の海の氏族の長と考えることができる。彼らが朝廷に協力し(ホ)、さらに一族の娘たちを妃として朝廷に嫁がせていたことが伺える。一方の「浦島―」に海神は登場せず乙姫がその役を兼ねて勤めている(ほ)。

二つのはなしに共に現れるのが海の生き物、「浦島―」では亀、「海幸―」では和邇(ワニではなく鮫)であるが、いずれも美しい姫の姿となり三年の甘い月日の伴侶として過ごしたとある。亀が長寿の象徴であることからも、明治以前の書物には竜宮城ではなく蓬莱山と記述されていることからも「浦島―」が神仙思想の影響を受けていることがよくわかる(ろ)。蓬莱山とは中国の神仙思想でいう不老不死の仙人のすむ理想郷をさし日本では古代からその山が富士山と結び付けられていたことは竹取物語や除福伝説にも見られる。

豊玉姫が「八尋和邇」の化身であったこと、また「一尋和邇」が山幸彦を陸に送り届けたことは海神の一族として描かれているのが謎の古代氏族・和邇氏である考えられる。系図の上で五代考昭天皇の血脈とされる和邇氏は富士山を祀神とする浅間(せんげん)神社の神官を代々つとめた家系である。富士山の怒りを鎮めるための神事を預かり、和邇氏の娘たちの中から巫女が選ばれた。巫女を妻に娶ることは天皇にのみ許されていたが、和邇氏からは多くの娘が妃として六代考安天皇に始まる歴代の天皇に嫁いでいる。

初代神武から九代開化までの天皇は実在性が薄いとされ神話と史実の間を埋める架空の存在とする見方が強い。それに対し日本に古来から存在した倭人の王朝の系譜を天孫系(大陸系)王朝たる大和朝廷が吸収し我が物にしたとする説もある。いずれにしても記紀はそれを覆うために創られた血統書であると考えられている。後者の系譜吸収の説を採るならば、和邇氏の存在はその土着の古代王朝の血筋か、そうでなくとも深い関わりがあるといえる。

和邇氏は元来、安曇氏や海部氏と縁続きの海人(あま)族であり、海神である綿津見神をその始祖として祀る一族であった。船を操って海から河川を登りその生活圏を山に移し、直接政治に関わることはなかったが天皇家の血統の維持には大きな影響を持っていたと考えられている。またなぜ海神の子孫が富士山を祀るのか、それは火を噴く霊峰を牽制するためにはやはり水をあやつる海神と縁続きの彼らがその司祀に望まれたからであろう。天皇家が和邇氏の血を混ぜたがったのはその霊力を我が物にせんとする目論見があったのではないだろうか。

海幸彦も山幸彦も「富士山」と「火」には大いに関わりがある。この二神の母は木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ、別名を神阿多都比売-カムアタツヒメ)という富士山に鎮座する女神である。姫はたった一夜を共にしただけで身篭ったために夫の邇邇芸命(ニニギノミコト、アマテラスの孫)に不貞の疑いを抱かれ、不義の子でなければ焼け死ぬことなく無事に生まれるであろうとの「うけひ(=誓約)」を立て産屋に自ら火をかけた。燃え盛る炎の中で生まれたのがホデリ(海幸彦のこと)、炎が弱まる中でうまれたのがホスセリ、最後に炎が消えた中で生まれたのがホオリ(山幸彦)である。木花咲耶姫の父である大山津見神(オオヤマツミ-山の神)は邇邇芸命に木花咲耶姫とその姉であるイワナガヒメの姉妹二人を嫁がせたが、邇邇芸命は醜い姉を送り返していた。と、ここでも妻にした姉妹のうちの片方との離別(チ)が描かれている。

「浦島―」と「海幸―」にともに見られる結婚譚は極めて魅惑的であり物語にとってなくてはならない要素ではある。しかし上にも記したが、これは別の系列の伝承が原典に習合したのではないかと思えてならない。異界の姉妹を妻にするという話は古くは邇邇芸命にその例を見ることができ、それが山幸彦に受け継がれたことは間違いない。さらに「浦島―」にある「乙姫」という名は本来、姉妹の姫の妹のほうを指しての愛称つまり「弟姫―オトヒメ」であり、ここでの乙姫は姉が登場しなくても妹の方であることを匂わせ、物語が「海幸―」を下敷きにしていることを暗示していると取るべきであろう。また征服者に一人ではなく姉妹両方を差し出すという行為が完全服従を意味しているとも想像できる。昔話の結婚譚とは色恋沙汰を装う征服譚である。

これまでの話をまとめてみる。
西日本に拠点を築いた大陸系王朝が勢力圏を徐々に東へと延ばす上で、富士山をその信仰の頂点に戴く東日本の土着氏族(縄文人)との衝突と婚姻を描いたものが「海幸―」と言える。その征服譚を隠し結婚譚を前面に出して叙情的な物語に仕上げたのが「浦島―」である。さらに皮肉なことに「明治浦島」は結婚譚までが隠されたため亀を助けた報いに何故か老人になってしまうという奇妙な物語に成り果てた。
しかしこの物語には征服と結婚だけでは語れない何かがある。異界への旅、そして時の流れ である。

明治以降の「浦島―」では海の中に山があるという物理的な矛盾を解消するため蓬莱山の名が削られて竜宮城と改められたわけだが、それを無視すればやはり異界とは海の底とは限らないようである。和邇氏の系譜もさることながらこの物語からは海と山の間にある不思議な互換性が感じられ、上述の山の神・大山津見神の別名が和多志大神(ワタシノオオカミ-渡しの大神)つまり航海の神であるのも見逃せない。

「丹後國風土記」を見ればあるいは空の彼方へと旅をしたのかという思いにも駆られる。

「即七竪子來。相語曰。是龜比賣之夫也。亦八竪子來。相語曰。是龜比賣之夫也。茲知女娘之名龜比賣。及女娘出來。嶼子語竪子等事。女娘曰。其七竪子者昴星也。其八竪子者畢星也。君莫恠焉。(丹後國風土記 逸文)」

龜比賣(かめひめ、乙姫のこと)に誘われて蓬莱山に至った嶼子(しまこ、浦島太郎のこと)を迎えた七人の童子が、この方は亀比賣の夫君だと相語った。また別の八人の童子も、この方は龜比賣の夫君だと相語った。嶼子が宮から出てきた比賣にそのことを話すと、比賣はその七人の童子たちは昴星(すばるぼし)、八人の童子たちは畢星(あめふりぼし)なので怪しむことのないようにと言った。

昴星、畢星とは、中国の占星・天文学に用いられた二十八宿の中の隣り合った二宿、おうし座のなかにあるプレアデス星団とヒアデス星団を指している。宇宙に引き上げられた浦島太郎が牡牛座の中に遊び、再び地上に戻れば三百年の時が経っていたとされる説の根拠はじつはこの逸文に求められる。勿論ない話ではない。計器と燃料を搭載した宇宙船だけが宇宙への橋渡しではない。
二十八宿の知識は七世紀ごろに渡来人たちが我が国にもたらしたとされるが、月と星の位置を知ることはさらに古い時代から我が国古来の海の民にとっても重要であった筈、天体の運行を熟知した海の氏族が当然存在しただろう。「海幸―」に登場する潮流の神の鹽椎神は「渡し」つまり水先案内人の役を勤めている。すると、ここで邇邇芸命の舅、山幸の祖父、コノハナサクヤヒメの父たる大山津見神、またの名をワタシノオオカミと繋がる。

浦島太郎や山幸彦の旅した先は海か、山か、星屑か、はたまた中国王朝か、物語を読み込めば総てが輪のように繋がってしまうようである。物理的な位置を割り出すまでもなく、万葉集には「常世」と答えが書いてある。われわれが今日まで生きてきたこの世、それを「現世-うつしよ」と呼ぶが、その向こう側は「常世-とこよ」である。仏教でいう彼岸であり、来世ともあの世とも端的に死後の世界とも呼ぶその世界、花は散ることなく緑褪せずして、実り尽きず雪の融けぬ国、時の流れぬその国を常世と呼ぶ。おそらくは現世の者が踏み入れることの出来ないその国を旅し生きたまま戻った者の言い伝えがこの伝承が原典であろう。それを入れ物に結婚譚や征服譚が綴られて各地にさまざまな伝承が残り、太郎たちの行った先はそれに応じて言い換えられ今に伝わった。


                seven sleepers

そろそろ本題に移るとする。「浦島―」にしか存在せず「浦島―」の心臓ともいえる要素、それは三百年の経過であろう(は)。ではひとまず日本から遥か西方に目を向け、中東の不思議な伝承「アスハーベル・カーフ(أصحاب الكهف)」を記しひとまず筆を置く。以下次号。

偶像を崇拝する多神教の帝国にありながら唯一神を敬う六人の若者たちは皇帝に囚われて投獄され、唯一神を忘れて多神教の神々の偶像に跪くか死罪かを選べと迫られた。牢獄を破り逃げた若者たちはにべもなく現世を打ち捨て、神の教えを貫くために山へ踏み入るとそこに犬を連れて現れた一人の羊飼いが彼らを洞窟に導いた。その夜、羊飼いを合わせた七人は神の教えを今日まで守り得たことを感謝してさらなる大慈大悲を請い、犬に守られながらそのまま眠りにつく。やがて目を覚ますと彼らの中の一人が銀貨を手に糧を求めて町へと下った。目に映る町の様子も人々の装いも大きく変わっているのを怪訝に思いながらもひとつの店に入り銀貨を渡してパンを求めた。店主にしてみればその若者のほうがよほど怪訝であった。なぜなら古めかしい衣服を纏い、手渡された銀貨には数百年前の皇帝の名と肖像が刻まれていたからである。領主に知らせが走り盗掘の疑いで若者は捕らえられた。よくよく話をしてみれば、若者は洞窟での僅かな眠りから目覚めるまでの間に偶像崇拝の時代が過ぎ去り一神教が栄えたことを知り、そして町の人々は三百年前の偶像崇拝時代に追っ手を振り切り姿を消した一神教徒の若者たちが再来したと知る。町は奇跡に沸き返り、その騒ぎは皇帝の耳に届く。皇帝は奇跡の若者たちを尋ねて洞窟へと向かう。そしてそこに至ればまさしく残る者たちと犬が佇み、皆と言葉をかわし、やがて若者たちは再び、しかし今度は深い眠りについたとも伝わり、忽然とその姿を掻き消したとも伝わる。

セキュラリズム 刹那の現世主義 後編

「セキュラリズム―現世主義」というものについて、今回はその後編である。

端的にいえばこの世の事象の価値判断から「信仰」に由来する精神を排除し、信仰は信仰で別の場所に安置するが互いに決して干渉しないという主義主張である。
これは世界の殆どの国で政策として執られていること、その上でいちばん影響を持つのが「教育」の分野であること、そしてセキュラリズムは世代が進むに連れ教育によって濃縮されてゆくことを前編で述べた。
忘れてはならないのは、セキュラリズムは決して「無神論」でないことである。神は存在するとした上で「神との別居」そして「神の陳腐化」をその目的とする。

厄介なことにセキュラリズムは自覚症状のない病によく似ている。「あなたは病んでいる」と説いたとしても当人が認めないことには治療の余地がなく、しかも当人は至って元気に生きてゆける。しかしそれは社会全体を確実に蝕み壊死へと導く。ではその過程を書いてみるとする。セキュラリズムが浸透した社会とそこに生きる人々はどうなるか。

第一に、理論で整理された判断にのみ理解を示す。数式や統計に表すことができ、さらにそこから予測可能な事象つまり「目に見えるもの」はその存在と価値を認めることができるが、そうでないものには口先で敬意を表することはあっても認めはせず、精神論、感情論などと名づけて価値判断の対象から外す。


第二に、凡そ数量による裏付けがあるものを価値として認め信用することができる。物を価格で評価し、職業を収入でえらび、学歴とは獲得した点数の総量、学校は偏差値と倍率、刑罰は量、保障は額、世相を指数化し、企業を実績で格付けし、多くの著作が流通していれば知識人と認め、多数の受賞があれば権威と呼び、多額の寄付があれば篤志家となる。得票が多ければ与党になる。
つまり、価値を比較検討するためには数量で具体化することが必要となった。言い方を変えれば数値に遮られ内容を見なくなった。

安全、信用、そういった一見して価値の置き所が心の中にありそうなものも例外ではない。たとえば建設現場や工場で取られている安全対策は人の命の尊さや後に残される家族を思ってのことではない。信用を失うことでこうむる損益や支払うべき賠償と安全管理への投資の比較(=損得勘定)である。補償制度が整った先進国ほど作業場の安全への投資が余儀なくされ、それは信用の指標として商品の単価に跳ね返る。逆に途上国では労働者に泣き寝入りを強いることで安価な製品を製造できる。だから先進国は途上国で製造したものを輸入する。が、資源の輸入にしろ、現地生産にしろ、「投資」の一言が先進国による途上国からの搾取に正当性を与えている。途上国の産業がどのような環境下にあるかを見て見ぬ振りをせざるを得なくなる。おなじ搾取を国内の移民に、被差別集団に、後ろ盾のない弱者たちに強いるようになる。が、いつのまにか自らも搾取される側に置かれることになる。

第三に、理論と数量により生まれた信用や価値というものに一人歩きを許し、それを「権威」や「知名度」に成長させてしまう。人はこれに出くわすことで事象の吟味を怠る。思考停止状態のまま社会との関係を続ける。多くの人々の皮膚感覚がここで麻痺を起こす。こうなれば内容は置き去りで権威と知名度だけを追いかけさえすれれば価値にも信用にも接することができる。その指針としての貨幣が活躍し、科学者、知識人、企業、報道、教育という権威の売り手と、買い手である民衆の双方がひたすら市場を膨らませ続ける。しかしそれは貨幣を注ぎ込み、高く売り、高く買わされ、負債を抱え、日々の糧のためとは別の無意味な労働に日の殆どを費やし、頭を悩ませ、気づけば精も魂も尽き果てることを意味する。

教会による民衆支配が暗黒時代と呼ばれた「中世」の全景ならば、西洋による非西洋への侵略と搾取はモダンつまり「近代」そのものといえる。そしてその後に来るポストモダンすなわち「現代」もやはり権威による民衆への侵略と搾取である。中世の、王権とともにあったキリスト教会が民衆の財産と精魂を吸う吸血鬼であったあの時代の相似形がいま世界中で再現されている。違うのはキリスト教が理論に、司祭が科学者やマスコミに、そして神が貨幣に取って代わったことである。アフリカなどの特定の地域ではいまだに中世と何ら変わらぬ暴力支配が続き、剥き出しの武力を行使できない国ではイデオロギーや経済の支配が繰り広げられている。

そうした歴史を現世に輪廻させるのがセキュラリズムである。


第四に、搾取を受ける側に落ち、現代生活に精魂尽き果て疲弊しても人々はそれを認めたがらない。認めることで現世すなわち人生の価値が木っ端微塵に打ち砕かれるからである。そこで自らが信じてきた合理主義や物質主義をさらに援護し実践する羽目になり、同時に自らを癒してくれる何かに縋りつく。しかし来世とは別居したため現世しか意識できず、現世の幸福を実現してくれそうな何かを見出してそれに頼らざるを得なくなる。金品、娯楽、快楽、人間関係、表現、主張、いろいろあるが結局それらが行き着くのが「自由」の言葉である。しかし現代、人の思考と行動を羽交い絞めにするものこそこの「自由」である。

「不自由」がなければ「自由」などは存在しない。そして不自由は権威や権力を背景にした制度によって人が好きなだけ作り出せるものである。つまり民衆が自由を意識するにはそれに先立って不自由の製造がなされなければならない。ならば権力者は不自由の匙加減をする。時に不自由で束縛し、また時に自由を押し付けて懐柔し、慣れた頃にそれを剥奪して恫喝し、そういった支配は古代も中世も今も変わらない。民衆がいくら自由を連呼したところでその敵である権威が存在する間は不自由は消えうせず、況や権威に益々の権威を与え不自由を肥大させることとなる。

自由の追求が可能な領域の限界線とされている「法」と「倫理」はいずれもキリスト教社会のセキュラリストたちによって確定された。この線は越えられないが、この線は彼らの都合で描き換えることが出来る。

第五に、セキュラリズムの出発点はキリスト教会の暴力からの開放でありそこから「近代的自由」が生まれた。しかしこれは最終的に世界の権威と権力が集中する場所つまりキリスト教社会にのみ寄与する思想であり、世界の人々は自由を求めることで知らぬ間にここに貢献させられる。


日本はキリスト教国ではない。しかし憲法と軍と経済と教育を国内外のセキュラリストによって設計された国である。よって我が国の富と生気がキリスト教社会に吸い上げられているのは至極当然の避けられぬ事態である。この受け入れがたい状況が闊歩するのは日本にセキュラリズムがいかに深く染み込んだかをよく表している。

理不尽きわまる政治と社会に異論を唱え立ち上がる人々は必ず19世紀の思想家の名を掲げて、あるいはフランス革命や自由民権運動、日本国憲法の精神を引き合いに出し「本当の民主主義を」、「本当の自由を」求めて熱く語る。しかしそのようなものは決して存在しないことに気づかない。民主主義も自由も所詮はキリスト教社会の発明品であり、世界をその権力下に置くために異常なまでに美化された道具に過ぎないことに目を向けない。民主主義とは、自由とは何かという不毛な議論に時を奪われ上に掲げた五つの悲劇を繰り返す。そして来世への旅支度は手付かずのまま現世での時を終える。

アラブの春、グローバル化、フクシマ、少子化、そのほか題名をつけられない社会悲劇のどれもがセキュラリズムなくしては起こりえない欺瞞と非道である。現世での時をこのように使い果たすのが悲しく虚しいと思わない、あるいは思いながらも仕方なしと受け入れて本当の自由とやらを求め続けてしまうのがセキュラリズムである。



本論は科学と理論を否定するものではない。科学と理論を神への冒涜として迫害した中世に戻ろうという考えは毛頭ない。ただ現世に近視眼的になってはならない、そう申し上げるものである。科学にせよ理論にせよ、これらは現世で隣人に非道を働かないための智慧と捉えるべきである。そこに根拠を持つ民主主義などの政治手法はただの選択肢であり崇高なものではない。そして科学者、識者は物事の摂理を図式と論文で表現することを生業としているだけであり、彼らに万物の創造主であるかの如き権威を決して与えてはならない。
セキュラリズムの罪悪はまず科学と理論を神の替わりに神聖視させたこと、そこで生まれた権威を頂点とする支配構造を創り民衆をそこに縛りつけたこと、民衆に「自由」という得体の知れないよろこびを与え現世での時と来世への畏れを奪ったことにある。

分身の術を使い、筋斗雲を駆って飛び回る孫悟空はこの世に敵なしと思い上がり神になろうとした。「悟空よ、それほどならば我が掌から逃れてみよ」と言う釈迦に、一尺ほどの手のひらから逃れるなどとは笑止、俺様の一飛びは十万八千里、この世の果てまで駆けて見せようと息巻いた。そして幾日かとび続け、この世の果てと思われる五本の柱の立つ処へと辿り着くと、その根元に「斉天大聖」の名を書き見参の証をのこして後を戻る。やれ百万里、二百万里を駆け抜けたと豪語する悟空だが、じつは釈迦の掌の上をぐるりと周っただけであった。
孫悟空は驕り高ぶる人の子を、悟空が証拠にと名を書き残したことは弁証法や因果律をそれぞれたとえ、「釈迦の掌」とは数量と理屈が価値を裏付ける現世そのものを暗示している。その外を包む無限の来世があり、そこでは現世の法など毛ほどの重さもないことを知らなかったからこそ悟空は傍若無人な振る舞いができたのであろう。

日本の中で信仰の話をするのは極めて難しい。それだけ日本はセキュラリズムに侵されているといっていい。まがりなりにも神の存在を認めてきた西洋のほうがセキュラリズムからの脱却の余地があるのかもしれない。日本の場合は前編に記したように来世や神に関わる多くの霊的な概念を皇室神道に結び付けて玉砕した経緯があり、人々は「神」を否定をしないまでもそれを「自然」や「宇宙」と呼んでみたり、「心のよりどころ」などと定義してみたり、また地球外生命体に人類の救済を求めてみたり、とにかく直接認めたがらない。そこには歴史上で宗教戦争を繰り返してきた一神教に対する抵抗、暴利をむさぼる宗教団体への嫌悪、複雑になりすぎ解釈不可となった仏教からの逃避などさまざまな影響が垣間見れるが、いずれにしてもセキュラリズムが現世の周りに築いた塀があまりに高く、日本が「神」を直に見つめることが出来なくなったことに負う。我々がその塀の中でいくつもの手製の神を弄んでいることにもう気づかねばならない。

現世の中に閉じこもっていたのではその現世すら見えなくなるだろう。井の中の蛙が井戸とは何かを知らないのと同様、孫悟空が釈迦の掌の上を得意に駆け回っていたのと同様である。
生きているうちに現世から出ることは無理だが、現世のしがらみから意識を解き放ち現世を見つめなおすことは可能である。

生を受けて魂が宿ったその肉体が朽ちるまでの数十年の時、それが人ひとりにとっての現世である。国家が興り滅びるまでの一時代、それが一つの国の現世である。人が人としての営みを始めやがて地上から消滅するまでの間、それが人類のための現世である。ビッグバンに始まる時空の拡張が終結し、そしてもとの一点に再び集束するまでの時間、それが宇宙の現世である。つまり、意識が肉体や国や地球という媒体に宿ることで生まれる時を現世といい、その媒体が滅びるとともに必ず終わる刹那なるものである。現世での時を終えた人の魂は来世に迎えられ、来世での行き先が天国か地獄かは現世での行いが秤にかけられ裁かれる―多くの信仰で説かれるこのことを拒むかぎり、時が尽き果てるまでセキュラリズムに操られ続ける。セキュラリズムの語源saeculumの原義はやはり「時間」である。そして来世、そこでは時は流れない。日本の先祖はそれを常世(とこよ)と呼んで知っていた。時の流れがないことは「永遠」を意味する。



大海への通い路を絶たれた入り江の如く、来世から切り離された現世は淀み、穢れ、毒を放つ。その毒が時につれ濃さを増しこの酷すぎる現代に至った。
これはひとえに「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に納めよ」として現世の善悪を現世の法で裁いてきたセキュラリズムの結果である。現世に生まれた事象の善悪の判断を、同じく現世生まれの科学と理論に頼っていては遠からず己の毒に毒されることになる。カエサルのものは神に還されなければならない。



参照

「自由」について  自由非自在 じゆうはじざいにあらず
            自在非自由 じざいはじゆうにあらず
「信仰」について  キライなことば―「信じる」
「時間」について  とき、とこ、ところ

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ayamiaktas

Author:ayamiaktas
筆者 尾崎文美(おざきあやみ)
昭和45年 東京生まれ
既婚 在トルコ共和国

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